俺と先輩は、心葉を花火大会に連れ出すことにした。彼女を1人にして勝手に塞ぎ込まれたりでもしたら厄介だな、と思ったからだ。でも遊びじゃなく、これもれっきとした部活。先輩の言では炎色反応の観察だそうだ。
打ち上げ場所は埠頭の一角。駅改札で待ち合わせして、無料の臨時バスで会場の港公園に向かうことになっていた。俺は杏に急かされたせいで、だいぶ早く着いてしまった。
「早いな」
最初に現れたのは柊先輩。大人っぽい雰囲気の黒浴衣の足元を、カラフルな古代魚が泳ぐ。生成りの帯もいい感じ。いつもの長い髪はきれいにアップにまとめられている。
「椎名くん。うしろ、誰?」
「あ、スンマセン。どうしてもっていうんで連れてきちゃったんですけど……」
俺の後から杏がひょっこり顔を出す。牡丹柄があしらわれた濃いめの赤の浴衣。
「はじめまして。妹の杏です。いつも兄がお世話になっておりマスっ」
ペコリとお辞儀した頭をわしっとつかみ、先輩のいる方向に微調整してやる。
「杏。お前なぁ、花火なんだぞ? 分かってるのか?」
「チッチッチ」
杏はピッっと立てた人差し指をわざとらしく振った。
「おにぃは、分かってないなぁ」
「ああん?」
「目に見えるものだけが、世界のすべてじゃないんだぜぃ」
腰に手を当てドヤ顔をする。一部始終を興味深そうに見ていた柊先輩が口元に手を当ててくくくっと笑った。俺は杏の顔をまじまじと見た。
「杏」
「なぁに?」
「――お前、意外と深いこと言うな」
そうこうしているうちに心葉とカッシーも合流した。
「あ~心葉さん来た!」と杏は心葉の声に反応してニコニコと振り向いた。気乗りしない顔で現れるかと思っていた彼女は、案外明るい表情。正直、ほっとした。
柊先輩が「だから言ったろ」と目で合図してくる。
「ふふふふ~ん」
心葉は機嫌よさそうに俺の前でくるくると舞った。
淡い浅葱色の花が咲く白浴衣。清楚で大人っぽい。髪はふんわりアップに桃色のかんざし。うなじを触る手先と袖からのぞかせる細い手首。襟もとを抜ける艶めかしい首のライン――。俺は杏の耳元で子細に説明してやった。
「エロっ」
「は? お前が『どんな?』って聞くからだろっ」
「きゃははっ」
でもほんと、身体のどこを見ても、思ったよりずっと繊細。触れたら壊してしまいそうだ。前はもっと少し頼りがいある印象だった。彼女の浴衣姿を見るのなんて小学生のとき以来だけど。
あとはいつもの流れ。
カッシーに「アップ髪、かわいいいいい」とべた褒めされ、顔を赤らめた先輩が照れ隠しのローキック。涙を流して喜ぶカッシー。
「わはは、ダブルデートじゃん。サヤちゃん、よかったね~」
「だぁあ、ちがう。純然たる部活動だろうが」
「まぁまぁ、先輩。傍から見たら、ふたりはお似合いのカップルすよ」
俺がそう言うと柊先輩にジト目で睨まれた。心葉が胸を抱えて笑い、俺の腕をとまり木みたいにつまんでいた杏も、きゃっきゃと会話にはまって楽しそう。連れてきてよかった。俺は皆をバスに押し込んだ。
公園に着いて、花火が打ち上がるまでに少し時間があった。大きなレジャーシートを広げて場所を確保。俺とカッシーは女子3人を残し、屋台に出ることにした。食料調達だ。
「お姫様ご注文は」
相変わらず調子の良いカッシー。うやうやしく柊先輩の手をとってひざまづいた。
「こっ、コラ! 調子のんな」
「もうっサヤちゃんカタイなぁ。いーじゃん花火大会なんだし。無礼講、無礼講っ」
「だぁあ、柊先輩と呼べ。だいたい、お前は毎日、無礼だろう」
先輩は頬を赤らめつつ、まんざらでもない様子。カッシーもさるもの。こっぴどく叱られても手は握ったままだ。
「私たこ焼き」
「おにぃ、鈴カステラもお願いー」
「はいはい了解」
俺は心葉と杏の注文をとりおわると、柊先輩にも声をかけた。
「先輩はどうします?」
「わ、私はっ」
珍しく言葉を詰まらせると、すかさずカッシーが割り込んだ。
「サヤちゃんはあれだよね? いつもの」
何だ、決まってるのかよ――だったらなぜ聞いた。
俺たちは手分けして屋台をまわり、あっという間にリクエストの品を全て揃えた。たこ焼き、鈴カステラ、わたあめにフランクフルト。もちろん、りんご飴も買った。これは柊先輩の。
「アハハハ。案外、先輩って子供っぽいとこあんなァ」
やることなすこと大抵は無茶苦茶なのだが、どこか憎めない。
「なぁカッシー、ひとつ聞いていいか?」
注文の品を両手に抱えて戻る道中、ずっと気になってたことを尋ねてみることにした。
「なんだよ水臭えな」
「前から思ってたんだけど、お前なんで柊先輩に嫌われてんの?」
カッシーは「なんだそんなことか」と肩をすくめた。
「ほら俺、小学生の頃チビでさあ。横に並ばれると、イヤなんだとさ」
「ああん?」
「自分が大きく見えるの、気にしてるんだ」
――そんなことで? あの先輩が? らしくないなぁ。
訝しむ俺の様子を察知してか、カッシーはハァと息をつく。そうして案の定、すぐに白状した。
「中学の頃。2人で花火大会に来てよ。怖い思いさせちゃったんだよね」
「ん?」
「ほら、今日みたいにサヤちゃん待たせて俺はりんご飴とか買いに行っててよ。戻ってみればナンパされてるわけ」
「ナンパねぇ……あんなふうに?」
俺は花火会場の方を指差した。
「そうそう。あんな感じのチンピラに」
「っておい、 あれ先輩達じゃん?」
柊先輩が3人ほどの男たちに囲まれている。何かモメてる? リーダーと思しきゴツい男と心葉との間に、かばうように先輩が立っていた。これはまずい状況では?
