教室の後方の引き戸を開けたら、室内にいた生徒はひとりだけだった。

 いちばん窓際の、後ろから二番目の席。
 花井蒼亮(はないそうすけ)は机に伏せていた顔を、ゆっくりと持ち上げた。扉を開く音に反応したんだろう、顔をこちらに向けながら、気だるげに目を開く。
 目が合った。
 俺は思わず息を呑んで、教室に踏み込む直前で足を止めた。

 ――あ。
 いけね……俺いま一瞬、完全に見惚れてたわ。

 この距離でもわかるぐらいのくっきりした二重に長いまつ毛が印象的な目。鼻筋の通った端整な顔立ち。やや薄めの形の良い唇。ひとつひとつが美しいパーツは、配置バランスも怖いぐらいに完璧。
 その顔立ちにおいては欠点の見つけられない美形。それが花井蒼亮という男だ。

「ん……渋沢(しぶさわ)……?」

 とろんとした声で、花井が俺のことを呼んで、ちょっと首を傾げた。
 寝起きだからなのか、少し掠れ気味の甘い声だ。普段よりちょっと低い。
 そんな声で俺の名前を呼ぶのはやめてほしい。なんだかとても、心臓に良くない気がする。

「……よう」

 無駄に心拍数が上がったことは悟られないように、短く返して、教室の中へ。

 梅雨の晴れ間で、青空が広がった今日。
 窓際に座る花井の色素が薄めの髪は、まるで光に溶け込んでいるように見えた。
 寝ぼけたような様子でさえ、どこか神々しく見える。

 そういえば俺、今までこいつに名前を呼ばれたことあったか? もしかして今のが初めてか。
 同じクラスになったのは、最終学年の今年が初めてだ。クラスメイトではあるけど、特に親しくはない。
 『し』から始まる渋沢隼人(しぶさわはやと)、『は』の花井蒼亮、俺とこいつは出席番号もそこそこ離れていて、今のところ席が近くなったこともないし。
 過去にクラスの枠を超えた編成の授業やグループワークで一緒になったことは何度かあって、去年は選択科目がだいぶ被ってた。それでも、個人的な関わりは皆無。
 部活も違った。受験学年の高三に上がる前に引退したけど、去年までの俺は弓道部にいて、花井はテニス部だった。
 とは言え、お互いちゃんと顔と名前は把握してる。そりゃそうだ、中学高校と途中での出入りのほぼない完全一貫校の、同じ学年に籍を置いて、もう丸五年以上になる。
 もっとも俺が花井のこと認識して名前を覚えたのは入学式の当日だから、それについては在籍年数がどうとか、そんなこととは無関係だけど。
 当然だ、こんな一度見たら忘れられないレベルの美形。初日に覚えられない方がどうかしてる。

「花井しかいないんだ? 教室ってこの時間帯、こんなもん?」

 俺もいつ以来なのか、もしかしたら初めてなのか、分からないままに花井の名を口にする。
 たぶん、さっき花井が俺の名前を呼ばなかったら、俺は親しくもないこの男とは特に言葉を交わすこともなく、邪魔しないように無言で用を済ましてこの教室を出て行っただろう。十秒もかからないような用件なんだから。
 何しろ、俺は机の中に忘れたヘッドホンを取りに来ただけだ。自習中にリスニング問題を解こうと思って鞄を開けたら、入ってなかった。
 でもまあ、目も合ってしまったし、名前呼ばれたし、仕方ない。成り行き上、とりあえず挨拶に毛の生えた程度の会話を振ってみた。
 俺は花井みたいな華やかさとは無縁の、地味を自認する人間ではあるけれども、それでもまあ一応それぐらいの社交性は持ち合わせてる。

「んー。ほぼいつもおれひとり」
「へえ。自習室の席なんて争奪戦なのに。これなら教室使うのも悪くないな」

 いつも、ってことは、ここが花井の放課後の定位置か。
 こんな男が毎日放課後に教室で自習なんぞしていようものなら、環境が環境ならもう絶対、その教室内は女子で満員御礼だろう。
 いや待てそれだと数が合わない、クラスが花井以外は全員女子になってしまう。てことは少なくとも半分は花井目当てで紛れ込んだ他クラスの女子。花井蒼亮、恐るべし。
 だが悲しいかな現実問題、ここは男子校だ。神のわざが結集したかのような造形美だろうが、そういう意味ではほぼ放置。俺のアホな妄想のような事態は、起きようがない。幸か不幸か花井の静かな学習環境は守られている。

