朝、俺たちはトーストとフルーツで簡単な朝食を済ませると、手際よく荷物をまとめ、意気揚々と車に乗り込んだ。ノゾミさんも
「今日も何百キロも北上するぞぉー」
 と意気込んでいた。
 ハイウェイ1という道を進んだ。なんでも、オーストラリア大陸をぐるっと一周して各州都をめぐる「世界一長い国道」らしい。左右には黄色い大地に緑の低木、オーストラリアって感じの景色が広がる。だいぶ見慣れた感がある。今日もスカッと晴れ渡り、楽しい旅になりそうな予感がした。
 そう思っていた矢先、足元からバタンバタンと異音が響き始めた。音は車の左後から聞こえていた。やがてガタガタと突き上げるような振動も加わった。
「これ何の音ですか?」
 俺が眉をひそめると、ノゾミさんが僅かにスピードを緩めた。するとバタバタ音のテンポがゆっくりになる。
「タイヤに何か絡んだかな?」
 そう言って今度はアクセルを踏み込んで加速した。バタタタタ――。なんと、音は大きくなりテンポも上がった。どういうこと?
「あちゃあ。こりゃあパンクだ!」
 ノゾミさんはすぐに路肩に車を停めた。彼女に続いて俺も車から飛び出した。外は灼熱というほどのことはないが、遮るものは何もなく、日光が燦々と照らしていた。
 すぐに車の左後に回り込む。見ればタイヤがぺったんこだ。
「あーあ」
 誰がどう見てもパンクしている。
 ノゾミさんは、まいったなという顔をして指先で頬をかいた。
「まさか、町まで車を押してかなきゃいけないってやつですか?」
「いいな! 俺もやる!」
 カッシーはニコニコ顔でやってきては、腕まくりして笑った。
「ナハハハハ。それもいいけどね。青春ぽくて」
 ノゾミさんはそう言いながら、後のハッチを開けた。
「でも大丈夫。スペアタイヤに代えれば走れるでしょ」
 ゴソゴソと荷物の山をかき分けて工具箱を探してるみたい。
「――あっれぇ、おかしいなァ」
「どうしました?」
 俺も様子を見に行った。車内ではノゾミと先輩が振り返り、心配そうな顔で様子を伺っていた。
「ジャッキはあるんだけど……工具箱が無いナ。あれがないと困るんだけどなー」
 『困る』とか言いながら、あまり困ったふうでもないノゾミさん。こういう事態にかなり慣れている様子。しかし、とにかくレンチがないことにはタイヤは外せない。それどころか、車体に固定されているスペアタイヤだって、そもそも取り外せないのだ。
「工具箱、どこやったっけ?」
 俺は車内にいる心葉に尋ねた。
「昨日、使ってたよね?」
「ああー。そうだ! そうだよ。二段ベッドだろ? ネジが緩んでて――」
 ようやく思い出した。でも、使ったあと、どこへ置いたっけ?
「そのあと、どうしたぁ?」
「どうしたかな……最後、俺だっけ?」
「まさか朝のドタバタで車に積み忘れた?」
 いつの間にか、俺のせいにされている。
「論理的に考えて、その可能性が高いな」
 柊先輩が車から出てきてテキパキと荷物を確認していった。
 が、やっぱり工具箱は出てこなかった。
「さあて、じゃあどうしましょうか」
 ノゾミさんは腰に手を当て、ふふんと笑った。シャツの裾からヘソがチラチラ見える。
「手でネジ緩めたり、なんとかできないすかね?」と俺。
「アホか。もうちょっと頭を使え」
 先輩が眉を潜ませる。
「じゃあ先輩、何か良い方法思い浮かぶんすか?」
「ロードサービスを呼べばいいだろ」
 先輩は少しも言い淀まず、長い髪を耳にかけながら言った。
 でも俺も負けない。
「スマホ、圏外すよ」
「ぬぬっ。あっ、歩いて街まで行って呼んでくればいい」
「どうでしょう。すげぇ遠いかも」
 一本道だから、迷ったりはしないはずだが。
「仕方ないだろう。論理的に考えてそれしかない」
「いやカーナビだと、近くの街までは結構ありましたよ」
 とはいえ、あまりここでモタモタしている時間はないような気もした。
 俺の直感、先輩の論理。そのどちらもうまくいかなそうだ。ここまで黙って様子を見ていたノゾミさんがゆっくりと口を開いた。
「そうね。ここはオーストラリア流でいこうか?」
 彼女の案はシンプルだった。次の車が通りかかるまで待つ。それだけ。そしてその車に工具を借りてスペアタイヤに交換する。ただそれだけ。
