あの時から、ずっと、君に恋をしている。


けれど、いざその文字を目の前にすると、足は自然に止まっていく。
音楽室に行くのも久々だ。
ずっとこの高校に在学している僕でさえ、授業で使用する以外行く機会がない。それなのに、転校生のルカはどうして音楽室にいるんだろう。
ピアノを弾いてるだって、考えずらい。
ギターを持っているというのも。
ルカは、もう歌えないから。
何だか、目の前に広がる扉がとても重厚に感じられる。少しだけ、この先に広がる景色を見ることが怖くなった。
ふとそう思った心を、僕は振り払った。
違う、そうじゃない。
僕はただ、ルカに笑ってもらいたい。
ルカが、世界から背けずに、ずっと笑顔を向けていられるように。
そして僕は音楽室の扉に手をかけた。
ギィ
と耳障りな音を立てて、僅かに動く扉。

「……えっ」

そして、僕は目の前に広がった光景に息を呑んだ。
音楽室には、確かにルカがいた。後ろの窓から降り注ぐ、淡い太陽の光に負けずに、輝いているルカが。
音楽室の真ん中の席に座っているルカが。
けれど、様子がおかしい。
今にも泣き出しそうな顔で、唇を震わせて、自分に憤るように、強く強く拳が握られている。
けれど、何より信じられないものがあった。
スラリと伸びた腕に、ギターが抱えられていたのだ。
僅かに開いた扉に気がつくこともなく、ルカはギターを持ち直して、再びルカの世界へと堕ちていく。
けれど、一度失ったものは、簡単には戻らないようだった。

「……きみ、が、」
「っ」

途切れ途切れの歌声。
ピックを持つ震えた手。
噛み合わないギターの音色と、歌声。
苦しそうに、その一言一言を吐いていた。ライブ配信の時のように、浅い息を繰り返して、喉に何かが刺さったように、咳き込むように苦しんでいる。
あんなに大きなルカが、とても小さく見えた。

「……ううっ。っ! はぁ」

今にも消えてしまいそうな声で、ため息を吐く。
僕は息を呑んで、その様子を眺めていることしか出来なかった。ルカの苦しむ声が、体中に重く響き渡る。
ルカは、本当に歌えていなかった。
ライブ配信の時は、声でしかルカの様子なんて分からない。けれど、今はその表情まで全て目の前にある。
それは、目を逸らしてしまいたくなるくらいに、苦しそうに歪んでいた。
あの時、路上で歌っていた時よりも、ずっと、苦しくて、辛そうだった。
そしてそれは、透き通るような液体となって、ルカの頬を濡らした。その涙を見た途端、僕はもう、傍観しているだけではいられなかった。
小さくなったルカを放っておくことなんて出来なかった。

「ルカっ!」

握り込んでいた取っ手を離して、僕はまっすぐにルカの元へと走った。
お弁当箱は手から離れ、床についた衝撃音が響き渡る。
僕の声にビクッと肩を震わせたルカは、僕の姿を視認すると、これでもかというくらいに目を見開いた。
そして、乱雑に頬に描かれた筋を拭う。

「はっ!? なんで、佐倉が!」

けれど、僕はその質問に答えられるほど、冷静ではなかった。
今もなお苦しんで、それでも歌おうと踠いているルカを、見過ごせるわけがない。
そして、気がついた時には、小さくなったルカを抱きしめていた。孤独に溺れることがないように、強く。
ルカが一気に近くなった。
ルカを怖がらせるかもしれない。
嫌われるかもしれない。
そう思ったけれど、どうしても放っておくことなんか出来なかった。
ふわふわの髪の毛が目の前で舞い、淡いルカの匂いが僕の鼻腔を撫でていく。
心臓がドクドクと拍動して落ち着かない。その匂いに、さらに手が痺れて、震え出す。けれど、抱きしめたルカはあまりにも小さかった。

「何すんだよ!」

乱暴に僕を振り払うルカ。
ルカを抱きしめる手が僅かに緩くなった。でも、僕の顔を見た瞬間、その手の動きは柔らかくなった。驚いたように目を見開き、ただ僕を眺めていた。

「佐倉、お前何で、泣いてんの」
「……え?」

そして、僕はその時、僕が泣いていることを知った。
確かに視界がぼやけて、歪んで、頬に伝っているような気がする。僕が目をこすると、指には確かに涙が付いていた。

「僕、泣いてたみたいだね」

涙を親指で拭き取りながら、僕は笑ってみせる。
でも、僕が泣かないわけがなかった。
男らしくないと言われてしまうくらい、涙脆いのも自覚している。そんな僕が、大好きなルカが苦しんでいるのを見て、何も思わないわけがない。

「……何で、? 何でここにいるんだよ。何で、泣いてるんだよ」

けれど、ルカも、ルカだった。
まだ涙が残る頬で、僕にその疑問を放った。
その理由なんて、一つしかないのに。これまでも、ずっと伝えてきたけれど、それではまだ、足りないようだった。

「それは、ルカが苦しんでたから。ルカが泣いてたから。僕も苦しかっんだと思う。やっぱり、ルカには笑って欲しいからさ」

僕は抱きしめていた腕を緩めて、ルカと向き合う。
目の前にいたルカは、驚いたように目を見開いていた。その瞳は鋭くなくて、何だか初めてルカをきちんと、真正面から見たような気がした。
僕がそう言うと、ルカは一筋また涙を流した。
一滴一滴と、小さく瞳が揺れる。
もしかして、傷つけてしまったのだろうか。
まさかルカが涙を流すなんて思ってもみなかった僕は、慌て出す。けれど、そんな僕とは裏腹に、ルカはポツリと言葉を紡いだ。

「……歌えなかった。やっぱり、歌えねぇんだよ。歌おうとすると、あの嫌な言葉を思い出して」
「うん」

目の前のルカはやけに素直だった。今まで被っていた皮が剥がれるように、音楽室に響いていく。

「俺は、歌うことしか出来ねぇ。それなのに、歌えなかった。そんな自分が嫌いで仕方ない」
「うん」
「俺は、なんの価値もない人間に成り下がったんだよ。佐倉、お前にも、申し訳ない」
「……え?」

ルカは最後の言葉を言い放つと、僕に頭を下げた。
肩も声も小刻みに震えていて、そう話すルカは、本当に本当に小さかった。
こんな姿、誰も想像出来ないだろう。
何かに怯えるように、そんな自分が許せないと嘆くルカの姿は、苦しかった。
やっぱり、ルカをこんな風に傷つけたやつが許せない。
けれど、過去は変えられない。
ルカが負った傷は消えないし、その涙も消えてはくれない。僕は外野に対する怒りも、ルカに対する思いも全て叫び出したかった。
そんなことないんだって。
ルカに救われたんだって。
けれど、それを叫んでも意味が無いような気がした。ルカだってそんな言葉は求めていないだろう。
だから、僕はただ笑った。
幼い子供のように怯えるルカの涙が止むように。
聞いて、ルカ。
ルカと出会ってから、僕はまた一つ、昨日の僕を超えられた。

「そんなことないよ」

僕は今出来る最大限の笑顔で、ルカの肩に触れる。

「僕だって泣いてたでしょ? ルカが辛そうなのが、僕には一番辛いんだ。だから、笑ってほしい。罪悪感を感じて、無理に歌おうとしないで。
僕は、ルカ話しているだけで、満たされるんだからさ。
だから、謝らないで。ルカはそのままでいて」
「……」

ルカは僕の瞳を見て、逸らさない。

「それに、ルカには笑っていて欲しい。だから、良ければ友達になってくれないかな? ルカを一人にしないし、笑わせてみせるからさ」

そして、僕はおどけるように笑った。
ルカに、これ以上何も苦しんでほしくない。
もし僕がファンだと知ったから、歌おうとしてくれたのなら、その呪いが解けるように。
気楽な関係性でいたい。
そして僕はお願いするように、ルカを見た。
そして、次の瞬間。
音楽室の冷たく、凍てつくような空気が、一瞬にして輝いた。
心臓がこれ以上ないスピードで拍動してく。ルカ以外のものなんて目に入らなくて、ただ目を奪われ続けた。
ルカが笑っていた。
ふわふわの髪を掻きながら、小さく笑みを浮かべている。

