けれど、いざその文字を目の前にすると、足は自然に止まっていく。
音楽室に行くのも久々だ。
ずっとこの高校に在学している僕でさえ、授業で使用する以外行く機会がない。それなのに、転校生のルカはどうして音楽室にいるんだろう。
ピアノを弾いてるだって、考えずらい。
ギターを持っているというのも。
ルカは、もう歌えないから。
何だか、目の前に広がる扉がとても重厚に感じられる。少しだけ、この先に広がる景色を見ることが怖くなった。
ふとそう思った心を、僕は振り払った。
違う、そうじゃない。
僕はただ、ルカに笑ってもらいたい。
ルカが、世界から背けずに、ずっと笑顔を向けていられるように。
そして僕は音楽室の扉に手をかけた。
ギィ
と耳障りな音を立てて、僅かに動く扉。
「……えっ」
そして、僕は目の前に広がった光景に息を呑んだ。
音楽室には、確かにルカがいた。後ろの窓から降り注ぐ、淡い太陽の光に負けずに、輝いているルカが。
音楽室の真ん中の席に座っているルカが。
けれど、様子がおかしい。
今にも泣き出しそうな顔で、唇を震わせて、自分に憤るように、強く強く拳が握られている。
けれど、何より信じられないものがあった。
スラリと伸びた腕に、ギターが抱えられていたのだ。
僅かに開いた扉に気がつくこともなく、ルカはギターを持ち直して、再びルカの世界へと堕ちていく。
けれど、一度失ったものは、簡単には戻らないようだった。
「……きみ、が、」
「っ」
途切れ途切れの歌声。
ピックを持つ震えた手。
噛み合わないギターの音色と、歌声。
苦しそうに、その一言一言を吐いていた。ライブ配信の時のように、浅い息を繰り返して、喉に何かが刺さったように、咳き込むように苦しんでいる。
あんなに大きなルカが、とても小さく見えた。
「……ううっ。っ! はぁ」
今にも消えてしまいそうな声で、ため息を吐く。
僕は息を呑んで、その様子を眺めていることしか出来なかった。ルカの苦しむ声が、体中に重く響き渡る。
ルカは、本当に歌えていなかった。
ライブ配信の時は、声でしかルカの様子なんて分からない。けれど、今はその表情まで全て目の前にある。
それは、目を逸らしてしまいたくなるくらいに、苦しそうに歪んでいた。
あの時、路上で歌っていた時よりも、ずっと、苦しくて、辛そうだった。
そしてそれは、透き通るような液体となって、ルカの頬を濡らした。その涙を見た途端、僕はもう、傍観しているだけではいられなかった。
小さくなったルカを放っておくことなんて出来なかった。
「ルカっ!」
握り込んでいた取っ手を離して、僕はまっすぐにルカの元へと走った。
お弁当箱は手から離れ、床についた衝撃音が響き渡る。
僕の声にビクッと肩を震わせたルカは、僕の姿を視認すると、これでもかというくらいに目を見開いた。
そして、乱雑に頬に描かれた筋を拭う。
「はっ!? なんで、佐倉が!」
けれど、僕はその質問に答えられるほど、冷静ではなかった。
今もなお苦しんで、それでも歌おうと踠いているルカを、見過ごせるわけがない。
そして、気がついた時には、小さくなったルカを抱きしめていた。孤独に溺れることがないように、強く。
ルカが一気に近くなった。
ルカを怖がらせるかもしれない。
嫌われるかもしれない。
そう思ったけれど、どうしても放っておくことなんか出来なかった。
ふわふわの髪の毛が目の前で舞い、淡いルカの匂いが僕の鼻腔を撫でていく。
心臓がドクドクと拍動して落ち着かない。その匂いに、さらに手が痺れて、震え出す。けれど、抱きしめたルカはあまりにも小さかった。
「何すんだよ!」
乱暴に僕を振り払うルカ。
ルカを抱きしめる手が僅かに緩くなった。でも、僕の顔を見た瞬間、その手の動きは柔らかくなった。驚いたように目を見開き、ただ僕を眺めていた。
「佐倉、お前何で、泣いてんの」
「……え?」
そして、僕はその時、僕が泣いていることを知った。
確かに視界がぼやけて、歪んで、頬に伝っているような気がする。僕が目をこすると、指には確かに涙が付いていた。
「僕、泣いてたみたいだね」
涙を親指で拭き取りながら、僕は笑ってみせる。
