ピピピピッ
スマホに設定していたアラームが、耳にこだまするほどの音量で鳴り響く。その振動によって、スマホが机の上を縦横無尽に動いて、寝起きの頭には少々辛い。
スマホに手を伸ばせば、冷たい空気が腕にまとわりついてくる。
こんな時は、もう少しだけでも布団にくるまっていたい。
けれど、そんな悠長なことを言っていられないのも現実。
「……さむっ」
その寒さに溶けていくような声で、僕は布団から足を伸ばす。
そして、今日もいつも通りの、何も変わらない一日が始まる。隣の部屋で寝ている優と翔を起こさないように、忍び足で部屋を出る。
まずは、昨晩セットしていた食洗機からお皿を取り出す。
それと同時に、優と翔の朝ごはんも共に作り出す。卵の溶く音が聞こえると、ようやく一日が始まったような気がした。
閑静な空気を切り裂くように、コンロの音が聞こえ、僕は出来上がったものをお弁当箱に詰めていく。
その作業が滞りなく進むと、僕は二人の小さな怪獣を起こしに行く。
「まだ、眠い、よ」
「ほら。早く食べて」
そうやって目を擦る妹たちを順えて、僕は食卓に朝ごはんを差し出す。
きっと普通の人よりも、少しだけ忙しい朝を僕は過ごしている。
冬が近づいているこの季節は、まだ月が眠らない世界で僕は目を覚ます。その明けきらない夜の中で点在する小さな灯りは綺麗だ。
けれど、まだ知らないままでいたかった本音が、心の片隅に小さく丸まっている。
そして、僕たちは一緒に家を出る。
小さな背中を見送って、反対方向へと足を伸ばす。
猫の手も借りたいくらいには大変だけど、これが僕の日常だ。
他人の存在を嫌というくらい感じる満員電車も、覇気のないサラリーマンのため息も、煩わしいくらいに響く怜奈の喋り声も、全部、いつも通り。
冬本番の手前の風が冷たくて、セーターに身を捩るのも、いつも通り。
僕は教室の扉を開けて、その光景に息を呑んだ。
けれど、その平凡で変わりのない日々に、波乱が訪れた。
こんな景色なんて知らない。
「……ルカだ」
窓の外の景色を見つめて、周りに集まるクラスメイトの声を煩わしそうに眉を顰めているルカ。
けれど、完全に無視は出来ずに、ポツリポツリと返答をするルカがいた。
昨日までは、勉強するためだけの四角い空間だったはずなのに。
それが、いつも通りだったのに。
今日は全てが違っていた。
柔らかな太陽の光を浴びて輝くルカを筆頭に、何だか全てが眩しい。教卓の傍に置かれている花だって綺麗で、黒板に描かれている落書きは可愛くて。
屈託のない笑顔を浮かべているクラスメイトの声が、より一層くっきりと鼓膜に飛び込んでくる。
いつも通りのはずなのに、この空間だけが、輝いて見えた。
「はよー。佐倉」
「うん。おはよう」
そして僕が席に着くと、隣の太田が参考書から目を離す。昨日も交わした言葉が、挨拶が何だかくすぐったい。
「なんかお前、機嫌よくね? なんかあった?」
「……ちょっとだけ」
自分でもよく分からない言葉が喉をついた。
そして僕は窓の外に視線を移し、反射するルカを横目で見た。
僕の後ろの席には、ルカが見えなくなるほどに、クラスメイトが囲んでいる。ルカの美貌は学校中でも広まっているらしく、その中にはクラスメイトではない顔ぶれも揃っていた。
僕だって話しかけたいのに。
ルカが本当に存在していることを確かめて、それから、挨拶をして、その声を聞いて、一日を始めたいのに。
昨日のことを思い出すと、手に汗が滲んでいく。
けれど、それ以上にただその存在を感じていたかった。
今日はイヤホンは着けずに、喧騒を感じていた。時折、その喧騒の間隙を縫うように聞こえるルカの声に耳を澄ましながら。
ルカの歌で世界を塞いでいた時も、満足な暮らしだった。
けれど、今日は世界が輝いて見える。四角く切り取られた空の中に泳ぐ雲を、ただ見上げるのも悪くない。
そうしているうちに、あれほど長かった時間はすぐに過ぎ去っていく。
そして、そんなページに区切りをつけるように、天から鐘の音が降り注ぐ。
「あ! 私、次移動教室だった!」
「じゃあね、成瀬くん!」
「……」
バタバタと忙しなく立てる足音は、次第に小さくなっていく。
途端にノイズが減っていき、浅く呼吸する音が聞こえてきた。
ようやく訪れた時間。