思うが早いか、俺たちの足は3人のいる場所に向かって駆けだしていた。
はっはっと、リズムよく息を吐きながら、カッシーは話を続けた。
「――俺さ、スッゲー牛乳飲んで頑張ったんだよ。わははっ」
「何の話をしてる?」
吐く息のテンポを合わせる。
「身長もっ、ようやく、追いついた」
「こんな時に、する話か?」
はぁ、はぁ、はぁ――。2人とも息が上がってきた。
化石採掘の山登りで鍛えられてはいるけど、この辺が文化部の限界か。
「だから、俺、今日っ。はぁっ――コクくるわっ」
「ああン?」
「柚! いいか、俺の生き様見とけっ! ウォオオオオー」
叫びながらカッシーは突っ込んでいった。ざざっと砂埃を上げて、柊先輩の前に立つカッシー。浅黒く日焼けした男の腕。眉を吊り上げカッシーをジロリと睨みつけていた。
「なんだぁお前?」
胸ぐらを掴みかからんとする勢い。震えながらもカッシーは一歩も引かない。
「だっ、誰でもいいだろっ。俺の女に手を出すな!」
「ああー」
低い声。一触即発。空気がビリッと震えるのを感じた。3人組のリーダーなのか、その男は左右の男に目で合図した。そうして、柊先輩に視線を戻して、こんなことを言った。
「カレシ?」
「ち、違います。ただの幼なじみっ」
柊先輩は即答した。
そこは合わせてくれないと! 俺は心の中で絶叫した。相変わらず空気の読めない人である。
筋骨隆々の男が首と肩をごりごりとならす。太い腕に厚い胸板。いくら身長が追いついたとはいえ、完全に階級違いのカッシー。俺と2人がかりでも適うかどうか。
「んんん。は~っはっは。そうかそうか、ついに柊ちゃんにも彼氏かぁ」
――なんだ? 柊ちゃん? どういうことだ? 俺の膝はまだ震えている。
様子が変だ。
気がつけば俺の後に隠れている心葉と杏は2人してクスクスと笑っている。
何この状況? 何がおかしい?
「コータロー。お前はどこまで無礼なんだ」
柊先輩が腕組みする。
「は? だって」
いや、カッシーの反応は正しい。俺にもわからん。
「――こちら、OBの城間先輩」
「えっ、えっ、えっ!? ――サヤちゃん、そりゃないよ」
「だぁあ、だから柊先輩だろうがっ。何度言ったらわかるんだ!」
柊先輩に小突かれ「そんな。お、俺は、てっきりナンパかと……」と情けなく眉を下げるカッシー。それを見た城間先輩は、表情を和らげて「俺にその勇気はないな。ガハハ」なんて大口を開けて笑った。
「ひどいぃ。それセクハラすよ」
柊先輩も頬を緩め、なんだか楽しそう。
通りがかりにたまたま再会し、昔話に花を咲かせていたらしい。それならそうと、早く言ってほしかった。
「んで、柊ちゃん、ついにオーストラリア行くって?」
城間先輩はガハハと笑って腕組みした。
杏は心葉に説明してもらって、ようやく状況が飲み込めたらしい。
「はい。決めました。来週飛びます!」
「前から言ってたもんな。ハメリンプール狙いだろ?」
「はい!」
いつもぶっきらぼうな柊先輩のしゃんとしたところを見るのは、なんとも愉快だ。地学部は体育会系なところがあるのかな。
「楽しんでこい! あ、そうだ」
「何か?」
「もし、もしもアイツに――――あ、いや。なんでもねぇ。ガハハハ。とにかく、気をつけて行ってこいよ」
城間先輩は背中をみせるとムキムキの手を高く振った。そうして、お付きの2人を引き連れて、肩をゆらしながら去っていった。
「なんか、面白いもの見ちゃったね。ふふふっ」
心葉が、俺の袖をくいと引いた。
「ああ」
「柚くんに咲也子がいるように、咲也子にも先輩がいたんだね」
当たり前のことなのに、忘れてた。
「ふふふ。見られてよかった。こういうのこそ、たまらなく愛しいよ」
「心葉らしいね」
「心葉『さん』」
「へいへい」
残酷かもしれないけど、こんなこと俺くらいしか聞けないと思い、心葉にしれっと尋ねてみることにした。
「もう明日はこの世界が見えなくなるとしたら、最後に何が見ておきたい?」
彼女は少しの迷いもなくこう答えた。
「日常のなんでもない風景、かな。海、空、雲。柚くんの情けない顔、とか」
「なんだよそれ」
