今日は、コンビニには行かなかった。校内の売店にも。
その代わり、ボックス型のバックパックの底の方に、休憩時間用に家から持ってきたものが入ってる。
買いに出る時間を削れば、そのぶん少し休憩時間を長くできるか……とか。自分で考えときながら、腕とか背中とかがむず痒くなる。揶揄われそーだから、花井には絶対言わない。
……とはいえ、これじゃ意味ないよなぁ。
はぁ、と大きくため息をつく。
机の上には一応は問題集とノートを広げているものの、どーにもこーにも……。
窓の外は晴れ。すっかり夏空の様相だ。
まだ梅雨明け宣言は出てないんだったっけ。だとしても秒読み段階だな。
外からは部活中の掛け声が聞こえてくる。昨日は雨こそ止んでいたものの、校庭はコンディション不良で使えなかったんだろう。久々に活気が戻った感じがする。
だけどほんとは正直いま、天気も人の声もどうでもいい。なんでこんな不必要な情報ばっかり頭に入ってきて、肝心なことが手につかねーんだか。
ってか、花井は調子どうだろ。捗ってんのかな。
――結局、思考はすぐに、花井のところに戻ってきてしまう。
昨日は正面から向き合って話をして気持ちは通じ合ったはずなのに、朝起きてみたら、なんか微妙に不安になってた。
しかも今日、まだろくに話してねえし。
昨日の今日で、花井はこの放課後にはいったいどんな態度で俺に接して来るつもりなんだろう、って……朝からずっと落ち着かない。
ああもう、ぐだぐだ考えてばっかで、だいぶうっとーしい奴だよな、いまの俺。
そんなに気になるなら、もういっそ、様子見ちまえばいいんだ。気づかれねえよーにそっと……、
――で、斜め後ろを振り返ったら、見事に目が合ってしまった。
俺が花井の席の方をおそるおそる覗った直後に、花井が手を止めて顔を上げたからだ。
「あー……ごめん」
気づかれないよーにと思ってたのに、やっぱりまた俺のせいで気が散ったのかも。そう思って謝ったら、花井がふいに席を立った。
「なんかピリピリしてるの伝わってくる……おれちょっとそば行ってもいい?」
そして、花井はすぐ真横までやってきて、俺の頭にそっと手を載せた。
「……焦んないで」
やわらかい声が耳に届く。
その短いひとことだけでもう、ほんの少しだけど、身体と心の強張りが解けた。
「落ち着いて、ゆっくり息してみ」
花井の声に導かれるように、さっきまでのざわついた感情が少しずつ静まっていく気がした。
言われるままに呼吸をしたら、その吸っては吐くリズムに合わせて、花井はゆっくりと俺の髪の上で手を滑らせるようにして頭を撫でてくれた。
繰り返し触れられるたびに、こいつに大事にされてるって感覚がじんわり広がって、心が凪いでいく。
ちょっと意外だった。花井のことばっかり考えて気が散ってたし……だからこそ近くにこられたりしたら、よけいに意識してしまってどうにもならなくなるだろうって、考えてたのに。その本人の存在を間近に感じたら、かえって落ち着いていくなんて。
ちゃんとそばにいる、俺のこと好きでいてくれてるって思えて、安心できる。
だんだん聞こえていた音が遠のいていく。
――あぁ……なんか、いけるかも。
ふとそんなことを思った。
「ごめん花井……もうちょっとだけ、そのまま続けてて……」
※ ※ ※
いつ花井が手を離したのかは、分からなかった。
開いているページの最後の問題を解き終えて手を止めたとき、花井の姿は隣から消えていて、斜め後ろの方向から、シャーペンの先がノートに字を書きつける音が、かすかに聞こえていた。
ゆっくり周囲の状況が自分の中に戻って来る。
校庭で響く声。いつのまにか吹奏楽の合奏練習が始まってるのも、遠くに聞こえる。
花井の席の方からしていた筆記音が、ふと止まった。
んん、と鼻にかかった声がして、振り返ったら花井が伸びをしていた。
目が合って、ふわりと微笑まれた。
窓から差し込む光に花井の髪色が溶け込んで、眩しくて、綺麗だった。
「……さっきありがとな」
「復活した感じ?」
「や……どーだろ……。元通りってわけでもないけど……まあでも、だいぶいい」
答えながら、椅子の背もたれにかけているバックパックの開口部を開けた。
「なんか久々にまともに頭使った感じする。とりあえず糖分補給したいかも」
「おれもちょっとバテた。休憩しよ」
俺が家から持ってきたものを取り出してる間に、花井は席を立って移動し、窓際の床に腰を下ろしていた。
「いや、なんで床?」
自分で言っておきながら……どっかで聞いたよーなセリフだな。こないだと逆転してる。
「別にそんな食べさせにくいもん持ってきてねえんだけど」
「いーじゃん。ちょっとくっつきたい」
「暑苦しそ……」
ていうか、顔、あつ……。
「渋沢、ここおいで」
花井が長い脚を投げ出して、その間の床を手で軽く叩いて俺を呼ぶ。
「俺にもたれかかって座ってよ」
いやいやいや……それはさすがに。
「躊躇してると、よけいに恥ずかしくなってきちゃうと思うけど? こーゆーのは思い切りが大事」
手が差し伸べられる。
「渋沢、ほら」
ちょっと低くした声で呼ばれて、促され――結局抗えなくなって、投降。
とりあえず渋々ながらって顔をつくって、手を取って。引き寄せられて、花井の脚の間に収まった。
……いや、でもこれ、まじで恥ずかしいからな? ほんとに。
「やっぱ暑い……」
