「まもなく〇〇駅に停車いたします」
不意に聞こえたその声に、僕はハッと体を起こす。
……良かった、乗り過ごすところだった。
早くなった心臓を抑えながら、僕はセーターに身を捩る。
僕は寝ているわけでも無いのに、電車を乗り過ごすことが時々ある。それはきっと、ルカの歌声に魅入っているからかもしれない。
あの時の少年は、気がつけば有名人になっていた。芸能事務所にも所属し、『ルカ』という名で曲を紡ぎ続けていた。
凍えるような寒さの中に、ふわりと温かさを与えてくれるあの歌声は、世間も虜にしたらしい。顔さえ明かしていないものの、あの時からファンだった僕は、声を聞いた途端、一瞬にしてあの少年だと気がついた。
それからはもう、ずっと、ファンだ。
『さくら』
という名で、どれだけ貴方に救われたか、それを綴ってはファンレターとして送る毎日。
あれだけ苦しかったのに。
立っていられないほど傷ついて、傷つけて、世界から色が消えていったのに。
ルカに出会ったあの日から、世界に色が付いて、羽が生えたように自由になった。
……けれど、ルカはもういない。
あの炎上を筆頭に、泡沫に溶けるように、静かに、ファンの前からその声を消し去った。
『歌えなくなりました』
そんなコメントを残して。
初めて出会った日から、もうすぐ三度目の冬が来る。
「おっはよー! こう!」
僕は突然響いたうるさい声に、皺を寄せる。
よく透るその声は、朝のホームにちょっとした波乱を招く。
「うるさいなぁ。ちょっとは声のトーン落としてよ」
「へへっ! ごめん、ごめん」
「言っとくけど、ここ駅だからね?」
「……はい」
僕がそう返答すると、小さく縮こまったこの人は怜奈だ。
小さい頃からの幼馴染で、僕のことをよく知っている、数少ない人。
そして、恋愛対象が男だという僕のことも黙って頷いてくれた人。
そんな怜奈は底なしに明るくて、男女問わず人気らしい。クラスの中でも、怜奈の隣は必ず誰かがいる。
けれど実際は、大雑把な性格で、本当に手がかかる人だ。
ほら、今だって。
「怜奈。ここ、寝癖ついてる」
「え! どこどこ? サイアク!」
跳ねた前髪を僕が指差すと、明るい笑顔は一変。焦ったように寝癖を探し出す。
そして寝癖を確認すると、胸ポケットから出した櫛でとかした。
「さっすがお母さん! ナイス!」
「……はぁ」
眩しいくらいの笑顔で、グーサインを作る怜奈。
僕には小さい弟と妹がいて、その世話を一任されている。そのせいか、自分でも思っている以上に面倒見がいいらしい。
お母さんと呼ばれることだって、一度や二度じゃない。
あまり嬉しい称号じゃないけれど。
僕は一つため息をついて、学校に行くため、歩き出した。
僕の後を追うように怜奈が駆けてきて、他愛もない会話を繰り広げる。
そうやって僕は毎日を過ごしている。
ルカがいなくても、僕はこの世界できちんと生きている。
ルカの歌を聴いて、ルカの亡霊をしながらでも、それでも世界はこうやって回っている。
そして僕たちは改札をくぐり、広い空のもとに着く。
その時、秋に相応しい冷たい風が僕たちを襲った。
「さむっ」
まだルカの歌声がこだまする脳内を振り払いながら、そう僕は体を震わせた。