「告白、みたいだな?」
「っ」

意地悪な表情が目に入る。
そして。

「分かった。なってやる」
「……っ!」

そうルカが言ったのだ。
まるで雲の隙間からチラリと覗く、満月のような笑顔だった。
太陽ほど明るくはない。けれど、静かに、夜の街を照らすような。思わず綺麗だとつぶやいてしまうような、そんな笑顔。
ぎこちなく笑ったルカの笑顔に、僕の心が奪われたのは、言うまでもなかった。
生きてきた人生の中の、どのページよりも、世界が美しく見えた。
ようやく僕たちの物語の幕が上がった気がした。
そして、僕たちは音楽室で一緒に、机を囲んだ。
暖房の効いていない音楽室の空気は寒くて、僕たちはセーターに身を捩る。
その机にはお弁当が小さく乗せられていた。僕たちは、会話をし合って距離を縮めた……なんてことはなかった。
音楽室が静寂に包まれると、僕は乱雑に置かれたお弁当箱を拾い上げた。
熱のほとぼりが冷めない中で、僕はゆっくりとお弁当箱を開けた。
そんな僕を見て、ルカも菓子パンを頬張る。
僕たちは窓の外を見て、この空気に酔いしれた。
ルカと一緒にご飯を食べている、と言う事実が僕の鼓動を早くして、ご飯を呑み込むのも一苦労だった。
そしてそんな時間もいつかは終わる。
昼休みの終わりを知らせる鐘が、音楽室の扉を経て、廊下から聞こえ出す。
僕たちは徐に席から立ち上がって、同じ歩幅で教室を目指した。
その時だった。
ずっと黙っていたルカが僕の方を振り返ったのだ。先ほどまで涙を流していた人とは思えないような、綺麗な顔で。

「なあ、佐倉」
「う、うん」

妙に肩に力が入って、ぎこちない返答だった。
けれどルカはそんなものはお構いなしに続けた。

「あの日。佐倉が話しかけてきた時……」

言うことが憚れるかのように、言葉に詰まるルカ。そして、僕から視線を外したあと、ぶっきらぼうに放ったんだ。

「その……不快って言って悪かった。でも、そうじゃなくて。別に不快なことなんてねぇ。むしろ、いいっていうか」
「え? なんて?」
「……だから! 話しかけても別に、いい」

そう言い放つと、ルカは僕の返事も聞かず、大きな足音を立てて颯爽と去っていく。その白い頬に、僅かな赤色を残して。
僕は廊下で立ち尽くした。
高鳴り出す心臓を、両手で抑えつけた。
そうでないと、この鼓動が聞こえてしまいそうな気がして。
もしかして……ルカは、不快だって言ったことを、ずっと気に留めていたのだろうか。
たったそれだけのことを考えていたのだろうか。
まるで、ルカの魔法で石化されたように、僕は固まった。
あの日のように、周りの声なんか一切聞こえなくて、ただルカのその後ろ姿を眺めた。
鼓動が早くなって、世界が眩しくなった。
ルカは僕が知っていた何倍も、魅惑だった。
そして、そんなルカに僕は勝てっこなかった。
僕はそんなルカの魅力に、これ以上ないほど深く浸かっているらしい。ルカのことが、そして、成瀬流夏のことが、本当に、大好きらしい。
紅潮して、熱く切り取られた頬を手の甲で冷やしながら、僕は呟いた。
僕は、勝負に負けた。
でも、こんな勝負に勝てる奴なんて、きっといない。
僕は、流夏が好きになった。


 それから僕たちは、不定期に音楽室に集まるようになった。
教室の中ではいつものように、僕が話しかけて、流夏が返答をする。
ただそれだけ。特別なやり取りなんてなくて、その表情は相変わらず無愛想だった。
けれど、音楽室に行けば、その笑顔が垣間見える。
僕だけの、特権。
僕だけが知っている、僕だけの流夏。
あの日から、流夏が歌おうとしている様子を見ることはなくなった。僕たちは、ファンとアーティストという関係から、少しづつ友達へと変化していった。
流夏の口調は少しづつ和らいで、ルカとして活動してた時の香りが漂う日もあった。
それは雨の強い日だった。
窓に何も映らないくらいに曇っていて、天候は荒れいて、時折雷が轟いていた日。いつものように音楽室に来た僕たちは、いつものように電気をつけようとした。
音楽室はあまり光が入らない設計なのか、その日は何かが出る予兆のような、重々しい空気が漂っていた。
そして、僕はスイッチに手をかけた。
パチン
けれど、電気が付かない。

「あれ? 停電?」

僕がポロリとついた言葉に、流夏の肩が跳ね上がる。

「は? 本当につかねぇの?」
「う、うん。ほら」

そう僕の方へ寄って来た流夏の指先は、僅かに震えていた。
流夏は怖がりな性格で知られていた。
けれど、それを必死に取り繕うように、平生でいようとする流夏に、僕はほんの少しのいたずら心が湧いた。
そして次の瞬間。

「……わ!」

音楽室の周りに人が少ないことを利用して、僕は大きな声を発した。それはもちろん、流夏を驚かすために。

「っ!」

そして案の定、流夏は大きく肩を跳ね上がらせた。けれど、それだけには留まらない。何かに怯えるように、僕の背中にその頬を寄せたのだ。
まるで僕を盾にするように。
その背中に感じる温もりに、心臓が飛び跳ねた。
けれど、それ以上に流夏が可愛く見えた。
口元がだらしなく緩んで、止まることはなかった。
身長も高くて、顔も、声も、全部素晴らしい人なのに、僕の声に驚いている流夏が、僕を盾に隠れる流夏が、可愛かった。

「お、驚かせるなよ!」
「……ふっ、ごめん」
「何笑ってんだよ。次やったら許さねぇから」

そして流夏は、僕の腕をぺちんと叩いた。
触れられたところがこんなにも熱くなっているなんて、流夏は少しも思ってないだろう。けれど、そんな毎日は目が眩むほど輝いていた。
ただ流夏と居れることが楽しくて、嬉しくて、幸せで、少し前の日常とは逸脱した日々を送っている。
けれど、その笑顔を見る度に感じる、胸の痛み。
その胸の痛みは、日に日に大きくなっている。
流夏の笑顔を見る度に、呼吸が浅くなって、息が出来なくなって、ただ心臓の音だけが響き続けている。何かに感電したかのような衝撃が走るのだ。
けれど、僕はその正体を知っている。
……恋なんだ。
どうしようもなく流夏に恋焦がれて、その顔を見るだけで、心臓を握られたように苦しくなる。誤魔化しが効かないくらいに、この気持ちはいつの間にか肥大化していた。
けれど、流夏には言えない。
友達として、接してくれている流夏に恋愛感情があるだなんて。気持ち悪がられるに決まっている。
フツウは女の子を好きになるはずなのだから。
僕のように恋愛対象が男なんて、流夏にも理解してもらえるかどうか。
それに、流夏には好きな人がいる。
思わず発信せずにはいられなかった、ルカのファンだという人。羨ましくて、なれるものなら入れ替わりたくて仕方がない人。
あの呟きには、その人を愛おしいと思う気持ちが溢れていたのだから。
流夏の気持ちを遮ってまで、なんて、そこまで非情になれない。流夏が幸せになれるのなら、その人と結ばれてほしいと思うから。
だから、僕は隠している。
溢れ出さんとする恋心に蓋をしている。
その笑顔に胸が高鳴ることを。
流夏を近くで感じて、触れたいって思うことを。
けれど、そんな僕の煩悩に気がつくこともない流夏は、今日も僕の目の前で無防備に笑う。
綺麗な瞳の中に空模様が反射して、ふわりと靡く髪の毛は綺麗で。
それでも、僕は幸せだ。
このままずっと、流夏と一緒に過ごしたい。
けれど、そんな日々はいつまでも続くわけがなかった。
ずっと嫌な予感はしていた。
そう。流夏の正体が、バレたのだ。
ルカは、度々SNSでも流行するようなアーティストだった。誰もが、その落ち着いた、綺麗な低音を耳にしたことがあるだろう。
僕は、その事実を軽く受け止めていた。
流夏の存在が近くなりすぎたせいだ。
今日は音楽のテストだった。

