心葉のドナーカードはすぐに見つかった。
 直己さんが病院に電話すると、主治医から臓器移植コーディネーターと話すよう勧められた。俺たちは荷物をまとめ、すぐに病院に向かった。
 コーディネーターは30代くらいの女性だった。病院内の一室に通され、そこで説明をうける。夜遅くにもかかわらず、彼女の対応はとても親切だった。「説明をもう聴きたくないと思われた時は、いつでも断れますから」と前置きして、ひととおり流れを説明してくれた。移植を必要としている患者さんの数、臓器提供が一度に救いうる命の数。その尊さを懇切丁寧に紹介しつつ、「本人や家族の意思が大切」と念押しした。俺たちから質問がなくなると静かに部屋を後にし、家族だけで考える時間をくれた。
 俺はもう家族の一員としてカウントされていた。少しくすぐったい。室内には俺と心葉の両親だけ。まるでこの部屋だけが世界からぽつんと取り残されたみたいに静かだった。2人とも、今は到底承諾できないという様子で、黙り込んでいた。
 心葉は意思表示している。だから、あとは両親次第だ。
 しかし、コーディネーターの説明を受けたあとも、2人は二の足を踏んでいた。俺だけが「心葉の望み通りにしてあげませんか」なんて突っ張っているだけで、一向にいい顔をしない。
 穏やかな顔を取り戻したはずの直己さんが、不愉快そうに言った。
「こんな大変なときに何を言ってるんだい」
 口調はいつものとおり優しかったが、内心穏やかではない様子。緑色のカードを裏表しながら、じっと考え込んでいた。
「柚くん。あなたが心葉を想う気持ちは、とってもありがたいわ。でも、今の私たちには、まだその話題は早すぎると思う。ごめんなさいね」
 心実さんが加える。俺の案は却下、という意味だ。
 そう思うのも無理はなかった。両親にとってみれば、心葉は唯一の子。その命の儚さをなんとか理解しようとしているところに、俺なんかが口を挟む余地はない。
「お辛い気持ちはわかりますが――」
 俺はなんとか説得を試みる。「死生観の違い」だの「世代の違い」だのと引き下がれない。誰がなんと言おうと、心葉の想いがかかってるんだ。こんなところで俺が諦めたら、心葉に悪いや。
「子供が親よりも早くに逝ってしまうことが、どれほど辛いことかわかるかい?」と直己さん。
「心葉の望みなんです。最後の。叶えてあげてくれませんか?」
 俺も一歩も引く気はない。ぐっと歯を食いしばる。
「あの子はもう十分に頑張ったのよ。頑張って、傷ついて、それで…… 心葉がすごく大切にしていた、あなたのことを助けたんじゃない」
 それを言われると辛い。俺は目に涙を浮かべて訴える心美さんに反論する言葉を持ちあわせていなかった。
「もうこれ以上……心葉の身体を傷つけてまで提供する必要があるんでしょうか」
「――正直、俺には分かりません。もし自分が親だったら、多分、おふたりと同じことを言うだろうなって思います」
 これが、今の俺に言える精一杯のことだった。
「でも時間がないんです」
 それだけが俺の背中をぐいぐい押していた。
 いますぐ決断したとして、移植の準備はどれくらいかかるだろう? 彼女の命は、それまでもつのかな? こんなことならもっと本で調べておけばよかった。心葉は目だけではなく、他の臓器の提供意思もカードに記していた。彼女が救おうとしている命は1つじゃない。時間が惜しかった。
「俺、心葉に言われたんです。俺たちはつながってるって。俺の幸せが心葉の幸せで、心葉が嬉しいのは俺が喜んだ時だって。俺たち、時間を越えて繋がってるんです。事故のことを彼女に教えたから、彼女は俺を助けて。それで俺が助かったから彼女に教えてあげられた。意味はわからないかもしれませんが……」
「柚くん……」
 心実さんが俺を呼んだ。抑揚が心葉とそっくりだ。
「臓器提供は俺の願いだけれど、心葉の願いでもあるはずです。だから、認めてあげてくれませんか」
 提供には2人の理解と同意が絶対に必要だ。俺にその権限はない。