二年二組の教室に入ると、一気に喧騒が僕らを包む。
「はよー。佐倉」
「ん。おはよう」
眠そうに欠伸をするクラスメイトたちと挨拶を交わして、僕は窓側の後ろから二番目の席に腰掛けた。
この席は教室の様子がよく見える。
二学期も、はや一ヶ月が経過して、白い夏服からポツポツと黒いセーターが顔を出していた。
そして僕はリュックサックからイヤホンを取り出した。
この時間が一番好きだ。
ルカと出会ったあの季節を前にして、あの声を思い出す。
それだけで僕は、涙が出そうなくらいの幸せに包まれるのだ。友達がいないわけではないが、クラスメイトたちはイベントが盛り沢山の毎日に忙しそうにしていた。
外壁をつくり、その喧騒を遮断する。
そしてプレイリストを再生して、僕は始業のチャイムが鳴り響くまで、机に突っ伏した。
「――おいっ。起きろよ、こう」
「……」
「こうっ!」
「……!」
不意に僕を呼ぶ声が聞こえて、ハッと顔を上げる。
その視界の先には、クスクス笑う声と、クラスメイトの視線が多方から僕に集まっていた。
「起きたか?」
そう、隣の席の太田に声をかけられて、僕は顔に熱が集まっていくのを感じた。
……サイアクだ。
「う、うん」
穴があったら入りたい。
僕は素早く両耳からイヤホンを取り外して、リュックサックに乱雑に詰め込む。
僕が起きたのを確認すると、教卓で目を光らせていた担任がはぁ、と大きなため息をついた。
担任は生活指導の先生で、何かと面倒くさい。
きっと、ネチネチと文句を言われるんだろうな。
自分の醜態を改めて憎んだ。
けれど何故か、お咎めはなしのようだった。
よく分からないけれど、ただで済んだみたい。
安堵が駆け巡り、僕が一息つくと、担任は教室をぐるりと見渡した。
「いいか? お前らに一つ言わなきゃいけないことがある」
「え、なになに? 改まって」
その言葉に、教卓近くのクラスメイトが、期待を込めるような眼差しで見つめた。担任が真面目そうな雰囲気を醸し出してきたからだ。
目を付けられている僕も流石に耳を傾けようと、教卓の方へ視線を移す。
「今日からこのクラスに転校生がやってくる。みんな仲良くするように。
……入ってきていいぞ、成瀬くん」
担任がそう言い終わると、教室はドッと歓喜に包まれた。この時期の転校生に戸惑う声と、嬉しそうな声。互いに顔を見合わせ、突然の展開に胸を躍らせているようだった。
僕も意外な展開に心が浮き立つ。
転校生ほど、夢のあるイベントはないだろうから。
そして、担任の声に呼応するように扉が徐に開いた。
ガラガラガラッ
少し乱暴な開け方。
そして次の瞬間、瞳に映ったものに僕は息を呑んだ。
「キャー! イケメンじゃん! 最高!」
「やっばい!」
「うおー!」
「おい、静かにしろ!」
担任に注意されても、クラスメイトたちは口々に、思いの丈を叫び出した。でも僕はその流れに乗ることなんて出来なかった。
呼吸も瞬きも上手くできなくて、ドクドクと熱い血が全身を駆け巡っていく。
教室は喧騒に包まれているのに、僕の周りだけが静かで、ただ鼓動する音だけが聞こえた。
……ほんとう、に?
