流夏が学校へ来たのは、あれから二日経った頃だった。
音楽室の件があってから、流夏が学校へ来るのは初めてだった。けれど流夏が、ルカだということは、全校生徒に知れ渡っていた。
流夏を噂する声が、こだまする校舎。
けれど、それでも流夏は学校へやってきた。
いつものように扉を開けると、飛び込んでくる流夏の姿。流夏を見るのは二日ぶりで、少し反応に困る。
どのように接すればいいのか、迷っていた。
叶わない恋を抱えていくのか、恋を諦めて、捨てるのか。
けれど、その姿を見た瞬間、捨てることは出来ないのかもしれないと思ってしまう。
僕にとっては命の恩人で、僕を肯定してくれた人だから。
きっと、あの時から、ずっと、君に恋をしている。
けれどもう、誰かが傷つくもの、傷つけるのも嫌だ。
諦めよう。流夏への気持ちなんて綺麗さっぱり忘れて、友達として横に立てるように。
「おはよう、流夏」
扉の前で少し考えた結果、結局いつも通りでいることにした。
窓の外を眺めていた流夏は、僕の声に振り返った。
僕の顔を見た瞬間、少しだけ口元を綻ばせる。
「はよう、佐倉」
「っ!」
僕の顔に熱が集まるのを感じた。
……なんで?
僕が挨拶しただけで、笑うような人ではないのに。目の前にいる流夏の切れ長の瞳は、柔らかく弧を描いていた。
「う、うん。おはよう」
諦めようと決心したのに。
その笑顔を見ると、心臓が高鳴ってしまう。そんな気持ちをかき消すように、僕はリュックサックを下ろして、席に腰掛けた。
その時、また流夏の薄い唇が開く。
「あの時、なんで帰ったんだよ?」
不服そうに寄せられた眉が、視界の端に映る。
「……え? なんのこと?」
「家に、来てくれただろ? 起こすって言ったから寝たのに、起きたらいなくなってた。何で起こしてくれなかったんだよ。出来立ての料理、楽しみにしてたのに」
あの夜のことを思い出す。
自分のことで精一杯で、ただ綺麗に息を立てる寝顔を見ていたくて、少しでも近くにいたくて、手を握っていた。
動揺しないように、返答する。
「あ、ごめん。すごい寝てたから、起こすの悪くって」
僕がそう言うと、ふーん、と言う声が降りかかってくる。この早く鳴る心音が聞こえないように、手で抑える。
「なら、いいけど。けどあれ、美味かった。ありがと」
けれど、そんな僕の努力も虚しく散っていく。
今日の流夏、どうしたの……?
あまりにも素直で、いつもよりも早く拍動する。こんな風に素直になった流夏を見たことなんてないのに。
「う、うん」
けれど、流夏の話は途切れない。
寂しそうな空気を纏って、空を見上げる。
「俺、父親いなくて、母親だけなんだよ。けど、母親は男作って、ほとんど帰らない。だから看病とかされんの、初めてだった。熱の日に、他人が作った飯を食べるのも。だからさ、すげー嬉しかった」
……流夏は、本当にずるい。
僕は諦めようと頑張っているのに、その道を塞ぐように立ってくる。僕を真っ直ぐ見て、本当に嬉しそうに目を細めるんだ。
想っていても辛いだけなのに、好きと言う二文字が日々強くなる。流夏の意外な一面を知る度に、その思いは深く、強くなる。
「そ、そっか。なら、よかった」
蚊の鳴くような声で呟く。
そんな僕を見ると、流夏は悪戯っぽく笑った。僕に視線を合わせて、覗き込むように。
「照れてんの?」
「〜〜っ! 照れてない!」
「あ、そう」
今日は、本当にどうしたんだろう。
熱でどこかに支障をきたしたのだろうか。
それとも、弱った時の優しさが身に沁みたのだろうか。
そう思ってしまうほどに、今日の流夏は一段と眩しい。顔に熱が集まって、どうしようもなくなる。
赤くなった顔を隠すように、僕は勢いよく前を向いた。
けれど、こんな流夏はいつまで経っても消えなかった。
寧ろ加速しているように思える。
流夏を好きなことがバレたのかもしれない、と思ってしまうほどに流夏は僕とより関わるようになった。
例えば、授業中。
僕よりも一つ後ろの席に座っている流夏は、たまに僕にイタズラをする。シャーペンで背中をなぞったり、何かを囁いてくるようになったり。
