新調したコートを見に纏い、僕は駅前のベンチに座る。
こうしてクリスマスの日に、ここへ来るのも習慣化してしまった。あの時は、自分を見失っていて、そんな時に、このベンチで座る流夏に出会ったんだっけ。
あの日のことを思い出すと、今でも胸が高鳴って、心臓が締め付けられて、手先が痺れるような感覚に陥る。
きっとそれは、恋に落ちた感覚。
そんな感情を教えてくれた流夏には、感謝しかない。
流夏に出会えて本当に良かった。
目の前にはたくさんの人が行き交っていて、聖夜に相応しい綺麗な笑顔を浮かべている。
僕も含めて、全員、幸せそうだ。
イルミネーションが輝いて、闇間を照らしていく。

「流夏、来るかな……?」

けれど、一抹の不安があることは拭いきれなかった。
ただいまの時刻、十八時十分。
待ち合わせの時刻から、もう十分が経過していた。凍えるような寒さに手が悴んで、ほんの少しの痛みを伴い始める。
流夏が来るなんて保証はどこにもない。
きっと、もう来ないかもしれない。
けれど僕は、今日が終わるまで。クリスマスという日が終わるまで、流夏を待つことにしたから。
そう悴んだ手を、自分の吐息で温めていた時だった。

「――佐倉!」

とても低くて、優しくて、大好きな声。
隣に寄り添ってくれるような、綺麗な声。
そして、僕の名前を呼ぶ声だった。

「……流夏?」

僕は声のした方を振り向く。
そこに見えた景色に、僕は目頭が熱くなった。走ってきたのか肩は上がっていて、だけどチェック柄のマフラーがよく似合っている、流夏だった。
流夏の名を辿る声に、息が白く染まる。
ただ、嬉しかった。
クリスマスの日に、流夏と会えたことが。昨日の今日なのに、きちんと待ち合わせに来てくれた流夏が。
けれど、いつものような空気はやっぱり取り戻せられない。僅かに静寂が二人の間を通り過ぎた後、息を整えた流夏が、最初に開口した。

「悪い、遅くなって」
「う、ううん。ごめんね、昨日は。本当に、ごめん。謝って済むことじゃないけど、本んとうにごめん。だけど、来てくれてありがとう」

流夏を待っている間、ずっと反芻していた言葉を述べる。
流夏はきっと、怒っているに違いない。
絶交されても、文句は言えない。
だって、ずっと騙してきたんだから。
けれど流夏は僕の言葉に、小さく首を横に振った。

「俺こそ、何も言わないで帰って、悪かった。それで、今日なんだけど、俺の家に来て。俺も、佐倉に伝えなきゃいけないことがある」
「っ」

流夏は真剣な表情を浮かべて、そう言い放つ。
あまりにも真剣な表情に、僕はだいたい察しがついた。
昨日、溢れるように流れ出た僕の心のうち。きっと流夏は真面目だから、その返事でもしてくれるのかもしれない。
……怖い。
けれど、僕には断ることも出来ない。

「分かった。行こう」
「おう」

僕は今、ちゃんと笑顔を作れているだろうか。
どこか引き攣ってはいないだろうか。
怖いという感情が、前面に出てはいないだろうか。
そんなことを思いながら、僕は流夏の背中を追った。ずっと見たかった流夏の私服は、言葉にならないほどに、かっこよかった。
身長が高いからロングコートがよく映えて、とてもよく似合っている。
僕は流夏のその一挙手一投足を目に焼き付ける。
けれど、一つ一つ記憶に刻んでいくたびに、流夏を好きな思いが蘇っていった。


 そして、少し足を歩かせると、流夏の家に着いた。
あの日以来だ。
クリスマスなのに、流夏の家の周りはやっぱり暗くて、ぼんやりとした街灯が道を照らしているだけ。
けれど、煌びやかじゃないその光が、今は心地良かった。

「ここに、荷物置いて」
「うん、分かった」

まだ溶けきれない緊張を纏いながら、僕は流夏が指を指した場所に、背負っていたリュックサックを置いた。
僕が案内されたのは、リビングでもなく、流夏の部屋の中だった。ルカの匂いが残り続ける、部屋の中。
あの日は気づかなかったけれど、よく見ると本当にたくさんのギターが置かれていた。その中を見渡していると、懐かしいものが目に入る。

