梅雨明けが宣言されて、名実ともに夏がやって来た。
夏休み前の、最終日。
と言っても学校自体は二学期制だから、式典があるわけでもないし、成績表が配られるわけでもないし、なんなら授業は午後まであって。普段との違いといえば、終業時のホームルームがちょっと長くなって、諸注意が伝えられるっていうぐらいの、どうということのない一日だ。
普通の、だけど普通じゃない日。
明日からしばらく、俺と花井が会うことはなくなるわけだから。
表向きはいつもと変わり映えのしない一日が、あっという間に過ぎていって、そして放課後になった。
ホームルームが終わったばかりのまだざわついてる教室で、いきなり後ろから抱きつかれた。
「うお、な、なに、誰」
ぎょっとして振り返ったら、まさかの花井だった。
俺の隣の席のやつもぎょっとしてる。そりゃそーだ。
「渋沢、おれとデートしよ」
「はぁ?」
「今から。今すぐ。一緒にいこ」
「どこへ」
「坂の下のコンビニ」
「そりゃまたずいぶんお手軽だな……」
おまえらいつの間にかやけに仲良くなってんなー、と感心された。まあ単純に微笑ましいとでも思われてるような雰囲気ではあったけど、なんか気恥ずかしい。
とりあえず財布とスマホだけ掴んで、花井に引きずられるようにして教室を出た。
こんなふうに教室から強引に引っ張っていかれたことが、放課後を一緒に過ごすようになった最初の頃にはあった。そんでその先の人目ある場所で、もたれかかられる程度の軽い接触なんかも、思い返せばちょっとはあったわけだけど。
それでも校内の売店に行かなくなってからは、一緒にいる時間のほとんどは二人きりだったし、そこでのやりとりがあんな感じになっていって――もう人前で触れてこられることはないんじゃないかと、なんとなく思ってた。
だから今になってのあれは、さすがに予想外っていうか。
「あんなふうにされるとは思わなかったわ……」
校外に出て坂道を下りながら話を振ると、容赦なく照りつけてくる日差しが、ふいに遮られた。
隣を歩いている花井が顔を覗き込んできたせいだ。
「やだった?」
って、今も、顔近すぎ。
人目あんのに、これじゃ二人きりでいるときの距離感と、そこまで変わらない。やってることは人に見られて困るようなほどのことじゃないにしても。
周囲には、早々に下校の生徒がちらほら。休み前の開放感で浮かれてるのか、ときどき笑い声が弾ける。
「別にいやだってわけじゃなくて……ただちょっと驚いてる。なんで急に?」
「んー? 単に渋沢に触りたかっただけ。二人になるまで待てなくて、あれぐらいならそんなに違和感持たれないかなーと」
花井が笑って言う。
相変わらず冗談なんだか本気なんだか分かんねーな、と思ってたら――それだけでは終わらずに、ちょっと伏目になった。
「なんかさ……今日、ちょっと気持ち焦んない? 時間もったいないっていうか」
ぼそっと、続けられた言葉に、本音が覗く。
長いまつ毛の奥で、花井の目はどこか不安そうに揺れている。
これまでならきっと隠していたんだろう表情。それを花井はいま、俺の前で晒してる。
こんなふうに少し弱い部分を、冗談めかして誤魔化してしまわずに見せてもらえたこと、嬉しいって言ったら嫌がられるかな。
でもその焦りなら、今日どころか昨日しばらく会えなくなるって知ってからずっと、ほんとは俺も感じてる。
「ん……それは俺も、わかる」
呟いたら、その瞬間、花井の纏っている空気が、ふわっと変わった気がした。
ちょっと不安の滲むものから、甘さを秘めたものに。
「……手繋ぎたいな。指絡ませるやつ」
花井が小声で囁くように言った。
「いま急に、そんな気分になっちゃったんだけど……それはさすがにまずいかな」
「さすがにな……」
「じゃあ、想像だけ。そうしてるつもりで歩こ」
ふ、と笑って、そんなことを言って。
それから花井は俺から視線を外して、前を向いた。
そうっと、どちらからともなく腕を伸ばして。手と手を重ねて。指を絡める――