「流夏、大丈夫?」

僕は菓子パンを口に放り投げている流夏に問いかける。
美味しそうな表情も見せず、淡々と頬張っている流夏は、僕の言葉にチラリと視線を向けた。

「何が?」
「ほら、次の音楽の授業、テストがあるでしょ? 歌わないといけないから……大丈夫かなって」

そう、僕たちの学校は実技試験が多い。
本当に嫌になる。
それどころか、クラスメイトの目の前で歌わないといけないところが、億劫でしかない。
それこそ、公開処刑になり得るかもしれないのに。
けれど、それよりも気がかりなのは流夏のことだ。
流夏は歌えないから。
歌おうともがいて、苦しむ流夏を、何度も何度も見てきた。
そんな流夏が心配でならなかった。けれど今の流夏は、僕たちと同じ一般人。
ルカでもなくて、ただの高校二年生の、成瀬流夏。
特別扱いをされる人間ではないのだ。
けれど、流夏は僕の顔を一瞥すると、菓子パンを机に置く。

「佐倉って、本当に心配性だよな。それでよく生きてこられたよな。感情移入だって、しやすいし」
「そ、そう?」
「自分では案外、分かんないのかもな。
でも気にしなくていい。それくらい歌える。俺の曲じゃなきゃ、ましてや授業なんて余裕だ。だから、心配すんなって」

そう告げると、流夏は綺麗な顔で悪戯っぽく笑って見せた。
薄く赤い唇が弧を描いて、切れ長の瞳は柔らかくなって、少しだけ明るい髪は宙に舞って。そして、その大きな手のひらを僕の頭に乗せる。

「っ」

逃れられない距離に、息を呑む。
手が痺れて、心配事なんて、その笑顔と温もりに溶けていく。
最近になって、よく見せてくれるその笑顔が、僕の鼓動を早くする。
僕の頭に手を乗せることも日常に化しつつあった。
僕の恋心をひとかけらも知らない流夏のそれは、本当に罪だった。
きっと流夏は、その度に心臓が高鳴っていることを知らないだろう。
流夏しか視界に映らなくて、毎日その美しい瞳に恋焦がれていることも、知らないだろう。
その温もりを感じる度に、少しだけ苦しくなって、また少しだけ好きになる。

「そ、そっか。なら、良かった」
「ああ」

淡く、脆い温もりを感じながら、僕は頷いた。


 けれど、現実は何度だって、上手くいくはずはない。
その時は、一体神様に何をしたのだろうか、と思ってしまうほどに、残酷に降り注いだ。
頭が真っ白になって、何も考えられない。
ど、どうしよう。
そんな言葉しか湧き上がらない始末。
ただ視界に映るのは、小さく震えている流夏だった。

「え? あの、ルカ? よくバズってた人?」
「あの恋、って曲でバズってたよね。声もかっこいいし、絶対イケメンって騒がれてた、あのルカ?」

ここは天国のように煌めいて、暖かくて、柔らかい光が差し込む音楽室のはずだった。
そしていつまでも、そうであるはずだった。
けれど、今、それが目の前で崩れ落ちる音が轟く。
窓には強い雨が打ち付けられていて、その煩わしい音が響き渡る。
あの悪戯な笑顔で笑っていた流夏は、今、この瞬間に消滅した。
ただ、歌を歌っただけだった。
課題であるイタリアの歌を歌っただけだった。ワンフレーズを口ずさむだけで、音楽室はコンサート会場にでもなったかのようだった。
誰も彼も虜だっただろう。
しかし、一人のクラスメイトが気づいてしまったのだ。
成瀬流夏が、ルカだと。
そして音楽室は、瞬く間に邪念が入り混じることになったのだ。誰もが詮索をはじめ、流夏の声になんて、耳を貸さなくなった。
注意する教師の声にも、無視を貫いて。
そのまま、音楽室は混沌の渦へと落ちていったのだ。

「マジかよ。声なんか聞いたことあるなぁ、とは思ってたけど」
「凄すぎる!」
「え、でも、待って?」
「ルカって、ファンが好きだって言って、炎上、してたよね?」

クラスメイトたちが騒ぎ立てる声が脳を突き抜けていく。けれど、その一人の発言によって、場の空気が一変した。
人間の醜さが光った瞬間だった。
先程まではただ、戸惑いと驚きだけが交差していたのに、その瞬間一斉に牙を剥く。

「そう、だよな? それで今活動してないんじゃなかったっけ」
「リアコが狂っちゃったやつ? え、それやばくね?」
「だから成瀬、告白とか全部断ってたんでしょ。好きなやつがいるからさ」
「あ、なる〜」
「うわ。炎上話聞けるとか、アツいわ〜」

手先が震えて、冷えていく。
一番耳にしたくないものだった。
流夏を見せものにして、鼻で笑うかのような会話。流夏だって、一人の高校生だってことを忘れ、最低なことを簡単に言ってのける。
流夏はあんなにも苦しんで、それでもここに存在してくれているのに。
それがどんなに苦しいものだったのか、知らないくせに。
クラスメイトには、今、目の前で震えている流夏が見えないのだろうか。
顔を真っ青にしている、流夏が。
けれど、もちろん、それだけで収まるはずがなかった。

「ねぇ、成瀬くん。成瀬くんってルカなの?」

一人の女子が、立ち尽くす流夏の袖を掴む。その言葉を発した瞬間、全ての狂気は流夏へ向いた。

「そうだよ。どうなんだよ?」

けれど、流夏は何も答えない。
一点だけを見つめている。
けれど、流夏の胸は浅く、早く動いていた。
そして、その眉は辛そうに歪んでいた。綺麗な瞳からは、光が失われていて、小さく開いた唇から浅い呼吸を繰り返している。
その顔を見た瞬間、僕はガタンと椅子を鳴らし立ち上がっていた。クラスメイトの煩わしい喧騒に負けないくらいの、耳につく音だった。
クラスメイトが一斉に僕を振り返る。

「……佐倉?」
「なんだよ、びっくりさせんなよ」

けれど、僕はそんな言葉に反応できるほどの余裕なんて、持ち合わせていなかった。流夏が苦しんでいる。それが、問題だった。
今にも倒れそうな流夏に、駆けていく。

「流夏っ!」

抱き止めたその体は、生きているのか疑ってしまうほどに、冷たかった。その背筋は、老人のように曲がって、そして浅い息を繰り返している。
綺麗な顔は真っ青に染まっていて、僕の方を一度たりとも見ない。
僕が流夏を抱き止めると、音楽室は一気に静まり返った。
流夏を苦しめ続けたクラスメイトたちは、ようやく自分たちの非道な行いに気がついたようだった。
けれど、流夏以外を見る余裕なんてない。
今はただ、流夏が心配でならない。
流夏の息遣いだけがこだまする中で、僕は小さく囁いた。

「流夏、大丈夫? 保健室行こう」

けれど、その時だった。
手のひらに、熱い衝撃が走って、そのすぐ後に痛みが伝わった。
パチン
と肌と肌が素早く接触する音が鼓膜に届く。僕の手を払いのける音だった。

「……え?」
「やめろ。放っておいてくれ」

そして次に聞こえたのは、あまりにも低い声。そこには、あの日のような光なんて微塵もなかった。
僕を見下ろした流夏の表情に、背筋が怖気ついた。
反射的に、僕は流夏の体を離してしまう。そしてその一瞬の隙で、音楽室を飛び出してしまった。
流夏が僕の手から離れていく一瞬。
その一瞬で見えたものは、流夏が泣き出しそうに口を噤む顔だった。

「待って! 流夏!」

そう叫んでも、流夏に届くことはない。その背中は瞬く間に消えていってしまった。
追いかけなきゃ。
流夏を一人にしたらダメだ。
けれど、そう思っても足がすくんで地面から離れなかった。足が床と張り付いたように、動けない。
僕が行って、迷惑だったら?
またあの顔で睨まれたら?
嫌われたら?
僕の心には、クラスメイトよりも最悪な考えがよぎり続けた。僕には流夏に嫌われる勇気なんて、なかったのだ。
ようやく流夏と繋いだ手は、あまりにも簡単にするりと間隙から溶けていった。

