放課後の食堂が、普段よりもざわついていた。
 全校的に部活が休みの日なんだろうか。俺はもうとっくに引退してるから、その日程までは把握してないけど。
 そういう日には、併設の売店や自販機コーナーで何か買って食堂の席で過ごすやつも結構いて、たいていこんな感じになる。

 今日はチョコレート一択。
 それは最初から決めていたから、細々した菓子が並べられた棚の前まで来て、俺はとりあえずその場にしゃがんだ。
 チョコレート菓子が並べられてるのが、棚の下の方だからだ。立ったままだとちょっと選びにくい。一択とはいうものの、チョコにもいろいろあるわけで。

「なんか今日はやけに迷いがなくない? 脇目も振らずにチョコ置いてるとこ見に来たな」

 俺の右隣に、花井も屈んだ。
 
「迷いがないわけじゃねーよ。板チョコか一口サイズのにするか決めかねてる」
「どっちにしろチョコじゃん」

 ちょっと首を傾げて俺の顔を覗き込んできて、にっこり笑う。

「つまりどーしても俺にチョコ食べさせたいんだ? なーんかいい感じの食べさせ方でも思いついちゃった?」

 ……今日も楽しそーだな、おまえは。
 そして今日も、腹が立つぐらいの美形。

「……いや、おまえのことは正直どーでもいいんだわ」

 はぁ、とため息ついたら、花井の表情が固まった。

「は……?」
「ん?」
「渋沢……いま、おれのことどーでもいいって言った? 言ったよな……?」

 ごん、と俺の右肩に額をぶつけてきて、花井はそのままそこに顔を埋めた。

「ひど……」

 呟きながら、花井が頭が少しずらした。俺の肩に触れてるのが額から側頭部に変わった。
 ふたり横並びでしゃがみ込んで、花井は俺の肩に頭を預けてもたれかかっている、っていう謎の構図。
 いやこれ、はたから見てどーよ。おかしいだろ。
 花井の髪の毛が俺の頬にかかって、くすぐったい。地毛のままで色素の薄い髪は、色だけじゃなくて頬に触れた感じも、柔らかかった。

「なぁ、なんでチョコなの」

 拗ねたような声で、花井が訊いた。
 妙に可愛げがあって、ちょっと困る。

「脳の疲れに効きそうだから」
「えー。おれに食べさせること考えて選んでって、ずっと言ってんのに。おまえは自分の脳のためにそれ選んじゃうんだ?」
「俺は昨日のあのやりとりで悟ったんだよ。あんなん俺にとっては全く休憩になんねえ、って」

 指先に、手のひらに、こいつの唇とか舌先が触れたあの感触――
 思い出すだけで、心臓、早くなる。顔が熱くなる。
 そんでなによりも、慣れない状況に脳の処理速度がおっつかなくて、頭がパンクしそうになる。

「せめて食うもんでちょっとでも疲労軽減しないと、やってらんねーわ」

 ……とりあえず、脳の疲労回復っつったら、チョコレートだろ。
 どれにするかな。やっぱシンプルに板チョコか。

「なんだ……じゃあやっぱりおれのための選択だ」

 ふふっと、花井の吐息に笑いが混じった。

「どういう思考回路だよ?」
「だってその話だと、おれに食べさせるために渋沢はチョコ食う必要があるってことになるわけで、つまりここで渋沢がチョコを選ぶのは、結局のところおれに食べさせるためじゃん」
「ずいぶん都合いい解釈だな……それこそ今すぐチョコ補給しないと、俺の脳が対応できないレベルの論理なんだけど」
「えー? ちゃんとおれ、正しく理解してると思うけどな?」
「どこが。てか、頭重いからどけろ」

 肩に乗っかってる花井の頭をぐいっと右側に押しのけて、ついでにふとそっち方向に目をやったら――いつの間にかそこには、やけに小柄な生徒が数人。困惑顔でこっちを見てた。
 真新しい夏服は、みんないまいちサイズ感があってない。これたぶん中一だな。
 あー……あれか。この状況って、俺ら邪魔になってる感じか。

 俺につられるようにして、花井もそいつらの方に顔を向けた。

「あ、もしかしてここの棚見たい? ごめんな、すぐ退くから」

 花井に声をかけられて、なんかちょっと慌ててる。
 そりゃあな。ビビるよな、振り向いた顔がコレで、しかも話しかけられたら。
 花井蒼亮、我が校が誇る顔面国宝だもんな。まあ、さすがにこんだけ下の学年にまでこいつの存在が知れ渡ってるかどーかは、知らねえけど。

