朝早くに目が覚めた俺はそっと寝袋を抜け出して、一人空を眺めた。清々しい。
 ひんやりと冷たい空気。淡い夜明けの空。朝露にしめる芝生の青い匂い。ゆっくりと朝になっていく様子を見ていたら、昨夜のモヤモヤとした気持ちはどこかに吹き飛んでしまった。
 俺たちには行くべき場所がある。ただそれだけのことで、あの空みたいに清々しい気持ちになれた。なんとも不思議だ。
 あくびしながら「おふぁよ」とボサボサ頭の心葉が現れた。柊先輩も寝間着代わりの学校ジャージ姿で起きてきては「んー」と大きな伸びをした。ヘソ見えてますよ。
 こういう油断した姿が見られるのも、旅行の醍醐味。少し得した気分だ。早起きは三文の得。
 ハメリンプールまでは、直線距離であと150キロくらい。カルバリーの町より先には海岸沿いの道はなく、少し内陸の国道を北上する。
 黄色い大地に緑の低木。景色を二等分する直線道路。これぞオーストラリアって感じだ。今日もノゾミさんの運転で、渋滞なしの快適ドライブ。
 途中でガソリンスタンドに寄ったり、スーパーで買い物してみたり。あくせくしないお気楽旅。柊先輩も「お昼までに着けばいい」とリラックスムード。3日目にしてようやく、みんな心にちょっと余裕ができてきた。
「そういえば、あなたたち幼なじみなんでしょう?」
 ノゾミさんがボーダーのシャツを腕まくりしながら肩を揺らして笑う。たまたまバックミラー越しに目があった俺が「そうですよ」とだけ答えた。
「ふふふ。ノゾミさん、急にどうしたんですか?」と心葉。
「いやあ仲良さそうで、羨ましいなーって。ナハハハハ」
 まあ、実のところ幼なじみというのは、共通の趣味があったり、何か一緒に達成しなきゃいけない目標があったりするわけじゃない。だから、直感でも、論理的にも、俺たちみたいな幼なじみが一緒にいる理由は本当はないんだ。
 そんなことをぼんやり考えてはみたけれど、口にするのはやめた。
 ノゾミさんと心葉の楽しそうなやりとりは続く。
「私の友達にね、男・男・女の幼なじみトリオがいてね。小学校の頃からずっとおバカなことばっかり一緒になってやってたような3人でさぁ」
「わぁ、そのパターンですか」
「男の子の名前は空と陸。それで女の子が海ちゃん。面白いでしょ。ナハハハハ」
「なんか女性ボーカルのスリーピースバンドみたい」
「ハハ。でも高校生くらいになると、やっぱ小さい頃みたいにはいかないもんだよね」
「まぁ、そうですよねー」
 そう言って心葉は俺の顔をチラッと見てから、肘で脇腹をぐいと押した。
「なんだよ、心葉っ」
「心葉『さん』」
「ハハハッ。ほんと仲いいね、ふたり」
 ノゾミさんは俺たちをチラチラ見ては笑った。よそ見運転、危ないスよ。俺が鏡ごしにムッとした表情を見せると、ノゾミさんはいよいよ嬉しそうに口笛なんてふいてニコニコした。もうっ。
「年頃になって、なかなか彼氏ができないって悩んでる海ちゃんのもとに男子2人が、あいつはどうだとか、この人はいい人だとか、いろいろ連れてくるわけ」
「なかなかのお節介ですね」
 先輩も興味津々だ。
「でしょでしょ。面接とかしてくれちゃってさぁ。でも結局、全員落とされるわけ。ナハハハハ」
 心葉が例の〈ティムタム〉というオーストラリア名物のお菓子を開けた。途端に車内に広がるあまーいチョコレートの匂い。心葉が「どーぞー」と座席の間から差し出すと、ノゾミさんと先輩がひとつずつ取って口に運んだ。
「――まぁ、なかなか理想の人は見つからないわけ。しまいにゃ男子のひとりが『貰い手が居ないなら、最後は俺が拾ってやるから』とかいい出すんだよねー」
「ひっどーい」
 とか言っているうちに、心葉は2個目に手を伸ばした。
 めちゃくちゃ甘いけど、止まらなくなる気持ちはわかる。
「でね、あとになってわかったのは、なんと三角関係なわけ」
「えっ、その幼なじみトリオの中で、ってことですか?」
「わっははは。まぁ、ありそうなパターンではあるな」