俺のぼやきを、花井は笑って受け流した。
そして、俺の手もとを肩越しに覗き込んでくる。
「……で? なに持ってきた?」
「これ? 家にあったやつ」
指をずらして、手に持っているものを花井に見えるようにしてやった。
缶入りのドロップ。いろんな味のが入ってるやつ。
「またレトロなものを……」
「まあ、じーちゃんが買ってきたやつだからなー」
「渋沢のじーちゃん、かなり甘党?」
「そーゆーわけでもねえんだろうけど、なんか昔、禁煙した時に、口寂しくなったら飴とかキャラメルとか放り込む癖がついたらしいんだわ」
缶を振ったら、カラカラと音がする。
「これってさ、なんかいっつも、目ぇ瞑って何出たか見ずに口に放り込んだりしちまうの、なんでなんだろなー。利き飴、みたいな」
「そんなもん……?」
「え、やんねえ?」
「そもそも普段、飴とかあんまり買わないからなぁ」
「あ、そ……。じゃ、やってみ。目閉じて口開けて」
促すと、花井は俺の右肩に顎をのせ、口を開いた。
背中に少し体重をかけられてこられる。身体が密着する。
やっぱこの体勢、ちょっとやばいわ……。
蓋を開けてから缶を逆さにし、手のひらに転がり出てきたドロップを、花井の口の中に放り込む。
耳のすぐ真横で、花井の口内で飴が転がる音がする。
「んー……イチゴかな……あま」
花井がちょっと笑いながら言って、俺の手から缶を取った。
「渋沢のぶんおれが出すから、目、瞑ってて」
缶を軽く揺らしながら、中身を転がして探る音がする。
言われた通りに目を閉じて視界を閉ざしてしまうと、背中に花井の身体が当たってる感触と体温とか、あまりにも近くで聞こえる微かな息遣いと飴の転がる音とか、そういう見えなくても感じ取れるあれこれが、ますます強く意識されて、どうにも落ち着かない。
合図がないままに、唇にドロップを軽く押し当てられて、ちょっと身体が震えた。
少し緊張しながら薄く口を開くと、その隙間からそれが押し込まれて、舌に乗った。
「あー……俺のも……」
同じイチゴ味だった。
目を開けたら自然と少し緊張が解けて、それが背中から伝わったのか、花井が声は出さずに笑っているのが、なんとなく気配で分かった。
それから、花井は急に思い出したように、「そーいえば、」と切り出した。
「渋沢さ、夏休みどーすんの? 予定どんな感じ?」
首と身体を捻って花井を振り返ると、妙に真剣にこちらの反応を待っている様子だった。
夏休みまで、あと僅か。というかもう、休み前の学校は明日で終わりだ。
と言っても俺の生活自体は、今とほとんど変わらねえけども……。
「俺は学校の夏期講習、全日程で申し込んでるから、わりと毎日のよーに登校。おまえは?」
当たり前のことを今更伝えるような気分で言って、ついでに何の気構えもなく訊き返した。
「んー、おれ夏休みだけ塾の講習いく。そっちの方が、学校来るより移動に時間かかんないから。もう秋まで学校来ない」
そして返ってきた答えに、頭が真っ白になる。
え? あれ? そーなんだ?
一拍おいて我にかえり、あぁまあそういうこともあるよな、と、取ってつけたように自分に言い聞かせた。
季節講習だけ塾使うとか、実際、別に珍しい選択じゃない。
ただちょっと、花井はこれまで当たり前のよーに学校で自習してたから、俺と同じ感じなのかなと、勝手に思いこんでしまっていただけのことで。
驚くようなことじゃ、全然ない。
ない、けど。
「じゃあ明日が最後で、その次ここで会うのって夏休み明けか……」
どうにか動揺を隠して言ったつもりが、自分が口にした内容に自分で打ちのめされる。
だってそれ、四十日以上先ってことじゃねーかよ……。
「うわ、つら……。おれ、さみしいの我慢できるかなあ」
俺の肩に顔を埋めて、花井が言った。
――それ、おまえが言うか?
俺は通常営業なんだよ、勝手に来ないのおまえじゃん。
……って、いやでも、これ別に花井が悪いわけでもないか……。
「申し込み、渋沢とこんなんなる前だったもんなー。今だったら絶対こんな選択しないで毎日学校来るほう選ぶのに。今からでもキャンセルしよっかなぁ……」
まぁでも、そんなふうに言う花井が拗ねた感じで、なんか妙に可愛かったから、ちょっと気が晴れた。
……と同時に、今の最後の言葉で、正気に戻れた。
それは困る。そんなんされるぐらいだったら、長いこと会えないんだとしても、まだ全然そっちのがマシ。
「俺のことを、そういう重要な選択の材料にしようとすんな。責任取れるわけじゃねえし、そんなことであとあと後悔してほしくもねえよ。ちゃんとしろ」
俺の言葉に、花井が顔を上げた。
「あー……うん。今のは失言でした、ごめん。キャンセルはしません、がんばるから」
なんか急に殊勝な態度と口調。
それから腕が前に回されて、ぎゅうっと抱きしめられた。
「渋沢らしーわ……かっこいい、やっぱすき」
耳もとで花井が囁くように言った。すき、って言葉にどきっとする。じわじわくる。
でも、俺だってそんなふうに言ってもらえるほど、揺らいでないわけじゃ、ねえからな。
「全然、そんな立派なもんじゃねえわ」
なんだろーな、この感じ。寂しいってのもないわけじゃねえけど、どっちかっていうと……四十日も会わねえとか言われても、正直ちょっと実感が湧かないっつーか、イメージができないっつーか。
ただただ気が遠くなるよーな感覚……?