 とりあえずもうあれこれ考えんのはやめて、パッと目の前の板チョコを掴んで、腰を上げた。
 棚の前をあけてやったら、ぺこっと頭を下げられた。
 はは……かわいーな中一。まだちっちぇーし。





「で、結局それにしたんだ?」

 売店から少し離れたところで待ってた花井が、会計を済ませて合流した俺の手元を見て言った。
 買ってきたのは、赤い紙に包まれた板チョコだ。

「さっきとりあえずで引っ掴んだのが、これだったんだよ」
「やっぱ選び方が雑……」
「いいだろ別に、そんでもちゃんとおまえの希望通り、俺が食わしてやんだから」
 
 教室に戻るべく歩き始めながら、視線は合わせずに言ってやった。
 なんか気恥ずかしくて顔がちょっと熱くなった。
 ……赤くなってねえよな。もしなってんなら、あんま見られたくない。
 隣を歩く花井が笑顔になったのは、そっちを見なくても分かった。



 ※ ※ ※ 



 どっぷり集中して問題を解き切った直後っていうのは、ある種の恍惚状態に近い。
 シャーペンを机の上に手放しても、余韻に浸ってる頭ん中では、まだ数字と記号が飛び交っていて、ときどき脳内でチカチカと閃光がひらめいてるような感じ。
 座っている椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰ぎ見て、ゆっくり息を吐く。
 天井の格子模様。梅雨特有の、湿ったにおい。教室内は静かだ。
 ゆるゆると、周囲の状況を察知する感覚が戻ってくる。
 
「渋沢」

 花井の声が聞こえた。
 今日もやっぱり、こちらが集中を切るのを見計らって声をかけられている感じがした。
 いや……昨日よりももっと、こっちの状態を見極めたタイミングのような気もする。

「あ……休憩か……」

 まだ少しぼうっとした状態のまま、斜め後方を振り返る。
 花井は机に頬杖をついて、俺の方を見ていた。
 ……いつから見てたんだろな。

「……チョコ食う?」
「ん。食わせて」





 花井の前の席の椅子をくるっと後ろ向きにして、向かい合う形で座った。
 机に広げられたままの花井のノートには、フリーハンドのラフな図と数式が書かれてる。その上に転がってるのは銀色の、金属製のボディーのシャーペン。
 硬質な雰囲気の筆記具で綴られるのが、このノートにある少し丸っこいクセのある、どことなく愛嬌を感じさせるような字だっていうのが、ちょっと面白い。
 花井がこんな字を書くなんて、意外なような……でも案外似合うような。
 真逆のことを同時に感じるのは、自分の中の花井のイメージがどんどん再構築されていっているから、なのかも。
 たぶんまだ、ちゃんと掴みきれてはいないけど。

「……なあ、どーやったらあんなに集中できんの。おれ、昨日今日とおまえ見てきて、けっこう衝撃受けてるんだけど」

 花井がそんなことを言った。
 きっとこいつの中の俺も、変わってきてるんだろうな。

「感覚のシャッター降ろして、意識を異次元に飛ばす、みたいな?」
 わりと真面目に答えたつもりだったけど、花井はそれを聞いて、頬杖をガクッと崩してしまった。

「なるほど……うん。きいたおれがバカだった。おれはごく普通の人間だから、異次元は無理だわ」

 ごく普通って、どのツラ下げて言ってんだか。
 おまえのほうが普通じゃねえよ。とんでもなく美形だし、とんでもなく変人。
 まあ後者はこの数日ではじめて知ったことだけど。

 板チョコの赤い包装紙をスライドさせて外し、一列ぶんだけ、銀色の箔を剥く。
 剥き出しになったチョコは、音を立てずに割れた。教室の空調は冷えすぎない程度に設定されてるからか、少し柔らかくなってる。