 たぶん今日一番くらいの勢いで、カッシーは楽しそうだ。
「そうそう。笑えるでしょー。みんな口に出しては言わないんだけど、陸って男の子は海のことが好き。でも海は空のことが好きって感じ――だったんじゃないかな」
 なるほど。幼なじみが3人だと、そういう事態になることもあるのか。あんまり考えたこともなかった。
「今は? それから3人はどうなったんですか?」
 俺が尋ねると、ノゾミさんはいつもの鼻にかかる声で笑った。
「ナッハハハ。どうもなんないって」
「は?」
「誰も想いを伝えられないまま卒業。したら、いよいよ本当に散り散りだよ。大学行ったり、夢叶えたり。別の恋をしたり。とかじゃん」
 ノゾミさんは、ちょっと投げやりな言い方をして、ティムタムをひとつかじった。
「空は東京の大学に行ってそのまんま。陸は地元に戻ってきた」
「海ちゃんは?」
 先輩が聞くと、ノゾミさんは一瞬言葉を詰まらせた。ん? と車の中に大きなはてなマークが浮かんだ。気がつけば、ノゾミさんはどこかに忘れ物をしてきてしまったみたいに、自信なさそうな目をしていた。
「ナハハハ……もう分かるよね」
「えっ?」
「海ちゃんはねぇ、大学を休学してオーストラリアで旅してるかな」
「まさか!」
 その、まさかだった。
 途中から、なにか変だなとは思っていたのだが――。
「私は、なんか、ダメだった。うまく言えなかった。関係が壊れるのが怖くってさ」
「そうですよね」
 俺は彼女の気持ちがなんとなくわかる気がした。思っていることは、ちゃんと口に出して伝えたほうがいい。そんなことを言いたいんじゃないか。バックミラーに映るノゾミさんを見つめた。
「そんなとき、交通事故に立ち会ったの。高校生くらいの女の子がバイクに。ああほら、獣医目指してて一応、救命救急の心得はあったから」
「その子は助かったんですか?」
 カッシーの質問に彼女は首を横にふった。
「わからない……でもね、それで分かったの。私にはきっと何か意味があるって。今それを探してる」
 その後も、ノゾミさんはことあるごとに「私と会ったのにもなにか意味がある」と俺たちにプレッシャーを与えてきた。思い立ったが吉日。今日しかない、と言っている気がする。
  
 そんなことを悶々と考えているうち、ついに到着した。
 ハメリンプールだ。
 車を降りると、砂っぽい黄土色の大地。照りつける太陽。暑いぞ。冬なのにっ。
 これまで嫌というほど見てきた黄色と緑がここにも。そしてどこまでも青い空。
 俺たちは低い草木の間をかきわけて海を目指した。
 カルバリー国立公園と同じく、ここもあまり観光地化されていない。いるのは俺たちだけ。けもの道の遊歩道に、小さな案内看板がチラホラ。一応、世界遺産なはずなのだが。
 道を進むと土っぽかった地面は砂になり、やがて何も遮るもののない海岸に出た。
浅い海とほとんど同じ高さの黄土色の岩場。波は穏やか。銀色の太陽が高い位置で輝き、風も殆どなくて蒸し暑い。
 もうすぐ先には、お目当てのものが見え隠れしていた。
「わあああああっ」
「やっっった!」
「うぉおおおお」
「ヒャッホー」
 俺たちは思い思いの叫び声を上げて駆け出した。
 ノゾミさんもとびきり大きな声で「やったー、ようやく来たああー!」と言って両手を上げて喜んだ。
 波打ち際に岩のようなものが所狭しと並んでいた。海水に浸かったその表面は青緑色で、藻に覆われているようにも見えた。
「これが、夢にまでみたストロマトライトか!」
 先輩が目を輝かせた。俺も心葉も興味津々。だって、こんなの見たこと無いもの。
 何十億年もの昔、地球上で最初の光合成をしたシアノバクテリア。その集合体がストロマトライトだ。これは化石ではなく、生きた状態。今回の旅の目玉だ。
「なるほどな」
 柊先輩はここに来てからずっと、ひとりで納得ばかりしている。
「何が、ですか?」
「ここだけに、こんなに群生してる理由だよ」