この感じが会えない間もずっと続くのを想像したら、さすがに気分が重くなって、やたら深いため息が口から漏れてしまった。
それをどんなふうに捉えたのか分かんねえけど、花井はちょっと笑った。
「たしか学校の講習って、八月真ん中らへんは授業ないんだったっけ」
「あぁ、三週目、まるっと休み」
「おれもその時期、夏期講習休み。せめてそこだけでも一緒にいよ」
声の響きに、急に甘さが増した。
ふっと首筋に唇が触れてくる。
肌をかすめる唇と吐息の感触に、微かに身体が跳ねて、くすぐってえから、と花井の顔を押し退けた。
正直言えば、くすぐったいというよりはむしろ……体の中に小さな火種がともったような感じがして、まずい。
「いーけどさ、学校その時期、完全閉校期間で入れねえよ」
「じゃあさ……うち来る?」
息が止まりそうになった。肩に力が入るのが自分でも分かる。
背中から抱きつかれてる状態だから、こんな反応も、もう筒抜けなわけで。
ほんと、なに想像してんだって話だよ……。
いや、でも、花井の家とか……だってそれ絶対、この教室で過ごすのと同じなわけねえよな。
そもそも教室にいてさえ、ここでこんなことしてていーのかって思うぐらいなのに。
おまえの言うとおりにしたら、俺いったいどーなんの。
「そんな身構える必要ないから……おれは渋沢が本気で嫌がるようなことはしないよ」
俺が固まってしまったのを分かっていて、花井は笑い混じりの、でもふざけた感じはしない声で、穏やかに言った。
「ただ、おれ今よりあともう少しだけ、渋沢と近づきたい」
よりいっそう強く抱きしめられて、どくん、と心臓が跳ねた。
でもなんか……ものすごく曖昧な言葉で言いくるめられてる気がする……。
あともう少しって何だよ。それってどれぐらい? まったく具体的じゃねえし。
そんなのもういくらでも、何やったって嘘はついてないってことにできるだろ。
ずるいやつだな、おまえは。
「夏休みずっと会えないのはさすがに厳しすぎるけど、途中で渋沢がおれに会いに来てくれるって思ったら、それまではおれ、なんとか頑張れるかも」
ああくそ、ほんと、おまえ……。
こんなん言われて断れるかよ。
まぁ別に、断るつもりも、ないけどさ……。
またため息が出て、そしてまた笑われた。
それから、花井はさっきドロップを出したあとで床に置いてた缶を拾い上げ、俺の手を取って、握らせた。
「渋沢……口の中のやつ、溶けてなくなった」
「もう一個ってこと?」
「うん」
花井の口に二個めのドロップを放り込んでやったのとほぼ同時に、自分の口にも二個めが入れられたとき、俺は咄嗟に顔を顰めてしまった。
「あー……これハッカじゃん……」
思わず呟いたら、花井が肩越しに顔を覗き込んできた。
「もしかして苦手?」
「んー、あんまり……」
「じゃあそれ、おれのと替えよっか……」
ぐいと顔を引き寄せられて、軽くキスされた。ほんの一瞬だけ。
触れた感触の柔らかさが名残惜しくて、思わず自分から花井の方へと身体ごと向き直ってしまうと、花井の目がふっと細められた。
その眼差しに絡め取られたように、身動きが取れなくなる。
「口移しで交換。する?」
あぁ……俺、さっきまでの体勢を、まじで恥ずかしい、とか言ってたけど。
こーやって向かい合う姿勢になったら、超至近距離に花井の顔がある分だけ、こっちの方が断然くるじゃん……。
しかも言われてる内容が、ちょっともう……。
ほんとにいいのか、俺は。こいつとそんなこと、しても。ほんとにいいと、思ってる……?
そりゃ、花井のことを好きには違いないけど。でも、いま花井が誘ってるのって……それ絶対、ただの飴の交換なんかじゃないだろ? そんなことを――
花井の視線がやけに熱い。
口の中で主張するハッカのひんやりとした感覚が、どこか熱を纏った花井の表情に、一瞬かき消される。見つめ合う僅かな間にも、花井の熱が眼差しを経て、俺の中に流れ込んでくる。
いいのか、とまた頭のなかで声がする。だけどもう、自分の中がどんどん熱くなっていくの、止められない。
いい……かな。
いいか……。
「……ん」
その熱を孕んだ息が、思わず漏れて。
吐息なんだか、返事なんだか……とにかくそれを引き金にして、花井は俺の唇を口で塞いだ。
唇の隙間から、ぬる、と舌を差し込まれて、その慣れない感触に身体が強張ったところへ、続けて花井の口にあったドロップが入ってきた。
――あ、パイン味……。
そう気づいて、一瞬、緊張が緩んだ。好きな味だったから。
そしたら同時に、ふっと花井がかすかに笑ったような気がした。キスしながらじゃ、はっきりとは分かんねえけど、なんとなく。
口の中のふたつの飴が、お互いの舌の上を行き来しながら、少しずつ味が混じりあっていく。
ドロップが舌の上で転がり、舌同士が触れ合って、甘くとろけて熱いのに、ハッカのせいでずっとスースーしてる。奇妙な感覚で、だけどたまらなく気持ちよかった。
花井の味と俺の味が一つになって、甘く溶けていく。
その甘さがゆっくりと口の中に広がるたび、俺と花井も、この飴みたいに混ざり合っていくような気がした。
転がされた飴が上顎を掠ったとき、急に身体がぶるっと震えた。
……なんだ今の。やば。
その俺の反応に触発されたかのように、花井は俺の後頭部に手を回して支え、少し顔の位置をずらした。いちばん深くくちづけられる角度を、探すみたいにして。
口内のドロップが、混ぜ合わされ、転がされ――それからときどきおそらくは意図的に、上顎に触れさせられる。そのたび、震えが走った。
それから、上の歯の裏側の歯茎を、舌先で探るようになぞられた。
思わず花井の背中に腕を回して、しがみついた。
最初は戸惑って、躊躇っていたはずなのに。一度触れてしまえば止まらなくなって……いつの間にか、自分からも花井に近づいてしまっている。
吐息に混じって、鼻にかかった声が漏れる。
とけて、とろけて、境界線がなくなってく。
喉の奥に、パイナップルとハッカの味の混ざった、俺のだか花井のだか分からない唾液が溜まってきて、どーにもしようがなくなって、震えながら飲み込んだ。
熱いのにひんやりした奇妙な甘さが、身体の奥の奥まで、沁みていった。
ようやく解放されたとき、俺の口の中に残されたパイン味のドロップは、溶けてもう随分と小さくなっていた。
それを口の中で転がしながら、俺はぼんやりと、これからのことを考える。
夏休みが始まったら当分の間、花井とは会えない。そのあと会うときは、もしかしたら花井の家?
