「不思議なこともあるものね」
 それが、帰国後に心葉を家に連れて帰ったときの、俺の母親の一言目だった。先輩とカッシーは親にだいぶこってり絞られたみたいだったし、俺の場合は勝手に海外に行っただけでなく、親の不在中に幼なじみの家出を幇助していたわけで、罪は重い。メチャクチャ怒られるのを覚悟していたのに、何のお咎めもなしで、逆に怖いんですけど。
 詳しく調べたいという母さんの強い要望で、俺は心葉を連れて母さんの勤める大学の研究室を訪ねた。
「ほんと、不思議なことって、あるのね」
 母さんは何度も繰り返しそう言っては、椅子にちょこんと座る心葉を頭の天辺からつま先まで眺める。それから、ちょっと失礼、とか言いながら彼女の髪を撫でてみたり頬をつまんでみたりと、結構好き放題触ってみている。
「ふーん。あんたの言うとおり、確かに幽霊ってわけでもなさそうだし」
「だから何度もそう言ってるだろ」
 俺が頬を膨らませると、母さんは腰に手を当ててケラケラと笑った。
「あー、検査結果も出たわよ」
 そう言ってテーブルの向こうに戻り、ラップトップの画面をこちらに向けてくれた。けれど、俺には何のことかさっぱり分からない数字やグラフが並んでいるだけだった。
「それで、母さんは、どう思うの?」
 俺が言うと、心葉もじっと視線を送った。
 もちろん、彼女は心葉の身に起こった去年の事故のことは知っている。それでも、心葉の両親に連絡をするでもなく、こっそり我が家に心葉を住まわせてくれている。
「植村くんには言わなくていいよね?」
 植村くん、というのは心葉の父親のことで、母さんとは大学時代の同期らしい。
「うん」
「それがいいよ。やっぱり、実の親が見たら、すごいショックだと思うから」
 母さんはマグカップのコーヒーをすすり、すぅと深く息をすった。
「おそらく、タイムスリップね」
「ええっ?」
 驚きの声を上げたのは心葉のほうが早かった。
「どういうこと?」
「あんたから聞いた昔の話と、『この』心葉ちゃんが覚えていることを照らし合わせると、およそ2年前からタイムスリップしてきた、というのが物理学的に最も矛盾のない結論ね」
 そう言われると、辻褄が合いそうと思うことがたくさんあった。
 あの日の学校、池の前。俺の前に現れたのは高1の心葉なわけだ。なんだか幼く見えたのもうなずけるし、学年の認識がズレていて柊先輩と話が噛み合わなかったわけだ。ひょっとすると彼氏がいたとかいう話も全部、俺のことだったのかもしれない。
「心葉、そうなのか? お前、2年前の世界から来たのか?」
「……わかんない。そんなの、わかんないよ」
 自信なさそうに肩を抱く心葉。
「ねぇ母さん。仮に……もしも、心葉に事故のことを伝えたりしたら、どうなる? 事故のことを知った心葉が2年前に戻り、事故が起こらないようにできないのかな?」
「ごめん――確かなことは分からないの。でも、心葉ちゃんが事故を知っていたとしてもやっぱり事故は起きてしまう確率が高い。私達の宇宙はね、もっとも辻褄が合うのを好むの。原因が結果を生み、それが原因となってまた次の結果を生む。そうやって時間は流れ、長い目で見ると時間の流れは一方向で変えられない」
 事故は回避できないということか――クソっ。
「ただし、非常に低い確率だけど、少しの間だけなら矛盾が生じてもいい。『時の迷子』ってやつね」
「いまの心葉は、そういう状態ってこと? 少しの間って、一体いつまでこっちに居られるの?」
 テーブルに乗り出して尋ねると、母さんは伏し目がちにため息を漏らした。
「ごめん。今の物理学では、なんとも言えない。ただ、いくつか仮説はあるわ。もっとも有力なのは『時の迷子』は時間の流れに渦のようなものが発生したときに生じる現象だとする説。これが正しければ、その渦が消えるまでは、心葉ちゃんはここに居られるってことになるけど、それすらももとの時間の流れと矛盾が無いようになっているはず。つまり――」