それから先のことなんてほとんど覚えていない。
クラスメイトが僕に謝っていたことと、怜奈がクラスメイトを叱るように、声を荒げていたことくらい。
けれど、その内容なんて頭に無くて、ただ流夏の表情だけがぐるぐると渦巻いていた。
心配で、心配で仕方なくて、今にも胸が張り裂けそうで。
それでも、何も出来ない自分が、ただただ憎かった。
流夏が叩かれていた時よりも、遥かに痛かった。何本もの鋭利な刃が、僕を刺し続けているような感覚が抜けない。
外の空気がいつもより寒くて、仕切りに振り続ける雨に、傘を差すことも出来なかった。
そんな僕を心配して、玲奈が何か言っていたような気もする。
けれど、そのうるさいくらいに響く声も、僕の鼓膜に届くことはなかった。
落ち着かせるために、イヤホンでルカの歌を流した。
けれどルカの歌すら、少しの余韻を残して、散っていく。
こんなことは初めてだった。
今、流夏はどこにいて、どんな表情で、何を思っているのだろう。ただ知りたくて、仕方がない。
案外、怖がりで、人一倍繊細な流夏のことだから。
けれど、連絡先も、住所も知らない僕は、ただ明日がじっと来るのを待つことしか出来なかった。
独りの夜は、寒くて、怖くて、カーテンから覗く街灯の光が虚しく感じられた。闇に染まった街が色褪せていく夜明けが、ただ待ち遠しかった。
そして、月が眠りにつく頃。
太陽が、幾重にも光を宿して、僕の部屋を照らす。ルカと書かれたCDたちが、その光に反射して、白い壁に小さな虹を描いた。
スマホのアラームを止め、小さな怪獣たちを起こす。
いつものように、小さな空間に波乱を宿しながら、僕たちは四方へと散っていった。
電車に揺られている時も、手のひらには汗が滲んだ。
手を合わせて、小さく祈る。
次の停車駅で、怜奈と顔を合わせ、学校を目指す。
怜奈はバツが悪そうに、口を噤んでいた。
怜奈も何かと責任感が強くて、唯一流夏の正体を知っていたからこそ、罪悪感を感じているのかもしれない。
けれど、それはそれで何か気味が悪くて、

「普通にしててよ」

と言うと、何かを感じ取ったのか、ぎこちなくも普段通りの怜奈でいた。
電車に揺られている時も募っていく不安を一つ一つ拭い取りながら、むかえた教室の扉。
けれど、その先に広がった風景は、いつも通りではなかった。
喉がひゅっと鳴る。
頬杖を突いて、窓の外を眺める流夏がいなかった。
崩れ落ちそうになる足を叱咤して、何とか自分の席まで辿り着いた。
でも、そうかもしれない。僕が、間違っていたのかもしれない。
だって僕なら、あんなに傷つけられても尚、呑気に学校なんて来れない。

「はよー」
「うん」

隣の太田に生半可な返事を返して、僕は席に座った。
腰掛けた椅子は、冷たくて、固くて、思わず涙が出そうになる。
流夏がいないだけで、何もかもがちっぽけに見える。
僕は机に突っ伏した。
起き上がる気力なんてなくて、僕はただ窓の外を見ながら、ルカの、大好きな人の声を聞いた。

「えーっと、成瀬くんだけど、今日は風邪で休みだ。きっと、昨日の雨のせいだろうな。他は全員いるな? じゃあ始めるぞ」

流夏が登校しない理由を聞いたのは、すぐ後だった。
その言葉に、さらに体温が下がるような感覚を覚えた。
流夏の状態が気が気でならない。
他のクラスメイトが休んでいても、何も思わないのに、今どうしているのか、知りたいと思っている僕がいた。
普段、優と翔の世話を任されているからか、今すぐにでも看病に駆けつけたい。
そして、僕は授業が終わると同時に、担任に駆け寄る。
タイミングが良いことに、今日の授業で新しいプリントが配られたばかりだったのだ。

「先生っ!」
「佐倉?」

普段発言なんて全くしない僕からの呼びかけに、驚いているようだった。

「僕、成瀬流夏くんの、友達で……」

僅かに胸が痛む。
そうだ、僕は流夏の友達にすぎない。

「ああ」

そう言うと、担任は納得したように、首を縦に振った。

「プリントを届けたくて、それに、風邪も心配で。家に行きたいので、住所とか教えてくれませんか?」

僕がそう言い放つと、担任は小さく頷いた。そして傍に抱えていた名簿を覗くと、住所らしき文字列をスラスラと紙切れに投影した。

「ちょうどよかった。家に一人のようだったから、心配だったんだ。行ってやれ」
閑静な住宅街の一角の中に、流夏が住んでいるというアパートはあった。アパートとは言っても、外観は綺麗で、パステルカラーがワンポイントとなっているようだ。
辺りには街灯が等間隔に並んでいて、夜に差し掛かるこの黄昏時を照らしている。
そして、本当に静かだった。
知名度のあったアーティストだったから、豪邸に住んでいると思っていた自分を殴りたくなる。
流夏は、ちゃんと、僕たちの生きる世界にいたんだ。
時折強い風が頬を撫でていき、皮膚が収縮していくのが感じ取れる。僕は担任が書いたメモと、スマホの地図アプリを交互に眺めながら、その扉を前にした。
スマホの画面を暗くして、その画面で顔を確認する。
風邪で乱れた髪を整える。
……まさか、流夏の家に来ているなんて。
自分で言い出したことだけれど、僕は緊張していた。学校以外の流夏に会うなんて初めてで、さっきから脈拍が速くなったり、遅くなったりを繰り返していた。
怜奈に預けた優と翔のことなんか、すっかり頭から離れて、思考が流夏で埋め尽くされる。
ピンポーン
玄関脇のインターホンを鳴らすと、大きな音が扉の向こうで反芻する。

「……はい」
「っ!」

そして聞こえてきた、愛しい人の声。
たった少し聞けなかっただけなのに、僅かに涙腺が緩む。
良かった。ちゃんといた。

「えっと、佐倉こう、です。風邪って聞いたから、お見舞いに来たんだ」

僕は両手に抱えたビニール袋に視線を移した。
風邪の時でも食べられるお粥に、うどんに、その他いろいろな食材。料理は得意な方だから、調子に乗って色々買って来てしまった。厚手のセーターの上からでも、その紐が腕に食い込んで、痛いくらいに。
そして風邪薬。
流夏が何を飲むのか分からないから、数種類を。
僕がそう言うと、インターホンの向こう側で戸惑っているのが分かった。しばらく間が経つと、扉の先から足音が響いた。
流夏がこっちに来る。
それだけで、心拍数が上がっていく。
そしてゆっくりと開く扉。
そして開けた視界に現れたのは、大好きで仕方がない人だった。少し覇気がなくて、やつれているけれど、それでも大好きな人。

「なんで……佐倉、が?」
「お見舞い!」

僕は白いビニール袋を掲げる。
目の前の流夏は、一眼見ただけで分かるほど、体調が優れていないようだった。声は低くて、不機嫌そうだけど、その瞳はとろんとしている。
そして何より、制服とは違い、フラットな格好の流夏に僕はドキッとする。
そのTシャツは、首元が少し開けているのだ。
やり場に困る視線をビニール袋に移し、口早に告げる。

「一人暮らしって聞いたから、心配になって」
「別に頼んでない」

やっぱり。
流夏ならそう言うと思った。体調は悪そうなのに、流夏は相変わらずのようだった。

「でも、買って来ちゃったからさ。お見舞いさせてよ」

流夏の瞳に訴えかける。
いつもにも増して潤んだ瞳は、いつもよりもガードが緩いような気がしたから。
そして案の定、流夏は僕が望んでいた言葉を放った。

「……分かったよ。色々悪かったな」
「ううん! 僕がしたくてしたんだから」

嬉しくなって、思わず口角が上がってしまう。
そして僕は、流夏の家へと案内された。家の中は一つも電気が付いていなくて、暗かった。
けれど、綺麗に片付いていて、中は広い。
流夏の甘い匂いが鼻をくすぐって、僕を変な気持ちにさせる。
けれど、それよりも目を奪うものがあった。
それは、各所に散らばっている何本ものギターだった。けれど、一つ一つ丁寧に扱うような手つきに、目頭に熱が集まるのを感じていた。
……良かった。
流夏の中で、まだルカが消えてない。
ここで流夏は、あの歌を紡いでいたんだ。
この中で流夏は生きていたんだと思うと、急にソワソワして落ち着かない。
そして僕は、流夏が指を指した机の上に、ビニール袋を置いた。近くの椅子に座った流夏が、僕を見上げる形になった。