「晴れた日曜日。何の用もなく海の見える公園に出かけるの。飾らない服を着てさ。海を前に、なんでもない話に笑って。空を眺め、風を聴く。木洩れ陽の中でうたた寝なんてしちゃってさ。そんで、起きたら柚くんがやれやれって笑ってるの」
「ふうん」
「そういうのが、いいんだよ」
ふふふーんと鼻歌交じりの彼女の笑顔が見えた。
「私『しだれ柳』好きー」
どーん、どどどーん――。
彼女の声に、花火の大きな音が重なる。
空を見上げたまま、心葉はふふふんと鼻をならした。声は花火みたいにキラキラと明るいのに、照らされた顔は寂しそうだ。
どどーん――。
花火が消えたら彼女が夜に飲み込まれてしまいそうで、俺は思わず手を伸ばした。
「きれいだね……」
どーん――。
またひとつ、大きな花火が打ち上がる。淡く儚い色。
俺は花火なんかより、彼女を見ていたかった。空を見上げる彼女を。
「来年……また来年も見られるよね?」
そう声をかけてしまってから、やっぱり言わなければよかったと後悔した。
彼女が来年も花火を見られる保証なんてどこにもない。それを彼女に聞いてどうなる。神様か何だか分からない力が働いて、心葉は生まれ変わって今俺の目の前にいる。それで十分じゃないか。来年なんて言えない。胸が張り裂けそうだ。喜びと悲しみが交互に訪れ、俺の心はジェットコースターみたいに揺さぶられた。
「おにぃ?」
右脇を肘で小突いて合図してくる杏に、俺は「ああ」と小さく返した。
杏が最後に打ち上げ花火を見たのは小学生のとき。まさか杏の目にこんなことが起こるなんて想像もしていなかった。来年も、その次の年も、花火は見られるものだと思っていた。
「ねぇ心葉。目を閉じてみてよ」
「えっ、なあに? どういうこと?」
心葉の隣に座って空を見上げた。赤や緑。夜空に大輪の花が咲き乱れている。
「花火見てるのに?」
そう言いながらも、彼女はふふんと笑って従った。
俺は長いまつ毛を眺めながら、杏の言葉をつぶやく。
「目を閉じても、世界は消えないんだよ」
「柚くん……」
「――俺、どこにも行かないから」
一緒に耳をすます。どーんという花火の音。他にも沢山の音が聞こえた。海風に運ばれてくる、ほのかな煙の匂い。見えないけれど、花火は確かにそこにあった。
俺も心葉も黙っていたけれど、確かに2人はそこにいた。
ふと気づくと、地面についた俺の手を心葉が握っていた。
たまたま、ここに手をついた? 俺がドギマギしていると、心葉がそっと耳元で囁いた。
「怖いんだ」
「ひっ?」
俺はびっくりして思わず目を開けた。
「1人になりたくない」
彼女の手が震えていた。俺は何も言ってあげられなかったけど、すぐに握り返した。
彼女を飲み込もうとしていたのは、暗闇なんかじゃなかった。心の芯をえぐるような絶望。孤独。その恐怖――。
「柚くん、聞いてくれたよね? なんで平気なんだって」
「ああ」
「平気じゃないよ。ぜんっぜん。自分が何者なのかわからない。なんでこうして生きてるのか、これから先どうなるのかも、わからない。日常の景色も、みんなの顔も、もう永遠に見られなくなるかと思うと、どうしようもなく、怖いよ……」
優しい言葉のひとつもかけられず、どうしようもない俺だけど、心葉は頼りにしてくれている。だからきっと、こうして今日そばにいるのが他でもない俺だったのには、きっと意味がある。そう信じたい。
幼なじみに戻ったあの日からずっと、考えていたことだ。
心葉にとって、俺は何なのか。俺にとって、心葉は何なのか――。
「どうした? 気分でも悪い?」
考え込んで無口になっていた俺を、心葉が心配そうにのぞき込んだ。
彼女のうるうるとした瞳に、大輪の花火が映り込む。きれいだ。
「あ、あのさ。やっぱ俺、来年もまた一緒に見たい」
俺は声を振り絞った。これからの話がしたかった。隣で聞いていた杏が、心配そうに聞き耳を立てていた。
「んー、どうだろね」
ふふふーん。彼女はようやくイタズラっぽい八重歯を見せた。
俺は、心葉がどうなっていたとしても、来年もこの場所に来ようと心に決めた。
「おーい」
少し前に座っていた柊先輩とカッシーがこっちを振り返り、口パクで何か言った。
お、く、え――? 何……? 奥にずれるの?
