「大丈夫大丈夫。焦らないで。今のうちに面を」
「はいっ」
足元に置いてあった面を渡され、それを装着する。こっちはなんとかなりそうだ。
小手をはめて竹刀を持ったら準備完了。背中をポンと叩かれ振り返ると、相良さんがうなずいた。
「がんばって」
な、なんていい人なんだ……!
他校の選手の準備を手伝い、しかも励ましてくれて。
「ありがとうございます!」
ぺこりとお辞儀をすると、彼はにっこり笑って去っていく。
自分も個人戦があって忙しいのに。なんという心の余裕。
俺もあんな選手になりたい。
そうして挑んだ個人戦、なんと俺はリーグ戦二位で通過、決勝トーナメントもギリギリ通過して地区予選への切符を手に入れたのである。
しかし地区予選は厳しく、俺は一試合目で敗退。県大会には行けず。
相良さんとはどこのトーナメントでも当たらず、結局竹刀を交えることはなかった。
それでもどの試合場でも、俺は熱心に彼の試合を観察した。
彼の周りにはいつもたくさんの人がいて、少し話しただけの俺は、気後れして近づくことができなかった。
もっと強くなったら、話しかけに行こう。
そうして次の年の大会も、夢中で戦って気づけば終わっていて──三年生になった相良先輩は県大会三位という輝かしい成績で地方大会まで行ったと、ネットの画面だけで見た。
結局俺は三年になっても県大会二回戦負けという微妙な結果で終わり、そのあとにはすぐ受験が迫っていた。高校に進学したはずの相良さんの戦績を検索するどころではなくなっていた。
それでも、苦しい時にはいつも相良さんの微笑みが頭に浮かんだのだ。
大丈夫、焦らないでいい。
その言葉がどれだけ俺を落ち着かせ、励ましてくれたか。
あのとき、俺に声をかけてくれたあの人は、今も元気だろうか。
桜の花にはまだ微妙に早い。
高校の入学式で、俺はキョロキョロしていた。
中学までは学ランだったので、ブレザーやネクタイにまだ慣れない。
誰もがなにかを期待しているような、ソワソワした空気に飲まれる。
「はい、新入生はあっちだよ」
校門付近の受付で胸に花飾りをつけられる。
保護者は体育館、新入生は教室に入らねばならないので、校舎の入り口で母と別れた。
貼り出されたクラス分け表には、知らない名前ばかり。
俺がなぜこの高校を選んだかと言うと、相良さんがここに進学したという情報を手に入れたからだ。
中三のとき、親に半強制的に入れられた塾に相良さんと同じ中学の後輩がおり、その人に聞いた。
相良さんと剣道をしたい。
ただその一心で、俺はこの学校へ来た。
中学の時は学年も学校も違ったからなかなか話せなかったけど、同じ学校なら……。
相良さんとのニコニコ剣道ライフを想像すると顔がにやけた。
優しいあの人のことだ。今もほかの部員に慕われて次期キャプテンと呼ばれているに違いない。
しかし、彼は俺のことを覚えているだろうか。
俺は彼と出会ったあのころから、三十センチ近く背が伸びた。
声も低くなり、筋肉もついた。
小学生時代の友達のお母さんにバッタリ会うと必ず「誰かわからなかった! 大きくなったね~!」と驚かれるほどだ。成長期、恐るべし。
相良さんは中二の時点でだいぶ仕上がっていたと思うけど、やはり体格など変わっているだろうか。
でもあのきれいな顔と、全身からほとばしる神のような金色のオーラは健在のはず。
見たらすぐわかるはず。早く会いたい。部活よ、早く始まれ。
「は~だりいな。二年は休ませろっつうの」
「クラス確認したら帰ろうぜ」
クラス分けを見ながらほかのことを考えていた俺の背中に、誰かの肘がぶつかった。
反射的に振り返った俺は自分の目を疑う。
俺にぶつかったことなどなんでもないように振る舞う、おそらく上級生であろう五人の集団。
その中心に、彼がいた。
「相良……さん……?」
思わず名を呼ぶと、彼が振り返る。
間違いない。
彫刻のような美しい二重瞼、長いまつげ、高い鼻、滑らかな肌。
相良さんだ。
心臓が跳ね上がる。
同じ顔だ。間違いない。
しかし、彼には決定的に変わったところがあった。
つややかな黒髪は金色に染められ、耳にはピアスがついていた。
制服をだらしなく着崩し、俺を見る彼の目には、以前のような輝きがない。
他の四人も、顔の美しさをのぞけば彼と同じような系統である。
簡単に言うとヤンキーっぽい。ヤンキーって死語なんだっけ?
