家に帰っても、僕の頬の熱はしばらく尾を帯びていた。
「お兄ちゃんー! 今日なんか変だよ?」
その言葉に、心臓がドクッと拍動する。
僕の横で一生懸命ハンバーグを捏ねている妹の優と目があった。その瞳は純粋だけど、全てを見透かされているような気もする。
僕は思い浮かべていたルカの顔を掻き消して、優に笑いかける。
「そんなことないよ? ほら、さっさと捏ねないと。ご飯遅くなるよ」
「えー! 気になるよ!」
そう言って、僕はボウルから両手に収まるくらいの肉だねを掬い取る。
けれどそうは言っても優は気になるようで、地団駄を踏んでいた。丸くてクリクリの瞳で、穴が開きそうなほど見つめられる。
その視線に耐えきれなくなって、先に目を逸らしたのは僕の方だった。
妹に負けるなんて……情けない。
けれど、そんなにも、変だろうか。
僕は驚いてもあまり、表情には出ないタイプだ。だから、何しても無表情だと言われていたことがあった。
でも、少しだけ心当たりがある。
家に帰るまでも、僕は変なことをたくさんした。
僕は毎日、家族全員分の夕食を作っている。
母さんと父さんが働きに出かけているため、自然とご飯を作るのは僕の役割となっていた。最初は料理なんて全く出来なかったけれど、幾分かは成長したと思う。
ハンバーグだって、もう焦げたりしない。
それに伴って、妹と弟のお世話も僕が担っている。
放課後のルーティンは、スーパーに寄って安い食材を物色し、今日の献立を決めることだった。
けれど、今日は何もうまくいかなかった。ボーッとしていた僕はスーパーに寄ることも忘れ、セールの時間を逃してしまったのだ。
普段の僕なら、こんなミスはしないのに。
やっぱりルカの顔が、声が、近くになった存在が、僕の鼓動を強く、早くしていく。
僕は少しだけ痺れる手で、ハンバーグを捏ねた。
そしてフライパンには、大きなハンバーグと、優が捏ねた小さなハンバーグが並べられた。
その時、リビングで宿題をしていた弟の翔が僕に問いかける。
「ねぇ、お兄ちゃん。お母さん、もう帰ってくる?」
寂しそうな潤んだ瞳で、僕を見つめる。
その瞳に、ぐっと良心が痛み出す。
翔は僕よりも九つ下の弟で、三兄弟の末っ子だ。まだまだ子供っぽくて、手がかかる。
母さんがいなくて泣き叫ぶなんて、日常茶飯事と化している。
「まだ、じゃないかな?」
「本当に? お母さんにテスト、見せたかった……」
僕が時計を見ながら答えると、翔の顔は一気に沈んでいく。
甲を項垂れて、あからさまに落ち込んでしまった。
僕はその様子を見ると、ハンバーグを捏ねていた手を洗って、翔に近づいた。翔の手に握られていたのは、小さな紙切れ。
その紙切れには、小さく『かんじテスト』と書かれていた。平仮名で表記されている『かんじ』が可愛くて、僕はクスッと笑みを浮かべる。
そして、翔の手に頭を乗せて、柔らかい髪を撫で回した。
「すごいね、翔。百点だね」
「うん。でも、お母さんにも見せたいよ」
「……そうだよね」
僕が褒めると、翔は少しだけ顔を綻ばせた。
けれど、再びその表情は寂しそうに歪んでいく。
僕はその表情にほんの僅かに、心臓が痛んだ。
小学二年生の八歳。
まだまだ親の愛情が必要な年頃だろう。けれど、僕の家は裕福ではない。三兄弟を養うためにはそれ相応の稼ぎが必要なんだ。
だから、僕がこの子達の母親のような役割を担っている。
僕が母さんの代わりになれないことは分かっていた。けれど、それでも二人に寂しい思いをさせないように、笑って、二人と向き合っている。
僕だって、年の離れた兄弟は可愛くて仕方がない。
それでも、どんなに可愛くても、母親の務めを果たさないといけない義務が僕にはある。時には怒ったり、注意したり。泣かせてしまったり。
反対に、僕も怒られたり、注意されたり。
その度に思ってしまう。
僕は母親の代わりにはなれなくて、兄以上の存在にはなれないんだって。
でも……その気持ちは痛いほどに分かってしまう。
僕だってそうだった。
ルカがいなくなって、その寂しさを別の歌で……なんて考えが多々よぎった。試しに、ルカの曲のカバーを聞いたりもした。
けれど、ルカがいなくなったことで開いた心の穴は、傷は一向に埋まらなかった。
ルカの声と、歌じゃないと無理だった。
世界に色がつくこともなかった。
けれど、今日。
世界に色がついたんだ。虚空で、黒かった僕の心が一瞬にして、幸福で埋めつくされた。
