おかしなことになった。
俺はいま、食堂に併設の校内売店の、菓子が陳列された商品棚の前に、花井蒼亮と並んで立っている。
何だろう、このシチュエーションは。昨日の放課後まではほぼ関わり合うことのなかった相手と、何をどうしたらこういうことになるのか、やっぱりいまだによく分からない。
ショートホームルームが終わるなり「じゃあ行こう」と声をかけられ、花井と俺という馴染みのない組み合わせに驚きを隠せない様子のクラスメイトたちから奇異の目を向けられつつ、ここまで連れてこられて、今に至る。
「……で? 何買うんだよ」
「やだな。昨日言ったろ。渋沢が選ぶんだって」
「そう言われても……。何でもいいよな?」
「冷たいなぁ。俺に食べさせたいものを選んでって言ってんのに、何でもいいとか言う? ちゃんと考えて」
まいった。食べさせたいものをと言われても。どういう意図があって言ってんのか、いまいち分かんねえ。
食わせて、なんてさ……。何で俺にそんなことさせたいのか知らないけど。
キャラメルとおんなじように、放り込んでやりやすい形状のもの、選んどけばいいか。アメとかグミとか。
そう思って、その手の小袋に入った菓子が吊り下げられてるあたりに視線をやった。
……状況考えたら、コレかな。
目の前に陳列された商品を、手に取る。
やや緑がかった水色に赤の差し色が目を引くパッケージだ。
ラムネという名の、ほぼブドウ糖。脳の栄養。受験生の友。
これならたぶん文句ないだろ。
ちら、と花井の顔を見る。
「渋沢が決めたやつなら、なんでもいーよ」
にこりとした笑みと一緒に返ってきたのは、謎の全肯定だ。
何でもいいだろうと適当に決めるのはだめだと言うくせに、それでいて俺が選んだものなら何でもいいと言う。
パラドックスだな。
「会計行ってくる。俺そのあと自販機コーナーのほう行くから、先に教室戻っててもいいけど」
「んー……じゃあ、あっちで待ってる」
花井は食堂の席の方を視線と顎で示して、そう言った。
食堂の隅にある自動販売機コーナーでミネラルウォーターを買って戻った時、花井は食堂の席に座って、ぼんやりとした様子で外を眺めていた。
窓に面したカウンター席だ。
梅雨空が戻って、今日は雨。
窓の外は少し薄暗いからか、そちらに目を向けている花井の横顔にも、どことなく物憂げな雰囲気が漂う。それがまた思わず溜息がでるぐらいに、花井の顔立ちの美しさを引き立てていた。
以前は赤く腫れがちで痛々しく見えることもあった肌も、今はもう部活を引退したせいか、すっかり日焼けがひいていて、透明感すげえし。
しかも座ってんのがよりによってカウンター席ってのが、ズルいと思う。脚長いヤツしか絵になんねーんだよ、その席は。
コイツほんと、外見には減点ポイント皆無だな? むしろ加点の多さよ……。というかもう何もかもが加点対象なんじゃないかっていう……。
まあどうやら中身のほうは、だいぶおかしいみたいだけども。
俺の視線に気付いたのか、こっちを向いた花井の顔が、その瞬間ぱっと明るく輝いた。
「渋沢。教室戻る?」
「あ、あぁ……うん……」
答える声がちょっとしどろもどろになった。
だめだろ、その笑顔は……。
花井が美形なのはまあ今に始まったことじゃない。親しくはなくてもこの五年ちょっとで、見慣れてはいた。
でも、こんな顔を自分に対して向けられることの衝撃の大きさは……さすがに知らなかったよなぁ。
たとえばこいつの彼女なんかは、待ち合わせだったり、今みたいになんかちょっと待っててもらってからそこに戻るとか、そういうときに都度都度この衝撃波を喰らうわけだろ。しかも俺に対してこれなら、恋人相手だったらもっと甘い顔だったりして。すげえな……よっぽどの強心臓じゃねえと付き合えねえな。