 自習に使える席は校内いたるところにあって、高三にもなると大抵みんな、自分のだいたいの定位置が決まってくる。俺も含めて例年それなりにいるらしい塾無し勢にとっては、下手したら自宅の机を凌ぐメインの学習場所だ。そうでなくても、塾が休みの日や通塾までの時間調整に使うケースは多い。
 人気が高いのはパネルで仕切られたブース状の机がある場所で、自習室と図書館内の自習エリア、他にも校舎内のあちこちに点在してる。図書館なら大机の方がいいって奴も案外いるけど。
 職員室前の廊下に置かれている机も、必要な時に教員に質問がしやすいとか、ここならさぼり癖が抑えられるとかいう理由で、いつも埋まってる。
 放課後は食堂も自習に利用可能で、売店と自販機コーナーに最も近いとあって、利便性から意外に人気があるらしい。
 ……と、まあ他の選択肢と比較したら確かに、なんでわざわざ教室? ほか行くだろう、大抵は。俺だって教室使おうなんて考えもしなかったし。
 でもまさか、花井の貸切状態なんて。
 もしこんだけガラガラだって知ったら、こっち移りたくなるやつ、結構いそうなもんだけどな。
 てか、何なら俺が移りたい。俺は一度集中すれば周りは全然気にならなくなるから、正直どこでも平気ではあるけど、そんでもその集中状態に持ってくこと自体、人が少ないほうが楽だし。

「渋沢っていつも自習室? 今日は?」
「今日も。忘れ物したから取りにきた」

 この教室での今の俺の席は、真ん中の列の、前から三番目だ。今月に入ってすぐにあった席替え以来の座席。もう六月も終わるし、タイミング的に、夏休みに入るまでこの場所のままだろう。
 机から取り出したヘッドホンを、左後ろ方向の花井を振りかえって、「これな」と示してみせる。
 花井はずっと上半身をぐでっと机の上に預けたまま。かろうじて顔だけこっちに向けている。
 ダレすぎだろ。まあでも、なぜかこんだけダレてても絵にはなる。さすが。

「てか、どした、その状態。俺が来る前なんか完全に寝てただろ」
「や……寝てたわけでは……ないと思う……」
「思うっておまえ。自分で確信持てないって、どういう状態?」
「たぶん、どっちかっていうと……エネルギー切れ? はらへって、からだ起こせない」

 別にふざけてる感じの口調じゃなかった。誇張はしてるにしても、わりと本気で言ってるのかも。
 だとしたら、どんな消耗の仕方だよ。
 エンスト起こす前に、ちゃんと適当なタイミングで給油しろ。

「なんか食うもん持ってきてねえの?」
「忘れた」
「売店行けよ。それか坂の下んとこのコンビニ」
「動けない」

 心なしか、返事も省エネモードに入ってるような。
 いや、俺は自習室に戻りたいんだが。このまま戻ったら、なにげに俺が見捨てたような感じにならないか。
 とりあえずなんか食わせとかないと、後味悪くなりそうだな。

 ……そういえば。
 今まですっかり存在を忘れてたけど、今朝、家出るときにポケットに入れたものがある。
 手に持っていたヘッドホンを首に引っ掛けて、制服のズボンのポケットの上を触る。右手のひらに当たったのは、角張った四角いものの感触。

「花井、俺こんなん持ってる」

 取り出したのは、未開封の黄色い小箱。キャラメルだ。

「なんと……恵んで渋沢さま」
「しょうがねえな」

 花井のひとつ前の席の椅子を借りて、ぐるっと回して座面を後ろに向けた。花井とは机を挟んで向かい合うようなかたちで座る。
 パッケージのフィルム包装を取り除くあいだ、花井は相変わらずぐでっと机に体を預けたまま、お預けくらって餌を目の前に出してもらうのを待ってる犬か猫みたいに、じっと俺の顔を見上げていた。
 まあ犬猫に喩えたりしたら神の鉄槌が下りそうなレベルの顔面ではあるけども。