俺と花井の頭の中、今シンクロしてるといいのにな、と、ぼんやり思う。
すぐ横を、まだ小柄な下級生たちが笑いながら駆け下りていく。
俺と花井が本当はただ並んで歩いてるわけじゃないことに、隣をすり抜けていったあいつらは気づいてない。そう思ったら、ちょっと笑えて、そんで結構どきどきした。
辿り着いたコンビニで、アイスキャンディーを買った。
とにかく暑いし、せっかく二人で来たんだし、つって。
なにしろ、こうして二人で来ないと選べない選択肢だ。一人で来て二人分買ったって、学校に戻る間に溶けちまうから。
俺はソーダ味の定番商品を、花井がマンゴーのを選んで。店舗前の駐車場の境界に設置されたアーチ型の車止めに、横並びで腰掛けて、小休止。
滑らかな口当たりで濃厚なマンゴー味が意外に美味くて、結局俺は花井が手に持ってるやつばっかりを横から食ってしまい、俺がただ持ってるだけでほぼ放置してたソーダ味は、早く食わないと溶けるだろ、とか、氷がガリガリしすぎてる、とか文句を言いながらも、ほとんど花井が片付けた。
もう絶対、はたから見たらだいぶおかしい二人だった。だけど、誰がずっと見てたわけでもないし。一瞬見かけただけなら、なんかじゃれてんなってぐらいのもんだろう。
帰りは上り坂。別に気温は変わってないんだろうに、行きより更に暑さがこたえる。
「にしても、あついなー……アイスだけじゃなくて、おれも溶けそ……」
隣を歩く花井がぼやいて、俺はちらりとその横顔を見た。
顎の先から、汗の滴がぽたりと垂れた。汗かいてんのに、なぜか暑苦しさを感じさせない。ただそこはかとない色気があるだけだ。
視線に気づいて、花井はこちらに顔を向けた。
「……ん? どーかした?」
俺を見つめ返してくる表情は、柔らかく、優しく、甘い。なんかたまらなくなる。
「見惚れてた」
正直に告げたら、花井は吹き出して笑った。
「潔いねー、それ正直に言っちゃう?」
そんでまた、甘い顔に戻った。
「……いーよ、いくらでも、好きなだけ見て。おれもう、渋沢のだよ」
そうか……こいつ、もう俺のものか。
やば……顔ニヤけるわ。
とは言っても、だ。
一応断っとくと、俺がこいつの顔を好きなのはもちろんその通りなんだけども、そんでも今ならわりと、他にもすきなところ、挙げられる。
たとえば。
コンビニまでのほんの短い距離を俺と並んで歩くことを、花井はデートと呼ぶ。
冗談めかしてても、きっと内心、結構本気で言ってたりするんだろう。
そーゆーところを俺は、バカじゃねーかと思いつつ、たまらなくすきだとも思ってしまう……とかな。
「なあ花井、思ったよりはデート感あったわ。コンビニデート。想像で手ぇ繋ぐのさえ辛い暑さではあるけど」
「そんじゃ次のおうちデートも期待してて。今度は家ん中だからエアコン効かせて、快適にくっつけるしねー」
……いや、やっぱバカだわ。なんだ、おうちデートって。
そりゃ家行くって約束はしたけど。っつーかさせられたけど。
その言葉はなんていうか……恥ずかしすぎんだろ……。
そして、戻ってきた教室の扉の引き手に手をかけたところで、はたと気づいた。
「なあ、アイスだけ食って、休憩用のもの買ってねーじゃん。俺今日なんも持ってねえわ。売店行く?」
肝心の買い物してねえとか、何しに行ったんだろ。
マジでただのデートかあれ。浮かれてんなぁ……。
引き戸を開けたら、教室にはもう誰もいなくなっていた。
「あー……いーよ、また教室出んのめんどくさい」
花井は俺に続いて教室の中に入り、内側からドアを閉めながら答える。
めんどくさいとか……なんかもはや省エネモードに突入してる感じだな。暑いなか外行ったせいでバテたのか。
「けどお前すぐガス欠起こすじゃん」
俺の指摘に、花井はちょっと笑った。
「渋沢がいれば大丈夫」
「は……?」
なんの話、と振り返ろうとした瞬間、背後から急に両腕が回されて、びくっと身体が強張った。
気づけば背中から抱きとめられていた。
……ちょっと待て、こんなん急すぎて心臓に悪いって。おまえ省エネモードどこいった?
