「わあああ。ホントに来たんだね。オーストラリアっ」
バスを降りた瞬間の心葉の嬉しそうなその一言で、来てよかったなと思った。
バイト代の前借りに心葉の荷物、杏との口裏合わせにアリバイ作り。これまで頑張って準備してきたのがようやく報われた。柊先輩も自身の家出の口止めや根回しでいろいろと忙しい中、心葉を何泊か家にかくまってくれた。これまでの張り詰めた空気からも解放され、なんて清々しい気分!
「ははは。心葉、嬉しそうで良かった」
「心葉『さん』、でしょう。ふふふふー」
成田から直行便で10時間。昨夜遅くに日本を発ち早朝ここパースに到着した。
正直、飛行機のシートで寝るのはキツかった。俺は寝不足を感じて目をこすった。東京とパースの時差は1時間。夜通し飛んで着いたら朝なので、時差ボケを感じる暇はない。ほんと、単なる寝不足。きっと、隣の席ですやすや眠る心葉の寝顔を見て夜ふかししたせいだ。
バスを降りた俺たちは、どっちに向かって一歩目を踏み出したものか、4人で四方を眺め足踏みしていた。
「なんか港町なのに、うちらの街とはだいぶ違うね」
「あは。そりゃあそうだろ」
俺と柊先輩はほぼ同時に口元を緩ませた。
パースは川沿いの港街。俺たちが今立っている街の中心部は海から10キロほど内陸にあるが、湖に見えるくらいの太い川に面していた。俺たちの地元と比べると、町並みも人も、どこか洗練されている。思ってたよりも、ずいぶん都会。でも、あまりごちゃごちゃしてなくて、時間がゆっくり流れている感じがする。
「ははは。そうだねー。何倍も都会のはずなのに、どこかのんびりしてる」
「それに、空が青いよ。どこまでも!」
心葉が空を見上げ、うーんと伸びをした。空港を降りてからここまでずっと上機嫌。ふふふーん。俺が鼻歌を真似すると、「ふふふ~ふん」だよなんて笑顔の訂正が入る。違いが分からず、俺は吹き出した。
そしてもう一度、彼女を連れてきてよかった、としみじみ思った。
街やオーストラリアのことは、いろいろ調べてあった。たぶん先輩の用意周到が俺にも感染ったせいだ。
「パースは『世界で住みたい都市ランキング』の常連らしいすよ」
俺は早速、ガイドブック知識を披露する。
パースは西オーストラリア州最大の都市で州都。州人口約250万人の80%が暮らす大きな街だ。オーストラリアといえば、東海岸のシドニーやゴールドコーストが有名だけどパースは西海岸。国内の主要都市からはかなり遠い。最も近い大都市は隣国インドネシアの首都・ジャカルタなんだって。
「へぇえ。柚くん、物知りだね」
心葉が心底感心した様子で目を丸くする。そう言われて悪い気はしない。しつこいようだが、お前、オーストラリア初めてじゃないよな?
「本当に、地球は丸いんだな」
柊先輩は空港に降りてからずっとこの調子だ。
「8月って言えば真冬、ですかね」
「ああ。北半球ならちょうど2月頃か」
「思ってたほど、寒くないっすね」
俺たちは用心して長袖のトレーナーやらセーターやらを持ってきていた。用意周到な先輩は雪山でも大丈夫そうなごっついウインドブレーカーを羽織ってる。
「ふむ。地球はまだまだ分からないことだらけだ」
先輩は胸元のジッパーを下ろしながら笑った。だいぶ暑いらしく、頬が赤い。
パースはケッペンの気候区分での地中海性気候にあたる。あ、これは地学部知識。夏は暑く乾燥し、冬は寒くならない。雨は降るが雪はなし。今日の天気予報も、最高気温18度と言っていた。朝晩は冷えると聞いて、俺も心葉も長袖は着ていた。
「わはははは。こりゃいいな。見てみろよ! あのオジサン、半ズボンだぜ」
「お前もたいがいだろうが」
大はしゃぎのカッシーに先輩の冷たい視線がつき刺さる。真夏の日本を出た時のままの格好だ。タンクトップに短パン。それはさすがに寒いだろ。
へぇっくしっ――。ほれ見たことか、というタイミングで大きなくしゃみをした。
「んああ。いわんこっちゃない」
そう言って先輩は無愛想な顔で上着を脱いだ。中はタートルネックのセーター。そりゃあ暑いでしょ。彼女は顔を真赤にして、今にも湯気が出そう。少しうつむいて、ぐぃっとカッシーの前にウィンドブレーカーを突き出した。
「おっ、サヤちゃん! サンキュー」
ずずっとわざとらしく鼻をすするカッシー。「ありがてえありがてえ」なんていいながら袖を通した。ファスナーを上げて首をすくめ、スーハーと大きく息を吸った。
「あああああーん。サヤちゃんの匂いするぅ。サイコー」
「だああほぅ! 変態かっ! すなっ!」
ローキックを繰り出す柊先輩は、めちゃくちゃ恥ずかしそう。さっきより頬を紅潮させている。
「優しいとこあるよね。ふふふ~」
心葉が笑うと柊先輩は「風邪ひかれたら困るからな」と呟いてそっぽを向いた。
「で、咲也子。今日の予定は?」
「今日は特に予定ない。明日の朝の集合場所の下見くらいかな。後は自由!」
腕時計を見る。朝の10時。まだ、どこでも行けるぞ。
「どっか行きたいところあるか?」
先輩が地図を開きながら全員に尋ねた。
「天気もいいし、海の見える公園とかどう?」
「いいな。じゃあキングス・パークに決まりだ」
心葉のアイディアが即採用。まずは今晩の宿であるユースホステルに荷物を置く。それから、ハンバーガーショップでお昼ごはんの調達。心葉は小さな売店で、得意のおやつも買い込んでいた。
先輩の地図を頼りに935番のバスに乗る。お金を払おうとすると、運転手が「お金は要らない」の仕草。後で調べたら、どうやら市内の「フリー・トランジット・ゾーン」という無料の範囲内らしい。なるほどね。こりゃいいや。
「キングスパークはパース西側の小高い丘にある、総面積404ヘクタールの公園。市民の憩いの場。公園の大半は自然の原生林のまま――だそうですよ、先輩」
「でかいな」
バスに揺られながら俺がガイドブックを読み上げると、柊先輩が興味深そうにのぞき込んできた。ヘクタールで言われても想像できない。東京ディズニーランドの8倍とも。
「余計によく分からないが……」
「ですよね。ははは」
ユースホステルの人の勧めに従って、終点のひとつ手前で降りた。並木道の真ん中のバス停。白い木肌のとても背の高いユーカリの木が並んでいる。その向こうにはキラキラと日光を反射する高層ビル群が見えた。
「ふんふん。なんだか、レモンみたいな香りがするよね?」
心葉が鼻をくんくんさせる。
「ホントだ。なんだろね」
たぶんこのユーカリの匂いなんだろう。ほのかな香りがなんとも爽やかだ。「ほら、これ見て」心葉の肩をたたく。一本の木の根元に「レモンセンスド・ガムツリー」なんて名札が下げられてるのを見つけた。
「なるほどー」
「ふむ。たしかに。興味深いな」
先輩は落ちてる葉を拾い、指でこすってその匂いをかいでいた。
「どれどれぇ」
すかさずカッシーがやってきては、先輩の手に鼻をつけ、くんくんと嗅いだ。
「だぁあほう! 葉だ! 私の手じゃないだろうがっ」
相変わらずだなあ、と俺も心葉も腹を抱えて笑った。
匂いには古い記憶を呼び起こす力があるという。いつかまたレモンの匂いをかいだときに、心葉はこの景色を思い出してくれるんじゃないか――そうだといいな。そんなことを思いながらユーカリの葉を拾って心葉にそっと手渡した。
俺たちは並木道を進んだ。ゆるやかな上り坂になっていて、やがてパースの街を一望できる高台に出た。足元に見える湖みたいなのは、実は川だ。
「黒鳥が多く見られるから、その名もスワン川」
俺がとぼけた声でいうと先輩が肩をすくめた。
「おい。耕太郎みたいなこと言ってふざけるな。マジメにやれ」
「いや、先輩。マジですよ。これ見てくださいっ」
俺は目の前にある案内看板を指でつついた。
「ふむ。確かに、そう書いてあるな」
ほらほら。俺のいいところは嘘つかないとこなんですよ。とはいえ、英語にはあまり自信がなかった。
公園のいたるところは青々とした芝生が生い茂っていて、たくさんの人がくつろいでいた。読書に昼寝、ヨガ教室みたいなのを開いている人たちもいた。俺たちも、とりあえず腹ごしらえ。大きなレジャーシートを広げ、買っておいたハンバーガーを頬張った。先輩が「おにぎりが恋しい」なんてすでにホームシック気味で笑えた。
キングス・パークといえばワイルドフラワー、だそうである。ガイドブック情報。俺たちは公園の中にある植物園に足を運んだ。遠足気分だ。案内板に貼られている「ワイルドフラワー・フェスティバル」のポスターが目に留まる。来月開催か。
「ねぇ、何やってんの? はやくー」
ひとりで立ち止まる俺を心葉が呼んだ。次に来ることがあれば、9月もいいかな。
植物園の入り口によく手入れされた花壇があり、心葉と先輩はひとつひとつ観察していった。どの花も見たこともない個性的な形。すでに、楽しい。その先にはステンレス製の植物を模したオブジェが左右にそびえ立ち、これが入場門代わりのようだ。地面に描かれている赤と緑の花はなんだろう?