「つまり?」
「心葉ちゃんが2年前の世界にいつ戻ったか、2年前の心葉ちゃんは知っていたはずなんだけど、あんた何か覚えてない?」
 そうか、今目の前にいる心葉は知らなくても、俺が会ったことのある過去の心葉は知っていることになるのか。
「あんまりよく覚えてないんだけど、2年前の夏、心葉が旅行してきたって話をしてたんだ。行き先はたしか――」
「オーストラリア!」
 後ろから心葉が叫んだ。驚いた俺は恐る恐る彼女の顔を見た。
「心葉、何か思い出したのか?」
 彼女は肩を震わせながら俺の目をじっと見つめていた。
「ううん。ただ、柚くん言ってたよね。部屋に飾ってあるオーストラリア土産、私から――2年前の私から貰ったものだって……」
 そうか! あの、俺の部屋に置いてあるコアラの形のアロマディフューザーは、タイムスリップから戻った心葉からもらったものだったのか。
「ってことは、じゃあ……」
「うん……早ければ今週中、遅くとも夏休みが終わるまでには心葉ちゃんは……」
 母さんが悪いわけじゃないのだけど、とても申し訳無さそうに頭を下げた。

 研究室をあとにした俺たちは、高校に向かった。
 心葉がいなくなってしまうかもしれない不安に、いまにも押しつぶされそうだ。でも、心葉のほうが俺よりももっと心細いだろうし、俺は平然を装い彼女を部活に連れ出した。何かの作業に没頭し、それで気が紛れるならなんでもよかった。活動紹介ポスターの内容を決めたり、プラネタリウムの段ボール製ドームの準備をしたり、文化祭の準備でやるべきことはそれなりにあった。柊先輩の指示のもと手分けして作業を進め、だいたい今日はここまでかなという頃合いになってカッシーが話しかけてきた。
「なぁ、柚。屋上出てみないか?」
「バレたら怒られるだろ」
「大丈夫、だいじょーぶ」
「でも、鍵かかってるし」
「倉庫を使うからって、屋上の鍵、借りてきた」
 そう言って得意げに鍵を俺の目の前で揺らした。腕組みしてポスターの進捗を確認していた柊先輩がこっちをむくと、すかさずカッシーが飛んでいき、なれなれしく肩をもみながらお伺いを立てる。屋上に行くには部長の許可も必要なのだった。
「なーサヤちゃん、いいだろ? 普段入れないじゃん。今日は無礼講無礼講」
「だぁああっ。だから、お前はいつも無礼だろうが」
 きつい口調とは裏腹に、なんだか今日のローキックは優しかった。それを見て大丈夫だと思った俺は、半ば強引に「よーし、じゃあきまりっ」とまとめた。
 人目を気にしながら理科室を出て、こそこそと階段を駆け上がった。息を殺してドアを開けると、その先はもう誰もいない屋上だ。
「わぁああ、広ーい! こんなふうになってるの、知らなかった」
 心葉はいつになくはしゃいでいた。
「ハハハ」
 俺ら地学部メンバーは、荷物の出し入れとかで何度か来たことがあった。
 真っ平らな屋上の隅にぽつんと佇む天文ドーム。あれが地学部の「倉庫」だった。もちろん中に望遠鏡があるにはあるが、柊先輩も使い方を知らなかった。
 フェンスのところに4人で並んで、オレンジ色に染まる西の空をぼんやり眺めた。
「遠征、付き合わせて、すまなかったな」
 先輩は長い髪を風になびかせながら、俺に侘びた。
「親に叱られたろう。私の勝手な判断のせいで、すまない」
「いえ、うちは大したことなかったんで。先輩が根回しとかしてくれておいたおかげかも」
「そうか」
「先輩のほうこそ、大変だったでしょう?」
 先輩はそこで静かに目を閉じて、それからゆっくりと口を開いた。
「あのな……検査したんだ」
 ケンサ?