 箱を開けて、紙に包まれたキャラメルを指先で摘み、花井の鼻先に突き出す。

「ほら、やる」

 花井が受け取るために手のひら上に向けたら、そこに落としてやろうと、身構えて。
 嬉々として食うだろうと、予想して。
 待つこと数秒。
 ……おーい。

「何だよ、いらねえの? 受け取れよ」
「動けない。手ぇのばせない。自分で紙むけない」
「は?」
「食べさせて」
「はあ?」
 
 あー、と花井が口を開けた。
 え、何この展開?
 なんですか、この生き物は。
 犬でも猫でもなく、これはむしろ……。

「ひな鳥かよ」

 呆れてそう言ったら、花井はいったん口を閉じて、ちょっと口角を上げた。

「そしておれの目の前には親鳥がいる」

 くそ、その綺麗すぎる顔で笑うな。思わず言うこと聞きたくなるじゃねーか。

「誰が親鳥だ、俺はおまえに対して給餌の責任は負ってねえ」

 はあ、と溜息をつきながら、キャラメルの包み紙を剥いだ。
 一体なにをさせられようとしているんだ俺は。

「親鳥どころか、こんなんもう菩薩レベルの慈愛だわ」
「菩薩……。言葉選びが渋い……」
「うるせえよ。慈悲深さに感謝しろ、手を合わせろ」

 今度は剥き出しのキャラメルを、花井の口元に近づける。

「ほら、もっかい口開けろよ」

 促すと、形の整った血色のいい唇が開かれ、ちらと赤い舌先がのぞく。その舌も、わずかに見え隠れする並びの良い歯も。口を閉じてしまえば見えない部分までもがやけに美しく、花井はやっぱり花井だった。
 半ば閉じられた瞼から伸びるまつ毛が、ときどきわずかに震える。
 あぁ、ほんと……まつ毛なげーな。
 この顔、至近距離だと破壊力半端ねえわ。
 今この瞬間、慈悲のキャラメルを与えるのは俺でも、後光がさしてるのはむしろ花井のほうだ。あまりにも美形すぎる。

「んー」

 花井が促すように鼻声を出したことで、はっと我に返った。
 ……このタイミングで見惚れてどーする。
 口の中にキャラメルの粒を放り込む時は、指先が唇に触れてしまうことがないようにと妙に緊張したし、それを受け取った口が閉じられた瞬間には、やけにほっとした。

 体勢はそのまま、まぶたを閉じて。しばらくのあいだ、花井はキャラメルを噛まずに口の中で転がしている様子だった。
 ときどき、右の頬が膨らんだり、左が膨らんだり。たまに、かすかに喉がなる。

「どうよ、生き返った?」

 尋ねたら、やっと目が開いた。
 そしてキャラメルを頬張ったまま、なにやら怪しげな呪文を、花井は口にした。
 うん?
 ああ、もしかして、アリガトウゴザイマスって?

「なんて? 礼はちゃんと言え」

 俺の言葉に、花井はようやくもぞもぞと上体を起こした。
 黙ったままキャラメルを咀嚼して、嚥下して。
 それから改めて口を開く。案外、素直だな。

「……聞き取れてんじゃん、礼だって分かってんなら。ありがとおかーさん」
「だから親鳥じゃねえって」

 俺の返しに、花井が破顔した。
 さっきから、何なんだろうな、この会話。今までまともに話したことなかった相手なのに、そんな感じが全然しねえんだけど。

「渋沢に食べさせてもらったら、なんかちょっとおれ、きゅんとしちゃったよ」
「あーそう、そりゃ良かったな」
「渋沢もした? おれに食べさせて、きゅんって」
「……いや、しねーわ」

 まあ。緊張はした、けどな。
 おまえの顔の威力がすごすぎて。
 言わねえけど。

「でもちょっと意外かも。渋沢がキャラメル持ち歩いてるとか……そういうイメージはなかったなぁ」
「たかがキャラメル持ってるぐらいで意外って、どんな印象持たれてたんだよ俺は」
「んー、凛々しい感じ? 背筋がぴんとしてて。弓道着姿、見かけたことあるから余計そう思うのかも。よく似合ってたし、かっこよかったもんな」

 え、なに、もしかして俺いま褒められてます?
 心にもないこと言ってからかってるような顔では……ないよな?

「でも案外かわいいとこあんのなー?」

 ふわりと目を細めて、声は少し低くひそめて。花井が囁くように言う。

 ――うわ。
 なんか、いま。全身に、ぶわっときた。なんだこれ、鳥肌?
 言われ慣れてないこと言われんのって、心臓に悪いな。落ち着け俺。平常心、平常心……。
 そもそもその言葉は、そっくりそのまま返したい。そっちこそ何だよさっきの甘えっぷり。

「でもこれ、家出るときじーちゃんに渡されただけだぞ。遅くまで学校残って勉強するなら持ってけって。どうもキャラメルは滋養食の一種だとでも思ってるふしがあるみたいで」
「……まあ、それは正しいんじゃないの。そこにも書いてあるし?」