 ストロマトライトは、西オーストラリアの他の場所でも見られるそうだ。でも、こんな大群生はここだけ。この湾一帯が世界遺産に登録されたのも、このストロマトライトの大群生によるところが大きいらしい。
「地球上で、ここだけなんだろうな」
「どういうことです?」
 俺にはちんぷかんぷんだ。
「シアノバクテリアがこういう環境を好むってって訳じゃない」
 先輩は空を仰ぎ、額の汗を袖で拭った。
 大きく突き出た半島で守られているせいか、湾内の波はとても穏やかだ。そして見るからに浅い海に強い日差し。そのせいで、この辺りの海の塩分濃度は他の場所よりも高くなっているという。
「たぶん、他の生物が嫌がる環境なんだろうな」
 確かに。極端な言い方をすれば、ここは地獄のような環境だ。照りつける太陽、高い海水温と高い塩分濃度の海。シアノバクテリア以外の生物が寄り付かないのも何となく分かる気がする。30センチくらいの魚が泳いでいるのを見かけたが、たぶんあいつらはシアノバクテリアを食べないんだろう。
「心葉、見てみろよ」
 苔の塊のようなストロマトライトが、ちゃぷちゃぷと小さな波に洗われていた。
「泡がいっぱい! 今も酸素を作ってるのかな」
 それか光合成のせいなのか、単に波で泡立てられてるだけなのかわからなかった。けれど、どのストロマトライトの上にも無数の泡が舞っていた。
 柔らかいのか、硬いのか。ふわふわなのか、ぐじゅぐじゅしてるのか、手で触って確かめたい衝動に駆られる。
「触ったらダメだぞ!」
 先輩に釘を刺される。 
 ストロマトライトはとても脆く、少し触っただけで成長が止まってしまうらしい。なので触りたくてもタッチはご法度。
 こげ茶色の木道を進んだ。両側、見渡す限りの海岸にびっしりとストロマトライトが並んでいる。ほんとうに壮観だ。
「あああー。なんて景色だろう」
 先輩はふるふると震えながら、感動を噛み締めているようだった。
「ここだけが、35億年前のままタイムカプセルみたいに取り残されてる~」
 先輩は子供みたいに木道を駆け回った。
 そうだった。彼女が来たくて、ずっと計画して、それで、ここまで来たというのをいつのまにか忘れてしまっていた。それくらい、いまや俺も心を動かされていた。いつものように流されるままに来てみたけれど、想像を超えていた。よかった。最高だ。
「きっとさぁ、太古の地球はこんな風景だったんだろうね」
 少し先を歩く心葉が振り返った。
 何億年もの昔に想いを馳せずにはいられない。
 風の匂い。空の色。波の音。
 そういう化石に残らないものが、ここには全部ある気がした。
「目を持った生き物が初めて見たのも、こんなだったのかな」
 俺は心葉の目で、心葉の目に映る世界を見てみたかった。
 木道を進むと、細長い三角形のループに出た。一辺を沖に向かって海に突き出すように敷かれていて、いっそう沢山のストロマトライトが俺たちを出迎えた。
 5人並んで柵にもたれ、海を眺めた。手前の浅瀬はエメラルドグリーン。水平線は濃いブルー。その間を、何種類もの名もない青緑色が滑らかに埋め尽くしていた。
 柊先輩が「地球史の主役はシアノバクテリアだ。3つの意味でな」なんて話を始めた。
「ひとつは、もちろん、地球を酸素で満たしたこと。原始の地球の大気は二酸化炭素がほとんど。シアノバクテリアは他の生物がほとんどいない地球に生まれ、15億年間ものあいだブクブクと酸素を出し続けた。偉いだろ」
「健気だ。これは偉い。ふふふふー」
 心葉が足元のストロマトライトに微笑みかけた。家の水槽で飼いたいらしい。
「もうひとつは、生物の陸上進出。これもシアノバクテリアの貢献だ」
「ん? どういうこと? エサ?」
 俺の言葉に、先輩は長い髪をかきあげて笑った。
「オゾン層だ」
「え? シアノバクテリアが作ったの?」
 心葉も素っ頓狂な声をあげた。