怪しまれないように、机の横のフックに手をかけて、教材を取り出していく。自然に体が横向きになった時、ようやくルカの姿を瞳に映した。
ルカは、綺麗な姿勢で空を見ていた。
ルカを見ていると、世界がスローモーションになったように、二人きりになったように、何も耳に入らなくなる。
「……ルカ」
蚊の鳴くような、小さな声。
緊張して、心臓が早く鼓動しているのが分かる。もう冬だと言うのに、季節外れの汗が滲み出す。上手に笑えているのかすら分からない。
けれど、この欲望を抑えることは出来なかった。
昨日のこともあって、僕はもう嫌われているかもしれない。
馴れ馴れしいかもしれない。
徐に視線を僕に映すルカ。
声の主が僕だと気がつくと、ルカは眉間に皺を寄せ、目を細めた。明らかに僕を疑うような、嫌っているような視線。
「なに?」
低く、くぐもった声。
けれど、ずっと僕に投げかけてくれる言葉を待っていた三年間。
その重みは、きっと誰にも、ルカでさえも超えられない。
「おはよう! 今日は、ちょっと寒いね」
両手に教科書を抱えて、僕はそう目尻に皺を寄せた。
綺麗なままのルカの瞳を見つめて、笑いかけた。こんな最高な一日の始まりは、今日が初めてだ。
やっぱり、この世界だけは失いたくない。
「……ああ」
ルカは戸惑うように視線を泳がせた後、そう静かに言い放った。
昨日のことがあって、どうして冷静でいられるんだ、とでも言いたそうな表情。ルカは意外と表情に感情が出るらしい。
けれど、僕はそんなものはお構いなしに話しかける。
ほんの少しだけでも、ルカに閉ざした心を開いてほしいから。ルカを好きな人間だっているんだって、知ってほしいから。
教科書を机上に並べながら、再び口を開く。
「今日の授業、嫌だね。副教科もないし、木曜日って、僕が一番嫌いな時間割なんだ」
「……あっそう」
「教室までも、寒いよな。カイロいる?」
「いらない」
「最近、天気良くて、よかった。このまま文化祭も晴れるといいね。去年は、曇ってたからさ」
「そう」
中身のない、くだらない話を繰り返す。
いつだってルカの返答は話し手を拒絶する。だけど、同じ景色を見て、同じ感情を持って、語り合えることが、かけがえのない時間だった。
僕はそう言い終えると、体を教卓の方へ捻ろうとする。
その時、ルカが小さく消えてしまいそうな声量で、僕に語りかけた。
「俺、」
「……え?」
まさかルカが口を開くなんて。
どんなにクラスメイトに話しかけられても、一言ずつしか返さなかったのに。
驚きと嬉しさが織り混じり、一言一句も逃さないように耳を立てた。
「佐倉も、知ってんだよな?」
ギロリと鋭い瞳が僕を睨みつける。
けれど、その瞳はただ鋭いだけじゃないような気がした。少しだけ、あの時の少年の雰囲気を帯びている。
何かを取り繕っているような、溢れ出さないように踏ん張っているような瞳。
「何を?」
「お前が本当に俺のファンだって言うなら、知ってんだよな? 全部、燃えたこと。俺がもう歌えなくなったこと」
「……」
冷静でいようと律していたのに、それは儚く散っていく。
自分の意思とは無関係に、顔は答えを出した。
だって、ルカの方から持ちかけられると思わないじゃないか。
自分から傷つくような話はしないだろうと思っていたのに。だってそれを取り繕うと頑張っているだけで。思い出すだけで、辛いはずなのに。
僕だって、思い出すだけで心臓がぎゅうっと痛んで、立っていられない過去がある。話そうとすると、きっと、涙が溢れて止まらない
けれど、目の前のルカは、淡々とその事実について述べた。
「うん」
どう返答しようか迷った挙句、僕はその一言を発した。
ルカがどう思うか、どう捉えるか、総合的に考えた結果の言葉だった。ルカはその言葉を聞くと、「じゃあ」とさらに眉を顰める。
「俺は、佐倉に歌うことなんて出来ないって分かってるよな? 俺は、歌えない。歌いたくない。だから、変に媚を売るな」
「え?」
僕を捉えて離さない、そんな鋭い言葉が降り注ぐ。
けれど僕はその言葉の意味を理解することが出来なかった。ただ情けなくぽかんと口を開けて、状況を整理しているだけ。
けれど、ルカは止まらない。
