朝から厳しい寒さだった。
けれど、空には雲一つもなくて、ただ青くて澄んだ日だった。

「「お兄ちゃんー! またね!」」
「こう、楽しんでね」
「うん! 行ってきます!」

優と翔の笑う声と、母さんの穏やかな声を背中に受けて僕は扉を開けた。その瞬間、凍てつくような空気が頬を撫でる。
うう、寒い。
コートとマフラーに身を捩らせ、僕は学校へ向かった。
学校へ着くと、そこは冬のワンシーンとは思えないほどに活気で満ち溢れていた。
葉が落ち梢となった木々と、生徒たちの笑顔が綺麗に調和を保っていて、清々しいほどに、気持ちの良い朝だった。
全校生徒が総出で飾り付けをしている校門を潜って、僕は教室を目指す。

「おはよう!」
「はよー、こう」

教室に着くと、もうすでにクラスメイトが集まっていた。教室の真ん中では、僕たちが作った衣装を来た白雪姫と、王子様がいた。
そして、流夏が作った、少し不恰好な髪飾りが白雪姫の頭についている。
それだけで嬉しくて、僕は自然と笑みが溢れた。
時間をかけて作ったものが、輝くべきところで輝いているのを見ると、満足感でいっぱいになる。
僕たちの公演は、朝だった。
そして、午後はフリーとなる。

「みんな、おはよう!」
「おはようございますー」

公園の時間が近づいてくると、怜奈が教卓前に立つ。怜奈の放った声に反応するクラスメイトたちは、驚くほどの団結力を見せた。
その声を聞いた怜奈が、嬉しそうに頬を紅潮させる。

「もうすぐ、私たちの公演になります! みんな、全力で頑張ろうね!」
「はい!」

そして次に続いた言葉に、僕たちも全力で応えた。
その声の重なりに、文化祭の煌めきが灯ったような気がした。


 そして僕たちは体育館に移動して、大道具や小道具たちを配置する。
僕と流夏のような衣装係や、大道具係の人は、当日に仕事がない。よって、僕たちは観覧席に移動することになった。
監督、という名ばかりの、ただの観客になる。
そして僕は、今日も隣に座る流夏に話しかける。

「どう? 文化祭」

流夏は以外にも落ち着きがないようで、先ほどから視線を右往左往に向けている。
けれど、そうだ。
流夏にとって、今日が初めての文化祭。
こんなに活気に満ち溢れていて、お祭り騒ぎのような空気が初めてなのだろう。

「なんつーか」
「うん」

流夏は装飾物で生まれ変わった体育館をぐるりと見つめて、僕の方を向く。

「楽しい。佐倉が言った通りかもな」
「っ! ほんと?」
「ああ」

その一言だけで、僕の心は満たされていく。
文化祭の話し合いをしている時も、冷めた目で空を見上げていた流夏が。
文化祭なんて楽しそうじゃないって話していた流夏が。
今、隣で笑っている。
本当に、嘘偽りなく、舞台を見上げている流夏の姿が、嬉しかった。
そして……これが文化祭マジックというのだろうか。
流夏はいつも、無造作に髪を下ろしている。けれど、今日の流夏の髪型はかき上げられていて、より綺麗な顔が見えた。
そんな顔で笑うから、僕はもう心臓が跳ねるように、忙しなく動き出す。
これから流夏と二人で、回るのに……。
どうしよう。
そんな笑顔に耐えられる確証なんて、ほとんどゼロに等しかった。
そして、僕たちのクラスの演劇は、何の問題もなく、スムーズに進行していった。少しだけアレンジを加えた脚本も、客ウケ狙いで攻めていたシーンも、ちゃんとヒットしたようだった。
ところどころで、笑い声が響き、そんな声が聞こえるたびに、僕たちは目を見合わせて笑った。
楽しそうに目を細める流夏が、何より嬉しかった。

「「ありがとうございましたー!」」

そして、最後のシーンが終わった。
最後は白雪姫と、王子様が苦悩を乗り越え、愛し合う。二人の間に立ちはだかっていた運命さえも乗り越えて、二人で幸せになる。
なんて、羨ましい話なんだろう。
そして、なんて綺麗なんだろう。
僕は精一杯拍手をした。手が痛くなるくらいに、輝いている二人への祝福を込めて。
そして僕の拍手を筆頭に、体育館は拍手に包まれる。
僕たちのクラスの演劇は、大成功だった。
そして公演が終了すると、僕たちは後片付けをして、とうとうその時はやってきた。

