彼女の葬儀の夜。カラフルな夢を見た。
 幸せな夢だった――。
「何やってんの?」
 心葉の声に、俺は振り向いた。
「わっ、なんだよ。びっくりさせんなよ。心葉か」
「心葉さん、でしょう。もうっ。さんをつけなさい、さんを!」
 俺はメガネを探していた。あの日と同じなぞなぞを出すと、あの日と同じように心葉が答えた。彼女は腰に手をあて「ふふふーん」と空を見上げて笑った。ちょっぴり幼さの残る甘い声。俺の身体をぎゅっと包み込むような、柔らかな声。すごく久しぶりの気がした。
 初夏の陽気に俺は腕まくりした。中庭の池のほとりの大きなケヤキ。ゆらゆら揺れる木洩れ陽が、眺めているだけでも気持ちいい。
 心葉は「ったく」と俺のすぐそばまでかけよってきた。わかるよ。デコピンだろ? 俺は、ふふふと不敵な笑みを浮かべて彼女の手をパシッとうけとめた。「あれっ?」彼女はキョトンとした顔。
「メガネ、自分で拾うよ」
 俺ははっきり心葉にそう言った。
 これは夢だけど、夢じゃない。そんな気がした。心葉のタイムスリップで、時間軸がもつれてしまってる感じ。彼女は何も言わず、ふふふーんと鼻歌まじりに微笑んだ。
「大丈夫?」
「ああ。ひとりでやってみる」
 きっぱり言いきっておいてナンだが、それほど大したことをするわけじゃない。手を伸ばして池の底をゴソゴソ探せば、そのうち見つかるだろ。俺は高をくくっていた。
「見えてるの?」
 眉をひそめる彼女。手伝いたくてソワソワしている。
「いや、あんまり見えてないなァ。けど、大丈夫」
 池を覗き込む俺の手を心葉がそっと握った。俺はそれを見てうんと頷き、恐る恐る池に手を伸ばした。
「冷たくないの?」
「ふふふーん。案外気持ちいいよ」
 俺は池に手を突っ込みながら、心葉のマネをした。彼女が「似てないし」と頬をふくらませる。ごめんごめん。その顔が見たかっただけ。
「――岩の間に何かある。これかな?」
 指先にプラスチックのようなつるつるした感覚があった。伸ばした手の、中指の先にほんの少し触れる程度。水面はもう脇の下ギリギリだ。でも、メガネをつまみ上げるには、もう少し深く手を入れる必要がありそう。
 俺はいよいよ心葉の手を強く握り、必死で池の底に手を伸ばした。
「てか、けっこう、深いんだな」
「本当にっ、大丈夫ぅ?」
 心葉はぎぎぎと歯を食いしばって、俺の手を力いっぱい引いてくれていた。
「もうちょっとで……手が……とどっく」
「柚くんっ……は、や、くぅ! げんっかい、だよぉー」
「マジ!? もうちょっとだから」
 無理なら手ぇ離してちゃっていいぞ、と言おうとした次の瞬間――。
「よしっ、とどい」
「きゃああああっっ」
「うおっああ……」
 ごぼ、ごぼぼぼぼ――。
 心葉は手を離すことなく、俺たちはふたりして池に落ちてしまった。
「ぷはぁ――ケホッ、コホッ――」
 彼女はすぐに立ち上がり、むせながら明るく笑った。
「もうっ! コホッ……水、飲んじゃったじゃん」
「ゴホッゴホッ――こっ、心葉? 大丈夫? っ……ごめんっ」
 池の中に腰まで浸かり、俺たちは互いの顔を見て大笑いした。全身びしょ濡れで髪はぐちゃぐちゃ。ひどい有様だ。
「あははははっ」
「くくくくっ。ふふふふふふふ~」
 彼女は恥ずかしそうにうつむきながら髪を絞った。指先から溢れる水がキラキラ輝いては水面に落ち、丸い波紋を作っていた。水に濡れたブラウスに彼女の健康的な肌が透け、俺は目のやり場に困った。
「ごめん。ずぶ濡れだね……」
 ポケットのハンカチを渡そうにも、それもびしょびしょに濡れてる。
「くくくっ。あはははっ。あー、柚くん? 頭に水草ついてるよ。あはははっ」
 俺を指差して、お腹を抱えて笑う心葉。
「あっ、メガネ……」
 さっきまで握っていたはずなのに、俺の手にその感覚はない。心葉は少し心配した様子で眉を下げ、そのままちゃぷんと肩まで水に浸かった。もぞもぞと手で池の底を探ってると思ったら急に「ふふふーん」と何か思いついた顔。
「あなたが落としたのは、この青色のセルメガネですか? それとも――」