「これはカンガルーポーよ」
首を傾げていると、通りがかりの人が教えてくれた。西オーストラリア州の州花なんだって。「確かに、前足みたい」心葉が満足そうにスマホで写真を撮った。
西オーストラリア州はとてつもなく広い。日本のおよそ8倍。だから同じ州でも地域によって植生がまったく違うらしい。バンクシア、カウスリップ、ワトル、ハケア。デザートローズにネイティブ・ハイビスカス。黄色にピンク、白。色とりどりの植物が地域ごとに分けられたエリアを抜けると高木が並ぶ森に出た。
「なんだか、匂いが~」
また心葉が鼻をくんくんさせていたので、俺もスーハーとしてみた。森全体がほんのりとミントみたいな香り。なんとも言えない清涼感。これもユーカリだな。柊先輩とカッシーも立ち止まって深呼吸した。
「んー日本の森とは、全然違いますね」
化石掘りに行ったのを思い出す。あれはあれでよかった。
「そうだな。これもありだな」
まったく同感。珍しく先輩と意見があった。ひと味違うけど、清々しい空気だ。
〈ツリートップ・グラスアーチ・ブリッジ〉という橋に出た。ユーカリの森の高いところを縫うように設置された遊歩道で、その名の通り左右がガラス張り。おかげで高い位置にある葉をよく観察できる。が、ちょっと怖い。一番高いところで、たぶん地面から50メートルくらいはありそうだ。
足をすくませている俺を横目に、心葉は「コアラの気分~」なんて笑顔でポーズをとった。グレーのパーカーがそれっぽくて笑える。そんな、木洩れ陽の下ではしゃぐ彼女が無性に愛おしくて、俺は思わずスマホをかざした。
「あー、ちょっとぉ、お客さん。撮影禁止ですよぉ」
彼女は笑いながら手をブンブンふった。先輩とカッシーもケラケラ笑ってる。
「んだよっ。アイドルかっ」
「ふふふーん。ちゃんと事務所通してくださいね~」
「いや、景色撮るだけだからっ」
ユーカリの向こうにスワン川とパースの町並みが広がっていた。
俺は景色を撮るふりをして、心葉コアラもフレームに収める。かわいい。いひひ――ついつい口元がほころぶ。お宝写真だ。
俺たちはその後もワイワイと散策を続け、心葉のおやつが底を尽きた頃に帰路についた。足は疲れていたけれど、むしろそれが充実感を醸し出していた。スーパーで買ってきたもので簡単に夕飯をすませ、それぞれ部屋に戻った。
俺とカッシーは3階の部屋。同年代くらいの外国人3人組との相部屋だ。片言の英語で「ハメリンプールに行くんだ」なんて伝えたら、楽しんでこいと言われた。生まれて初めてのユースホステルにドキドキしながらも、寝不足もあってすぐに眠りについてしまった。明日も楽しい日になるといいな。そんな浮かれた旅気分は、翌朝早々にぴしゃんと潰されることになった。
ハメリンプールまではパースから北へ800キロ。直接行く公共交通手段はない。先輩が4日間のツアーを申し込んでくれていた――はずだった。しかし、今朝待ち合わせ場所に行ってみるとカーゴトレーラーを引くマイクロバスは来たものの、俺たちの席は無いと言われてしまった。予約できていなかったのだ。
柊先輩が何度かツアーガイド(兼・ドライバー)に掛け合ってみてくれた。しかし、席に余裕がないと突っぱねられる。
「本当にすまない」
「先輩のせいじゃないですよ」
「そうそう。私たち、ぜんぶ咲也子に任せきりだったから」
「サヤちゃん! 誰がやってもなる時はなるんだよ」
「いーや、私の責任だ! 申し訳ない」
先輩は俺たち3人に深々と頭を下げた。
「2人ならこのバスで行けるんだ。心葉、椎名くん。キミたち2人で行け」
「そんなことできませんよ」
当然でしょ。
「なあに、私と耕太郎は次のバスで追いかける」
それが無理なのは俺には分かっていた。次の出発は2日後。4日がかりのツアーに出てしまったら、帰りの飛行機までにパースに戻ってこられない。
「そんな……ここまで来て。先輩、諦めるんですかっ!?」
「仕方ないだろ。自分が蒔いた種だ」
「サヤちゃん……」
カッシーが泣きそうな顔をして柊先輩の肩を叩いた。
「ほら行け。バスが出るぞ」
柊先輩の細腕が、俺と心葉をぎゅうと押した。
「いやです」
カッシーはともかく、まさか先輩を残してハメリンプールには行けないでしょ。
「あっ、じゃあ逆に、先輩とカッシーの2人で行ってくださいよ」
「それはできない。だって私には――来年もある」
先輩がそこで言い淀む。私にはあるけど、心葉にはないかもしれない。そんな先輩の気持ちは痛いほど俺にもよく分かった。
「とにかく、いやです。4人一緒じゃなきゃ、行きません」
「頑固だな。石みたいだ」
先輩が頬をふくらませる。
「望むところです」
俺も負けじと腕組みした。
「咲也子ぉ。何とかして4人で行く方法を考えようよ?」
心葉のポジティブ思考が、こういうときに癒しになる。
「そうそう。サヤちゃん、何か良い方法が絶対あるはずだって!」
その場にいる先輩以外の誰一人として、何も諦めてはいなかった。
「お前ら……」
先輩は「よし」と頷いてツアーガイドに大きく手を振った。すぐにバスはクラクションを鳴らし発車した。これでよかったのかな。俺は少しだけ後悔の念に駆られた。
なんとかパースまで来られた。日本では今頃、親たちが騒いでるかもしれないが、もはや「来たもの勝ち」だ。けれど、ストロマトライトまでもう少しと言うには、オーストラリアの大地はデカすぎた。
「800キロかぁ……どうしますー?」
俺は先輩の顔を見た。
国内便があるにはある。最寄りの空港はジェラルトンという小さな町にあるが、ここでの出費は痛い。捻出できて、なんとか片道分。だいいち、飛んだところでまだハメリンプールまで200キロはある。ハメリンプール行きの路線バスなどない。車が必要だ。
あっ――車か? そうだ!
「先輩、レンタカー」
「そうよ! 咲也子、免許持ってるんでしょ?」
「ああ。持っているには持ってるが……もしもの時のためにな」
国外運転免許証。さすが先輩。ちゃんと準備してあった。こういう用意周到なところは、なんとも彼女らしい。
早速レンタカー屋に向かったが、事はそう簡単には解決しなかった。今度は18歳にはレンタカーは貸せないと断られてしまったのだ。先輩が片言の英語で事情を説明するも、店員は申し訳なさそうな顔で「規則は規則」の一点張り。
俺たちはハメリンプールには行けない――。誰も口にはしなかったけれど、たぶん全員の頭の上にはこの言葉がズシンとのっかっていた。
「どうしますかね……」
「万策尽きたか」先輩が髪をかきあげる。
こうしている間にも、時間だけが過ぎていく。このままパースの周辺観光だけして帰るのか。それも悪くない。そんな風に諦めまじりにトボトボ店を出ようとした時、背中から日本語が聞こえてきた。
「あなたたち――」
その声に、思わず4人同時に振り向いた。これまで日本人には全くと言っていいほど会わなかったので、背中から聞こえた日本語になんだか少し安心した。
「高校生? つーか日本人、だよね?」
「はっ、はいっ! そうですけど……」
女性は20代ぐらい。ボーダーのシャツにジーンズ。旅慣れた格好。少し大きめのリュックに寝袋までついている。これからキャンプにでも行くような装備だ。
「何か困ってる? 見たところ――4人旅?」
彼女は腰に手を当てて、俺たちの頭の天辺からつま先までを眺めた。
「まあ、そのつもりだったんですけど」
怪訝な顔をする先輩に代わって、俺が対応した。
「けど? なんかトラブルでも起こった?」
「実は、ツアーが予約できてなくて。それで、レンタカー借りられればと思ったんですけど。それも無理で……」
「どっか行きたいとこでもあるの?」
「ハメリンプール、です」
「ええええっ!!」
そりゃ、まあ、驚くよな――。
高校生4人がいきなり現れて800キロ先のマニアックな場所に行きたいなんて言い出したんだからさ。
「何それ」
普通知らないっすよね。
「めっちゃ奇遇ジャン! 何!? 奇跡っ? あはははは」
「ええっと……?」
状況がつかめない。
着ているシャツの裾が微妙に短くて、彼女がバンザイをして腕を上げるたびに、へそが見え隠れしていた。
「私も行くんだよぉ! もうちょい先の、モンキーマイアだけど」
「はぁ」
テンションの上がりっぷりに呆気にとられ、俺は何も言えなくなった。
「よかったら、車乗ってく?」
「――いいんですかぁ?」
目を点にした俺を見るに見かねて心葉が入ってくる。なんだか波長が合いそう。
「いやぁ、一緒に行くって言ってた友達に、すっぽかされちゃってね」
彼女は恥ずかしそうに後頭をかきながら、聞いてもいないことを話し始めた。
「話し相手もいなくて困ってたんだ。ね! ぜひ乗ってってよ!」
「本当に、いいんですか?」
先輩が何度も確認した。
「もち! じゃ決まり! 気が変わらないうちに出発しよっ。道はまだ長いよ~」
彼女は、ノゾミと名乗った。年齢、職業、ともに不詳。でも悪い人じゃなさそう。俺たちは彼女の案内に従って、車に向かった。
「泊まるところとか、そういうのはさぁ、なんとでもなるから」
車は8人ぐらい乗れるワンボックスカー。助手席に柊先輩が座り、後の3列シートに俺、心葉、カッシーが並ぶ。日本と同じ、右ハンドルだ。
パースの中心部を抜けて30分もすると、そこはもうオーストラリアの大自然が広がっていた。黄色っぽい大地と緑の低木の景色をスパンと二分するような直線道路。どこまでも高くて青い空。それなりに車通りはあった。
俺たちは一路北を目指した。気候の変化は日本と逆さまだ。北へ行くほど暖かい。
パースから続く海岸線沿いの町はみな地中海性気候。これから向かうハメリンプールはステップ気候。あ、これ地学部知識ね。少し内陸に入ると、もうそこは砂漠だ。