「――うん。確かに無駄がないっすね」
「そうだな。一本道。多少歩いても、他の車に出会える確率は変わらない」
 俺も先輩もすぐにこの案に賛成した。
 しかし、車を止めた場所はそれなりに見通しは良かったけれど、見えてる範囲に車はなかった。ハイウェイ1から国立公園に抜ける横道に入ったせいもある。運よく観光客かなんかが通りがかってくれるかどうか。
「どうですかね。確率的に、どうなんでしょ」
 これまでも、すれ違う車は少なかった。1時間に1、2台か。大抵はキャンピングカーみたいなやつだった。
 これが砂漠のど真ん中だったら身の危険を感じるのかもしれないが、 全然そんな雰囲気じゃない。背の低い木がぽつぽつと茂る草原で、凶暴な動物は出そうにない。心葉が「おやつにしよう!」なんて言ってるせいもある。 
「つっ立って待っててもしょうがないよぅ」
「いいね心葉ちゃんっ。私、そういうの好きよ」
 心葉とノゾミさんは「だよね~」とか言い合いながらケラケラ笑って車に戻った。カッシーも「見て。昨日スーパーで面白いお菓子買っちゃったんすよー」と叫びながら二人を追いかけていった。
 車の外は、俺と先輩そしてオーストラリアの大自然だけになった。しばらく左右に首を振って道を眺めていたが、やがて「やっぱ車来ないな」と先輩は少し肩の力を緩めた。
 俺と柊先輩は性格も思考回路もまるで正反対。けれど、似ているところもあった。
 勝手に責任感を感じて、こうして外でずっと車を待ったりするところだ。
 ノゾミさんの話では、オーストラリアでは路肩の車を見つけたら必ず停まって様子を確認するという。だから、車外に立って待つ必要はない。車はいずれ通りかかる。今はむしろ体力温存。だから、ノゾミさんと心葉が正しいって、ほんとうは柊先輩もわかってるはずだ。
「あはははは。車来ないな」
 先輩が道端の小石を蹴飛ばした。
「先輩の読み通り、かなりの低確率すね」
 こうして俺たち二人は意地を張って、あてもなく立っている。心葉をハメリンプールに連れて行ってやりたいという気持ちの大きさも、たぶん二人一緒だ。
「いや君の言うとおりかもしれん。その辺にあるものを使ってうまくタイヤ交換できる確率の方が高かったかもな」
「いやぁ、自分で言っておいてなんですけど、それは無いですって」
 そう言って俺は水筒を車に取りに行き、コップに注いで先輩に差し出した。
「サンキュ」
 先輩は軽く頭を下げ、落ちてきた長い髪を耳にかけてはにかんだ。日焼けしたせいか、頬が赤い。ごくごくと美味しそうに水を飲むと、腕で口元を拭った。
「付き合わせて、すまなかったな」
「突然、どうしたんすか? 先輩らしくない」
「私がこんな無計画な家出に誘ったばっかりに。君と心葉の時間を無駄にした」
「そんなことないですよ」
 本心でそう思った。
 ツアー予約が取れてなかったアクシデントも、今となってはいい思い出だ。それに、あれがなかったらノゾミさんとも出会えていないわけだし。
「っていうか、こういうのも楽しいじゃないですか」
「そうか? 私にはよくわからんが」
「そうですよ! 心葉だって言ってたじゃないですか。日常が見たいって」
 やっぱり、俺と先輩とでは同じ世界を見ていても感じ方が180度違うみたい。
 俺はどんな状況でも割と受け入れ「まぁ、これもアリかな」と柔軟、だと自分では思ってる。悪く言うと「流されやすい」「自分の意見がない」――ああ分かってるよ。
 先輩は予定通りいかないとイラつくタイプ。でも先輩の偉いところはそのイライラを人にぶつけないこと。自分で抱え込み、それをエネルギーにして問題解決にあたろうとさえする。いつも「もうちょっと肩の力抜けばいいのに」なんて俺は思ってる。
「そういえば、いっこ聞いていいですか?」
「何だ?」
 先輩はうーん、と言って伸びをした。
「なんで家出を?」
 俺の口からその言葉が出た瞬間、先輩の動きがピタリと止まったような気がした。 
「ちょっと、嫌気がさしてな……」
「何に、ですか?」
「人生に」
 影のある顔をする先輩。どういう意味なんだろう。
「笑えるだろう。全然、論理的じゃなくて」
 俺が答えに窮していると、先輩が遠くに手を振った。
 ついに車が来た!