「そうだ。太古の地球には無かった。だから強烈な紫外線が降り注いでいて、生き物は海にしか住めなかった。でも酸素を出し始めて25億年ほど経ったころ、大気中の酸素と紫外線が反応してオゾンが大量に生まれたんだ。これがオゾン層になり、陸上を危険な紫外線から守った。だから私達も生きていられる」
「偉すぎだな、シアノバクテリア。わははっ」とカッシー。
「ナハハ。もう尊いっ、てレベルだね」
 ノゾミさんは柵に顎をのせて、遠くのストロマトライトを眺めていた。
「先輩、もうひとつは?」
 俺がアレレという顔をすると、先輩もきょとんとした。
「もう昨日、言ったが……」
「えっと?」
「あー、分かった! はい、はーい」
 心葉が大きく手を上げた。
「鉄でしょう?」
 ああそうだ。鉄鉱石。海の鉄イオン。
「正解っ!」
「えーっ、心葉。やるなぁ」
 俺はなんだか悔しくなった。
「心葉『さん』」
「はいはい」
 ほかに、石油もそうらしい。石油は植物プランクトンの死骸が土の中で分解され、長い時間をかけて変化してできたものだ。でもその分解反応には酸素が必要で、だとするとやっぱりシアノバクテリアの貢献なのだ。
「すげえなシアノバクテリア」
 俺たちの生活、ほぼ全部じゃん。
「こりゃあ足向けて眠れないね」
 心葉がクスクス笑うので、俺も「北枕にならなくて丁度いいな」なんて冗談を返した。これが柊先輩の笑いのツボに入ったらしく、腹を抱えてゲラゲラ笑ってた。ヒーヒー言うほど喜んでいただけて光栄です。
 そんな『地球史の主役』を紹介する看板は、その偉大なる貢献に反してとても小さかった。ポップな字で「先祖に会おう!」と書かれ、陽気なイラストが添えられている。威厳もへったくれもない扱いだ。
 もちろん、目の前のストロマトライトが35億年間生きてるわけじゃない。それでも、先輩の話だと成長スピードは年0.5ミリほどらしいので、高さ50センチのストロマトライトでも千歳という計算になる。すごい。千年前って平安時代とかでは?
「ふふふーん。先祖とのご対面だって。お盆だもんねぇ」
「ハハハ。ずっとずっと昔から、ここにいたんだね」
「そうだね。なんだか不思議なキブン」
 彼女は手をかざし、空を見上げた。
「心葉」
 俺は彼女の目に映る、雲ひとつない空を眺めた。
「青いね」
「うん」
 俺たちと、海と空。あと先祖がたくさん。
 それしかない場所で、観光名所って雰囲気でもなかったけれど、それでよかった。
「連れてきてくれて、ありがとう」
「礼なら、柊先輩に」
「私、柚くんと来れてよかった」
「えっ」
 心葉の突然の言葉に、俺はドキリとさせられた。顔がめちゃくちゃ熱い気がする。たぶん日焼けのせいじゃない。彼女も照れ隠しなのか慌ててブンブンと手をふった。
「――あ、いやっ、咲也子やカッシーと一緒に来れたのも、もちろん嬉しいよ」
 名前を呼ばれたからか、先輩がこっちをチラっと見ては微笑んだ。
「でもやっぱ、柚くんはなんか特別。一緒に来られて、一緒の景色を見られてよかったって思う」
「俺じゃない。心葉が連れてきてくれたんだ。何度か諦めかけたけど、それでもこうしてここまで来られたのは、ほんと心葉のおかげ」
「買いかぶりすぎだってば。ふふふふ」
 心葉が俺の肩をぽんと押して、その反動で木道の真ん中におどり出た。そうして両手を広げると、静かに目を閉じて歩き出した。
「お、おいっ。危ないぞ」
「ふっふふーん。だいじょうぶだいじょうぶ!」
 反対側には柵がないんだ。落ちるぞ。
「ちゃあんと覚えてるから。もう、忘れない。この空、この海。この色。みんなの顔。絶対忘れない。忘れるもんか!」
「心葉っ」
 俺は彼女の前に飛び出して、そっと両手をもった。
「あの、あのさ……」
 うまく言葉が出ないや。言いたいことは沢山あったはずなのに――。
 タイミングを見計らったようにカッシーが先輩の元へと走った。
 すれ違いざまに俺にアイコンタクト。
 まさか――今か? 今なのか?