長い動中、俺たちはノゾミさんといろんな話をした。学校のこと、部活のこと、地元の町のこと、などなど。
ノゾミさんもあれこれといろんなことを教えてくれた。
「ノゾミさんはここで何をしてるんですか? 旅行?」先輩が尋ねる。
「ああ、ワーホリ」
「ワーホリ?」
「うん。ワーキングホリデーって言ってね、働きながら旅をするの」
「なるほど」
「前はメルボルンにいたんだ。バイトして、お金貯めて、それでまた移動」
「じゃあほんとは、大学生とかですか?」
俺は後の席から、少し身を乗り出すようにして声をかけた。
「うん。行ってたけど、ちょっと休学中」
ハンドルを握るノゾミさんがバックミラーでこちらをちらっと見た。
「私、生き物が好きで。獣医学部に入ったんだけど……ちょっと事情がありまして……」
ノゾミさんは照れ笑いなんてしながら、ポリポリと頭をかいた。
「動物アレルギーだったんだよね。ナッハハハハハ……」
「なんすかそれっ! わはははっ」とカッシー。
「だよね! 私もそう思うよ」
「前もって、検査とかしてなかったんですか?」
用意周到な先輩らしい質問。
「んー、してなかったな。感情のままに、って感じで。ナハハハ」
明るく笑うノゾミさん。長袖を腕まくりしながら「というわけで、こうしてオーストラリアを旅しながら――」なんて続けた。
「自分探し?」
心葉がつぶやく。
「ナハハ。そうかも!」
「ノゾミさん! めっちゃカッコイイですっ!!」
柊先輩が目を輝かせる。本気で憧れているみたい。聞けばノゾミさんは高校のときは生物部の部長をしていたらしい。理系女子どうし何か通じるところがあるのかもしれない。
黄色と緑の風景に少し飽きてきた頃、海の見える街に立ち寄った。
「お昼ご飯にしようねー」ノゾミさんの掛け声に、真っ先に反応したのは昼寝していたカッシーだ。
「わっははは~、やったぜ! 待ってました! 腹減ってきたとこっす!」
「まずは買い出し! 今晩の食材も調達しなくっちゃ」とノゾミさん。
カッシーはもう尻に敷かれるポジションに。「さぁさ、働いてもらうわよー。ついてきてっ」の声に、嬉しそうな顔でしっぽをふってら。
「楽しそう! 私も行く!」
そう言ってかけてく心葉を追い、俺もスーパーに向かった。
そこは、地元民愛用って感じの小奇麗なスーパーだった。中は結構賑わっている。パンにチーズ、ブルーベリージャム。野菜も買う。トマト、レタス、人参、玉ねぎ、などなど。ノゾミさんに倣ってわりと手当たり次第にカートに詰め込んだ。
飲み物、調味料、キッチン用品など細々したものも調達した。だんだんキャンプっぽくなってきて、俺もカッシーもテンションが上がる。包丁とかコップとかは、ノゾミさんが持ってきてくれていた。
ソーセージと、もちろんオージービーフも忘れずに。うどんとパスタも。こういうのは何かと便利だ。おにぎりが恋しいという柊先輩のために、お米もゲット。梅干しは売ってなかった。キャンプよろしく、飯盒で炊くのか――ちょっと面倒くさいな。
心葉がシリアルの棚で日本未発売のを見つけ、両脇に抱えて持ってきた。こういう子供っぽいところが、いくつになっても続くといいなと思った。
ティムタムというチョコレート菓子もゲットした。ノゾミさんのオススメは「ダブルコート」。チョコクリームをはさんだビスケットが、さらにチョコでコーティングされているらしい。やりすぎだろ。すごく甘そう。
お昼ご飯は海の近くの公園で。みんなでサンドイッチを作って食べた。
「ん~んまいっ!」
ノゾミさんと心葉が同時に同じことを叫んだ。
「本当! 青空の下で食べるお昼ご飯サイコー」
柊先輩もなんだかとっても上機嫌だ。
青い空、白い雲、緑の芝生。ポカポカと暖かな日差し。
芝生の広がる公園には日本で見かけない木が植わっていて、ゆらゆらと木洩れ陽もようができている。
「昼寝でもして行きたいよ~」心葉が言うと、ノゾミさんは明るく笑った。
「ハハハハ。そうだね――でもまだ、うんと距離は残ってるよ」
俺はなだめるように心葉の頭をポンポンしながらノゾミさんに尋ねる。
「今日は、どこまで行くんですか?」
「ジェラルトン」
後部座席を食料でいっぱいにした車が勢いよく走り出した。
初めはウキウキと外を眺めていた俺も、似たような景色が続くと流石に眠気が。調子に乗ってサンドイッチを食べ過ぎたというのもある。
気がつくと、さっきまで騒いでいた心葉が俺の肩ですーすーと寝息を立てていた。幸せな重み。がくんと肩を動かすわけにもいかず、寝ることも出来ず、ただ硬直したまま過ごした。
――まだ、もうすこしだけ、寝てていいよ。
「ふーふふふー。にゃ、もう……食べ……んないよぅ……」
寝言なんて言ってら。
俺は時間なんて止まってしまえばいいと何度も願った。
夕方。日のあるうちにジェラルトンに到着した。
風は少し冷たくなっていた。今晩の宿に向かう前、ある観光スポットに車が止まった。HMASシドニーⅡ・メモリアル・パーク。第二次世界大戦中に命を落とした水兵を讃えて造られた公園らしい。
無数のカモメが彫り込まれたドームが高台に立ち、そこからインド洋とジェラルトンの町並みが見渡せる。海に沈む黄金色の夕陽が眩しい。
「あ、いい感じ! 4人、写真とってあげようか?」
並んで景色を眺めていた俺たちの背中を見て、ノゾミさんが提案した。カッシーがノリノリで柊先輩に肩を寄せると、げしっと膝蹴りが入る。そんなタイミングでシャッターが切られた。
心葉は少しかがんで大きく手を上げ、太陽を持ち上げるポーズ。ノゾミさんが3回くらいアングルを工夫していた。逆光の夕焼けに4人のシルエットが浮かぶ素敵な写真が撮れていた。表情はよく見えなかったけど、金色になった輪郭からみんな口を開けて笑ってるのが分かった。俺は心葉の目の前で「データ送ってください」なんて言うのが憚られて、あとでこっそりもらうことにした。
今夜の宿は、キャンプ場みたいなところだった。ノゾミさんが
「キャラバンパークって言うのよ」
と説明してくれた。オーストラリアではかなり一般的らしい。
利用の仕方もいろいろあるという。
まず、単にテントを張って泊まる「キャンピング・サイト」。これは普通のキャンプ場って感じ。そして電源・水道が使えるサイトにキャンピングカーを停める「パワード・サイト」と駐車のみの「アンパワード・サイト」。日本でいうオートキャンプ場かな。そして、ベッド付きの建物に泊まる「ルーム」だ。
俺たちはこの「ルーム」で利用する。簡素な作りのコテージがあって、中に二段ベッドが用意されている。そこに寝袋を敷いて寝るというわけだ。
「わぁー、案外キレーだね」
「ふむ。山小屋とかより、だいぶいいぞ」
心葉も先輩も満足そうだ。
5人全員で同じ部屋に泊まることが、いまさら判明。心葉はさておき、柊先輩やノゾミさんと同じ部屋っていう時点で、俺には恥ずかしすぎた。目眩を感じる。カッシーは「嬉しすぎる展開!」とはしゃいでいたが……。
部屋には二段ベッドが3台並んでいた。早速、誰がどこを使うか領土争いが勃発した。
「こっちにちょっとでも入ったら、ぶっ飛ばすぞ!」
柊先輩が仕切り用のカーテンを引きながらカッシーに何度も釘を刺す。部屋の中ほどに薄いカーテンが下がっていて、一応、部屋を2つに分けられるようになっていた。
「いいじゃん。どうせ寝るだけだし」
「いーや、信用ならないだろ」
「俺は何もしないってば。わはははっ」
「本当に何もしないやつは、自分から『何もしない』とは言わんっ」
先輩とカッシーの小競り合いは続く。
こぢんまりとした部屋の中にはベッドが並ぶだけ。トイレとかシャワーとかは全部、別の棟の共有部に用意されているらしい。
「ハハハ。まぁまぁ、先輩。俺がしっかり見張っときますから」
そう言って俺はカッシーを一番端の二段ベッドにつれていった。
「お前が上、俺が下な」
「へいへいっ」
カッシーはヘラヘラ笑いながらリュックを床に下ろした。
カーテンをはさんで隣にあるベッドをノゾミさんが、逆の端のを心葉と先輩が使うことになった。これなら真ん中のノゾミさんのベッドが緩衝地帯になって、カッシーが夜中にベッドを抜け出して――なんてことも防げるはずだ。
ベッドのひとつがガタガタするというので、車から工具を持ってきてネジをしめた。「こういうの、男の子いると助かるぅ」とノゾミさんが調子のいいことを言っていた。ま、頼りにされるのは悪い気はしないけど。
もちろん、バーベキュー設備もある。
というわけで、今日の夕飯はバーベキューだ。
「すごい!!」
サイトの真ん中にプレハブ小屋が立っていて、共有の食堂スペースになっていた。バーベキュー用のグリルが何台も用意されていて、自由に使っていいという。こういうところが、なんともオーストラリアらしい。
「ナハハハハ。驚いたぁ?」
ノゾミさんが手際よく肉や野菜を並べていく。
「キャラバンパークはみんなこんな感じよ」
「そういえば公園にもバーベキュー場ありましたよ」
「そうなの。ハハハ。みんなバービーに命かけてるから。どこに行っても施設だけは充実してるの。おかしいでしょう」
ノゾミさんがやけ具合を見計らい、トングでくるくると野菜や肉をひっくり返していった。鍋奉行ならぬ、バーベキュー奉行だ。
「じゃあ、準備も整ったところで乾杯しましょう!」
カッシーが威勢のいい声を上げる。
「ノゾミさんとの素敵な出会いと、これからの旅の成功を願って――」
「「「かんぱーい」」」
俺たちは炭酸ジュースで。ノゾミさんは一人で缶ビールを開けた。
「ぷっはあああ――――――。いやあーうまいっっ」
カッシーがごくごくと喉を鳴らして飲む。缶はまたたく間に垂直に。そんな勢いで炭酸飲んで大丈夫か?