でも、僕が泣かないわけがなかった。
男らしくないと言われてしまうくらい、涙脆いのも自覚している。そんな僕が、大好きなルカが苦しんでいるのを見て、何も思わないわけがない。
「……何で、? 何でここにいるんだよ。何で、泣いてるんだよ」
けれど、ルカも、ルカだった。
まだ涙が残る頬で、僕にその疑問を放った。
その理由なんて、一つしかないのに。これまでも、ずっと伝えてきたけれど、それではまだ、足りないようだった。
「それは、ルカが苦しんでたから。ルカが泣いてたから。僕も苦しかっんだと思う。やっぱり、ルカには笑って欲しいからさ」
僕は抱きしめていた腕を緩めて、ルカと向き合う。
目の前にいたルカは、驚いたように目を見開いていた。その瞳は鋭くなくて、何だか初めてルカをきちんと、真正面から見たような気がした。
僕がそう言うと、ルカは一筋また涙を流した。
一滴一滴と、小さく瞳が揺れる。
もしかして、傷つけてしまったのだろうか。
まさかルカが涙を流すなんて思ってもみなかった僕は、慌て出す。けれど、そんな僕とは裏腹に、ルカはポツリと言葉を紡いだ。
「……歌えなかった。やっぱり、歌えねぇんだよ。歌おうとすると、あの嫌な言葉を思い出して」
「うん」
目の前のルカはやけに素直だった。今まで被っていた皮が剥がれるように、音楽室に響いていく。
「俺は、歌うことしか出来ねぇ。それなのに、歌えなかった。そんな自分が嫌いで仕方ない」
「うん」
「俺は、なんの価値もない人間に成り下がったんだよ。佐倉、お前にも、申し訳ない」
「……え?」
ルカは最後の言葉を言い放つと、僕に頭を下げた。
肩も声も小刻みに震えていて、そう話すルカは、本当に本当に小さかった。
こんな姿、誰も想像出来ないだろう。
何かに怯えるように、そんな自分が許せないと嘆くルカの姿は、苦しかった。
やっぱり、ルカをこんな風に傷つけたやつが許せない。
けれど、過去は変えられない。
ルカが負った傷は消えないし、その涙も消えてはくれない。僕は外野に対する怒りも、ルカに対する思いも全て叫び出したかった。
そんなことないんだって。
ルカに救われたんだって。
けれど、それを叫んでも意味が無いような気がした。ルカだってそんな言葉は求めていないだろう。
だから、僕はただ笑った。
幼い子供のように怯えるルカの涙が止むように。
聞いて、ルカ。
ルカと出会ってから、僕はまた一つ、昨日の僕を超えられた。
「そんなことないよ」
僕は今出来る最大限の笑顔で、ルカの肩に触れる。
「僕だって泣いてたでしょ? ルカが辛そうなのが、僕には一番辛いんだ。だから、笑ってほしい。罪悪感を感じて、無理に歌おうとしないで。
僕は、ルカ話しているだけで、満たされるんだからさ。
だから、謝らないで。ルカはそのままでいて」
「……」
ルカは僕の瞳を見て、逸らさない。
「それに、ルカには笑っていて欲しい。だから、良ければ友達になってくれないかな? ルカを一人にしないし、笑わせてみせるからさ」
そして、僕はおどけるように笑った。
ルカに、これ以上何も苦しんでほしくない。
もし僕がファンだと知ったから、歌おうとしてくれたのなら、その呪いが解けるように。
気楽な関係性でいたい。
そして僕はお願いするように、ルカを見た。
そして、次の瞬間。
音楽室の冷たく、凍てつくような空気が、一瞬にして輝いた。
心臓がこれ以上ないスピードで拍動してく。ルカ以外のものなんて目に入らなくて、ただ目を奪われ続けた。
ルカが笑っていた。
ふわふわの髪を掻きながら、小さく笑みを浮かべている。
「告白、みたいだな?」
「っ」
意地悪な表情が目に入る。
そして。
「分かった。なってやる」
「……っ!」
そうルカが言ったのだ。
まるで雲の隙間からチラリと覗く、満月のような笑顔だった。
太陽ほど明るくはない。けれど、静かに、夜の街を照らすような。思わず綺麗だとつぶやいてしまうような、そんな笑顔。
ぎこちなく笑ったルカの笑顔に、僕の心が奪われたのは、言うまでもなかった。
生きてきた人生の中の、どのページよりも、世界が美しく見えた。
ようやく僕たちの物語の幕が上がった気がした。