「たくさん買ったんだな」
「うん。何がいいとか分かんなくて。流夏の好きなものも知らなかったし」
「……あ、そう。でも、それにしても多いな」
「あはっ! 確かに」

僕がそう言い終わると、流夏はふわりと口角を緩めた。その警戒心のない柔らかな笑顔が、僕の心臓を刺していく。
本当に、ずるい。
僕の気も知らないで、こんなに綺麗な顔で笑いかけるなんて。
そして僕は、ビニール袋から大量の食材を取り出して、すぐそばにあった冷蔵庫に次々と入れていく。その間に昨日は大丈夫だったのか、とか、熱は? とか、気になっていたことを問いかける。
熱は高いようで、ぐったりとしていた。けれど、それ以上の症状はないらしい。
僕は心の底から安堵する。
そんな僕を見ると、流夏は乾いた笑いをこぼした。

「心配性なんだな、佐倉は。俺はそんな弱くないっての」
「だって、流夏って一人で抱え込むでしょ? 毎回心配しすぎて、心臓痛くなる、本当に」
「別にそんなこと」
「あるよ。僕の気持ちも考えて欲しいよ、もうちょっと」

けれど、僕がそう言っても流夏は柔らかな笑顔で、軽く流されてしまった。
僕がどんなに心配したか、知って欲しかったのに。
けれど、流夏は病人。
他にももっと聞きたいことはあるけれど、問いただすのは良心が痛んだ。
昨日、音楽室を飛び出してから、何があったのか。
どうやって帰ったのか。
どうして、家には一人なのか。
一人暮らしなのか。
親はいないのか。
けれど、流夏は自分のことを話すような人ではない。質問攻めにしても、流夏は流すだけだった。自分のことを知られたくないように、蓋をするように。
だからなのか、それを聞くのは怖かった。
そのため、僕は机に突っ伏したまま眠りにつきそうな流夏の肩を揺さぶる。
ここで寝たら、悪化してしまう。

「流夏、ベッド行こう?」
「……だるい」
「だめ。ちゃんと寝ないと。熱下がんないよ?」
「……めんどい。連れてって」

なかなか起き上がらない流夏の様子に困っていると、そんな声が降りかかる。僕の背中に腕を回して、一気に距離が近づく。
反射的に流夏を見ると、その口元が少しだけ和らいでいた。
〜〜っ
本当に、流夏は!
僕は暴れ出す寸前の勢いを孕み出す心臓を手で抑える。これが無自覚なのだから、尚更タチが悪い。

「もう、分かったよ」

そして僕は、ゆっくりと流夏の腕を、自分の首に回した。流夏の体は熱くて、この熱が、自分のものなのか、流夏のものなのか、もう判別がつかない。
全身に流夏の重さを感じて、僕は歩き出す。流夏はやられるがままの子供のように、僕の背中に手を回し続けていた。
時折荒い息が降りかかって、その度に心臓が揺れ動いた。
流夏の部屋は、リビングの脇にあった。

「……わぁ!」

普通の光景であったリビングから、景色が一変する。
声を出さずにはいられなかった。
辺り一面にギターや、楽譜、キーボードが広がっていた。
本当に、ルカだったんだ。
本当に、ここで流夏が活動をしていたんだ。
ここで曲が紡ぎ出されたんだと思うと、涙が出てしまいそうになる。けれど、その涙を堪えて、奥にあったベッドに流夏を運んだ。

「ほら、流夏。着いたよ」
「……ん」

妙に色っぽい声に、心臓が飛び跳ねる。それが流夏に伝わらないように、胸の辺りを押さえて、僕はポツリと呟いた。

「すごいね、ここ。なんか感動する」

ただのファンだった時の記憶が脳裏に浮かんでは消えていった。
僕の興奮する様子を横目で見ると、流夏は目を瞑りながら、かすかに笑う。

「俺のファンだったんだもんな?」

カーテンの隙間から漏れる光を反射して、イタズラっぽく笑った。その言葉が、飛び上がるほど嬉しかった。

「っ! そうだよ! すごく、嬉しい」
「……今は?」
「今も、ずっと!」
「ならいい」

いくらファンだと言っても、信じてもらえなかったのに。何度だって突き返されたのに。
けれど、今は目の前で笑っている。
ファンだと告げられることを求めてくる笑顔が、そのイタズラっぽく綻ぶ口元が、ただただ嬉しかった。
精一杯、首を縦に振る。視界がぐわんと歪むほど、強く。
そして僕は徐に立ち上がった。
まだ流夏の側に居たい気持ちを殺して、ゆっくりと流夏から距離を取る。

「そうだ、ご飯作ってもいい? 何がいい?」

名残惜しい気持ちを胸に抱えて、そっと問いかけた。

「佐倉って、料理できんの?」
「できるよ。だから遠慮なく、どうぞ」
「別になんでも。ありがとな」
「分かった! ちゃんと寝ててね。ご飯出来たら、また呼ぶから」

その流夏の返事を聞いて、部屋から退出しようとした時だった。
ドン
と何かがぶつかる鈍い音がした。
流夏の部屋は電気がついていなくて、今はもう冬の放課後。カーテンの隙間から覗く光だけが頼りな世界。
視界は明瞭ではなくて、僕は足元にあった机の存在に気が付かなかった。
ぶつかってしまった反動で、曲がってしまう机。

「あ、ごめん」
「大丈夫か?」
「うん。大丈――」

そう言って、ずれてしまった机の位置を戻そうとした時だった。
机に置いてあった紙切れに、息を呑んだ。
その紙切れが、この薄暗い世界の中で光を放っている。気がつけば、僕はその紙切れに書かれた文字を目で追っていた。
その内容を認識すると僕は、動く能力を失った人のように、しばらく言葉を紡げなかった。

「……え?」

間違いない。
この少し丸い字を知っている。
その紙切れは手紙だった。
内容からしてファンが、ルカへ宛てた手紙。僕がルカへ宛てた、これでもかと愛を紡いだファンレターだった。
何通も書いては消してを繰り返した、心を込めて書いた、大切なファンレター。
ちゃんと、届いていたんだ。
何時間も似合う言葉を探して、書き上げた手紙がルカの部屋にある。
流夏を好きな人が此処にいると、伝えたかった手紙が、ちゃんと流夏の元に届いていんだ。
嬉しくて、仕方がなかった。
開封されているから、流夏はきっと、読んでくれたのだろう。

「流夏、これって……」
「ああ、それは」

流夏の細くて、長い腕が手紙を掬い取る。
まるで宝物に触れているかのように、丁寧で優しい指先で、その手紙を手繰り寄せた。

「もしかして、ファンレター?」

分かっているのに、これは僕が書いた手紙だって知っているのに、そんな言葉が喉をつく。
確かめたくなった。
流夏は手紙に視線を落とすと、小さく頷いた。

「そう。ずっと昔から応援してくれてたファンからの手紙」

愛おしそうに、その手紙を親指で撫でる。僕の心臓が高鳴るほどに綺麗な横顔で、ファンレターの文字を追っていた。
僕の心臓が早くなっていく。
ただ、少しだけ。ほんの僅かな可能性が浮き上がる。
この薄暗さと、静寂さを利用して、僕は問いかけた。

「その人のこと、好き?」
「当たり前だ。この人は、俺が路上ライブしてた時から応援してくれてたんだよ。俺についた、初めてのファン。手紙が来る度に、嬉しかった。
なんつうか、俺の心の支えみたいな人」