「ははは。お前ほんと小さい時からうまそうに飲むな」
柊先輩もリラックスムード。
今朝はどうなることかと思ったけれど、こうしてなんとかなるもんだ。きっとそんな風に先輩も思っているに違いない。ずっと責任を感じて張り詰めていた緊張の糸が、ようやく解けた感じ。長い髪を一本に結い、皿いっぱいの肉や野菜を幸せそうに頬張ってる。そんな無邪気な彼女の一面が見られて、やっぱり来てよかったなとしみじみ思わされた。
「姫、肉と野菜をお持ちしました」
俺はぐいっと心葉に皿を差し出しながらテーブルについた。
「うむ、くるしゅうない」
「あはははは」
「ふふふ。でも、柚くん。ほんとサンキュー」
彼女は改めて白い歯を見せてニコッと笑った。
「で、誰と誰が付き合ってるわけェ?」
ノゾミさんはソーセージをビールで流し込み、颯爽と言い放った。俺は思わず口に含んでいた炭酸ジュースをブッと吹き出した。
「いやいやいや。そんなんじゃないっすよ!」
「ええー、ありえなーい」
ノゾミさんが俺の脇腹を肘でグリグリと押してくる。この人酔ってる?
「これ地学部の遠征なんですって」
さすがの先輩も全力で是正した。
「あ、そうなの? 卒業旅行とかじゃないの?」
「最初に言ったじゃないすか」
「そうだっけ? ナハハハ」
大きくのけぞって笑っていたノゾミさんは、あるとき急に真剣な顔をした。
「でもさー。部活ったって海外だよ? 余程の理由がないと、誘ったり、ノコノコとついてきたり、しないんじゃないかな」
そう言ってノゾミさんは流し目でゆっくりと俺たちの顔を見た。『誘ったり』のところで俺と先輩の顔を、『ついてきたり』のところで心葉とカッシーの顔を、だ。
――なんか全て見透かされている気がする。
「とっ、とにかく。ただの幼なじみすよ」
「ふふーん。ただのね。はいわかりましたぁ」
めっちゃ含みのある言い方だ。幼気な高校生をあんまりいじめないでほしい。
しかも『ふふーん』のイントネーションが、姉ちゃん気取りでいたずらっぽく笑う心葉とそっくりだ。心臓に悪い。
夕飯のあと表に出て、皆で焚き火を囲む。ノゾミさんの酔い醒ましにと心葉が淹れてくれた紅茶をちびちびすすりながら、満天の星空を見上げた。
漆黒の空に、天の川がくっきりと浮かび上がっていた。見たことないぐらいにきれいだ。先輩から「地学部らしいところ見せろ」とせっつかれるも、知ってる星座がひとつも見当たらない。どういうこと?
――あ、逆さまだから!
「ははは。夏の大三角も、逆立ちしてら」
俺はようやくそのことに気づき、なんだか急に嬉しくなった。
「先輩、見てくださいよ。全部、逆なんですよ」
「ああ。頭では分かってたけど、見てみるとなかなかだな」
わし座、こと座、はくちょう座。天の川に沿って星座をたどると、みんな逆さま。いや、俺たちが逆さまなんだ。
「ふふふーん。地球は丸いんだね」
心葉は丸太のベンチに寝そべって、空を見上げていた。いい方法だ、と思った。
「ねぇねぇ、柚くん。見てごらん」
自分が逆さまに地球に乗ってるから、星座が逆に見える。そう考えるとすべてが腑に落ちた。心葉に倣って寝転んで、俺は思わず「わぁ」と大声を上げた。
「なんだこりゃ! すごいぞ!」
「なんだ? どうした?」
先輩もカッシーも空を見上げた。
そもそも俺たちは地球の上に乗っているんじゃないのかもしれない。背中にピタリくっつく地球に、俺たちは必死にしがみついてる。そんな感じ。
「星空に、落ちていきそうで怖いね」
心葉はちらっと俺の方を見て、すぐに空に視線を戻した。手ぐらい握ってもいいのかな。なんてね。そんなことを思いながら、澄んだ夜空に小さなため息をついた。
夜も更けて、車の運転疲れか「火の後始末だけは、よろしく~」とノゾミさんが部屋に戻った。先輩も「脳に悪い」と夜ふかしはしないタチらしい。心葉も「おやすみ」と彼女に続いた。カッシーはデッキチェアでグーグーいびきをかいている。
俺は「もう一杯飲んでから」と酔っぱらい親父みたいなことを言って残った。少し甘めのミルクティーを淹れ、ぱちぱちとくすぶる火を見つめて過ごした。
夜も更けて、さそり座のアンタレスが西の空に沈もうかという頃に、心葉が「さむさむ」と腕を抱いて現れた。
「だいぶ冷えるね」
「おっ? どうした?」
俺は焚き火の後始末の手を止めた。
「柚くんと、二人で話がしたくて――みんな寝るの待ってた」
「そっか」
「――嘘だよ。ふふふーん」
真剣なのか、ふざけてるのか。よくわからん。
俺が動じなかったのが、少し不満だったのかな。
「それで……どうしたの? 怖い夢でも見た?」
ブランケットを手渡すと、心葉は俺の隣にちょこんと座った。
7センチくらいの間をあけて。近くも遠くもないところに。
「眠るのが、もったいなくて」
ぱちぱちと最後の火を眺めながら心葉がつぶやいた。
「そっか。なんとなく、わかる」
「へへへ」
マグカップを渡すと心葉は両手で受け取って、そのまま目を閉じて静かにすすった。
「ミルクティー、好きだったよね? 今も、好き?」
俺もひとくち飲んだ。
「うん。好き」
「こういうのは、ちゃんと覚えてるんだね」
「確かに。言われてみると、そうだね」
「ねえ心葉。あのさ……」
「なになに? そんなにかしこまって、何が始まるの?」
興味津々の顔。少し上目遣いの目に、俺の情けない顔が映っていた。
「あ、わかった! 恋の悩みだ」
ふふふと笑った。
お姉さんぶりやがって――。もしかして俺にカマかけてる?
「――まあ、そんなとこ、かな」
「そっか。よーし、じゃあ聞かせてごらん」
彼女はオレンジジュースをこくこくと飲み干した。ずいぶん美味しそうに飲むね。コトリと置かれたコップが汗をかいていた。
「心葉、彼氏いたんだよね?」
心葉はマグカップを丸太のテーブルに置くと、椅子の上で膝を抱えながら伏し目がちにはにかんだ。
「そうなの? ごめん、よく覚えてない」
「2年くらい前。高校に上がって最初の夏休みの頃、そんなこと言ってた」
「そっか。ショックだった?」
「ちょっと、ね」
正確には、かなり。
「ふふふー。なんで?」
俺が口ごもると心葉はニンマリと笑って顔を寄せてきた。俺は「そっ……そりゃあさぁ」なんて言って目をそらさざるをえなくなる。
「ヤキモチか。ふふっふ~ん」
「ちげぇよ」
心葉は「そーか、そーか」と分かったふうな顔。少しムカッとした俺は、思い切ってこんなことを尋ねてみた。
「どこまでシた?」
「ええっ。フツー、そういうの女のコに聞くかぁ」
眉をひそめる心葉。
「いいじゃん。幼なじみのよしみで教えてよ」
心葉がゆっくりとこっちを振り向いた。顔が近いっ。彼女の熱を感じる距離にどぎまぎしていると――ぺちっ。デコピンが飛ぶ。
「こんなときだけ都合いいなァ。もうっ」
「ハハ。じょうだ、」
「手つないだり、一緒に出かけたり。き、キスしたくらいじゃない? たぶん」
冗談だと伝えようとした俺の言葉を遮って、彼女は早口で始めた。
「よく覚えてない、って言ったでしょう。きっとさ、かるーくだよ。私も彼も初めてどうしで、とか。ほんと、想像。よく、わかんないけど。旅先の雰囲気で、みたいな」
「旅行? すげーな」
「あ、いや、だから例えだってば。そういうのあるでしょ? でも私のことだからさ、なんていうか、きっと、恋に恋してただけ」
心葉はしどろもどろになりながらも一息で言い切ったあと、頬を紅潮させながら深く息を吸った。「だろう」とか「たぶん」ばかりで、なんだかお茶を濁されてしまった感じもする。記憶が曖昧なのか、本当は覚えてるけどはぐらかしているのか、微妙に分からない。
「さ、明日も早いよ。もう寝よう」
心葉が立ち去ったあと、昔のことを少しだけ思い出しながら残り火を見つめてから部屋に戻った。ハメリンプールまで、まだあと400キロくらいはある。
明日も先へ進めるといいな。
バスを降りた瞬間の心葉の嬉しそうなその一言で、来てよかったなと思った。
バイト代の前借りに心葉の荷物、杏との口裏合わせにアリバイ作り。これまで頑張って準備してきたのがようやく報われた。柊先輩も自身の家出の口止めや根回しでいろいろと忙しい中、心葉を何泊か家にかくまってくれた。これまでの張り詰めた空気からも解放され、なんて清々しい気分!
