「柚くん?」
木洩れ陽の下。幼なじみの植村心葉の声に俺は飛び起きた。
「わっ、なんだよ」
「なんだよとは、なんだよぅ」
蒸し暑い放課後。俺は中庭にある池のほとりで、うとうと昼寝をしていた。大きなケヤキの枝葉をくぐった木洩れ陽がなんとも気持ちいい――はずだったのに、嫌な夢を見てしまった。事故からだいぶ経つのに、今もまだ色褪せずリアルなままだった。
「ああ、びっくりさせんなよ。って、心葉!? どうして?」
「心葉、さん。でしょう。もうっ。さんをつけなさい、さんを!」
「っていうかさ……なんで? なんで心葉がここにいるの?」
俺は寝ぼけ眼をこすりながら、彼女をつま先から頭の天辺まで眺めた。ここに居るはずのない彼女が、目の前でくくくといたずらっぽい声を上げている。まだ夢の中にいるみたいだ。
「それはこっちのセリフ。なんで柚くんがうちの高校にいるの?」
「いや、だって、ここ、俺の学校。っていうかお前さ……身体……。もういいのか? 病院は?」
「ん? 病院?」
彼女は踊るように手足をひらひらとして、わざとらしく健康をアピールした。
「よく覚えてないんだけど、私、病院にいたの?」
ピンボケしたままの彼女の表情に、俺はひやりとしたコンクリートの縁を手先で探った。驚いた衝撃で、池に落としてしまったらしい。
「どうしたの?」
心葉が呆れた様子で尋ねてきた。
「まみむねも、がなくてさ」
「ふふーん。なぞなぞ? 柚くん、相変わらずだね」
彼女は腰に手をあて「ふーむ」と空を見上げ答えを探す仕草をしながら、時折、ふふん、なんて昔と変わらぬ笑い声をあげる。ちょっぴり幼さの残る甘い声。だいたい、2歳上の高3の先輩てのは怖いイメージしかないんだけど、彼女からはそんな威圧感なんて微塵も感じない。
心葉は俺の顔を一瞥して「――眼鏡でしょ。『め』が『ね』か。ふふふーん」なんて鼻をならした。
「さすがだね、正解。池に落としたっぽい」
俺が肩をすくめると心葉はすぐ隣までかけよってきて「ったく」とデコピン一発。するが早いか、次の瞬間にはぐっと池に身を乗り出した。
「うわっ、おまっ、危ないってば」
「だいじょぶだいじょぶ!」
顔を突き出し水底を睨む彼女。その肩を俺は必死でおさえた。
「あ、普通に触れるのか」
「えっ? 何? 私なんかまずいことしてる?」
一緒に水面を見つめてみたけれど、正直よくわからない。近眼で乱視だから、手も足も――もとい、目も出ない。
「いやっ、そうじゃなくて。普通に幽霊か何かかと思ってた」
「どういうこと?」
「ああ、いいや、こっちの話」
青緑色の池に青緑色のセルフレーム眼鏡。俺には全てが溶けてしまっていて、ちっとも見分けられない。
「うーん? ……あれかなぁ?」
「――えっ、見えるの?」
「うん。任せて」
彼女は腕まくりして、じゃぼっと音を立てて池に手を突っ込んだ。ふわりと緩く結ばれた髪が首筋にたれ、毛先は今にも水面につきそうだ。
「……水、冷たいんじゃない?」
ビオトープとして生物部が手入れしている池。それなりに水は澄んでいた。
「んんー、気持ちいいよ! 柚くんも手ぇ入れれば? えーとああ、あったあった」
「マジ?」
「うん。ちょうど、岩の間に挟まってる……よっ」
半身をひねり、彼女は池の底に右手を伸ばす。
「案外深いね。あらら。よっ……んーと、もう、ちょっとで……ゆびが……とど」
今にも池に落ちそう。身体のどこだったら支えていい? あらぬところを触らないように恐る恐る手を伸ばすと「はい」なんて左手が差し伸べられる。
「しっかり握ってて」
「お、おう」
俺が戸惑うと、今度は彼女のほうが恥ずかしそうに目を伏せた。陽を浴びたせいか彼女の頬は桃色に染まって見えた。でも彼女の表情はよく分からない。くもりガラスの向こうにあるみたいだ。俺はこのときほど、近眼を悔やんだことはない。
記憶よりもだいぶ小さかった彼女の手に「ああ」なんて感傷に浸る間もなく、彼女はいよいよ池に向かって体重をかけた。
「うあっ、分かったって、俺とるから! 一回、手出せっ。落ちるぞ!」
恥ずかしさに手の力を緩めれば彼女は池に落ちる。選択の余地はない。俺は彼女の華奢な手を両手で必死に引いた。彼女は安心したのか、めいっぱい池の底に手を伸ばした。
「んんん――――――――――よ~しっ。とどいた」
それを聞いて、俺は池と反対側に思いっきり体重をかけて彼女の腕を引いた。
「うわっとととと……」
――ズシンッ。
急に体重を戻すものだから、今度は勢い余って2人して縁から転げ落ちてしまった。尻もちをついた俺の上で、心葉が申し訳無さそうに背中を丸める。
「あわわっ、ご、ごめん……柚くん、大丈夫?」
「っててて……う~……まぁ俺は大丈夫。心葉は? ――あっ、そで!」
彼女の手からポタポタと水が滴るのを見て、慌ててハンカチを差し出した。
「あぁ、しまったナ」
彼女は俺と繋いだままになっていた左手を照れくさそうに解き、後ろ頭をかいた。
「大丈夫。すぐ乾くよ」
彼女はハンカチを受け取らず、立ち上がった。
まくしあげた右のそでから、水滴がつぅーと二の腕を伝う。桃色の肘のところでしずくになり、ぽたり落ちて陽だまりのコンクリートに染みをつくる。そんな一部始終に目を凝らしていると
「ねぇ、どこ見てんの? もうっ」
不意打ちでもう一発デコピンが入る。顔は怒ってない。
「ん、それより、はい」
まっすぐ差し出したままの俺の手の上のハンカチに、ぽんっと眼鏡が置かれる。
「もう落とさないようにね」
「ああ。サンキュッ」
彼女は自分の腕を、俺は眼鏡を拭いながら、互いをじろじろと眺めた。
「お前さ……おばけか何かなの?」
「どうして?」
「どうしてって? いや、こっちが聞きたいよ」
さっき見た夢がまだ、脳の奥でくすぶっていた。
「だってお前、事故で――」
「柚くん。ちょっと、大人っぽくなった?」
俺の気持ちを知ってか知らずか、彼女は俺の話なんぞそっちのけで俺の顔を覗き込んでは不思議そうに目を丸くした。
「あのな、いつと比べてるの?」
小学生の頃と比べているのか。まぁ確かに、その頃は彼女のほうが大きかった。小学生男子なんて大抵そんなもんだ。もちろん、さすがに中学の間にあっさり抜いたけど。
「こうして話すの、久しぶりな気がする」
「――まぁ、それはそうだね」
俺は眼鏡をかけ、彼女のゆるんだ口元を確認する。他人の空似というわけじゃなさそうだけど、幽霊とも違う。
久しぶりなのは本当だった。ずいぶん長いこと、話をしていなかった。当然だ。俺は目の前で起こっていることの1%も理解できていなかったけど、彼女の笑顔がすべての説明になっている気がして、それ以上何も聞けなかった。
心葉は事故で死んでいる。1年前に。
でも、それを口にしてしまったら、眼の前にいる彼女が消えてしまうような気がした。
「「ねぇ」」
俺が声をかけたちょうどのタイミングで、彼女の声が重なった。
「うぁ。カブった……。先、どうぞ……レディ・ファースト」
「いいよ。譲るよ。はい、柚くん先どうぞ」
「えっ、あ、いや、あのさ――」
言いにくい。非常に言いにくい。
「も、もしよければ」
「なあに」
「――お、幼なじみに、戻らない? 俺ら」
「あはははっ。なにそれ?」
「自分でも、おかしなこと言っているのは、分かってる。でも、なんていうかほら、別に俺らケンカしたとかさ、そういうんじゃ、ないじゃん?」