てか、花井って付き合ってる相手とかいんのかな。いくら男子校生活っつっても、この見てくれなら、いないわけないか。
「支払い方法どうした? 現金?」
「や、バーコード決済」
「じゃあおれの払う分、そこに送金するわ。QRコード出してもらってい?」
「おー」
教室に戻る道すがら、そんなやりとりをして……そんではたと気づく。
「そういやさ、たしか俺とおまえ、SNSとかなんも繋がってねえよな」
「ん……そうだっけ? んー? そう、かも?」
「それでいきなり金のやり取りだけしてんの、なんか笑えるわ。どーゆー関係だよっていう」
「じゃあ連絡先交換しよ」
「とんでもなく今更だな」
左手にラムネの小袋とペットボトル、右手にスマホ。親指だけの操作で、俺のスマホには花井蒼亮の連絡先が追加された。五年以上もまったく繋がってないまま過ごしてきたのに、いとも簡単に。
アイコンがすんごい不細工な猫の写真で、また笑った。
「おまえんち猫飼ってんの?」
「そー。ノノっていう名前。かわいーだろ」
とりあえずひとつ分かったことがある。
花井の「かわいい」の基準はだいぶおかしい。
そういえば俺は昨日こいつに「かわいい」と言われた。今更ながら複雑な気分だよ花井……。
たどり着いた教室には、もう誰もいなくなっていた。
※ ※ ※
勢いよく走らせてきたシャーペンの先端に、最後はぐっと力を込めて、証明終わり、のアンダーラインと斜線二本。
そこまで書いて、軽くひとつ、息を吐く。
集中を解いた後の高揚感と疲労感が混ざった状態で一旦シャーペンを置いたら、まるでそれを見計ってたみたいに、左斜め後方から、花井が俺の名を呼んだ。
「渋沢ー。おれもうバテた、限界、ラムネ食わせて」
集中状態の直後にいきなり聞かされる、このとぼけたセリフ。さすがにちょっと、対応に困る……。
「や……待て、今まだ無理。集中切ったばっかだから」
言葉を返しながら、ペットボトルのキャップを開ける。
水を喉に流し込んで、やっと人心地ついた。
「あー、没入状態だったもんなー」
花井が言った。さっきまでの俺の様子を見てたのか。
だからこんなにタイミングよく声かけてきたんだな。
「で、ラムネまだ?」
って、はえーよ。
おまえさっきラムネって言ってから、まだ一分経ったかどうかだぞ?
しょうがねえなー。
はぁ、とため息をつきつつ、机の中からラムネの袋を掴んで席を立った。
昨日と同じ、花井の前の席の椅子を借りた。
バテたというその言葉通り、花井は今日もまた机にぐでっとへばりついている。
ちょうど取り組んでた科目は今日の分を終えたところなのか、ノートや問題集の類は片付けられて、机の上には銀色のシャーペンと消しゴムだけが置かれていた。
机に寝そべってる上半身に押されて、シャーペンが机から転がりかけてる。それを救出して邪魔にならなそうな場所に置き直してやりつつ、前の席の椅子に腰を下ろして向かい合う形になったら、花井はちょっと嬉しそうな顔をした。
何だよ……なんかちょっと照れるんだけど。
気恥ずかしさを振り切りたくて、視線をそらしてラムネの袋に目をやる。
袋の上部を指で引っ張って開けた。
「……俺はさ、ほんとは袋入りよりも、スーパーとかで売ってる昔ながらのボトル型のやつの方が、粒が小さいぶん次々口に放り込むのにちょうどよくて、好きなんだけど」
中から一粒、指で摘んで取り出す。やっぱでかいな。
……食わせてって、言われてもな。
俺が、花井の口の中に入れてやるんだよな?
これを?
昨日のキャラメルみたいに?