 一瞬、何のことか分からなかった。隣でフェンスに顎を乗せたカッシーが鼻の頭をぽりぽりとかくのを見て、ようやく理解した。
「あっ、そうなんですね」
 先輩は、ちゃんとカッシーにすべてを話しているようだった。彼女がどれほど悩んだか推し量る術はないけれど、相当の覚悟がなければ言えないことだ。今こうして2人が前と同じようにいられるということは、何を意味しているのか。
 先輩は神妙な面持ちで長い髪を耳にかけると、小さなため息をひとつ。俺は彼女の唇の動きをじっと見守っていた。
「――姉弟だった」
「あ、」
 俺は絶句した。
 心のどこかでは、淡い期待を抱いていた。先輩に言わせればそんなの確率的にありえないのかもしれなかったが。
 心葉も呆然と立ち尽くし、次の言葉に迷っている様子だった。
「でもいいんだ。耕太郎とは、どういう形であれ、これからも一緒にいる――」
 先輩の決意は、岩よりも固そうだった。
「そう決めた」
 夏の夕暮れの湿っぽい風が彼女の黒髪をさらさらと揺らした。
「サヤちゃん」
 カッシーは涙を目に浮かべながら、思い立ったように先輩の両手をぐいとつかんだ。
「俺がサヤちゃんを想う気持ちは、少しも変わらないよ。いいだろ? 心から尊敬してる。今日、その気持ちは強まったから」
「耕太郎……おまえ」
 カッシーが首を左右にふる。
「俺だって不安だよ。でも俺、嘘つけないよ。もしかしたら俺のサヤちゃんへの想いは、姉ちゃんに対する気持ちなのかもしれないけどっ……でも、でもさ。本物だよ。ほんとうの、本心。だから、だからさぁ――」
「ああ、わかってるよ。みなまで言うな」
 先輩がはにかんだ顔で頬を赤く染める。
 俺も心葉も何も言ってあげられないまま、ただ2人の会話の行末を見守った。カッシーがピザを頼んであるとか言いだし、先輩は目尻をおさえながら静かに微笑んだ。
「サヤちゃんが好きな、パイナップルがのってるの頼んどいたからさ」
「わかったよ……わかった」
 そう言うと、先輩はカッシーから受け取った鍵を俺に差し出した。
「ピザの受取り、行ってくる」
 先輩も、少し変わったな――。
「耕太郎だけじゃ不安だからな」
 俺は心葉と目を合わせ、2人でくくくと笑った。

 屋上には俺と心葉、2人だけになった。さっきまでの喧騒が嘘のよう。夕陽が落ちた西の空に、金星が輝いているのが見えた。
「2人、なんだかんだでうまく行ってるみたいだね」
 俺が校庭を見下ろして呟くと、心葉もほっとした表情。
「ふふふ。ああ見えて、咲也子、めっちゃ頑張ってるんだよ」
「ああ、相当だと思うよ」
 俺は校門に向かう二人に手をふると、ゆっくり背を向けてフェンスに寄りかかった。
 空を見上げる。
 どこまでも深い群青色。東の空はもう真っ暗で、真ん丸の月がぽっかり空いた穴みたいだった。
「幼なじみの維持も、ひと苦労だね」
 心葉がフェンスの手すりを撫でるようにたぐって、俺の隣に来た。
「ハハハ。まあ、あの2人はちょっと特別だよな――いろんな意味で」
「そだね。ふふふっ。私たちは、どうかな」
「ああん? 俺は、何の心配もしてないけど」
「ほんとう? 私は……私は、重荷じゃない?」
 上目遣いの心葉が、小さく尋ねた。
「私さあ、柚くんの人生、邪魔してる感じがする」
「そんなことないよ」と俺。
「そんなことあるよぅ」
 心葉は口をとがらせて、遠く空を眺めた。
「ないって。気にし過ぎだよ」
「ううん。そんなわけない」
 互いになかなか譲らない。先輩なら「きみは石か!?」なんて言ってる頃だ。
「心葉は……心葉だよ」
「そういってくれて嬉しいよ。でも、これ以上柚くんを振り回すのはヤなんだよ」
 だから、そんなことないんだってば。わからずや。
 ムッとする俺に気づいたのか、彼女はすかさずふふふーんと口角を緩ませた。
「私がこうやって前を向いて生きていられるのは、柚くんのおかげだよ。優しくしてくれて、いつも笑っていて。頼りにならなそうに見えて、ふふっ。でもいつも何気なく側に居てくれる。いざっていう時には、すごく頼りになる」
「……もうっ。急になんだよ。褒め過ぎだってば……」
 俺は鼻の頭をポリポリとかいた。
 こうやって、俺の気持ちはたいてい彼女の手のひらの上。
 でも心葉はずいぶんと俺を買いかぶりすぎだと思う。
「誰かを『信じてたのに裏切られた』ってこと、あるじゃない?」
 俺は切り出した。
「んえっ?」
 心葉は少し驚いた顔。
「あれって本当はさ、目の前にいる人のことを見てるつもりで、見てないんだよね」
 俺は横顔を見るつもりで心葉のほうをちらっと見た。なのに、じっと俺のことを見つめる彼女とパチリ目があってしまった。彼女の瞳に吸い込まれそう。もう目をそらせない。
「見てるのはさ、自分の中にいる相手。幻想なんだよ。その人への期待とか願望を見てるだけ。だからこそ『裏切られた』って思っちゃう」
「なるほど」
「俺は、ちゃんと心葉を見られてるかな? ときどき、自信なくなる」
 そこまで言いかけたところで、彼女にむぎゅっと抱きつかれた。
 ちょ、ちょっ――ちょい待て。
「こっ、こ、心葉、さん……?」
 こういうとき、どうすればいいんだ?