 俺は目をぱちくりして確認した。彼の決意は固そうだ。
「おっ、ちょっと、耕太郎。おいっ」
 わけもわからず心葉の隣に連れてこられた柊先輩。カッシーが恭しく彼女の両手をとった。すぐ隣では、俺が心葉の手をとっているというのに。
 ――ああ、分かってるってば。誰がどう見たって変な構図だ。
「一体何が始まるんだ?」
 先輩は照れくさそうに、でもカッシーの手を離さずにいた。俺の手の中では、心葉の温かい手が俺の手をきゅうと握っていた。
 つかまえた。もう絶対、この手を離すもんか。
 俺たちは申し合わせておいた通り、同時に叫んだ。
「「好きです! 俺と付き合ってください!」」
 俺とカッシーの声だけが、ハメリンプールに響く。
 ここにいるのは俺たち5人と、あとは無数のシアノバクテリア。
 海と空。静寂。
 ちゃぷんとストロマトライトの頭で波が弾ける。
 恥ずかしい。もう逃げ出したい。
 思わず心葉の手を握っている手に力が入る。カッシーと2人であれこれ考えた結果がこのザマだ。
 こうでもしなければ、たぶん言い出せなかった。かっこ悪いのは分かってる。じっさい「お前先言えよ」「お前こそ先に」なんていうチキンレースの力を借りなければ告白ひとつできないなんて、ダサすぎる。
 ゴメンな心葉。せっかく再会できたのにさ。
 またひとつ波がちゃぷんと音を立て、心葉がゆっくり目を開いた。
「嬉しい」
 ふふふふーん。鼻歌交じりに「どうしよう、嬉しいっ」と何度も言った。
 心葉も先輩も、どちらも眼に涙を浮かべていた。
「――困るなぁ。こんな風に言われたら、忘れられないじゃん……」
 ひとつはきっと「もう顔を見て話せる時間は、わずかしかないかもね」の涙。
「バカ。ほんとバカ……」
 もうひとつはきっと「これからどんな顔で話せばいいか、わからないだろうが」の涙。
 俺たちはその地球上で最も清らかな雫を、大切そうに拭った。
 澄んだ青で塗られたチャペル。水平線へ続く木道のバージンロード。左右に並ぶ千歳の親族たちが証人だ。目の前には大好きな人が立っていて、俺は愛を誓った。ずっと優しい目で見守ってくれているノゾミさんは、さしづめ牧師かな。
 何億年もの地球史が、祝福してくれているみたいに感じた。どんだけ大掛かりな舞台装置を用意してんだよ。
 心葉と柊先輩は雨上がりのあとの晴れ間みたいな笑顔を見せてくれた。気まずさも恥ずかしさも全部どこかにいった。
「あーっははははっ。もうダメ! 嬉しい! 恥ずかしいよぅ」
 心葉は俺の手をブンブンと上下に振って喜びの舞い(?)を舞った後で、しゃがみ込み、両手を顔に当てて隠した。耳まで真っ赤だ。あーとか、わーとか唸って、心葉はそこら辺をぴょんぴょん飛び跳ねた。
「どうしよう。こんなことは想定外なんだが」
 先輩は恥ずかしそうに目をそらし、でも優しい表情をしていた。カッシーがくいと手を引いて彼女を抱きしめようとすると、それはさすがにローキックが待っていた。照れ隠しに「心葉、まってよー」とループになった木道を追いかけ、2人でぐるりと一周した。
 ふ、ふたりとも、落ち着けって――。
 沢山の言葉はいらない。
 けれど、言葉に出さなければ伝わらないことも沢山ある。
 言葉にしたって伝わらないこともある。
 言葉に出せないことは、もっとある。
「さあ、ミナサーン! 誓いの、キッスを」
 ノゾミさんの悪ノリがはじまった頃、名残惜しかったけれど、俺たちはハメリンプールを後にした。

 車はシャーク湾に突き出した半島を北上した。途中、ノゾミさんがシェルビーチという白い貝殻だけでできた海岸に寄ってくれた。ちょっとした、デートスポット? 例によってまったく観光地化されてなくて、ひたすら無人の海岸だった。
 4人ともモジモジしていて、ぎこちない。ノゾミさんが「手つないでもいいよ?」なんてあっけらかんと笑っていた。
 モンキーマイア・ドルフィン・リゾートに泊まった。リゾートと言っても、俺らが泊まるのはドミトリータイプの棟。毎度おなじみ二段ベッド3台の6人部屋。バス・トイレ共用。もう勝手知ったるキャラバンパークのスタイルだ。