しかもラムネって……キャラメルと違って、一個放り込んだらとりあえずそれでおしまいってわけでもないよな。わりと次々食うイメージだし。
「んー」
花井が唇をちょっと尖らせて、顎を上げた。早くよこせと促してるんだろう。
人のこと困惑させといて、のんきなもんだ。
くそ。投げてやる。
「でもまあ投げ食いするには、大粒の方がいいかも」
「え? なげ……?」
聞き返されたのはスルーして、席に座ったまま、右腕を軽く上げて手首を反らせる。
「ちゃんとうまくキャッチしろよ?」
「ちょ……待って待って」
花井が慌てて上体を起こした。
「食べさせるって、そういうやつ……?」
らしくなく焦る花井の様子を笑いながら、俺は指先で摘んでいたものを、空中に放り投げた。
ラムネが狙い通りのポイントで頂点を描き、落下に転じて、綺麗な放物線の軌跡を描く。
そしてすうっと、大きく開かれた花井の口の中に消えた。
お見事。
「ラムネうまい?」
「や……うまいけど。バテたって言ってんのに、なんで有無を言わさず投げるかな」
「ラムネ食わせるっつったら、こうだろ。もいっこ食う?」
笑いながら自分の口にも、ひとつ放り込んだ。
……やっぱちょっとでかいわ、これ。
二投目は、花井の鼻先をかすって軌道がずれ、板張りの床を転がっていった。
「あ、やべ。落ちた……もったいな。もー、鼻もいたいし……」
花井がぶつぶつ言いながら、かったるそうに席を立ち、落ちたラムネを拾いにいって、そのまま処分した。
そのあいだに、俺は手を合わせて目を閉じる。
それを見て花井が、ふは、と小さく吹いた。
「なにその合掌」
「食べ物を粗末にすんなって、じーちゃんに説教くらいそうだから」
「それ以前に食べ物で遊ぶなって言われるべきところだけどなー」
「ごもっとも……ま、もう落とすなよ」
「えーまだ続けんの、これ……」
「食わせろって言ったのおまえだからな?」
「おれバテてんの。言ったじゃん。落ちてくるのに合わせて口で受けんのって、結構しんどいんだけど」
「しょーがねえなー。ちょっとだけ、低く投げてやる」
微調整して三投目。
「えぇ、ほんとににちょっとだけじゃん」
口の中に収まったラムネを噛み砕きながら、不満げに花井が言った。
眉間に皺寄せて、口はへの字。
でもその口もとは、すぐに緩んだ。結局、目も笑っちゃってるし。
……なんか妙に可愛くて、こっちもつい甘くなる。
「じゃあ、あともうちょっと低めな」
そんなしょうもないやりとりを繰り返して、ラムネの描く放物線はだんだんと直線に近づいていって。
次の一投はもう、ほんの数センチの距離を花井の口に向かってまっすぐに放り込むだけ――というところで、指先にラムネを摘んでいる右手の手首を、花井に掴まれた。
「ちょっとストップ……おれもうつかれた」
「食うの終了?」
笑って聞いたら、花井は答えずに眼差しを俺の指先に向けた。
「……っていうか、」
手首を掴む手に、力が込められる。
「もう投げんな。……そのまま、」
右手に、花井の顔が近付いた。
瞼が軽く伏せられる。
薄く唇が開かれる。
「……っ、」
思わず息をのんだ。
指先に、花井の唇が触れた。
触れてしまった、わけではなく。花井が意図して、触れさせた。
ラムネが俺の指から花井の口へと移るその瞬間には、ほんのわずかだけれど、舌先が指をかすめていった。
「おま……いまの、」
今のは一体なんなんだ、と喉元まで出かけた言葉は、花井と目が合ったことで引っ込んでしまった。
「もう投げて食わすの禁止な?」
俺にそう告げる花井の笑顔は悪戯っぽく、それでいて無邪気さを感じさせるものだった。
――あぁ、そっか。
その顔で、なんだか急に腑に落ちた。
こいつにとってこのちょっと際どいやり取りは、たぶん冗談めかした言葉の応酬と、根っこが同じもので。
突拍子もないこと言い出したり、わざとハズしたことを言ってみたり、茶化してみたり。そうして仕掛けた言葉に対して、相手がどう返してくるのか、どこまでついてくるのか。そのやり取りを楽しむような。
そういうのを、もしかしたら花井は、身体的な接触でも成立させようとしてるんじゃないか、って――
「渋沢、もういっこ」
花井が甘えた声を出した。
机に頬杖ついて、上目遣いで。
……やっぱそうだろ。俺がどこまで応じるか、試してる。
どこまでを面白がって受け入れるのか。どこで、どんな言葉で拒むのか。そのときの言い回しさえも、冗談めかして言葉遊びにすることが求められるような。
仕掛けられてるのは、そんなギリギリのバランスを探るゲームだ。
そんでそれはたぶん花井にとって、悪意なんて特になくて、ただ純粋にやり取りを楽しむためだけのもの。
ラムネはいつの間にかだいぶ減っていて、もう袋の底のほうにいくつか残っているだけだった。
指先で摘むのに、一瞬もたついた。
「取りにくそ。手の上に出しちゃえば」
「……だな」
花井に言われて、右手に持った袋からざらっと、左手の上に出した。
転がり出たのは、三つ。
「あー、そのままでいーや。手、動かすなよ?」
その言葉に、え、と思う間もなく花井が頭を下げて、左手に顔を近づけてきた。
唇を寄せられた手のひらに、生温かい吐息がかかる。
ラムネをひとつ取って行った花井の口が触れた場所に、湿った感触。
うわ……心臓やば。バクバクいってる。
なんだよこの食いかた。こんなんアリか? さっそく手ぇ変えて仕掛けてくんのかよ……。
これ俺にどう反応しろって? いったいおまえは俺にどういう対応を望んでんの?