「ぷっ。なんだよ、泉の精かよ」
「それとも、この青色の好きな幼なじみですか?」
 心葉はへへへと八重歯を見せ、うやうやしくスカートの裾をつまんで会釈した。
「ええっ?」
 まてまてまて。何言ってんだよ。俺はそう思いながらも、透き通るような心葉の笑顔に負けて、この寸劇に付き合うことにした。
「あ、あの――幼なじみを落としました」
 これでいいのかな? 彼女はぴくりともしない。だんだん不安になってきた。
 ――メガネって答えるべきだったか。
「ふふふーん。正直でよろしいっ――はい、メガネっ」
 彼女がそっと手をのばす。俺はずぶ濡れメガネを受け取って、指で雫を払ってからゆっくりかけた。
「あのぅ、落とした幼なじみのほうは、どうしますかぁ?」
 俺がモタモタしていると、心葉はじゃぶっと音を立て近づいてきた。
「おかしいんだ……」
「ん? どうしたの?」
「メガネ、かけたのに……心葉の顔、よく見えないや――」
 俺の目は、涙を流しているようだった。
「心葉ごめんな」
「いいよ」
「俺、心葉を幸せにしてあげたかったのに――ごめんな」
「いいよ。幸せだったから。柚くんを好きになって、近くにいられて」
「俺のこと、助けてくれたんだよな。そのせいで」
「何も言わないで」
 心葉の唇が俺の口を塞いだ。
 目を閉じると、心葉が優しい力で俺の両頬をきゅううと引っ張った。
「柚くんは、笑ってて」
「心葉……」
「えへへへ」
 俺は心葉の両手をとった。彼女は頬を赤らめて、そっと俺の名前を呟いた。
「私、居なくならないから。誰かの目になって、体になって、生き続けるから」
「あのさ……」
「もうそろそろ行かなくちゃ」
「また会えるよね?」
「――会えるよ」
 柊先輩の言っていた、地球の物質循環。
 次はどういう姿で彼女と出逢えるのかな。
「次はシアノバクテリアに生まれ変わって、ハメリンプールで空を見上げてる頃かな」
「ふふふーん。コアラか、イルカかもしれないねぇ」
「ハハハ。まだ何億年も先かもな」
 このサイクルは案外早いと先輩は言っていた。
「準備の時間があるのはいいことだよ」
「待ち遠しいよ――。なぁ、次会うときも幼なじみに生まれようぜ?」
「いいねぇ」
「それからまた何億年も経ってから、きっと次の人類が俺たちの化石を見つけるんだ。そのときが世界で初めて『幼なじみの化石』が見つかった日になる」
「ふふふーん。最高じゃん!」
 心葉は嬉しそうな顔で、ぎゅぎゅっと俺の手を握った。
「ねぇ、最後に、最後にさ。あれ、やろっ? コインか石かゲーム!」
 例の、イエスなら石を、ノーならコインを入れる匿名アンケート。心葉がオーストラリアで教えてくれたものだ。まぁ、2人でやる意味はあんまりないんだけどさ。
 突然の提案に、心葉はきょとんとしていた。
 シャツの胸ポケットから、いつの間に入り込んだのやら、小石が2個見つかった。すぐに「あはは」なんて笑って心葉がコインをくれた。これで準備よし。
「質問は、柚くん決めていいよ」
「サンキュ」
 俺は深呼吸した。
 たぶん、すごく自信なさげな顔をしていたと思う。
 心葉が上目遣いでじっと俺を見ていた。そんな目で見ないで。俺は思わず視線をそらした。柚くんこっち向いてよ。心葉が笑う。かけがえのない笑顔。不思議と俺も笑顔になった。
「じゃあ、質問を言うね」と俺。
「よーし。さぁこいっ」
「ねぇ……出逢えて良かったと、心からそう思う?」
 俺が尋ねると、彼女は静かに俺のポケットに答えを入れた。
 瞬間、ぱしゃんと水が弾けるような音がして、彼女は消えた。
 池の真ん中にポツンと取り残され、木漏れ陽のむこうに光る青空を見上げた。
「ふふふーん」
 彼女を真似ようとしたけれど、あんまり似ていなかった。笑い声は青空に吸い込まれ、俺は目を閉じた。名前を呼ばれた気がして、心葉の居た場所を振り返る。風が吹いて葉が舞い散り、俺の胸にあたたかな想いだけが残った。
 翌朝、目が覚めると、小さな化石を2つ握りしめていた。