 ちゃんと俺たちの車のすぐ脇に停まってくれて、中から出てきたヒゲもじゃのおじさんが、工具を貸してくれた。ノゾミさんの言ってたとおり、オーストラリア流に全ては解決した。郷に入りては――いや。豪に入りては豪に従え、だ。
 
 ノーサンプトンという小さな町のガソリンスタンドでタイヤを交換し、無事に旅は再開。ノゾミさんが「せっかくだから」とハイウェイを外れて海沿いの道に出た。
「皆様、左手をごらんくださ~い」
 バスガイドよろしくノゾミさんが左の景色を指した。
「なっ、どういうこと?」
 そこに見えたのは、なんとピンク色した海――いや、湖か?
「ハット・ラグーン・ピンクレイク、っていうの」ノゾミさんが笑う。
「すっげええ」
「ほう。これは興味深い」
 カッシーも柊先輩も興味津々。
 その名の通り、水面がピンク色をしていた。まるで絵の具でもぶちまけたみたいにきれいに染まっている。先輩もさすがに目をゴシゴシこすって何度も確認していた。
 ノゾミさんによると西オーストラリアにはこういう湖がいくつも存在するらしい。湖面がピンク色になる理由は実はよく分かっていないが、どうも生息している藻やバクテリアの影響と言われているそうな。なんとも不思議だ。

 昼過ぎには予定していたカルバリー国立公園に到着した。ここはオーストラリアのグランドキャニオンとも呼ばれている絶景が楽しめる場所らしい。トレイルコースを歩くというので、水筒や食べ物やらをリュックに詰めて、俺たちは車を飛び出した。
「うわああっ、すごいねここ!」
 心葉が真っ先に声をあげた。
 車を止めた場所から10分も歩くと、もうそこは崖っぷち。
「うん。なんか、いかにも地学部向けって感じ」
「ははは。ウケる~」
 悠久の時が造り上げたマーブル模様の岩肌、深くダイナミックに切り込む峡谷。眼下を流れるマーチソン川が4億年かけて侵食してつくった景色だ。なんとも壮大。
 青い空に赤い大地。ゴツゴツとした岩肌のいかにも乾いてそうな隙間に、どうしてか根を張った低木が茂る。
「ふむ。極めて興味深い……」
 先輩はここにきてからずっと、そうやって感嘆のため息をつきっぱなしだ。
 眼下に広がる、足のすくむような谷。かなり下のほうを川が流れている。ほんの少し前まで海沿いの道を走っていたはずで、山を登ってきた記憶もない。だけど、どうも俺たちはそれなりの高地にいるみたいだ。
「日本とは、まったく地形の感じが違いますね」
「平坦だったから気づかなかったが、案外標高があるのかも」
 先輩はさっと腕時計を確認し「200メートルちょいか」なんて満足げにしていた。
 崖の上を慎重に散策した。観光スポットとはいえ、落下防止のフェンスなどない。景観をこわさぬようにか、注意看板も最低限。なかなか危ない。足元は、よく見ていないとつまづきそうなくらいゴツゴツとしている。ただ、化石掘りの時とは違って落ち葉で覆われてるということはなく、気をつけて歩けば大丈夫なレベル。
 それでも、さすがに心葉が心配になり、俺は声をかけた。
「大丈夫? 手、つなごうか?」
「ふふふーん。大丈夫だよ。サンキュッ」
 そう言って彼女は「よっよっ」とか言いながら、ぴょんぴょんと岩を渡ったり、せり出した岩の上に片足で立ち、両手を広げおどけて見せた。わ、わかったから落ち着け。怪我するぞ、と見ている俺のほうがヒヤヒヤした。
「どうして赤いかわかるか?」
 前を歩く先輩が、急に俺のほうを振り返った。いきなりの地学クイズか?