ルカに会ったことで、その声を再び聞けたことで。
だから、僕はもう母親の代わりなんてしない。
どうやったって、母親の代わりになんてなれっこないんだから。
「じゃあ、僕が母さんに伝えとくね。翔はこんなに頑張ってるんだよって。そしたら母さん、喜ぶと思うよ」
僕がそう言うと、翔はぱあっと顔を輝かせた。
ようやく見れたその顔に、思わず涙が溢れてしまいそうになる。
ずっと
「お兄ちゃんじゃダメ? 母さん忙しいんだ」
そんな言葉しか返せなかった。その度に落ち込む顔が脳裏に焼き付いている。
目を潤ませて、小さな紙切れをぐちゃぐちゃにして。
けれど、そうだったんだ。
こう言えば良かったんだ。
嬉しそうな笑顔で僕を見上げて、翔は『かんじテスト』と書かれた紙を大事そうに、僕に手渡した。
「お兄ちゃん、よろしくねっ!」
「うん」
僕は丁寧にその紙を受け取った。
と、その時、
「……お兄ちゃんってば、やっぱり変」
後ろから優の怪しむ声が降りかかってきた。振り返るとそこにはジトッと僕を見る優の姿があった。
まだ小学四年生なのに、勘が鋭くて、時々驚いてしまう。
ギクっとなったことを悟られないように、優を見る。
「そ、そうかな?」
「そうだよ!」
そう言い放つと、優はニヤッと口角を上げた。
そして何かを企む人のように、口元に手のひらを持っていく。
「まっさか……お兄ちゃん、好きな人でも出来たの〜?」
「っ!?」
僕は突然放たれたその言葉に、思わず叫び出しそうになる。その様子をニヤニヤと眺めている優と、何も分からなくてポカンと口を開けている翔。
僕は熱くなった頬を誤魔化すように、首を横に振った。
「違うけど!」
「本当に? あやしいぃ」
「本当だよ!」
僕はそう言い放つと、立ち上がって、キッチンまで足を動かした。
ちょっとでも気を抜いたら、ルカのことまで察してしまいそうだ。
確かにルカは大好きだけど、それが恋かどうかはまだ分からない。
僕はハンバーグの蓋をとって、フライ返しを右手にひっくり返す。
蓋についた水分がフライパンの中でジュウッと踊る。
この時、三人でいるにはちょっぴり狭いリビングに、ハンバーグの香ばしい匂いと、二人の兄弟の笑い声が響いていた。
「お兄ちゃんー! 今日なんか変だよ?」
その言葉に、心臓がドクッと拍動する。
僕の横で一生懸命ハンバーグを捏ねている妹の優と目があった。その瞳は純粋だけど、全てを見透かされているような気もする。
僕は思い浮かべていたルカの顔を掻き消して、優に笑いかける。
「そんなことないよ? ほら、さっさと捏ねないと。ご飯遅くなるよ」
「えー! 気になるよ!」
そう言って、僕はボウルから両手に収まるくらいの肉だねを掬い取る。
けれどそうは言っても優は気になるようで、地団駄を踏んでいた。丸くてクリクリの瞳で、穴が開きそうなほど見つめられる。
その視線に耐えきれなくなって、先に目を逸らしたのは僕の方だった。
妹に負けるなんて……情けない。
けれど、そんなにも、変だろうか。
僕は驚いてもあまり、表情には出ないタイプだ。だから、何しても無表情だと言われていたことがあった。
でも、少しだけ心当たりがある。
家に帰るまでも、僕は変なことをたくさんした。
僕は毎日、家族全員分の夕食を作っている。
母さんと父さんが働きに出かけているため、自然とご飯を作るのは僕の役割となっていた。最初は料理なんて全く出来なかったけれど、幾分かは成長したと思う。
ハンバーグだって、もう焦げたりしない。
それに伴って、妹と弟のお世話も僕が担っている。
放課後のルーティンは、スーパーに寄って安い食材を物色し、今日の献立を決めることだった。
けれど、今日は何もうまくいかなかった。ボーッとしていた僕はスーパーに寄ることも忘れ、セールの時間を逃してしまったのだ。
普段の僕なら、こんなミスはしないのに。
やっぱりルカの顔が、声が、近くになった存在が、僕の鼓動を強く、早くしていく。
僕は少しだけ痺れる手で、ハンバーグを捏ねた。
そしてフライパンには、大きなハンバーグと、優が捏ねた小さなハンバーグが並べられた。
その時、リビングで宿題をしていた弟の翔が僕に問いかける。
「ねぇ、お兄ちゃん。お母さん、もう帰ってくる?」
寂しそうな潤んだ瞳で、僕を見つめる。
その瞳に、ぐっと良心が痛み出す。
翔は僕よりも九つ下の弟で、三兄弟の末っ子だ。まだまだ子供っぽくて、手がかかる。