「お疲れ様でした! これからは自由時間となります。みんな楽しんで!」
「お疲れ様でした!」

達成感の表情で満ち溢れた怜奈がニコッと朗らかな笑顔で笑う。その清々しいくらいの笑顔に、僕まで笑みが溢れ出てしまう。
そして、次々と教室から散らばるクラスメイトたち。
普段とは違って、より一層着飾ったその背中を見送る。これからの楽しみに浮かれているのか、足取りは軽く、横顔は綺麗に笑っていた。
そして、最後の一人が出ていくと、教室には二人だけとなった。

「俺たちも、行くか?」

落ち着いた、綺麗な声がこだまする。
この時を待っていたのか、来ないままでいて欲しかったのかは分からない。けれど、流夏の声に肩が跳ねる。

「う、うん。行こう」
「おう」

流夏の吸い込まれるような綺麗な瞳を見ながら、僕は返答をする。
僕の言葉に笑った流夏は、それはそれは綺麗だった。


 教室から一歩踏み出すと、たくさんの生徒の声に出迎えられる。威勢の良い声で、クラスの出し物の宣伝をする生徒に、友達同士で笑う生徒たち。
たくさんの幸せそうな顔が、僕たちの前には溢れていた。

「うわ、賑わってんな」

物珍しそうな顔をした流夏が、小さく呟く。
けれど、少し嫌そうな声とは裏腹に、目は輝いている。クールに振る舞っていたのに、ところどころで溢れ出る、その子供っぽい目が大好きだ。

「そうだね。やっぱり文化祭って感じ!」

先程まで感じていた不安なんて、この声に溶けていく。
そして開いた穴に、楽しさが滲んでいく。僕は、自然と笑顔になっていた。
こんな日に、流夏と回れることがただ嬉しくて仕方がない。
そして僕たちはパンフレットを貰う。
階段の脇に移動して、僕たちはパンフレットを開いた。外部の人向けに、きちんと制作されていて、その完成度に僕たちは目を丸くする。
二人で一つのパンフレットを覗きあった。

「面白そうだな、これ」
「これ、行きたくない?」

そう言い合っているうちに、時折二人の肩が近くなって、流夏の柔らかい息遣いが鼓膜に届く。
この高鳴る心音が聞こえてしまっていないか、だけが心配だった。
けれど、そんな不安も流夏の楽しそうな笑顔を眺めていたら、すっかり消えていく。
そして僕は、過去の僕に思いを寄せる。
文化祭を隣で楽しんでいる流夏を見たい。
そんな願いはちゃんと心配しなくても、叶っているよって。

「じゃあ、まずは、どこいく?」
「んー。どこでもいい。けど、昼は屋台行きたい」

目を輝かせた流夏が、パンフレットを指す。
流夏は意外と食に興味があるらしい。音楽室でご飯を食べている時も、いつもより表情が柔らかくなっていることを、僕は知っている。お見舞いに行った時に作った惣菜たちも、流夏は喜んでくれていた。

「じゃあ、昼はここ行こっか!」
「ああ」

どんどん立てられていくプランたち。
そしてその時、僕はパンフレットに書かれた文字を見て、あることを思いついた。
流夏は、案外怖がり。この間だって、大きな声を出したくらいで、肩が飛び跳ねるほど驚いていた。

「ねぇ……」

きっと今の僕の顔は、意地悪な表情をしていると思う。何かを企む悪人のような、そんな顔。

「ん?」

何も知らない流夏が振り向く。

「ここ、行こうよ。お化け屋敷」
「は!? ……無理!」
「えー! なんで!」

そして案の定、僕が指した場所を確認すると、流夏はみるみるうちに青ざめていく。けれど、流夏のそんな表情が見たかった僕は嘆願する。

「ね? いいでしょ? それに、きっと怖くないよ」
「……はぁ。分かったよ」

僕が懇願すると、流夏は参ったように甲を項垂れて、首を縦に振った。
本人は案外怖がりなことがバレていないと思っているようで、仕方なく付き合ってあげる、という雰囲気を出してくる。
けれど、僕には全てお見通し。

「怖かったら、僕が守ってあげるからね」

悪戯っぽく、クサいセリフを吐いてみせる。
少し流夏を揶揄いたい気持ちからだった。けれど、流夏はやっぱり僕よりも上手で。

「は? 守られんのは、佐倉だろ」
「っ」

吐き捨てるように、そのセリフを放つ流夏。そして気がついた時には、我先にとお化け屋敷のある階へと移動していた。
僕の目を真っ直ぐ見つめて、真剣な表情をして吐いたセリフ。
流夏にとってその言葉は、虚勢を張っただけの出まかせだって分かっているのに、その言葉が僕の脳裏をぐるぐると回っていく。
……流夏の、ばか。
僕が呟いたその言葉は、僕の高鳴る心音によって掻き消されていった。
ただ一つだけ言えるのは、僕は、どうしようもないほどに流夏が好きだっていう事だけ。
それは、この高鳴る心音が証明していた。