「どうかお願いします。心葉の願いを叶えてあげられるのは、俺じゃないんです。家族である、おふたりしかいないんですっ」
 もう、俺は心葉の命より、心葉が救うことになる命のことを考え始めていた。
「死は誰にでも訪れます。骨は灰になり、身体は空気に戻る。そうして何百年何千年もかけて地球をまわって、また戻ってきます。みな同じ。誰一人として逃げられない。もちろん心葉は、早すぎました」
 心実さんが無言のまま顔を上げ、遠い昔を思い出すような目で俺を見ていた。
「でも俺は、このまま、まるで心葉が居なかったみたいに、何もなかったことになっていいとは思えません」
 直己さんも静かに俺をじっと見ていた。
「少しでも彼女が居たことを、彼女の命を、彼女の身体を活かせる可能性があるなら、それに賭けてみませんか? お願いします」
 俺は深々と頭を下げた。
 しばらく沈黙が続いたあとで、心実さんがコホンと小さな咳をした。
「――柚くん。顔を上げて」
 心実さんが優しく声をかけた。顔を上げて見た2人の顔は、さっきより少しだけ和らいだように見えた。
「あの子が最後に一緒にすごしたのが、あなたで良かった」
「えっ……」
「ふふふ。知ってるかな。あの子ね、昔から人の見ていない所で準備したり、練習したり。そういうのが好きな子だったのよ。責任感も人一倍強くてね。学校でも、学級委員長とかそういうの頑張ってたわ」
 心実さんは遠い目をして微笑んだ。心葉の家で見た、壁にかかる写真や賞状を思い出す。両親が心葉のことをどれだけ誇りに思っていたか。
「ええ。何度も助けられました。まぁ、俺、弟みたいなもんだったんで」
「ね、随分前だけど、私たちと一緒に水族館に行ったわよね? 覚えてる?」
「はい。その時、俺、迷子になっちゃって――」
「ふふ……そうそう」
「俺なぜか大水槽の前にある看板の裏で泣きべそかいていて。でも心葉が見つけてくれたんです」
「ハハハ。思い出したわ。あの時、あなたを見つけて戻ってきて、あの子なんて言ったと思う?」
「何でしょう……」
 俺が後頭をかきながら答えあぐねていると、彼女はすぐに教えてくれた。
「あの子、こう言ってたわ――柚くんのお嫁さんになるための準備、だって。ふふ」
 ――初耳だった。
 小さい頃の心葉のことは、よく知っているつもりだったのに。
「あの子は、あなたのこと弟だなんて思ったことは一回もなかったんじゃないかな」
 そう言って、心実さんは何か合図するように直己さんと視線を合わせた。そうして大きく息を吸ってから、滔々と語り始めた。
「不思議ね。あの頃は、子供の言うことだなんて、全然真に受けてなかったけど。今は意味がちゃんとわかるわ」
「どういうことですか?」
 彼女は研究者らしく、理知に富んだ顔つきでふふと自嘲的に笑った。
「私達ね、忙しさを理由に、あの子の話をちゃんと聞いてあげられなかった。いまになって反省してる……。あの子、全部、話をしてくれてたのにね。小学校の修学旅行のお土産をあなたに渡したことも、高校に入って最初の夏にオーストラリアに行ったことも。ぜんぶ」
「え、ああ……」
 ちょっと、いや、かなり恥ずかしい。
「でも、真面目にあの子に向かい合ってあげられなかった。仕事にかまけていて――あ、いや、仕事のせいにしてはダメね」
「そんな……そんなことないですよ。俺の親もほら、人の話全然聞いてなくって」
「ふふふ」
 彼女はひとつため息をつく。そうして、長い髪をかきあげながら心葉みたいに不敵な笑みを浮かべた。
 思い出の中の心葉の笑顔が、目の前で語る心実さんに重なった。
「私たち、あなたに救われたのよ。あなたに言われなかったら、ずっと彼女の声に耳を傾けずにいるところだった。でも、遅すぎるわよね。あの子をもうすぐ失うというときになって、ようやく気づくなんて――大馬鹿者だわっ」
「――まだ、間に合いますよ」
「柚くん。あの子と出逢ってくれてありがとう」