会えない間、そして次に会う時――この先、俺たちどうなっていくんだろ。
小さくなっていたドロップは、すぐに溶けてなくなってしまった。
唇に、舌に、口の中に。甘い味と、花井の残した感覚だけがまだ少し熱を伴って、残っている。
「なぁ……交換してくれんじゃ、なかったっけ」
「ん……ドロップ? 交換、したじゃん」
ちょっとぐったりしながら責めるような口調で言ってやったら、花井は首を傾げた。
「いやだから、それまでが長すぎんだろって話。だいぶ溶けてたし、もうなくなったし……」
「あー……せっかくだからしばらく味まぜてみよーかと。そしたら渋沢だって、ハッカ味も案外いけるんじゃないかなって」
反省の色はない。というかむしろ、花井は上機嫌だった。
「おれ、いい判断したなー。渋沢のよわそーなとこ、また新たに発見できたし……」
ふっと笑って悪びれずにそんなことを言う。
機嫌いい理由、それかよ……。
呆れ半分、照れ半分で、ちょっと顔を背けたら、花井はそれを追いかけるようにして、俺の顔を覗き込んで来た。
そして、ちょっと意地の悪い微笑を浮かべながら、訊ねてきた。
「……どーだった?」
は?
……おまえ、ほんとに今、それ訊く?
そんな、どーだったと言われても……。
突然の問いに思わず動揺が顔に出たんだろう。そんな俺の反応を見て、花井は軽く口もとを抑えて――やっぱり笑いをこらえてる。
「渋沢、味の話だよ。ハッカとパイナップル混ざったやつ、どーだった、って」
そう言いながら、結局堪えきれなかったらしく、花井は小さく吹き出した。
そーゆーやつだよな、おまえって。
絶対、意図的に俺のことミスリードしようとしてたろ……。
「よわそーなところと言えばさ……渋沢、思った以上にあちこち敏感そーだけど……、」
ふいに、花井の声が艶めいたものに変わった。
「ここも……さっきちょっと反応してた」
唇が、首筋に触れた。
思わず身体が固まった。
「や……それ、それはまずい……」
「いや?」
尋ねておきながらも俺の答えは待たずに、花井は唇で触れていた場所を、今度はそのまま上下の唇でそっと挟むようにして刺激してくる。
「いやっていうか……ここでそれ、ほんとにちょっと、困る……」
唇が離れる気配がなくて、微かな吐息が漏れた。
さっきのキスで煽られて、過敏な状態になってるのに。
今こんなの続けられたら、身体の中の火種が熾されて、たぶん引っ込みつかないとこまで反応しちまうかも。こんな場所でそれ、ほんとやばいから。
「あぁ……そっか、うん……続きは、ここじゃないとき、な」
そんなことを言いながらも、花井は俺の首もとに顔を埋めたままだ。
言葉と行動が伴ってない。
こいつほんとネジ飛んだみたいに、歯止め効かなくなってるじゃん……。
「じゃあさ、渋沢」
笑いを含む吐息が、さらに首筋をくすぐってくる。
「夏期講習休みに入ったら、うち来てくれるよな……?」
今度は舌先が、触れた。
いや、だから、それだめだって……、
「あぁ、も……分かったから……!」
答えたら、花井はやっと顔を上げた。ちょっと、口角も上がった。
くそ。むりやり言質、取られた。腹立つ。
つーか、やばかった……。
鼓動がだいぶ速くなってる。
どうにか気持ちを落ち着けようと、ゆっくり息を吐き出したら、結局そのまま、ため息に変わった。
「意地悪してごめん。すきだよ……約束してくれてありがと」
花井が揶揄うように笑いながら口を開き、そしてその言葉の途中でものすごく……愛しくてたまんないって言ってるみたいな表情になった。
なんだ、その顔……反則だろ。その顔ですきだなんて言われたら、どうしたって花井を拒めない自分を、どうしようもなく自覚させられてしまう。
花井がまたキスしてきた。今度は唇に、軽く触れるだけのやつ。
でも口ん中は、まだなんとなくハッカの味があとを引いて、すーっとしてる。それから、ほのかにパイナップルの風味も残っていて。
あの味も何もかも混ざり合う感じを思い出したら、やっぱりちょっとぞくぞくした。
……そんで、ふと、花井に一矢報いてやろうかと思い立った。
「なあ花井、」
呼びかけながら、自分から少し、花井に近づいて。今度は俺の方から、軽く唇を合わせた。
そして、ふわりとしたキスの後で、囁く。
「さっきのドロップ交換したときの……あれほんとは、すげえよかった」
俺の言葉で、花井の目が驚きに見開かれた。
たぶん、俺がそんなことを言うなんて、思ってなかったんだろう。
その反応を俺は軽く笑って、ひとこと言い足してやった。
「花井……味の話だよ」
花井が一瞬、やられた、って顔をした。
それが徐々にほころんでいって、柔らかい笑顔に変わっていくのを眺めていたら、なんとなく満たされたような気持ちになった。
その代わり、ボックス型のバックパックの底の方に、休憩時間用に家から持ってきたものが入ってる。
買いに出る時間を削れば、そのぶん少し休憩時間を長くできるか……とか。自分で考えときながら、腕とか背中とかがむず痒くなる。揶揄われそーだから、花井には絶対言わない。
……とはいえ、これじゃ意味ないよなぁ。
はぁ、と大きくため息をつく。