「休憩時間のおやつ。渋沢ちょーだい」
俺をからかうように、甘えた声で花井が言う。暑さも手伝って、なんか顔が火照ってくるのがわかる。
「俺じゃカロリー摂取できねえぞ」
「糖分ありそうじゃない? こんなに甘いんだからさ……」
首筋に、ごく軽く歯が押し当てられて、続けて舌が触れてくる。
びく、と身体が震えて、慌てて花井の頭を押し退けた。
「だからそれやめろって……」
甘いどころか暑さで汗ばんで絶対しょっぱいし――そもそも甘いのはむしろ、おまえの声と態度のほうだし。
……なんてことは、頭の中だけで付け加えるにとどめて。
「ここでそれ困るって、昨日も言ったよな」
ピシッと言葉で牽制したら、花井は悪びれずに笑って、でもあっさり引き下がった。
「そーでした……こういうのは次会うとき」
ぱ、と両手が離される。
「そんで、ほんとのこと言うとさ……」
その言葉に少し戸惑って振り返り、「ほんとのこと?」と反射的に問い返したら、花井はにこりと笑って続けた。
「こないだ渋沢にあげるって言ったキャラメル、結局、一緒に食べたじゃん。あの残り、おれ預かったままだから。あれが机の中にあるから、大丈夫」
「……最初からそう言えよ」
しれっと言われた内容に呆れつつも、解放されたことにちょっとほっとして、自分の席に向かった。
もっとも、どんどん次会うときの逃げ場を失っていってる気もして……緩んでる場合じゃないのかもしれないけど。
なんとなく疲労感を覚えながら、椅子に腰を下ろして。脱力したところで、ふいに花井が思い出したように声を上げた。
「あーそうだ。おれ、渋沢に渡したいものあって」
不意打ちみたいな言い方に、またちょっと身構える。
「……なに?」
「んー、ちょっと待って」
花井は自分の席で、机の中からペンケースを取り出し、その中を探っている。
「しばらく会えないし、昨日みたいになったときも、頭撫でてあげたりできないから。その代わりに……」
そうして探り当てたものを手に、俺の席へと歩み寄ってくる。
「使い込んだものでもあったら、そばにいるよーな気になれんじゃないかって。渋沢……手、出して?」
促されて、何が渡されるのかもわからないまま、少し緊張して両手を差し出した。
「お守り、あげる」
そう言って花井が手の上に載せてくれたのは、シャーペンだった。
思いがけない出来事に、咄嗟には言葉が返せずに、手もとを見つめた。
いつも花井が使っていた、あの銀色のやつだ。
「……いいのか、これ?」
ちょっと間を置いて、やっと言葉が口をついて出た。
尋ねた俺の顔を見て、花井が軽く笑う。
「筆記具って長時間使うから相性大事だし、どーかなとも思ったけど……まあ使いにくかったら、持っててくれるだけでもいいし」
金属製の軸が、ひんやりと手に冷たくて心地いい。
「同じのまた買ったから、おれとお揃い。新しいほうが良かったら、そっち持ってってくれてもいいけど。そうする?」
「や……これでいい」
答えは悩まなかった。むしろこれだからこそ、しっくりくる気がした。
花井の手で使い込まれたシャーペンは、商品名の印字が消えかけている。花井が今までこれを使ってきた時間とか、花井の手の感触とか、そういうのがそこから伝わってくるみたいで……これが自分のものになるんだと思ったら、嬉しさが込み上げた。
花井の言うとおり、お守りだ、これは。きっとこれから先、花井が俺に寄り添おうとする気持ちを、そばにいないときにも伝えてくれる。
「てか……これがいい。ありがとう花井」
少しだけ声が震えた。花井からは微笑みが返されて、胸がじんわり温かくなった。
「うん……じゃ休憩までがんばろ」
花井の手が俺の頭に置かれ、優しくひと撫でして、離れた。
それから、花井は自分の席に戻ろうとして、ふとまた足を止める。
「あ……と、その前に」
その声に顔を上げると、振り返った花井と目があって、ふわりと微笑まれた。
腕がこちらへのびてきて。そっと顎に添えられた手に、顔を軽く持ち上げられる。
「やっぱちょっとだけ、先に味見させて」
……ん? あれ?
キャラメルが残ってるって話、さっきしてたんじゃなかったっけ。
でも、先に味見ってことは、今日の休憩時間、おやつはやっぱり俺……なのか?