 俺の顔の真横に、心葉がいる。胸元にふくよかな膨らみが押し当てられてる感じ。俺も抱きしめればいいの? 手はどこに? 腰にまわすのか? どのくらいの力で? 
 思考停止で体をこわばらせる俺のことはおかまいなしに、心葉はぎゅうぎゅう力を入れて俺を抱きしめた。そうして耳元に唇がつくかつかないかの距離で、幼さの残る甘い声がささやいた。
「柚くんは大丈夫。ちゃーんと、本当の私を見てくれてるよ」
 彼女の柔らかな髪が鼻先を流れた。たった一週間前とかなのに、出会った頃より少し伸びた気がする。
 夜風がゆらすとシャンプーかなにかの香りがふわりと漂った。ていうか、顔近い。俺はいつの間にか目を瞑り、彼女の吐息に耳を傾けていた。ユーカリオイルの爽やかな匂い。寝る前に使ってるって言ってた。否が応でもオーストラリアを思い出してしまう。楽しかったね。また行こうねって。それだけでも言えればよかった。
 俺はゆっくりと手をまわし、彼女の肩をしっかり抱き寄せた。彼女が小さく背中を震わせているのがわかった。大丈夫だよ。心配ないよ。俺は何度もさすった。
「怖いよ。すごく怖い……でもさ、私は、もとの時間に帰るね」
 俺が「うん」って声にならない声で返事をしながら優しく髪をなでると、心葉は猫が甘えるみたいに頭を擦り寄せてきた。なんて愛おしいんだろう。
 彼女は耳元でふはあぁと大きく深呼吸して「ようやく言えた!」と笑った。
 校庭から見えていたり、誰かが屋上に来たりしたらなんて、そんなのはどうでもよくなってしまった。このままずっと彼女を抱きしめていたい。何があっても、手放したくない。
「だからね。柚くんも幸せになっていいんだよ」
 そうか――。そうだよな。
 心葉と俺は入れ子になっていた。俺の幸せは心葉が幸せになることなのに、その心葉の幸せは俺が幸せになることだという。
「私のことなんか、放っておいてさ。柚くんは、自分の幸せを第一に考えてよ」
 なんだよそれ。放っておけるわけないだろ。
「あのさ、俺はもう十分。心葉がいてくれて、再会できて、それで幸せ。本当だよ」
 彼女が手の力をゆるめると、俺は彼女の肩をそっと押して体を離した。彼女の手はまだ名残惜しそうに俺の腰のところに引っかかっていた。俺はゆっくり目を開けて、彼女の顔を覗き込んだ。そこには、うるうる見つめる大きな瞳がふたつあった。
「心葉……」
 俺には何も出来ない。
「ふふ。変な顔」
「なにをっ」
「泣いてる?」
「まだ泣いてない」
「ふふふっ。じゃあこれから泣くんだ」
「いや、そうじゃなくて。へへ」
「ね、そうやって、笑っていてよ! 柚くんがこの先もずっと笑顔でいてくれることが、私の何よりの幸せなんだからさ」
 彼女は満面の笑みを浮かべ、俺の顔にすっと手を伸ばした。嘘偽りのない、透明の笑顔。色のない夜風が俺たちの間を通り抜けた。少し冷たくなった頬。彼女の手だけがじんわりと温かい。
「ふふふーん。だいじょうぶだいじょうぶ」
 でたよ。
「ねぇ柚くん。私のこと、忘れていいよ」
「やだよ」
 俺はだだっ子みたいな口調で答えた。
「ごめん。わかって……」
「いやだ! わからない! わかりたくもねぇ」
「柚くんをこれ以上苦しめたくない」
「重荷になってるとか、そういうのはないって言ったろ」
 俺はぷいとそっぽを向いた。涙目で訴える心葉を見るのが辛かった。
 もうわけが分からなくなってきていた。
 お互いがお互いを想うがゆえに2人してこんなに苦しんで。
 一体、何のために……。
「私も柚くんのことがキライになったとか、そういうんじゃないよ。好きだから、大好きだから言ってるの。ねぇ、お願い」
「わけわかんねえよ」
「柚くんは、私にとって特別。柚くんが大切だから……大切な人に幸せになって欲しいって願ってるの。ただそれだけ。だから私、消えるね。わかって、くれる?」