「それはまぁ、そうだね」
ふふふんと気分よさそうに笑う彼女。足元の木洩れ陽のまだら模様を眺めながら、ケヤキの大木までスキップしていった。
「今日だって、すげえ不思議な感じ」
俺は彼女の背中に声をかけた。
「だって、ずっと口聞いてなかったのにさ。そんなの、まるで無かったみたいじゃん? まるで、昨日も会ってたみたいな感じ」
「ふふっ」
「なんだよ。先輩ヅラすんなって」
と言ってはみたものの、彼女のふわりとした笑い顔はどこか幼い感じがした。
「同い年だったら、恋に落ちたかな、私たち?」
「は?」
「あははっ。ううん、独り言」
彼女は少しうつむき加減に振り返った。それから、彼女は一息にこう言い切った。
「いいよ――それで、幼なじみに戻って、どうする? 何すればいいの?」
「ふぇっ?」
不意打ちすぎて、変な声が出る俺。
「え、だって、戻りたかったんでしょう?」
心葉は人差し指を頭にあて小首をかしげた。
「いや、そうだけどさ」
「だったらさ、幼なじみらしいこと、しようよー」
相変わらず彼女の発想は俺の予想の斜め上をいった。
「幼なじみらしいことって何だよ? 逆に俺が聞きたいよ」
「さあ、なんだろう……。かくれんぼでもしてみる?」
「小学生かよ!」
「じゃあ何があるのよ?」
彼女は頬を膨らませる。
「鬼ごっことか、なんかこう……あるだろう?」
「じゃあさ、一緒に家出しない?」
俺たちの間をささぁっと夏の風が通り抜ける。ゆらゆら揺れていた沢山の丸が地面で一斉にざわめき立った。
「家出……か」
幽霊が言うのはなかなかシュールだ。俺は心のなかで一人ほくそ笑んだ。
「いいねいいね。幼なじみっぽい――って、まてまてまて」
「夏休みといえば家出でしょ」
さっぱりわからん。
「手伝ってくれない?」
「ちょ、話を聞けって」
心配性のくせして猪突猛進。一度決めるとどこまでも突っ走る。そんなところは昔と変わっていない。周りに流されやすい俺の性分は、きっと彼女と過ごした幼少期のせいだ。
「私、たぶん夏休みが終わったら、帰らなきゃいけないから」
「えっ?」
「えっ、あっ、いや……」
「帰るって、どこに?」
「ううん、なんでもない。なんか、よく分からないけど……そんな気がしただけ」
「心葉……やっぱお前……」
続く言葉を探していると、甲高い声が背後から飛んできた。
「おーい、部活はどうした!!」
振り返ってみると、声の主は3年の柊先輩。「うす」と会釈すると、彼女は怪訝そうに心葉の顔をじろじろと眺めた。
「椎名くんの……カノジョ?」
「い、いや、違いますって」
「植村心葉です。今日から、幼なじみに戻りました」
そう言って心葉はペコリとお辞儀をした。
「意味不明だが……」
柊先輩は長い黒髪を耳にかけ、いっそう眉をひそめた。
「見たことない顔だけど、何年?」
「えっと、あ! 1年です」
「なわけないだろ」
またいつもの冗談かと思って俺がすかさず突っ込むと、心葉はいたって真面目な顔。
「なんだ、どういうことだ?」
柊先輩はいよいよ手を口に当て、探偵のように心葉をじろりと睨んで首をかしげた。
「3年っ、3年生。俺の昔からの知り合いで、2つ上の姉ちゃんみたいな感じで」
「知らない顔だな。なんか変だな……」
「いっいや、そんなことないすよ」
俺がしどろもどろになって答えると、空を見上げるようにして考え込んだあと、あそっか、と小声で呟いた。
「転校生か。よろしく。私、柊咲也子(さやこ)。地学部の部長してる」
先輩は一変してにこやかな顔になり、握手を求めた。
「はい。先輩。よろしくお願いしますっ」
心葉がペコリとお辞儀をすると、先輩は眉をハの字にして訝しんだ。
「ああん? 同じ3年だろ。咲也子でいいよ」
柊先輩は心葉に微笑みかけると、俺の方を向いて少しだけ険しい顔をした。
「それより、どうした? 今日、活動日だぞ」
「いや、行く予定だったんすけど、諸事情で――眼鏡を池に落としちゃって」
「相変わらずだな。キミのような生物が淘汰されずにいるのが、じつに不思議だ」
うちの高校はもともと女子校だったせいもあり、おおよそ7対3くらいと、普通の高校と比べると男女比率がおかしい。ハーレム? 御冗談を。実態は生徒会長も主要部活の部長も女子で占められた、明るい独裁国家である。俺みたいに自分の意見を持たずフラフラしている男子はすこぶる肩身が狭いのだ。
柊先輩は頼りがいのある性格で、とくに女子からは絶大な人気がある。高身長のモデル体型。顔もいいし、モテると思うのだけど、案外そうでもないらしい。
「心葉、家出したいのか?」
先輩は人に興味がない割に、地獄耳である。
「うん」
心葉がへらへら笑った。柊先輩は少しだけ考えるような素振りを見せ、それから何かを決心したように「よし」と頷いた。
「夏合宿、一緒にくるか?」
「やたっ。行く行く。行きます!」
無邪気に笑う心葉。
「心葉、マジで言ってる? 行き先、オーストラリアだぞ。海外だよ? 海外!」
「だったら、なおさらじゃん。ぜったい一緒に行く」
胸を張って答える心葉。
「あのな……。そもそも、合宿っていっても単なる合宿じゃないんだぞ。こっちも先輩が家出を」
「その話はいい」
俺の肩をぐいと押し、柊先輩が割り込んできた。
「何なに? 家出? あはははは」
「ああ、もう!」
柊先輩が俺の脇腹を肘で小突くのを見て、心葉はさらに笑った。
「なんでわざわざオーストラリア?」と心葉。
あっという間に友達よりも親しげな距離感になった2人に、俺は目を細めた。
「ストロマトライトを見に行くんだ」
「ストロ……マトライ、ト?」
「そう。シアノバクテリアの塊だ」
先輩の口から次々飛び出す未知の単語に、心葉の目が点になる。
「今からおよそ35億年前に生まれた細菌。光合成によって酸素をもたらした、地球史の主役とも言える生物だ。それが砂や泥と一緒に固まったのがストロマトライト」
すかさず俺はフォローに入った。
「だから動機も目的地も、完全に先輩の趣味なの。無理して付き合わなくていいよ」
「――めっっっちゃ楽しそうっ!! 行こう! 私も連れてって!」
「は?」
「お盆だし。言うなれば先祖だよね?」
「いや、待てって。だいいち、2年前くらいにオーストラリア行ったことあるって言ってなかったっけ?」
「いや初めてだよ。ああ35億年ぶりの墓参りかぁ。ロマンだ。ふふふーん」
屈託のない笑顔。小学生かよ。目をキラキラさせ、心葉は両手を握りしめた。
「よし、決まりだな!」
2人でハイタッチなんてして、おかしなテンションになっている。いつの間にか「心葉」「咲也子(さやこ)」と名前で呼び合う仲に。先輩もいつになく上機嫌で「きまり、きまりぃ」だって。家出だというのを完全に忘れとる。
「生きたストロマトライトだ。化石じゃなく。今もブクブク酸素を作ってる」
心葉の手を持ち、いまにも空港に連れて行かんばかりの柊先輩。俺は「まぁまぁ」となだめるように口を挟んだ。
「いくらなんでも、親が心配するんじゃないすか?」
水を差すようなことを言ってしまった自覚はあった。睨まれるかと思いきや、先輩は少し影のある表情をした。
「――だからやるんだろうが」
そして、長い髪を風にあずけ、誰にでもなく笑った。
彼女は、統計を論理で突破しようとしていた。