 けれど、そんな威勢の良かった流夏は、何処に行ってしまったのだろう。

「……うわ!」

流夏の叫び声が、暗い暗い道中にこだまする。明らかに仕掛けの分かるもの全てに、流夏は驚いていた。
ある時は、髪の毛に。
ある時は、顔無しのお化けに。
ある時は、不気味なBGMに。
ある時は、他の生徒の叫び声に。
もはや、流夏は隠すこともなく、僕に飛びついてくる。
そして、ぎゅっと僕の手を握ってくる。
その温かくて、だけど大きくて骨っぽい手のひらに、僕はドキドキさせられっぱなしだった。
暗くて、顔は見えない。
僕の赤面が流夏に見られていないことが、唯一の救いだった。

「大丈夫だよ、流夏。落ち着いて」

僕は繋がれた左手を、右手で優しく撫でる。
こんなことに怖がっている流夏が可愛くて、僕は自然と笑みが溢れた。

「……なにっ、笑ってんだよ」

切羽詰まったような流夏の声が、耳元で反響する。怒っているのに、恐怖が勝っている流夏は、全く怒れていない。

「別に? 笑ってないよ」
「嘘つけ!」
「本当だよ。ほら、頑張ろ?」

そんな流夏が可愛かった。
こんな時間が、ずっと続いて欲しいと思う。
そして僕は、全く当てにならない流夏を引き連れてゴールを目指して歩き始める。
そうして、もうすぐでゴールだという時。
視界の端に、幽霊が映る。
夏の夜に窓辺で座っていそうな、白いワンピースを着た女の幽霊。
明らかにウイッグで、怖気つく要素なんて持ち合わせていない幽霊。
でも流夏はきっと、怖がるだろうな。
流石に可哀想になった僕は、小さく流夏に耳打ちをする。

「流夏、あそこに幽霊いるよ。気をつけて」
「っ! はっ? どこだよ?」

けれど、そんな耳打ちは何も意味がなかったらしい。
小さな流夏の叫び声が響いたと同時に、僕の視界はより一層真っ暗になる。僅かな温もりだけが全身を覆う。
そして、淡く、甘い流夏の匂いが広がった。

「え? 流夏? ……なに、して」

僕は流夏に抱きしめられていた。
流夏の腕の中に、すっぽりと収められる。
僕が顔を上げると、そこには流夏の綺麗に整った顔が映し出された。
もう少しだけ、背伸びをすれば、鼻と鼻がぶつかってしまうんじゃないかってほど近づいた距離。流夏が、僕を抱きしめていた。怯えるように、眉間に皺を寄せた流夏がすぐそこにいた。
僕は、理性を保つのに必死だった。
心臓が暴れるように拍動して、立っていられないほど、手が痺れて……。
でもきっと、こんなにも意識しているのは僕だけ。
だから平気で抱きしめられるんだろう。
僕は深呼吸して、流夏の背中を優しく撫でる。

「流夏……? 苦しいよ。もうゴールだから、離して」

そう耳元で囁くと、流夏は我に返ったように手を離した。

「わ、悪い」
「う、ううん」

次第と離れていく温もり。
失われる流夏の匂いに、まだ抱きしめて欲しかったな、なんて思ってしまう。
そして僕たちは、まだ手を握ったまま、ゴールに辿り着いた。

「……」
「……」

ゴールをした後。僕たちの間には、僅かな気まずさが漂っていた。まだ流夏の温もりが全身を覆う中、先に口を開いたのはやっぱり僕だった。

「る、流夏ってば、僕を守るって言ってたのに。すごい怖がってたじゃん」

揶揄うように、流夏の顔を覗き込む。
きっと流夏は反抗するように、少し眉を吊り上げて、僕を見ているに違いない。
だから、行きたくなかったんだとか言ってーー。

「え?」

けれど……そんな流夏は何処にもいなかった。
まるで照れているように、頬と耳を真っ赤にしている。

「流夏? 顔、真っ赤だよ?」

そう言う僕も、カァと頬に熱が集まっているのが分かった。
けれど、そんな、はずはない。
流夏が、僕を抱きしめて、照れているわけなんて……。

「う、うるせぇ! だいたい、佐倉がビビンねぇのが、おかしいんだよ」

けれど、返ってきた返事は、僕が何処かで期待していた真ん中を射抜いてきた。
う、うそ……。
僕は情けなくも、口をぽかんと開けた。
けれど、騒がしく音を立てる心臓はいつまで経っても静まることはなかった。僕の頬にも熱が集まっていることが分かる。
そんな僕を見ると、流夏は恥ずかしさを蹴散らすように、荒々しく髪を掻いた。
綺麗にかき上げられていた髪の毛が、無造作に落ちていく。

