キンコーンカンコーン
今日一日の終了を知らせる鐘が鳴り響く。途端に、クラスメイトたちの脱力した声が、教室に充満した。
ペンケースのチャックの音。教科書をパタンと折りたたむ音。色んな音が混ざって、飽和していく。
ルカがいる教室は、意外にも滞りなく進んでいた。
けれど、後ろにルカがいるって考えただけで、ソワソワして落ち着かない。妙に背筋が張って、水を飲むのすら緊張した。
いつもなら眠ってしまう世界史の授業だって、沢山ペンを走らせた。
ルカは僕のことなんか、覚えてないだろうから。
あのクリスマスの日の、一瞬のことなんか。
だから僕の印象は今から決まっていく。そう思うと、無意識に目が覚めた。
授業中に寝る奴だと思われたくなくて、ノートいっぱいペンを走らせた。
それだけのことで、僕の小さな行動、一つ一つ変化していくのだから、本当にルカってすごい。
チラリと窓に反射するルカを覗くと、通学カバンにペンケースをしまっていたところだった。
あの後から、僕はルカと話せていない。
休み時間に声をかけようと思っても、すぐに女子の集団が押しかけてくるんだ。
そんな中、声をかけれる行動力も勇気も持ち合わせていない僕は、ポツンと取り残される。
けれど、そんなほとぼりも次第に冷めていったようだった。
ルカが何を聞かれても無愛想な返事しかしないから……。
「ツンデレっぽくて可愛い!」
そんな女子の声も聞こえなくはないけれど。
そう僕が一息つくと、帰る準備が整ったのかゆっくりと椅子を引く音が聞こえた。
パッと後ろを振り返ると、ルカの姿はもういない。
僕も素早く立ち上がった。
ルカを追う女子がいない。
チャンスかもしれない……!
少し冷たくなった空気が纏う廊下を通って、ルカの後を追う。
ルカに会えたら、ずっと言いたいことがあった。
あの日、普通の恋がしたくて、だけど出来なくて、好きでもない女の子と付き合った。でもどうしても好きになれなくて、傷つけた。
女の子を泣かせた。
辛そうに泣きじゃくる女の子を見て、僕は僕自身を恨んだ。まともなことすら出来ない自分を。
変わっている、フツウになれない自分を。
そんな時に、ルカに出会った。
そして救われたんだ。
それを、どうしても、直接伝えたかった。
「ル……成瀬くん!」
僕は下駄箱でローファーに履き替えようとしているルカに向かって叫ぶ。思わず『ルカ』と叫びそうになって、慌てて言い直す。
まだ終業して時間が経っていないからか、下駄箱にいる人は少ない。
けれど、ルカは顔出ししていないんだ。
隠してきたプライバシーを僕がバラしていいわけがない。ルカと叫んでしまいそうな心を押し殺して、愛しいその名前を呼んだ。
ルカは僕の一際大きい声にビクッと肩を震わせた。
「……佐倉。なに?」
「っ!」
まさか名前を覚えてもらえているなんて。
それに大好きな声で呼ばれるものだから、僕の心臓は一気に高鳴り出す。名前を呼んでもらえることが、こんなに幸せだなんて知らなかった。
喜びを噛み締めて、僕は下駄箱に走った。
より一層距離が近くなって、ルカの柔らかな匂いが漂って、顔が強張る。
「成瀬くんって、電車、使う?」
そのぎこちなさを紛らわすように、上履きを脱いでローファーに履き替える。
「使うけど。なんで?」
ルカは突然現れた僕が煩わしいのか、眉を顰めながら返答する。けれど、僕はお構いなしに続けた。
「じゃあ、途中まで一緒に帰ってもいいかな?」
「……別に、どっちでも」
「ありがとう!」
僕は自然と口角が上がって、満面の笑みでルカに笑いかけた。
あんなに思い焦がれていたルカと話せることなんて、一生ないと思っていたのに。今、こうやって隣に立って一緒に歩いている。