机の上には一応は問題集とノートを広げているものの、どーにもこーにも……。
窓の外は晴れ。すっかり夏空の様相だ。
まだ梅雨明け宣言は出てないんだったっけ。だとしても秒読み段階だな。
外からは部活中の掛け声が聞こえてくる。昨日は雨こそ止んでいたものの、校庭はコンディション不良で使えなかったんだろう。久々に活気が戻った感じがする。
だけどほんとは正直いま、天気も人の声もどうでもいい。なんでこんな不必要な情報ばっかり頭に入ってきて、肝心なことが手につかねーんだか。
ってか、花井は調子どうだろ。捗ってんのかな。
――結局、思考はすぐに、花井のところに戻ってきてしまう。
昨日は正面から向き合って話をして気持ちは通じ合ったはずなのに、朝起きてみたら、なんか微妙に不安になってた。
しかも今日、まだろくに話してねえし。
昨日の今日で、花井はこの放課後にはいったいどんな態度で俺に接して来るつもりなんだろう、って……朝からずっと落ち着かない。
ああもう、ぐだぐだ考えてばっかで、だいぶうっとーしい奴だよな、いまの俺。
そんなに気になるなら、もういっそ、様子見ちまえばいいんだ。気づかれねえよーにそっと……、
――で、斜め後ろを振り返ったら、見事に目が合ってしまった。
俺が花井の席の方をおそるおそる覗った直後に、花井が手を止めて顔を上げたからだ。
「あー……ごめん」
気づかれないよーにと思ってたのに、やっぱりまた俺のせいで気が散ったのかも。そう思って謝ったら、花井がふいに席を立った。
「なんかピリピリしてるの伝わってくる……おれちょっとそば行ってもいい?」
そして、花井はすぐ真横までやってきて、俺の頭にそっと手を載せた。
「……焦んないで」
やわらかい声が耳に届く。
その短いひとことだけでもう、ほんの少しだけど、身体と心の強張りが解けた。
「落ち着いて、ゆっくり息してみ」
花井の声に導かれるように、さっきまでのざわついた感情が少しずつ静まっていく気がした。
言われるままに呼吸をしたら、その吸っては吐くリズムに合わせて、花井はゆっくりと俺の髪の上で手を滑らせるようにして頭を撫でてくれた。
繰り返し触れられるたびに、こいつに大事にされてるって感覚がじんわり広がって、心が凪いでいく。
ちょっと意外だった。花井のことばっかり考えて気が散ってたし……だからこそ近くにこられたりしたら、よけいに意識してしまってどうにもならなくなるだろうって、考えてたのに。その本人の存在を間近に感じたら、かえって落ち着いていくなんて。
ちゃんとそばにいる、俺のこと好きでいてくれてるって思えて、安心できる。
だんだん聞こえていた音が遠のいていく。
――あぁ……なんか、いけるかも。
ふとそんなことを思った。
「ごめん花井……もうちょっとだけ、そのまま続けてて……」
※ ※ ※
いつ花井が手を離したのかは、分からなかった。
開いているページの最後の問題を解き終えて手を止めたとき、花井の姿は隣から消えていて、斜め後ろの方向から、シャーペンの先がノートに字を書きつける音が、かすかに聞こえていた。
ゆっくり周囲の状況が自分の中に戻って来る。
校庭で響く声。いつのまにか吹奏楽の合奏練習が始まってるのも、遠くに聞こえる。
花井の席の方からしていた筆記音が、ふと止まった。
んん、と鼻にかかった声がして、振り返ったら花井が伸びをしていた。
目が合って、ふわりと微笑まれた。
窓から差し込む光に花井の髪色が溶け込んで、眩しくて、綺麗だった。
「……さっきありがとな」
「復活した感じ?」
「や……どーだろ……。元通りってわけでもないけど……まあでも、だいぶいい」
答えながら、椅子の背もたれにかけているバックパックの開口部を開けた。
「なんか久々にまともに頭使った感じする。とりあえず糖分補給したいかも」
「おれもちょっとバテた。休憩しよ」
俺が家から持ってきたものを取り出してる間に、花井は席を立って移動し、窓際の床に腰を下ろしていた。
「いや、なんで床?」
自分で言っておきながら……どっかで聞いたよーなセリフだな。こないだと逆転してる。
「別にそんな食べさせにくいもん持ってきてねえんだけど」
「いーじゃん。ちょっとくっつきたい」
「暑苦しそ……」
ていうか、顔、あつ……。
「渋沢、ここおいで」
花井が長い脚を投げ出して、その間の床を手で軽く叩いて俺を呼ぶ。
「俺にもたれかかって座ってよ」
いやいやいや……それはさすがに。
「躊躇してると、よけいに恥ずかしくなってきちゃうと思うけど? こーゆーのは思い切りが大事」
手が差し伸べられる。
「渋沢、ほら」
ちょっと低くした声で呼ばれて、促され――結局抗えなくなって、投降。
とりあえず渋々ながらって顔をつくって、手を取って。引き寄せられて、花井の脚の間に収まった。
……いや、でもこれ、まじで恥ずかしいからな? ほんとに。
「やっぱ暑い……」
俺のぼやきを、花井は笑って受け流した。
そして、俺の手もとを肩越しに覗き込んでくる。
「……で? なに持ってきた?」
「これ? 家にあったやつ」
指をずらして、手に持っているものを花井に見えるようにしてやった。