 俺はそれを、生涯大切にした。


 4年後――。
 俺は大学2年の夏休みに、杏を連れてハメリンプールにやって来ていた。黄色い大地と緑の低木、青い空。全部あの日のまま、時間が止まっているみたい。今度はちゃんとツアーの予約ができていて、マイクロバスでやってきた。
「きゃっは~。ここかぁ!」
 杏が明るく笑った。ストロマトライトを足元に眺めながら、海に突き出すように敷かれた木道を進む。突き当たりにある三角ループもそのままだ。海の色も空の色も。何億年もの間、ここはこういう景色のままだったんだろう。
「んで、おにぃが心葉さんにコクったのってどの辺?」
 杏が俺の脇腹をぐりぐりと攻めた。木道を行くツアー客が、俺たちをチラッと見てはくすくす笑っていた。
「だあああ、もういいから」
「ええーっ。ケチ。教えてよ」
「どこだっていいだろ」
「いいじゃん。減るもんじゃなし」
 杏は八重歯を見せてケラケラ笑った。
「俺の尊厳が減るのっ。ああっ、もうその辺だよその辺」
 俺はほんとうに適当な『その辺』を指差し、ぷいと海の方を向いた。
「ちぇーっ。つまんないの」
「そんなことより、景色を見ろよ。こっちが目的だろう?」
「そうだけどさぁ」
 そう言って杏は少しめんどくさそうな顔をして手をかざした。
「――青いねぇ。海も、空も」
 俺は、雲ひとつない空が映り込む彼女の瞳を眺めた。
「よく見えるか?」
「うん、青い」
 杏は俺なんて見ようともせず、空を眺めたまま答えた。
 俺たちと、海と空。あと先祖がたくさん――。それしかない場所で、やっぱり観光名所って雰囲気でもなかった。ここは、それでいい。人間の文明はそんなに長くはもたないと思うけれど、この景色はあと何千年、何万年も、このままであってほしい。
「――そっか。ならよかった」
 柵にもたれ、海を眺めた。エメラルドグリーンの浅瀬に、泡をまとったストロマトライト。濃青の水平線にむかって、海の色がゆっくりと変化している。
「どうしたの、おにぃ。こっち来てから、変だよ」
「えっ?」
「昨日も、おとといも言ったじゃん。オーストラリアの景色、最高だよって」
「んああ。ならいいんだ」
 杏は角膜の移植手術を受け、視力が回復しつつあった。オーストラリア旅行はこれまで彼女が頑張ったご褒美――という名目。本当は俺の強い希望で連れてきた。航空券はクリスマスのスタンプラリーで当てたものだ。
「そういえば、おにぃ最近、心葉さんとうまくいってる?」
「えーと、それ聞いちゃう?」
「だって、ずっと会ってないでしょう?」
 彼女はあの日の心葉と同い年になった。移植を受けた角膜の定着も良さそうだ。タイムスリップのことも、そろそろ時効なのかもしれないけど、俺は言わないと心に決めていた。
「そんなんで、付き合ってるって言える?」
「だから、幼なじみだってば」
「きゃははっ。でも、それにしては随分ご無沙汰してるよね」
 両手を口に当てて笑う。
「いいだろ別にっ。あいついまごろ、日本中を飛び回って忙しそうにしてるよ」
「そうか。なら仕方ないね」
「そうそう。ああ、杏が会いたがってるって伝えておくよ」
「お願いっ。せっかく見えるようになったんだもん。心葉さんの顔見てみたいじゃん。あーもちろん、声も聞きたいぃ」
 そう言って杏は何やらポシェットをごそごそと探した。
「そうだ、ドナーの方の親からお手紙もらったんだよ」
 嬉しそうにはにかんだ笑顔の杏。感謝状を書いて送ったら返事が来たのだという。互いに連絡先は不明。ドナーの家族と移植を受けた人は、会うことも、互いの名前を知ることもできないのだ。この手紙は、アイバンクを通して受けとったものだった。
「おにぃも一緒に読もうよ」
 彼女は無邪気に笑って俺の隣にかけてきた。俺は「ああ」なんて気だるい返事をして柵を離れ、一緒に砂浜まで戻った。石灰岩の階段に2人並んで腰掛けて、青い海を遠くに眺めながら、ゆっくりと手紙を開いた。ドナーの母親が送ってくれたらしいことが文面からすぐわかった。

 ――娘の目は今、何を見ていますか?