「さき食っていい? さっき解いてた問題でだいぶ頭削られた」

 花井とのこの時間は、食べさせるっていう印象ばっかりが強烈なせいだろう。別に断る必要もないのに尋ねてしまった俺に、花井は「いーよ、どーぞ」と妙に機嫌よく答えた。

 口の中に、まずはひとかけら放り込んだ。一列に並ぶ三片のうちの、ひとつだけ。
 常温のチョコレートは、口内の温度ですぐにとろけ始めた。

「うま。脳に染みるなー……」

 冷蔵庫でキンキンに冷やしたやつもいいけど、あっという間にトロトロになってくこの食感も悪くない。甘さも際立つし。

「渋沢、おれにも」

 花井が軽く顎を上げた。
 ……きた。
 口もとに差し出せ、って促してくる仕草だ。
 そう来ることは分かってた。分かってたし、まあ可能な範囲でなんとか付き合ってやろうかと思ってもいたわけだけど……やっぱちょっと、ためらいもある。
 さっき一列ぶん割ったうちの、残りを指に取った。二片がつながったままのそれを、花井の口もとに運んで、差し出す。
 やべぇ……手ぇ震えそう……。

 開かれた口が、手に近づいてくる。
 チョコレートのちょうど半分あたりの位置で、歯を立てて齧り取っていく。

「ん、甘……。口ん中ですぐ溶ける」

 上唇の端のあたりを舌先でそっとなぞって、花井が呟いた。
 それからまた口を開けて、ふたくちめ。
 花井は残りのチョコレートを引き取る時に、唇と舌先で、俺の指に触れた。
 
 ――あれ。
 うん?
 なんか、思ったよりは……どうってことなくね?

 昨日ラムネを食べさせたときと同じ、花井からの意図的な接触。だけど正直に言えば、もうそうされることが分かっていたから、初めての時と同じだけの衝撃はなかった。
 結局のところ花井の舌が触れたのは人差し指の先端の部分だけで、それもほんの一瞬だけだ。
 触れるその瞬間はやっぱりちょっと、ドキッとはするけど。でもこれぐらいなら……どうってことはない。たぶん。
 まあ強いて言えば、チョコがもともと常温で柔らかくなっているせいで、指先の温度ですぐ溶け始めてしまうのが、すこし困る。

「あー……手で持ってる間にかなり溶けるな、これ」

 あんまり動揺せずに済んだことに安堵しながら、親指と人差し指に付着したチョコレートを舌先で舐めとって、顔を上げたら花井と目が合った。

 ……なんだ?
 なんか、いま、もしかしてじっと見られてた?

「なに、もっと食う?」

 視線の意図を問うように尋ねた。

「……花井?」

 不自然な間が空いた、ような気がした。
 でも、それもほんの一瞬。
 すぐに、花井の表情は緩んだ。

「や……つぎ渋沢食っていーよ」
「あ、そう……」

 なんとなく戸惑いを拭いきれないまま、また銀の箔を少し剥がして、チョコを割った。
 今度は一列を、一片ずつにはもう分けずに、そのまま自分の口もとへ。
 ひとくち齧ったとき、ふとまた花井の眼差しを感じた。
 少し目線を上げると、やっぱり目が合う。

「なんだよ」
「……いや? うまそーに食うなと思って」
「食いづらいんだけど……」

 文句言ってやりつつ、ふたくちめ。
 その間もずっと見られてるのが気になって、結局そのまま立て続けに、残りのチョコも口に放り込んだ。

「あっま……」

 一度に入れすぎて、甘さが口いっぱいに広がる。

「指、またチョコついてるじゃん」

 花井が笑い混じりに言った。

「舐めちゃえば、さっきみたいに」
「え」

 視線は逸らされないままだ。じっと見つめられてる。
 その視線の意味を探りたくなるけど、あんまり深読みするのもおかしい気がして、言葉に詰まる。
 さっきだって俺は、何気なく舐めとったり、してたわけで……。

「それ、早くしないと、そのへんチョコついて汚れるから」

 促す声は軽やかだったし、冗談めかされてもいた。
 だから、今までどおりにやりとりを楽しんで遊んでいるだけだと、受け取れないこともないけど。
 だけど――なんとなく少しだけ、俺と花井との間の空気が、今までとは変わったような気がした。

 迷いつつも、俺は指先を口元に持っていった。
 どうせほんの一瞬のことだろ、と。そう自分に言い聞かせながら。

 舌でチョコを舐めとっているあいだ、花井の視線はずっと俺を追っていた。視線に晒される数秒が、思った以上に長く感じられた。
 指先から舌を離して顔を上げたとき、花井の喉元が上下したのが見えた。