こんなことされたって、みんながみんなうまいこと切り返せるわけじゃないだろ……。
「花井……おまえさ、こういうこと、わりと誰にでもする感じ?」
手のひらの上の残りのラムネをひとつ、自分の口の中に放り込んで。
噛み砕くことでどうにか動揺を抑えつつ尋ねたら、花井は肩をすくめた。
「まさか。おれを何だと思ってんの。やばいやつじゃん、こんなん誰にでもしてたら」
「……じゃあ、なんで俺にはやるわけ?」
「んー……なんとなく渋沢が、上手にかまってくれそうだから、かも」
……やたら綺麗な笑顔で、そんなこと言われても、なぁ。
たぶん、それ、買いかぶりだから。
そんな慣れてねーよ、俺。際どい冗談も、駆け引きめいたのも。
ため息つきつつ、手に残った最後のひとつを唇に押し付けてやった。
せめてもの対応。こんぐらいしかできねーわ。
「……これラスト一個。食ったらもう勉強再開な」
ラムネが引き取られたあとの指先には、花井の舌の感触が残された。
ほんと、何だこれ。
そもそも勉強中の休憩時間のはず、だよな。
花井はひとつ大きく伸びをしてから、机の中からノートと問題集を取り出した。そしてそれを開くと、そこに視線を落としながらシャーペンを手に取り、すんなりと自分のペースに戻っていった。
たぶんそれなりに気分転換にはなったんだろう。
俺はといえば、自分の席に戻ったとたん、どっと疲労感に襲われた。
リフレッシュどころか、疲れが増しただけのような気がすんだけど。
俺にとってはこれ、まったく休憩になってないんじゃね……?
俺はいま、食堂に併設の校内売店の、菓子が陳列された商品棚の前に、花井蒼亮と並んで立っている。
何だろう、このシチュエーションは。昨日の放課後まではほぼ関わり合うことのなかった相手と、何をどうしたらこういうことになるのか、やっぱりいまだによく分からない。
ショートホームルームが終わるなり「じゃあ行こう」と声をかけられ、花井と俺という馴染みのない組み合わせに驚きを隠せない様子のクラスメイトたちから奇異の目を向けられつつ、ここまで連れてこられて、今に至る。
「……で? 何買うんだよ」
「やだな。昨日言ったろ。渋沢が選ぶんだって」
「そう言われても……。何でもいいよな?」
「冷たいなぁ。俺に食べさせたいものを選んでって言ってんのに、何でもいいとか言う? ちゃんと考えて」
まいった。食べさせたいものをと言われても。どういう意図があって言ってんのか、いまいち分かんねえ。
食わせて、なんてさ……。何で俺にそんなことさせたいのか知らないけど。
キャラメルとおんなじように、放り込んでやりやすい形状のもの、選んどけばいいか。アメとかグミとか。
そう思って、その手の小袋に入った菓子が吊り下げられてるあたりに視線をやった。
……状況考えたら、コレかな。
目の前に陳列された商品を、手に取る。
やや緑がかった水色に赤の差し色が目を引くパッケージだ。
ラムネという名の、ほぼブドウ糖。脳の栄養。受験生の友。
これならたぶん文句ないだろ。
ちら、と花井の顔を見る。
「渋沢が決めたやつなら、なんでもいーよ」
にこりとした笑みと一緒に返ってきたのは、謎の全肯定だ。
何でもいいだろうと適当に決めるのはだめだと言うくせに、それでいて俺が選んだものなら何でもいいと言う。
パラドックスだな。
「会計行ってくる。俺そのあと自販機コーナーのほう行くから、先に教室戻っててもいいけど」
「んー……じゃあ、あっちで待ってる」
花井は食堂の席の方を視線と顎で示して、そう言った。
食堂の隅にある自動販売機コーナーでミネラルウォーターを買って戻った時、花井は食堂の席に座って、ぼんやりとした様子で外を眺めていた。
窓に面したカウンター席だ。
梅雨空が戻って、今日は雨。