同じ歩幅で、下駄箱から足を踏み出している。
ルカは僕よりも遥に身長も高く、大人っぽい。
だけど、校舎を出て吹いた冷たい風に身を震わせたところは、あの頃の少年と重なった。
本当に僕は、ルカと一緒にいるらしい。
それは涙が溢れてしまいそうなほど嬉しくて、自然と口元が綻んだ。
「なんで笑ってんの」
怪訝そうな表情のルカが僕を覗く。
「いや、ただ、嬉しくて。成瀬くんと話せるのが」
僕はセーターの袖を掴みながら、ぎこちない返答をする。僕がそう言うと、ルカはより怪訝そうに僕から一歩距離を置いた。
「……急に、なに」
ボソッと呟く声が聞こえる。その声は、あまりにも低くて、いつも聞いているルカの声とは正反対だった。
……怖がられたかな。
僕にとってルカは、一緒にいれるだけでも嬉しい存在。だけどルカにとって、僕は今日出会ったばかりのクラスメイト。
二人の間の隙間が、何だかとてつもなく大きいような気がして、焦りながら僕は首を横に振った。
「あ、いや。実は僕、成瀬くんのファン、というか」
「……は?」
より一層眉を顰めて、不審がる様子が目に入る。
その顔は僕でも怯んでしまいそうなほど険しくて、ファンと公言することが憚られる。でも、それでも、言いたかった。
僕には、君に救われた日々があったんだと。
「成瀬くんって、ルカ、だよね? ずっと好きで、応援してたから、声で、分かって……」
つい語尾が小さくなって、風が吹いて仕舞えば消えてしまうような声量だった。
それでも、ルカには聞こえたらしい。
動かしていた足は止まり、全身が固まる様子が目に映る。
二人の間には静寂が漂った。
辺りは風の音で、生徒の笑い声で、部活動の掛け声で溢れて出しているのに、まるで聞こえない。
心臓が強く拍動して、手に汗が滲み出す。
気持ち悪いって思われたかな。急にファン、だなんて。
悪い妄想が広がっていく。
そんな静寂を破ったのは、ルカの方だった。
「俺のこと、からかって楽しいか?」
「え?」
想像していた言葉の、どれにも当てはまらない言葉。
驚いて顔を上げた先にいたのは、まるで僕を憎んでいるような瞳だった。
大好きな声は、聞いたことがないくらいに、黒く染まっている。
「……お前は、俺がルカだって分かったから、からかってやろうと思ったのか? ファンって名乗って。炎上したやつの顔を見ようとでも思ったのか? 最低だな、お前」
……え?
降りかかるその言葉の意味が、まるで分からない。
けれど、ルカの瞳は至って真面目だった。キッと綺麗な瞳が僕を睨んで逃さない。
ルカはファンを大切にするアーティストで有名だった。
ファンレターは何回も読み返すし、コメントがどんなに多くても必ず返すと、公言している。
けれど、目の前にいるルカは、僕の知っているルカじゃなかった。
まるで孤独な狼のように、僕に牙を見せる。
僕は分かっていなかった。
作った拳をギュッと握る。
ルカは傷ついたんだ。僕が思っているよりもずっと。遥に傷ついたんだ。あの純粋な瞳が憎しみを知ってしまうほど。
そして、誰かの好意を信じることが出来なくなっているのかもしれない。
でも、そうだ。
ふと、ルカと出会った日を思い出す。
ルカはあの日に、あのクリスマスの日に、たった一人で震えながら歌っていた。小さい体を震わせながら。
きっとルカは、強くない。
心無いコメントで、言葉で、どれだけ心に傷を負ってきたんだろう。
その痛みがひしひしと伝わってくる。そしてルカは、僕以上に痛みを抱えて生きているんだろう。その中では、また震えているのかもしれない。
僕は大きく息を吸って、ルカの瞳を見た。
その体の中で震えているルカに届くように。