入部してすぐに柊先輩に言われて調べたのだが、統計上、高校生の家出の大半は友人の家に向かうらしい。行くあてもなく、ホテルに泊まる金もないからだそうだ。だから、彼女はまず「いきあたりばったりがだめ」と目的と行き先を明確に決めた。そして1週間ぶんの綿密な旅程を組み、費用も算出。バイトで資金を用意する計画も立ててあった。これが4月の時点。俺が入部した初日の状況である。
「心配しなくていい。単なる遠征だ」
しかも、問い詰められたらすぐ口を割ってしまいそうな、俺を含めた新入部員2人を家出に加担させるという抜かりなさ。公私混同も甚だしい。
「心葉、ほんとにいいのか?」
「うん」
柊先輩の家出――もとい遠征は、いまや決行するのみというところまで来ていた。航空券代は支払い済。もう後には引けない。おかげで、入部してからの3ヶ月間はバイト三昧で部活どころではなかった。選択をミスったか……。後悔先に立たず。
俺はのんびりしたくて、とびきり緩そうな地学部を選んだのに現実は違った。ちょっと気になるカワイイ先輩から誘われていた生物部を断ったのに、だ。
いや、わかってる。流されやすい俺の性格が問題なのは。
柊先輩は「だだし、条件がある」と人差指を立てた。
「日曜日の遠征にも参加してもらう!」
「分かった」と心葉は小さく頷いた。
そんなところに「おーう、柚」なんて樫本耕太郎(こうたろう)がなれなれしく肩を組んでくる。同じ1年。通称カッシー。
「あ、サヤちゃんも、こんなとこに居た」
「耕太郎! 頼んでおいたこと、終わったのか?」
さっそく柊先輩から激が飛ぶ。
「サヤちゃん、待ってくれよ」
「あー、もうっ! だから、柊先輩と呼べつーの!」
カッシーがへらへら笑って肩でも揉もうかと伸ばした手を、ホコリでもはらうようにさっと往なす柊先輩。
「ね、咲也子。もしかして、2人は……」
「そう。残念ながら!」
「ふふふ」
「正直、心葉が羨ましいよ――まともな幼なじみ」
先輩が俺の顔をちらっと見て笑う。白い八重歯が案外かわいい。『まとも』との評をいただけて光栄です。
「心葉、幼なじみをやめる方法は知らないか?」と柊先輩。
「ひどいなぁサヤちゃん。一緒にお風呂入った仲じゃん!」
「だぁあっ! おまえはそういうのを大声で言うなってば! そんなの幼稚園とかのころだろうがぁっ!」
顔を真っ赤にしてカッシーの背中をばしばしと平手で打つ柊先輩。俺は「ハハハ。面白いだろ、この2人。見てて飽きない」と心葉にウインクした。
「あははは。なんだか地学部って、思ってたよりずっと明るいね」
「おいおい……」
今まで、どんなイメージだったんだよ。
「まぁ、俺も似たようなもんか。入部するまで、2人が幼なじみって知らなかったし」
ふふふん、と心葉はいつものように鼻をならして笑った。
「さて、私も準備しなくっちゃ。みんなこれから部活だよね? バイト? じゃあ柚くん、またね」
そう言って彼女は足早に去っていった。
このまま会えなくなってしまうかもなんて、妙な胸騒ぎがした。声を掛けようか一瞬迷ったのだけど、カッシーにがっちり肩組みされていたせいで追いかけることもできず、そのまま有耶無耶になってしまった。
「っていうか、良かった……」
独り言みたいに呟いた俺の言葉に、カッシーが首を傾げた。
「ああん? 何がだよ?」
「あ、いや……二人にもちゃんと見えてるんだなって、心葉のこと」
「当たり前だろ。何言ってンだよ。訳わかんないこと言ってないで、さっさと準備に戻るぞ」
部活といっても部長含めて部員3名の地学部で、そんなに熱心にやることなんてありはしないなんて思っていたのは大間違いだった。
柊先輩は用意周到を地で行くキャラで、秋の文化祭の用意を夏休み中に仕上げるつもりのようだった。夕暮れの理科室で細々した作業をしてから、俺は学校をあとにした。
「家出、してきました――」
帰宅してリビングでごろ寝していたところにチャイムが鳴り、しぶしぶ玄関の扉を開けたところで、驚いた。昼に会ったときと同じ、制服姿の心葉が立っていたからだ。
「は? オーストラリアは今日じゃないぞ」
「今夜、泊めてくれない……かな?」
彼女は敬礼するみたいに額に片手を当て、少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「おじゃましまぁす」
心葉がうちにくるのは5年ぶりくらいか。
「いやいや、まてまて。今日はダメだって」
「えっ? なんで?」
「親、今夜はふたりとも帰ってこないんだ……出張に行っててさ。学会」
俺の親は研究者で、こんなふうに家を留守にすることも多い。
「ふーん。それがなにか?」
心葉よ、幼なじみとはいえ年頃の男子がいる家に泊まりにくるなんて、いくらなんでも無邪気すぎないか? 俺が手を出さないとでも? まあ、そんな勇気ないわけですが。
「私、今日は柚くんの部屋で寝るから。気にしないで」
「お、おい、何言ってんだよ。それが一番まずいだろ」
「え? そう? 大丈夫だよ。ベッドの下に隠してるエッチな本とか探さないからさ」
「いや、そうじゃなくて! だってほら、えーと、心葉も俺も高校生。わかる? ドゥユゥアンダスタン? もう小学生じゃないんだぜ」
「そんなの分かってるわよ」
きょとんとした顔。逆に俺が変なこと言っている人みたいになっちゃってる。
「だからさあ、わかんない? 一緒の部屋で寝るのはさすがにアウトでしょ?」
「アハハハハ。何言ってンの! 柚くんはリビング!」
ああ。
そりゃあ、まぁ、そうだろう……納得。
2階の奥にある俺の部屋に案内すると、さっそく本棚を物色する心葉。ふふふふーん。なんて鼻歌を歌いながら楽しそうだ。
「前来たの、俺が小3か4のとき? 覚えてる? あんときも、泊まっていったよね?」
「ねぇこれ、私があげたやつ?」
人の話を聞いていない様子で心葉はへへへと鼻をこすり、本棚の一番上から小さな岩板を手にとった。
「そうそう。修学旅行のお土産、だっけ?」
彼女からもらった木の葉の化石。黄土色の板の上にくっきりとモミジが刻まれている。その名も〈木の葉化石園〉で化石掘り体験をしたときのお土産だった。
「心葉にもらった木の葉、ってのが、妙に捨てられなくて……」
「ふふふ。柚くん、物持ちいいね」
心葉の行った2年後には、同じ場所に俺も行ったのだけど。なんなら、俺が掘ってきたほうの化石も並べてある。俺のはクリの葉。半分くらい欠けてしまっている。心葉はニコニコしながら化石を戻すと「あ、こっちは?」とまた別のを見つけた。
コアラの形のアロマディフューザー。心葉よろしくデコピンすると、ふわりとユーカリの香りが漂った。
「んんー初めて嗅いだ! いい匂い。すっとするね」
「初めて? ……そっか。それは、覚えてないんだ」
今日、高校で会ったときも本当は3年生のはずが1年生だと思い込んでいるみたいで学年の認識が変だったし、記憶が混乱してるのかもしれない。
「ごめん」
「いや、謝らなくていいよ。それはさ、2年くらい前に、オーストラリア土産だっていって、もらったものなんだ」
「ほんと、ごめんね。私、よく覚えてないんだ……」
心葉はバツの悪そうな顔をしてうしろ頭をポリポリとかいた。
「おにぃ? 誰か来てるのぉー?」
ドアの向こうから妹の杏(あんず)の声がしたので、俺はとっさに
「ああ。心葉だよー」
と応えてしまった。
「えっ?」
「あ、いや」
「えっ? えっ? だって、心葉さん、交通じ」
