閑静な住宅街の一角の中に、流夏が住んでいるというアパートはあった。アパートとは言っても、外観は綺麗で、パステルカラーがワンポイントとなっているようだ。
辺りには街灯が等間隔に並んでいて、夜に差し掛かるこの黄昏時を照らしている。
そして、本当に静かだった。
知名度のあったアーティストだったから、豪邸に住んでいると思っていた自分を殴りたくなる。
流夏は、ちゃんと、僕たちの生きる世界にいたんだ。
時折強い風が頬を撫でていき、皮膚が収縮していくのが感じ取れる。僕は担任が書いたメモと、スマホの地図アプリを交互に眺めながら、その扉を前にした。
スマホの画面を暗くして、その画面で顔を確認する。
風邪で乱れた髪を整える。
……まさか、流夏の家に来ているなんて。
自分で言い出したことだけれど、僕は緊張していた。学校以外の流夏に会うなんて初めてで、さっきから脈拍が速くなったり、遅くなったりを繰り返していた。
怜奈に預けた優と翔のことなんか、すっかり頭から離れて、思考が流夏で埋め尽くされる。
ピンポーン
玄関脇のインターホンを鳴らすと、大きな音が扉の向こうで反芻する。

「……はい」
「っ!」

そして聞こえてきた、愛しい人の声。
たった少し聞けなかっただけなのに、僅かに涙腺が緩む。
良かった。ちゃんといた。

「えっと、佐倉こう、です。風邪って聞いたから、お見舞いに来たんだ」

僕は両手に抱えたビニール袋に視線を移した。
風邪の時でも食べられるお粥に、うどんに、その他いろいろな食材。料理は得意な方だから、調子に乗って色々買って来てしまった。厚手のセーターの上からでも、その紐が腕に食い込んで、痛いくらいに。
そして風邪薬。
流夏が何を飲むのか分からないから、数種類を。
僕がそう言うと、インターホンの向こう側で戸惑っているのが分かった。しばらく間が経つと、扉の先から足音が響いた。
流夏がこっちに来る。
それだけで、心拍数が上がっていく。
そしてゆっくりと開く扉。
そして開けた視界に現れたのは、大好きで仕方がない人だった。少し覇気がなくて、やつれているけれど、それでも大好きな人。

「なんで……佐倉、が?」
「お見舞い!」

僕は白いビニール袋を掲げる。
目の前の流夏は、一眼見ただけで分かるほど、体調が優れていないようだった。声は低くて、不機嫌そうだけど、その瞳はとろんとしている。
そして何より、制服とは違い、フラットな格好の流夏に僕はドキッとする。
そのTシャツは、首元が少し開けているのだ。
やり場に困る視線をビニール袋に移し、口早に告げる。

「一人暮らしって聞いたから、心配になって」
「別に頼んでない」

やっぱり。
流夏ならそう言うと思った。体調は悪そうなのに、流夏は相変わらずのようだった。

「でも、買って来ちゃったからさ。お見舞いさせてよ」

流夏の瞳に訴えかける。
いつもにも増して潤んだ瞳は、いつもよりもガードが緩いような気がしたから。
そして案の定、流夏は僕が望んでいた言葉を放った。

「……分かったよ。色々悪かったな」
「ううん! 僕がしたくてしたんだから」

嬉しくなって、思わず口角が上がってしまう。
そして僕は、流夏の家へと案内された。家の中は一つも電気が付いていなくて、暗かった。
けれど、綺麗に片付いていて、中は広い。
流夏の甘い匂いが鼻をくすぐって、僕を変な気持ちにさせる。
けれど、それよりも目を奪うものがあった。
それは、各所に散らばっている何本ものギターだった。けれど、一つ一つ丁寧に扱うような手つきに、目頭に熱が集まるのを感じていた。
……良かった。
流夏の中で、まだルカが消えてない。
ここで流夏は、あの歌を紡いでいたんだ。
この中で流夏は生きていたんだと思うと、急にソワソワして落ち着かない。
そして僕は、流夏が指を指した机の上に、ビニール袋を置いた。近くの椅子に座った流夏が、僕を見上げる形になった。

「たくさん買ったんだな」
「うん。何がいいとか分かんなくて。流夏の好きなものも知らなかったし」
「……あ、そう。でも、それにしても多いな」
「あはっ! 確かに」

僕がそう言い終わると、流夏はふわりと口角を緩めた。その警戒心のない柔らかな笑顔が、僕の心臓を刺していく。
本当に、ずるい。
僕の気も知らないで、こんなに綺麗な顔で笑いかけるなんて。
そして僕は、ビニール袋から大量の食材を取り出して、すぐそばにあった冷蔵庫に次々と入れていく。その間に昨日は大丈夫だったのか、とか、熱は? とか、気になっていたことを問いかける。
熱は高いようで、ぐったりとしていた。けれど、それ以上の症状はないらしい。
僕は心の底から安堵する。
そんな僕を見ると、流夏は乾いた笑いをこぼした。

「心配性なんだな、佐倉は。俺はそんな弱くないっての」
「だって、流夏って一人で抱え込むでしょ? 毎回心配しすぎて、心臓痛くなる、本当に」
「別にそんなこと」
「あるよ。僕の気持ちも考えて欲しいよ、もうちょっと」

けれど、僕がそう言っても流夏は柔らかな笑顔で、軽く流されてしまった。
僕がどんなに心配したか、知って欲しかったのに。
けれど、流夏は病人。
他にももっと聞きたいことはあるけれど、問いただすのは良心が痛んだ。
昨日、音楽室を飛び出してから、何があったのか。
どうやって帰ったのか。
どうして、家には一人なのか。
一人暮らしなのか。
親はいないのか。
けれど、流夏は自分のことを話すような人ではない。質問攻めにしても、流夏は流すだけだった。自分のことを知られたくないように、蓋をするように。
だからなのか、それを聞くのは怖かった。
そのため、僕は机に突っ伏したまま眠りにつきそうな流夏の肩を揺さぶる。
ここで寝たら、悪化してしまう。

「流夏、ベッド行こう?」
「……だるい」
「だめ。ちゃんと寝ないと。熱下がんないよ?」
「……めんどい。連れてって」

なかなか起き上がらない流夏の様子に困っていると、そんな声が降りかかる。僕の背中に腕を回して、一気に距離が近づく。
反射的に流夏を見ると、その口元が少しだけ和らいでいた。
〜〜っ
本当に、流夏は!
僕は暴れ出す寸前の勢いを孕み出す心臓を手で抑える。これが無自覚なのだから、尚更タチが悪い。

「もう、分かったよ」

そして僕は、ゆっくりと流夏の腕を、自分の首に回した。流夏の体は熱くて、この熱が、自分のものなのか、流夏のものなのか、もう判別がつかない。
全身に流夏の重さを感じて、僕は歩き出す。流夏はやられるがままの子供のように、僕の背中に手を回し続けていた。
時折荒い息が降りかかって、その度に心臓が揺れ動いた。