「なあ渋沢、おれにもこんどのは大きめに割ってよ」

 花井の指先が、ホイルに包まれた残りのチョコレートを指し示した。
 軽い口調に、さっきまでの微妙な空気を打ち消そうとする意図が見え隠れしてる。

「いいけど……指、舐めちまったしなー。洗ってこねえと」

 俺も、あんなやりとり何でもないことだって思っているふうを装って、言った。

「いーよ。待ってんの、まだるっこいし。おれ気にしないから、そのままちょーだい」

 ……いいのかよ。
 おまえ、そーゆーとこだいぶ大雑把だな。

「大きめって……どんくらい食うの。さっき俺が食ってたのと同じぐらい? いっそ二列いくか」
「二列、ぜんぜん食える。余裕」
「こんなだぞ? 意外とでかい」

 ためしに箔を剥いで割ったチョコを手に持って見せてやったら、花井がうーん、と小さく呻いた。

「いっきにいったら鼻血出そ。まあでも食える。それそのまま食わせてよ」
「まじか」
「つっても、このサイズだとゆっくりしか食えないや。渋沢、ちゃんと持っててな?」

 にやりと笑って、花井はチョコレートを持つ俺の右手の手首を掴んだ。
 まずは角が少しだけ、齧られる。
 ……ほんとに少しだな。このチョコのサイズに対して、どんだけ小さい一口だよ。

「この、包み紙の赤いやつって、おれ初めて食べた」

 いったんチョコから口を離して、花井が急にそんなことを言う。

「茶色いやつの方が定番っぽくない? 渋沢こっちの方が好きなんだ?」
「まあ……。いや、でも、どっちでも……さっきは、急いで掴んだから」
「あー、そーだったよなー。雑な選び方だったもんなあ……」

 正直、どーでもいいような会話。
 それからやっと、ふたくちめ。やっぱり、ちょっと齧っただけ。
 手首は掴まれたままだ。俺が食べさせてるのか、花井が俺の手を使って勝手に食べてるのか、もはやよく分からない。

「ハイミルクって書いてある。茶色のってミルクチョコだっけ。あれより乳成分多いってことか」
「そう……かも」
「こっちのほうが、もうちょっと甘い感じするよな」

 ほんと、くそどーでもいい。そんなこと。食べるのにかかる時間、わざと引き延ばそうとすんなって。
 三口め。やっと、ちびちび齧るんじゃなくて、まともに口に入れた。おせーよ。

「おれ結構すきだわ、これ」

 ふ、と花井が口もとをゆるめた。

「とろっとろに甘い……」

 視線が俺の指先に注がれる。
 ずっと持たされたままのチョコが、少しずつ溶けて、ぬるっと指先にまとわりついてる。
 まるで、花井の視線で溶かされてるみたいだ。

「そこまでのろのろ食うことないだろ……」

 俺のせいいっぱいの抗議に、花井がちらりと目を上げて笑う。

「いいじゃん。おれはじっくり味わいたいの」

 やっと、花井の口が指先近くまでやってきた。
 それを、やっと、と思うあたりが、どうかしてる。また指にわざと触れていくあの食べ方をされるのか、とか。ほんとだったら身構えるところだろ。
 なのに、今はそれどころじゃない。
 チョコが溶ける。指がどんどんチョコまみれになっていく。
 早く食い終われよ、と心の中で毒づく。でももう声に出してそれを伝える余裕が、ない。

 次の一口は、唇か舌先が触れてくる――それを覚悟したタイミングで、だけど花井が実際にそうすることは、なかった。
 その代わりに花井は、まだ俺の指の間に残っているチョコレートのかけらに、舌を這わせた。
 ……え、と戸惑ったのは、一瞬だけだ。すぐに、その意図は明らかになった。
 ゆるくなって崩れつつあったチョコレートは、わずかな唾液と混ざることで、とうとう形を失ってドロドロにとろけてしまった。

 ぽた、とチョコが垂れて、花井のノートの丸っこい字の上に、茶色い染みを作った。
 指も、手も、もうぐちゃぐちゃだった。

「あーあ、こんなんなっちゃって……」

 花井の呟きは、ぼうっとする頭の片隅で聞いた。

「誰のせいで……、」
「うん……おれのせい。汚しちゃった」

 微笑まれて、身体が強張る。顔の造作があまりにも整いすぎているからなのか、それともそこに浮かんでいるのが、微笑んでいるのに全然笑っている感じのしない表情だったからなのか――背筋がぞくっと震えた。