 部屋からは常に波の音が聞こえ、青々とした芝生の中庭も気持ちいい。
 広い共用キッチンスペースに、バーベーキューグリル完備。夕焼け色に染まる空を眺めながら、5人で渚を歩いた。
 何かをやり遂げた後の多幸感と、もうこれでおしまいという喪失感。波のように押し寄せては入り混じり、泡になってとけた。
「もうすぐ、旅も終わるね」
 素足の心葉が白い砂を優しく蹴った。
「ああ。帰らなきゃ……。家出はおしまいだ。ハハッ」
 柊先輩が乾いた声で笑い「ノゾミさん。連れてきてくれて、本当にありがとうございました」と深々頭を下げた。
「ナハハハハ、いーよいーよ。私も、すっごーく、楽しかったからさ」
 ノゾミさんはサンダルを後ろ手に持ち、空を見上げた。
 皆で彼女の視線を追いかける。空の色は絵の具で塗ったみたいに橙から群青へと滑らかに変わっていた。西の空の低いところに、細い月が出ているのに気づく。昼と夜の境界線は淡くぼやけていて、曖昧な気持ちのままいたい俺たちにピッタリだと思った。
 ふふーん、ふん。鼻歌の新曲を披露する心葉。日焼けした赤い顔で満足そうにはにかむ先輩。いつになく神妙な顔で先輩の隣を歩くカッシー。
 時折、足元まで波が打ち寄せては、俺たちの足跡を消していった。
 この旅はもうすぐ終わる。そしたら、皆、今度は別々の旅に出るんだ。
 寂しいな――。
 そんな俺の思考がダダ漏れだったのか、互いにお礼を言い合った。心葉は「顔にかいてあるよ」と口元を緩めた。
 宿に戻り、広々としたキッチンスペースで最後の晩餐の用意をした。
 メニューはやっぱりバーベキュー。
 ――のつもりだったが、先輩が「醤油味はないのか」とホームシック全開の注文をつけるので、醤油と砂糖ですき焼き風にアレンジ。これは当たりだった。ダッチオーブンで炊いたご飯が進む進む。
 ノゾミさんが「大フンパツだ!」と言ってスーパーで買ってきたアイスクリームが振る舞われ、楽しい時間はあっという間に過ぎた。
 お腹いっぱいになった俺たちは「逆さまの星空も見納めだ」と競うようにウッドデッキに飛び出した。縁に5人並んで腰掛けて、足をプラプラさせた。
「ほんと、みんなと来られて、よかった。ありがとう」
 先輩が静かに口を開いた。
 旅の終わりが刻一刻と迫っている。
 さっきから俺のスマホも先輩のも、ずっと鳴りっぱなしだ。たぶん親からだな。こりゃあ帰ったら、ただではすまなそうだ。
「全部、私の責任だから。この悪巧みを考えたのも私。無理やり勧めたのも私。椎名くんや心葉を巻き込んじゃったのも私」
「俺は?」
 カッシーが笑う。
「ふふふ。もちろん。耕太郎もだ」
 先輩は長い髪を夜風に預け、話を続けた。
「帰ったら親とか先生とか、いろいろ言ってくると思うが、全部私に回してくれ」
「そんなこと、できませんよ」
「いーや、だめだ。私が謝る」
「相変わらず、固すぎですって。石になっちゃいますよ?」
「アハハハ。望むところだ」
 幾度となく繰り返された先輩との小競り合いも、今夜はなんだか愛おしかった。
「ほらほらっ、咲也子も柚くんもぉ、暗い顔しないの!」
 急に心葉が俺たちの間にぎゅっと割り込んできて、肩を組んでケラケラ笑った。
 顔が近いし、いい匂いだし。ちょっ、あのさ……。
 バンバン俺の肩を叩くたびに、胸が当たってるんだってば。
 俺は鼻先に流れてくる彼女の髪の毛をくすぐったがるフリをして、身体をひねって3センチだけ彼女から遠ざかってみた。恥ずかしすぎる。無理。
「私が、一緒に怒られてあげるからさ」
 この旅が終わるのが嫌だとずっと言っていた心葉が、今は一番明るかった。ぴかぴかの笑顔を振りまいて「ねっ、ねっ」と俺たちを励ましてくれた。
 心葉が謝りに来たってどうなることでもないのだけれど、俺ん家のリビングで2人並んで土下座してる姿を想像したらとても可笑しくなってしまった。先輩も同じようなことを想像したのか、俺と目を見合わせた瞬間にプッと吹き出した。