「は? 消えるってなんだよ? どうしてそんな勝手なこと言えるんだよ。俺は心葉の居ない世界なんてやだよ」
「居なくならないよ。ちょっと迷子なだけ。今は柚くんと近くて、すっごく暖かくて、楽しくて……。だけど、一緒に過ごせば過ごすほど、未練も増えちゃうから」
「――心葉」
 俺はハッとした。
 心葉はもと居た時間に帰ることを、もう受け入れてるのかと思っていた。
 そんなはずないのに、勝手にそう信じこんでいた。
「ねぇ。目を閉じても世界は変わらないって言ってくれたの、すごく嬉しかったよ。またいつか聞かせてよ。私はもう柚くんが見せてくれる景色を、一緒に楽しむことはできなくなるけど。でも、柚くんは変わらずにいて」
「心葉ぁ」
 俺は泣き出しそうな声で彼女の名前を叫んだ。ほんと情けねえ。
 俺よりもずっと、彼女のほうが泣き出したいくらいのはずなのに。
 目の前にいる心葉は何かがおかしい。心葉だけど、心葉じゃない。幽霊ではないけれど、それに近い。だって俺の知っている心葉は一年前の事故で――。こうして俺の前に現れるはずはない。今まで心の奥底に閉じ込めてきた、ざらりと砂を噛むような感覚が蘇る。やはり俺は、長い夢でも見てるのだろうか。
「――――わかったよ」
 それから俺も心葉も無言のまま、ぼんやりと月を眺めて過ごした。ゆっくりと昇る月。別れまでの時間が少しずつ流れていってしまうのがありありと見えた。

 落ち着きを取り戻した俺たちは校庭に背を向け、フェンスの足元にぺたりとしゃがみこんだ。体育座りして背を丸め、どちらからともなく微笑みかけた。そういえば、俺が水族館で迷子になったときも、こうして心葉が隣にいてくれたっけ。
「昔はさぁ、よく手つないだよね?」
 心葉がいたずらっぽく笑いながら言う。
「ああん?」
「水族館。柚くん手を離しちゃって迷子になったからなー。ふふふ」
「いつの話だ、いつの?」
「見つけるの、めっちゃ大変だったんだからね」
「――俺が年少とかの頃か」
「そそ。サメの大っきな水槽の前。看板の裏に座ってるとか、ナシでしょう」
「あはははは。マジで?」
 他人事の俺。正直、あんまりよく覚えてない。
「そうだっつってんのっ」
 優しいデコピンが飛ぶ。
 そうして「もう離しちゃだめだよ」なんて言って、彼女はすっと手を差し伸べてきた。俺はとっさに彼女の手を取った。やわらかい。
「帰る前に、何かやっておきたいことはない?」
 俺が尋ねると、心葉はコテンと首をかしげた。
「幼なじみらしいこと、とかかなぁ」
「鬼ごっことか、かくれんぼ?」と俺。
「ふふふ~ん。私はそれでもいいよ」
「いや、よくないだろ」
「あははは」
 やっぱ、こうして心葉とふざけるのは楽しい。
 特別なことなんてなにもいらない。ただの日の、なんでもない話。
 彼女がこの世界を名残惜しいとおもう理由、俺にだってよく分かるよ。
「一緒に旅行にも行ったし、花火も見た。柚くん家に泊まったし、杏ちゃんとも仲良くなった。幼なじみらしいこと、大体ぜんぶやったんじゃない?」
「アレが残ってるだろ」
「何?」
「一緒にお風呂」
「ええー。ふふふーん。――いいよ」
「えっ」
 なんて驚いて口を開けている俺の額に、ぱちーんとデコピンが飛んでくる。
「なわけないでしょ! ったく」
 心葉は胸元をおさえジトッとした目で俺を睨んだ。
「だいいち、恥ずかしがるのは柚くんのほうでしょっ」
 それはその通りだった。彼女は正しい。
 たぶん、いざ入ろうってなったら俺は恥ずかしさのあまり逃げ出すと思う。
「じゃあさ、せっかくだから水族館とか、どう?」
「あーいいね。行こう行こう」
「あの日俺が迷子になった理由、教えるよ」
 彼女はふふふーんと鼻歌を披露しながら立ち上がり、機嫌よさそうに笑った。
「いいね。『時の迷子』の私にぴったりじゃん」