「ああ、ちょっと杏、いまはその話はやめようか」
俺は後ろ手でドアを閉め、部屋に残した心葉に聞こえないような小さな声で杏に囁いた。
「あのね。同じ名前だけど……違う人なんだよ。だから、さ。わかるだろ」
「そうなんだ。わかった」
杏はこくこくと頷くと、俺を押しのけて部屋に戻った。
「こんにちは。心葉さん、きれいな声! いやぁ、まさかおにぃがこんな素敵な彼女を連れてくる日がこようとは。妹冥利につきますなァ」
「ちがうって。ああー、もうっ」
あたふたする俺と対照的に、心葉はくすくすと余裕の笑みを浮かべていた。
「さ、夕飯夕飯。下に降りるよ」
俺は肘をつきだして、杏に握らせた。杏はニコニコしながらむんずとつまみ、手すりまでいくと自分で持ちかえる。俺に続いてするすると階段を降りてくる杏の後から、心葉もついてくる。
「ごめん。柚くん。変なこと聞くけど。もしかして、杏ちゃんって――」
「ああ。目が悪くて。もともと見えてたんだけどね。4年くらい前かな。感染症で」
角膜の上でウイルスが繁殖する病気だった。今はもう、両目ともほとんど見えてないらしい。
「そうなんだ……。ごめんなさい。私ったら……」
「大丈夫です! 真っ暗闇ってわけじゃなく、ぼんやりと光は見えるから」
そう杏が明るく答えると、心葉は安心した様子で目を細めた。
「それに、心葉さんの声、聞いてるとなんか落ち着くー」
杏はいつもあっけらかんとしていて、もう少し深刻に考えろよと心配になるほどだ。医者からは移殖しかないと言われてドナーを待ち続けているけれど、だからといって外出控えでふさぎ込むなんてのとも無縁だ。
「杏ちゃん声フェチ? ふふふーん。私で良ければ朗読でもなんでもするよ」
「きゃははは。心葉さん、うけるー」
そんな調子で、妙に波長が合う2人は夕食の席を隣どうしにすると、すこぶる楽しそうだった。向かい側に座った俺は、女子トークの蚊帳の外。
「心葉さん。なんで、家出を? っていうか、なんで、うちに?」
「うーん、なんでかな。ちょっと家に帰りづらいなって……なんとなく」
心葉が杏に小さく確認してから彼女の皿にゆずポン酢をかけると、杏はどうも、と心葉のいるほうに会釈してから、器用に口に運んだ。
俺はなんとかして会話に入りたかったけれど、おとなしく野菜たっぷり冷しゃぶを食べていることにした。
「あーわかった。心葉さん、まさかおばけとか――」
「おっ、おい。杏!」
「――怖いから?」
杏が笑う。
なんだよ、びっくりさせんなよ。
急に出てきた核心をつく話題に、心臓が口から飛び出るかと思った。
「ちっ、違うよ。ハハハ……」
心葉が照れ笑いする。
もう居るはずのない彼女と再会し、幼なじみに戻ったその日に泊まりに来るなんて――。夏の遠征にも参加するとか言ってるし。俺の脳の処理能力の限界を何倍もオーバーする不可解な出来事の連続に、めまいがした。
心葉の後に入ると悶々としそうだったので、風呂は俺が先に入った。
杏は心葉と一緒に入るといって聞かず、彼女を追いかけていった。かれこれ30分は入っている。仲良し姉妹みたいだ。つーか、女子って楽しそうでいいね。ふたりの入浴中、リビングに居た俺は風呂からもれ聞こえてくる声に落ち着かず、結局自室で待つことになった。
「ゴメン長湯しちゃったー」
もう30分ほどした頃、頬を桃色にした心葉が部屋に帰ってきた。
「ははは。杏がお世話になりました」
俺がベッドから起き上がると、心葉はすぐ目の前にちょこんと腰かけた。ダボッとした大きめのTシャツに包まれ、丸い背中がやたら華奢に見える。おろした髪からは甘い香りが漂ってきて、得も言われぬ気分になってしまう。俺のと同じシャンプーのはずなのに、なんでこうも違うのか。不可解なり。
「ねぇ、幼なじみなら、このあと、どうするんだろう?」
膝を抱き、ふふふんと笑う彼女。挑発しないでいただきたい。ショートパンツから覗かせるすらりとした足は、もう俺たちは小学生じゃないと言ってる。
「さてね……」
年頃の男女が、風呂上がりのラフな格好で部屋に2人きり。互いに高校生になって再会した幼なじみと、何をすればいいのか。俺の経験値はあまりにも低すぎた。
――いやまてよ。何もしないほうがいいのか?
「私は、ちょっとは覚悟してきたよ」
「は? なに言ってんだよ」
「柚くんなら、いいかな……と」
静かに目をつむる彼女。
「練習、してみよっか」
「何の話だ? ……それよりさ、なんで家出を?」
彼女の表情に違和感を感じた俺は、ベッドから降り隣に座った。体育座りの彼女。泣いてるのかと思い顔を覗き込むと、心葉はいつになく真面目な表情で呟いた。
「家に帰ったの。そしたらね——」
「まさか」
学校で別れ際に感じた妙な胸騒ぎはこれだったのか。
「私さ……死んでるの?」
「えっ、なにかの間違いだろ? だってさ」
背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
「ううん。隠さなくていいよ。柚くんだって、ほんとは、何かおかしいなって思ってるんでしょう?」
そんな言葉聞きたくない。
不安で表情をこわばらせる彼女の顔から目を逸らしたくなる気持ちを堪え、じっと彼女の瞳を見つめた。
「柚くん。心配してくれてありがとう――――優しいから、嘘ついてくれてるんだよね」
そんな――。せっかく幼なじみに戻れたのに。
「そうだよ。お前はさ、去年、交通事故で」
「じゃあ、私は何なんだろうね。幽霊とか、そういうのかな?」
再会して、なけなしの勇気振り絞って「幼なじみに戻ろう」なんて変なこと言ってさ。また小さいときみたいに戻れるのかなって楽しみにしていた矢先なのに。そりゃないよ。
「俺には分からないよ。だって、みんなにも見えてるし、それにほら、触れるし、ご飯も食べられたし、風呂も入れたろ? っていうか……よくそんなに落ち着いていられんな」
「私だって怖いよ」
「ごめん。そうだよな」
「そんな、憐れむような目で見ないでよ」
彼女が目をうるませる。
「ねぇ、私って何なの?」
「えっ? な、何って……心葉は心葉だろ」
俺が口ごもると、彼女はふふふと笑ってコップの麦茶をこくこくと飲んだ。
「――そっか。そうだよね。柚くんが優しい人でよかった」
彼女は静かに呟いてから、そっぽをむいた。
「心葉……」
「私も、なんでここに居るのかよくわからないの。覚えてないの。どうやって学校まで行ったかも知らない。でも、気づいたら学校の門のところにいて、柚くんを見つけたの」
彼女の小さな肩に、そっと手をのばす。俺のほうが震えていた。
「俺はさ、嬉しかったよ。すごく。幽霊でもなんでもいい、もう一度、心葉に会えて」
彼女は一瞬びくっと背筋を強張らせてから、俺の顔を見てふふふといつもの調子で笑った。
「柚くん。私もね、すーっごく、嬉しかった」
「え?」
「幼なじみに戻れて」
そんな素振り、今までちっとも見せなかったじゃないか――。ずるいよ。
俺は心のなかでひとり悪態をついた。
「とにかくさ、しばらくうちに泊まってきなよ。家に帰りにくいんだろ?」
「うん。ありがと」
それから、昔の話をひとつふたつした。二人して水族館で迷子になったこと。運動会の徒競走で俺が盛大にコケ、保健委員だった心葉に絆創膏を貼ってもらったこと。満足そうな顔で眠りに落ちた心葉にタオルケットをかけてあげてから、俺はリビングにおりてソファーで横になった。