「さっきから無意味な話を持ちかけられて、迷惑なんだよ。歌えって言われてるみたいで、不快だ」
まるで、暗闇に怯える幼子のような瞳だと思った。
精一杯目を見開いて、遥に大きな敵と戦おうとしているような。
その時、全てに合点がいった。
僕はただ、ルカと話せるだけで嬉しかった。
けれどその会話は、ルカにとってはプレッシャーだったのかもしれない。歌えというメッセージを含んだ暴力のように。
「それは、ごめん。」
僕はルカに向かって頭を下げた。
大好きな人を怖がらせるなんて、もってのほか。
でも、歌って欲しいなんて思っていない。ルカに笑って欲しいだけなんだ。
「でも、違う。ただ話せるのが楽しくて、他愛もない話をした。事情は理解しているつもりだし、それに、歌ってほしいわけじゃない。ルカの心を無視して、そんなお願いはしない。ルカが苦しむことが、僕にとって一番嫌だから」
「は?」
僕の言葉によって大きな双眸が見開いていく。
「歌わせて、どっかに上げねぇのか?」
「当たり前だよ」
ルカは何を想像していたのだろうか。大好きな人が嫌がることをさせて、傷つけて、それを全世界にばら撒くなんて、正気の沙汰じゃない。
でも、そう思ってしまうくらいの出来事があったんだ。
僕がそう強く首を縦に振ると、ルカはようやく信じてくれたのか、次第に強張っていた肩が下がっていく。
鋭利の刃物のように尖っていた瞳も丸くなって、驚いたように小さく揺れる。
けれど、僕の心には僅かな量の靄が広がっていた。
僕は睫毛を少し下げながら、ルカに放つ。
不快、の二文字が僕の中をぐるぐると駆け巡った。
「でも、そう思わせてしまったのは、ごめんね。ルカはただ、居てくれるだけでいいから」
「……あ、ああ」
「うん」
そう、最後に言った。
ルカが今までどんな人生を送ってきて、どんな人と過ごしたか。
それはただのファンである僕には分からない。
僕がルカと出会ったあの日。幸せそうに涙を流すルカは、長い長い人生の中の切り取られた、たった一ページ、いや、一行に過ぎなかったのかもしれないから。
けれど、これからは決してそんな思いはさせたくない。
だから、僕は前を向いた。
スマホに設定していたアラームが、耳にこだまするほどの音量で鳴り響く。その振動によって、スマホが机の上を縦横無尽に動いて、寝起きの頭には少々辛い。
スマホに手を伸ばせば、冷たい空気が腕にまとわりついてくる。
こんな時は、もう少しだけでも布団にくるまっていたい。
けれど、そんな悠長なことを言っていられないのも現実。
「……さむっ」
その寒さに溶けていくような声で、僕は布団から足を伸ばす。
そして、今日もいつも通りの、何も変わらない一日が始まる。隣の部屋で寝ている優と翔を起こさないように、忍び足で部屋を出る。
まずは、昨晩セットしていた食洗機からお皿を取り出す。
それと同時に、優と翔の朝ごはんも共に作り出す。卵の溶く音が聞こえると、ようやく一日が始まったような気がした。
閑静な空気を切り裂くように、コンロの音が聞こえ、僕は出来上がったものをお弁当箱に詰めていく。
その作業が滞りなく進むと、僕は二人の小さな怪獣を起こしに行く。
「まだ、眠い、よ」
「ほら。早く食べて」
そうやって目を擦る妹たちを順えて、僕は食卓に朝ごはんを差し出す。
きっと普通の人よりも、少しだけ忙しい朝を僕は過ごしている。
冬が近づいているこの季節は、まだ月が眠らない世界で僕は目を覚ます。その明けきらない夜の中で点在する小さな灯りは綺麗だ。
けれど、まだ知らないままでいたかった本音が、心の片隅に小さく丸まっている。
そして、僕たちは一緒に家を出る。
小さな背中を見送って、反対方向へと足を伸ばす。
猫の手も借りたいくらいには大変だけど、これが僕の日常だ。
他人の存在を嫌というくらい感じる満員電車も、覇気のないサラリーマンのため息も、煩わしいくらいに響く怜奈の喋り声も、全部、いつも通り。
冬本番の手前の風が冷たくて、セーターに身を捩るのも、いつも通り。
僕は教室の扉を開けて、その光景に息を呑んだ。
けれど、その平凡で変わりのない日々に、波乱が訪れた。
こんな景色なんて知らない。
「……ルカだ」
窓の外の景色を見つめて、周りに集まるクラスメイトの声を煩わしそうに眉を顰めているルカ。