情報の処理が追いつかなくて、僕は口を情けなくもぽかんと開けながら、その様子をただただ見つめた。
そのスラリと伸びた背丈に、ふわふわな髪の毛。そして綺麗で整っている顔。
心臓の鼓動がどんどん早くなって、気を緩めてしまえば涙が溢れてしまいそうだった。
「成瀬流夏。今日からよろしくお願いします」
注目を浴びた転校生は、ぶっきらぼうにその一言を口にした。
その声が、まるであの日のように心に飛び込んでくる。
周りが見えなくなって、ぼやけていった。
「……どう、して」
振り絞った僕の声は、クラスメイトの喧騒に溶けていく。
「……どうして、ルカが?」
その言葉を口にすると、ポロリと頬に液体が流れ落ちた。
ずっとずっと、あの日から、思い焦がれていたルカ。
ルカは顔出しをしていないアーティストだったから、目の前に佇む転校生がルカだっていう確証は微塵もない。
それに、あの時の少年とは、まるで違う。
あの時よりもずっと無愛想で、小さく震える姿なんてなくて、堂々としている。ふにゃりと顔を綻ばせて、嬉しそうに弧を描く唇もない。
けれど、思い焦がれてきた三年間が、彼をルカだと言っていた。
その低くて、落ち着いた声が、僕が大好きなその声が、彼がルカだってことを証明していた。
「新しくクラスメイトになった成瀬くんに、色々教えてやれ」
「はーい!」
担任が話をまとめるように、大きく手を叩いた。その声に、これ以上ない一体感で頷くクラスメイトたち。
「じゃあ、成瀬くんの席はあの席でいいか?」
担任が隣にいたルカに問いかける。
ルカはその指の先を視認すると、小さく頷いた。
担任が指を指していたのは、窓際の一番後ろの席だった。
教室をぐるりと見渡すこともできる。空を見上げることができる席。
そして、僕の一つ後ろの席。
この席の持ち主は留学に行っていて、今は誰も座っていない。
つまり、僕の一個後ろの席に、ルカが座ることになる。
その事実を認識した途端、僕の心臓はより一層鳴り響いた。
この音がクラスメイトに聞かれていないか、心配になってしまうほど。
だって……ルカは、僕の大切な人。
生きる希望を与えてくれた人。
芸能界から姿を消したルカと、こうやってまた巡り会えるなんて。こんな奇跡みたいなことが起きるなんて。その整った顔を見ると、また胸が高鳴りだす。
心臓がぎゅうっと痛んで、手が痺れる。
「ホームルームは以上だ」
そう言うと、担任は名列表を脇に持って、クラスを出て行った。
その瞬間、ルカを囲うクラスメイトたち。
一瞬にしてルカの周りに人だかりが形成されていく。まるで芸能人の囲み取材のような、盛り上がり方だ。
あの日、僕と同じくらいだった身長はとうに追い抜かされているようだった。どう見ても百八十センチ以上あるだろう。
男女問わず囲まれていても、ルカは飛び抜けて輝いて見えた。
水晶体のように綺麗で、その場にいるだけで目が奪われてしまう。
けれど、その眉間には皺が寄っていた。
注目されて煩わしいのか、ずっと不機嫌に見える。それだけじゃない。話しかけられているのに、一向に口が開かない。
「成瀬くん? だっけ。初日からすごい人気じゃんー」
「……そう、だね」
友達までもがルカを囲んで、つまらなそうな顔を浮かべた怜奈が僕の前に座る。
声を出すのにも精一杯な僕は、小さく返答した。
声の異変を悟られないように、小さく。
だけど、怜奈は気がついたらしい。
「え! どうしたの、こう!」
「っ! うるさ……」
ここ最近でも、特に大きな声が降りかかった。
