雨が降り続いてる。
 土曜、日曜ときて、今日も。三日目だ。
 演習問題を解きつつも、頭の片隅でずっと雨音を意識し続けている自分がいる。窓越しに子どもの歓声が聞こえてきて、俺は手を止めた。

 なんでこんな、ちょっとしたことにまで気を取られちまうんだろ。
 どうにかこうにか何かしら勉強、取り組んではみてるけど。
 これが自分だとは信じたくねえな。進まねえ……。

 机の前の窓から見下ろした家の前の道を、下校途中の傘をさした小学生の集団が、騒ぎながら通り過ぎていく。
 ああもうそんな時間か、と思って、机の上の置き時計を確かめる。
 俺も本来ならもう放課後だ……と思い、そして唐突にまた、このあいだ放課後にやらかしてしまったあの場面を生々しく思い出してしまって、思いっきり机に頭を打ち付けて記憶喪失にでもなってしまいたい気分になった。
 まあそこまで強くではないにしても、実際に机に顔を伏せて、わざとゴンと音が立つように額を机にぶつけた。
 痛え。でも記憶、消えねえ。
 これ、今日だけでも何回目だろ。このフラッシュバック。
 ああぁ……ちくしょう、なんで俺、あんなことして、あんなこと口走っちまったんだ……。
 もう取り消せねえよなあ……。
 あれほど衝動的だったり、その後でひどく混乱したり、ぐちゃぐちゃな状態だったくせに、唇に触れた感触だけは、まざまざと思い出せてしまう。それなのになかったことになんて、できるわけない。

 先週の金曜日。すき、と言ってしまって、はじめてキスした。
 その相手が花井だとか――少し前までの俺だったら、冗談だとしてもあり得ないと思っただろうけど。
 でも実際、あいつとじゃなければ、俺はあんなことをしなかっただろう。

 花井の誕生日がたまたま金曜日だったのは、果たして俺にとって幸いだったのか、はたまた不幸だったのか。
 週末を挟むことで、翌日もそのまた翌日も花井と顔を合わせずに済んで、ありがたいと思ったのは、事実だったけど。
 それでも、下手に間が空いてしまうと、ますます怖くなって身動きがとれなくなってしまったりするもののようで。
 結局、週明け月曜の今日、どーしても気持ちが向かなくて、あまり体調が良くないと適当なことを言って、学校を休んだ。
 まー要するに逃避だ。逃げ帰ってきて、そのまま今日も逃げてる。だせぇ……。

 あんとき花井、俺の言葉に「……うん」って。そう言ってたよな。
 なんだよ、「……うん」って。どういう意味だよ……。
 知ってる、ってことか? 俺の気持ち、口に出す前から気づいてた?
 それとももしかして――おれもすき、ってこと?
 ……ねえか。ねえよな。そんな都合のいいこと。
 どうせあいつ俺で遊んでるだけなんだし。
 それなのに変に優しくしてきたり、雰囲気なんてものを理由にキスしてきたりするから、こんなふうにわけ分かんなくなんだよ、くそ。
 全然分かんねえ……。
 分かんねえなら、尋ねりゃいい。本人に訊いて、確かめりゃいいんだろーけど。
 無理だ……それができるなら、こんなふうにみっともなく逃げてねえ。

 花井は今日も、教室に残ってるんだろうか。
 ひとりでも、なんか食ってんのかな。前みたいに、エネルギー切れでぐでっとしてんじゃねーだろな。
 今なに考えてんだろ。ちょっとは俺のこと考えたり、してんのかな。
 いやしかし、俺よくこんだけ花井のことばっか考えてられんな。呆れるの通り越して、いっそ感心するわ。
 ほんとにさ……こんなに、俺は花井のことばっか考えてんのに。
 なんであいつとのトーク画面、空っぽのままなんだよ……。