「んー、なんでしょうね……鉄、とかですかね?」
 地学で赤といえば、鉄サビだろう。
「おお、いいとこ突いてきたな」
「えっ何々? どういうことー?」
 心葉が入ってくる。ノゾミさんも興味津々に先輩の話に耳を傾けていた。
「じゃあ、なぜここに鉄がある?」
 なぜ? うーん、その方向からは、考えてもみなかった。
 オーストラリアは世界3位の鉄鉱石の産出国。それは知っていた。ノゾミさんが言うには、オーストラリア産鉄鉱石のほとんどが、ここ西オーストラリア州で産出したものだという。それはいい。だけど、なぜ? なぜ……?
「サヤちゃん、ヒントぉ!」
 カッシーがすぐに音を上げる。
「あああっ。もう、柊『先輩』だろうがっ」
「硬いこと言うなってば。ヒント、ヒント!」
「はぁ。しかたないな」
 先輩が言おうとしてすぐに、カッシーが何かひらめいた様子で大声を出した。
「あ! もしかして、ストロマトライト関係か!?」
「うぁっ、びっくりさせんな!」
 げしっと先輩のローキックが入る。でも2人共なんだか楽しそうだ。
 ストロマトライト……シアノバクテリアが関係してる? 余計わからないぞ。
「うーん……」
 だめだ。わからん。そろそろ降参。
 柊先輩がニンマリした顔で説明を始める。
「大昔、鉄は海の中にあったんだ。鉄イオンとしてな。そこに、シアノバクテリアが光合成を始めたらどうなる?」
「えっと……」
「海水中の鉄イオンは酸素とくっつき酸化鉄になり、数億年かけて海底にたまった。それがいまの鉄鉱石だ。わかるか?」
「ってことは、今、私たちが使ってる鉄は、シアノバクテリアのおかげ?」
 心葉も何だか楽しそう。そういやストロマトライトを見に行くのは、墓参りみたいなもんだって言ってたっけ。
「ぜんぶ、シアノバクテリアが何億年もかけてせっせとサビさせてくれたおかげだ」
「シアノバクテリア、すげえ」心の底からそう思った。先輩の説明もうまかった。
「もう、足向けて寝られないなぁ」
「ナハハハ。たしかに!」

 そうして、ワイワイと進む俺たち前に、とんでもないものが現れた。
「なにこれ? すっげ」
 高さ3メートルもあろうかという大岩の真ん中に、人が通れるほどの大穴があいている。穴の向こうには青い空と広大な峡谷の風景。茶室の窓から臨む借景みたいになっていて、絶好の写真撮影スポットだ。
「ネイチャーズ・ウィンドウ。またの名を〈ザ・ループ〉っていうの」
 ノゾミさんが教えてくれた。いよいよ別の惑星に来てしまったみたいな景色だ。
 幾重にも積み上がった岩の層。そのど真ん中を長い時間かけて風が削り取ったのだろう。確かに、赤い岩で縁取られた自然の窓だ。
「私も初めて見たけど、これはなかなかすごいわね」
 穴の中に立ち、ノゾミさんは遠くを見渡した。俺たちも続く。窓の外は雄大な峡谷が広がる。迫力満点だ。手つかずの赤い大地が、大昔の地球を思い起こさせる。
 峡谷をぐるりとまわる〈ループトレイル〉という散策コースがあるのを見つけた。
 看板を見ると全長8キロ。所要時間5時間。
「どうする? 行く?」
 1人3~4リットルの水を持て、夏は朝7時よりまえに出発せよ、ショートカットはするな、などなど、細かい注意書きがびっしり書かれていて、一同かなりビビる。
 結局、先輩とノゾミさんのアイディアで、途中まで行って折り返すことになった。コースの三分の一くらいの所に、川の高さに降りられる場所があった。俺たちはそこを目指すことにした。往復で2時間くらいのはず。
 〈ザ・ループ〉を出発すると、しばらく崖の上のトレイルが続いた。手元の地図には〈クリフトップ・ウォーキング〉と書かれている。トレイルといっても木道などはない。大自然そのままで、足元はゴツゴツと岩だらけ。心葉が転ぶんじゃないかと、気が抜けない。それでも、遠くに望む峡谷の景色に言葉で表せないようなパワーをもらい、俺たちはぐんぐん足を進めた。
 そんな中「ただ歩くのはつまらない」と心葉が何かゲームをやろうと言い出した。