背中に感覚がするたびに、僕の心臓は飛び跳ねる。
くすぐったくなって、笑ってしまう。そんな流夏を注意するために僕が後ろを向いても、交わされるだけ。
「なに? 授業ちゃんと聞きなよ」
「だって、流夏が……」
「俺? 俺がなに? なんもしてないけど。ほら、聞かないと先生に目、つけられるよ」
しかも、それを、あの声で。
低くて、優しくて、大好きな声で囁くものだから、僕の心臓は毎日早くなる。冬だと言うのに、体に熱が篭ってしまう。
あり得ないと分かっているのに、流夏はたまにすごく優しい笑顔で僕を見つめる。
僕が書いたファンレターをなぞっていた時のように、優しく全てを包み込むような、あの眼差し。音楽室でご飯を食べている時にそんな笑顔で笑いかけられると、僕はいつも咳き込んでしまう。
けれど流夏は、そんな僕の背中を大きな手でさするのだ。
まるで僕の気持ちを知って、弄んでいるかのように。その瞳を見るたびに、勘違いをしてしまいそうになる。
でも、それは僕の妄想にすぎない。
一言で言えば、思わせぶりのような。勘違いしてしまいそうな行動を取ってくる。
けれど、流夏が好きなのは、女の子の僕だ。
僕ではない。
けれど、僕は流夏の行動一つ一つに反応してしまう。それが、僕を惨めにさせる。苦しくさせる。
僕はもう、どうすればいいか分からなかった。
諦めたいのに、諦められない。
その狭間に立ち尽くしている。動くことも出来ずに、僕はずっとそこで停滞している。
実らない恋なのに、勝手に好きになって、勝手に苦しんで、諦められない自分が憎かった。
そんな日々は、少し遅く、だけど、少し早く過ぎていった。
音楽室の件があってから、流夏が学校へ来るのは初めてだった。けれど流夏が、ルカだということは、全校生徒に知れ渡っていた。
流夏を噂する声が、こだまする校舎。
けれど、それでも流夏は学校へやってきた。
いつものように扉を開けると、飛び込んでくる流夏の姿。流夏を見るのは二日ぶりで、少し反応に困る。
どのように接すればいいのか、迷っていた。
叶わない恋を抱えていくのか、恋を諦めて、捨てるのか。
けれど、その姿を見た瞬間、捨てることは出来ないのかもしれないと思ってしまう。
僕にとっては命の恩人で、僕を肯定してくれた人だから。
きっと、あの時から、ずっと、君に恋をしている。
けれどもう、誰かが傷つくもの、傷つけるのも嫌だ。
諦めよう。流夏への気持ちなんて綺麗さっぱり忘れて、友達として横に立てるように。
「おはよう、流夏」
扉の前で少し考えた結果、結局いつも通りでいることにした。
窓の外を眺めていた流夏は、僕の声に振り返った。
僕の顔を見た瞬間、少しだけ口元を綻ばせる。
「はよう、佐倉」
「っ!」
僕の顔に熱が集まるのを感じた。
……なんで?
僕が挨拶しただけで、笑うような人ではないのに。目の前にいる流夏の切れ長の瞳は、柔らかく弧を描いていた。
「う、うん。おはよう」
諦めようと決心したのに。
その笑顔を見ると、心臓が高鳴ってしまう。そんな気持ちをかき消すように、僕はリュックサックを下ろして、席に腰掛けた。
その時、また流夏の薄い唇が開く。
「あの時、なんで帰ったんだよ?」
不服そうに寄せられた眉が、視界の端に映る。
「……え? なんのこと?」
「家に、来てくれただろ? 起こすって言ったから寝たのに、起きたらいなくなってた。何で起こしてくれなかったんだよ。出来立ての料理、楽しみにしてたのに」
あの夜のことを思い出す。
自分のことで精一杯で、ただ綺麗に息を立てる寝顔を見ていたくて、少しでも近くにいたくて、手を握っていた。
動揺しないように、返答する。
「あ、ごめん。すごい寝てたから、起こすの悪くって」
僕がそう言うと、ふーん、と言う声が降りかかってくる。この早く鳴る心音が聞こえないように、手で抑える。
「なら、いいけど。けどあれ、美味かった。ありがと」
けれど、そんな僕の努力も虚しく散っていく。
今日の流夏、どうしたの……?