けれど、完全に無視は出来ずに、ポツリポツリと返答をするルカがいた。
昨日までは、勉強するためだけの四角い空間だったはずなのに。
それが、いつも通りだったのに。
今日は全てが違っていた。
柔らかな太陽の光を浴びて輝くルカを筆頭に、何だか全てが眩しい。教卓の傍に置かれている花だって綺麗で、黒板に描かれている落書きは可愛くて。
屈託のない笑顔を浮かべているクラスメイトの声が、より一層くっきりと鼓膜に飛び込んでくる。
いつも通りのはずなのに、この空間だけが、輝いて見えた。
「はよー。佐倉」
「うん。おはよう」
そして僕が席に着くと、隣の太田が参考書から目を離す。昨日も交わした言葉が、挨拶が何だかくすぐったい。
「なんかお前、機嫌よくね? なんかあった?」
「……ちょっとだけ」
自分でもよく分からない言葉が喉をついた。
そして僕は窓の外に視線を移し、反射するルカを横目で見た。
僕の後ろの席には、ルカが見えなくなるほどに、クラスメイトが囲んでいる。ルカの美貌は学校中でも広まっているらしく、その中にはクラスメイトではない顔ぶれも揃っていた。
僕だって話しかけたいのに。
ルカが本当に存在していることを確かめて、それから、挨拶をして、その声を聞いて、一日を始めたいのに。
昨日のことを思い出すと、手に汗が滲んでいく。
けれど、それ以上にただその存在を感じていたかった。
今日はイヤホンは着けずに、喧騒を感じていた。時折、その喧騒の間隙を縫うように聞こえるルカの声に耳を澄ましながら。
ルカの歌で世界を塞いでいた時も、満足な暮らしだった。
けれど、今日は世界が輝いて見える。四角く切り取られた空の中に泳ぐ雲を、ただ見上げるのも悪くない。
そうしているうちに、あれほど長かった時間はすぐに過ぎ去っていく。
そして、そんなページに区切りをつけるように、天から鐘の音が降り注ぐ。
「あ! 私、次移動教室だった!」
「じゃあね、成瀬くん!」
「……」
バタバタと忙しなく立てる足音は、次第に小さくなっていく。
途端にノイズが減っていき、浅く呼吸する音が聞こえてきた。
ようやく訪れた時間。
怪しまれないように、机の横のフックに手をかけて、教材を取り出していく。自然に体が横向きになった時、ようやくルカの姿を瞳に映した。
ルカは、綺麗な姿勢で空を見ていた。
ルカを見ていると、世界がスローモーションになったように、二人きりになったように、何も耳に入らなくなる。
「……ルカ」
蚊の鳴くような、小さな声。
緊張して、心臓が早く鼓動しているのが分かる。もう冬だと言うのに、季節外れの汗が滲み出す。上手に笑えているのかすら分からない。
けれど、この欲望を抑えることは出来なかった。
昨日のこともあって、僕はもう嫌われているかもしれない。
馴れ馴れしいかもしれない。
徐に視線を僕に映すルカ。
声の主が僕だと気がつくと、ルカは眉間に皺を寄せ、目を細めた。明らかに僕を疑うような、嫌っているような視線。
「なに?」
低く、くぐもった声。
けれど、ずっと僕に投げかけてくれる言葉を待っていた三年間。
その重みは、きっと誰にも、ルカでさえも超えられない。
「おはよう! 今日は、ちょっと寒いね」
両手に教科書を抱えて、僕はそう目尻に皺を寄せた。
綺麗なままのルカの瞳を見つめて、笑いかけた。こんな最高な一日の始まりは、今日が初めてだ。
やっぱり、この世界だけは失いたくない。
「……ああ」
ルカは戸惑うように視線を泳がせた後、そう静かに言い放った。
昨日のことがあって、どうして冷静でいられるんだ、とでも言いたそうな表情。ルカは意外と表情に感情が出るらしい。
けれど、僕はそんなものはお構いなしに話しかける。
ほんの少しだけでも、ルカに閉ざした心を開いてほしいから。ルカを好きな人間だっているんだって、知ってほしいから。
教科書を机上に並べながら、再び口を開く。
「今日の授業、嫌だね。副教科もないし、木曜日って、僕が一番嫌いな時間割なんだ」
「……あっそう」
「教室までも、寒いよな。カイロいる?」
「いらない」
「最近、天気良くて、よかった。このまま文化祭も晴れるといいね。去年は、曇ってたからさ」
「そう」
中身のない、くだらない話を繰り返す。