その言葉に、喉がヒュッと鳴る。
手足が僅かに震えているのが分かる。あり得ないくほどに、全身が騒がしかった。

「まさか、流夏の好きな人って、その人じゃないよね?」
「……」

流夏はその容貌から、多方から告白をされている。
転校した直後も、今も、その勢いは収まることを知らない。
実際僕も、その現場を幾度か目にしたことがある。
その度に、流夏は言っていた。
『好きな人がいるので』
その言葉を耳にするたびに、鈍器で殴られたように頭が朦朧とした。
今まで聞けなかった。その『好きな人』は、誰なのかってことを。
それを本人の口から聞けるほど、僕は強くはないから。
怖かった。
けれど、その手紙は、僕の字だ。
書いているうちに涙が溢れ、文字が滲んで、何回も書き直した手紙。
そして、僕は流夏とあのクリスマスの日。路上ライブをしている時に出会った。偶然と呼ぶには、あまりにも重なりすぎている気がしてならない。
流夏は僕の言葉に数秒、黙り込んだ。
静寂が漂って、僕の心音が流夏まで聞こえてしまいそうになる。
そして、

「……そうだ。好きだ」
「っ!」

この瞬間、僕は人生で一番と言っても過言ではないほどの衝撃が走った。嬉しさや、喜びが全身を駆け巡って、震え出す。
まさか。
まさか!
流夏も、僕が、好き、だったってこと?
けれど、流夏が次に発した言葉は、僕を地獄に落とした。

「一度しか会ったことがないけど、手紙が来る度に救われたよ。嬉しかった。いつか、会って、伝えたいと思っている。さくらさんに。
きっと素敵な女性になってんだろうな」
「……え?」

流夏の言葉に、僕は情けない一言を発した。
女性?
その二文字が頭の中をぐるぐると駆け回った。
高鳴っていた心臓は凍ったように、働きをやめ、手のひらからは熱が冷めていった。

「女の子、?」

ようやく発したその言葉に、流夏はさらに追い打ちをかける。

「ああ。当たり前だ。別に男は恋愛対象じゃない」
「っ」

何を疑うわけでもなく、即答される。
この時だけは、この部屋が暗くて良かったと思った。何も見えなくて良かったと思った。僕の涙に気が付かれないで済むから。
拭っても、拭っても、溢れだす涙を見られずに済むから。
ただ、辛かった。
自分の物差しで流夏を測っていたことも悪かったとは思う。
流夏が僕を好きだと言った時。僕は疑うこともなく、ただその言葉に歓喜した。
もしかしたら、両思いかもしれないと。
会うたびに、目を合わせるたびに、心臓が高鳴って、手が痺れるのは、僕だけじゃなかったんだと。
けれど、違った。
『さくら』と名乗って、僕は手紙を書き続けていたからだろうか。
まさか、女の子だと思っていただなんて。
そして流夏は、僕ではなくて、女の子のはずの僕に恋をしていたんだ。

「そ、そうなんだ。いつか、伝えられるといいね」
「ああ。そうだな」

この場にいることが辛かった。
愛おしそうな表情を浮かべている流夏。
僕が書いた手紙を、壊れものに触れるような手つきで眺めている流夏。
その表情が向けられているのは僕なのに、僕ではない。
流夏にくるりと背を向け、僕は流夏の部屋から立ち去った。
パタン
と扉を閉めたと同時に、自分でも驚くくらいの涙が溢れてきた。セーターに楕円のシミを落として、もう立っていられなくなった。
どうして……!
どうして、変な期待なんかしたんだよ。
僕はフツウじゃないって、散々知ってたじゃないか!
へたりと床に這いつくばる。
この感情をどうすれば良いのか、分からなかった。
ただ苦しくて、息を吸うのも痛くて、何をすることも出来ない。
もういっそ、僕の知らない人を好きでいて欲しかった。それなら、その人を一生羨んで、生きていけば良かったのに。
この感情に一生蓋をしたままで良かったのに。
僕なのに、僕じゃない。
僕の方を向いているのに、その視線は僕を通り過ぎていく。
『男は恋愛対象じゃない』
その言葉が脳裏に焼き付いて、離れない。
僕がもし、女の子なら。女の子として出会えていたら。あの瞬間、流夏の腕の中に飛び込めたかもしれないのに。
都合の良い妄想が蝕んでいく。

「……ううっ」

その気持ちは、声となって、嗚咽となって、指の隙間を通り過ぎていった。

「うっ……流夏っ」

この気持ちが、こんなにも辛いだなんて。
流夏が好きでい続けるのが、こんなにも辛かったなんて。
あのクリスマスの日に出会わなければ。ただ、有名なアーティストの一ファンとして生きられていたら、こんなに苦しむこともなかったのに。
苦しくて、仕方がない。
僕はこれからどうしたらいいのだろう。
けれど、答えは一つも導き出せなかった。
一枚壁を挟んで寝ているはずの流夏に聞こえないように、暗いリビングで、冷たくなった体を抱きしめ続けた。
まるで世界で一人きり、僕だけ隔たれたような心地だった。
しばらく泣き腫らしている。
流夏の部屋の前で、三角座りに座って。
けれど、そろそろ動かないといけない。そんな気持ちが勝って、僕は重い腰を持ち上げた。冷蔵庫からたくさんの食材を出して、丁寧に調理していく。
卵のおじや。
それを作ろうと思う。
白だしのいい匂いがキッチンを充満し、優しく鼻腔をつく香りに、次第と落ち着きを取り戻した。
卵を解いて、熱々の鍋の中にかき入れる。
おじやを冷ましている間に、僕は余った食材で、体に良いものを作り続けた。
僕が流夏に出来ることを最大限やろう。
そう思った結果だった。
冷静になって考えてみると、お互いに叶うことのない恋をしている。流夏は存在しない人に恋焦がれているのだ。
僕よりも、もっと残酷かもしれない。
そして丁寧にラップをかけた後、僕はすっかり冷め切ったおじやを温め直した。
お盆に、スプーンとお茶碗と、風邪薬を乗せる。

「流夏、入るね」

小さく扉の前で呟いて、僕は扉を開いた。
そこには小さく息を吸って、気持ちよさそうに寝ている流夏がいた。
あんなに大好きな流夏の顔が、存在が、今は辛い。
そして流夏の手には、あの手紙が握られていた。
僕は、起こさないようにそっと、ベッドの脇の机にお盆を置いた。
そして僕は、流夏を見た。
街頭の光だろうか。
カーテンの隙間から漏れる柔らかな光が流夏を彩って、やっぱり言葉では伝えきれないほどに綺麗だった。
僕はベッドの脇に座る。
流夏は、目覚める予感がなく、深い眠りに落ちていた。
そして気がつけば、僕は震える指先で、流夏の手に触れていた。熱があるからか、その手は熱い。だけど今はこの熱さが心地よかった。
触れているだけの指先は、いつしか手のひらへと移り変わる。

「流夏……っ」

僕が呟いたその言葉は、誰の耳にも届かずに消えていく。
そして僕は、流夏の手のひらを握って、精一杯、抱きしめた。流夏の体に頭を埋めて、その存在を一番近くに手繰り寄せる。
どうして、こんなことをしているのか分からない。
それでも、叶わないって分かっていても、流夏のことが恋しくて仕方ない。
行き場のない雑踏のように、僕はただ抱きしめ続けた。
そしてその温もりを全身に伝った後、僕はお盆を残して、流夏の家を去った。
アパートの外は、冷え切っていて、風が冷たくて、静かで、ただ街灯のぼんやりとした光が道を照らし続けていた。
昔からおかしいと思っていた。
友達と会話を繰り広げる中で、どこか自分だけが違うような気がしていた。
小学生の時、好きな人の話になった。
一人の机を囲み、女の子の名前を挙げて笑う同級生たち。けれど好きな人、と言われて真っ先に思い浮かんだのは、一つ後ろの男の子だった。
プリントを回す時。優しく笑って受け取る様子に、子供ながらに尊敬していた。プリントが足りない時は、後ろの子に渡してから、先生に報告へ行く。
いつも真面目で、休み時間はクラスの明るい集団に混じることもなく、ただ本を読んでいる。その大人っぽい姿に憧れていた。
笑いかけられると、心臓が飛び跳ねた。