どうも、僕の頬に流れる涙に気がついたらしいかった。慌てて手の甲でぐっと拭き取っても、怜奈に見られた涙は消えない。
「何かあった? いじめられた? 誰かにやられた? 私が一発殴ってくるよ?」
ものすごい形相で、僕は問い詰められる。どうしてそんな思考に至ったのかは知らないが、僕は怜奈が何かやらかす前に首を横に振った。
行動力の塊である怜奈は放っておくと、必ず何か波乱を巻き起こすだろう。
「違うよ。大丈夫だよ」
「ならなんで泣いてるの? 珍しいじゃん、こうが泣くなんてさ」
目を丸くした怜奈が視界いっぱいに映し出される。
僕を査定するような目付きに、ふうっと息を吐き出す。この人は案外、口が堅い方だ。
「ルカ、知ってるでしょ?」
「……うん。こうの好きな人」
そうポツリと話し始めると、怜奈は大人しく目を伏せて、相槌を打った。
僕は溢れようとする感情を制御して、端的に説明する。
「その。成瀬くんが、ルカに似てて……」
「え!?」
怜奈は体を仰け反らせて、驚きを露わにした。大きく開いた口元に手のひらが重なる。
より一層響いた声に、僕の眉間にも皺が寄る。
でも、驚くのも無理はない。
だって僕でさえ、夢心地なんだ。
怜奈はしばらく黙ったあと、何かを呑み込むように白い歯が覗くほどの朗らかな笑顔で笑った。
「良かったじゃん!」
「……うん」
これが、本当に良いことなのかは、僕には分からない。これが現実だっていう確証だって持てていない。都合の良い夢かもしれない。
それに、ルカはもう既に手に届かないところにいる。
けれど僕は小さく頷いた。
そうだ。
このままルカの亡霊として生きていくより、ずっと良いのかもしれない。
少しでもルカと同じ空間に入れるなら。
あの日のように、目を合わせられるのなら。
あの日よりも近い距離で、その声を聞けるのなら。
その存在を近くで感じられるのなら、それはこれ以上ない幸せだ。
その時、また授業を知らせる鐘が頭上に降り注いだ。
「ああー、鳴っちゃった」
クラスメイトの心底残念そうな声が響き渡る。
教卓の前に形成された塊は、一人一人抜けていき、小さくなっていく。
そしてルカも席に座ろうと、こちらへ方向を向けた。
「っ!」
ルカの顔がより鮮明に映し出される。その綺麗で透き通るような瞳と、薄く真っ赤な唇が、より僕の鼓動を早くする。
ああ、やっぱり。
やっぱり、ルカだ。
間違いなんかじゃない。
本当に、ルカだ。
再び溢れ出そうとする涙をぐっと堪える。
あの日、凍える寒さの中で、小さな体で、愛の唄を歌っていた少年。聖夜も相まって、それはそれは綺麗だった。
成瀬流夏という人には、その少年の美しさが、溢れんばかりに漂っている。
都合の良い夢なんかじゃないみたいだ。
コツコツコツ
ルカの歩く足音だけが、響いて聞こえる。
そして僕の横を颯爽と通り過ぎると、そこからは柔軟剤のような、柔らかくて、ほんのり甘い匂いが漂った。
鼻腔をくすぐる心地の良い匂い。
それだけで、どうしようもなく心が揺れ動く。
ああ。ルカは、本当に、ちゃんと存在していたんだ。
ファンの前から姿を消しても、ちゃんと。
ただそれだけで、無性に喜んでいる自分がいた。嬉しくなって、思わず顔が綻んでしまう。
そして僕はゆっくりと後ろを振り返った。
「……あ、あの」
ずっと思い焦がれていた存在をいざ前にすると、緊張して声が震えてしまう。
「なに」
ルカが怪訝そうに放つ。
その声には何の感情もこもっていなくて、背中が怖気つきそうになる。
けれどそんなことよりも、ただ、嬉しかった。
僕は今、流夏と話している。
視線が交差していて、同じ空気の中にいる。