そんなことを考えてるうちにも、花井の顔が近づいてきて――そんで結局、もうどっちでもいいやって気分になって、俺はそっと瞼を閉じた。
どっちにしたって結局は、それが甘い時間になることに、変わりはないんだ。
夏休み前の、最終日。
と言っても学校自体は二学期制だから、式典があるわけでもないし、成績表が配られるわけでもないし、なんなら授業は午後まであって。普段との違いといえば、終業時のホームルームがちょっと長くなって、諸注意が伝えられるっていうぐらいの、どうということのない一日だ。
普通の、だけど普通じゃない日。
明日からしばらく、俺と花井が会うことはなくなるわけだから。
表向きはいつもと変わり映えのしない一日が、あっという間に過ぎていって、そして放課後になった。
ホームルームが終わったばかりのまだざわついてる教室で、いきなり後ろから抱きつかれた。
「うお、な、なに、誰」
ぎょっとして振り返ったら、まさかの花井だった。
俺の隣の席のやつもぎょっとしてる。そりゃそーだ。
「渋沢、おれとデートしよ」
「はぁ?」
「今から。今すぐ。一緒にいこ」
「どこへ」
「坂の下のコンビニ」
「そりゃまたずいぶんお手軽だな……」
おまえらいつの間にかやけに仲良くなってんなー、と感心された。まあ単純に微笑ましいとでも思われてるような雰囲気ではあったけど、なんか気恥ずかしい。
とりあえず財布とスマホだけ掴んで、花井に引きずられるようにして教室を出た。
こんなふうに教室から強引に引っ張っていかれたことが、放課後を一緒に過ごすようになった最初の頃にはあった。そんでその先の人目ある場所で、もたれかかられる程度の軽い接触なんかも、思い返せばちょっとはあったわけだけど。
それでも校内の売店に行かなくなってからは、一緒にいる時間のほとんどは二人きりだったし、そこでのやりとりがあんな感じになっていって――もう人前で触れてこられることはないんじゃないかと、なんとなく思ってた。
だから今になってのあれは、さすがに予想外っていうか。
「あんなふうにされるとは思わなかったわ……」
校外に出て坂道を下りながら話を振ると、容赦なく照りつけてくる日差しが、ふいに遮られた。
隣を歩いている花井が顔を覗き込んできたせいだ。
「やだった?」
って、今も、顔近すぎ。
人目あんのに、これじゃ二人きりでいるときの距離感と、そこまで変わらない。やってることは人に見られて困るようなほどのことじゃないにしても。
周囲には、早々に下校の生徒がちらほら。休み前の開放感で浮かれてるのか、ときどき笑い声が弾ける。
「別にいやだってわけじゃなくて……ただちょっと驚いてる。なんで急に?」
「んー? 単に渋沢に触りたかっただけ。二人になるまで待てなくて、あれぐらいならそんなに違和感持たれないかなーと」
花井が笑って言う。
相変わらず冗談なんだか本気なんだか分かんねーな、と思ってたら――それだけでは終わらずに、ちょっと伏目になった。
「なんかさ……今日、ちょっと気持ち焦んない? 時間もったいないっていうか」
ぼそっと、続けられた言葉に、本音が覗く。
長いまつ毛の奥で、花井の目はどこか不安そうに揺れている。
これまでならきっと隠していたんだろう表情。それを花井はいま、俺の前で晒してる。
こんなふうに少し弱い部分を、冗談めかして誤魔化してしまわずに見せてもらえたこと、嬉しいって言ったら嫌がられるかな。
でもその焦りなら、今日どころか昨日しばらく会えなくなるって知ってからずっと、ほんとは俺も感じてる。
「ん……それは俺も、わかる」
呟いたら、その瞬間、花井の纏っている空気が、ふわっと変わった気がした。
ちょっと不安の滲むものから、甘さを秘めたものに。
「……手繋ぎたいな。指絡ませるやつ」
花井が小声で囁くように言った。
「いま急に、そんな気分になっちゃったんだけど……それはさすがにまずいかな」
「さすがにな……」
「じゃあ、想像だけ。そうしてるつもりで歩こ」
ふ、と笑って、そんなことを言って。
それから花井は俺から視線を外して、前を向いた。