窓の外は少し薄暗いからか、そちらに目を向けている花井の横顔にも、どことなく物憂げな雰囲気が漂う。それがまた思わず溜息がでるぐらいに、花井の顔立ちの美しさを引き立てていた。
以前は赤く腫れがちで痛々しく見えることもあった肌も、今はもう部活を引退したせいか、すっかり日焼けがひいていて、透明感すげえし。
しかも座ってんのがよりによってカウンター席ってのが、ズルいと思う。脚長いヤツしか絵になんねーんだよ、その席は。
コイツほんと、外見には減点ポイント皆無だな? むしろ加点の多さよ……。というかもう何もかもが加点対象なんじゃないかっていう……。
まあどうやら中身のほうは、だいぶおかしいみたいだけども。
俺の視線に気付いたのか、こっちを向いた花井の顔が、その瞬間ぱっと明るく輝いた。
「渋沢。教室戻る?」
「あ、あぁ……うん……」
答える声がちょっとしどろもどろになった。
だめだろ、その笑顔は……。
花井が美形なのはまあ今に始まったことじゃない。親しくはなくてもこの五年ちょっとで、見慣れてはいた。
でも、こんな顔を自分に対して向けられることの衝撃の大きさは……さすがに知らなかったよなぁ。
たとえばこいつの彼女なんかは、待ち合わせだったり、今みたいになんかちょっと待っててもらってからそこに戻るとか、そういうときに都度都度この衝撃波を喰らうわけだろ。しかも俺に対してこれなら、恋人相手だったらもっと甘い顔だったりして。すげえな……よっぽどの強心臓じゃねえと付き合えねえな。
てか、花井って付き合ってる相手とかいんのかな。いくら男子校生活っつっても、この見てくれなら、いないわけないか。
「支払い方法どうした? 現金?」
「や、バーコード決済」
「じゃあおれの払う分、そこに送金するわ。QRコード出してもらってい?」
「おー」
教室に戻る道すがら、そんなやりとりをして……そんではたと気づく。
「そういやさ、たしか俺とおまえ、SNSとかなんも繋がってねえよな」
「ん……そうだっけ? んー? そう、かも?」
「それでいきなり金のやり取りだけしてんの、なんか笑えるわ。どーゆー関係だよっていう」
「じゃあ連絡先交換しよ」
「とんでもなく今更だな」
左手にラムネの小袋とペットボトル、右手にスマホ。親指だけの操作で、俺のスマホには花井蒼亮の連絡先が追加された。五年以上もまったく繋がってないまま過ごしてきたのに、いとも簡単に。
アイコンがすんごい不細工な猫の写真で、また笑った。
「おまえんち猫飼ってんの?」
「そー。ノノっていう名前。かわいーだろ」
とりあえずひとつ分かったことがある。
花井の「かわいい」の基準はだいぶおかしい。
そういえば俺は昨日こいつに「かわいい」と言われた。今更ながら複雑な気分だよ花井……。
たどり着いた教室には、もう誰もいなくなっていた。
※ ※ ※
勢いよく走らせてきたシャーペンの先端に、最後はぐっと力を込めて、証明終わり、のアンダーラインと斜線二本。
そこまで書いて、軽くひとつ、息を吐く。
集中を解いた後の高揚感と疲労感が混ざった状態で一旦シャーペンを置いたら、まるでそれを見計ってたみたいに、左斜め後方から、花井が俺の名を呼んだ。
「渋沢ー。おれもうバテた、限界、ラムネ食わせて」
集中状態の直後にいきなり聞かされる、このとぼけたセリフ。さすがにちょっと、対応に困る……。
「や……待て、今まだ無理。集中切ったばっかだから」
言葉を返しながら、ペットボトルのキャップを開ける。
水を喉に流し込んで、やっと人心地ついた。
「あー、没入状態だったもんなー」
花井が言った。さっきまでの俺の様子を見てたのか。
だからこんなにタイミングよく声かけてきたんだな。
「で、ラムネまだ?」
って、はえーよ。
おまえさっきラムネって言ってから、まだ一分経ったかどうかだぞ?
