流夏side
昔から、最悪な家庭環境だった。
父親は病気で死んで、顔も見たことがない。母親はその寂しさを埋めるように、毎日男と練り遊んでばかりいた。
家に帰ってくることなんてほとんどない。
いつも机上に、現金が置かれているだけ。
昔から、愛情に飢えていたんだと思う。
その寂しさを紛らわすように、俺はギターを手に取った。ギターを弾いている間だけは、孤独を感じないで済んだ。
寂しさを紛らわすための手段に過ぎなかったはずのギターは、いつしか誰かに認めてもらうための道具へと変化した。
愛に飢えていた俺は、ただ、他人の愛を欲しがっていた。
弾き語りをしては、SNSへアップロードした。
動画につく、僅かないいね数が俺の心の均衡を保っていた。
そして、あの日。
クリスマスだというのに、母親が家に帰ることもなかった。
だから、俺は街へ出た。
小さかった体で、ギターを背負って。
もしかしたら、誰かが聞いてくれるかもしれない。その一心で。
けれど、現実は残酷だった。
誰も俺の声に、耳を澄ましてくれない。凍えるような寒さの中で、ピックを持つ手が悴んで、今にも泣いてしまいそうだった。
俺は、本当に孤独なんだと思い知らされた。
けれど、その時。
君に出会った。
マフラーが首まで覆って、少し髪の長い、俺と同じ背丈の君に。
俺の歌に、俺が紡ぐメロディに、涙を流して笑っている君に。
嬉しかった。
初めて人の愛や、優しさに触れた瞬間だった。
涙を流して笑っていた君のことは、きっともう、忘れることなんて出来ない。
そして次に君と出会ったのは、ファンレターの中だった。
あのクリスマスの日のことが書かれている手紙があったのだ。
『さくら』
そんな宛名を見つけた時から、君の憧れは好きへと変わっていった。
綺麗な名前だな。
あの時の君は、少し髪が長かったこともあって、俺は君を女なんだと思った。それからは、君だけの、『さくらさん』の、手紙を待ち続けた。
認知度が上がって、送られてくる手紙が増えても、君の手紙を真っ先に手に取った。
真っ直ぐに俺を愛してくれている文面に、何度救われたことか。
そんな君への想いを綴っては、新曲を出していた。
君への強い恋心が、俺に力をくれた。
母親がいなくても、机上に置かれる現金が少なくなっても、君がいたから俺は狂わずに生きてこれた。君が生きる理由だった。
幸せな日々だった。
心の底から、ただ、幸せだった。
けれど、そんな日々はすぐに崩れ落ちさっていく。
不覚だった。
寂しい夜に君のことを思い出して、綴った文章だった。
SNSに誤投稿をしたことが原因で、瞬く間に俺は曲ごと炎上していった。毎日届く誹謗中傷に、最後は体がパンクしてしまった。
歌えなくなったのだ。
ギターを手に取っても、小さく息を吸っても、出るのは苦しいだけの咳。
喉が歌うことを拒否しているかのように、声が出なくなった。
呼吸が出来なくて。
ずっと薄い空気の中を這っているようで。
体中が殴られるように痛くて。
自分さえも信じられなくなって。
全てを失い、堕ちるところまで堕ちる俺が出会ったのは、またもや君だった。
ファンだって、言っていた。
真っ直ぐな、一つの濁りもない瞳で俺を掴んで、離さなかった。どんなに距離を取ろうとしても、突き放しても、君は必ず後ろにいた。
好きになるのに、時間なんてかからなかったように思う。
君の笑顔に焦がれて、心臓が高鳴って。
『さくらさん』が好きなはずだったのに、君の笑顔を見るたびに、どうしようもないくらい惹かれていった。
そんな自分が分からなかった。
けれど、それは必然だったようだ。
だって、君は『さくらさん』だった。そして『さくらさん』も、君だったからだ。
そう気づいた瞬間、君のことが愛おしくてたまらなくなった。
君のことを想うと、あの時のように、メロディを口ずさむことが出来た。
苦しむこともなく、歌うことが好きだったあの頃に戻れたような気がした。
君のおかげで、俺は、もう一度立ち直れた。
君の笑顔が、また俺の生きる理由になった。
そんな君が可愛くて、仕方がない。

「流夏は、また活動再開するの?」

君に気持ちを伝えた日。
俺の腕の中で、君は不安そうに身を捩った。

「なんで?」
「だって、もう、歌えるようになったんでしょ?」

君は潤んだ瞳で、俺に問う。
理性を保つのに必死だった。この可愛さを俺のものにしたくて、仕方ない。
けれど、そんな君の不安を消すことが出来るように、俺は笑って答えた。
君の愛以外なんて、もう必要ないから。
君が、俺の生きる理由なんだから。

「ばーか。俺はお前にしか歌わねぇよ」
「そ、そっか」

俺がそう言うと、君は頬を赤く染める。
そう言われたことが嬉しいのか、再び僕の腕の中に顔を埋めた。
その行為、一つ一つに俺の心臓は飛び跳ねるように、早く鼓動する。それを隠すように、僕はその小さな体を強く、強く抱きしめた。
これまでの人生、苦しくて、息が出来ない時の方が、遥かに多かった。
愛の意味も知らなくて、ただ求め続けて、苦しんだ人生だった。
けれど、君が今目の前にいるだけで、その全てがどうでも良くなる。君に会うために出会えたんだと、心の底から思う。
抱きしめる腕の力を緩めて、俺は君のサラサラの髪の毛に手を置いた。

「ん?」

それに気がついた君が顔を上げる。
たくさん泣いたんだろう、目を真っ赤に腫らした君が視界いっぱいに映る。
そして、俺はその愛しい君に顔を近づけた。
俺も、君のためだけに歌うからさ。
これからも、俺のことだけを想っていて。俺のためだけに泣いていて。
何かを察した君が、瞼を震わせながら、目を瞑る。
そして俺は、愛しくて仕方がない君に、触れるだけのキスをした。
あの文化祭の時とは違う、心からのキス。
俺の心臓も高鳴って、触れるだけで精一杯だった。温もりが唇を伝って、それだけで心が飛び跳ねそうなくらいに、暴れ出す。
俺は、俺が思っているよりも遥かに、君が好きらしい。
当たり前だ。
だって、俺はーー。
あの時から、ずっと、君に恋をしている。