そうっと、どちらからともなく腕を伸ばして。手と手を重ねて。指を絡める――
俺と花井の頭の中、今シンクロしてるといいのにな、と、ぼんやり思う。
すぐ横を、まだ小柄な下級生たちが笑いながら駆け下りていく。
俺と花井が本当はただ並んで歩いてるわけじゃないことに、隣をすり抜けていったあいつらは気づいてない。そう思ったら、ちょっと笑えて、そんで結構どきどきした。
辿り着いたコンビニで、アイスキャンディーを買った。
とにかく暑いし、せっかく二人で来たんだし、つって。
なにしろ、こうして二人で来ないと選べない選択肢だ。一人で来て二人分買ったって、学校に戻る間に溶けちまうから。
俺はソーダ味の定番商品を、花井がマンゴーのを選んで。店舗前の駐車場の境界に設置されたアーチ型の車止めに、横並びで腰掛けて、小休止。
滑らかな口当たりで濃厚なマンゴー味が意外に美味くて、結局俺は花井が手に持ってるやつばっかりを横から食ってしまい、俺がただ持ってるだけでほぼ放置してたソーダ味は、早く食わないと溶けるだろ、とか、氷がガリガリしすぎてる、とか文句を言いながらも、ほとんど花井が片付けた。
もう絶対、はたから見たらだいぶおかしい二人だった。だけど、誰がずっと見てたわけでもないし。一瞬見かけただけなら、なんかじゃれてんなってぐらいのもんだろう。
帰りは上り坂。別に気温は変わってないんだろうに、行きより更に暑さがこたえる。
「にしても、あついなー……アイスだけじゃなくて、おれも溶けそ……」
隣を歩く花井がぼやいて、俺はちらりとその横顔を見た。
顎の先から、汗の滴がぽたりと垂れた。汗かいてんのに、なぜか暑苦しさを感じさせない。ただそこはかとない色気があるだけだ。
視線に気づいて、花井はこちらに顔を向けた。
「……ん? どーかした?」
俺を見つめ返してくる表情は、柔らかく、優しく、甘い。なんかたまらなくなる。
「見惚れてた」
正直に告げたら、花井は吹き出して笑った。
「潔いねー、それ正直に言っちゃう?」
そんでまた、甘い顔に戻った。
「……いーよ、いくらでも、好きなだけ見て。おれもう、渋沢のだよ」
そうか……こいつ、もう俺のものか。
やば……顔ニヤけるわ。
とは言っても、だ。
一応断っとくと、俺がこいつの顔を好きなのはもちろんその通りなんだけども、そんでも今ならわりと、他にもすきなところ、挙げられる。
たとえば。
コンビニまでのほんの短い距離を俺と並んで歩くことを、花井はデートと呼ぶ。
冗談めかしてても、きっと内心、結構本気で言ってたりするんだろう。
そーゆーところを俺は、バカじゃねーかと思いつつ、たまらなくすきだとも思ってしまう……とかな。
「なあ花井、思ったよりはデート感あったわ。コンビニデート。想像で手ぇ繋ぐのさえ辛い暑さではあるけど」
「そんじゃ次のおうちデートも期待してて。今度は家ん中だからエアコン効かせて、快適にくっつけるしねー」
……いや、やっぱバカだわ。なんだ、おうちデートって。
そりゃ家行くって約束はしたけど。っつーかさせられたけど。
その言葉はなんていうか……恥ずかしすぎんだろ……。
そして、戻ってきた教室の扉の引き手に手をかけたところで、はたと気づいた。
「なあ、アイスだけ食って、休憩用のもの買ってねーじゃん。俺今日なんも持ってねえわ。売店行く?」
肝心の買い物してねえとか、何しに行ったんだろ。
マジでただのデートかあれ。浮かれてんなぁ……。
引き戸を開けたら、教室にはもう誰もいなくなっていた。
「あー……いーよ、また教室出んのめんどくさい」
花井は俺に続いて教室の中に入り、内側からドアを閉めながら答える。
めんどくさいとか……なんかもはや省エネモードに突入してる感じだな。暑いなか外行ったせいでバテたのか。
「けどお前すぐガス欠起こすじゃん」
俺の指摘に、花井はちょっと笑った。
「渋沢がいれば大丈夫」
「は……?」
なんの話、と振り返ろうとした瞬間、背後から急に両腕が回されて、びくっと身体が強張った。
気づけば背中から抱きとめられていた。
……ちょっと待て、こんなん急すぎて心臓に悪いって。おまえ省エネモードどこいった?