「ナハハハハ。いいねぇ。やろうやろう」
 ノゾミさんもノリノリだ。こういうことに、彼女は嫌な顔せず真っ先に賛同してくれる。スパッとしていて、なかなか気持ちのいい性格だ。
 心葉はよく知らない名前のゲームを提案した。
「コインか石かゲームね」
 皆、歩きながら心葉の説明に耳を傾ける。
 どうやら、やることは単純だ。
 まず各人が小石とコインを持つ。そして一人がイエス・ノーで答えられる質問をする。例えば「今お腹が空いている?」とか「この中に好きな人がいる?」とかそういうのだ。
 そして小袋を用意しておいて、各人は回答を投じる。イエスなら石を、ノーならコインを入れる。その際に、それぞれの手元が見えないように気をつける。そして、全員が回答しおわったら袋を開け、石の個数を数えるわけだ。何個入っていたかは全員が知ることができるが、誰が入れたかは分からない、というわけだ。
「オッケー。やろやろ」
 カッシーはすぐにルールを理解したみたい。何か企んでる顔だろ、それ。
「あんまりエッチなのとかは、だめだよー」
 とか言っている心葉が一番楽しそう。
「要するに、匿名のアンケートってことね。オッケー」
 俺も二つ返事で了承。
 原始的だけど、こういうシンプルなのが意外と盛り上がったりするもんだ。しかも歩きながらなので、あまり深く考えないでプレイできるゲームがいい。先回りとか戦略とか、かったるい。このゲーム、基本は正直に答えればいいだけだろう。
「じゃあ、まず私からぁ」
 そう言って、心葉がぺろりと舌を出して、照れくさそうに手をあげた。
「おーし、何でもこいっ」
 カッシーが最後尾から意気込むと、俺の前を歩く心葉が振り返って手を振った。
「この旅は、めーっちゃ楽しい?」
 これが心葉の質問か。『めーっちゃ』のため方が小学生みたいで可愛い。
「ハハハ。オッケー」
「楽しいと思ったら石を入れるんでいいんだよね?」
 念の為の確認をする俺。
「そそ。石とコイン、両方入れちゃだめだよー」
「ナハハハハ」
 先頭を行くノゾミさんが背中で笑った。
「それから、入れなかったほうは、他の人に見られないようにね!」
 確かに。それが分かっちゃったら匿名アンケートにならないからな。
「よーし。んじゃ、みんな入れたかな?」
 心葉がひょいひょいとみんなを回って巾着袋に投票を集めていった。
「えへへ。じゃあ開けまあす――――――おっおっ、これはすごい!」
「何々早く見せてよ」
 立ち止まって袋を覗き込む心葉。早速その周りをみんなで取り囲んだ。
 袋を返し、心葉の手にこぼれたのは、なんと石が5個。ということは――
「あはははっ。全員この旅は楽しいと思ってるんだね! よかったよかった」
 まずは練習ってところか。質問は思いついた人からどんどん出せばいいらしい。
 柊先輩もノゾミさんもフフフと小さく笑ってまた歩きだした。
 時折、道端のワイルドフラワーに立ち止まりつつ、俺たちは崖の上を進んだ。
 心葉の「実はさっきからお腹が空いている」なんて当たり障りのない質問から始まった。結果は、石3、コイン2。これは心葉がおやつタイムにする口実だった。
 柊先輩の「正直にいうと、私はコインを入れた」っていう矛盾を孕んだ質問がなかなか秀逸だった。イエスなら石を入れるのだが、嘘をついたことになってしまう。反対にコインを入れると、この質問に対する答えはノーになるので、それも座りが悪い。
 ノゾミさんがワル乗りして「彼氏彼女いない歴=年齢の人」なんて質問を出したからさあ大変。一気に互いの腹の中を探り合う展開に。まぁ、これはこれで面白いけど。
 結果はコインが3。
 えーと、つまりどういう意味だ? コインは「ノー」だよな……。
 俺は『彼女いない歴=年齢』だから石を入れた。心葉はコインを入れたはず。ノゾミさんもまあコインだろうな。てことは残るコインひとつはカッシーか柊先輩のどちらかだ。ふーん、なるほど。このゲームはこうやって他人の答えを推理して楽しむわけか。