「ほら、行くぞ。家族が来る前に、俺と一緒に」

そして次の瞬間には、僕の手のひらは、流夏の手に覆われていた。
少し強引な手つきで引っ張られる僕。
まだ状況が把握出来ていない中、僕は流夏の背中を追って歩き出す。
けれど、一つだけ確証があった。
それは、どうしようもないほどに、心が満たされていることだった。
『俺と一緒に』
その言葉がこれほど嬉しいなんて。流夏に求められていることが、こんなにも嬉しいなんて。

「あはっ!」

ただ自然に笑いが溢れていく。

「なにが、おかしいんだよ?」
「ううん。別に? 僕と一緒に、文化祭、回ろうね」
「……もう、回ってるだろ」
「ははっ! 確かに!」

他愛もない会話を繰り広げる。
けれど、ただそれだけで幸せだった。
流夏のために泣いた涙が、この一瞬で全て報われたような気分だった。こんな少しの言葉だけで、流夏は、こんなにも僕を幸せにする。
やっぱり、流夏は最強だ。
それから僕たちは、学校の隅々まで回った。
輪投げの得点で、競争したり、弓道の的に当たった数で勝負したり。
ジュースを奢ったり、奢られたり。
茶道の体験をしたり。
他の公演を見に行ったり。
バンドを組んでいる有志を見に行ったり。
きっと、バンドを見るだけでも辛いはずなのに、流夏は黙って最後まで聞いていた。流夏が、また音楽の鳴る世界で息をしている。
それだけで、僕は嬉しかった。
そして、流夏は案外甘いものが好きらしい。

「なに食べる?」

パンフレットを開いて、豊富なメニューを見ながら僕は流夏に問う。

「せーの、で言わねぇ?」
「いいよ!」

そして僕たちは、せーのと言う流夏の掛け声に、パンフレットの中の食べ物を指差した。
僕はたこ焼きを指差した。
やっぱり、文化祭と言えばたこ焼きな気がしたから。それに、お互いに分け合って食べる行為も密かに憧れていた。
けれど、流夏が指したのは、別の箇所だった。ご飯でもなくて、スイーツコーナの辺り。

「……チュロス?」

僕は指されたその文字を読み上げる。

「こういう時って、やっぱりチュロスじゃねぇの?」
「え! そうかな?」
「そうだろ」
「流夏って、甘いもの好きなんだね」

そんな素ぶりは全く見せなくて、ハンバーガーなどを選ぶだろう思っていた僕は、目を見開く。
でも、確かに。流夏はよくお昼ご飯に、菓子パンを食べていた。

「悪いかよ?」

不服そうに頬を膨らませる流夏。
この時の僕は、きっと文化祭マジックとやらで何処か少し、おかしかった。
そして、心の中で唱えていた言葉をそのまま出してしまう。

「ううん。可愛い」

そう言った瞬間、僕は血の気が引くのを感じた。
反射的に、やらかした、と思った。引かれるかも、と思った。
けれど、流夏の反応は違っていた。驚いたように、切れ長の目は丸くなり、僕を見つめて離さない。

「……あっそ」

そしてしばらく経った時、少しだけ頬を赤くした流夏が、ぶっきらぼうに言い放った。

「う、うん」

今更否定することも出来なくて、したくなくて、僕は首を縦に振った。
結局僕たちは、どっちも食べることにした。
二人で一つという、恋人みたいなことをして、二人で分け合う。流夏が半分に割ってくれたチュロスは、今まで食べた中で、一番甘いような気がした。
二人で顔を見合わせて、

「「甘っ」」

と言い合ったことは、一生忘れられないと思う。
その後に続いた、

「砂糖、ついてる」

と流夏が僕の唇のあたりを、綺麗な指でなぞったのも。
絶対に忘れることなんか、出来ない。
唇に残る柔らかい感触も、絶対に。
そんな時間がこのまま永遠に続いて欲しいと、僕は本気で願っていた。