学校がなくて、流夏と会えなくなっても、クリスマスの日だけを楽しみに過ごしていた。交換した連絡先のメッセージは、途切れることなく毎日続いた。
ほとんど一人暮らし状態な流夏は常に暇なようで、何かと僕に話しかけてくる。スマホを開けばいつも『成瀬流夏』という文字が見えるようになった。
その文字を眺める度に、僕の顔は綻んで、意図せず口角が上がり続ける。
クリスマスの日まで、流夏を好きでいよう。
そう決心すると、心が楽だった。
勘違いも、幸せも、好きなだけ感じることが出来た。
流夏の初めて見る私服を想像したり、デートプランを考えたり。
ベッドの上で、そんな想像をしている時間が、何よりも楽しい毎日だった。
近づくクリスマスの日に、胸を踊らせていた。だからだろうか、僕はクリスマスイブの前日に、つまり二十三日の夜に体調を崩した。

「三十八度もあるわね。成瀬くんには、行けないかもしれないって連絡したら?」
「……」

職場から急いで帰ってきた母さんが、体温計を見て嘆く。
そう、僕は三十八度もの高熱を出してしまったんだ。
朝から足に感じる倦怠感と頭痛に、どこか嫌な気はしていた。
でも、まさか、こんな日に。
まるで、積み上げてきたものが一気に崩れ落ちるような感覚だった。
もし、クリスマスの日に流夏に会えないのなら、僕はちゃんとケジメをつけることも出来ず、ずるずる同じことを繰り返すかもしれない。
それは、嫌だ。
けれど、冷静になって考えてみた時、何よりも優先したかったのは、流夏の体調だった。もし移してしまったら。きっと罪悪感なんて言葉じゃ言い尽くせない。

「……はぁ」

相変わらず第一優先が流夏の自分に嫌気が刺してくる。
どんなに頑張ったって、この恋が実ることなんてないのに。
今日も、流夏を一番に考えている。どうしようもないほどに一途な僕が、何だか滑稽に思えた。
そして僕は、流夏にメッセージを送った。
『ごめん。体調悪くて、今。クリスマスまでには治してみせるけど、行けなかったらごめん』
僕がそう送信すると、光のようなスピードで既読がつく。
きっと、何してるんだって呆れられるんだろうな。
けれど、送られてきたメッセージは僕の予想の斜め上を走った。
『看病、しにいってもいいか? 今日は迷惑だろうから、明日にでも』

「え?」

そのメッセージに間抜けな声が出てしまう。
流夏が?
僕の、お見舞い?
僕は少しフリーズしたのち、朦朧とする頭で、メッセージを打つ。
『大丈夫だよ。移したら悪いし。母さんもいるから』
『俺が風邪引いた時も、看病してくれただろ? これで借りを返したいんだよ。それに、文化祭の時に、優ちゃんたちとも面識がある。心配すんなって。それよりも、佐倉が心配だから行かせてくれ』
けれど、そんな言葉に流夏は流されることはなかった。
むしろ、僕よりも遥に大きな熱量で押される圧に、負けてしまいそうになる。
『でも、』
『こういう時くらい、頼れ』
こうやって僕が弱っている時、流夏は僕が欲しかった言葉をくれる。
熱で、少し弱っているのかもしれない。
流夏の優しさが滲み出た文面をみた瞬間、鼻がツンとして、視界がいびつに歪んだ。そして僕は、流夏に頼ることにした。
どんな理由であれ、流夏に会えることは嬉しいから。
『ありがとう。じゃあお願いします』
『おう』
最大限の感謝を込めて、僕は返答した。
けれど、僕はこの時、無理矢理にでも断っておけば良かったのかもしれない。
もし流夏が僕の部屋に来なければ、あんなことにはなっていないと思うから。
自分の不甲斐なさが、ただ憎らしい。


 そして次の日。
流夏はやってきた。
マフラーを首に巻いて、温かそうなセーターを身に纏っていた。寒さからなのか、少しだけ唇は震えていて、赤くて、あの時の少年のような幼い流夏が立っていた。
やっぱり、どこか暗くてだけど儚くて、綺麗な流夏に冬はとっても似合っている。