「そんなことない。僕は、本当にルカのファンなんだ」
「嘘つけ。俺の曲が好きなやつなんているわけないだろ。世間がそれを証明してた。そうやっていつもいつも俺を批判して、どうしたいんだよ」
ルカは何かに取り憑かれたように、捲し立てた。
息をつく暇もないくらいに。
「僕はルカの曲に、声に、救われたんだ。本当だよ」
「嘘だ。俺の曲なんかどこがいいんだよ。下手で薄っぺらくて、気持ち悪いだけ。もし本当にファンなら、お前は趣味が悪い。悪すぎる」
その言葉を聞いた瞬間、僕は心の底から何かが湧いてきた。
思わずルカとの間を詰めていく。
あと一歩近づけば、体同士が触れてしまう寸前まで。
けれどルカは怯むことなく、僕を睨み続けていた。
僕は拳をギュッと握って、ルカを見上げた。
「それは、訂正して。僕は、本当に救われたんだ。君の曲に。世界が真っ暗だった僕に、生きる希望を与えてくれた。最低な僕を、肯定してくれた。
毎日聴いている。君がいなくなってからもずっと、毎日聴き続けている。それだけで幸せなんだ。だから、僕はルカの曲も、声も大好きだ。言葉に出来ないくらいに、大好きなんだ。だから例えルカ自身でも、下手とか薄っぺらいとか、言ってほしくない」
僕はルカの瞳を見据えて、その気持ちを言葉にした。
ただ、ルカに救われた人もいるんだって知ってほしい。
その一心だった。
「……」
ルカは何も言わない。
僕を疑うような瞳は変わらないけれど、驚いたように立っていた。舐めてかかったやつが強者だった時のように。
僕はもう一度息を吸って、ルカの曲を脳内で再生する。一言一句逃すことなく。ルカの綴る歌詞を辿った。
やっぱり、この歌声が、歌詞が、メロディーが大好きだ。
だから、
「もし会えたら言おうと思ってた」
「何だよ」
「ルカ、ありがとう」
「……」
「本当に、ありがとう。それだけが、言いたかった」
ルカとの距離が近いとか、そういうのは頭になかった。
ただ、ありがとうって伝えたくて、僕はルカに微笑みかける。
ずっと伝えたかった五文字。これだけは直接言いたかった。
僕の気持ちが届いたのかどうかは、少しも分からない。
けれど、僅かにルカの瞳が揺らいだ気がした。
ようやく、伝えられた。
ずっと伝えたかった感謝をようやく伝えられた。それが、ただ嬉しい。
けれど、そうやって笑う僕を現実に引き戻したのはこんな声だった。
「え? なになに? 告白?」
揶揄うような、笑いを含んだ声。
その声の方角には、噂話をするときのように、肩を寄せ合った生徒がいた。
その言葉の意味を認識すると、僕の頬にどんどん熱が集まっていく。
告白、という二文字が脳内を駆け巡った。
慌てて、ルカと距離を取る。
僕は、ルカになんてことを!
勢いに任せて、あんなに近くで!
ルカの綺麗な顔が視界いっぱいに映し出されて、心臓がより一層早く拍動していく。
「……っ! ごめん!」
外は秋の寒さですっかり冷えているはずなのに、僕の体の内側からは絶えず熱が放出された。先ほどの行動が思い返されて、恥ずかしさでワナワナと手が震えた。
そっと、一歩ずつ後ずさっていく。
駅まではまだ少し距離がある。歩かなければいけない。
けれど、こんな中で、ルカとまともになんて話せるわけがなかった。
そして僕は背負ったリュックサックの紐を握って、ぐるりとルカに背を向けた。
「本当、に、ご、ごめんね! じゃあ……僕は、これでっ!」
「……おい!」
後ろでルカが小さく叫ぶ声が聞こえたが、僕はその声に振り向くことも出来なかった。一目散に駅までの道のりを駆けた。
せっかく、今までの感謝を伝えようと思っただけなのに、こんなことになるなんて。
ルカが、あんなことを言うから……!
うわぁっ! もう!