意味わかんねえ。花火は上だからよく見えるだろ。ひみつの暗号か?
「なんだよー?」
声をあげる俺。先輩が、仕方ねえやつだなと眉をハの字にして笑った。隣に座るカッシーの脇を肘で小突いて何か指示を出す。2人、なにか企んでる?
もう一度だけだぞ、なんて肩をすくめてカッシーが口を大きく開けた。心葉はきょとんとしたままだ。
――コ、ク、れ。
げっ! なんてことを考えてんだ。もうっ。
俺は手の甲を振り、クククと笑う2人の視線を追い払った。
ああ、たしかに2人は立派だよ。先輩は統計と戦っている。カッシーは昔の自分に打ち勝った。
――俺は? 劣等感だらけの自分を追い払うようにぶんぶん頭をふる。構うもんか。心葉は不思議そうに俺をじっと見つめていた。
「心葉。あのさ……」
分かってる。
形にならない、言葉にならない想い。だけど、心葉には、ちゃんと伝えるんだ。
「あのさ、俺、オーストラリア、やっぱり心葉に来てほしいんだ」
自分よりも目の前にいる心葉が大切。今とかこの先どうなるかとか幽霊とか。そんなのはどうでもいい。今の心葉の、今を救ってやりたい。
「お前が俺の知ってる心葉なのか、そうじゃなくて幽霊とかそっくりさんなだけなのか、どうでもいいんだ。ただ、俺はお前に来てほしい」
なんか、ダセェ。もう少しうまく言えないものか。だだっ子かよ。
かっこ悪くても。俺が傷ついても、眼の前にいる心葉の姿形をしている彼女が笑ってくれれば、それでいい。そう思うことで、不思議と気持ちは楽になった。いくら恥ずかしくても、心葉への想いをどこかに閉じ込めておくなんて、どうせできやしない。
「夏が終わったら居なくなっちゃうのかもしれないけどさ、でもその前に、できるだけ、同じものを見ておきたいんだ。ふたりで。同じ空、同じ海、同じ雲。同じ時、同じ場所で」
「……柚くん」
緊張の糸がぷつりと切れ、深く息を吐いて肩を落とす俺。それを見て、心葉は「えへへ」と目に涙を浮かべて微笑んだ。
「柚くんは、変わらないね。私のこと思ってくれてたのはよくわかった。ありがとう」
「えっ、それじゃあ……」
「うん。オーストラリア、行こう。連れてって」
そう言うと、心葉は俺の甚平をきゅうと引き寄せ、そっと唇を重ねた。
ちょっとまって。お前いったい……。俺は声にならない声を上げた。
唇に残る柔らかい感触。少し熱を帯びた吐息。潮風が運ぶ甘いシャンプーの香りと汗の匂い。懐かしささえ感じる。愛しい。俺は、こみ上げてくる狂おしい気持ちを必死でこらえながら、ただ彼女の名前を呼んだ。
「心葉?」
「ふふふふーん。練習練習」
冗談半分な口調とはウラハラに、彼女は真っ直ぐ俺の目を見ていた。
「柚くん、私はさ、たぶんじきに居なくなっちゃうからさ。早く彼女作りなよ」
「は……? 俺の練習だったのか?」
俺には彼女が照れ隠しで言ってるようにしか見えなかった。
「だって、彼女は教えてくれないよ?」
「何をだ?」
何の話をしている?