 カッシーは直球の質問を放った。なかなか面白い。
「俺とチューしてもいいよって人は石」
「耕太郎。いいかげんにしろ! 限度ってもんがあるだろうが」
 先輩はあからさまに嫌そうな顔をして、ジト目でカッシーをにらんだ。ノゾミさんが先輩の肩をもみながら「まあまあ、やってみようよ」と余裕の表情。
 ウキウキした顔で、心葉が袋を持って回る。
「さあ、みんな入れた? ――結果を見るよ」
「さあ来いっ。わははははっ」
「ふふふん。カッシーまじで面白い。でも、どうせゼロだって!」
 みんな初めはバカにしていたのに、いざやってみるとかなり真剣。熱い視線が心葉の手元に寄せられていた。このゲームなかなか良く出来てるな。
「石は、なんと――」
 分かったから。ためるな。はよ言え。
 袋から、コインがひとつふたつ心葉の手にこぼれ出る。3枚目、4枚目……あっ。
「石! い、1個入ってた!」
「ええええええっ」
 一同に衝撃が走る。カッシー以外はみんなゼロだと思っていたはず。
 ノゾミさんと心葉がキャーキャー黄色い声をだして沸き立った。
「ナハハハ。うける~!」
「ああ、分かった。自分で入れたんじゃない?」
 心葉がカッシーの顔を覗き込む。カッシーは少しニヤけた顔で
「いやいや。自分では入れないっすよ。俺、正直者だから」
 なんて顔の前でブンブンと手を振って否定した。
「んなバカなっ。じゃあ誰が?」
 俺も思わず参戦。あらかじめ言っておくが俺はちゃんとコインを入れた――よなァ。
 少し不安になってポケットをゴソゴソやった。ああ、よかった。大丈夫。ちゃんと石が残されている。
 ノゾミさんは、ふざけて石を入れたりしていない気がする。心葉のイタズラも可能性が低そう。だから2人はたぶんコインだ。
 だとすると石を入れた可能性が高いのは――
「サヤちゃん! ありがとぉう!」とカッシー。
「ば、バカ! 違うってば」
「俺のこと、そんなに想っててくれたんだねっ」
 ご満悦な笑みを浮かべるカッシーに、先輩は赤い顔をして猛抗議。
「なわけないだろうが! 確率を考えろ」
「えええーっ。ほんとーう? あ、や、し~」
「ぐっ、しつこいぞ」
「だってさぁ」
「わ、私じゃない。さ、次の質問いこう」
 このゲーム、匿名だからいろいろ妄想が膨らんで、そこが面白いとこなのに――。だんだん先輩がかわいそうになってきた。
「ナッハハハハー」
 俺はノゾミさんの声マネで笑いながら、カッシーの前に飛び出した。
「なんだ、柚?」
「ヒヒヒ」俺は大げさにニヤニヤしてやった。
「お前、まさか……」
「だってゼロだったらかわいそうだと思ってさ。ハハハ」
「なんだよぉ。俺はてっきり……」
 ちょっぴり残念そうなカッシー。
「もう、友達想いなヤツだなァ。よし、望み通り実行にうつそうか」
 俺の両肩を抱いて、ぐいと顔を近づけるカッシー。息が荒いぞっ。
「やめんか!」
 俺は目の前の顎をぐいと押しあげる。カッシーは余計ぐぐぐと力を入れ顔を近づけようとした。ざけんなっ。
「ほーれほれ、くるしゅうない。ちこうよれ!」
「わかった、わかったって。俺が悪かった」
 じゃれあう男子2人に、みんな腹を抱えて笑った。
「2人、仲良すぎじゃないかと思ってたけど、まさかねー。ふふふ」と心葉。ノゾミさんが「カッシー。ホントいい性格してるよね」と腕組みして笑った。
 慎重に崖を下り、川沿いのトレイルに入った。
 すぐのところに小さな看板が立っていて〈注意:ここで引き返すのも手です〉と大きな文字で書いてあった。まてまてまて。怖いだろ。水筒の水はこまめに飲めとか注意書きもびっしり書かれていて、ビビった。熱中症で倒れる人とかが出るのかもしれない。
 それでも冒険心をくすぐられた俺たちは、地層がむき出しになった岩場を少しだけ歩いてみることにした。すぐ目の前を川がゆっくり流れていて、崖の上から見た景色とはまた違ったダイナミックさがある。水は意外と澄んでいた。