 静かに涙を流しはじめた心実さんを見て、直己さんが口を開く。目を細めた優しい顔。頬にできる子供っぽいえくぼは、心葉のそれを思わせた。彼女はやっぱり2人の子なんだと、しみじみ思った。
「私も決めたよ。柚くんの言うとおり、心葉の体をこのまま灰にするのは忍びない。もしまだ何かできることがあるのなら、それをしてからでも遅くはないはずだ。それが心葉の望みなら――あの子が大切にしていた人の想いなら、なおさらだ」
 俺はそれを聞いて心実さんと共にゆっくりと直己さんの顔を見た。
 彼は晴れやかな笑顔でコクリと頷いた。
 心葉の臓器提供が決まった。
 彼女の意思を尊重する。家族の総意だった。
 
 別れのときが迫っていた。
 俺は両親と一緒に主治医やコーディネーターの女性など何人かから説明を受けた。直己さんに「君も話を聞いておいてほしい」と頼まれ、ぜんぶ同席させてもらったのだ。元からこの家の子だったんじゃないかと思うくらい、俺を家族の一員として扱ってくれた。その代わりと言ってはなんだけど、書類にサインしては目頭を押さえる直己さんの肩を、俺は必死でさすった。
 まぁ、やっぱ弟みたいなものか――。
 心葉の願いさえ叶ってくれれば、俺は弟だってなんだっていい。柊先輩とカッシーのことが頭をよぎる。ちょうどのタイミングでスマホが鳴り、俺はいそいそと2人を夜間出入口に迎えに行った。
 俺はさんざん泣き晴らし、頬もヒリヒリと痛いほどで、もう一滴の涙も出ないはずだった。なのに、先輩のぐじゃぐじゃの泣き顔を見たら、またぶり返してきた。
「柊先輩、来てくれて、ありがとうございます。先輩っ――。心葉が、心葉が……くっ……」
「ああ。ああ。もう大丈夫だ。お前は頑張った」
 先輩が大きく両手を広げる。俺はなりふりかまわずその胸に飛び込んで泣いた。わんわんと大声を上げて嗚咽して。子供みたいに。
「俺っ、心葉のこと、守ってあげられませんでした。幸せにしてやろうって……目が見えなくなっても、ずっと一緒にいようって、そう思ってたのにっ」
「大丈夫だから。お前のせいじゃないよ――」
「俺がオーストラリアに誘わなければ」
 胸の真ん中に、ポッカリと大きな穴が開いてしまったような感じがした。それでも世界は動くことをやめていない。彼女が居なくなってもなお、そのまま在り続ける日常を見るのが、たまらなく悲しかった。
「もう言うな。誘ったのは私だ。お前のせいじゃない」
「先輩、俺、どうすれば?」
 俺は何かまだやり残したことがあるんじゃないかと、心葉の臓器提供が決まってもなお思い悩んでいた。直感でも論理でもない、感情でも計り知れない、何かがある気がした。
「いまは泣いてやれ! 笑ってやれ! 怒ってやれ! 悲しんでやれ! そうして、心葉が愛した世界で生きろ! それをぜんぶ、お前が覚えててやるんだろうが」
 先輩は俺の肩を持って顔を覗き込み「しっかりしろ」とガクガク振った。されるがままに俺の頭は前後に揺れた。
「幼なじみなんだろ? それができるのは、幼なじみのお前しかいないんだろ?」
 先輩は涙で目を真っ赤にして、俺のことをじっと見つめていた。こんなに近くで、先輩の顔を見るのは初めてだ。彼女は一本にまとめた長い髪をふり、今日いちばんのとびきり凛とした表情で言った。
「分かったら、返事」
 俺がコクコクと無言でうなずく。先輩は俺から視線をそらさずに、そのままニコッと白い歯を見せた。笑えと催促してるみたい。それを見計らってカッシーが背中から俺に抱きついてきた。
「わははっ。柚、笑え。さあ笑え!」
 そう言って俺の脇の下をまさぐるカッシー。
「さあっ。まずは笑えっ! わははははっ」
 こちょこちょと指でくすぐってきやがる。
「ばっ、ばか、やめいっ、うわははっ、ぐぬ。笑うかっ……くくく」
「いいから、笑え! そんな辛気くせえツラで、植村先輩喜ぶと思ってんのかア?」
 もっともだった。
 でも、他にやり方があるだろ。こちょこちょがさらに強くなる。