「さっき、半目あいてた。キモかった」
「だあああっ。何だよ、見てたのかよ?」
「うん」
うんじゃねえだろ。
「マナー違反だ」
「いいじゃん。減るもんじゃなし」
「俺の尊厳が減った」
「幼なじみとのなんて、ノーカンだって」
「んなわけないだろ」
「ふふふ――だめだよ。この先は、ちゃんとオーストラリアで空を見てから」
そうして彼女はまたいつもみたいに鼻歌まじりに笑って、俺の頬に優しく触れた。
「この先……」
先のことなんて全然考えてなかった俺の頭の中では、花火大会が終わって駅まで戻る間じゅう、その言葉ばかりが何度も響いていた。
駅で先輩たちと別れると、心葉は「同じ家に帰るんだし、あわてない、あわてない」なんて明るく笑った。いつまで家出は続くんだろう。ずっといてほしいけど、やがて親が出張から帰ってくる。そうしたら、どう説明したらいいものか。
「ふぁあ」
肘をつかんでる杏が、眠たそうに目をこすりはじめるのを見て、俺は少しだけ足を速めた。
夏休みに入ると、オーストラリア遠征まであと少し。準備も大詰めだ。
俺はいよいよバイトに精を出し、バイト代の前借りにも成功した。柊先輩も家出がバレないよう口止めや根回しに余念がない。荷物をまとめたり、出発当日の動きを確認したりと相変わらず忙しそうにしている。カッシーは何やら秘密の作業があるらしくいつもコソコソとしていた。心葉はついぞ理科室には顔を出さなかった。
打ち上げ場所は埠頭の一角。駅改札で待ち合わせして、無料の臨時バスで会場の港公園に向かうことになっていた。俺は杏に急かされたせいで、だいぶ早く着いてしまった。
「早いな」
最初に現れたのは柊先輩。大人っぽい雰囲気の黒浴衣の足元を、カラフルな古代魚が泳ぐ。生成りの帯もいい感じ。いつもの長い髪はきれいにアップにまとめられている。
「椎名くん。うしろ、誰?」
「あ、スンマセン。どうしてもっていうんで連れてきちゃったんですけど……」
俺の後から杏がひょっこり顔を出す。牡丹柄があしらわれた濃いめの赤の浴衣。
「はじめまして。妹の杏です。いつも兄がお世話になっておりマスっ」
ペコリとお辞儀した頭をわしっとつかみ、先輩のいる方向に微調整してやる。
「杏。お前なぁ、花火なんだぞ? 分かってるのか?」
「チッチッチ」
杏はピッっと立てた人差し指をわざとらしく振った。
「おにぃは、分かってないなぁ」
「ああん?」
「目に見えるものだけが、世界のすべてじゃないんだぜぃ」
腰に手を当てドヤ顔をする。一部始終を興味深そうに見ていた柊先輩が口元に手を当ててくくくっと笑った。俺は杏の顔をまじまじと見た。
「杏」
「なぁに?」
「――お前、意外と深いこと言うな」
そうこうしているうちに心葉とカッシーも合流した。
「あ~心葉さん来た!」と杏は心葉の声に反応してニコニコと振り向いた。気乗りしない顔で現れるかと思っていた彼女は、案外明るい表情。正直、ほっとした。
柊先輩が「だから言ったろ」と目で合図してくる。
「ふふふふ~ん」
心葉は機嫌よさそうに俺の前でくるくると舞った。
淡い浅葱色の花が咲く白浴衣。清楚で大人っぽい。髪はふんわりアップに桃色のかんざし。うなじを触る手先と袖からのぞかせる細い手首。襟もとを抜ける艶めかしい首のライン――。俺は杏の耳元で子細に説明してやった。
「エロっ」
「は? お前が『どんな?』って聞くからだろっ」
「きゃははっ」
でもほんと、身体のどこを見ても、思ったよりずっと繊細。触れたら壊してしまいそうだ。前はもっと少し頼りがいある印象だった。彼女の浴衣姿を見るのなんて小学生のとき以来だけど。
あとはいつもの流れ。
カッシーに「アップ髪、かわいいいいい」とべた褒めされ、顔を赤らめた先輩が照れ隠しのローキック。涙を流して喜ぶカッシー。
「わはは、ダブルデートじゃん。サヤちゃん、よかったね~」
「だぁあ、ちがう。純然たる部活動だろうが」
「まぁまぁ、先輩。傍から見たら、ふたりはお似合いのカップルすよ」
俺がそう言うと柊先輩にジト目で睨まれた。心葉が胸を抱えて笑い、俺の腕をとまり木みたいにつまんでいた杏も、きゃっきゃと会話にはまって楽しそう。連れてきてよかった。俺は皆をバスに押し込んだ。
公園に着いて、花火が打ち上がるまでに少し時間があった。大きなレジャーシートを広げて場所を確保。俺とカッシーは女子3人を残し、屋台に出ることにした。食料調達だ。
「お姫様ご注文は」
相変わらず調子の良いカッシー。うやうやしく柊先輩の手をとってひざまづいた。
「こっ、コラ! 調子のんな」
「もうっサヤちゃんカタイなぁ。いーじゃん花火大会なんだし。無礼講、無礼講っ」
「だぁあ、柊先輩と呼べ。だいたい、お前は毎日、無礼だろう」
先輩は頬を赤らめつつ、まんざらでもない様子。カッシーもさるもの。こっぴどく叱られても手は握ったままだ。
「私たこ焼き」
「おにぃ、鈴カステラもお願いー」
「はいはい了解」
俺は心葉と杏の注文をとりおわると、柊先輩にも声をかけた。
「先輩はどうします?」
「わ、私はっ」
珍しく言葉を詰まらせると、すかさずカッシーが割り込んだ。
「サヤちゃんはあれだよね? いつもの」
何だ、決まってるのかよ――だったらなぜ聞いた。
俺たちは手分けして屋台をまわり、あっという間にリクエストの品を全て揃えた。たこ焼き、鈴カステラ、わたあめにフランクフルト。もちろん、りんご飴も買った。これは柊先輩の。
「アハハハ。案外、先輩って子供っぽいとこあんなァ」
やることなすこと大抵は無茶苦茶なのだが、どこか憎めない。
「なぁカッシー、ひとつ聞いていいか?」
注文の品を両手に抱えて戻る道中、ずっと気になってたことを尋ねてみることにした。
「なんだよ水臭えな」
「前から思ってたんだけど、お前なんで柊先輩に嫌われてんの?」
カッシーは「なんだそんなことか」と肩をすくめた。
「ほら俺、小学生の頃チビでさあ。横に並ばれると、イヤなんだとさ」
「ああん?」
「自分が大きく見えるの、気にしてるんだ」
――そんなことで? あの先輩が? らしくないなぁ。
訝しむ俺の様子を察知してか、カッシーはハァと息をつく。そうして案の定、すぐに白状した。
「中学の頃。2人で花火大会に来てよ。怖い思いさせちゃったんだよね」
「ん?」
「ほら、今日みたいにサヤちゃん待たせて俺はりんご飴とか買いに行っててよ。戻ってみればナンパされてるわけ」
「ナンパねぇ……あんなふうに?」
俺は花火会場の方を指差した。
「そうそう。あんな感じのチンピラに」
「っておい、 あれ先輩達じゃん?」
柊先輩が3人ほどの男たちに囲まれている。何かモメてる? リーダーと思しきゴツい男と心葉との間に、かばうように先輩が立っていた。これはまずい状況では?