「くくくくっ、あーっははは。ないない。無いだろ」
 胸を抱えて大笑いする先輩。
「ハハハハッ。じゃあ、心葉。頼むよ」
「ふむ、くるしゅうない!」
 それを見ていたカッシーもノってきた。
「わはははっ。じゃぁさ。サヤちゃんのとこは俺が行くよ。ねっ、いいだろ?」
「こ、耕太郎っ」
 あーあ。調子乗りすぎ。しれっと手なんて握っちゃって。これ絶対ローキックのパターンだよ。――しかし、意外なことに、俺の予想は外れた。統計外だ。
「そ、それもありかもしれんな」
 頬を紅潮させた先輩が、彼の手を握り返したのだ。
 ああ、そっか。2人は少しだけ、前に進めるのか。俺は少し安心した。
 心葉が俺にウインクして、俺はノゾミさんに目で合図。2人をデッキに残して、俺たちはそっと退散することにした。
 部屋に戻る途中でノゾミさんは「みんなに負けてらんないナァ」と意気込んで、誰かに電話をかけに行ってしまった。

 部屋で心葉と2人きりになると、いよいよ考えても仕方のないことが頭をよぎる。これからどうなるんだろう。心葉は夏の終わりまでに居なくなってしまうのだろうか――。
 ソファーで考え事をしていたら、心葉がうやうやしく隣に座ってきた。
「ここは、なんだか落ち着くね」
「うん。時間が止まればいいと思う」
「ふふふー。良かった、私もそう思ってた」
「そう?」
「そう」
 ほんと、時間なんて止まっちゃえばいい。
 それで心葉が、これからもずっといてくれるのなら――。
「ねぇ、柚くん。私に触って」
 彼女は照れくさそうに上目遣いして、そう言った。
 俺は自信がなかった。
 この先もずっと、心葉を支えていけるだろうか。きっと口で言うほど楽なものではないはずだ。自信がない。どう振る舞うのが正解なのか、想像もつかなくて。正直、怖い。だいたい、なんで居ないはずの心葉と再会できたのか、未だに謎のままだ。
 俺は彼女に促されるまま、頬にそっと手を伸ばした。
「心葉……」
 なんて温かいんだろう。
 彼女は静かに目を閉じ、俺は彼女の顎を持ってそっと唇を寄せた。
 波の音だけが聞こえる部屋。
 俺は心葉から離れがたくなってしまった。夢でも幻でも幽霊でも、なんでもいい。
 一度失った心葉をもう一度失うのが、たまらなく怖かった。
 
 翌朝、ノゾミさんの大声に飛び起きた。
「いつまで寝てるの~!」
 慌てて手元の時計を見る。朝の7時。
 もう少し寝てても、いいんじゃないかな? 学校に遅刻するわけでもなし。
「な、何なに? 一体、何ですか」
 俺は二度寝を諦めて、二段ベッドの上からノゾミさんに視線を送った。
「イルカ! 行っちゃうよ? 支度して!」
「イルカ?」
 全然聞いてなかった、そんなことっ。
 俺はバッと寝袋を抜け出し、下の段でスヤスヤ眠る心葉を叩き起こす。かわいい寝顔してんな、なんて悠長に楽しんでいる余裕もなく、パパッと支度する。
「ふぁ、イルカ? ――海? 着替えなきゃ」
 寝ぼけてるのか、先輩はおもむろにジャージを脱ぎ始めた。
「うわっ、ちょちょちょっと! 先輩! せんぱーい」
「咲也子っ。おーい」
 心葉が先輩の頬をむにゅっとつねり、あられもない姿になる寸前のところで、彼女は我に返った。もうっ、勘弁してくださいよ。ホッとした俺に、カッシーが「もうちょっと待ってくれても良かったのに」なんてイタズラっぽく笑いかけた。
 野生のイルカが波打ち際まで来るらしい。
 俺たちははやる気持ちを抑えきれず、砂浜を急いだ。着の身着のまま。こんなラフな格好、俺たちだけかと思ってたら、同じ方向を目指して歩く観光客も皆似たようなもんだった。オーストラリアらしいや。ノゾミさんが「気楽でいいよー」と笑った。
 早朝の凛とした空気。
 朝もやはもう、だいぶ晴れた。夜明けのオレンジ色に染まる砂浜に、人だかりができていた。皆の視線の先には、もういくつもの背びれが見え隠れしていた。
「見て見て!!」
 心葉が叫んだ。
「すごいな。野生なのか?」
 先輩も興味津々。
 水族館のイルカじゃない、正真正銘、本物の野生のイルカだ。