それだけで、幸せが全身を駆け巡った。
視線が合わさって、僕の顔は情けなく綻んでいく。この世界一綺麗な声が降りかかって、ただ嬉しくて、ルカに笑いかける。
「僕、佐倉こうって言うんだけど……。よろしくね」
嫌われないように、慎重に。
「さくら?」
その言葉に、流夏がパッと顔を上げる。
「うん。佐倉こう。よろしくね!」
「……よろしく」
そして、ルカの頭が少しだけ揺れた。
この時の喜びは、もう言葉では表現できない。
欠けていたピースが埋められたように、もう一度、時計が回り出した音がした。
あの時、運命のように巡り合った君に、もう一度会えた。
心臓がドキドキ高鳴って、手が痺れていく。
きっと僕は今、色んな感情が織り混ざって、変な顔をしているに違いない。でも、この瞬間は、間違いなく世界で一番幸せだった。
凍てついた土に、ようやく暖かい風が吹いたんだ。
不意に聞こえたその声に、僕はハッと体を起こす。
……良かった、乗り過ごすところだった。
早くなった心臓を抑えながら、僕はセーターに身を捩る。
僕は寝ているわけでも無いのに、電車を乗り過ごすことが時々ある。それはきっと、ルカの歌声に魅入っているからかもしれない。
あの時の少年は、気がつけば有名人になっていた。芸能事務所にも所属し、『ルカ』という名で曲を紡ぎ続けていた。
凍えるような寒さの中に、ふわりと温かさを与えてくれるあの歌声は、世間も虜にしたらしい。顔さえ明かしていないものの、あの時からファンだった僕は、声を聞いた途端、一瞬にしてあの少年だと気がついた。
それからはもう、ずっと、ファンだ。
『さくら』
という名で、どれだけ貴方に救われたか、それを綴ってはファンレターとして送る毎日。
あれだけ苦しかったのに。
立っていられないほど傷ついて、傷つけて、世界から色が消えていったのに。
ルカに出会ったあの日から、世界に色が付いて、羽が生えたように自由になった。
……けれど、ルカはもういない。
あの炎上を筆頭に、泡沫に溶けるように、静かに、ファンの前からその声を消し去った。
『歌えなくなりました』
そんなコメントを残して。
初めて出会った日から、もうすぐ三度目の冬が来る。
「おっはよー! こう!」
僕は突然響いたうるさい声に、皺を寄せる。
よく透るその声は、朝のホームにちょっとした波乱を招く。
「うるさいなぁ。ちょっとは声のトーン落としてよ」
「へへっ! ごめん、ごめん」
「言っとくけど、ここ駅だからね?」
「……はい」
僕がそう返答すると、小さく縮こまったこの人は怜奈だ。
小さい頃からの幼馴染で、僕のことをよく知っている、数少ない人。
そして、恋愛対象が男だという僕のことも黙って頷いてくれた人。
そんな怜奈は底なしに明るくて、男女問わず人気らしい。クラスの中でも、怜奈の隣は必ず誰かがいる。
けれど実際は、大雑把な性格で、本当に手がかかる人だ。
ほら、今だって。
「怜奈。ここ、寝癖ついてる」
「え! どこどこ? サイアク!」
跳ねた前髪を僕が指差すと、明るい笑顔は一変。焦ったように寝癖を探し出す。
そして寝癖を確認すると、胸ポケットから出した櫛でとかした。
「さっすがお母さん! ナイス!」
「……はぁ」
眩しいくらいの笑顔で、グーサインを作る怜奈。
僕には小さい弟と妹がいて、その世話を一任されている。そのせいか、自分でも思っている以上に面倒見がいいらしい。
お母さんと呼ばれることだって、一度や二度じゃない。
あまり嬉しい称号じゃないけれど。
僕は一つため息をついて、学校に行くため、歩き出した。
僕の後を追うように怜奈が駆けてきて、他愛もない会話を繰り広げる。