思うが早いか、俺たちの足は3人のいる場所に向かって駆けだしていた。
はっはっと、リズムよく息を吐きながら、カッシーは話を続けた。
「――俺さ、スッゲー牛乳飲んで頑張ったんだよ。わははっ」
「何の話をしてる?」
吐く息のテンポを合わせる。
「身長もっ、ようやく、追いついた」
「こんな時に、する話か?」
はぁ、はぁ、はぁ――。2人とも息が上がってきた。
化石採掘の山登りで鍛えられてはいるけど、この辺が文化部の限界か。
「だから、俺、今日っ。はぁっ――コクくるわっ」
「ああン?」
「柚! いいか、俺の生き様見とけっ! ウォオオオオー」
叫びながらカッシーは突っ込んでいった。ざざっと砂埃を上げて、柊先輩の前に立つカッシー。浅黒く日焼けした男の腕。眉を吊り上げカッシーをジロリと睨みつけていた。
「なんだぁお前?」
胸ぐらを掴みかからんとする勢い。震えながらもカッシーは一歩も引かない。
「だっ、誰でもいいだろっ。俺の女に手を出すな!」
「ああー」
低い声。一触即発。空気がビリッと震えるのを感じた。3人組のリーダーなのか、その男は左右の男に目で合図した。そうして、柊先輩に視線を戻して、こんなことを言った。
「カレシ?」
「ち、違います。ただの幼なじみっ」
柊先輩は即答した。
そこは合わせてくれないと! 俺は心の中で絶叫した。相変わらず空気の読めない人である。
筋骨隆々の男が首と肩をごりごりとならす。太い腕に厚い胸板。いくら身長が追いついたとはいえ、完全に階級違いのカッシー。俺と2人がかりでも適うかどうか。
「んんん。は~っはっは。そうかそうか、ついに柊ちゃんにも彼氏かぁ」
――なんだ? 柊ちゃん? どういうことだ? 俺の膝はまだ震えている。
様子が変だ。
気がつけば俺の後に隠れている心葉と杏は2人してクスクスと笑っている。
何この状況? 何がおかしい?
「コータロー。お前はどこまで無礼なんだ」
柊先輩が腕組みする。
「は? だって」
いや、カッシーの反応は正しい。俺にもわからん。
「――こちら、OBの城間先輩」
「えっ、えっ、えっ!? ――サヤちゃん、そりゃないよ」
「だぁあ、だから柊先輩だろうがっ。何度言ったらわかるんだ!」
柊先輩に小突かれ「そんな。お、俺は、てっきりナンパかと……」と情けなく眉を下げるカッシー。それを見た城間先輩は、表情を和らげて「俺にその勇気はないな。ガハハ」なんて大口を開けて笑った。
「ひどいぃ。それセクハラすよ」
柊先輩も頬を緩め、なんだか楽しそう。
通りがかりにたまたま再会し、昔話に花を咲かせていたらしい。それならそうと、早く言ってほしかった。
「んで、柊ちゃん、ついにオーストラリア行くって?」
城間先輩はガハハと笑って腕組みした。
杏は心葉に説明してもらって、ようやく状況が飲み込めたらしい。
「はい。決めました。来週飛びます!」
「前から言ってたもんな。ハメリンプール狙いだろ?」
「はい!」
いつもぶっきらぼうな柊先輩のしゃんとしたところを見るのは、なんとも愉快だ。地学部は体育会系なところがあるのかな。
「楽しんでこい! あ、そうだ」
「何か?」
「もし、もしもアイツに――――あ、いや。なんでもねぇ。ガハハハ。とにかく、気をつけて行ってこいよ」
城間先輩は背中をみせるとムキムキの手を高く振った。そうして、お付きの2人を引き連れて、肩をゆらしながら去っていった。
「なんか、面白いもの見ちゃったね。ふふふっ」
心葉が、俺の袖をくいと引いた。
「ああ」
「柚くんに咲也子がいるように、咲也子にも先輩がいたんだね」
当たり前のことなのに、忘れてた。
「ふふふ。見られてよかった。こういうのこそ、たまらなく愛しいよ」
「心葉らしいね」
「心葉『さん』」
「へいへい」
残酷かもしれないけど、こんなこと俺くらいしか聞けないと思い、心葉にしれっと尋ねてみることにした。
「もう明日はこの世界が見えなくなるとしたら、最後に何が見ておきたい?」
彼女は少しの迷いもなくこう答えた。
「日常のなんでもない風景、かな。海、空、雲。柚くんの情けない顔、とか」
「なんだよそれ」