木洩れ陽の下。幼なじみの植村心葉の声に俺は飛び起きた。
「わっ、なんだよ」
「なんだよとは、なんだよぅ」
蒸し暑い放課後。俺は中庭にある池のほとりで、うとうと昼寝をしていた。大きなケヤキの枝葉をくぐった木洩れ陽がなんとも気持ちいい――はずだったのに、嫌な夢を見てしまった。事故からだいぶ経つのに、今もまだ色褪せずリアルなままだった。
「ああ、びっくりさせんなよ。って、心葉!? どうして?」
「心葉、さん。でしょう。もうっ。さんをつけなさい、さんを!」
「っていうかさ……なんで? なんで心葉がここにいるの?」
俺は寝ぼけ眼をこすりながら、彼女をつま先から頭の天辺まで眺めた。ここに居るはずのない彼女が、目の前でくくくといたずらっぽい声を上げている。まだ夢の中にいるみたいだ。
「それはこっちのセリフ。なんで柚くんがうちの高校にいるの?」
「いや、だって、ここ、俺の学校。っていうかお前さ……身体……。もういいのか? 病院は?」
「ん? 病院?」
彼女は踊るように手足をひらひらとして、わざとらしく健康をアピールした。
「よく覚えてないんだけど、私、病院にいたの?」
ピンボケしたままの彼女の表情に、俺はひやりとしたコンクリートの縁を手先で探った。驚いた衝撃で、池に落としてしまったらしい。
「どうしたの?」
心葉が呆れた様子で尋ねてきた。
「まみむねも、がなくてさ」
「ふふーん。なぞなぞ? 柚くん、相変わらずだね」
彼女は腰に手をあて「ふーむ」と空を見上げ答えを探す仕草をしながら、時折、ふふん、なんて昔と変わらぬ笑い声をあげる。ちょっぴり幼さの残る甘い声。だいたい、2歳上の高3の先輩てのは怖いイメージしかないんだけど、彼女からはそんな威圧感なんて微塵も感じない。
心葉は俺の顔を一瞥して「――眼鏡でしょ。『め』が『ね』か。ふふふーん」なんて鼻をならした。
「さすがだね、正解。池に落としたっぽい」
俺が肩をすくめると心葉はすぐ隣までかけよってきて「ったく」とデコピン一発。するが早いか、次の瞬間にはぐっと池に身を乗り出した。
「うわっ、おまっ、危ないってば」
「だいじょぶだいじょぶ!」
顔を突き出し水底を睨む彼女。その肩を俺は必死でおさえた。
「あ、普通に触れるのか」
「えっ? 何? 私なんかまずいことしてる?」
一緒に水面を見つめてみたけれど、正直よくわからない。近眼で乱視だから、手も足も――もとい、目も出ない。
「いやっ、そうじゃなくて。普通に幽霊か何かかと思ってた」
「どういうこと?」
「ああ、いいや、こっちの話」
青緑色の池に青緑色のセルフレーム眼鏡。俺には全てが溶けてしまっていて、ちっとも見分けられない。
「うーん? ……あれかなぁ?」
「――えっ、見えるの?」
「うん。任せて」
彼女は腕まくりして、じゃぼっと音を立てて池に手を突っ込んだ。ふわりと緩く結ばれた髪が首筋にたれ、毛先は今にも水面につきそうだ。
「……水、冷たいんじゃない?」
ビオトープとして生物部が手入れしている池。それなりに水は澄んでいた。
「んんー、気持ちいいよ! 柚くんも手ぇ入れれば? えーとああ、あったあった」
「マジ?」
「うん。ちょうど、岩の間に挟まってる……よっ」
半身をひねり、彼女は池の底に右手を伸ばす。
「案外深いね。あらら。よっ……んーと、もう、ちょっとで……ゆびが……とど」
今にも池に落ちそう。身体のどこだったら支えていい? あらぬところを触らないように恐る恐る手を伸ばすと「はい」なんて左手が差し伸べられる。
「しっかり握ってて」
「お、おう」
俺が戸惑うと、今度は彼女のほうが恥ずかしそうに目を伏せた。陽を浴びたせいか彼女の頬は桃色に染まって見えた。でも彼女の表情はよく分からない。くもりガラスの向こうにあるみたいだ。俺はこのときほど、近眼を悔やんだことはない。
記憶よりもだいぶ小さかった彼女の手に「ああ」なんて感傷に浸る間もなく、彼女はいよいよ池に向かって体重をかけた。
「うあっ、分かったって、俺とるから! 一回、手出せっ。落ちるぞ!」
恥ずかしさに手の力を緩めれば彼女は池に落ちる。選択の余地はない。俺は彼女の華奢な手を両手で必死に引いた。彼女は安心したのか、めいっぱい池の底に手を伸ばした。
「んんん――――――――――よ~しっ。とどいた」
それを聞いて、俺は池と反対側に思いっきり体重をかけて彼女の腕を引いた。
「うわっとととと……」
――ズシンッ。
急に体重を戻すものだから、今度は勢い余って2人して縁から転げ落ちてしまった。尻もちをついた俺の上で、心葉が申し訳無さそうに背中を丸める。
「あわわっ、ご、ごめん……柚くん、大丈夫?」
「っててて……う~……まぁ俺は大丈夫。心葉は? ――あっ、そで!」
彼女の手からポタポタと水が滴るのを見て、慌ててハンカチを差し出した。
「あぁ、しまったナ」
彼女は俺と繋いだままになっていた左手を照れくさそうに解き、後ろ頭をかいた。
「大丈夫。すぐ乾くよ」
彼女はハンカチを受け取らず、立ち上がった。
まくしあげた右のそでから、水滴がつぅーと二の腕を伝う。桃色の肘のところでしずくになり、ぽたり落ちて陽だまりのコンクリートに染みをつくる。そんな一部始終に目を凝らしていると
「ねぇ、どこ見てんの? もうっ」
不意打ちでもう一発デコピンが入る。顔は怒ってない。
「ん、それより、はい」
まっすぐ差し出したままの俺の手の上のハンカチに、ぽんっと眼鏡が置かれる。
「もう落とさないようにね」
「ああ。サンキュッ」
彼女は自分の腕を、俺は眼鏡を拭いながら、互いをじろじろと眺めた。
「お前さ……おばけか何かなの?」
「どうして?」
「どうしてって? いや、こっちが聞きたいよ」
さっき見た夢がまだ、脳の奥でくすぶっていた。
「だってお前、事故で――」
「柚くん。ちょっと、大人っぽくなった?」
俺の気持ちを知ってか知らずか、彼女は俺の話なんぞそっちのけで俺の顔を覗き込んでは不思議そうに目を丸くした。
「あのな、いつと比べてるの?」
小学生の頃と比べているのか。まぁ確かに、その頃は彼女のほうが大きかった。小学生男子なんて大抵そんなもんだ。もちろん、さすがに中学の間にあっさり抜いたけど。
「こうして話すの、久しぶりな気がする」
「――まぁ、それはそうだね」
俺は眼鏡をかけ、彼女のゆるんだ口元を確認する。他人の空似というわけじゃなさそうだけど、幽霊とも違う。
久しぶりなのは本当だった。ずいぶん長いこと、話をしていなかった。当然だ。俺は目の前で起こっていることの1%も理解できていなかったけど、彼女の笑顔がすべての説明になっている気がして、それ以上何も聞けなかった。
心葉は事故で死んでいる。1年前に。
でも、それを口にしてしまったら、眼の前にいる彼女が消えてしまうような気がした。
「「ねぇ」」
俺が声をかけたちょうどのタイミングで、彼女の声が重なった。
「うぁ。カブった……。先、どうぞ……レディ・ファースト」
「いいよ。譲るよ。はい、柚くん先どうぞ」
「えっ、あ、いや、あのさ――」
言いにくい。非常に言いにくい。
「も、もしよければ」
「なあに」
「――お、幼なじみに、戻らない? 俺ら」
「あはははっ。なにそれ?」
「自分でも、おかしなこと言っているのは、分かってる。でも、なんていうかほら、別に俺らケンカしたとかさ、そういうんじゃ、ないじゃん?」