そうやって僕は毎日を過ごしている。
ルカがいなくても、僕はこの世界できちんと生きている。
ルカの歌を聴いて、ルカの亡霊をしながらでも、それでも世界はこうやって回っている。
そして僕たちは改札をくぐり、広い空のもとに着く。
その時、秋に相応しい冷たい風が僕たちを襲った。
「さむっ」
まだルカの歌声がこだまする脳内を振り払いながら、そう僕は体を震わせた。
二年二組の教室に入ると、一気に喧騒が僕らを包む。
「はよー。佐倉」
「ん。おはよう」
眠そうに欠伸をするクラスメイトたちと挨拶を交わして、僕は窓側の後ろから二番目の席に腰掛けた。
この席は教室の様子がよく見える。
二学期も、はや一ヶ月が経過して、白い夏服からポツポツと黒いセーターが顔を出していた。
そして僕はリュックサックからイヤホンを取り出した。
この時間が一番好きだ。
ルカと出会ったあの季節を前にして、あの声を思い出す。
それだけで僕は、涙が出そうなくらいの幸せに包まれるのだ。友達がいないわけではないが、クラスメイトたちはイベントが盛り沢山の毎日に忙しそうにしていた。
外壁をつくり、その喧騒を遮断する。
そしてプレイリストを再生して、僕は始業のチャイムが鳴り響くまで、机に突っ伏した。
「――おいっ。起きろよ、こう」
「……」
「こうっ!」
「……!」
不意に僕を呼ぶ声が聞こえて、ハッと顔を上げる。
その視界の先には、クスクス笑う声と、クラスメイトの視線が多方から僕に集まっていた。
「起きたか?」
そう、隣の席の太田に声をかけられて、僕は顔に熱が集まっていくのを感じた。
……サイアクだ。
「う、うん」
穴があったら入りたい。
僕は素早く両耳からイヤホンを取り外して、リュックサックに乱雑に詰め込む。
僕が起きたのを確認すると、教卓で目を光らせていた担任がはぁ、と大きなため息をついた。
担任は生活指導の先生で、何かと面倒くさい。
きっと、ネチネチと文句を言われるんだろうな。
自分の醜態を改めて憎んだ。
けれど何故か、お咎めはなしのようだった。
よく分からないけれど、ただで済んだみたい。
安堵が駆け巡り、僕が一息つくと、担任は教室をぐるりと見渡した。
「いいか? お前らに一つ言わなきゃいけないことがある」
「え、なになに? 改まって」
その言葉に、教卓近くのクラスメイトが、期待を込めるような眼差しで見つめた。担任が真面目そうな雰囲気を醸し出してきたからだ。
目を付けられている僕も流石に耳を傾けようと、教卓の方へ視線を移す。
「今日からこのクラスに転校生がやってくる。みんな仲良くするように。
……入ってきていいぞ、成瀬くん」
担任がそう言い終わると、教室はドッと歓喜に包まれた。この時期の転校生に戸惑う声と、嬉しそうな声。互いに顔を見合わせ、突然の展開に胸を躍らせているようだった。
僕も意外な展開に心が浮き立つ。
転校生ほど、夢のあるイベントはないだろうから。
そして、担任の声に呼応するように扉が徐に開いた。
ガラガラガラッ
少し乱暴な開け方。
そして次の瞬間、瞳に映ったものに僕は息を呑んだ。
「キャー! イケメンじゃん! 最高!」
「やっばい!」
「うおー!」
「おい、静かにしろ!」
担任に注意されても、クラスメイトたちは口々に、思いの丈を叫び出した。でも僕はその流れに乗ることなんて出来なかった。
呼吸も瞬きも上手くできなくて、ドクドクと熱い血が全身を駆け巡っていく。
教室は喧騒に包まれているのに、僕の周りだけが静かで、ただ鼓動する音だけが聞こえた。
……ほんとう、に?