 心葉が「柚くん、メガネ落とさないようにね」なんて冗談を言った。そういえば、そんなこともあったな。ほんの数ヶ月前なのに、何年も昔のことみたいに思えた。日本を遠く離れたせいかな。
 柊先輩は目を離した隙に一人でどんどん進んでしまう。化石を探しているみたい。そんな「ここにはありそう」「まだここは探してない」と後ろ髪引かれっぱなしの先輩の手を引いて、俺たちは来た道を引き返した。
 まだ日がある、ちょうどいいくらいの時間に〈ザ・ループ〉まで戻れた。
 
 今夜の宿は、海を臨むキャラバンパーク。カルバリーの町はちょっとしたリゾート地になっているらしく、周りに合わせてちょっとオシャレなコテージだ。中は「どこもだいたい同じね」とノゾミさん談。
 みんなでインド洋に沈む夕陽を眺めたあとは、定番のバーベキュー。もう慣れた。
「どうしてもご飯が」と言ってきかない柊先輩のために、米をダッチオーブンで炊いてみた。スーパーで買ったオーストラリア産〈KOSHIHIKARI〉。
 どんなものかと初めはみんな半信半疑だったが、一口含んだ途端にそんな疑念は吹っ飛んだ。マジで旨いぞ。べちゃっとせずしっかり粒も立ち、ふっくら炊けている。焦げ付きもない。飯盒で、いや、炊飯器で炊くより何十倍も美味しい気がする。先輩と心葉のホクホク顔が、すべてを物語っていた。
 こういうなんでもない仕草を見られるのも、もう数えるほどか――。久々のご飯で先輩のホームシックが感染ったのか、俺は妙に寂しい気持ちになった。
 夕食後には星を眺めた。それに飽きたら小さな焚き火に集まっては、なんでもない話を繰り返した。日焼けした肌を、夜風が冷やす。昼間あれだけうるさく飛び回っていたコバエもようやく息を潜め、いまは遠くで波の音だけが静かに聞こえていた。
「もう、このまま時間がとまっちゃえばいいのにな」
 俺が言うと、みんなして「ふふふ」と笑うだけで、誰も反対しなかった。コインと石でアンケートを取るべきだったか――。ぽかんとしていると、心葉が小さく「私も、そう思ったよ」なんて夜空に向かって呟いて、なんだか救われた。
 やがて、ベンチに転がるカッシーが寝息を立てはじめると、柊先輩が「椎名くんには昼に言ったんだけど」なんて前置きして、真剣な顔で静かに口を開いた。
「あのな、私は今の親の子供じゃないんだ」
「ど、どういうこと?」
 すぐに心葉が反応した。
 ノゾミさんはマグカップで両手を温めながら、静かに話に聞き入っていた。
「言葉通りの意味」
 先輩が長い髪を耳にかける。少し笑ったように見えた。
「私も最近知ったんだ。足元にあったものが、ぜんぶ無くなったよ」
「そんな……全部って……」
「そうですよ。育ての親ではあるわけでしょう?」
 心葉の言葉に重ねるように、俺は肩をすくめながら言った。
 焚き火ごしに見る先輩の表情が、うまく読み取れない。いつもの沈着冷静な声が、いまはどこか上ずっているように感じた。
「もちろん。頭ではわかってるよ――でも心が言うこときかないんだ」
 ひどく感傷的になっている。珍しい。先輩の言葉を借りれば、統計外の事態。俺は暗闇に目を凝らした。彼女は目に大粒の涙を溜め、それでも涙の雫が溢れないよう必死で我慢しているようだった。
 彼女の隣に座る心葉が、静かに肩を抱いた。
「咲也子、どうした? この家出となにか関係があるの?」
「人生、嫌になって」
 そこまでは朝聞いた。
「先輩らしくないすよ」
 俺が急に言ったもんだから、先輩は目を丸くした。
「ふふふ。君にはかなわないな」
「まだ何か隠してますね?」
「関係ない。私の勝手な行動だ。君たちを巻き込みたくない」
「何言ってんすかっ。もう十分巻き込んじゃってますよ」
 それは、本当にそうだった。
「仕方ないな……」
 先輩は何かを諦めたように小さく息を吐き、カッシーの寝顔を見つめた。
「問題は親じゃない――耕太郎なんだ」
「どういうことですか?」
