ルカは、度々SNSでも流行するようなアーティストだった。誰もが、その落ち着いた、綺麗な低音を耳にしたことがあるだろう。
僕は、その事実を軽く受け止めていた。
流夏の存在が近くなりすぎたせいだ。
今日は音楽のテストだった。

「流夏、大丈夫?」

僕は菓子パンを口に放り投げている流夏に問いかける。
美味しそうな表情も見せず、淡々と頬張っている流夏は、僕の言葉にチラリと視線を向けた。

「何が?」
「ほら、次の音楽の授業、テストがあるでしょ? 歌わないといけないから……大丈夫かなって」

そう、僕たちの学校は実技試験が多い。
本当に嫌になる。
それどころか、クラスメイトの目の前で歌わないといけないところが、億劫でしかない。
それこそ、公開処刑になり得るかもしれないのに。
けれど、それよりも気がかりなのは流夏のことだ。
流夏は歌えないから。
歌おうともがいて、苦しむ流夏を、何度も何度も見てきた。
そんな流夏が心配でならなかった。けれど今の流夏は、僕たちと同じ一般人。
ルカでもなくて、ただの高校二年生の、成瀬流夏。
特別扱いをされる人間ではないのだ。
けれど、流夏は僕の顔を一瞥すると、菓子パンを机に置く。

「佐倉って、本当に心配性だよな。それでよく生きてこられたよな。感情移入だって、しやすいし」
「そ、そう?」
「自分では案外、分かんないのかもな。
でも気にしなくていい。それくらい歌える。俺の曲じゃなきゃ、ましてや授業なんて余裕だ。だから、心配すんなって」

そう告げると、流夏は綺麗な顔で悪戯っぽく笑って見せた。
薄く赤い唇が弧を描いて、切れ長の瞳は柔らかくなって、少しだけ明るい髪は宙に舞って。そして、その大きな手のひらを僕の頭に乗せる。

「っ」

逃れられない距離に、息を呑む。
手が痺れて、心配事なんて、その笑顔と温もりに溶けていく。
最近になって、よく見せてくれるその笑顔が、僕の鼓動を早くする。
僕の頭に手を乗せることも日常に化しつつあった。
僕の恋心をひとかけらも知らない流夏のそれは、本当に罪だった。
きっと流夏は、その度に心臓が高鳴っていることを知らないだろう。
流夏しか視界に映らなくて、毎日その美しい瞳に恋焦がれていることも、知らないだろう。
その温もりを感じる度に、少しだけ苦しくなって、また少しだけ好きになる。

「そ、そっか。なら、良かった」
「ああ」

淡く、脆い温もりを感じながら、僕は頷いた。


 けれど、現実は何度だって、上手くいくはずはない。
その時は、一体神様に何をしたのだろうか、と思ってしまうほどに、残酷に降り注いだ。
頭が真っ白になって、何も考えられない。
ど、どうしよう。
そんな言葉しか湧き上がらない始末。
ただ視界に映るのは、小さく震えている流夏だった。

「え? あの、ルカ? よくバズってた人?」
「あの恋、って曲でバズってたよね。声もかっこいいし、絶対イケメンって騒がれてた、あのルカ?」

ここは天国のように煌めいて、暖かくて、柔らかい光が差し込む音楽室のはずだった。
そしていつまでも、そうであるはずだった。
けれど、今、それが目の前で崩れ落ちる音が轟く。
窓には強い雨が打ち付けられていて、その煩わしい音が響き渡る。
あの悪戯な笑顔で笑っていた流夏は、今、この瞬間に消滅した。
ただ、歌を歌っただけだった。
課題であるイタリアの歌を歌っただけだった。ワンフレーズを口ずさむだけで、音楽室はコンサート会場にでもなったかのようだった。
誰も彼も虜だっただろう。
しかし、一人のクラスメイトが気づいてしまったのだ。
成瀬流夏が、ルカだと。
そして音楽室は、瞬く間に邪念が入り混じることになったのだ。誰もが詮索をはじめ、流夏の声になんて、耳を貸さなくなった。
注意する教師の声にも、無視を貫いて。
そのまま、音楽室は混沌の渦へと落ちていったのだ。