「いらっしゃい。来てくれてありがとう!」
「おう」

僕のためにここまで足を運んでくれた流夏に頭を下げる。
久しぶりに会った流夏は眩しくて、照れくさそうに笑うその笑顔に僕の胸は高鳴った。
そして流夏を家の中に招き入れる。
流夏の手には、あの日の僕と同じようにビニール袋が下げられていた。中には、ゼリーやプリンなど、病人が食べやすそうなものばかり。
きっと、頭を悩ませて選んでくれたんだろう。
そう思うと、なんだか食べるのが勿体無く思ってしまう。
一つ一つ丁寧に冷蔵庫に入れていくと、扉の影から様子を伺うように優と翔たちが顔を出す。
流夏のことが気になるけれど、緊張しているからか僕の背後に隠れている。

「ほら、優。翔。挨拶して。流夏だよ」

小さく、二人の背中を押す。

「え、えっと。佐倉優です!」

まず開口したのは、優だった。昔からコミュニケーション能力が高い優は、きっかけがあるとすぐ自分のものにする。

「……翔」

次に、翔が蚊の鳴くような声でぺこりと頭を下げる。そのぎこちない挨拶が可愛くて、僕の口角が少しだけ綻ぶ。
流夏は、そんな二人に駆け寄ると、温かくて、大きな手で頭を撫で回した。優と翔もその温かさに身を任せているようだった。

「可愛いな。佐倉みたい」
「っ!」

そんな言葉をボソッと放ちながら。
僕の頬が赤くなっていることなんか知らずに、流夏と優と翔は、いつの間にか仲良くなっていた。僕が自室で寝ている時も、扉の外からは三人の楽しそうな声が聞こえてきた。
案外、流夏は子供が好きなのかも。
流夏は兄弟がいないって言っていたから。
目が覚めると聞こえてくる、幸せなその声に、僕の体調は自然と快方へ向かっていったと思う。
……その時までは。
いずれ、やってくることだと、腹を括ってはいた。
隠し通せることでもないと思っていたから。
だから流夏が全てを知る前に、流夏の前からいなくなろうと思っていたのに。
その時はやってきてしまった。
処理しきれないほどのスピードで。
ただ、体温計を取ってもらおうとしただけだったんだ。
けれど、どこに収納していたか忘れて、流夏に探してもらった。
その時に、あの引き出しが開いた。
そして引き出しに散らばったその紙切れを、流夏が手に持ったんだ。
その紙切れは、ファンレターだった。
ルカに当てた、ルカが大好きだという感情を目一杯綴った手紙。僕はファンレターを送る時、何度も何度も見直してから送るようにしている。
そのため、一枚のファンレターを書くたびに、何枚もの用紙を必要とした。
だから書き損じた手紙が引き出しに入っていても、なにも不可解ではなくて……。

「なんだよ? これ、なんだよ? これ、さくらさんが俺に書いてくれたファンレターだろ? なんで佐倉が持ってんだよ?」

低く、重く、鋭い声。
その声に、僕の喉がヒュッと鳴る。
目の前には、僕が書いたファンレターを持っている流夏がいた。その顔は、いつも僕に向けくれる笑顔なんかじゃなかった。
眉は吊り上がっていて、切れ長の目で僕を見つめて。今まで見た中で一番怖い形相だった。

「……え、あ……」

あまりの突然の出来事に、頭が処理をしきれない。
けれど、終わった、と思った。
僕は流夏を騙し続けていた。それがバレたのだから、ただで済まないのは当然。

「盗んだのか?」

流夏の鋭い声が狭い部屋に反響する。頭が真っ白になって、僕の手が小刻みに震え出す。

「ち、違う」

絞り出すように、一つ一つ言葉を紡いでいく。
けれど、流夏は僕のパニックなんて気にも止めずに、捲し立てる。

「じゃあ、なんで! これが、あんだよ? 盗んでないなら、なんでここに? これは間違いなく、さくらさんが書いてくれた手紙だ。さくらさん以外じゃない佐倉が、なんで持ってんだよ?」

流夏も相当、パニックに陥っているようだった。
それは、そうだろう。
お見舞いに来た友人の家から、自分の好きな人の手紙が出てくるなんて。仮に僕が流夏の立場なら、きっと、冷静になんていられない。
せめて、僕くらいは落ち着いていなきゃいけない。
この場を拗らせたのは、僕なんだから。
けれど、そう思っても、手の震えは一向に止まらない。妙な汗が背中から吹き出して、視界もいびつに歪む。

