流夏の部屋は、リビングの脇にあった。

「……わぁ!」

普通の光景であったリビングから、景色が一変する。
声を出さずにはいられなかった。
辺り一面にギターや、楽譜、キーボードが広がっていた。
本当に、ルカだったんだ。
本当に、ここで流夏が活動をしていたんだ。
ここで曲が紡ぎ出されたんだと思うと、涙が出てしまいそうになる。けれど、その涙を堪えて、奥にあったベッドに流夏を運んだ。

「ほら、流夏。着いたよ」
「……ん」

妙に色っぽい声に、心臓が飛び跳ねる。それが流夏に伝わらないように、胸の辺りを押さえて、僕はポツリと呟いた。

「すごいね、ここ。なんか感動する」

ただのファンだった時の記憶が脳裏に浮かんでは消えていった。
僕の興奮する様子を横目で見ると、流夏は目を瞑りながら、かすかに笑う。

「俺のファンだったんだもんな?」

カーテンの隙間から漏れる光を反射して、イタズラっぽく笑った。その言葉が、飛び上がるほど嬉しかった。

「っ! そうだよ! すごく、嬉しい」
「……今は?」
「今も、ずっと!」
「ならいい」

いくらファンだと言っても、信じてもらえなかったのに。何度だって突き返されたのに。
けれど、今は目の前で笑っている。
ファンだと告げられることを求めてくる笑顔が、そのイタズラっぽく綻ぶ口元が、ただただ嬉しかった。
精一杯、首を縦に振る。視界がぐわんと歪むほど、強く。
そして僕は徐に立ち上がった。
まだ流夏の側に居たい気持ちを殺して、ゆっくりと流夏から距離を取る。

「そうだ、ご飯作ってもいい? 何がいい?」

名残惜しい気持ちを胸に抱えて、そっと問いかけた。

「佐倉って、料理できんの?」
「できるよ。だから遠慮なく、どうぞ」
「別になんでも。ありがとな」
「分かった! ちゃんと寝ててね。ご飯出来たら、また呼ぶから」

その流夏の返事を聞いて、部屋から退出しようとした時だった。
ドン
と何かがぶつかる鈍い音がした。
流夏の部屋は電気がついていなくて、今はもう冬の放課後。カーテンの隙間から覗く光だけが頼りな世界。
視界は明瞭ではなくて、僕は足元にあった机の存在に気が付かなかった。
ぶつかってしまった反動で、曲がってしまう机。

「あ、ごめん」
「大丈夫か?」
「うん。大丈――」

そう言って、ずれてしまった机の位置を戻そうとした時だった。
机に置いてあった紙切れに、息を呑んだ。
その紙切れが、この薄暗い世界の中で光を放っている。気がつけば、僕はその紙切れに書かれた文字を目で追っていた。
その内容を認識すると僕は、動く能力を失った人のように、しばらく言葉を紡げなかった。

「……え?」

間違いない。
この少し丸い字を知っている。
その紙切れは手紙だった。
内容からしてファンが、ルカへ宛てた手紙。僕がルカへ宛てた、これでもかと愛を紡いだファンレターだった。
何通も書いては消してを繰り返した、心を込めて書いた、大切なファンレター。
ちゃんと、届いていたんだ。
何時間も似合う言葉を探して、書き上げた手紙がルカの部屋にある。
流夏を好きな人が此処にいると、伝えたかった手紙が、ちゃんと流夏の元に届いていんだ。
嬉しくて、仕方がなかった。
開封されているから、流夏はきっと、読んでくれたのだろう。

「流夏、これって……」
「ああ、それは」

流夏の細くて、長い腕が手紙を掬い取る。
まるで宝物に触れているかのように、丁寧で優しい指先で、その手紙を手繰り寄せた。

「もしかして、ファンレター?」

分かっているのに、これは僕が書いた手紙だって知っているのに、そんな言葉が喉をつく。
確かめたくなった。
流夏は手紙に視線を落とすと、小さく頷いた。

「そう。ずっと昔から応援してくれてたファンからの手紙」

愛おしそうに、その手紙を親指で撫でる。僕の心臓が高鳴るほどに綺麗な横顔で、ファンレターの文字を追っていた。
僕の心臓が早くなっていく。
ただ、少しだけ。ほんの僅かな可能性が浮き上がる。
この薄暗さと、静寂さを利用して、僕は問いかけた。

「その人のこと、好き?」
「当たり前だ。この人は、俺が路上ライブしてた時から応援してくれてたんだよ。俺についた、初めてのファン。手紙が来る度に、嬉しかった。
なんつうか、俺の心の支えみたいな人」