「知り合い?」
仲間が相良さんに聞く。
彼は眠そうな目で俺を一瞥し、首を横に振った。
「さあ」
やっぱり覚えてないようだ。
当然だと思いつつ、内心盛大に落胆していた。
俺にとっては人生を変えるくらいの特別なできごとでも、彼にとってはそうではなかったのだ。
「行こう」
相良さんは仲間と一緒に、二年の入り口のほうへ歩いていく。
俺はその背中を呆然として見送っていた。
あの人はあんなキャラだったか?
いや、剣道の試合のときにしか見ていないけど、彼はいつもだれかとにこやかに話をしていた。
強くて優しい彼は、まるでヒーローのようだったのに。それなのに……。
入学早々何重にも落胆した俺は、その場に崩れ落ちそうになった。
オリエンテーションの類が落ち着いた四月下旬。やっと部活見学の日がやってきた。
正直うちの学校はスポーツに特化しているわけではなく、剣道部も強いわけではない。っていうか、無名に近い。
県大会に行った生徒は剣道で推薦も受けられるのだけど、俺は普通受験を選んだ。
剣道はほかのスポーツのように、プロになる道がない。よって剣道で食っていくことはできない。
だから剣道はあくまで趣味で、進学や就職とは別、というのが俺と親の共通した考えだった。
剣道は好きだし、部活は真剣にやるつもりだ……ったけど、正直もうくじけそう。
見学用に設けられた時間に武道場に赴くと、中には三人の部員がいた。
彼らは素振りをしていたが、俺に気づいた顧問らしき教師に「やめ!」と声をかけられる。
「ああーっ」
「もしかして、見学者?」
「一年生だね。どうぞどうぞ!」
面を外した彼らは、笑顔で俺を迎え入れる。
武道場の半分は畳が敷いてあり、柔道部が活動しているようだったが、こちらも人数が少なかった。
そして当然のごとく、クーラーがない。
今までクーラーがついている武道場など見たことがない俺は、それに落胆しはしなかった。
むわりと暑く重い空気と共に、汗を吸った布の独特なにおいがまとわりつく。
ちなみに女子剣道部はこの学校にはないらしい。
「経験者?」
「はい。一応、県大会出場しました」
「おお! すげえっ」
自己紹介をすると、先輩たちは顔をほころばせる。
三年生がひとり、二年生がふたり。全員坊主。全員優しそう。
「これで団体戦四人で出場できるな!」
うれしそうに顧問が会話に入ってくる。
いや俺、まだ入部するって言ってないんですけど……。
まあいっか。両親もせっかくそろえた道具がもったいないからという理由で、高校でもやってほしそうだったし。
それはさておき。
「あの、四人ってことは」
「そう。きみが入ったら、剣道部は四人になります」
「ってことは、あの、相良さ……先輩は」
さっと先輩たちと顧問の顔が青くなった。
まるで俺が凶悪犯の名前を口に出したかのようなリアクションだ。
「相良くんは剣道をやめたらしいよ」
「え……」
「高校では一度も竹刀を握っていない。気づけば不良になっていた」
深刻な顔で、二年の前田先輩が呟く。ちなみにもう一人は今泉先輩という。
それはともかく、不良って。それも死語じゃなかったのか。
相良さんは高校デビューしただけで、剣道は続けているんじゃないかなんて……俺の淡い期待は見事に打ち砕かれる。
前田先輩も中学で剣道をやっていたらしく、相良さんのことは何度も試合で見かけたらしい。
あれだけ目立つスター選手が、どうしてヤンキー(死語)になってしまったのか。
もったいない。非常にもったいない。
「僕も事情はよく知らないんだけど」
そう言ったきり、先輩たちは黙ってしまった。