「あ……」

思わず小さく叫んだ。
あの時に、流夏が持っていた、青いギターだ。
その懐かしさに胸が締め付けられる。
あの日見た時よりも使い込まれていて、どれほど流夏が努力したのか、直に伝わってきた。

「ああ、これ?」
「う、うん」

僕の視線の先を追ったらしい流夏が、そのギターを持ち上げた。
あの時の少年には、少し大きいくらいだったのに、今の流夏が持つと、ちょうどいい。
あれから、本当に三年もの時間が経ったらしい。
濃くて、早かった三年が。

「これ、佐倉と会った時に、持ってたギターだよな。古くなってるのに、どうしても捨てられなかった」
「……え?」

僕は思わず聞き返す。
今なんて、?
僕と、最初に会った時?
懐かしそうに目を細めて、笑う流夏から視線を外すことが出来ない。その言葉に、心臓があり得ないほどに、早く拍動を始める。
僕は震える足と声を叱咤して、僅かに笑みを浮かべる流夏に問いかけた。

「流夏? 言いたいことって……?」
「今から話す。でも俺にも心の準備ってものがあるんだよ。だから、そこに座って待って」

けれど、また流夏は話をはぐらかす。
心の準備って、なに?
頭の中がハテナマークで覆い尽くされる。
そして僕は、流夏が指を指したところに腰を下ろした。流夏の気遣いなのか、そこにはふかふかのクッションが置かれていた。けれど、僕の心臓は落ち着きを取り戻すどころか、どんどん早くなっていった。
心臓が口から飛び出そうなくらい、緊張している。
そして流夏は、椅子に座ると、あの青いギターを手に取った。気がつけば、流夏はあの日のように、ギターを構えていた。
そして、次の瞬間、流夏が小さく深呼吸する音が響き渡る。
まるで、今から歌おうとしているみたいだった。

「ま、待ってよ、流夏。何するの?」

流夏は、歌えない。
あの炎上によって、深く傷つけられて、歌えなかったはずだ。歌えなくて、苦しみもがいている姿を、僕はこの目で見てきたから知っている。
流夏が、苦しむ姿なんて、もう見たくない。
もしかして、僕のために歌おうとしてくれているのだろうか。いい意味でも、悪い意味でも、熱狂的だったファンの僕のために。

「そ、そんなっ! 無理してーー」

けれど、次の言葉は言わせてもらえなかった。
いや、言えなかったのが、正しいのかもしれない。
気がつけば、言うはずだった言葉は消えていて、その代わりに涙が頬に落ちてきた。
だって、大好きな声が僕の鼓膜に、心臓に、飛び込んできたんだ。
とっても低くて、ちょっぴり吐息混じりの歌声。
隣に寄り添ってくれるような、綺麗な、綺麗な、歌声。
この三年間、一度も忘れることなく、ずっと恋焦がれてきた大好きな歌声だった。

「君が好きだ
 君が好きだ
 ただ、どうしようもなく、この世界が否定しても、君が好きだ」

あの日のように、小さく震える唇で、そう歌っていた。
あの日僕の心を突き動かした、何か繕うわけでもなく、率直な歌詞がギターのメロディと共に溢れ出す。
涙が溢れるのに、時間なんていらなかった。

「……っ!」

声を抑えるのに、必死だった。
仕切りに溢れる涙のせいで、流夏の顔がうまく見れない。
ただもう一度だけでも聞きたかった、歌声だった。
大好きな、大好きな歌声だった。
もう聞けないって思っていたのに、今、目の前でメロディが流れている。ルカの歌が大好きで、大好きで仕方なかった日々が、走馬灯のように駆け巡った。
楽しくて仕方なくて、毎日が輝いて、胸が苦しくなるほどに幸せだった日々を。
僕は思わず顔を覆う。
この感動に理由なんていらない。ただ、流夏の歌声は、綺麗で、綺麗で、どうしようもなく愛おしかった。
やっぱり、好きだ。
本当に、どうしようもなく、あり得ないくらいに、流夏が好き。
そして、最後の一音が、二人だけの部屋に反響する。
この一秒が惜しいほどに、綺麗な歌声だった。
そして、ギターから手を離した流夏が、僕を真っ直ぐ見た。