 俺も心葉も、彼女の視線の先を追った。そこで幸せそうにスヤスヤ眠っているカッシーに、ノゾミさんが「ハハ。よーく寝てるねぇ」とブランケットをかけた。
「――弟なんだ。私の」
 先輩の口から出た言葉の意味が、まったく分からなかった。
「は?」
「言葉通りだ。耕太郎は、私の弟だ。腹違いの」
「――そんなの、そんなことって」
「私だってそう思ったさ!」
 先輩はいつになく大声を張り上げ、俺の言葉を遮った。語尾がかすれている。
 心葉もノゾミさんも何も言えず、ただ彼女の話に耳を傾けていた。
 話はこう続いていた。先輩が生まれて間もない頃。実の親は貧しく、育てられないと思って遠い親戚の夫婦のところに先輩を養子に出したらしい。その家は裕福だったけれど子供に恵まれずにいたから大変喜んだそうだ。それが今の先輩の家。彼女はそのことを何も知らされずに育ったのだという。
 知ったのはつい最近で、パスポートを作るのに必要な戸籍謄本をとりにいった役所で気づいたらしい。実父の名は樫本耕史。少し調べればわかる。耕太郎の父親だった。
「私も初めは、何が起こったのかよく分からなかったんだ」
 呆然と空を眺める先輩。逆立ちした夏の三角形が輝いていた。
 最初は家出なんて考えてなかったと、彼女は打ち明けた。最初は本当にストロマトライトを見るための、地学部の遠征だったという。その準備でこのことが発覚し、遠征は家出になってしまった。どこか皮肉だ。
「こんなことって……」
 心葉が息を呑んだ。
「でもいいんだ。だって、いつか君が教えてくれたろ?」
 先輩は俺の目をキッと見た。叱られる。そう思って身構えたけれど、彼女の目は優しく笑っていた。俺は少しの間、何のことか分からず、ぽかんと口を開けていた。
「好きな人を見つける方法」
 俺はハッとした。知らぬこととはいえ、なんてことをしてしまったんだろう――。
「すいませんっ。そんなつもりじゃ」
「いいんだよ。私も君に言われて、ようやくわかったから」
 目を背けたくなる、見たくもない現実。でも彼女は必死に歯を食いしばり、そこに踏みとどまろうとしていた。目を見開いて、ちゃんと現実と向き合おうと決心しているように見えた。
「耕太郎のことは好きだ。別の星に生まれてたら、この形じゃなく出会っていれば。そんな、タラレバばっかり頭に浮かぶ。……35億年が恨めしいよ」
「先輩……」
 家出なんてしても、現実は何も変わらない。それは先輩が一番よくわかっていることのはずだった。俺だってそうだ。どう頑張っても俺には心葉の目を治せない。ストロマトライトを見たからといって、それが記憶に残るからといって、彼女が恐れる暗闇から救い出してあげることはできない。
 やっぱり、先輩と俺は似てるような気がした。抱えてる問題もアプローチもぜんぜん違うのだけれど。
「だから、今はなおさら強く思うよ。君たちは、ちゃんと2人になるべきだ」
 先輩が俺と心葉の顔を交互に見た。なんだか少し恥ずかしい。
「DNA検査とか? まだ弟だって決まったわけじゃないよね?」
 心葉もねばったが、先輩は一歩も引かない。
「いや、血のつながっている蓋然性が高い」
「試してみなきゃわかんないじゃないすか」と俺。
「確率の問題だ」
 出たよ確率。
「耕太郎は私のことが好きだ。これはかなり高確率で正しいだろう。私も、好きだ」
 先輩は臆面もなく、そう言った。
「一緒にいるとなぜか安心する。油断する。明日も隣に居てほしいって思う。だから普通はこんなふうに両想いになれると嬉しいものなんだろ。統計的に?」
「そうだよ」
 心葉が小さく呟いた。
「――でも、どうやら、私には当てはまらないみたいだな」
「え」
「だって変だろ! 嬉しいはずなのに、こんなに涙が溢れてくる――」
 柊先輩はそれから、悔しい、悔しいと声を殺して泣いた。俺も心葉も何も言えなくなって、でも彼女が泣き止むまでずっとそばにいた。
 世界には、直感も論理も届かない場所がある。ノゾミさんはそれを感情と呼んだ。いつも頼りになる先輩の背中が、今日だけはとても小さく見えた。