叫び出したい気持ちをぐっと堪える。
けれど、思い出すだけで心臓が強く鳴りだす。それだけじゃ収まらないようで、頬にも熱が集まって一向に引かない。
目の前にあった綺麗な顔を思い出しては、その恥ずかしさが何度も何度も、僕を襲った。
「っ〜!」
駅に着いた時には、僕自身の熱と、汗で、ぐちゃぐちゃになっていた。
今日一日の終了を知らせる鐘が鳴り響く。途端に、クラスメイトたちの脱力した声が、教室に充満した。
ペンケースのチャックの音。教科書をパタンと折りたたむ音。色んな音が混ざって、飽和していく。
ルカがいる教室は、意外にも滞りなく進んでいた。
けれど、後ろにルカがいるって考えただけで、ソワソワして落ち着かない。妙に背筋が張って、水を飲むのすら緊張した。
いつもなら眠ってしまう世界史の授業だって、沢山ペンを走らせた。
ルカは僕のことなんか、覚えてないだろうから。
あのクリスマスの日の、一瞬のことなんか。
だから僕の印象は今から決まっていく。そう思うと、無意識に目が覚めた。
授業中に寝る奴だと思われたくなくて、ノートいっぱいペンを走らせた。
それだけのことで、僕の小さな行動、一つ一つ変化していくのだから、本当にルカってすごい。
チラリと窓に反射するルカを覗くと、通学カバンにペンケースをしまっていたところだった。
あの後から、僕はルカと話せていない。
休み時間に声をかけようと思っても、すぐに女子の集団が押しかけてくるんだ。
そんな中、声をかけれる行動力も勇気も持ち合わせていない僕は、ポツンと取り残される。
けれど、そんなほとぼりも次第に冷めていったようだった。
ルカが何を聞かれても無愛想な返事しかしないから……。
「ツンデレっぽくて可愛い!」
そんな女子の声も聞こえなくはないけれど。
そう僕が一息つくと、帰る準備が整ったのかゆっくりと椅子を引く音が聞こえた。
パッと後ろを振り返ると、ルカの姿はもういない。
僕も素早く立ち上がった。
ルカを追う女子がいない。
チャンスかもしれない……!
少し冷たくなった空気が纏う廊下を通って、ルカの後を追う。
ルカに会えたら、ずっと言いたいことがあった。
あの日、普通の恋がしたくて、だけど出来なくて、好きでもない女の子と付き合った。でもどうしても好きになれなくて、傷つけた。
女の子を泣かせた。
辛そうに泣きじゃくる女の子を見て、僕は僕自身を恨んだ。まともなことすら出来ない自分を。
変わっている、フツウになれない自分を。
そんな時に、ルカに出会った。
そして救われたんだ。
それを、どうしても、直接伝えたかった。
「ル……成瀬くん!」
僕は下駄箱でローファーに履き替えようとしているルカに向かって叫ぶ。思わず『ルカ』と叫びそうになって、慌てて言い直す。
まだ終業して時間が経っていないからか、下駄箱にいる人は少ない。
けれど、ルカは顔出ししていないんだ。
隠してきたプライバシーを僕がバラしていいわけがない。ルカと叫んでしまいそうな心を押し殺して、愛しいその名前を呼んだ。
ルカは僕の一際大きい声にビクッと肩を震わせた。
「……佐倉。なに?」
「っ!」
まさか名前を覚えてもらえているなんて。
それに大好きな声で呼ばれるものだから、僕の心臓は一気に高鳴り出す。名前を呼んでもらえることが、こんなに幸せだなんて知らなかった。
喜びを噛み締めて、僕は下駄箱に走った。
より一層距離が近くなって、ルカの柔らかな匂いが漂って、顔が強張る。
「成瀬くんって、電車、使う?」
そのぎこちなさを紛らわすように、上履きを脱いでローファーに履き替える。
「使うけど。なんで?」
ルカは突然現れた僕が煩わしいのか、眉を顰めながら返答する。けれど、僕はお構いなしに続けた。
「じゃあ、途中まで一緒に帰ってもいいかな?」
「……別に、どっちでも」
「ありがとう!」
僕は自然と口角が上がって、満面の笑みでルカに笑いかけた。