「ちゃんと責任とって、おれがきれいにしてあげるから」

 俺の手首を掴む力が、急に強くなった。
 その言葉の意味を理解する間もなく、花井が俺の手を自分の方に少し引き寄せて、顔を近づけた。
 思わず息をのんだ。

 ……うそだろ。
 花井おまえ、何しようとしてんの。

 いくら強く掴まれていると言っても、こちらも力を入れて思いっきり手を引けばいいだけ。それだけで逃げられる。分かってる。
 なのに、それができない。自分の体が自分のものじゃないみたいに、動かすことができなかった。
 花井の口が開かれ、その間から舌が覗く。
 俺はもう言葉を発することもできずに、ただそれを見ているしかなかった。

 ゆっくりと舌が触れた。手がじんわりと熱を持ち始めるのを感じて、顔も熱くなった。吐き出す息も熱を帯びた。
 親指、人差し指と、指を一本ずつ順番に、付け根から指先へと、舐め上げてゆく。花井がチョコを丁寧に拭い取っていくその仕草は、妙にゆっくりしていて、時間が止まったように感じられた。
 いつのまにか思考もしばし、止まっていた。何も考えられず、ただされるがまま、与えられる感触に微かに身体を震わせるだけ。
 自分のなかから、声も動きも出てこない。呆然としながら花井にされることをただ受け入れているだけの俺が、そこにいた。
 
 花井の舌が小指から離れて、今度は手のひらに触れた。そしてそこを、花井は舌全体を使って大きく舐めた。
 その感触に、首の後ろあたりがぞくっとした。

 ――やば……これ、ちょっと……、

 思わず、身を竦めて、目を瞑った。
 あまり間を置かずに、また、同じ動き。柔らかく湿った舌が、手のひらを撫でた。

「……っ」

 ぶる、と身体が大きく震えた。
 あぁ……くそ……。
 視線を感じる。
 絶対、見てるだろ、花井……いま、俺が震えてるの。見んなよ。見んな。


「ん……これできれいになった」

 急に少し声音が変わって、ちょっとおどけたような言葉とともに、俺の右手はやっと解放された。
 ……これをきれいと言っていいのかどうかは知んねーけど。
 目は開けないまま、机に顔を伏せた。

 ――いったい何をされたんだ俺は……。
 ありえねえ……。

 手と指が、唾液に気化熱を奪われて、ひんやりしてる。
 その感覚がまた、さっきはそこを生温かい舌で舐められたんだっていう事実を突きつけてくるわけで……。

 ふと、花井にキャラメルを食わせてやった日、こいつが俺に、餌付けしてよ、って言ったのを思い出した。
 でもこれ、全然、餌付けなんかじゃない。そもそも完全に、ベクトルの向きが逆だ。
 花井が俺から、与えられてるんじゃなくて。俺が花井から、何だか分からないけどとにかくマズいことを、仕掛けられてる。

「……セクハラ反対」

 ぼそっと呟いたら、花井が「え」と小さく声を上げた。

「あー……やば、いまのってセクハラかな」

 やばいと言いつつも、花井の声にはどこか安堵したような響きがあった。
 俺の声の調子から、本気で怒っているわけではないと感じ取ったのかもしれない。
 いや……別に俺は、怒ってないわけじゃ、ない。
 でも、なんかもう……衝撃がすごすぎて、何が何だか。自分がいま何をどう感じているのかさえ……よく分からない。

「あれがそうじゃなかったら、いったいなんだと……」

 机に突っ伏したまま、ちらっと、視線だけ上げた。
 花井は顎に手を当てて、ちょっと首を傾げた。

「んー……やっぱ、おやつタイムじゃない?」

 こいつ……なにをぬけぬけと、とぼけたことを……。

「チョコごちそーさま。つぎ何食わしてくれんのか、楽しみにしてる」

 耳元で、花井の甘ったるい声がした。

 つぎ、って……。そんときおまえ、こんどは俺に何する気なんだよ。
 心の中で、そんなことを言い返す自分がいる。
 ……怖。
 けど……、知りたいような気も、しなくもない……。
 矛盾した気持ちが、頭ん中でぐるぐるしてる。
 だってさ、しょーがねえじゃん……正直、ぞくぞくしたし。きもちよかったし。くそ。

 俺の顔と腕の下敷きになってる花井のノートからは、まだチョコのにおいがしている。ノートの上に無造作に置かれたままだったシャーペンの、金属の軸が頬に触れて、その冷たい感触に、自分の顔の熱さを思い知らされる。

 そして俺は、自分が花井の作り出した沼にはまり始めていることを、自覚した。
 底のない、溶けたチョコレートみたいな沼だ。