「晴れた日曜日。何の用もなく海の見える公園に出かけるの。飾らない服を着てさ。海を前に、なんでもない話に笑って。空を眺め、風を聴く。木洩れ陽の中でうたた寝なんてしちゃってさ。そんで、起きたら柚くんがやれやれって笑ってるの」
「ふうん」
「そういうのが、いいんだよ」
ふふふーんと鼻歌交じりの彼女の笑顔が見えた。
「私『しだれ柳』好きー」
どーん、どどどーん――。
彼女の声に、花火の大きな音が重なる。
空を見上げたまま、心葉はふふふんと鼻をならした。声は花火みたいにキラキラと明るいのに、照らされた顔は寂しそうだ。
どどーん――。
花火が消えたら彼女が夜に飲み込まれてしまいそうで、俺は思わず手を伸ばした。
「きれいだね……」
どーん――。
またひとつ、大きな花火が打ち上がる。淡く儚い色。
俺は花火なんかより、彼女を見ていたかった。空を見上げる彼女を。
「来年……また来年も見られるよね?」
そう声をかけてしまってから、やっぱり言わなければよかったと後悔した。
彼女が来年も花火を見られる保証なんてどこにもない。それを彼女に聞いてどうなる。神様か何だか分からない力が働いて、心葉は生まれ変わって今俺の目の前にいる。それで十分じゃないか。来年なんて言えない。胸が張り裂けそうだ。喜びと悲しみが交互に訪れ、俺の心はジェットコースターみたいに揺さぶられた。
「おにぃ?」
右脇を肘で小突いて合図してくる杏に、俺は「ああ」と小さく返した。
杏が最後に打ち上げ花火を見たのは小学生のとき。まさか杏の目にこんなことが起こるなんて想像もしていなかった。来年も、その次の年も、花火は見られるものだと思っていた。
「ねぇ心葉。目を閉じてみてよ」
「えっ、なあに? どういうこと?」
心葉の隣に座って空を見上げた。赤や緑。夜空に大輪の花が咲き乱れている。
「花火見てるのに?」
そう言いながらも、彼女はふふんと笑って従った。
俺は長いまつ毛を眺めながら、杏の言葉をつぶやく。
「目を閉じても、世界は消えないんだよ」
「柚くん……」
「――俺、どこにも行かないから」
一緒に耳をすます。どーんという花火の音。他にも沢山の音が聞こえた。海風に運ばれてくる、ほのかな煙の匂い。見えないけれど、花火は確かにそこにあった。
俺も心葉も黙っていたけれど、確かに2人はそこにいた。
ふと気づくと、地面についた俺の手を心葉が握っていた。
たまたま、ここに手をついた? 俺がドギマギしていると、心葉がそっと耳元で囁いた。
「怖いんだ」
「ひっ?」
俺はびっくりして思わず目を開けた。
「1人になりたくない」
彼女の手が震えていた。俺は何も言ってあげられなかったけど、すぐに握り返した。
彼女を飲み込もうとしていたのは、暗闇なんかじゃなかった。心の芯をえぐるような絶望。孤独。その恐怖――。
「柚くん、聞いてくれたよね? なんで平気なんだって」
「ああ」
「平気じゃないよ。ぜんっぜん。自分が何者なのかわからない。なんでこうして生きてるのか、これから先どうなるのかも、わからない。日常の景色も、みんなの顔も、もう永遠に見られなくなるかと思うと、どうしようもなく、怖いよ……」
優しい言葉のひとつもかけられず、どうしようもない俺だけど、心葉は頼りにしてくれている。だからきっと、こうして今日そばにいるのが他でもない俺だったのには、きっと意味がある。そう信じたい。
幼なじみに戻ったあの日からずっと、考えていたことだ。
心葉にとって、俺は何なのか。俺にとって、心葉は何なのか――。
「どうした? 気分でも悪い?」
考え込んで無口になっていた俺を、心葉が心配そうにのぞき込んだ。
彼女のうるうるとした瞳に、大輪の花火が映り込む。きれいだ。
「あ、あのさ。やっぱ俺、来年もまた一緒に見たい」
俺は声を振り絞った。これからの話がしたかった。隣で聞いていた杏が、心配そうに聞き耳を立てていた。
「んー、どうだろね」
ふふふーん。彼女はようやくイタズラっぽい八重歯を見せた。
俺は、心葉がどうなっていたとしても、来年もこの場所に来ようと心に決めた。
「おーい」
少し前に座っていた柊先輩とカッシーがこっちを振り返り、口パクで何か言った。
お、く、え――? 何……? 奥にずれるの?