しょうがねえなー。
はぁ、とため息をつきつつ、机の中からラムネの袋を掴んで席を立った。
昨日と同じ、花井の前の席の椅子を借りた。
バテたというその言葉通り、花井は今日もまた机にぐでっとへばりついている。
ちょうど取り組んでた科目は今日の分を終えたところなのか、ノートや問題集の類は片付けられて、机の上には銀色のシャーペンと消しゴムだけが置かれていた。
机に寝そべってる上半身に押されて、シャーペンが机から転がりかけてる。それを救出して邪魔にならなそうな場所に置き直してやりつつ、前の席の椅子に腰を下ろして向かい合う形になったら、花井はちょっと嬉しそうな顔をした。
何だよ……なんかちょっと照れるんだけど。
気恥ずかしさを振り切りたくて、視線をそらしてラムネの袋に目をやる。
袋の上部を指で引っ張って開けた。
「……俺はさ、ほんとは袋入りよりも、スーパーとかで売ってる昔ながらのボトル型のやつの方が、粒が小さいぶん次々口に放り込むのにちょうどよくて、好きなんだけど」
中から一粒、指で摘んで取り出す。やっぱでかいな。
……食わせてって、言われてもな。
俺が、花井の口の中に入れてやるんだよな?
これを?
昨日のキャラメルみたいに?
しかもラムネって……キャラメルと違って、一個放り込んだらとりあえずそれでおしまいってわけでもないよな。わりと次々食うイメージだし。
「んー」
花井が唇をちょっと尖らせて、顎を上げた。早くよこせと促してるんだろう。
人のこと困惑させといて、のんきなもんだ。
くそ。投げてやる。
「でもまあ投げ食いするには、大粒の方がいいかも」
「え? なげ……?」
聞き返されたのはスルーして、席に座ったまま、右腕を軽く上げて手首を反らせる。
「ちゃんとうまくキャッチしろよ?」
「ちょ……待って待って」
花井が慌てて上体を起こした。
「食べさせるって、そういうやつ……?」
らしくなく焦る花井の様子を笑いながら、俺は指先で摘んでいたものを、空中に放り投げた。
ラムネが狙い通りのポイントで頂点を描き、落下に転じて、綺麗な放物線の軌跡を描く。
そしてすうっと、大きく開かれた花井の口の中に消えた。
お見事。
「ラムネうまい?」
「や……うまいけど。バテたって言ってんのに、なんで有無を言わさず投げるかな」
「ラムネ食わせるっつったら、こうだろ。もいっこ食う?」
笑いながら自分の口にも、ひとつ放り込んだ。
……やっぱちょっとでかいわ、これ。
二投目は、花井の鼻先をかすって軌道がずれ、板張りの床を転がっていった。
「あ、やべ。落ちた……もったいな。もー、鼻もいたいし……」
花井がぶつぶつ言いながら、かったるそうに席を立ち、落ちたラムネを拾いにいって、そのまま処分した。
そのあいだに、俺は手を合わせて目を閉じる。
それを見て花井が、ふは、と小さく吹いた。
「なにその合掌」
「食べ物を粗末にすんなって、じーちゃんに説教くらいそうだから」
「それ以前に食べ物で遊ぶなって言われるべきところだけどなー」
「ごもっとも……ま、もう落とすなよ」
「えーまだ続けんの、これ……」
「食わせろって言ったのおまえだからな?」
「おれバテてんの。言ったじゃん。落ちてくるのに合わせて口で受けんのって、結構しんどいんだけど」
「しょーがねえなー。ちょっとだけ、低く投げてやる」
微調整して三投目。
「えぇ、ほんとににちょっとだけじゃん」
口の中に収まったラムネを噛み砕きながら、不満げに花井が言った。
眉間に皺寄せて、口はへの字。
でもその口もとは、すぐに緩んだ。結局、目も笑っちゃってるし。
……なんか妙に可愛くて、こっちもつい甘くなる。
「じゃあ、あともうちょっと低めな」
そんなしょうもないやりとりを繰り返して、ラムネの描く放物線はだんだんと直線に近づいていって。
次の一投はもう、ほんの数センチの距離を花井の口に向かってまっすぐに放り込むだけ――というところで、指先にラムネを摘んでいる右手の手首を、花井に掴まれた。
「ちょっとストップ……おれもうつかれた」
「食うの終了?」
笑って聞いたら、花井は答えずに眼差しを俺の指先に向けた。
「……っていうか、」