「ははは。心葉、嬉しそうで良かった」
「心葉『さん』、でしょう。ふふふふー」
成田から直行便で10時間。昨夜遅くに日本を発ち早朝ここパースに到着した。
正直、飛行機のシートで寝るのはキツかった。俺は寝不足を感じて目をこすった。東京とパースの時差は1時間。夜通し飛んで着いたら朝なので、時差ボケを感じる暇はない。ほんと、単なる寝不足。きっと、隣の席ですやすや眠る心葉の寝顔を見て夜ふかししたせいだ。
バスを降りた俺たちは、どっちに向かって一歩目を踏み出したものか、4人で四方を眺め足踏みしていた。
「なんか港町なのに、うちらの街とはだいぶ違うね」
「あは。そりゃあそうだろ」
俺と柊先輩はほぼ同時に口元を緩ませた。
パースは川沿いの港街。俺たちが今立っている街の中心部は海から10キロほど内陸にあるが、湖に見えるくらいの太い川に面していた。俺たちの地元と比べると、町並みも人も、どこか洗練されている。思ってたよりも、ずいぶん都会。でも、あまりごちゃごちゃしてなくて、時間がゆっくり流れている感じがする。
「ははは。そうだねー。何倍も都会のはずなのに、どこかのんびりしてる」
「それに、空が青いよ。どこまでも!」
心葉が空を見上げ、うーんと伸びをした。空港を降りてからここまでずっと上機嫌。ふふふーん。俺が鼻歌を真似すると、「ふふふ~ふん」だよなんて笑顔の訂正が入る。違いが分からず、俺は吹き出した。
そしてもう一度、彼女を連れてきてよかった、としみじみ思った。
街やオーストラリアのことは、いろいろ調べてあった。たぶん先輩の用意周到が俺にも感染ったせいだ。
「パースは『世界で住みたい都市ランキング』の常連らしいすよ」
俺は早速、ガイドブック知識を披露する。
パースは西オーストラリア州最大の都市で州都。州人口約250万人の80%が暮らす大きな街だ。オーストラリアといえば、東海岸のシドニーやゴールドコーストが有名だけどパースは西海岸。国内の主要都市からはかなり遠い。最も近い大都市は隣国インドネシアの首都・ジャカルタなんだって。
「へぇえ。柚くん、物知りだね」
心葉が心底感心した様子で目を丸くする。そう言われて悪い気はしない。しつこいようだが、お前、オーストラリア初めてじゃないよな?
「本当に、地球は丸いんだな」
柊先輩は空港に降りてからずっとこの調子だ。
「8月って言えば真冬、ですかね」
「ああ。北半球ならちょうど2月頃か」
「思ってたほど、寒くないっすね」
俺たちは用心して長袖のトレーナーやらセーターやらを持ってきていた。用意周到な先輩は雪山でも大丈夫そうなごっついウインドブレーカーを羽織ってる。
「ふむ。地球はまだまだ分からないことだらけだ」
先輩は胸元のジッパーを下ろしながら笑った。だいぶ暑いらしく、頬が赤い。
パースはケッペンの気候区分での地中海性気候にあたる。あ、これは地学部知識。夏は暑く乾燥し、冬は寒くならない。雨は降るが雪はなし。今日の天気予報も、最高気温18度と言っていた。朝晩は冷えると聞いて、俺も心葉も長袖は着ていた。
「わはははは。こりゃいいな。見てみろよ! あのオジサン、半ズボンだぜ」
「お前もたいがいだろうが」
大はしゃぎのカッシーに先輩の冷たい視線がつき刺さる。真夏の日本を出た時のままの格好だ。タンクトップに短パン。それはさすがに寒いだろ。
へぇっくしっ――。ほれ見たことか、というタイミングで大きなくしゃみをした。
「んああ。いわんこっちゃない」
そう言って先輩は無愛想な顔で上着を脱いだ。中はタートルネックのセーター。そりゃあ暑いでしょ。彼女は顔を真赤にして、今にも湯気が出そう。少しうつむいて、ぐぃっとカッシーの前にウィンドブレーカーを突き出した。
「おっ、サヤちゃん! サンキュー」
ずずっとわざとらしく鼻をすするカッシー。「ありがてえありがてえ」なんていいながら袖を通した。ファスナーを上げて首をすくめ、スーハーと大きく息を吸った。
「あああああーん。サヤちゃんの匂いするぅ。サイコー」
「だああほぅ! 変態かっ! すなっ!」
ローキックを繰り出す柊先輩は、めちゃくちゃ恥ずかしそう。さっきより頬を紅潮させている。
「優しいとこあるよね。ふふふ~」
心葉が笑うと柊先輩は「風邪ひかれたら困るからな」と呟いてそっぽを向いた。
「で、咲也子。今日の予定は?」
「今日は特に予定ない。明日の朝の集合場所の下見くらいかな。後は自由!」
腕時計を見る。朝の10時。まだ、どこでも行けるぞ。
「どっか行きたいところあるか?」
先輩が地図を開きながら全員に尋ねた。
「天気もいいし、海の見える公園とかどう?」
「いいな。じゃあキングス・パークに決まりだ」
心葉のアイディアが即採用。まずは今晩の宿であるユースホステルに荷物を置く。それから、ハンバーガーショップでお昼ごはんの調達。心葉は小さな売店で、得意のおやつも買い込んでいた。
先輩の地図を頼りに935番のバスに乗る。お金を払おうとすると、運転手が「お金は要らない」の仕草。後で調べたら、どうやら市内の「フリー・トランジット・ゾーン」という無料の範囲内らしい。なるほどね。こりゃいいや。
「キングスパークはパース西側の小高い丘にある、総面積404ヘクタールの公園。市民の憩いの場。公園の大半は自然の原生林のまま――だそうですよ、先輩」
「でかいな」
バスに揺られながら俺がガイドブックを読み上げると、柊先輩が興味深そうにのぞき込んできた。ヘクタールで言われても想像できない。東京ディズニーランドの8倍とも。
「余計によく分からないが……」
「ですよね。ははは」
ユースホステルの人の勧めに従って、終点のひとつ手前で降りた。並木道の真ん中のバス停。白い木肌のとても背の高いユーカリの木が並んでいる。その向こうにはキラキラと日光を反射する高層ビル群が見えた。
「ふんふん。なんだか、レモンみたいな香りがするよね?」
心葉が鼻をくんくんさせる。
「ホントだ。なんだろね」
たぶんこのユーカリの匂いなんだろう。ほのかな香りがなんとも爽やかだ。「ほら、これ見て」心葉の肩をたたく。一本の木の根元に「レモンセンスド・ガムツリー」なんて名札が下げられてるのを見つけた。
「なるほどー」
「ふむ。たしかに。興味深いな」
先輩は落ちてる葉を拾い、指でこすってその匂いをかいでいた。
「どれどれぇ」
すかさずカッシーがやってきては、先輩の手に鼻をつけ、くんくんと嗅いだ。
「だぁあほう! 葉だ! 私の手じゃないだろうがっ」
相変わらずだなあ、と俺も心葉も腹を抱えて笑った。
匂いには古い記憶を呼び起こす力があるという。いつかまたレモンの匂いをかいだときに、心葉はこの景色を思い出してくれるんじゃないか――そうだといいな。そんなことを思いながらユーカリの葉を拾って心葉にそっと手渡した。
俺たちは並木道を進んだ。ゆるやかな上り坂になっていて、やがてパースの街を一望できる高台に出た。足元に見える湖みたいなのは、実は川だ。
「黒鳥が多く見られるから、その名もスワン川」
俺がとぼけた声でいうと先輩が肩をすくめた。
「おい。耕太郎みたいなこと言ってふざけるな。マジメにやれ」
「いや、先輩。マジですよ。これ見てくださいっ」
俺は目の前にある案内看板を指でつついた。
「ふむ。確かに、そう書いてあるな」
ほらほら。俺のいいところは嘘つかないとこなんですよ。とはいえ、英語にはあまり自信がなかった。
公園のいたるところは青々とした芝生が生い茂っていて、たくさんの人がくつろいでいた。読書に昼寝、ヨガ教室みたいなのを開いている人たちもいた。俺たちも、とりあえず腹ごしらえ。大きなレジャーシートを広げ、買っておいたハンバーガーを頬張った。先輩が「おにぎりが恋しい」なんてすでにホームシック気味で笑えた。
キングス・パークといえばワイルドフラワー、だそうである。ガイドブック情報。俺たちは公園の中にある植物園に足を運んだ。遠足気分だ。案内板に貼られている「ワイルドフラワー・フェスティバル」のポスターが目に留まる。来月開催か。
「ねぇ、何やってんの? はやくー」
ひとりで立ち止まる俺を心葉が呼んだ。次に来ることがあれば、9月もいいかな。
植物園の入り口によく手入れされた花壇があり、心葉と先輩はひとつひとつ観察していった。どの花も見たこともない個性的な形。すでに、楽しい。その先にはステンレス製の植物を模したオブジェが左右にそびえ立ち、これが入場門代わりのようだ。地面に描かれている赤と緑の花はなんだろう?