「佐倉は? お前、好きなやつとかいねぇの?」

そしてとうとう順番が回ってくる。
僕は少し考えたのち、あの子の名前を言った。
その場の空気が凍る音がした。みんな僕から距離をとって、白い目で見てくる始末。

「なんで男?」
「キモいよ、それ。フツウじゃない」

咄嗟に出たんであろうこの言葉が、ずっと心の奥に刺さっている。
深く深く、抜けることがないように。
笑っているのに、目が笑っていない。僕を避けるような、人外を見た時のような目が忘れられない。
そしてこの時、僕は意識し始めた。自分はどこかおかしいのかもしれないと。一度そう思ってしまうと、それは僕の目にも映るほど、鮮明になっていった。
フツウになりたい。
そう思うようになった。
そして僕が中学生の頃。
あの時の季節は冬だっただろう。
僕に告白してくれた女の子がいた。クラスの中でも人気を集めていた女の子だった。けれど、嬉しいなんて感情は微塵も湧かなかった。
けれど、僕は思ってしまったんだ。
この子と付き合って、僕も女の子が好きになればフツウになれる、と。

「いいよ」

そう言った。
フツウになれるはずの日々が待ち遠しかった。
けれどそんな日々は、いつまで経っても訪れない。笑顔で話しかけられるだけなら、まだ良かった。一人の友達として、ただ楽しかったから。
そして、とうとうクリスマスを迎えた。
あの日、僕はあの子と待ち合わせをしていた。
特に身なりに気を使うこともなく、防寒第一の服装と、あの子のキラキラと輝いたパールの服装の温度差は忘れられない。
それでも、クリスマスという日を楽しんだように思う。
あの時までは。
イルミネーションが輝く中、あの子の体が近づいてくる。人一人分離れていた僕たちの距離は、いつの間にか数センチになっていた。
そして次の瞬間、僕の体に小さな温もりが宿った。
驚いて見ると、あの子が僕を抱きしめていた。
その時、僕は最低なことを感じてしまったんだ。
嫌いな食べ物を懸命に咀嚼する時のような、気持ち悪さを。
気がつけば、僕はあの子の体を押していた。反射的に、小さな体を押し除けた。

「どうして……?」

あの子の瞳から涙が溢れ出る。寒さで赤くなった頬に伝ってゆく。

「どうして、佐倉くんはいつもそうなの! 私たち、付き合ってるでしょ? 恋人でしょ? 私のこと、好きなんだから付き合ってくれたんでしょ? なのに、佐倉くんは私のこと好きじゃないみたい。私と話してる時も、少しも楽しそうじゃないし、ずっと我慢してたんだよ? 好きの一言も言わない。手を繋ぐことも出来ない。おかしいよ! どうしていつもそうなの!」

鼓膜に鳴り響く、泣き叫ぶ声。
ただただ、申し訳なかった。
フツウになりたくて、利用したんだ、僕は。けれど、フツウになることも出来なくて、人を傷つけてしまった。
女の子を泣かせて、傷つけて、それでも僕はこの言葉に対する返事をあげられない。

「……好きになれなかった。ごめん、本当にごめん」

僕は崩れるように体を折り曲げた。
加害者のくせに涙が溢れて、この寒さのせいなのか、それとも別の理由なのか分からないけれど、仕切りに伝っていく。
そして、次の瞬間、燃えるように熱い衝撃が降ってきた。
その衝撃が神経に伝い、僕はようやく頬を叩かれたことを知った。

「さいってい」

涙を溜めた瞳で、その一言を吐き捨てる。
次の瞬間には、僕の隣には誰もいなくて、ただ独りとなった。胸が苦しくて、息が出来なかった。
次々と溢れては消えていった。
僕はフツウになれなかった。
いつまで経っても、おかしくて、他人を傷つけてばかりいる。そんな自分が許せなかった。許せなくて、嫌悪感に苛まれて、太ももに爪痕を深く残した。
この世界にポツンと取り残された僕は、ただその街を彷徨い続けた。フツウになれない僕は生きてる価値なんかない。僕が生きていることによって、たくさんに人を傷つけてしまう。
……死にたい。
ふとそう思った。
パッと浮かんできた欲望だった。
けれど、その時に飛び込んできたんだ。
流夏の声が。僕と同じように独りで、その孤独と戦うように愛の歌を歌う流夏が、本当に眩しかった。
こんな自分を肯定してくれているようで。
だから、僕は生きている。
そして奇跡を経て、僕は流夏と違う世界で知り合った。触れることが出来た。言葉を交わすことが出来た。
僕は、次第に恋に落ちた。
漠然と、この恋は僕の心の内で眠り続けていくものなんだろうと思った。消えることもなく、かといって実ることもなく。
けれど、今、消えようとしている。
男が男を好きになる。
それが、どんなに苦しいか、僕は身をもって痛感した。
流夏の恋愛対象は女の子で、僕は男。
二人が描いた線は、交わることなく、平行を描く。
そして今、僕は再び思う。
どうしてフツウになれなかったんだって。
あの時、フツウになれたなら。僕は今頃、ただ幸せな日々を過ごしていたのに。
行き場のない恋心だけが、僕の中で残り続けている。
流夏が学校へ来たのは、あれから二日経った頃だった。
音楽室の件があってから、流夏が学校へ来るのは初めてだった。けれど流夏が、ルカだということは、全校生徒に知れ渡っていた。
流夏を噂する声が、こだまする校舎。
けれど、それでも流夏は学校へやってきた。
いつものように扉を開けると、飛び込んでくる流夏の姿。流夏を見るのは二日ぶりで、少し反応に困る。
どのように接すればいいのか、迷っていた。
叶わない恋を抱えていくのか、恋を諦めて、捨てるのか。
けれど、その姿を見た瞬間、捨てることは出来ないのかもしれないと思ってしまう。
僕にとっては命の恩人で、僕を肯定してくれた人だから。
きっと、あの時から、ずっと、君に恋をしている。
けれどもう、誰かが傷つくもの、傷つけるのも嫌だ。
諦めよう。流夏への気持ちなんて綺麗さっぱり忘れて、友達として横に立てるように。

「おはよう、流夏」

扉の前で少し考えた結果、結局いつも通りでいることにした。
窓の外を眺めていた流夏は、僕の声に振り返った。
僕の顔を見た瞬間、少しだけ口元を綻ばせる。

「はよう、佐倉」
「っ!」

僕の顔に熱が集まるのを感じた。
……なんで?
僕が挨拶しただけで、笑うような人ではないのに。目の前にいる流夏の切れ長の瞳は、柔らかく弧を描いていた。

「う、うん。おはよう」

諦めようと決心したのに。
その笑顔を見ると、心臓が高鳴ってしまう。そんな気持ちをかき消すように、僕はリュックサックを下ろして、席に腰掛けた。
その時、また流夏の薄い唇が開く。

「あの時、なんで帰ったんだよ?」

不服そうに寄せられた眉が、視界の端に映る。

「……え? なんのこと?」
「家に、来てくれただろ? 起こすって言ったから寝たのに、起きたらいなくなってた。何で起こしてくれなかったんだよ。出来立ての料理、楽しみにしてたのに」

あの夜のことを思い出す。
自分のことで精一杯で、ただ綺麗に息を立てる寝顔を見ていたくて、少しでも近くにいたくて、手を握っていた。
動揺しないように、返答する。

「あ、ごめん。すごい寝てたから、起こすの悪くって」

僕がそう言うと、ふーん、と言う声が降りかかってくる。この早く鳴る心音が聞こえないように、手で抑える。

「なら、いいけど。けどあれ、美味かった。ありがと」

けれど、そんな僕の努力も虚しく散っていく。
今日の流夏、どうしたの……?
あまりにも素直で、いつもよりも早く拍動する。こんな風に素直になった流夏を見たことなんてないのに。

「う、うん」

けれど、流夏の話は途切れない。
寂しそうな空気を纏って、空を見上げる。

「俺、父親いなくて、母親だけなんだよ。けど、母親は男作って、ほとんど帰らない。だから看病とかされんの、初めてだった。熱の日に、他人が作った飯を食べるのも。だからさ、すげー嬉しかった」

……流夏は、本当にずるい。
僕は諦めようと頑張っているのに、その道を塞ぐように立ってくる。僕を真っ直ぐ見て、本当に嬉しそうに目を細めるんだ。
想っていても辛いだけなのに、好きと言う二文字が日々強くなる。流夏の意外な一面を知る度に、その思いは深く、強くなる。