 花井の指先が、机の上のキャラメルの箱を差した。
 確かに、レトロな文字で『滋養豊富』と書いてある。

「そーいやそうだな」
「な。あー、でも、そっか、自分で買ったんじゃないんだ……。自分でおやつ選んで買う渋沢、想像したら結構ツボだったのになぁ」

 ちぇ、と花井が唇を尖らせた。
 何を惜しがって拗ねているのか、さっぱり分からない。

「いや別に、普通に買うだろそんぐらい。しかもそこにツボにハマりそうな要素とか、なんもねえわ」

 俺が呆れて言葉を返したら、何でわかんないかな、とでも言うように小首を傾げて、花井は笑う。

「え、だってあんま似合わなくてかわいいじゃん」

 ……またそんなこと言うし。
 分からん。全然分からんわ。
 どういう思考回路してんだこの男。
 六年目にして初めて知った。結構な変人だわこいつ。

「あーでも確かに、効くなぁキャラメル。やっぱり渋沢のじーちゃんは正しい。甘さがカラダに染み渡る感じあるな。おかげでしばらくは動けそ」

 んー、と声を出しながら、花井が手指を組んだ両の手のひらを天井に向けて、大きく伸びをした。
 お。勉強再開か。よしよし。

「じゃあ、あと何個か置いてってやるよ」
「え、もう食べさせてくれないんだ?」
「おまえたった今その口で、しばらくは動けそうって言ったろ。自分で食え。俺はさすがにもう戻んねーと。自習室の席、荷物で場所取りしたままなんだよ」

 小箱を手に取ってもう一度開けて、机の上に三粒置いてやる。……それからおまけでもうひとつ。
 ふ、と花井の口元から吐息がもれた。「ありがと」と言って微笑んだ表情が、思いのほか柔らかく優しくて、どきっとした。
 わずかな動揺を振り払うように、気を取り直すように、席を立った。
 キャラメルの箱は、元通りポケットに。
 借りていた椅子は、花井の前の席の机の下に戻す。
 結局、俺がいるあいだ、誰も教室に来ることはなかった。

「やっぱいいな、ほんとここ花井ひとりの貸切じゃん。集中しやすそう」
「まあ腹さえ減ってなければねー」
「それは場所じゃなくておまえ自身の問題な」
「あーそうか。うん確かに」

 花井がシャーペンを手にした。その金属製らしき銀色の軸が、窓から差す日の光に、きらりと光った。
 もう視線は机の上だ。
 閉じてしまっていた問題集をめくって、元々開いていたページを探し始めている。
 この奇妙なやりとりも、もうこれでおしまい。
 まともに会話を交わしたのはほとんど初めてみたいなもんだったし、この先はまた、話す機会なんてろくにないのかも。
 これで、元どおり。
 そんな空気感を感じつつ、「じゃあな」と俺が言ったとき――花井はふいに手を止め、また問題集を閉じてしまった。
 右手の銀色のシャーペンも、再び机に戻される。

「いいなって言うならさ……、おまえもここ使えば。まあおれいるけど、この広さで二人ならまあ、悪くないんじゃないの」

 視線も俺の方に戻ってきた。
 ちょっと……びっくりした。
 花井がそんなことを言うなんて、思ってなくて。

「え、でも俺がいてもいいのか? おまえ人いないのが良くて、教室使ってんじゃねえの?」

 いいのか。
 ほんの偶然から、いま生まれかけた新しい関係性――これって何なんだろうな、ものすごく今更かもしれないけど、もしかしたら友人になれるのかも、的な……? それを、ここで終わりじゃなくて明日以降にも繋げようって。そういうこと、だよな。
 そうしたいと、花井は思っているんだろうか。

 答えを待つ俺に、花井は小さく首を傾げた。

「んー……じゃあ、いっこ条件つけてもいい?」

 長いまつ毛に飾られた綺麗なアーモンド型の目が、まっすぐに俺を見上げてくる。
 あぁよく見ると瞳も少し淡い色をしてるんだなって、今ごろ気づかされる。こんなにじっと見たり見られたりすることなんて今までなかったから、知らなかった。
 その目に魅入られてしまったみたいに、少し頭がぼうっとして――

「渋沢が毎回おれの腹を満たしてくれるなら、いいよ」

 だから、花井が妙にとぼけたことを言ったとき、一瞬何を言われているのかわからなかった。

「……は?」
「おれがまた動けなくなったりしないように、勉強の合間に一緒におやつタイム取ろ。おれとふたりで食べるためのおやつ、渋沢が選んで。支払い割り勘でいーからさ」

 ……なんかコイツまたおかしなこと言ってるな。
 だけど、ツッコミ入れたり、ノリよく言葉返したりってことが、今の俺にはうまくできなかった。
 花井の視線に絡め取られたみたいに、動けなくなってしまっていて。

「そんでさっきみたいに、おれには渋沢が食わせて?」

 戸惑いながらその場に立ちすくんでる俺に、花井はそれはそれは美しい笑顔を向けて、言った。

「おれのこと餌付けしてよ」