 机の隅に置いてるスマホに、ちらっと目を向けた。
 あんなことがあって、もう丸三日。なんの音沙汰もない。
 そりゃ、なんも送ってないのは、俺も同じだけど。
 でも俺の方は、そりゃ事故みたいなもんだったかも知んないけど、あんなこと声に出して言っちまったわけだし。
 だったらさ……あのあと花井から連絡してきたっていいじゃん。
 なんで逃げたんだよとか、あれはひどくないかとか、あの言葉はどーゆーつもりだとか。
 なんだっていい。なんでも構わないから。
 ……メッセージぐらい寄越したって、いーじゃねえかよ。
 なんか送ってこいよ。
 送ってこい。
 今すぐ。

 ポコ、とメッセージの着信音がした。
 スマホの画面に視線やったら、目に飛び込んで来たアイコンは、あの不細工な猫だった。

 え……。
 嘘……。
 きた……。

 手にとって改めて通知を確かめた。
 すげえタイミング……神通力かよ。

 ――ていうか。

『かお』

 かお?
 ……顔?
 え、なんだこれ?

 またポコ、と音がする。

『ごめん今のなし』

 締まらねえなぁ、おまえ。
 一発目それかよ……。

 ポコ。ポコ。着信音が続く。

『なあ』

『なんで今日いないの』

「おせぇんだよバカ……」

 思わず声に出して呟いた。
 ああなんかもう泣きそう。

 少し時間をあけて、またポコ、と鳴った。

『もしかして本当に体調悪い?』

 この『本当に』って言葉はつまり、おまえが逃げてサボってんのは想像ついてる、って言ってんのと一緒だよな。
 そりゃそうか。そうだよなあ。
 かっこわる、俺……。

『なあこれ読んでる?』

『気づいてない?』

『気づいてるなら、せめて既読だけはつけてほしいんだけど』

 ずっと通知だけで文面確認してたら、とうとうそんなメッセージが来た。
 逃げんなよって言われたみたいな気がした。

 ゆっくり息を吐いて、覚悟決めて、トーク画面を開いた。
 もう空っぽじゃなかった。花井が送ってきた言葉が画面いっぱいに並んでる。
 やっと動き出したと思ったら、ひたすら花井だけが連投してるとか。極端すぎる。
 猫のアイコンだらけだ。この顔を見るたび、なんかムカつくと思ってたけど。今はほんのちょっとだけ可愛く見える。
 すぐに、ポコ、と音がして、同時に新しいメッセージが表示された。

『とりあえず生存確認できて安心した』

 じわ、と胸が熱くなる。
 今この瞬間、花井が向こう側にいるんだな。
 ……やっとほんとに繋がれた。

『やっぱ返事してよ』

 ……おい。
 さっき『せめて既読だけは』って書いてたの誰だよ。変わり身、早えな。

『スタンプだけでも、なんか一文字だけでもいいから』

 立て続けに着信音とともに言葉が届いて――それから、そこで少し間を置いて。
 そしてまた、ポコ、と鳴った。

『さみしい』

 きゅうぅ、と心臓が痛くなった。
 ……なんだよ。ずるいんだよおまえ。急にこんなの。
 どんなスタンプも言葉も、こんな気持ちにしっくりこねえよ。
 何送ったって伝わらねえ気がする。

 迷って、迷って、結局、一文字。

『、』

 やっとそれだけ送って。

『なんで読点』

 花井が笑う顔が見えた気がした。

『明日、来られそう?』

『顔見てちゃんと話したい』

 ああ……最初の『かお』って、これか。
 書きかけて、消して……もしかしたらそういうの繰り返して。そんで、文字消してるときに間違って送信しちまったのか?
 なあ……何か送ろうとして、迷って、ためらって、そうやってずっと俺のこと考えてくれてた?
 こんなふうに考えるのは、都合良すぎるかな。
 なあ花井。
 今。おまえのこと好きなんだって、送ってもいいか。
 だめかな。困らせるよな。
 きっと困らせるだろうから、気持ちだけ込めて、違う言葉で返事するけど。

『わかった。明日は行く』
 おまえのことが好きなんだ。