「マジかよ。声なんか聞いたことあるなぁ、とは思ってたけど」
「凄すぎる!」
「え、でも、待って?」
「ルカって、ファンが好きだって言って、炎上、してたよね?」

クラスメイトたちが騒ぎ立てる声が脳を突き抜けていく。けれど、その一人の発言によって、場の空気が一変した。
人間の醜さが光った瞬間だった。
先程まではただ、戸惑いと驚きだけが交差していたのに、その瞬間一斉に牙を剥く。

「そう、だよな? それで今活動してないんじゃなかったっけ」
「リアコが狂っちゃったやつ? え、それやばくね?」
「だから成瀬、告白とか全部断ってたんでしょ。好きなやつがいるからさ」
「あ、なる〜」
「うわ。炎上話聞けるとか、アツいわ〜」

手先が震えて、冷えていく。
一番耳にしたくないものだった。
流夏を見せものにして、鼻で笑うかのような会話。流夏だって、一人の高校生だってことを忘れ、最低なことを簡単に言ってのける。
流夏はあんなにも苦しんで、それでもここに存在してくれているのに。
それがどんなに苦しいものだったのか、知らないくせに。
クラスメイトには、今、目の前で震えている流夏が見えないのだろうか。
顔を真っ青にしている、流夏が。
けれど、もちろん、それだけで収まるはずがなかった。

「ねぇ、成瀬くん。成瀬くんってルカなの?」

一人の女子が、立ち尽くす流夏の袖を掴む。その言葉を発した瞬間、全ての狂気は流夏へ向いた。

「そうだよ。どうなんだよ?」

けれど、流夏は何も答えない。
一点だけを見つめている。
けれど、流夏の胸は浅く、早く動いていた。
そして、その眉は辛そうに歪んでいた。綺麗な瞳からは、光が失われていて、小さく開いた唇から浅い呼吸を繰り返している。
その顔を見た瞬間、僕はガタンと椅子を鳴らし立ち上がっていた。クラスメイトの煩わしい喧騒に負けないくらいの、耳につく音だった。
クラスメイトが一斉に僕を振り返る。

「……佐倉?」
「なんだよ、びっくりさせんなよ」

けれど、僕はそんな言葉に反応できるほどの余裕なんて、持ち合わせていなかった。流夏が苦しんでいる。それが、問題だった。
今にも倒れそうな流夏に、駆けていく。

「流夏っ!」

抱き止めたその体は、生きているのか疑ってしまうほどに、冷たかった。その背筋は、老人のように曲がって、そして浅い息を繰り返している。
綺麗な顔は真っ青に染まっていて、僕の方を一度たりとも見ない。
僕が流夏を抱き止めると、音楽室は一気に静まり返った。
流夏を苦しめ続けたクラスメイトたちは、ようやく自分たちの非道な行いに気がついたようだった。
けれど、流夏以外を見る余裕なんてない。
今はただ、流夏が心配でならない。
流夏の息遣いだけがこだまする中で、僕は小さく囁いた。

「流夏、大丈夫? 保健室行こう」

けれど、その時だった。
手のひらに、熱い衝撃が走って、そのすぐ後に痛みが伝わった。
パチン
と肌と肌が素早く接触する音が鼓膜に届く。僕の手を払いのける音だった。

「……え?」
「やめろ。放っておいてくれ」

そして次に聞こえたのは、あまりにも低い声。そこには、あの日のような光なんて微塵もなかった。
僕を見下ろした流夏の表情に、背筋が怖気ついた。
反射的に、僕は流夏の体を離してしまう。そしてその一瞬の隙で、音楽室を飛び出してしまった。
流夏が僕の手から離れていく一瞬。
その一瞬で見えたものは、流夏が泣き出しそうに口を噤む顔だった。

「待って! 流夏!」

そう叫んでも、流夏に届くことはない。その背中は瞬く間に消えていってしまった。
追いかけなきゃ。
流夏を一人にしたらダメだ。
けれど、そう思っても足がすくんで地面から離れなかった。足が床と張り付いたように、動けない。
僕が行って、迷惑だったら?
またあの顔で睨まれたら?
嫌われたら?
僕の心には、クラスメイトよりも最悪な考えがよぎり続けた。僕には流夏に嫌われる勇気なんて、なかったのだ。
ようやく流夏と繋いだ手は、あまりにも簡単にするりと間隙から溶けていった。