「そ、そっか。なら、よかった」

蚊の鳴くような声で呟く。
そんな僕を見ると、流夏は悪戯っぽく笑った。僕に視線を合わせて、覗き込むように。

「照れてんの?」
「〜〜っ! 照れてない!」
「あ、そう」

今日は、本当にどうしたんだろう。
熱でどこかに支障をきたしたのだろうか。
それとも、弱った時の優しさが身に沁みたのだろうか。
そう思ってしまうほどに、今日の流夏は一段と眩しい。顔に熱が集まって、どうしようもなくなる。
赤くなった顔を隠すように、僕は勢いよく前を向いた。


 けれど、こんな流夏はいつまで経っても消えなかった。
寧ろ加速しているように思える。
流夏を好きなことがバレたのかもしれない、と思ってしまうほどに流夏は僕とより関わるようになった。
例えば、授業中。
僕よりも一つ後ろの席に座っている流夏は、たまに僕にイタズラをする。シャーペンで背中をなぞったり、何かを囁いてくるようになったり。
背中に感覚がするたびに、僕の心臓は飛び跳ねる。
くすぐったくなって、笑ってしまう。そんな流夏を注意するために僕が後ろを向いても、交わされるだけ。

「なに? 授業ちゃんと聞きなよ」
「だって、流夏が……」
「俺? 俺がなに? なんもしてないけど。ほら、聞かないと先生に目、つけられるよ」

しかも、それを、あの声で。
低くて、優しくて、大好きな声で囁くものだから、僕の心臓は毎日早くなる。冬だと言うのに、体に熱が篭ってしまう。
あり得ないと分かっているのに、流夏はたまにすごく優しい笑顔で僕を見つめる。
僕が書いたファンレターをなぞっていた時のように、優しく全てを包み込むような、あの眼差し。音楽室でご飯を食べている時にそんな笑顔で笑いかけられると、僕はいつも咳き込んでしまう。
けれど流夏は、そんな僕の背中を大きな手でさするのだ。
まるで僕の気持ちを知って、弄んでいるかのように。その瞳を見るたびに、勘違いをしてしまいそうになる。
でも、それは僕の妄想にすぎない。
一言で言えば、思わせぶりのような。勘違いしてしまいそうな行動を取ってくる。
けれど、流夏が好きなのは、女の子の僕だ。
僕ではない。
けれど、僕は流夏の行動一つ一つに反応してしまう。それが、僕を惨めにさせる。苦しくさせる。
僕はもう、どうすればいいか分からなかった。
諦めたいのに、諦められない。
その狭間に立ち尽くしている。動くことも出来ずに、僕はずっとそこで停滞している。
実らない恋なのに、勝手に好きになって、勝手に苦しんで、諦められない自分が憎かった。
そんな日々は、少し遅く、だけど、少し早く過ぎていった。
気がつけばもう、文化祭の二日前だった。
僕たちのクラスの出し物は、演劇となっている。
演じるのは、『白雪姫』。
そしてそれが決定したのは、たった二週間前ほどだった。それからずっと僕たちは、準備に追われていた。
僕は衣装作りを任されている。
流夏は『王子様』役が似合いそうなのに、僕と同じ衣装作りの係となっていた。
僕の隣にはいつも流夏がいて、そんな日常が日常と化しつつある。
今日は、夜遅くまで学校に残って準備をする日だ。
今年は母さんが家に帰ってきてくれていて、僕も学校に残って作業をすると言うイベントを謳歌していた。
窓の外は闇に包まれていて、たった一つ灯った部屋の中で、クラスメイトが作業をする。その特別感が、ほんの少し苦手だった文化祭が、今は楽しい。

「流夏―。そっち終わった?」
「わかんねぇ。けど、もう少し」
「僕、終わったよ!」

危なっかしい手つきで、布に針を通す流夏に声をかける。
ちょうど、白雪姫の衣装作りを終えた僕は、流夏が腰掛ける椅子の方へ駆け寄った。相変わらず不器用なようで、ところどころが大きく歪んでいる。
けれど、そんな不器用な流夏が可愛くて、僕は笑みを落とした。

「流夏って、不器用だよね」
「は? ちゃんと出来てるだろ、ほら」

僕が揶揄うように笑うと、流夏はムキっぽくその布を見せる。流夏が担当してるのは、頭につける装飾物だから、多少のズレは問題ない。
けれど、多少のズレ、と言う範疇ではなかった。

「あはっ。出来てないってば! ほら、貸して」
「……ん」

不機嫌そうに眉を寄せた流夏が布を手渡す。
僕は家事全般なら出来る。
優や翔のトートバックを縫うことだってよくある。そのことを知っている流夏は、何も反論出来ないようだった。

「ここ、ガタガタだよ。直すね」
「ん」

そう言うと、流夏から針をもらう。そして、丁寧に丁寧に、糸を解いていく。
教室には、たくさんの生徒で溢れかえっているのに、僕たちの周りは静かなくらいだった。針を通してる様子を、流夏がじっと眺めている。
少しだけ背筋が伸びて、僕は手に汗を握る。
流夏は無自覚なのかもしれないけれど、僕はその視線一つ一つに、ドギマギする。
するとその時、その様子をじっと見ていた流夏がポツリと呟いた。

「佐倉って、文化祭どうすんの」

その言葉に、僕は頭を上げる。

「どうするのって?」
「文化祭って、校舎回るんだろ? 誰と一緒に回るんだよ」

少し小さな声に、僕は口元が緩む。
そうだった。流夏は文化祭が初めてなんだった。
少し前までは、流夏の笑った顔すら見れるか怪しいくらいだったのに。そんな心配は過ぎ去っていて、文化祭の話までしている。
流夏と出会ってからは、毎日が早く過ぎ去って、一日一日が濃い。

「……僕は、誰とも約束しないけど。多分、妹と弟が来るんじゃないかな? 小学校終わりに」
「あ、そう」
「なんで?」
「別に」

そう問うと、流夏はプイと窓の外を向く。
流夏が僕以外と親しくしている様子なんて見たことがない。
もしかして、僕と一緒に回りたいのかもしれない。
僕にいたずら心が宿る。
いつも、いつも、流夏に振り回されている僕は、この時だけ、仕返しがしたかった。
作業をしていた手を止め、流夏の顔を覗き込む。

「もしかして、僕と一緒に回りたい、とか?」
「っ」

流夏の驚く顔が、視界いっぱいに映し出された。
それだけで、僕は満足する。
けれど、流夏は僕よりも遥に上手だった。再び作業をしようと、伸ばした手を流夏に掴まれる。

「なに?」
「ああ。俺、佐倉と一緒に回る。兄弟が来るまでの間でいいから。一緒にいて」

僕に視線を合わせるようにして、覗き込む。
そう言った流夏は、あまりにも真剣で、僕の心臓は高鳴った。

「う、うん。いいよ」

そう言った声は、少しだけ裏返っていた。
だって、そんな真剣に返されるなんて思わないじゃないか。流夏にとって僕はただの友達でしかなくて、その関係性は変わることがない。
いくら僕が諦めようとしたって、流夏はいっつも僕を逃してはくれない。

「やったな」
「……うんっ」

まるで子供のような屈託のない、純粋な笑顔で流夏は笑う。
その笑顔に、僕はどうしようもないほどに胸が高鳴った。俯きながら、僕も首を縦に振る。
僕と回る約束をして、喜んでくれている流夏が、素直に嬉しかった。
そして僕たちは、一緒に文化祭を回ることになった。
漠然と一人で行動するものだと思っていた僕にとって、一大イベントだ。
まるで恋人同士の約束みたいで、変に意識してしまう。
流夏は僕のことなんて好きじゃないのに、もしかして、という期待が横切る。
嬉しいのに苦しくて、その苦しさがまた、流夏に恋をする。
もう、どうすればいいか分からなかった。
こんなに苦しくなるならいっそのこと、その『さくらさん』は僕なんだと告げてしまおうか、なんて思う。
けれど、告げられた流夏はどんな気分なのだろうか。
恋焦がれてきた人はただの偶像に過ぎなくて、友人だと思っていた人が自分のことを好いているなんて。
きっと、傷つける。
どうしようもないほどに傷つけてしまう。
流夏の傷ついた顔なんて、見たくない。他人を傷つける苦しさが、僕には痛いほどに分かってしまうから。
だから僕は、欲望に抗えないまま、きっと明日も、明後日も流夏を騙し続ける。