「休憩時間のおやつ。渋沢ちょーだい」
俺をからかうように、甘えた声で花井が言う。暑さも手伝って、なんか顔が火照ってくるのがわかる。
「俺じゃカロリー摂取できねえぞ」
「糖分ありそうじゃない? こんなに甘いんだからさ……」
首筋に、ごく軽く歯が押し当てられて、続けて舌が触れてくる。
びく、と身体が震えて、慌てて花井の頭を押し退けた。
「だからそれやめろって……」
甘いどころか暑さで汗ばんで絶対しょっぱいし――そもそも甘いのはむしろ、おまえの声と態度のほうだし。
……なんてことは、頭の中だけで付け加えるにとどめて。
「ここでそれ困るって、昨日も言ったよな」
ピシッと言葉で牽制したら、花井は悪びれずに笑って、でもあっさり引き下がった。
「そーでした……こういうのは次会うとき」
ぱ、と両手が離される。
「そんで、ほんとのこと言うとさ……」
その言葉に少し戸惑って振り返り、「ほんとのこと?」と反射的に問い返したら、花井はにこりと笑って続けた。
「こないだ渋沢にあげるって言ったキャラメル、結局、一緒に食べたじゃん。あの残り、おれ預かったままだから。あれが机の中にあるから、大丈夫」
「……最初からそう言えよ」
しれっと言われた内容に呆れつつも、解放されたことにちょっとほっとして、自分の席に向かった。
もっとも、どんどん次会うときの逃げ場を失っていってる気もして……緩んでる場合じゃないのかもしれないけど。
なんとなく疲労感を覚えながら、椅子に腰を下ろして。脱力したところで、ふいに花井が思い出したように声を上げた。
「あーそうだ。おれ、渋沢に渡したいものあって」
不意打ちみたいな言い方に、またちょっと身構える。
「……なに?」
「んー、ちょっと待って」
花井は自分の席で、机の中からペンケースを取り出し、その中を探っている。
「しばらく会えないし、昨日みたいになったときも、頭撫でてあげたりできないから。その代わりに……」
そうして探り当てたものを手に、俺の席へと歩み寄ってくる。
「使い込んだものでもあったら、そばにいるよーな気になれんじゃないかって。渋沢……手、出して?」
促されて、何が渡されるのかもわからないまま、少し緊張して両手を差し出した。
「お守り、あげる」
そう言って花井が手の上に載せてくれたのは、シャーペンだった。
思いがけない出来事に、咄嗟には言葉が返せずに、手もとを見つめた。
いつも花井が使っていた、あの銀色のやつだ。
「……いいのか、これ?」
ちょっと間を置いて、やっと言葉が口をついて出た。
尋ねた俺の顔を見て、花井が軽く笑う。
「筆記具って長時間使うから相性大事だし、どーかなとも思ったけど……まあ使いにくかったら、持っててくれるだけでもいいし」
金属製の軸が、ひんやりと手に冷たくて心地いい。
「同じのまた買ったから、おれとお揃い。新しいほうが良かったら、そっち持ってってくれてもいいけど。そうする?」
「や……これでいい」
答えは悩まなかった。むしろこれだからこそ、しっくりくる気がした。
花井の手で使い込まれたシャーペンは、商品名の印字が消えかけている。花井が今までこれを使ってきた時間とか、花井の手の感触とか、そういうのがそこから伝わってくるみたいで……これが自分のものになるんだと思ったら、嬉しさが込み上げた。
花井の言うとおり、お守りだ、これは。きっとこれから先、花井が俺に寄り添おうとする気持ちを、そばにいないときにも伝えてくれる。
「てか……これがいい。ありがとう花井」
少しだけ声が震えた。花井からは微笑みが返されて、胸がじんわり温かくなった。
「うん……じゃ休憩までがんばろ」
花井の手が俺の頭に置かれ、優しくひと撫でして、離れた。
それから、花井は自分の席に戻ろうとして、ふとまた足を止める。
「あ……と、その前に」
その声に顔を上げると、振り返った花井と目があって、ふわりと微笑まれた。
腕がこちらへのびてきて。そっと顎に添えられた手に、顔を軽く持ち上げられる。
「やっぱちょっとだけ、先に味見させて」
……ん? あれ?
キャラメルが残ってるって話、さっきしてたんじゃなかったっけ。
でも、先に味見ってことは、今日の休憩時間、おやつはやっぱり俺……なのか?
そんなことを考えてるうちにも、花井の顔が近づいてきて――そんで結局、もうどっちでもいいやって気分になって、俺はそっと瞼を閉じた。
どっちにしたって結局は、それが甘い時間になることに、変わりはないんだ。