あんなに思い焦がれていたルカと話せることなんて、一生ないと思っていたのに。今、こうやって隣に立って一緒に歩いている。
同じ歩幅で、下駄箱から足を踏み出している。
ルカは僕よりも遥に身長も高く、大人っぽい。
だけど、校舎を出て吹いた冷たい風に身を震わせたところは、あの頃の少年と重なった。
本当に僕は、ルカと一緒にいるらしい。
それは涙が溢れてしまいそうなほど嬉しくて、自然と口元が綻んだ。
「なんで笑ってんの」
怪訝そうな表情のルカが僕を覗く。
「いや、ただ、嬉しくて。成瀬くんと話せるのが」
僕はセーターの袖を掴みながら、ぎこちない返答をする。僕がそう言うと、ルカはより怪訝そうに僕から一歩距離を置いた。
「……急に、なに」
ボソッと呟く声が聞こえる。その声は、あまりにも低くて、いつも聞いているルカの声とは正反対だった。
……怖がられたかな。
僕にとってルカは、一緒にいれるだけでも嬉しい存在。だけどルカにとって、僕は今日出会ったばかりのクラスメイト。
二人の間の隙間が、何だかとてつもなく大きいような気がして、焦りながら僕は首を横に振った。
「あ、いや。実は僕、成瀬くんのファン、というか」
「……は?」
より一層眉を顰めて、不審がる様子が目に入る。
その顔は僕でも怯んでしまいそうなほど険しくて、ファンと公言することが憚られる。でも、それでも、言いたかった。
僕には、君に救われた日々があったんだと。
「成瀬くんって、ルカ、だよね? ずっと好きで、応援してたから、声で、分かって……」
つい語尾が小さくなって、風が吹いて仕舞えば消えてしまうような声量だった。
それでも、ルカには聞こえたらしい。
動かしていた足は止まり、全身が固まる様子が目に映る。
二人の間には静寂が漂った。
辺りは風の音で、生徒の笑い声で、部活動の掛け声で溢れて出しているのに、まるで聞こえない。
心臓が強く拍動して、手に汗が滲み出す。
気持ち悪いって思われたかな。急にファン、だなんて。
悪い妄想が広がっていく。
そんな静寂を破ったのは、ルカの方だった。
「俺のこと、からかって楽しいか?」
「え?」
想像していた言葉の、どれにも当てはまらない言葉。
驚いて顔を上げた先にいたのは、まるで僕を憎んでいるような瞳だった。
大好きな声は、聞いたことがないくらいに、黒く染まっている。
「……お前は、俺がルカだって分かったから、からかってやろうと思ったのか? ファンって名乗って。炎上したやつの顔を見ようとでも思ったのか? 最低だな、お前」
……え?
降りかかるその言葉の意味が、まるで分からない。
けれど、ルカの瞳は至って真面目だった。キッと綺麗な瞳が僕を睨んで逃さない。
ルカはファンを大切にするアーティストで有名だった。
ファンレターは何回も読み返すし、コメントがどんなに多くても必ず返すと、公言している。
けれど、目の前にいるルカは、僕の知っているルカじゃなかった。
まるで孤独な狼のように、僕に牙を見せる。
僕は分かっていなかった。
作った拳をギュッと握る。
ルカは傷ついたんだ。僕が思っているよりもずっと。遥に傷ついたんだ。あの純粋な瞳が憎しみを知ってしまうほど。
そして、誰かの好意を信じることが出来なくなっているのかもしれない。
でも、そうだ。
ふと、ルカと出会った日を思い出す。
ルカはあの日に、あのクリスマスの日に、たった一人で震えながら歌っていた。小さい体を震わせながら。
きっとルカは、強くない。
心無いコメントで、言葉で、どれだけ心に傷を負ってきたんだろう。
その痛みがひしひしと伝わってくる。そしてルカは、僕以上に痛みを抱えて生きているんだろう。その中では、また震えているのかもしれない。
僕は大きく息を吸って、ルカの瞳を見た。
その体の中で震えているルカに届くように。
「そんなことない。僕は、本当にルカのファンなんだ」
「嘘つけ。俺の曲が好きなやつなんているわけないだろ。世間がそれを証明してた。そうやっていつもいつも俺を批判して、どうしたいんだよ」