 私の見ている空とつながっている、同じ青空を見ている頃でしょうか?
 このたびは感謝の手紙をいただき、ありがとうございました。
 献眼に感謝してくださることに、正直、心苦しい気持ちでいっぱいです。だって、感謝しているのはこちらなのです。娘の目を使ってくださる方がいる。それだけで、私には娘が生き続けているように思えます。これほど嬉しいことはありません。
 娘が、ほんの一部かもしれないけれど、まだこの世に存在している。生き続けていていることは、私たちの生きがいです。あなたは提供で生かされてると感じているかもしれませんが逆なのです。娘の目を使ってくださることで、私たちが生かされているのです。
 娘の死と私たちの決断のときは、突然に訪れました。
 提供に踏み切ったのは、奉仕や慈善の気持ちではなく、娘が生きていた証がほしいという、身勝手な想いからです。娘が灰になり何も残らないのではないかという恐怖に耐えられなかったのです。何もかも無くなってしまうのは虚しい。娘の生きた18年間は、無かったのと同じなのか。悔しさと悲しさ。そういう思いで提供を決意したのです。
 今では、提供に踏み切って本当に良かったと思っています。娘の最後の願いを訴える声を、私たちはあやうく無視するところでした。教えてくれたのは、娘の大切な幼なじみの男の子でした。
 娘の目を大切に使ってくださり、ありがとうございます。娘はまだまだ見たいものがあっただろうに、事故でした。でも、こうして今もなお、いろいろなものを見られて、とても喜んでいることでしょう。
 日々、感謝の気持ちであなたのことを想っています。お体に気をつけて、これからも健やかに生きてください。それが私たち夫婦の最大の幸せです。

 杏が読み終わるのを静かに見届ける。彼女は一文字一文字を、愛おしそうに指でなぞっていた。
「――なあ杏。心葉をいろんな場所に連れてってやってくれよ」
 俺の言葉に、彼女はきょとんとした表情で顔を上げた。
「それでさ、いろんなものを見せてやってくれ。空も、海も、雲も……」
「おにぃ? いみわかんないよ」
 目を丸くして、小首をかしげる杏。
「とにかく。頼んだぞ。燃えるような夕焼けも、満点の星空も。揺れる木洩れ陽も」
「うんうん」
「それから、俺の情けない顔もだっ」
「うんー。やっぱイミフ。……ていうか、おにぃ泣いてンの?」
 俺は砂が目に入っただけと強がって、彼女の肩を叩いた。
「心葉をよろしくな」
 杏は敬礼のポーズになって「とにかく了解っ」と笑った。
 彼女の瞳に映り込む空が、どこまでも青かった。
 杏の勧めで、心葉に手紙を書くことにした。「旅といえば手紙でしょう」だとさ。ギャルみたいな口調に反して、考え方はけっこう古風だ。お礼の手紙も自筆で書いて送ったし、俺よりずっとちゃんとしている。そういう真面目さが杏のいいところだ。

 その夜、キャラバンパークの一室で俺は机に向かった。
 最初はしぶしぶ書き始めたのだけど、次第に筆が乗ってくる。とてもじゃないけど絵葉書1枚には収まりそうにない。結局、イルカの絵があしらわれた水色の便箋を見つけてきて、そこに書き連ねることにした――。
 
 拝啓、心葉さん。お元気でお過ごしでしょうか?
 俺は今、オーストラリアに来ています。
 君が旅に出てからのことを、教えてあげたくて筆を取りました。
 まずは、柊先輩。先輩はスルッと一発で第一志望の大学に合格して、今はもう4年生。研究室に出入りしていて、化石まみれの生活を送ってる。この前、初めて一緒に酒も飲んだ。心葉がなくした三葉虫の化石。ずっと探してくれているよ。今もまだ年に数回あの場所に行ってるらしい。見つかったら、発見者を君の名前にすると張り切ってる。
 カッシーは先輩を追いかけて同じ大学を受験したけど撃沈した。先輩は「統計的に尤もらしい」なんて拗ねてたけど、あいつはやるときはやる男。一浪して入ったよ。最近、大学の近くにアパートを借り、同棲を始めたらしい。姉弟だと言うとすんなり借りられるんだって。嘘ではないし、いいと思う。どういう形であれ、2人で生きると選んだんだ。俺は本当に2人を尊敬している。
 そうそう、びっくりすることが起こったんだ! ノゾミさんが帰国すると聞いて、俺とカッシーで迎えに行ったんだ。空港まで。そこで誰が彼女を待ってたと思う?