意味わかんねえ。花火は上だからよく見えるだろ。ひみつの暗号か?
「なんだよー?」
声をあげる俺。先輩が、仕方ねえやつだなと眉をハの字にして笑った。隣に座るカッシーの脇を肘で小突いて何か指示を出す。2人、なにか企んでる?
もう一度だけだぞ、なんて肩をすくめてカッシーが口を大きく開けた。心葉はきょとんとしたままだ。
――コ、ク、れ。
げっ! なんてことを考えてんだ。もうっ。
俺は手の甲を振り、クククと笑う2人の視線を追い払った。
ああ、たしかに2人は立派だよ。先輩は統計と戦っている。カッシーは昔の自分に打ち勝った。
――俺は? 劣等感だらけの自分を追い払うようにぶんぶん頭をふる。構うもんか。心葉は不思議そうに俺をじっと見つめていた。
「心葉。あのさ……」
分かってる。
形にならない、言葉にならない想い。だけど、心葉には、ちゃんと伝えるんだ。
「あのさ、俺、オーストラリア、やっぱり心葉に来てほしいんだ」
自分よりも目の前にいる心葉が大切。今とかこの先どうなるかとか幽霊とか。そんなのはどうでもいい。今の心葉の、今を救ってやりたい。
「お前が俺の知ってる心葉なのか、そうじゃなくて幽霊とかそっくりさんなだけなのか、どうでもいいんだ。ただ、俺はお前に来てほしい」
なんか、ダセェ。もう少しうまく言えないものか。だだっ子かよ。
かっこ悪くても。俺が傷ついても、眼の前にいる心葉の姿形をしている彼女が笑ってくれれば、それでいい。そう思うことで、不思議と気持ちは楽になった。いくら恥ずかしくても、心葉への想いをどこかに閉じ込めておくなんて、どうせできやしない。
「夏が終わったら居なくなっちゃうのかもしれないけどさ、でもその前に、できるだけ、同じものを見ておきたいんだ。ふたりで。同じ空、同じ海、同じ雲。同じ時、同じ場所で」
「……柚くん」
緊張の糸がぷつりと切れ、深く息を吐いて肩を落とす俺。それを見て、心葉は「えへへ」と目に涙を浮かべて微笑んだ。
「柚くんは、変わらないね。私のこと思ってくれてたのはよくわかった。ありがとう」
「えっ、それじゃあ……」
「うん。オーストラリア、行こう。連れてって」
そう言うと、心葉は俺の甚平をきゅうと引き寄せ、そっと唇を重ねた。
ちょっとまって。お前いったい……。俺は声にならない声を上げた。
唇に残る柔らかい感触。少し熱を帯びた吐息。潮風が運ぶ甘いシャンプーの香りと汗の匂い。懐かしささえ感じる。愛しい。俺は、こみ上げてくる狂おしい気持ちを必死でこらえながら、ただ彼女の名前を呼んだ。
「心葉?」
「ふふふふーん。練習練習」
冗談半分な口調とはウラハラに、彼女は真っ直ぐ俺の目を見ていた。
「柚くん、私はさ、たぶんじきに居なくなっちゃうからさ。早く彼女作りなよ」
「は……? 俺の練習だったのか?」
俺には彼女が照れ隠しで言ってるようにしか見えなかった。
「だって、彼女は教えてくれないよ?」
「何をだ?」
何の話をしている?
「さっき、半目あいてた。キモかった」
「だあああっ。何だよ、見てたのかよ?」
「うん」
うんじゃねえだろ。
「マナー違反だ」
「いいじゃん。減るもんじゃなし」
「俺の尊厳が減った」
「幼なじみとのなんて、ノーカンだって」
「んなわけないだろ」
「ふふふ――だめだよ。この先は、ちゃんとオーストラリアで空を見てから」
そうして彼女はまたいつもみたいに鼻歌まじりに笑って、俺の頬に優しく触れた。
「この先……」
先のことなんて全然考えてなかった俺の頭の中では、花火大会が終わって駅まで戻る間じゅう、その言葉ばかりが何度も響いていた。
駅で先輩たちと別れると、心葉は「同じ家に帰るんだし、あわてない、あわてない」なんて明るく笑った。いつまで家出は続くんだろう。ずっといてほしいけど、やがて親が出張から帰ってくる。そうしたら、どう説明したらいいものか。
「ふぁあ」
肘をつかんでる杏が、眠たそうに目をこすりはじめるのを見て、俺は少しだけ足を速めた。
夏休みに入ると、オーストラリア遠征まであと少し。準備も大詰めだ。
俺はいよいよバイトに精を出し、バイト代の前借りにも成功した。柊先輩も家出がバレないよう口止めや根回しに余念がない。荷物をまとめたり、出発当日の動きを確認したりと相変わらず忙しそうにしている。カッシーは何やら秘密の作業があるらしくいつもコソコソとしていた。心葉はついぞ理科室には顔を出さなかった。