「それはまぁ、そうだね」
ふふふんと気分よさそうに笑う彼女。足元の木洩れ陽のまだら模様を眺めながら、ケヤキの大木までスキップしていった。
「今日だって、すげえ不思議な感じ」
俺は彼女の背中に声をかけた。
「だって、ずっと口聞いてなかったのにさ。そんなの、まるで無かったみたいじゃん? まるで、昨日も会ってたみたいな感じ」
「ふふっ」
「なんだよ。先輩ヅラすんなって」
と言ってはみたものの、彼女のふわりとした笑い顔はどこか幼い感じがした。
「同い年だったら、恋に落ちたかな、私たち?」
「は?」
「あははっ。ううん、独り言」
彼女は少しうつむき加減に振り返った。それから、彼女は一息にこう言い切った。
「いいよ――それで、幼なじみに戻って、どうする? 何すればいいの?」
「ふぇっ?」
不意打ちすぎて、変な声が出る俺。
「え、だって、戻りたかったんでしょう?」
心葉は人差し指を頭にあて小首をかしげた。
「いや、そうだけどさ」
「だったらさ、幼なじみらしいこと、しようよー」
相変わらず彼女の発想は俺の予想の斜め上をいった。
「幼なじみらしいことって何だよ? 逆に俺が聞きたいよ」
「さあ、なんだろう……。かくれんぼでもしてみる?」
「小学生かよ!」
「じゃあ何があるのよ?」
彼女は頬を膨らませる。
「鬼ごっことか、なんかこう……あるだろう?」
「じゃあさ、一緒に家出しない?」
俺たちの間をささぁっと夏の風が通り抜ける。ゆらゆら揺れていた沢山の丸が地面で一斉にざわめき立った。
「家出……か」
幽霊が言うのはなかなかシュールだ。俺は心のなかで一人ほくそ笑んだ。
「いいねいいね。幼なじみっぽい――って、まてまてまて」
「夏休みといえば家出でしょ」
さっぱりわからん。
「手伝ってくれない?」
「ちょ、話を聞けって」
心配性のくせして猪突猛進。一度決めるとどこまでも突っ走る。そんなところは昔と変わっていない。周りに流されやすい俺の性分は、きっと彼女と過ごした幼少期のせいだ。
「私、たぶん夏休みが終わったら、帰らなきゃいけないから」
「えっ?」
「えっ、あっ、いや……」
「帰るって、どこに?」
「ううん、なんでもない。なんか、よく分からないけど……そんな気がしただけ」
「心葉……やっぱお前……」
続く言葉を探していると、甲高い声が背後から飛んできた。
「おーい、部活はどうした!!」
振り返ってみると、声の主は3年の柊先輩。「うす」と会釈すると、彼女は怪訝そうに心葉の顔をじろじろと眺めた。
「椎名くんの……カノジョ?」
「い、いや、違いますって」
「植村心葉です。今日から、幼なじみに戻りました」
そう言って心葉はペコリとお辞儀をした。
「意味不明だが……」
柊先輩は長い黒髪を耳にかけ、いっそう眉をひそめた。
「見たことない顔だけど、何年?」
「えっと、あ! 1年です」
「なわけないだろ」
またいつもの冗談かと思って俺がすかさず突っ込むと、心葉はいたって真面目な顔。
「なんだ、どういうことだ?」
柊先輩はいよいよ手を口に当て、探偵のように心葉をじろりと睨んで首をかしげた。
「3年っ、3年生。俺の昔からの知り合いで、2つ上の姉ちゃんみたいな感じで」
「知らない顔だな。なんか変だな……」
「いっいや、そんなことないすよ」
俺がしどろもどろになって答えると、空を見上げるようにして考え込んだあと、あそっか、と小声で呟いた。
「転校生か。よろしく。私、柊咲也子(さやこ)。地学部の部長してる」
先輩は一変してにこやかな顔になり、握手を求めた。
「はい。先輩。よろしくお願いしますっ」
心葉がペコリとお辞儀をすると、先輩は眉をハの字にして訝しんだ。
「ああん? 同じ3年だろ。咲也子でいいよ」
柊先輩は心葉に微笑みかけると、俺の方を向いて少しだけ険しい顔をした。
「それより、どうした? 今日、活動日だぞ」
「いや、行く予定だったんすけど、諸事情で――眼鏡を池に落としちゃって」
「相変わらずだな。キミのような生物が淘汰されずにいるのが、じつに不思議だ」
うちの高校はもともと女子校だったせいもあり、おおよそ7対3くらいと、普通の高校と比べると男女比率がおかしい。ハーレム? 御冗談を。実態は生徒会長も主要部活の部長も女子で占められた、明るい独裁国家である。俺みたいに自分の意見を持たずフラフラしている男子はすこぶる肩身が狭いのだ。
柊先輩は頼りがいのある性格で、とくに女子からは絶大な人気がある。高身長のモデル体型。顔もいいし、モテると思うのだけど、案外そうでもないらしい。
「心葉、家出したいのか?」
先輩は人に興味がない割に、地獄耳である。
「うん」
心葉がへらへら笑った。柊先輩は少しだけ考えるような素振りを見せ、それから何かを決心したように「よし」と頷いた。
「夏合宿、一緒にくるか?」
「やたっ。行く行く。行きます!」
無邪気に笑う心葉。
「心葉、マジで言ってる? 行き先、オーストラリアだぞ。海外だよ? 海外!」
「だったら、なおさらじゃん。ぜったい一緒に行く」
胸を張って答える心葉。
「あのな……。そもそも、合宿っていっても単なる合宿じゃないんだぞ。こっちも先輩が家出を」
「その話はいい」
俺の肩をぐいと押し、柊先輩が割り込んできた。
「何なに? 家出? あはははは」
「ああ、もう!」
柊先輩が俺の脇腹を肘で小突くのを見て、心葉はさらに笑った。
「なんでわざわざオーストラリア?」と心葉。
あっという間に友達よりも親しげな距離感になった2人に、俺は目を細めた。
「ストロマトライトを見に行くんだ」
「ストロ……マトライ、ト?」
「そう。シアノバクテリアの塊だ」
先輩の口から次々飛び出す未知の単語に、心葉の目が点になる。
「今からおよそ35億年前に生まれた細菌。光合成によって酸素をもたらした、地球史の主役とも言える生物だ。それが砂や泥と一緒に固まったのがストロマトライト」
すかさず俺はフォローに入った。
「だから動機も目的地も、完全に先輩の趣味なの。無理して付き合わなくていいよ」
「――めっっっちゃ楽しそうっ!! 行こう! 私も連れてって!」
「は?」
「お盆だし。言うなれば先祖だよね?」
「いや、待てって。だいいち、2年前くらいにオーストラリア行ったことあるって言ってなかったっけ?」
「いや初めてだよ。ああ35億年ぶりの墓参りかぁ。ロマンだ。ふふふーん」
屈託のない笑顔。小学生かよ。目をキラキラさせ、心葉は両手を握りしめた。
「よし、決まりだな!」
2人でハイタッチなんてして、おかしなテンションになっている。いつの間にか「心葉」「咲也子(さやこ)」と名前で呼び合う仲に。先輩もいつになく上機嫌で「きまり、きまりぃ」だって。家出だというのを完全に忘れとる。
「生きたストロマトライトだ。化石じゃなく。今もブクブク酸素を作ってる」
心葉の手を持ち、いまにも空港に連れて行かんばかりの柊先輩。俺は「まぁまぁ」となだめるように口を挟んだ。
「いくらなんでも、親が心配するんじゃないすか?」
水を差すようなことを言ってしまった自覚はあった。睨まれるかと思いきや、先輩は少し影のある表情をした。
「――だからやるんだろうが」
そして、長い髪を風にあずけ、誰にでもなく笑った。
彼女は、統計を論理で突破しようとしていた。