いつだってルカの返答は話し手を拒絶する。だけど、同じ景色を見て、同じ感情を持って、語り合えることが、かけがえのない時間だった。
僕はそう言い終えると、体を教卓の方へ捻ろうとする。
その時、ルカが小さく消えてしまいそうな声量で、僕に語りかけた。
「俺、」
「……え?」
まさかルカが口を開くなんて。
どんなにクラスメイトに話しかけられても、一言ずつしか返さなかったのに。
驚きと嬉しさが織り混じり、一言一句も逃さないように耳を立てた。
「佐倉も、知ってんだよな?」
ギロリと鋭い瞳が僕を睨みつける。
けれど、その瞳はただ鋭いだけじゃないような気がした。少しだけ、あの時の少年の雰囲気を帯びている。
何かを取り繕っているような、溢れ出さないように踏ん張っているような瞳。
「何を?」
「お前が本当に俺のファンだって言うなら、知ってんだよな? 全部、燃えたこと。俺がもう歌えなくなったこと」
「……」
冷静でいようと律していたのに、それは儚く散っていく。
自分の意思とは無関係に、顔は答えを出した。
だって、ルカの方から持ちかけられると思わないじゃないか。
自分から傷つくような話はしないだろうと思っていたのに。だってそれを取り繕うと頑張っているだけで。思い出すだけで、辛いはずなのに。
僕だって、思い出すだけで心臓がぎゅうっと痛んで、立っていられない過去がある。話そうとすると、きっと、涙が溢れて止まらない
けれど、目の前のルカは、淡々とその事実について述べた。
「うん」
どう返答しようか迷った挙句、僕はその一言を発した。
ルカがどう思うか、どう捉えるか、総合的に考えた結果の言葉だった。ルカはその言葉を聞くと、「じゃあ」とさらに眉を顰める。
「俺は、佐倉に歌うことなんて出来ないって分かってるよな? 俺は、歌えない。歌いたくない。だから、変に媚を売るな」
「え?」
僕を捉えて離さない、そんな鋭い言葉が降り注ぐ。
けれど僕はその言葉の意味を理解することが出来なかった。ただ情けなくぽかんと口を開けて、状況を整理しているだけ。
けれど、ルカは止まらない。
「さっきから無意味な話を持ちかけられて、迷惑なんだよ。歌えって言われてるみたいで、不快だ」
まるで、暗闇に怯える幼子のような瞳だと思った。
精一杯目を見開いて、遥に大きな敵と戦おうとしているような。
その時、全てに合点がいった。
僕はただ、ルカと話せるだけで嬉しかった。
けれどその会話は、ルカにとってはプレッシャーだったのかもしれない。歌えというメッセージを含んだ暴力のように。
「それは、ごめん。」
僕はルカに向かって頭を下げた。
大好きな人を怖がらせるなんて、もってのほか。
でも、歌って欲しいなんて思っていない。ルカに笑って欲しいだけなんだ。
「でも、違う。ただ話せるのが楽しくて、他愛もない話をした。事情は理解しているつもりだし、それに、歌ってほしいわけじゃない。ルカの心を無視して、そんなお願いはしない。ルカが苦しむことが、僕にとって一番嫌だから」
「は?」
僕の言葉によって大きな双眸が見開いていく。
「歌わせて、どっかに上げねぇのか?」
「当たり前だよ」
ルカは何を想像していたのだろうか。大好きな人が嫌がることをさせて、傷つけて、それを全世界にばら撒くなんて、正気の沙汰じゃない。
でも、そう思ってしまうくらいの出来事があったんだ。
僕がそう強く首を縦に振ると、ルカはようやく信じてくれたのか、次第に強張っていた肩が下がっていく。
鋭利の刃物のように尖っていた瞳も丸くなって、驚いたように小さく揺れる。
けれど、僕の心には僅かな量の靄が広がっていた。
僕は睫毛を少し下げながら、ルカに放つ。
不快、の二文字が僕の中をぐるぐると駆け巡った。
「でも、そう思わせてしまったのは、ごめんね。ルカはただ、居てくれるだけでいいから」
「……あ、ああ」
「うん」
そう、最後に言った。
ルカが今までどんな人生を送ってきて、どんな人と過ごしたか。
それはただのファンである僕には分からない。
僕がルカと出会ったあの日。幸せそうに涙を流すルカは、長い長い人生の中の切り取られた、たった一ページ、いや、一行に過ぎなかったのかもしれないから。
けれど、これからは決してそんな思いはさせたくない。
だから、僕は前を向いた。