「……ごめん」

だめだ。
ここで、認めたら。何もかも、崩れ落ちてしまう。
頭の中では分かっているのに、そう一言こぼれ落ちると、もう歯止めが効かなくなってきた。

「本当に、ごめんね。流夏」
「どういうことだよ?」

流夏の声が、遠くの方で響く。

「それ、僕が、書いた」
「……は?」

何かが、崩れ落ちる音がする。
今日までの流夏との日々が走馬灯のように溢れ出す。
ただ、幸せだった。
大好きで、大好きで仕方なかった流夏と、奇跡のように巡り会えた。
再開した流夏の姿は、あの日の少年とはすっかり変わっていたけれど、それでも流夏だった。
怖がりなところとか、案外甘いものが好きなところだとか、イタズラっぽく笑う笑顔だとか、その全てに惹かれた。
いつしか、流夏を好きになった。
けれど、流夏の好きな人は、僕であって、僕じゃなかった。
苦しくて、苦しくて、仕方がなかった。どうすればいいか分からなくて、流夏に笑いかけられるたびに、心臓が傷んだ。
これは、僕に向けられるべきものじゃないって。
辛かった。
けれど、もし、この苦しさから逃れられるのなら……。隠し通すことなく、素直に言えたなら。未来は違うかもしれない。
嫌われたって、無視されたって、この苦しさからは逃れられる。
そう思った瞬間、僕はもう止まらなかった。

「さくらさんっていう人はいない。さくらさんは、僕なんだ」

不思議と落ち着いているのが分かる。

「ど、どういうことだよ?」
「ずっと、ファンレターを送り続けてきたのは、僕だよ。言ったでしょ? 大ファンだって。毎月ファンレターを送っていた。でも、本名で出すのは恥ずかしかったから、佐倉を平仮名にして、出していた。
だから、さくらさんなんて人はいない。全部、僕だったんだ。
今まで黙っていて、ごめん。騙してて、ごめん。言えなくて、ごめん」
「……は?」

涙が溢れて止まらない。
流夏の顔を見ることも出来なくて、僕は息を吸うのも忘れるくらいに矢継ぎ早に捲し立てる。

「でも、僕だって苦しかった!
だって、大好きな流夏が、いないはずの人に恋をしていたから。
あの日、流夏からあの話を聞いた時、本当に苦しかったんだよ?
僕は、こんなに大好きなのに、流夏の好きな人は違って……。僕なのに、僕じゃなくて。
でも、言ったら嫌われるかなって思うと、言えなかった。三年が経って、ようやく流夏に会えて。そんな幸せな日々を壊す勇気なんて、僕には無かったから」

流夏の驚いている顔が、視界の端に映る。流夏は呆然と、捲し立てる僕を見ていた。
その瞳は、どんな色を浮かべているんだろう。
傷ついているのかもしれない。
はたまた、僕を気持ち悪がっているのかもしれない。
でも今更我に帰ったって、もうどうしようもない。
僕は大きく深呼吸をした。乱れた呼吸を少しでも落ち着かすように、ゆっくりと。

「だから……さくらさんは、僕なんだ。許して貰えないのは、分かってる。でも、本当に、ごめんなさい」
「……」

流夏は何も言わない。
僕たちの間には、重すぎる静寂が訪れた。
聞こえるのは、優たちが遊ぶ声と、僕が荒く息をする呼吸音だけ。
そしてしばらく経つと、流夏が口を開いた。
あとに続いた言葉は、僕を慰めるものでも、許すものでもなくて、完全に遮断するような声だった。

「頭冷やす」

ぶっきらぼうに、そう言い放った。
扉に手をかけて、僕の部屋から去っていく流夏。その乱雑な足音が、狭い部屋に反響する。僕はその背中を見つめることしか出来なかった、追いかけることすら出来なかった。
……終わった。
本当に、もう終わりだ。
完全に嫌われてしまった。
不意に足の力が抜けて、僕は地へと落ちていく。床の冷たい冷気が、ズボンの繊維を這って、僕の足に伝わってくる。

「……ううっ……うっ」

生きてきた人生の中で、こんなに胸が痛んだことはない。
身体中が、殴られたみたいに痛くなって、僕は顔を覆う。優たちに、泣いている声が聞こえないように、口元を覆う。
けれど、溢れ出す嗚咽は、どんどん荒ぶっていく。
大好きだった流夏に嫌われた。
そして、傷つけた。
もう絶対に、人を傷つけないって誓ったのに。僕はまた、そんな誓いを壊してしまった。
どうして、普通の人に、なれないのだろう。
僕は、大好きな人を傷つけることしか出来ない。
そんな自分が、嫌いで、気持ち悪くて、仕方がなかった。