「これはカンガルーポーよ」
首を傾げていると、通りがかりの人が教えてくれた。西オーストラリア州の州花なんだって。「確かに、前足みたい」心葉が満足そうにスマホで写真を撮った。
西オーストラリア州はとてつもなく広い。日本のおよそ8倍。だから同じ州でも地域によって植生がまったく違うらしい。バンクシア、カウスリップ、ワトル、ハケア。デザートローズにネイティブ・ハイビスカス。黄色にピンク、白。色とりどりの植物が地域ごとに分けられたエリアを抜けると高木が並ぶ森に出た。
「なんだか、匂いが~」
また心葉が鼻をくんくんさせていたので、俺もスーハーとしてみた。森全体がほんのりとミントみたいな香り。なんとも言えない清涼感。これもユーカリだな。柊先輩とカッシーも立ち止まって深呼吸した。
「んー日本の森とは、全然違いますね」
化石掘りに行ったのを思い出す。あれはあれでよかった。
「そうだな。これもありだな」
まったく同感。珍しく先輩と意見があった。ひと味違うけど、清々しい空気だ。
〈ツリートップ・グラスアーチ・ブリッジ〉という橋に出た。ユーカリの森の高いところを縫うように設置された遊歩道で、その名の通り左右がガラス張り。おかげで高い位置にある葉をよく観察できる。が、ちょっと怖い。一番高いところで、たぶん地面から50メートルくらいはありそうだ。
足をすくませている俺を横目に、心葉は「コアラの気分~」なんて笑顔でポーズをとった。グレーのパーカーがそれっぽくて笑える。そんな、木洩れ陽の下ではしゃぐ彼女が無性に愛おしくて、俺は思わずスマホをかざした。
「あー、ちょっとぉ、お客さん。撮影禁止ですよぉ」
彼女は笑いながら手をブンブンふった。先輩とカッシーもケラケラ笑ってる。
「んだよっ。アイドルかっ」
「ふふふーん。ちゃんと事務所通してくださいね~」
「いや、景色撮るだけだからっ」
ユーカリの向こうにスワン川とパースの町並みが広がっていた。
俺は景色を撮るふりをして、心葉コアラもフレームに収める。かわいい。いひひ――ついつい口元がほころぶ。お宝写真だ。
俺たちはその後もワイワイと散策を続け、心葉のおやつが底を尽きた頃に帰路についた。足は疲れていたけれど、むしろそれが充実感を醸し出していた。スーパーで買ってきたもので簡単に夕飯をすませ、それぞれ部屋に戻った。
俺とカッシーは3階の部屋。同年代くらいの外国人3人組との相部屋だ。片言の英語で「ハメリンプールに行くんだ」なんて伝えたら、楽しんでこいと言われた。生まれて初めてのユースホステルにドキドキしながらも、寝不足もあってすぐに眠りについてしまった。明日も楽しい日になるといいな。そんな浮かれた旅気分は、翌朝早々にぴしゃんと潰されることになった。
ハメリンプールまではパースから北へ800キロ。直接行く公共交通手段はない。先輩が4日間のツアーを申し込んでくれていた――はずだった。しかし、今朝待ち合わせ場所に行ってみるとカーゴトレーラーを引くマイクロバスは来たものの、俺たちの席は無いと言われてしまった。予約できていなかったのだ。
柊先輩が何度かツアーガイド(兼・ドライバー)に掛け合ってみてくれた。しかし、席に余裕がないと突っぱねられる。
「本当にすまない」
「先輩のせいじゃないですよ」
「そうそう。私たち、ぜんぶ咲也子に任せきりだったから」
「サヤちゃん! 誰がやってもなる時はなるんだよ」
「いーや、私の責任だ! 申し訳ない」
先輩は俺たち3人に深々と頭を下げた。
「2人ならこのバスで行けるんだ。心葉、椎名くん。キミたち2人で行け」
「そんなことできませんよ」
当然でしょ。
「なあに、私と耕太郎は次のバスで追いかける」
それが無理なのは俺には分かっていた。次の出発は2日後。4日がかりのツアーに出てしまったら、帰りの飛行機までにパースに戻ってこられない。
「そんな……ここまで来て。先輩、諦めるんですかっ!?」
「仕方ないだろ。自分が蒔いた種だ」
「サヤちゃん……」
カッシーが泣きそうな顔をして柊先輩の肩を叩いた。
「ほら行け。バスが出るぞ」
柊先輩の細腕が、俺と心葉をぎゅうと押した。
「いやです」
カッシーはともかく、まさか先輩を残してハメリンプールには行けないでしょ。
「あっ、じゃあ逆に、先輩とカッシーの2人で行ってくださいよ」
「それはできない。だって私には――来年もある」
先輩がそこで言い淀む。私にはあるけど、心葉にはないかもしれない。そんな先輩の気持ちは痛いほど俺にもよく分かった。
「とにかく、いやです。4人一緒じゃなきゃ、行きません」
「頑固だな。石みたいだ」
先輩が頬をふくらませる。
「望むところです」
俺も負けじと腕組みした。
「咲也子ぉ。何とかして4人で行く方法を考えようよ?」
心葉のポジティブ思考が、こういうときに癒しになる。
「そうそう。サヤちゃん、何か良い方法が絶対あるはずだって!」
その場にいる先輩以外の誰一人として、何も諦めてはいなかった。
「お前ら……」
先輩は「よし」と頷いてツアーガイドに大きく手を振った。すぐにバスはクラクションを鳴らし発車した。これでよかったのかな。俺は少しだけ後悔の念に駆られた。
なんとかパースまで来られた。日本では今頃、親たちが騒いでるかもしれないが、もはや「来たもの勝ち」だ。けれど、ストロマトライトまでもう少しと言うには、オーストラリアの大地はデカすぎた。
「800キロかぁ……どうしますー?」
俺は先輩の顔を見た。
国内便があるにはある。最寄りの空港はジェラルトンという小さな町にあるが、ここでの出費は痛い。捻出できて、なんとか片道分。だいいち、飛んだところでまだハメリンプールまで200キロはある。ハメリンプール行きの路線バスなどない。車が必要だ。
あっ――車か? そうだ!
「先輩、レンタカー」
「そうよ! 咲也子、免許持ってるんでしょ?」
「ああ。持っているには持ってるが……もしもの時のためにな」
国外運転免許証。さすが先輩。ちゃんと準備してあった。こういう用意周到なところは、なんとも彼女らしい。
早速レンタカー屋に向かったが、事はそう簡単には解決しなかった。今度は18歳にはレンタカーは貸せないと断られてしまったのだ。先輩が片言の英語で事情を説明するも、店員は申し訳なさそうな顔で「規則は規則」の一点張り。
俺たちはハメリンプールには行けない――。誰も口にはしなかったけれど、たぶん全員の頭の上にはこの言葉がズシンとのっかっていた。
「どうしますかね……」
「万策尽きたか」先輩が髪をかきあげる。
こうしている間にも、時間だけが過ぎていく。このままパースの周辺観光だけして帰るのか。それも悪くない。そんな風に諦めまじりにトボトボ店を出ようとした時、背中から日本語が聞こえてきた。
「あなたたち――」
その声に、思わず4人同時に振り向いた。これまで日本人には全くと言っていいほど会わなかったので、背中から聞こえた日本語になんだか少し安心した。
「高校生? つーか日本人、だよね?」
「はっ、はいっ! そうですけど……」
女性は20代ぐらい。ボーダーのシャツにジーンズ。旅慣れた格好。少し大きめのリュックに寝袋までついている。これからキャンプにでも行くような装備だ。
「何か困ってる? 見たところ――4人旅?」
彼女は腰に手を当てて、俺たちの頭の天辺からつま先までを眺めた。
「まあ、そのつもりだったんですけど」
怪訝な顔をする先輩に代わって、俺が対応した。
「けど? なんかトラブルでも起こった?」
「実は、ツアーが予約できてなくて。それで、レンタカー借りられればと思ったんですけど。それも無理で……」
「どっか行きたいとこでもあるの?」
「ハメリンプール、です」
「ええええっ!!」
そりゃ、まあ、驚くよな――。
高校生4人がいきなり現れて800キロ先のマニアックな場所に行きたいなんて言い出したんだからさ。
「何それ」
普通知らないっすよね。
「めっちゃ奇遇ジャン! 何!? 奇跡っ? あはははは」
「ええっと……?」
状況がつかめない。
着ているシャツの裾が微妙に短くて、彼女がバンザイをして腕を上げるたびに、へそが見え隠れしていた。
「私も行くんだよぉ! もうちょい先の、モンキーマイアだけど」
「はぁ」
テンションの上がりっぷりに呆気にとられ、俺は何も言えなくなった。
「よかったら、車乗ってく?」
「――いいんですかぁ?」
目を点にした俺を見るに見かねて心葉が入ってくる。なんだか波長が合いそう。
「いやぁ、一緒に行くって言ってた友達に、すっぽかされちゃってね」
彼女は恥ずかしそうに後頭をかきながら、聞いてもいないことを話し始めた。
「話し相手もいなくて困ってたんだ。ね! ぜひ乗ってってよ!」
「本当に、いいんですか?」
先輩が何度も確認した。
「もち! じゃ決まり! 気が変わらないうちに出発しよっ。道はまだ長いよ~」
彼女は、ノゾミと名乗った。年齢、職業、ともに不詳。でも悪い人じゃなさそう。俺たちは彼女の案内に従って、車に向かった。
「泊まるところとか、そういうのはさぁ、なんとでもなるから」
車は8人ぐらい乗れるワンボックスカー。助手席に柊先輩が座り、後の3列シートに俺、心葉、カッシーが並ぶ。日本と同じ、右ハンドルだ。
パースの中心部を抜けて30分もすると、そこはもうオーストラリアの大自然が広がっていた。黄色っぽい大地と緑の低木の景色をスパンと二分するような直線道路。どこまでも高くて青い空。それなりに車通りはあった。
俺たちは一路北を目指した。気候の変化は日本と逆さまだ。北へ行くほど暖かい。
パースから続く海岸線沿いの町はみな地中海性気候。これから向かうハメリンプールはステップ気候。あ、これ地学部知識ね。少し内陸に入ると、もうそこは砂漠だ。