ルカは何かに取り憑かれたように、捲し立てた。
息をつく暇もないくらいに。
「僕はルカの曲に、声に、救われたんだ。本当だよ」
「嘘だ。俺の曲なんかどこがいいんだよ。下手で薄っぺらくて、気持ち悪いだけ。もし本当にファンなら、お前は趣味が悪い。悪すぎる」
その言葉を聞いた瞬間、僕は心の底から何かが湧いてきた。
思わずルカとの間を詰めていく。
あと一歩近づけば、体同士が触れてしまう寸前まで。
けれどルカは怯むことなく、僕を睨み続けていた。
僕は拳をギュッと握って、ルカを見上げた。
「それは、訂正して。僕は、本当に救われたんだ。君の曲に。世界が真っ暗だった僕に、生きる希望を与えてくれた。最低な僕を、肯定してくれた。
毎日聴いている。君がいなくなってからもずっと、毎日聴き続けている。それだけで幸せなんだ。だから、僕はルカの曲も、声も大好きだ。言葉に出来ないくらいに、大好きなんだ。だから例えルカ自身でも、下手とか薄っぺらいとか、言ってほしくない」
僕はルカの瞳を見据えて、その気持ちを言葉にした。
ただ、ルカに救われた人もいるんだって知ってほしい。
その一心だった。
「……」
ルカは何も言わない。
僕を疑うような瞳は変わらないけれど、驚いたように立っていた。舐めてかかったやつが強者だった時のように。
僕はもう一度息を吸って、ルカの曲を脳内で再生する。一言一句逃すことなく。ルカの綴る歌詞を辿った。
やっぱり、この歌声が、歌詞が、メロディーが大好きだ。
だから、
「もし会えたら言おうと思ってた」
「何だよ」
「ルカ、ありがとう」
「……」
「本当に、ありがとう。それだけが、言いたかった」
ルカとの距離が近いとか、そういうのは頭になかった。
ただ、ありがとうって伝えたくて、僕はルカに微笑みかける。
ずっと伝えたかった五文字。これだけは直接言いたかった。
僕の気持ちが届いたのかどうかは、少しも分からない。
けれど、僅かにルカの瞳が揺らいだ気がした。
ようやく、伝えられた。
ずっと伝えたかった感謝をようやく伝えられた。それが、ただ嬉しい。
けれど、そうやって笑う僕を現実に引き戻したのはこんな声だった。
「え? なになに? 告白?」
揶揄うような、笑いを含んだ声。
その声の方角には、噂話をするときのように、肩を寄せ合った生徒がいた。
その言葉の意味を認識すると、僕の頬にどんどん熱が集まっていく。
告白、という二文字が脳内を駆け巡った。
慌てて、ルカと距離を取る。
僕は、ルカになんてことを!
勢いに任せて、あんなに近くで!
ルカの綺麗な顔が視界いっぱいに映し出されて、心臓がより一層早く拍動していく。
「……っ! ごめん!」
外は秋の寒さですっかり冷えているはずなのに、僕の体の内側からは絶えず熱が放出された。先ほどの行動が思い返されて、恥ずかしさでワナワナと手が震えた。
そっと、一歩ずつ後ずさっていく。
駅まではまだ少し距離がある。歩かなければいけない。
けれど、こんな中で、ルカとまともになんて話せるわけがなかった。
そして僕は背負ったリュックサックの紐を握って、ぐるりとルカに背を向けた。
「本当、に、ご、ごめんね! じゃあ……僕は、これでっ!」
「……おい!」
後ろでルカが小さく叫ぶ声が聞こえたが、僕はその声に振り向くことも出来なかった。一目散に駅までの道のりを駆けた。
せっかく、今までの感謝を伝えようと思っただけなのに、こんなことになるなんて。
ルカが、あんなことを言うから……!
うわぁっ! もう!
叫び出したい気持ちをぐっと堪える。
けれど、思い出すだけで心臓が強く鳴りだす。それだけじゃ収まらないようで、頬にも熱が集まって一向に引かない。
目の前にあった綺麗な顔を思い出しては、その恥ずかしさが何度も何度も、僕を襲った。
「っ〜!」
駅に着いた時には、僕自身の熱と、汗で、ぐちゃぐちゃになっていた。