入部してすぐに柊先輩に言われて調べたのだが、統計上、高校生の家出の大半は友人の家に向かうらしい。行くあてもなく、ホテルに泊まる金もないからだそうだ。だから、彼女はまず「いきあたりばったりがだめ」と目的と行き先を明確に決めた。そして1週間ぶんの綿密な旅程を組み、費用も算出。バイトで資金を用意する計画も立ててあった。これが4月の時点。俺が入部した初日の状況である。
「心配しなくていい。単なる遠征だ」
しかも、問い詰められたらすぐ口を割ってしまいそうな、俺を含めた新入部員2人を家出に加担させるという抜かりなさ。公私混同も甚だしい。
「心葉、ほんとにいいのか?」
「うん」
柊先輩の家出――もとい遠征は、いまや決行するのみというところまで来ていた。航空券代は支払い済。もう後には引けない。おかげで、入部してからの3ヶ月間はバイト三昧で部活どころではなかった。選択をミスったか……。後悔先に立たず。
俺はのんびりしたくて、とびきり緩そうな地学部を選んだのに現実は違った。ちょっと気になるカワイイ先輩から誘われていた生物部を断ったのに、だ。
いや、わかってる。流されやすい俺の性格が問題なのは。
柊先輩は「だだし、条件がある」と人差指を立てた。
「日曜日の遠征にも参加してもらう!」
「分かった」と心葉は小さく頷いた。
そんなところに「おーう、柚」なんて樫本耕太郎(こうたろう)がなれなれしく肩を組んでくる。同じ1年。通称カッシー。
「あ、サヤちゃんも、こんなとこに居た」
「耕太郎! 頼んでおいたこと、終わったのか?」
さっそく柊先輩から激が飛ぶ。
「サヤちゃん、待ってくれよ」
「あー、もうっ! だから、柊先輩と呼べつーの!」
カッシーがへらへら笑って肩でも揉もうかと伸ばした手を、ホコリでもはらうようにさっと往なす柊先輩。
「ね、咲也子。もしかして、2人は……」
「そう。残念ながら!」
「ふふふ」
「正直、心葉が羨ましいよ――まともな幼なじみ」
先輩が俺の顔をちらっと見て笑う。白い八重歯が案外かわいい。『まとも』との評をいただけて光栄です。
「心葉、幼なじみをやめる方法は知らないか?」と柊先輩。
「ひどいなぁサヤちゃん。一緒にお風呂入った仲じゃん!」
「だぁあっ! おまえはそういうのを大声で言うなってば! そんなの幼稚園とかのころだろうがぁっ!」
顔を真っ赤にしてカッシーの背中をばしばしと平手で打つ柊先輩。俺は「ハハハ。面白いだろ、この2人。見てて飽きない」と心葉にウインクした。
「あははは。なんだか地学部って、思ってたよりずっと明るいね」
「おいおい……」
今まで、どんなイメージだったんだよ。
「まぁ、俺も似たようなもんか。入部するまで、2人が幼なじみって知らなかったし」
ふふふん、と心葉はいつものように鼻をならして笑った。
「さて、私も準備しなくっちゃ。みんなこれから部活だよね? バイト? じゃあ柚くん、またね」
そう言って彼女は足早に去っていった。
このまま会えなくなってしまうかもなんて、妙な胸騒ぎがした。声を掛けようか一瞬迷ったのだけど、カッシーにがっちり肩組みされていたせいで追いかけることもできず、そのまま有耶無耶になってしまった。
「っていうか、良かった……」
独り言みたいに呟いた俺の言葉に、カッシーが首を傾げた。
「ああん? 何がだよ?」
「あ、いや……二人にもちゃんと見えてるんだなって、心葉のこと」
「当たり前だろ。何言ってンだよ。訳わかんないこと言ってないで、さっさと準備に戻るぞ」
部活といっても部長含めて部員3名の地学部で、そんなに熱心にやることなんてありはしないなんて思っていたのは大間違いだった。
柊先輩は用意周到を地で行くキャラで、秋の文化祭の用意を夏休み中に仕上げるつもりのようだった。夕暮れの理科室で細々した作業をしてから、俺は学校をあとにした。
「家出、してきました――」
帰宅してリビングでごろ寝していたところにチャイムが鳴り、しぶしぶ玄関の扉を開けたところで、驚いた。昼に会ったときと同じ、制服姿の心葉が立っていたからだ。
「は? オーストラリアは今日じゃないぞ」
「今夜、泊めてくれない……かな?」
彼女は敬礼するみたいに額に片手を当て、少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「おじゃましまぁす」
心葉がうちにくるのは5年ぶりくらいか。
「いやいや、まてまて。今日はダメだって」
「えっ? なんで?」
「親、今夜はふたりとも帰ってこないんだ……出張に行っててさ。学会」
俺の親は研究者で、こんなふうに家を留守にすることも多い。
「ふーん。それがなにか?」
心葉よ、幼なじみとはいえ年頃の男子がいる家に泊まりにくるなんて、いくらなんでも無邪気すぎないか? 俺が手を出さないとでも? まあ、そんな勇気ないわけですが。
「私、今日は柚くんの部屋で寝るから。気にしないで」
「お、おい、何言ってんだよ。それが一番まずいだろ」
「え? そう? 大丈夫だよ。ベッドの下に隠してるエッチな本とか探さないからさ」
「いや、そうじゃなくて! だってほら、えーと、心葉も俺も高校生。わかる? ドゥユゥアンダスタン? もう小学生じゃないんだぜ」
「そんなの分かってるわよ」
きょとんとした顔。逆に俺が変なこと言っている人みたいになっちゃってる。
「だからさあ、わかんない? 一緒の部屋で寝るのはさすがにアウトでしょ?」
「アハハハハ。何言ってンの! 柚くんはリビング!」
ああ。
そりゃあ、まぁ、そうだろう……納得。
2階の奥にある俺の部屋に案内すると、さっそく本棚を物色する心葉。ふふふふーん。なんて鼻歌を歌いながら楽しそうだ。
「前来たの、俺が小3か4のとき? 覚えてる? あんときも、泊まっていったよね?」
「ねぇこれ、私があげたやつ?」
人の話を聞いていない様子で心葉はへへへと鼻をこすり、本棚の一番上から小さな岩板を手にとった。
「そうそう。修学旅行のお土産、だっけ?」
彼女からもらった木の葉の化石。黄土色の板の上にくっきりとモミジが刻まれている。その名も〈木の葉化石園〉で化石掘り体験をしたときのお土産だった。
「心葉にもらった木の葉、ってのが、妙に捨てられなくて……」
「ふふふ。柚くん、物持ちいいね」
心葉の行った2年後には、同じ場所に俺も行ったのだけど。なんなら、俺が掘ってきたほうの化石も並べてある。俺のはクリの葉。半分くらい欠けてしまっている。心葉はニコニコしながら化石を戻すと「あ、こっちは?」とまた別のを見つけた。
コアラの形のアロマディフューザー。心葉よろしくデコピンすると、ふわりとユーカリの香りが漂った。
「んんー初めて嗅いだ! いい匂い。すっとするね」
「初めて? ……そっか。それは、覚えてないんだ」
今日、高校で会ったときも本当は3年生のはずが1年生だと思い込んでいるみたいで学年の認識が変だったし、記憶が混乱してるのかもしれない。
「ごめん」
「いや、謝らなくていいよ。それはさ、2年くらい前に、オーストラリア土産だっていって、もらったものなんだ」
「ほんと、ごめんね。私、よく覚えてないんだ……」
心葉はバツの悪そうな顔をしてうしろ頭をポリポリとかいた。
「おにぃ? 誰か来てるのぉー?」
ドアの向こうから妹の杏(あんず)の声がしたので、俺はとっさに
「ああ。心葉だよー」
と応えてしまった。
「えっ?」
「あ、いや」
「えっ? えっ? だって、心葉さん、交通じ」