手首を掴む手に、力が込められる。
「もう投げんな。……そのまま、」
右手に、花井の顔が近付いた。
瞼が軽く伏せられる。
薄く唇が開かれる。
「……っ、」
思わず息をのんだ。
指先に、花井の唇が触れた。
触れてしまった、わけではなく。花井が意図して、触れさせた。
ラムネが俺の指から花井の口へと移るその瞬間には、ほんのわずかだけれど、舌先が指をかすめていった。
「おま……いまの、」
今のは一体なんなんだ、と喉元まで出かけた言葉は、花井と目が合ったことで引っ込んでしまった。
「もう投げて食わすの禁止な?」
俺にそう告げる花井の笑顔は悪戯っぽく、それでいて無邪気さを感じさせるものだった。
――あぁ、そっか。
その顔で、なんだか急に腑に落ちた。
こいつにとってこのちょっと際どいやり取りは、たぶん冗談めかした言葉の応酬と、根っこが同じもので。
突拍子もないこと言い出したり、わざとハズしたことを言ってみたり、茶化してみたり。そうして仕掛けた言葉に対して、相手がどう返してくるのか、どこまでついてくるのか。そのやり取りを楽しむような。
そういうのを、もしかしたら花井は、身体的な接触でも成立させようとしてるんじゃないか、って――
「渋沢、もういっこ」
花井が甘えた声を出した。
机に頬杖ついて、上目遣いで。
……やっぱそうだろ。俺がどこまで応じるか、試してる。
どこまでを面白がって受け入れるのか。どこで、どんな言葉で拒むのか。そのときの言い回しさえも、冗談めかして言葉遊びにすることが求められるような。
仕掛けられてるのは、そんなギリギリのバランスを探るゲームだ。
そんでそれはたぶん花井にとって、悪意なんて特になくて、ただ純粋にやり取りを楽しむためだけのもの。
ラムネはいつの間にかだいぶ減っていて、もう袋の底のほうにいくつか残っているだけだった。
指先で摘むのに、一瞬もたついた。
「取りにくそ。手の上に出しちゃえば」
「……だな」
花井に言われて、右手に持った袋からざらっと、左手の上に出した。
転がり出たのは、三つ。
「あー、そのままでいーや。手、動かすなよ?」
その言葉に、え、と思う間もなく花井が頭を下げて、左手に顔を近づけてきた。
唇を寄せられた手のひらに、生温かい吐息がかかる。
ラムネをひとつ取って行った花井の口が触れた場所に、湿った感触。
うわ……心臓やば。バクバクいってる。
なんだよこの食いかた。こんなんアリか? さっそく手ぇ変えて仕掛けてくんのかよ……。
これ俺にどう反応しろって? いったいおまえは俺にどういう対応を望んでんの?
こんなことされたって、みんながみんなうまいこと切り返せるわけじゃないだろ……。
「花井……おまえさ、こういうこと、わりと誰にでもする感じ?」
手のひらの上の残りのラムネをひとつ、自分の口の中に放り込んで。
噛み砕くことでどうにか動揺を抑えつつ尋ねたら、花井は肩をすくめた。
「まさか。おれを何だと思ってんの。やばいやつじゃん、こんなん誰にでもしてたら」
「……じゃあ、なんで俺にはやるわけ?」
「んー……なんとなく渋沢が、上手にかまってくれそうだから、かも」
……やたら綺麗な笑顔で、そんなこと言われても、なぁ。
たぶん、それ、買いかぶりだから。
そんな慣れてねーよ、俺。際どい冗談も、駆け引きめいたのも。
ため息つきつつ、手に残った最後のひとつを唇に押し付けてやった。
せめてもの対応。こんぐらいしかできねーわ。
「……これラスト一個。食ったらもう勉強再開な」
ラムネが引き取られたあとの指先には、花井の舌の感触が残された。
ほんと、何だこれ。
そもそも勉強中の休憩時間のはず、だよな。
花井はひとつ大きく伸びをしてから、机の中からノートと問題集を取り出した。そしてそれを開くと、そこに視線を落としながらシャーペンを手に取り、すんなりと自分のペースに戻っていった。
たぶんそれなりに気分転換にはなったんだろう。
俺はといえば、自分の席に戻ったとたん、どっと疲労感に襲われた。
リフレッシュどころか、疲れが増しただけのような気がすんだけど。
俺にとってはこれ、まったく休憩になってないんじゃね……?