あまりにも素直で、いつもよりも早く拍動する。こんな風に素直になった流夏を見たことなんてないのに。
「う、うん」
けれど、流夏の話は途切れない。
寂しそうな空気を纏って、空を見上げる。
「俺、父親いなくて、母親だけなんだよ。けど、母親は男作って、ほとんど帰らない。だから看病とかされんの、初めてだった。熱の日に、他人が作った飯を食べるのも。だからさ、すげー嬉しかった」
……流夏は、本当にずるい。
僕は諦めようと頑張っているのに、その道を塞ぐように立ってくる。僕を真っ直ぐ見て、本当に嬉しそうに目を細めるんだ。
想っていても辛いだけなのに、好きと言う二文字が日々強くなる。流夏の意外な一面を知る度に、その思いは深く、強くなる。
「そ、そっか。なら、よかった」
蚊の鳴くような声で呟く。
そんな僕を見ると、流夏は悪戯っぽく笑った。僕に視線を合わせて、覗き込むように。
「照れてんの?」
「〜〜っ! 照れてない!」
「あ、そう」
今日は、本当にどうしたんだろう。
熱でどこかに支障をきたしたのだろうか。
それとも、弱った時の優しさが身に沁みたのだろうか。
そう思ってしまうほどに、今日の流夏は一段と眩しい。顔に熱が集まって、どうしようもなくなる。
赤くなった顔を隠すように、僕は勢いよく前を向いた。
けれど、こんな流夏はいつまで経っても消えなかった。
寧ろ加速しているように思える。
流夏を好きなことがバレたのかもしれない、と思ってしまうほどに流夏は僕とより関わるようになった。
例えば、授業中。
僕よりも一つ後ろの席に座っている流夏は、たまに僕にイタズラをする。シャーペンで背中をなぞったり、何かを囁いてくるようになったり。
背中に感覚がするたびに、僕の心臓は飛び跳ねる。
くすぐったくなって、笑ってしまう。そんな流夏を注意するために僕が後ろを向いても、交わされるだけ。
「なに? 授業ちゃんと聞きなよ」
「だって、流夏が……」
「俺? 俺がなに? なんもしてないけど。ほら、聞かないと先生に目、つけられるよ」
しかも、それを、あの声で。
低くて、優しくて、大好きな声で囁くものだから、僕の心臓は毎日早くなる。冬だと言うのに、体に熱が篭ってしまう。
あり得ないと分かっているのに、流夏はたまにすごく優しい笑顔で僕を見つめる。
僕が書いたファンレターをなぞっていた時のように、優しく全てを包み込むような、あの眼差し。音楽室でご飯を食べている時にそんな笑顔で笑いかけられると、僕はいつも咳き込んでしまう。
けれど流夏は、そんな僕の背中を大きな手でさするのだ。
まるで僕の気持ちを知って、弄んでいるかのように。その瞳を見るたびに、勘違いをしてしまいそうになる。
でも、それは僕の妄想にすぎない。
一言で言えば、思わせぶりのような。勘違いしてしまいそうな行動を取ってくる。
けれど、流夏が好きなのは、女の子の僕だ。
僕ではない。
けれど、僕は流夏の行動一つ一つに反応してしまう。それが、僕を惨めにさせる。苦しくさせる。
僕はもう、どうすればいいか分からなかった。
諦めたいのに、諦められない。
その狭間に立ち尽くしている。動くことも出来ずに、僕はずっとそこで停滞している。
実らない恋なのに、勝手に好きになって、勝手に苦しんで、諦められない自分が憎かった。
そんな日々は、少し遅く、だけど、少し早く過ぎていった。