「くふっ、ふふ。わはっんん――ほっとけっ。もとからこういう顔だーはっはふん」
「しぶといな。なぁサヤちゃん協力して」
「いいだろう」
「だぁああ、先輩までっ」
 俺はカッシーに羽交い締めにされ、首元を柊先輩がくすぐった。
「だはあはははは、首ダメ、あは首はダメ、あはははは。あはははははは」
「柚、分かったか。世界は楽しいぞ。植村先輩にも、そう伝えろ!」
「あははは、わかった、わかったから。ギブギブ。あっははははは。ひぃー」
 カッシーも先輩も、大真面目だった。
 だいぶ後になって本人の口から聞いたのだけど、このとき先輩は、俺が自殺でもするんじゃないかと心配してくれていたらしい。むろん俺にその気は全く無し。よほど思いつめた表情だったみたい。けど、本当に。生きることをやめようなんて、考えてもいなかった。だって俺は、この世界が好きだから――。
 2人の俺に対する思いやりは強烈で、明後日の方向をむいていた。けれど暖かかった。出逢えてよかったと思った。今日という日を共に迎えられるのが、この2人でよかった。
 病室に向かう途中でカッシーが自動販売機に走り、炭酸ジュースか何かを4本買ってきた。この間、俺、カッシー、先輩、のいつものやりとり。
「飲食禁止じゃね?」
「無礼講無礼講」
「お前はいつも無礼だろうが」
 俺たちはベッドに静かに眠る心葉を囲んで、ささやかな壮行会を開いた。送別会じゃない。心葉の新しい生活をお祝いする会だ。直己さんと心美さんも心葉の枕元について、俺たちの様子に目を細めていた。
 プシュッという小気味よい音。心葉のは俺が開けてやった。サイドテーブルに置いたペットボトルの中で、小さな泡がキラキラ輝いては弾けた。ふと、心葉がふふふと笑い声をあげた気がして顔を見た。波の音を聞くみたいにして、しゅわしゅわという炭酸の爽やかな音に耳を傾けていた。
 誰からともなくオーストラリアの思い出話が始まった。
「ツアー予約取れてなかった事件」に「タイヤパンク事件」。思えば、最初から波乱万丈だった。キャラバンパークにバーベキュー設備。見るもの全てが初めてだった。カルバリー国立公園の赤い地層に、ハメリンプールのストロマトライト。沢山歩いて、沢山笑った。ノゾミさんにも出会えた。
 ティムタムを皆でわけた。水族館のあと、心葉をカフェとかに誘って開けるはずだったものだ。フレーバーはもちろん、ダブルコート。心葉の前では泣かないと3人で誓ってから部屋に入ったのに、先輩が「悔しい悔しい」と繰り返しては涙を流した。
 甘い。すごく甘い。
 俺たちはしばらく無口になった。そして、もう誰も「俺のせいだ」とか「あのときこうしていれば」なんて言わなくなった。
 俺たちは生きていく。
 心葉も生きていく。
 同じ世界の、違う場所で――。
 
 柊先輩が炭素や窒素、水や酸素もぜんぶ地球の中で循環していると教えてくれた。心葉はどこにだっていけるし、俺たちはまた会える。その物質循環の速さから、先輩が再会の確率を計算してくれているところで、別れの時間がやってきてしまった。
 未だに信じられない。ずっと夢を見ているみたいな感じ。
 オーストラリア旅行より、タイムスリップより、彼女の死は非現実的だった。
 臓器移植を決めたことに後悔はない。でも、どこか完全には納得できていない俺がいた。心葉ならこの気持ちに〈化石〉と名前をつける気がした。心葉が生きた証。彼女が居たことを未来に伝えるための、俺の心に深く刻み込まれた彼女の痕跡。時間という地層に埋まっていくけれど、大丈夫。俺が絶対掘り出してやる。
 布団の隙間から手を差し入れて心葉の手を握った。
 暖かい。柔らかい。
 俺が驚いた表情をしていると、先輩と心実さんが優しい表情で笑って、2人でコクリとうなずいて同じことを言った。
「「生きてる」」
 それでも、俺がどんなに力を入れても、彼女が握り返すことはなかった。
 これでいいよな? これでいいんだよな?