それから先のことなんてほとんど覚えていない。
クラスメイトが僕に謝っていたことと、怜奈がクラスメイトを叱るように、声を荒げていたことくらい。
けれど、その内容なんて頭に無くて、ただ流夏の表情だけがぐるぐると渦巻いていた。
心配で、心配で仕方なくて、今にも胸が張り裂けそうで。
それでも、何も出来ない自分が、ただただ憎かった。
流夏が叩かれていた時よりも、遥かに痛かった。何本もの鋭利な刃が、僕を刺し続けているような感覚が抜けない。
外の空気がいつもより寒くて、仕切りに振り続ける雨に、傘を差すことも出来なかった。
そんな僕を心配して、玲奈が何か言っていたような気もする。
けれど、そのうるさいくらいに響く声も、僕の鼓膜に届くことはなかった。
落ち着かせるために、イヤホンでルカの歌を流した。
けれどルカの歌すら、少しの余韻を残して、散っていく。
こんなことは初めてだった。
今、流夏はどこにいて、どんな表情で、何を思っているのだろう。ただ知りたくて、仕方がない。
案外、怖がりで、人一倍繊細な流夏のことだから。
けれど、連絡先も、住所も知らない僕は、ただ明日がじっと来るのを待つことしか出来なかった。
独りの夜は、寒くて、怖くて、カーテンから覗く街灯の光が虚しく感じられた。闇に染まった街が色褪せていく夜明けが、ただ待ち遠しかった。
そして、月が眠りにつく頃。
太陽が、幾重にも光を宿して、僕の部屋を照らす。ルカと書かれたCDたちが、その光に反射して、白い壁に小さな虹を描いた。
スマホのアラームを止め、小さな怪獣たちを起こす。
いつものように、小さな空間に波乱を宿しながら、僕たちは四方へと散っていった。
電車に揺られている時も、手のひらには汗が滲んだ。
手を合わせて、小さく祈る。
次の停車駅で、怜奈と顔を合わせ、学校を目指す。
怜奈はバツが悪そうに、口を噤んでいた。
怜奈も何かと責任感が強くて、唯一流夏の正体を知っていたからこそ、罪悪感を感じているのかもしれない。
けれど、それはそれで何か気味が悪くて、

「普通にしててよ」

と言うと、何かを感じ取ったのか、ぎこちなくも普段通りの怜奈でいた。
電車に揺られている時も募っていく不安を一つ一つ拭い取りながら、むかえた教室の扉。
けれど、その先に広がった風景は、いつも通りではなかった。
喉がひゅっと鳴る。
頬杖を突いて、窓の外を眺める流夏がいなかった。
崩れ落ちそうになる足を叱咤して、何とか自分の席まで辿り着いた。
でも、そうかもしれない。僕が、間違っていたのかもしれない。
だって僕なら、あんなに傷つけられても尚、呑気に学校なんて来れない。

「はよー」
「うん」

隣の太田に生半可な返事を返して、僕は席に座った。
腰掛けた椅子は、冷たくて、固くて、思わず涙が出そうになる。
流夏がいないだけで、何もかもがちっぽけに見える。
僕は机に突っ伏した。
起き上がる気力なんてなくて、僕はただ窓の外を見ながら、ルカの、大好きな人の声を聞いた。

「えーっと、成瀬くんだけど、今日は風邪で休みだ。きっと、昨日の雨のせいだろうな。他は全員いるな? じゃあ始めるぞ」

流夏が登校しない理由を聞いたのは、すぐ後だった。
その言葉に、さらに体温が下がるような感覚を覚えた。
流夏の状態が気が気でならない。
他のクラスメイトが休んでいても、何も思わないのに、今どうしているのか、知りたいと思っている僕がいた。
普段、優と翔の世話を任されているからか、今すぐにでも看病に駆けつけたい。
そして、僕は授業が終わると同時に、担任に駆け寄る。
タイミングが良いことに、今日の授業で新しいプリントが配られたばかりだったのだ。

「先生っ!」
「佐倉?」

普段発言なんて全くしない僕からの呼びかけに、驚いているようだった。

「僕、成瀬流夏くんの、友達で……」

僅かに胸が痛む。
そうだ、僕は流夏の友達にすぎない。

「ああ」

そう言うと、担任は納得したように、首を縦に振った。

「プリントを届けたくて、それに、風邪も心配で。家に行きたいので、住所とか教えてくれませんか?」

僕がそう言い放つと、担任は小さく頷いた。そして傍に抱えていた名簿を覗くと、住所らしき文字列をスラスラと紙切れに投影した。

「ちょうどよかった。家に一人のようだったから、心配だったんだ。行ってやれ」