母さんがいなくて泣き叫ぶなんて、日常茶飯事と化している。
「まだ、じゃないかな?」
「本当に? お母さんにテスト、見せたかった……」
僕が時計を見ながら答えると、翔の顔は一気に沈んでいく。
甲を項垂れて、あからさまに落ち込んでしまった。
僕はその様子を見ると、ハンバーグを捏ねていた手を洗って、翔に近づいた。翔の手に握られていたのは、小さな紙切れ。
その紙切れには、小さく『かんじテスト』と書かれていた。平仮名で表記されている『かんじ』が可愛くて、僕はクスッと笑みを浮かべる。
そして、翔の手に頭を乗せて、柔らかい髪を撫で回した。
「すごいね、翔。百点だね」
「うん。でも、お母さんにも見せたいよ」
「……そうだよね」
僕が褒めると、翔は少しだけ顔を綻ばせた。
けれど、再びその表情は寂しそうに歪んでいく。
僕はその表情にほんの僅かに、心臓が痛んだ。
小学二年生の八歳。
まだまだ親の愛情が必要な年頃だろう。けれど、僕の家は裕福ではない。三兄弟を養うためにはそれ相応の稼ぎが必要なんだ。
だから、僕がこの子達の母親のような役割を担っている。
僕が母さんの代わりになれないことは分かっていた。けれど、それでも二人に寂しい思いをさせないように、笑って、二人と向き合っている。
僕だって、年の離れた兄弟は可愛くて仕方がない。
それでも、どんなに可愛くても、母親の務めを果たさないといけない義務が僕にはある。時には怒ったり、注意したり。泣かせてしまったり。
反対に、僕も怒られたり、注意されたり。
その度に思ってしまう。
僕は母親の代わりにはなれなくて、兄以上の存在にはなれないんだって。
でも……その気持ちは痛いほどに分かってしまう。
僕だってそうだった。
ルカがいなくなって、その寂しさを別の歌で……なんて考えが多々よぎった。試しに、ルカの曲のカバーを聞いたりもした。
けれど、ルカがいなくなったことで開いた心の穴は、傷は一向に埋まらなかった。
ルカの声と、歌じゃないと無理だった。
世界に色がつくこともなかった。
けれど、今日。
世界に色がついたんだ。虚空で、黒かった僕の心が一瞬にして、幸福で埋めつくされた。
ルカに会ったことで、その声を再び聞けたことで。
だから、僕はもう母親の代わりなんてしない。
どうやったって、母親の代わりになんてなれっこないんだから。
「じゃあ、僕が母さんに伝えとくね。翔はこんなに頑張ってるんだよって。そしたら母さん、喜ぶと思うよ」
僕がそう言うと、翔はぱあっと顔を輝かせた。
ようやく見れたその顔に、思わず涙が溢れてしまいそうになる。
ずっと
「お兄ちゃんじゃダメ? 母さん忙しいんだ」
そんな言葉しか返せなかった。その度に落ち込む顔が脳裏に焼き付いている。
目を潤ませて、小さな紙切れをぐちゃぐちゃにして。
けれど、そうだったんだ。
こう言えば良かったんだ。
嬉しそうな笑顔で僕を見上げて、翔は『かんじテスト』と書かれた紙を大事そうに、僕に手渡した。
「お兄ちゃん、よろしくねっ!」
「うん」
僕は丁寧にその紙を受け取った。
と、その時、
「……お兄ちゃんってば、やっぱり変」
後ろから優の怪しむ声が降りかかってきた。振り返るとそこにはジトッと僕を見る優の姿があった。
まだ小学四年生なのに、勘が鋭くて、時々驚いてしまう。
ギクっとなったことを悟られないように、優を見る。
「そ、そうかな?」
「そうだよ!」
そう言い放つと、優はニヤッと口角を上げた。
そして何かを企む人のように、口元に手のひらを持っていく。
「まっさか……お兄ちゃん、好きな人でも出来たの〜?」
「っ!?」
僕は突然放たれたその言葉に、思わず叫び出しそうになる。その様子をニヤニヤと眺めている優と、何も分からなくてポカンと口を開けている翔。
僕は熱くなった頬を誤魔化すように、首を横に振った。
「違うけど!」
「本当に? あやしいぃ」
「本当だよ!」
僕はそう言い放つと、立ち上がって、キッチンまで足を動かした。
ちょっとでも気を抜いたら、ルカのことまで察してしまいそうだ。
確かにルカは大好きだけど、それが恋かどうかはまだ分からない。
僕はハンバーグの蓋をとって、フライ返しを右手にひっくり返す。
蓋についた水分がフライパンの中でジュウッと踊る。
この時、三人でいるにはちょっぴり狭いリビングに、ハンバーグの香ばしい匂いと、二人の兄弟の笑い声が響いていた。