「……佐倉」
「うん……!」

僕の名前を優しく呼ぶ声に、僕は泣きじゃくりながら返事をする。脳裏に響く、この綺麗な歌声を一音一音なぞりながら、僕も流夏を見据えた。

「これが、俺の返事だ」

今までに聞いたことのないほどに、柔らかくて、優しい声だった。そして、僕の方へとやってきた流夏は、その綺麗な瞳に僕を映した。

「……え?」
「好きだ、佐倉。俺も、どうしようもないほどに、お前のことが好きなんだ」

稲妻に打たれたような、衝撃が僕を駆け抜けていった。
ほんとう、に?
本当に、流夏が、僕のことを?
す、き、?
状況を全く整理できていないのに、その言葉によって、僕の双眸からは涙が溢れて止まなくなっていた。
信じられなくて、でも、流夏が嘘を言っているようには思えなくて……。
そして、嬉しくて、仕方がない。
ずっと、その言葉を求めていた。
その言葉を聞けることを、夢見ていた。
僕ばっかりが、そう思っていて、一生叶うことなんてないと思っていたのに。
今日だって、全てを捨てる覚悟で来たのに。

「ほんとう、に?」

情けなく、そんな言葉が喉をつく。
けれど、流夏は優しい表情のまま、首を縦に振った。

「そうだ。……悪かった、言うのが遅くなって。佐倉を待たせて」
「っ!」

そして流夏は大きな腕を広げて、その中に僕を入れた。
鼻がツンとして、目頭がどんどん熱くなっていくのが分かる。先ほどまで感じていた寒さなんて、もうどこかへ消えていた。
ただその柔らかい温もりに。脆く、淡い匂いに、溺れていく。

「だって、だって……。流夏が好きなのは、さくらさんで、僕じゃ、なかったはずでしょ? だから、諦めようと、したのに」

我ながら可愛くないなって思う。
けれど、どうしても、確認せざるおえなかった。

「確かに最初はそうだった。でも、佐倉と過ごすたびに、お前から目が離せなくなって……。よく分かんないまま、ずっと、目で追ってた。
俺も、自分が分からなかった。俺が好きなのは、さくらさんなのにって。
でも昨日、教えてくれただろ? 二人は同一人物で、俺が好きだった人も、気がつけば目で追っていた人も、全部、佐倉だったって」

抱きしめられているからか、流夏の心音が鼓膜の近くで響く。
その心音は、僕のように早く、強く動いていた。
その音が、その二文字を信じていいんだと、言ってくれるようだった。
そして流夏が深呼吸をする。

「だから俺は、最初から全部、お前だったんだよ」
「……ううっ」

涙が溢れて止まらない。
せっかく引いた目の腫れが、意味を成さないくらいに、僕は泣きじゃくった。
本当に、流夏が、僕のことを好きだったなんて。
聞きたくて、仕方がなかった言葉を言われることが、こんなにも嬉しいだなんて。
流夏を好きでいて、良かった。
心からそう思った。
あの時、運命のように巡り合わさって、そこから僕は流夏を好きになった。
叶わない恋だと思っていた。
苦しかった。
けれど、こんな形で、流夏と気持ちが通じ合えた。ただ、取り繕う言葉もなく、素直に嬉しかった。

「僕も……っ!」

途切れ途切れでも、構わない。
流夏に届くように、拙いけれど、僕は叫んでいた。

「僕も、流夏が、好き!」
「ああ」
「本当に、本当に、ずっと、大好き……!」

そう言った途端、流夏が抱きしめる腕に力を込めた。
より強い力で、僕と流夏の体が密着する。それは苦しいくらいなのに、今はただその苦しさが、嬉しかった。

「ああ、俺もだ」

綺麗で、大好きで仕方がない声が、降り注ぐ。

「俺も、あの時から、ずっと、好きなんだ」

僕も、流夏の背中に手を回した。流夏の、その涙まじりの声に、僕はその腕の中でうわんと声をあげて泣いた。
そして、強く、強く、抱きしめる。
あんなに遠回りして、あんなに涙を流して、あんなにすれ違った日々があったからこそ、その二言が、魔法の言葉のように、僕を幸せにした。
ああ、本当に、流夏には叶わない。
これからもずっと、忘れられないくらいに、流夏に恋をしている。