缶入りのドロップ。いろんな味のが入ってるやつ。
「またレトロなものを……」
「まあ、じーちゃんが買ってきたやつだからなー」
「渋沢のじーちゃん、かなり甘党?」
「そーゆーわけでもねえんだろうけど、なんか昔、禁煙した時に、口寂しくなったら飴とかキャラメルとか放り込む癖がついたらしいんだわ」
缶を振ったら、カラカラと音がする。
「これってさ、なんかいっつも、目ぇ瞑って何出たか見ずに口に放り込んだりしちまうの、なんでなんだろなー。利き飴、みたいな」
「そんなもん……?」
「え、やんねえ?」
「そもそも普段、飴とかあんまり買わないからなぁ」
「あ、そ……。じゃ、やってみ。目閉じて口開けて」
促すと、花井は俺の右肩に顎をのせ、口を開いた。
背中に少し体重をかけられてこられる。身体が密着する。
やっぱこの体勢、ちょっとやばいわ……。
蓋を開けてから缶を逆さにし、手のひらに転がり出てきたドロップを、花井の口の中に放り込む。
耳のすぐ真横で、花井の口内で飴が転がる音がする。
「んー……イチゴかな……あま」
花井がちょっと笑いながら言って、俺の手から缶を取った。
「渋沢のぶんおれが出すから、目、瞑ってて」
缶を軽く揺らしながら、中身を転がして探る音がする。
言われた通りに目を閉じて視界を閉ざしてしまうと、背中に花井の身体が当たってる感触と体温とか、あまりにも近くで聞こえる微かな息遣いと飴の転がる音とか、そういう見えなくても感じ取れるあれこれが、ますます強く意識されて、どうにも落ち着かない。
合図がないままに、唇にドロップを軽く押し当てられて、ちょっと身体が震えた。
少し緊張しながら薄く口を開くと、その隙間からそれが押し込まれて、舌に乗った。
「あー……俺のも……」
同じイチゴ味だった。
目を開けたら自然と少し緊張が解けて、それが背中から伝わったのか、花井が声は出さずに笑っているのが、なんとなく気配で分かった。
それから、花井は急に思い出したように、「そーいえば、」と切り出した。
「渋沢さ、夏休みどーすんの? 予定どんな感じ?」
首と身体を捻って花井を振り返ると、妙に真剣にこちらの反応を待っている様子だった。
夏休みまで、あと僅か。というかもう、休み前の学校は明日で終わりだ。
と言っても俺の生活自体は、今とほとんど変わらねえけども……。
「俺は学校の夏期講習、全日程で申し込んでるから、わりと毎日のよーに登校。おまえは?」
当たり前のことを今更伝えるような気分で言って、ついでに何の気構えもなく訊き返した。
「んー、おれ夏休みだけ塾の講習いく。そっちの方が、学校来るより移動に時間かかんないから。もう秋まで学校来ない」
そして返ってきた答えに、頭が真っ白になる。
え? あれ? そーなんだ?
一拍おいて我にかえり、あぁまあそういうこともあるよな、と、取ってつけたように自分に言い聞かせた。
季節講習だけ塾使うとか、実際、別に珍しい選択じゃない。
ただちょっと、花井はこれまで当たり前のよーに学校で自習してたから、俺と同じ感じなのかなと、勝手に思いこんでしまっていただけのことで。
驚くようなことじゃ、全然ない。
ない、けど。
「じゃあ明日が最後で、その次ここで会うのって夏休み明けか……」
どうにか動揺を隠して言ったつもりが、自分が口にした内容に自分で打ちのめされる。
だってそれ、四十日以上先ってことじゃねーかよ……。
「うわ、つら……。おれ、さみしいの我慢できるかなあ」
俺の肩に顔を埋めて、花井が言った。
――それ、おまえが言うか?
俺は通常営業なんだよ、勝手に来ないのおまえじゃん。
……って、いやでも、これ別に花井が悪いわけでもないか……。
「申し込み、渋沢とこんなんなる前だったもんなー。今だったら絶対こんな選択しないで毎日学校来るほう選ぶのに。今からでもキャンセルしよっかなぁ……」
まぁでも、そんなふうに言う花井が拗ねた感じで、なんか妙に可愛かったから、ちょっと気が晴れた。
……と同時に、今の最後の言葉で、正気に戻れた。
それは困る。そんなんされるぐらいだったら、長いこと会えないんだとしても、まだ全然そっちのがマシ。
「俺のことを、そういう重要な選択の材料にしようとすんな。責任取れるわけじゃねえし、そんなことであとあと後悔してほしくもねえよ。ちゃんとしろ」
俺の言葉に、花井が顔を上げた。
「あー……うん。今のは失言でした、ごめん。キャンセルはしません、がんばるから」
なんか急に殊勝な態度と口調。
それから腕が前に回されて、ぎゅうっと抱きしめられた。
「渋沢らしーわ……かっこいい、やっぱすき」
耳もとで花井が囁くように言った。すき、って言葉にどきっとする。じわじわくる。
でも、俺だってそんなふうに言ってもらえるほど、揺らいでないわけじゃ、ねえからな。
「全然、そんな立派なもんじゃねえわ」
なんだろーな、この感じ。寂しいってのもないわけじゃねえけど、どっちかっていうと……四十日も会わねえとか言われても、正直ちょっと実感が湧かないっつーか、イメージができないっつーか。
ただただ気が遠くなるよーな感覚……?