情報の処理が追いつかなくて、僕は口を情けなくもぽかんと開けながら、その様子をただただ見つめた。
そのスラリと伸びた背丈に、ふわふわな髪の毛。そして綺麗で整っている顔。
心臓の鼓動がどんどん早くなって、気を緩めてしまえば涙が溢れてしまいそうだった。
「成瀬流夏。今日からよろしくお願いします」
注目を浴びた転校生は、ぶっきらぼうにその一言を口にした。
その声が、まるであの日のように心に飛び込んでくる。
周りが見えなくなって、ぼやけていった。
「……どう、して」
振り絞った僕の声は、クラスメイトの喧騒に溶けていく。
「……どうして、ルカが?」
その言葉を口にすると、ポロリと頬に液体が流れ落ちた。
ずっとずっと、あの日から、思い焦がれていたルカ。
ルカは顔出しをしていないアーティストだったから、目の前に佇む転校生がルカだっていう確証は微塵もない。
それに、あの時の少年とは、まるで違う。
あの時よりもずっと無愛想で、小さく震える姿なんてなくて、堂々としている。ふにゃりと顔を綻ばせて、嬉しそうに弧を描く唇もない。
けれど、思い焦がれてきた三年間が、彼をルカだと言っていた。
その低くて、落ち着いた声が、僕が大好きなその声が、彼がルカだってことを証明していた。
「新しくクラスメイトになった成瀬くんに、色々教えてやれ」
「はーい!」
担任が話をまとめるように、大きく手を叩いた。その声に、これ以上ない一体感で頷くクラスメイトたち。
「じゃあ、成瀬くんの席はあの席でいいか?」
担任が隣にいたルカに問いかける。
ルカはその指の先を視認すると、小さく頷いた。
担任が指を指していたのは、窓際の一番後ろの席だった。
教室をぐるりと見渡すこともできる。空を見上げることができる席。
そして、僕の一つ後ろの席。
この席の持ち主は留学に行っていて、今は誰も座っていない。
つまり、僕の一個後ろの席に、ルカが座ることになる。
その事実を認識した途端、僕の心臓はより一層鳴り響いた。
この音がクラスメイトに聞かれていないか、心配になってしまうほど。
だって……ルカは、僕の大切な人。
生きる希望を与えてくれた人。
芸能界から姿を消したルカと、こうやってまた巡り会えるなんて。こんな奇跡みたいなことが起きるなんて。その整った顔を見ると、また胸が高鳴りだす。
心臓がぎゅうっと痛んで、手が痺れる。
「ホームルームは以上だ」
そう言うと、担任は名列表を脇に持って、クラスを出て行った。
その瞬間、ルカを囲うクラスメイトたち。
一瞬にしてルカの周りに人だかりが形成されていく。まるで芸能人の囲み取材のような、盛り上がり方だ。
あの日、僕と同じくらいだった身長はとうに追い抜かされているようだった。どう見ても百八十センチ以上あるだろう。
男女問わず囲まれていても、ルカは飛び抜けて輝いて見えた。
水晶体のように綺麗で、その場にいるだけで目が奪われてしまう。
けれど、その眉間には皺が寄っていた。
注目されて煩わしいのか、ずっと不機嫌に見える。それだけじゃない。話しかけられているのに、一向に口が開かない。
「成瀬くん? だっけ。初日からすごい人気じゃんー」
「……そう、だね」
友達までもがルカを囲んで、つまらなそうな顔を浮かべた怜奈が僕の前に座る。
声を出すのにも精一杯な僕は、小さく返答した。
声の異変を悟られないように、小さく。
だけど、怜奈は気がついたらしい。
「え! どうしたの、こう!」
「っ! うるさ……」
ここ最近でも、特に大きな声が降りかかった。
どうも、僕の頬に流れる涙に気がついたらしいかった。慌てて手の甲でぐっと拭き取っても、怜奈に見られた涙は消えない。
「何かあった? いじめられた? 誰かにやられた? 私が一発殴ってくるよ?」
ものすごい形相で、僕は問い詰められる。どうしてそんな思考に至ったのかは知らないが、僕は怜奈が何かやらかす前に首を横に振った。
行動力の塊である怜奈は放っておくと、必ず何か波乱を巻き起こすだろう。
「違うよ。大丈夫だよ」