 レンジャーの女性だけが膝まで水に浸かり、皆には「水に入らないように」と注意していた。俺たちは波打ち際に立って、水面を睨んだ。
 イルカの群れはみるみるうちに目の前の浅瀬までやってきた。ぷしゅー、ぷしゅーと呼吸しているのが、よく聞こえる。波は穏やかで水はエメラルドグリーンに澄んでいる。イルカたちは水面から顔を出し、つるつるとした肌がよく見えていた。
「大きいねぇ。ふふふーん」
「ああ。バンドウイルカだ」
 心葉と先輩が笑いあった。相変わらず、先輩の生物知識は抜群だった。ノゾミさんが「ビンゴ!」と微笑んだ。
 俺も身を乗り出して様子をうかがった。こんなに近くで見られると思わなかった。
 イルカたちはほんの目と鼻の先までやってきて、そこでくるりと反転した。
「ふふふ。お腹見せてる」
「ハハハ。心葉にいっしょに遊んでほしいんじゃない?」
 ふふふんと鼻歌を歌いながら、心葉は背びれを数えていった。全部で5頭。家族かな。
 レンジャーの女性が説明をしていた。
 このイルカは本当に野生。毎朝、必ずやってくる。本格的に観察記録をつけ始めてから今まで40年ほどで、来なかったのは台風の日ぐらいのものだそうだ。
「会える確率ほぼ100%てすごくないですか? 知ってました、先輩?」
「知らなかったな。エサとかのせいじゃないのか?」
 レンジャーの話では、朝以外の時間帯にもビーチに遊びに来るから、エサだけが目当てってわけじゃないらしい。あ、でも、偶然見かけても、勝手に一緒に泳いだりしちゃだめなんだって、さすが自然保護区。
「あなた、ちょっと前に」
 心葉がレンジャーに指さされた。観客の中から他にも何人かが声をかけられた。彼女の合図で皆一様に「いいのかな?」という不安な顔をして、じゃぶじゃぶと海に入っていった。いったい、何が始まるのか?
「わぁ、心葉ちゃん。ラッキーだね」
 ノゾミさんが、少し悔しそうにつぶやいた。
 心葉はレンジャーに手招きされ、彼女のもとに進んでいった。ズボンをたくしあげ、もうひざ丈くらいまで海につかっていた。
 イルカたちはダンスパーティの相手を探すみたいに、ゆっくり心葉たちの周りを泳いでいった。ときどき水の上に目を出しては、何かを確認しているみたいだ。
 一通りチェックが終わったのか、イルカたちはレンジャーの背後に回りエサをねだった。心葉がレンジャーに手渡された小魚を俺たちの方に掲げてみせてくれた。
「ハハハ。ちっさいっすね」
 俺が笑うと、先輩も
「うむ。アレじゃぁ腹は満たされないと思うが」
 なんて言って、くくくと肩をゆらした。
 心葉は真剣な顔でその小魚をそうっとイルカの口に放り込んでやった。他に選ばれた人も皆、1匹ずつ。これでは先輩の言う通り、腹は満たされないだろう。
「自然が一番。だから、1匹なんだよ」
 ノゾミさんが教えてくれた。生態系への配慮、ってやつだ。
「本当はさ、エサやりだってしないのが一番なんだろうけどね」
 でもほんと、心葉はラッキーだった。
 イルカを見に集まった見物客はゆうに100人を超えていた。その中で選ばれたのだから。浜に戻ってきた心葉は「ふふふふ~ん」と満足げな表情で笑った。

 朝食を済ませると慌ただしく荷物をまとめ、一路ジェラルトンまで戻った。初日と同じキャラバンパークにお世話になり、翌日パースに帰ってきた。途中、砂漠でサンドサーフィンに立ち寄った以外は、ほぼノンストップ。往復1600キロも運転してくれたノゾミさんには、ほんと感謝しかない。
 レンタカー屋でノゾミさんと別れることになった。
 連絡先を交換し、絶対にまた会おうと約束した。絶対の絶対だ。互いの背中をさすりながら、わあわあ泣く心葉とノゾミさん。2人の背中を柊先輩がそっと抱きしめ、静かに涙をこらえていた。
 その日、ユースホステルに1泊して、翌朝俺たちは帰路についた。
 これで、ほんとうに家出は終わり。俺たちは「またみんなで来よう」と何度も言い合った。それがもう二度と叶わなくなるなんて、考えたくもなかった。