長い動中、俺たちはノゾミさんといろんな話をした。学校のこと、部活のこと、地元の町のこと、などなど。
ノゾミさんもあれこれといろんなことを教えてくれた。
「ノゾミさんはここで何をしてるんですか? 旅行?」先輩が尋ねる。
「ああ、ワーホリ」
「ワーホリ?」
「うん。ワーキングホリデーって言ってね、働きながら旅をするの」
「なるほど」
「前はメルボルンにいたんだ。バイトして、お金貯めて、それでまた移動」
「じゃあほんとは、大学生とかですか?」
俺は後の席から、少し身を乗り出すようにして声をかけた。
「うん。行ってたけど、ちょっと休学中」
ハンドルを握るノゾミさんがバックミラーでこちらをちらっと見た。
「私、生き物が好きで。獣医学部に入ったんだけど……ちょっと事情がありまして……」
ノゾミさんは照れ笑いなんてしながら、ポリポリと頭をかいた。
「動物アレルギーだったんだよね。ナッハハハハハ……」
「なんすかそれっ! わはははっ」とカッシー。
「だよね! 私もそう思うよ」
「前もって、検査とかしてなかったんですか?」
用意周到な先輩らしい質問。
「んー、してなかったな。感情のままに、って感じで。ナハハハ」
明るく笑うノゾミさん。長袖を腕まくりしながら「というわけで、こうしてオーストラリアを旅しながら――」なんて続けた。
「自分探し?」
心葉がつぶやく。
「ナハハ。そうかも!」
「ノゾミさん! めっちゃカッコイイですっ!!」
柊先輩が目を輝かせる。本気で憧れているみたい。聞けばノゾミさんは高校のときは生物部の部長をしていたらしい。理系女子どうし何か通じるところがあるのかもしれない。
黄色と緑の風景に少し飽きてきた頃、海の見える街に立ち寄った。
「お昼ご飯にしようねー」ノゾミさんの掛け声に、真っ先に反応したのは昼寝していたカッシーだ。
「わっははは~、やったぜ! 待ってました! 腹減ってきたとこっす!」
「まずは買い出し! 今晩の食材も調達しなくっちゃ」とノゾミさん。
カッシーはもう尻に敷かれるポジションに。「さぁさ、働いてもらうわよー。ついてきてっ」の声に、嬉しそうな顔でしっぽをふってら。
「楽しそう! 私も行く!」
そう言ってかけてく心葉を追い、俺もスーパーに向かった。
そこは、地元民愛用って感じの小奇麗なスーパーだった。中は結構賑わっている。パンにチーズ、ブルーベリージャム。野菜も買う。トマト、レタス、人参、玉ねぎ、などなど。ノゾミさんに倣ってわりと手当たり次第にカートに詰め込んだ。
飲み物、調味料、キッチン用品など細々したものも調達した。だんだんキャンプっぽくなってきて、俺もカッシーもテンションが上がる。包丁とかコップとかは、ノゾミさんが持ってきてくれていた。
ソーセージと、もちろんオージービーフも忘れずに。うどんとパスタも。こういうのは何かと便利だ。おにぎりが恋しいという柊先輩のために、お米もゲット。梅干しは売ってなかった。キャンプよろしく、飯盒で炊くのか――ちょっと面倒くさいな。
心葉がシリアルの棚で日本未発売のを見つけ、両脇に抱えて持ってきた。こういう子供っぽいところが、いくつになっても続くといいなと思った。
ティムタムというチョコレート菓子もゲットした。ノゾミさんのオススメは「ダブルコート」。チョコクリームをはさんだビスケットが、さらにチョコでコーティングされているらしい。やりすぎだろ。すごく甘そう。
お昼ご飯は海の近くの公園で。みんなでサンドイッチを作って食べた。
「ん~んまいっ!」
ノゾミさんと心葉が同時に同じことを叫んだ。
「本当! 青空の下で食べるお昼ご飯サイコー」
柊先輩もなんだかとっても上機嫌だ。
青い空、白い雲、緑の芝生。ポカポカと暖かな日差し。
芝生の広がる公園には日本で見かけない木が植わっていて、ゆらゆらと木洩れ陽もようができている。
「昼寝でもして行きたいよ~」心葉が言うと、ノゾミさんは明るく笑った。
「ハハハハ。そうだね――でもまだ、うんと距離は残ってるよ」
俺はなだめるように心葉の頭をポンポンしながらノゾミさんに尋ねる。
「今日は、どこまで行くんですか?」
「ジェラルトン」
後部座席を食料でいっぱいにした車が勢いよく走り出した。
初めはウキウキと外を眺めていた俺も、似たような景色が続くと流石に眠気が。調子に乗ってサンドイッチを食べ過ぎたというのもある。
気がつくと、さっきまで騒いでいた心葉が俺の肩ですーすーと寝息を立てていた。幸せな重み。がくんと肩を動かすわけにもいかず、寝ることも出来ず、ただ硬直したまま過ごした。
――まだ、もうすこしだけ、寝てていいよ。
「ふーふふふー。にゃ、もう……食べ……んないよぅ……」
寝言なんて言ってら。
俺は時間なんて止まってしまえばいいと何度も願った。
夕方。日のあるうちにジェラルトンに到着した。
風は少し冷たくなっていた。今晩の宿に向かう前、ある観光スポットに車が止まった。HMASシドニーⅡ・メモリアル・パーク。第二次世界大戦中に命を落とした水兵を讃えて造られた公園らしい。
無数のカモメが彫り込まれたドームが高台に立ち、そこからインド洋とジェラルトンの町並みが見渡せる。海に沈む黄金色の夕陽が眩しい。
「あ、いい感じ! 4人、写真とってあげようか?」
並んで景色を眺めていた俺たちの背中を見て、ノゾミさんが提案した。カッシーがノリノリで柊先輩に肩を寄せると、げしっと膝蹴りが入る。そんなタイミングでシャッターが切られた。
心葉は少しかがんで大きく手を上げ、太陽を持ち上げるポーズ。ノゾミさんが3回くらいアングルを工夫していた。逆光の夕焼けに4人のシルエットが浮かぶ素敵な写真が撮れていた。表情はよく見えなかったけど、金色になった輪郭からみんな口を開けて笑ってるのが分かった。俺は心葉の目の前で「データ送ってください」なんて言うのが憚られて、あとでこっそりもらうことにした。
今夜の宿は、キャンプ場みたいなところだった。ノゾミさんが
「キャラバンパークって言うのよ」
と説明してくれた。オーストラリアではかなり一般的らしい。
利用の仕方もいろいろあるという。
まず、単にテントを張って泊まる「キャンピング・サイト」。これは普通のキャンプ場って感じ。そして電源・水道が使えるサイトにキャンピングカーを停める「パワード・サイト」と駐車のみの「アンパワード・サイト」。日本でいうオートキャンプ場かな。そして、ベッド付きの建物に泊まる「ルーム」だ。
俺たちはこの「ルーム」で利用する。簡素な作りのコテージがあって、中に二段ベッドが用意されている。そこに寝袋を敷いて寝るというわけだ。
「わぁー、案外キレーだね」
「ふむ。山小屋とかより、だいぶいいぞ」
心葉も先輩も満足そうだ。
5人全員で同じ部屋に泊まることが、いまさら判明。心葉はさておき、柊先輩やノゾミさんと同じ部屋っていう時点で、俺には恥ずかしすぎた。目眩を感じる。カッシーは「嬉しすぎる展開!」とはしゃいでいたが……。
部屋には二段ベッドが3台並んでいた。早速、誰がどこを使うか領土争いが勃発した。
「こっちにちょっとでも入ったら、ぶっ飛ばすぞ!」
柊先輩が仕切り用のカーテンを引きながらカッシーに何度も釘を刺す。部屋の中ほどに薄いカーテンが下がっていて、一応、部屋を2つに分けられるようになっていた。
「いいじゃん。どうせ寝るだけだし」
「いーや、信用ならないだろ」
「俺は何もしないってば。わはははっ」
「本当に何もしないやつは、自分から『何もしない』とは言わんっ」
先輩とカッシーの小競り合いは続く。
こぢんまりとした部屋の中にはベッドが並ぶだけ。トイレとかシャワーとかは全部、別の棟の共有部に用意されているらしい。
「ハハハ。まぁまぁ、先輩。俺がしっかり見張っときますから」
そう言って俺はカッシーを一番端の二段ベッドにつれていった。
「お前が上、俺が下な」
「へいへいっ」
カッシーはヘラヘラ笑いながらリュックを床に下ろした。
カーテンをはさんで隣にあるベッドをノゾミさんが、逆の端のを心葉と先輩が使うことになった。これなら真ん中のノゾミさんのベッドが緩衝地帯になって、カッシーが夜中にベッドを抜け出して――なんてことも防げるはずだ。
ベッドのひとつがガタガタするというので、車から工具を持ってきてネジをしめた。「こういうの、男の子いると助かるぅ」とノゾミさんが調子のいいことを言っていた。ま、頼りにされるのは悪い気はしないけど。
もちろん、バーベキュー設備もある。
というわけで、今日の夕飯はバーベキューだ。
「すごい!!」
サイトの真ん中にプレハブ小屋が立っていて、共有の食堂スペースになっていた。バーベキュー用のグリルが何台も用意されていて、自由に使っていいという。こういうところが、なんともオーストラリアらしい。
「ナハハハハ。驚いたぁ?」
ノゾミさんが手際よく肉や野菜を並べていく。
「キャラバンパークはみんなこんな感じよ」
「そういえば公園にもバーベキュー場ありましたよ」
「そうなの。ハハハ。みんなバービーに命かけてるから。どこに行っても施設だけは充実してるの。おかしいでしょう」
ノゾミさんがやけ具合を見計らい、トングでくるくると野菜や肉をひっくり返していった。鍋奉行ならぬ、バーベキュー奉行だ。
「じゃあ、準備も整ったところで乾杯しましょう!」
カッシーが威勢のいい声を上げる。
「ノゾミさんとの素敵な出会いと、これからの旅の成功を願って――」
「「「かんぱーい」」」
俺たちは炭酸ジュースで。ノゾミさんは一人で缶ビールを開けた。
「ぷっはあああ――――――。いやあーうまいっっ」
カッシーがごくごくと喉を鳴らして飲む。缶はまたたく間に垂直に。そんな勢いで炭酸飲んで大丈夫か?