「ああ、ちょっと杏、いまはその話はやめようか」
俺は後ろ手でドアを閉め、部屋に残した心葉に聞こえないような小さな声で杏に囁いた。
「あのね。同じ名前だけど……違う人なんだよ。だから、さ。わかるだろ」
「そうなんだ。わかった」
杏はこくこくと頷くと、俺を押しのけて部屋に戻った。
「こんにちは。心葉さん、きれいな声! いやぁ、まさかおにぃがこんな素敵な彼女を連れてくる日がこようとは。妹冥利につきますなァ」
「ちがうって。ああー、もうっ」
あたふたする俺と対照的に、心葉はくすくすと余裕の笑みを浮かべていた。
「さ、夕飯夕飯。下に降りるよ」
俺は肘をつきだして、杏に握らせた。杏はニコニコしながらむんずとつまみ、手すりまでいくと自分で持ちかえる。俺に続いてするすると階段を降りてくる杏の後から、心葉もついてくる。
「ごめん。柚くん。変なこと聞くけど。もしかして、杏ちゃんって――」
「ああ。目が悪くて。もともと見えてたんだけどね。4年くらい前かな。感染症で」
角膜の上でウイルスが繁殖する病気だった。今はもう、両目ともほとんど見えてないらしい。
「そうなんだ……。ごめんなさい。私ったら……」
「大丈夫です! 真っ暗闇ってわけじゃなく、ぼんやりと光は見えるから」
そう杏が明るく答えると、心葉は安心した様子で目を細めた。
「それに、心葉さんの声、聞いてるとなんか落ち着くー」
杏はいつもあっけらかんとしていて、もう少し深刻に考えろよと心配になるほどだ。医者からは移殖しかないと言われてドナーを待ち続けているけれど、だからといって外出控えでふさぎ込むなんてのとも無縁だ。
「杏ちゃん声フェチ? ふふふーん。私で良ければ朗読でもなんでもするよ」
「きゃははは。心葉さん、うけるー」
そんな調子で、妙に波長が合う2人は夕食の席を隣どうしにすると、すこぶる楽しそうだった。向かい側に座った俺は、女子トークの蚊帳の外。
「心葉さん。なんで、家出を? っていうか、なんで、うちに?」
「うーん、なんでかな。ちょっと家に帰りづらいなって……なんとなく」
心葉が杏に小さく確認してから彼女の皿にゆずポン酢をかけると、杏はどうも、と心葉のいるほうに会釈してから、器用に口に運んだ。
俺はなんとかして会話に入りたかったけれど、おとなしく野菜たっぷり冷しゃぶを食べていることにした。
「あーわかった。心葉さん、まさかおばけとか――」
「おっ、おい。杏!」
「――怖いから?」
杏が笑う。
なんだよ、びっくりさせんなよ。
急に出てきた核心をつく話題に、心臓が口から飛び出るかと思った。
「ちっ、違うよ。ハハハ……」
心葉が照れ笑いする。
もう居るはずのない彼女と再会し、幼なじみに戻ったその日に泊まりに来るなんて――。夏の遠征にも参加するとか言ってるし。俺の脳の処理能力の限界を何倍もオーバーする不可解な出来事の連続に、めまいがした。
心葉の後に入ると悶々としそうだったので、風呂は俺が先に入った。
杏は心葉と一緒に入るといって聞かず、彼女を追いかけていった。かれこれ30分は入っている。仲良し姉妹みたいだ。つーか、女子って楽しそうでいいね。ふたりの入浴中、リビングに居た俺は風呂からもれ聞こえてくる声に落ち着かず、結局自室で待つことになった。
「ゴメン長湯しちゃったー」
もう30分ほどした頃、頬を桃色にした心葉が部屋に帰ってきた。
「ははは。杏がお世話になりました」
俺がベッドから起き上がると、心葉はすぐ目の前にちょこんと腰かけた。ダボッとした大きめのTシャツに包まれ、丸い背中がやたら華奢に見える。おろした髪からは甘い香りが漂ってきて、得も言われぬ気分になってしまう。俺のと同じシャンプーのはずなのに、なんでこうも違うのか。不可解なり。
「ねぇ、幼なじみなら、このあと、どうするんだろう?」
膝を抱き、ふふふんと笑う彼女。挑発しないでいただきたい。ショートパンツから覗かせるすらりとした足は、もう俺たちは小学生じゃないと言ってる。
「さてね……」
年頃の男女が、風呂上がりのラフな格好で部屋に2人きり。互いに高校生になって再会した幼なじみと、何をすればいいのか。俺の経験値はあまりにも低すぎた。
――いやまてよ。何もしないほうがいいのか?
「私は、ちょっとは覚悟してきたよ」
「は? なに言ってんだよ」
「柚くんなら、いいかな……と」
静かに目をつむる彼女。
「練習、してみよっか」
「何の話だ? ……それよりさ、なんで家出を?」
彼女の表情に違和感を感じた俺は、ベッドから降り隣に座った。体育座りの彼女。泣いてるのかと思い顔を覗き込むと、心葉はいつになく真面目な表情で呟いた。
「家に帰ったの。そしたらね——」
「まさか」
学校で別れ際に感じた妙な胸騒ぎはこれだったのか。
「私さ……死んでるの?」
「えっ、なにかの間違いだろ? だってさ」
背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
「ううん。隠さなくていいよ。柚くんだって、ほんとは、何かおかしいなって思ってるんでしょう?」
そんな言葉聞きたくない。
不安で表情をこわばらせる彼女の顔から目を逸らしたくなる気持ちを堪え、じっと彼女の瞳を見つめた。
「柚くん。心配してくれてありがとう――――優しいから、嘘ついてくれてるんだよね」
そんな――。せっかく幼なじみに戻れたのに。
「そうだよ。お前はさ、去年、交通事故で」
「じゃあ、私は何なんだろうね。幽霊とか、そういうのかな?」
再会して、なけなしの勇気振り絞って「幼なじみに戻ろう」なんて変なこと言ってさ。また小さいときみたいに戻れるのかなって楽しみにしていた矢先なのに。そりゃないよ。
「俺には分からないよ。だって、みんなにも見えてるし、それにほら、触れるし、ご飯も食べられたし、風呂も入れたろ? っていうか……よくそんなに落ち着いていられんな」
「私だって怖いよ」
「ごめん。そうだよな」
「そんな、憐れむような目で見ないでよ」
彼女が目をうるませる。
「ねぇ、私って何なの?」
「えっ? な、何って……心葉は心葉だろ」
俺が口ごもると、彼女はふふふと笑ってコップの麦茶をこくこくと飲んだ。
「――そっか。そうだよね。柚くんが優しい人でよかった」
彼女は静かに呟いてから、そっぽをむいた。
「心葉……」
「私も、なんでここに居るのかよくわからないの。覚えてないの。どうやって学校まで行ったかも知らない。でも、気づいたら学校の門のところにいて、柚くんを見つけたの」
彼女の小さな肩に、そっと手をのばす。俺のほうが震えていた。
「俺はさ、嬉しかったよ。すごく。幽霊でもなんでもいい、もう一度、心葉に会えて」
彼女は一瞬びくっと背筋を強張らせてから、俺の顔を見てふふふといつもの調子で笑った。
「柚くん。私もね、すーっごく、嬉しかった」
「え?」
「幼なじみに戻れて」
そんな素振り、今までちっとも見せなかったじゃないか――。ずるいよ。
俺は心のなかでひとり悪態をついた。
「とにかくさ、しばらくうちに泊まってきなよ。家に帰りにくいんだろ?」
「うん。ありがと」
それから、昔の話をひとつふたつした。二人して水族館で迷子になったこと。運動会の徒競走で俺が盛大にコケ、保健委員だった心葉に絆創膏を貼ってもらったこと。満足そうな顔で眠りに落ちた心葉にタオルケットをかけてあげてから、俺はリビングにおりてソファーで横になった。