「ならなんで泣いてるの? 珍しいじゃん、こうが泣くなんてさ」
目を丸くした怜奈が視界いっぱいに映し出される。
僕を査定するような目付きに、ふうっと息を吐き出す。この人は案外、口が堅い方だ。
「ルカ、知ってるでしょ?」
「……うん。こうの好きな人」
そうポツリと話し始めると、怜奈は大人しく目を伏せて、相槌を打った。
僕は溢れようとする感情を制御して、端的に説明する。
「その。成瀬くんが、ルカに似てて……」
「え!?」
怜奈は体を仰け反らせて、驚きを露わにした。大きく開いた口元に手のひらが重なる。
より一層響いた声に、僕の眉間にも皺が寄る。
でも、驚くのも無理はない。
だって僕でさえ、夢心地なんだ。
怜奈はしばらく黙ったあと、何かを呑み込むように白い歯が覗くほどの朗らかな笑顔で笑った。
「良かったじゃん!」
「……うん」
これが、本当に良いことなのかは、僕には分からない。これが現実だっていう確証だって持てていない。都合の良い夢かもしれない。
それに、ルカはもう既に手に届かないところにいる。
けれど僕は小さく頷いた。
そうだ。
このままルカの亡霊として生きていくより、ずっと良いのかもしれない。
少しでもルカと同じ空間に入れるなら。
あの日のように、目を合わせられるのなら。
あの日よりも近い距離で、その声を聞けるのなら。
その存在を近くで感じられるのなら、それはこれ以上ない幸せだ。
その時、また授業を知らせる鐘が頭上に降り注いだ。
「ああー、鳴っちゃった」
クラスメイトの心底残念そうな声が響き渡る。
教卓の前に形成された塊は、一人一人抜けていき、小さくなっていく。
そしてルカも席に座ろうと、こちらへ方向を向けた。
「っ!」
ルカの顔がより鮮明に映し出される。その綺麗で透き通るような瞳と、薄く真っ赤な唇が、より僕の鼓動を早くする。
ああ、やっぱり。
やっぱり、ルカだ。
間違いなんかじゃない。
本当に、ルカだ。
再び溢れ出そうとする涙をぐっと堪える。
あの日、凍える寒さの中で、小さな体で、愛の唄を歌っていた少年。聖夜も相まって、それはそれは綺麗だった。
成瀬流夏という人には、その少年の美しさが、溢れんばかりに漂っている。
都合の良い夢なんかじゃないみたいだ。
コツコツコツ
ルカの歩く足音だけが、響いて聞こえる。
そして僕の横を颯爽と通り過ぎると、そこからは柔軟剤のような、柔らかくて、ほんのり甘い匂いが漂った。
鼻腔をくすぐる心地の良い匂い。
それだけで、どうしようもなく心が揺れ動く。
ああ。ルカは、本当に、ちゃんと存在していたんだ。
ファンの前から姿を消しても、ちゃんと。
ただそれだけで、無性に喜んでいる自分がいた。嬉しくなって、思わず顔が綻んでしまう。
そして僕はゆっくりと後ろを振り返った。
「……あ、あの」
ずっと思い焦がれていた存在をいざ前にすると、緊張して声が震えてしまう。
「なに」
ルカが怪訝そうに放つ。
その声には何の感情もこもっていなくて、背中が怖気つきそうになる。
けれどそんなことよりも、ただ、嬉しかった。
僕は今、流夏と話している。
視線が交差していて、同じ空気の中にいる。
それだけで、幸せが全身を駆け巡った。
視線が合わさって、僕の顔は情けなく綻んでいく。この世界一綺麗な声が降りかかって、ただ嬉しくて、ルカに笑いかける。
「僕、佐倉こうって言うんだけど……。よろしくね」
嫌われないように、慎重に。
「さくら?」
その言葉に、流夏がパッと顔を上げる。
「うん。佐倉こう。よろしくね!」
「……よろしく」
そして、ルカの頭が少しだけ揺れた。
この時の喜びは、もう言葉では表現できない。
欠けていたピースが埋められたように、もう一度、時計が回り出した音がした。
あの時、運命のように巡り合った君に、もう一度会えた。
心臓がドキドキ高鳴って、手が痺れていく。
きっと僕は今、色んな感情が織り混ざって、変な顔をしているに違いない。でも、この瞬間は、間違いなく世界で一番幸せだった。
凍てついた土に、ようやく暖かい風が吹いたんだ。