その言葉に、喉がヒュッと鳴る。
手足が僅かに震えているのが分かる。あり得ないくほどに、全身が騒がしかった。

「まさか、流夏の好きな人って、その人じゃないよね?」
「……」

流夏はその容貌から、多方から告白をされている。
転校した直後も、今も、その勢いは収まることを知らない。
実際僕も、その現場を幾度か目にしたことがある。
その度に、流夏は言っていた。
『好きな人がいるので』
その言葉を耳にするたびに、鈍器で殴られたように頭が朦朧とした。
今まで聞けなかった。その『好きな人』は、誰なのかってことを。
それを本人の口から聞けるほど、僕は強くはないから。
怖かった。
けれど、その手紙は、僕の字だ。
書いているうちに涙が溢れ、文字が滲んで、何回も書き直した手紙。
そして、僕は流夏とあのクリスマスの日。路上ライブをしている時に出会った。偶然と呼ぶには、あまりにも重なりすぎている気がしてならない。
流夏は僕の言葉に数秒、黙り込んだ。
静寂が漂って、僕の心音が流夏まで聞こえてしまいそうになる。
そして、

「……そうだ。好きだ」
「っ!」

この瞬間、僕は人生で一番と言っても過言ではないほどの衝撃が走った。嬉しさや、喜びが全身を駆け巡って、震え出す。
まさか。
まさか!
流夏も、僕が、好き、だったってこと?
けれど、流夏が次に発した言葉は、僕を地獄に落とした。

「一度しか会ったことがないけど、手紙が来る度に救われたよ。嬉しかった。いつか、会って、伝えたいと思っている。さくらさんに。
きっと素敵な女性になってんだろうな」
「……え?」

流夏の言葉に、僕は情けない一言を発した。
女性?
その二文字が頭の中をぐるぐると駆け回った。
高鳴っていた心臓は凍ったように、働きをやめ、手のひらからは熱が冷めていった。

「女の子、?」

ようやく発したその言葉に、流夏はさらに追い打ちをかける。

「ああ。当たり前だ。別に男は恋愛対象じゃない」
「っ」

何を疑うわけでもなく、即答される。
この時だけは、この部屋が暗くて良かったと思った。何も見えなくて良かったと思った。僕の涙に気が付かれないで済むから。
拭っても、拭っても、溢れだす涙を見られずに済むから。
ただ、辛かった。
自分の物差しで流夏を測っていたことも悪かったとは思う。
流夏が僕を好きだと言った時。僕は疑うこともなく、ただその言葉に歓喜した。
もしかしたら、両思いかもしれないと。
会うたびに、目を合わせるたびに、心臓が高鳴って、手が痺れるのは、僕だけじゃなかったんだと。
けれど、違った。
『さくら』と名乗って、僕は手紙を書き続けていたからだろうか。
まさか、女の子だと思っていただなんて。
そして流夏は、僕ではなくて、女の子のはずの僕に恋をしていたんだ。

「そ、そうなんだ。いつか、伝えられるといいね」
「ああ。そうだな」

この場にいることが辛かった。
愛おしそうな表情を浮かべている流夏。
僕が書いた手紙を、壊れものに触れるような手つきで眺めている流夏。
その表情が向けられているのは僕なのに、僕ではない。
流夏にくるりと背を向け、僕は流夏の部屋から立ち去った。
パタン
と扉を閉めたと同時に、自分でも驚くくらいの涙が溢れてきた。セーターに楕円のシミを落として、もう立っていられなくなった。
どうして……!
どうして、変な期待なんかしたんだよ。
僕はフツウじゃないって、散々知ってたじゃないか!
へたりと床に這いつくばる。
この感情をどうすれば良いのか、分からなかった。
ただ苦しくて、息を吸うのも痛くて、何をすることも出来ない。
もういっそ、僕の知らない人を好きでいて欲しかった。それなら、その人を一生羨んで、生きていけば良かったのに。
この感情に一生蓋をしたままで良かったのに。
僕なのに、僕じゃない。
僕の方を向いているのに、その視線は僕を通り過ぎていく。
『男は恋愛対象じゃない』
その言葉が脳裏に焼き付いて、離れない。
僕がもし、女の子なら。女の子として出会えていたら。あの瞬間、流夏の腕の中に飛び込めたかもしれないのに。
都合の良い妄想が蝕んでいく。

「……ううっ」

その気持ちは、声となって、嗚咽となって、指の隙間を通り過ぎていった。

「うっ……流夏っ」

この気持ちが、こんなにも辛いだなんて。
流夏が好きでい続けるのが、こんなにも辛かったなんて。
あのクリスマスの日に出会わなければ。ただ、有名なアーティストの一ファンとして生きられていたら、こんなに苦しむこともなかったのに。
苦しくて、仕方がない。
僕はこれからどうしたらいいのだろう。
けれど、答えは一つも導き出せなかった。
一枚壁を挟んで寝ているはずの流夏に聞こえないように、暗いリビングで、冷たくなった体を抱きしめ続けた。
まるで世界で一人きり、僕だけ隔たれたような心地だった。