「ははは。お前ほんと小さい時からうまそうに飲むな」
柊先輩もリラックスムード。
今朝はどうなることかと思ったけれど、こうしてなんとかなるもんだ。きっとそんな風に先輩も思っているに違いない。ずっと責任を感じて張り詰めていた緊張の糸が、ようやく解けた感じ。長い髪を一本に結い、皿いっぱいの肉や野菜を幸せそうに頬張ってる。そんな無邪気な彼女の一面が見られて、やっぱり来てよかったなとしみじみ思わされた。
「姫、肉と野菜をお持ちしました」
俺はぐいっと心葉に皿を差し出しながらテーブルについた。
「うむ、くるしゅうない」
「あはははは」
「ふふふ。でも、柚くん。ほんとサンキュー」
彼女は改めて白い歯を見せてニコッと笑った。
「で、誰と誰が付き合ってるわけェ?」
ノゾミさんはソーセージをビールで流し込み、颯爽と言い放った。俺は思わず口に含んでいた炭酸ジュースをブッと吹き出した。
「いやいやいや。そんなんじゃないっすよ!」
「ええー、ありえなーい」
ノゾミさんが俺の脇腹を肘でグリグリと押してくる。この人酔ってる?
「これ地学部の遠征なんですって」
さすがの先輩も全力で是正した。
「あ、そうなの? 卒業旅行とかじゃないの?」
「最初に言ったじゃないすか」
「そうだっけ? ナハハハ」
大きくのけぞって笑っていたノゾミさんは、あるとき急に真剣な顔をした。
「でもさー。部活ったって海外だよ? 余程の理由がないと、誘ったり、ノコノコとついてきたり、しないんじゃないかな」
そう言ってノゾミさんは流し目でゆっくりと俺たちの顔を見た。『誘ったり』のところで俺と先輩の顔を、『ついてきたり』のところで心葉とカッシーの顔を、だ。
――なんか全て見透かされている気がする。
「とっ、とにかく。ただの幼なじみすよ」
「ふふーん。ただのね。はいわかりましたぁ」
めっちゃ含みのある言い方だ。幼気な高校生をあんまりいじめないでほしい。
しかも『ふふーん』のイントネーションが、姉ちゃん気取りでいたずらっぽく笑う心葉とそっくりだ。心臓に悪い。
夕飯のあと表に出て、皆で焚き火を囲む。ノゾミさんの酔い醒ましにと心葉が淹れてくれた紅茶をちびちびすすりながら、満天の星空を見上げた。
漆黒の空に、天の川がくっきりと浮かび上がっていた。見たことないぐらいにきれいだ。先輩から「地学部らしいところ見せろ」とせっつかれるも、知ってる星座がひとつも見当たらない。どういうこと?
――あ、逆さまだから!
「ははは。夏の大三角も、逆立ちしてら」
俺はようやくそのことに気づき、なんだか急に嬉しくなった。
「先輩、見てくださいよ。全部、逆なんですよ」
「ああ。頭では分かってたけど、見てみるとなかなかだな」
わし座、こと座、はくちょう座。天の川に沿って星座をたどると、みんな逆さま。いや、俺たちが逆さまなんだ。
「ふふふーん。地球は丸いんだね」
心葉は丸太のベンチに寝そべって、空を見上げていた。いい方法だ、と思った。
「ねぇねぇ、柚くん。見てごらん」
自分が逆さまに地球に乗ってるから、星座が逆に見える。そう考えるとすべてが腑に落ちた。心葉に倣って寝転んで、俺は思わず「わぁ」と大声を上げた。
「なんだこりゃ! すごいぞ!」
「なんだ? どうした?」
先輩もカッシーも空を見上げた。
そもそも俺たちは地球の上に乗っているんじゃないのかもしれない。背中にピタリくっつく地球に、俺たちは必死にしがみついてる。そんな感じ。
「星空に、落ちていきそうで怖いね」
心葉はちらっと俺の方を見て、すぐに空に視線を戻した。手ぐらい握ってもいいのかな。なんてね。そんなことを思いながら、澄んだ夜空に小さなため息をついた。
夜も更けて、車の運転疲れか「火の後始末だけは、よろしく~」とノゾミさんが部屋に戻った。先輩も「脳に悪い」と夜ふかしはしないタチらしい。心葉も「おやすみ」と彼女に続いた。カッシーはデッキチェアでグーグーいびきをかいている。
俺は「もう一杯飲んでから」と酔っぱらい親父みたいなことを言って残った。少し甘めのミルクティーを淹れ、ぱちぱちとくすぶる火を見つめて過ごした。
夜も更けて、さそり座のアンタレスが西の空に沈もうかという頃に、心葉が「さむさむ」と腕を抱いて現れた。
「だいぶ冷えるね」
「おっ? どうした?」
俺は焚き火の後始末の手を止めた。
「柚くんと、二人で話がしたくて――みんな寝るの待ってた」
「そっか」
「――嘘だよ。ふふふーん」
真剣なのか、ふざけてるのか。よくわからん。
俺が動じなかったのが、少し不満だったのかな。
「それで……どうしたの? 怖い夢でも見た?」
ブランケットを手渡すと、心葉は俺の隣にちょこんと座った。
7センチくらいの間をあけて。近くも遠くもないところに。
「眠るのが、もったいなくて」
ぱちぱちと最後の火を眺めながら心葉がつぶやいた。
「そっか。なんとなく、わかる」
「へへへ」
マグカップを渡すと心葉は両手で受け取って、そのまま目を閉じて静かにすすった。
「ミルクティー、好きだったよね? 今も、好き?」
俺もひとくち飲んだ。
「うん。好き」
「こういうのは、ちゃんと覚えてるんだね」
「確かに。言われてみると、そうだね」
「ねえ心葉。あのさ……」
「なになに? そんなにかしこまって、何が始まるの?」
興味津々の顔。少し上目遣いの目に、俺の情けない顔が映っていた。
「あ、わかった! 恋の悩みだ」
ふふふと笑った。
お姉さんぶりやがって――。もしかして俺にカマかけてる?
「――まあ、そんなとこ、かな」
「そっか。よーし、じゃあ聞かせてごらん」
彼女はオレンジジュースをこくこくと飲み干した。ずいぶん美味しそうに飲むね。コトリと置かれたコップが汗をかいていた。
「心葉、彼氏いたんだよね?」
心葉はマグカップを丸太のテーブルに置くと、椅子の上で膝を抱えながら伏し目がちにはにかんだ。
「そうなの? ごめん、よく覚えてない」
「2年くらい前。高校に上がって最初の夏休みの頃、そんなこと言ってた」
「そっか。ショックだった?」
「ちょっと、ね」
正確には、かなり。
「ふふふー。なんで?」
俺が口ごもると心葉はニンマリと笑って顔を寄せてきた。俺は「そっ……そりゃあさぁ」なんて言って目をそらさざるをえなくなる。
「ヤキモチか。ふふっふ~ん」
「ちげぇよ」
心葉は「そーか、そーか」と分かったふうな顔。少しムカッとした俺は、思い切ってこんなことを尋ねてみた。
「どこまでシた?」
「ええっ。フツー、そういうの女のコに聞くかぁ」
眉をひそめる心葉。
「いいじゃん。幼なじみのよしみで教えてよ」
心葉がゆっくりとこっちを振り向いた。顔が近いっ。彼女の熱を感じる距離にどぎまぎしていると――ぺちっ。デコピンが飛ぶ。
「こんなときだけ都合いいなァ。もうっ」
「ハハ。じょうだ、」
「手つないだり、一緒に出かけたり。き、キスしたくらいじゃない? たぶん」
冗談だと伝えようとした俺の言葉を遮って、彼女は早口で始めた。
「よく覚えてない、って言ったでしょう。きっとさ、かるーくだよ。私も彼も初めてどうしで、とか。ほんと、想像。よく、わかんないけど。旅先の雰囲気で、みたいな」
「旅行? すげーな」
「あ、いや、だから例えだってば。そういうのあるでしょ? でも私のことだからさ、なんていうか、きっと、恋に恋してただけ」
心葉はしどろもどろになりながらも一息で言い切ったあと、頬を紅潮させながら深く息を吸った。「だろう」とか「たぶん」ばかりで、なんだかお茶を濁されてしまった感じもする。記憶が曖昧なのか、本当は覚えてるけどはぐらかしているのか、微妙に分からない。
「さ、明日も早いよ。もう寝よう」
心葉が立ち去ったあと、昔のことを少しだけ思い出しながら残り火を見つめてから部屋に戻った。ハメリンプールまで、まだあと400キロくらいはある。
明日も先へ進めるといいな。