 なんと城間先輩――花火大会で会った地学部のOBのマッチョの人。ノゾミさんに惚れてた幼なじみって彼だったんだよ。世界は狭いね。だいたい、俺らと同窓生だったのを黙ってたなんて、ノゾミさんも人が悪いや。
 来月、ノゾミさんの結婚式があって、新婦友人のスピーチを柊先輩が頼まれてる。オーストラリアでのアレヤコレヤを話すと意気込んでた。結果はまた連絡するね。
 俺はなんとか元気にやってるよ。おかげさまで、大学も楽しく通ってる。こんなこと言うと心葉に怒られるかもしれないけど、まだ彼女はいないよ。作ってない。なんか心葉に悪い気がしてさ。君と過ごした全てが忘れられなくて――なんて言えればカッコいいんだけど。まぁ、正直あんまりモテないから。いまのところ心配ご無用って感じだな。アハハハ。
 白状する。最近、とある女の子と連絡を取り合っている。べつに彼女とかじゃないけど、気になる人ではある。クリスマスの日、横断歩道で助けた盲目の少女。覚えてるよね? 少女といってもそんなに歳は離れてなくて、心葉と同い年だった。その彼女と今、ちょっとだけ連絡を取り合ってるんだ。心葉のことをすごく気にかけてたよ。俺と同じ、心葉が救ってくれた命だ。今度、一緒に墓参りに行こうと思う。ヤキモチ焼かないでね。本当に、そういう関係じゃないから。
 心葉。手紙だから、声で伝えられなかったことを書かせて。
 愛してる。君を、愛してる。
 話せるうちに、手をつなげるうちに、言ってあげられなくて、ゴメン。
 愛してる。君を、愛してる。
 こんな俺でゴメン。いまさら言うのは、ずるいよね。
 愛してる。君を、愛してる。
 何度だって書くよ。この手紙をどこに送っても、君は「やめてよ」って恥ずかしがって読んでくれない気がするから。化石に刻んだっていい。
 君の姿が見えなくなった世界に、ぽっかりと君の形の大穴が開いてしまった。君がいない世界のできごとが砂のように降ってきて、穴を埋めていく。このまま時間とともに、君を忘れてしまうのが怖い。でも大丈夫。家族も友達も、君の周りにいたたくさんの人が、君の形を何度もなぞっては君を忘れないよう頑張ってる。
 俺だってそうだ。必死で時間の流れに抗ってる。
 残念だけど、俺にタイムスリップはできないみたい。
 でも、必ずまた会おうね。
 忘れないよ。奇跡みたいな君がいたことを。
 出逢えてよかった。ありがとう。

 結局オーストラリアで書き終わらず、手紙はリュックに収まって俺とともに帰国した。今は部屋の本棚に飾ってある。すぐ隣には、心葉がくれた木の葉の化石と、おまけのように俺の化石も並んでる。
 鏡をにらみ髪をちょちょっと整える。服もオッケー。スマホにイヤホン。リュックの中も大丈夫そう。最後にコアラの形のアロマディフューザーにデコピン一発。鼻先にふわりとユーカリの香りが漂った。これが俺の出発前の儀式。毎朝の。
 新しい世界に出会う練習だ。
「じゃあ、行ってくるね」
 写真立ての中で笑う心葉を振り返った。
 俺が持ってる唯一の写真。パースの公園で撮った宝物なんだ。「コアラの気分~」なんて言ってポーズをとってる。いつ見ても、グレーのパーカーがそれっぽい。笑えるな。
 アハハ。無性に愛おしい。
「君の愛した世界が待ってるから」
 新しい一日に踏み出す。今日もまた、未来はどうなるか想像もつかない。
 でも、たったひとつだけ確かなことがある。
 俺の隣には、たしかに、木洩れ陽みたいな君がいた。

 了