 これがいま俺にできる最善のことなのかな――。もう一度だけ問いかけた。
「心葉、今までありがとうな」
 俺と出会ってくれて、幼なじみでいてくれて。戻ろうって言ってくれて。
 嬉しかったよ。たくさん話したいことがあったはずなのに、いざって時には頭が働かないね。上手く言葉にできないや。
「ずっと、会いに来てあげられなくて、ごめん」
 君が病院にいるって分かってたのに、どうしても来ることができなかった。
「俺は、心葉にはふさわしくないね」
 彼女に「大丈夫だいじょうぶ」といつものように笑われた気がした。
 オーストラリアで黄色い大地と青い空を見た。イルカにも触った。沢山の先祖の前で、俺は君に好きだと言ったね。地球の歴史が、俺たちを優しく包んでくれた。
 俺、ひとつだけこの旅を通して世界を見る目が変わったんだ。地学部だからって訳じゃない。けど何億年、何十億年っていう時間の流れと比べたら、俺たちはなんてちっぽけな存在なんだろうって。そんなふうに思うようになった。謙虚さって感じかな。命は一瞬で、繊細で力もなくて、想いは儚くて。あの日見た打ち上げ花火みたいだ。
 だから、俺が心葉の所に行くのだって、もうすぐだよ。
 ほんの少しの間、待ってて。
 暗い顔すんなよっ。
 心葉が言ってたことじゃないか。
 いつもみたいに鼻歌を聞かせてくれよ。俺が調子に乗ってたら、デコピンで叱ってくれよ。君が迷子になりそうになったら、俺が手を引くからさ。
「心葉……さん」
 今すぐ一緒にそっちに行ってあげられなくて、ごめん。
 俺はもう少しだけやることがあるんだ。ほんの少しだけ君より長く生きて、ほんの少しだけ長く、君が愛した世界を見届ける。たぶんそれが君の望みだと思うから。心葉だってまだやることが沢山あるだろう。何人の身体で生きていくんだい? 大忙しじゃないか。もう話すことも、手をにぎることもできなくなっちゃうけど、君のことをいつでも想ってるよ。 
 ああそうだ! 結局、去年のクリスマスプレゼント、渡しそびれたままだ。気に入ってくれると思ってたのに、渡す機会がなくなってちょっと残念。すごく綺麗なブルーの時計。なんとなく、心葉に似合うと思って。
 もっとたくさん、可愛いって言っておけばよかった。時を超えてやってきてくれた、2年前の君にも。
 俺はそっと肩を抱き、頬に頬を重ね彼女の旅立ちを祝った。
「またね」
 さよならは言わない。
 だって、これは別れじゃなく、出会いだ。新しい心葉との。
 君に生かされたのは俺だけじゃない。心葉はこれからも、どこかの誰かの身体の中で生き続けるんだ。俺の旅立ちの日でもある。海の中でぬくぬくしていたカンブリア紀は終わり、陸に進出するときがきた。シアノバクテリアがせっせと作ってくれた酸素とオゾン層に感謝。そんな気分だ。
 俺は居心地の良かった心葉の元を離れ、ひとり大空に飛ぶんだ。
 また、会える日に向かって。
 2度の脳死判定を受け、心葉は夜明けとともに旅立った。
 窓の外を見ると、金色の太陽が俺たちを優しく照らしてくれていた。