この感じが会えない間もずっと続くのを想像したら、さすがに気分が重くなって、やたら深いため息が口から漏れてしまった。
それをどんなふうに捉えたのか分かんねえけど、花井はちょっと笑った。
「たしか学校の講習って、八月真ん中らへんは授業ないんだったっけ」
「あぁ、三週目、まるっと休み」
「おれもその時期、夏期講習休み。せめてそこだけでも一緒にいよ」
声の響きに、急に甘さが増した。
ふっと首筋に唇が触れてくる。
肌をかすめる唇と吐息の感触に、微かに身体が跳ねて、くすぐってえから、と花井の顔を押し退けた。
正直言えば、くすぐったいというよりはむしろ……体の中に小さな火種がともったような感じがして、まずい。
「いーけどさ、学校その時期、完全閉校期間で入れねえよ」
「じゃあさ……うち来る?」
息が止まりそうになった。肩に力が入るのが自分でも分かる。
背中から抱きつかれてる状態だから、こんな反応も、もう筒抜けなわけで。
ほんと、なに想像してんだって話だよ……。
いや、でも、花井の家とか……だってそれ絶対、この教室で過ごすのと同じなわけねえよな。
そもそも教室にいてさえ、ここでこんなことしてていーのかって思うぐらいなのに。
おまえの言うとおりにしたら、俺いったいどーなんの。
「そんな身構える必要ないから……おれは渋沢が本気で嫌がるようなことはしないよ」
俺が固まってしまったのを分かっていて、花井は笑い混じりの、でもふざけた感じはしない声で、穏やかに言った。
「ただ、おれ今よりあともう少しだけ、渋沢と近づきたい」
よりいっそう強く抱きしめられて、どくん、と心臓が跳ねた。
でもなんか……ものすごく曖昧な言葉で言いくるめられてる気がする……。
あともう少しって何だよ。それってどれぐらい? まったく具体的じゃねえし。
そんなのもういくらでも、何やったって嘘はついてないってことにできるだろ。
ずるいやつだな、おまえは。
「夏休みずっと会えないのはさすがに厳しすぎるけど、途中で渋沢がおれに会いに来てくれるって思ったら、それまではおれ、なんとか頑張れるかも」
ああくそ、ほんと、おまえ……。
こんなん言われて断れるかよ。
まぁ別に、断るつもりも、ないけどさ……。
またため息が出て、そしてまた笑われた。
それから、花井はさっきドロップを出したあとで床に置いてた缶を拾い上げ、俺の手を取って、握らせた。
「渋沢……口の中のやつ、溶けてなくなった」
「もう一個ってこと?」
「うん」
花井の口に二個めのドロップを放り込んでやったのとほぼ同時に、自分の口にも二個めが入れられたとき、俺は咄嗟に顔を顰めてしまった。
「あー……これハッカじゃん……」
思わず呟いたら、花井が肩越しに顔を覗き込んできた。
「もしかして苦手?」
「んー、あんまり……」
「じゃあそれ、おれのと替えよっか……」
ぐいと顔を引き寄せられて、軽くキスされた。ほんの一瞬だけ。
触れた感触の柔らかさが名残惜しくて、思わず自分から花井の方へと身体ごと向き直ってしまうと、花井の目がふっと細められた。
その眼差しに絡め取られたように、身動きが取れなくなる。
「口移しで交換。する?」
あぁ……俺、さっきまでの体勢を、まじで恥ずかしい、とか言ってたけど。
こーやって向かい合う姿勢になったら、超至近距離に花井の顔がある分だけ、こっちの方が断然くるじゃん……。
しかも言われてる内容が、ちょっともう……。
ほんとにいいのか、俺は。こいつとそんなこと、しても。ほんとにいいと、思ってる……?
そりゃ、花井のことを好きには違いないけど。でも、いま花井が誘ってるのって……それ絶対、ただの飴の交換なんかじゃないだろ? そんなことを――
花井の視線がやけに熱い。
口の中で主張するハッカのひんやりとした感覚が、どこか熱を纏った花井の表情に、一瞬かき消される。見つめ合う僅かな間にも、花井の熱が眼差しを経て、俺の中に流れ込んでくる。
いいのか、とまた頭のなかで声がする。だけどもう、自分の中がどんどん熱くなっていくの、止められない。
いい……かな。
いいか……。
「……ん」
その熱を孕んだ息が、思わず漏れて。
吐息なんだか、返事なんだか……とにかくそれを引き金にして、花井は俺の唇を口で塞いだ。
唇の隙間から、ぬる、と舌を差し込まれて、その慣れない感触に身体が強張ったところへ、続けて花井の口にあったドロップが入ってきた。
――あ、パイン味……。
そう気づいて、一瞬、緊張が緩んだ。好きな味だったから。
そしたら同時に、ふっと花井がかすかに笑ったような気がした。キスしながらじゃ、はっきりとは分かんねえけど、なんとなく。
口の中のふたつの飴が、お互いの舌の上を行き来しながら、少しずつ味が混じりあっていく。
ドロップが舌の上で転がり、舌同士が触れ合って、甘くとろけて熱いのに、ハッカのせいでずっとスースーしてる。奇妙な感覚で、だけどたまらなく気持ちよかった。
花井の味と俺の味が一つになって、甘く溶けていく。
その甘さがゆっくりと口の中に広がるたび、俺と花井も、この飴みたいに混ざり合っていくような気がした。
転がされた飴が上顎を掠ったとき、急に身体がぶるっと震えた。
……なんだ今の。やば。
その俺の反応に触発されたかのように、花井は俺の後頭部に手を回して支え、少し顔の位置をずらした。いちばん深くくちづけられる角度を、探すみたいにして。
口内のドロップが、混ぜ合わされ、転がされ――それからときどきおそらくは意図的に、上顎に触れさせられる。そのたび、震えが走った。
それから、上の歯の裏側の歯茎を、舌先で探るようになぞられた。
思わず花井の背中に腕を回して、しがみついた。
最初は戸惑って、躊躇っていたはずなのに。一度触れてしまえば止まらなくなって……いつの間にか、自分からも花井に近づいてしまっている。
吐息に混じって、鼻にかかった声が漏れる。
とけて、とろけて、境界線がなくなってく。
喉の奥に、パイナップルとハッカの味の混ざった、俺のだか花井のだか分からない唾液が溜まってきて、どーにもしようがなくなって、震えながら飲み込んだ。
熱いのにひんやりした奇妙な甘さが、身体の奥の奥まで、沁みていった。
ようやく解放されたとき、俺の口の中に残されたパイン味のドロップは、溶けてもう随分と小さくなっていた。
それを口の中で転がしながら、俺はぼんやりと、これからのことを考える。
夏休みが始まったら当分の間、花井とは会えない。そのあと会うときは、もしかしたら花井の家?
会えない間、そして次に会う時――この先、俺たちどうなっていくんだろ。
小さくなっていたドロップは、すぐに溶けてなくなってしまった。
唇に、舌に、口の中に。甘い味と、花井の残した感覚だけがまだ少し熱を伴って、残っている。
「なぁ……交換してくれんじゃ、なかったっけ」
「ん……ドロップ? 交換、したじゃん」
ちょっとぐったりしながら責めるような口調で言ってやったら、花井は首を傾げた。
「いやだから、それまでが長すぎんだろって話。だいぶ溶けてたし、もうなくなったし……」
「あー……せっかくだからしばらく味まぜてみよーかと。そしたら渋沢だって、ハッカ味も案外いけるんじゃないかなって」
反省の色はない。というかむしろ、花井は上機嫌だった。
「おれ、いい判断したなー。渋沢のよわそーなとこ、また新たに発見できたし……」
ふっと笑って悪びれずにそんなことを言う。
機嫌いい理由、それかよ……。
呆れ半分、照れ半分で、ちょっと顔を背けたら、花井はそれを追いかけるようにして、俺の顔を覗き込んで来た。
そして、ちょっと意地の悪い微笑を浮かべながら、訊ねてきた。
「……どーだった?」
は?
……おまえ、ほんとに今、それ訊く?
そんな、どーだったと言われても……。
突然の問いに思わず動揺が顔に出たんだろう。そんな俺の反応を見て、花井は軽く口もとを抑えて――やっぱり笑いをこらえてる。
「渋沢、味の話だよ。ハッカとパイナップル混ざったやつ、どーだった、って」
そう言いながら、結局堪えきれなかったらしく、花井は小さく吹き出した。
そーゆーやつだよな、おまえって。
絶対、意図的に俺のことミスリードしようとしてたろ……。
「よわそーなところと言えばさ……渋沢、思った以上にあちこち敏感そーだけど……、」
ふいに、花井の声が艶めいたものに変わった。
「ここも……さっきちょっと反応してた」
唇が、首筋に触れた。
思わず身体が固まった。
「や……それ、それはまずい……」
「いや?」
尋ねておきながらも俺の答えは待たずに、花井は唇で触れていた場所を、今度はそのまま上下の唇でそっと挟むようにして刺激してくる。
「いやっていうか……ここでそれ、ほんとにちょっと、困る……」
唇が離れる気配がなくて、微かな吐息が漏れた。
さっきのキスで煽られて、過敏な状態になってるのに。
今こんなの続けられたら、身体の中の火種が熾されて、たぶん引っ込みつかないとこまで反応しちまうかも。こんな場所でそれ、ほんとやばいから。
「あぁ……そっか、うん……続きは、ここじゃないとき、な」
そんなことを言いながらも、花井は俺の首もとに顔を埋めたままだ。
言葉と行動が伴ってない。
こいつほんとネジ飛んだみたいに、歯止め効かなくなってるじゃん……。
「じゃあさ、渋沢」
笑いを含む吐息が、さらに首筋をくすぐってくる。
「夏期講習休みに入ったら、うち来てくれるよな……?」
今度は舌先が、触れた。
いや、だから、それだめだって……、
「あぁ、も……分かったから……!」
答えたら、花井はやっと顔を上げた。ちょっと、口角も上がった。
くそ。むりやり言質、取られた。腹立つ。
つーか、やばかった……。
鼓動がだいぶ速くなってる。
どうにか気持ちを落ち着けようと、ゆっくり息を吐き出したら、結局そのまま、ため息に変わった。
「意地悪してごめん。すきだよ……約束してくれてありがと」
花井が揶揄うように笑いながら口を開き、そしてその言葉の途中でものすごく……愛しくてたまんないって言ってるみたいな表情になった。
なんだ、その顔……反則だろ。その顔ですきだなんて言われたら、どうしたって花井を拒めない自分を、どうしようもなく自覚させられてしまう。
花井がまたキスしてきた。今度は唇に、軽く触れるだけのやつ。
でも口ん中は、まだなんとなくハッカの味があとを引いて、すーっとしてる。それから、ほのかにパイナップルの風味も残っていて。
あの味も何もかも混ざり合う感じを思い出したら、やっぱりちょっとぞくぞくした。
……そんで、ふと、花井に一矢報いてやろうかと思い立った。
「なあ花井、」
呼びかけながら、自分から少し、花井に近づいて。今度は俺の方から、軽く唇を合わせた。
そして、ふわりとしたキスの後で、囁く。
「さっきのドロップ交換したときの……あれほんとは、すげえよかった」
俺の言葉で、花井の目が驚きに見開かれた。
たぶん、俺がそんなことを言うなんて、思ってなかったんだろう。
その反応を俺は軽く笑って、ひとこと言い足してやった。
「花井……味の話だよ」
花井が一瞬、やられた、って顔をした。
それが徐々にほころんでいって、柔らかい笑顔に変わっていくのを眺めていたら、なんとなく満たされたような気持ちになった。