病院についた頃にはもう一般の面会時間は終わっていて、病棟はしんと静まり返っていた。夜になって降り始めた雨のせいでびしょ濡れになったスニーカーが作る足跡もそのままに、俺は一目散に病室を目指した。はぁはぁ息を切らせてたどり着くと、小窓の向こうに人工呼吸器に繋がれた痛々しい姿の彼女が見えた。
「心葉! 心葉!」
 辺り構わず叫びちらした。前に来たときには自分で呼吸していたはずだ。しばらく見ない間に、悪化したらしい。
「ご家族の方ですか?」
 看護師がやってきて俺に尋ねた。
「あ、いえ、あの」
 まさか「ただの幼なじみです」とも言えず、口ごもってしまった。
「申し訳ありません。今日はご家族以外の方は――」
「え、あ、そっか。そうですよね」
 すごすごと立ち去ろうとする俺。「こちらです」と案内する看護師を、心葉の父親が制止した。
「ああ、いいんです。私が呼んだんです」
 それは彼の優しい嘘だった。
「えっ? でも」
「彼は、娘の大切な人なので」
 今日は特別な説明を受ける日だという。
 心葉の両親とともに、医者からの説明を聞いた。いきなり脳のスキャン画像を見せられ、事態は重篤だと告げられた。正直よく分からない。知らない言葉、聞きたくもない言葉が次から次へと耳に入ってきて、何も意味を成さぬまま頭の中で消えていく。医者は易しい言葉で何度も言い直し、俺たちに根気よく説明してくれた。
 彼女の容態は悪くなっているようだった。脳の機能が低下してしまったらしい。
 たしか事故のあと、入院してすぐの頃は自分で呼吸はしていた。意識は無かったが血色は悪くなく、いつかは戻るだろうという期待さえ持てた。でも今はどうだ。痩せこけた身体に骨ばった頬。人工呼吸器に繋がれ、すやすや眠る心葉の可愛い顔は見る影もない。
「いわゆる、脳死の状態に近いといえます」
 医者の言葉が俺の喉元に突き刺さる。
 これが現実だ。
 厳しい。
「あああああああああああああ。心葉ぁ……」
 これまでずっと気丈に振る舞っていた母親が、その場で泣き崩れた。父親が優しく肩を抱きかかえ、彼女をゆっくりと椅子まで運んでいった。
 心葉は一人っ子だった。
 両親にとっては、かけがえのない存在だっただろう。
 俺の心のなかで、後悔の念がじゅわっと一気に溢れ出た。
 元はと言えば俺が雪の残る日にデートになんて誘わなければよかったのだ。こんなことにはならなかった。中3の俺に戻って言ってやりたい。ホワイトクリスマスだからってバカみたいにはしゃぐんじゃねえって。
 つき合ってくれなんて、背伸びして告白なんてしなければよかった。
 単なる幼なじみのままでいればよかった。
 俺と出逢わなければ、よかった……?
 くそっ。
 涙が溢れてくるのが止められない。ああっ、どうすればいいんだろう。
 上を向いても目を固く閉じても、俺の目からとめどなく流れ落ちた。
 ごしごしと袖で拭って、彼女の安らかな顔をもう一度見た。
 ほんとうなのか。全然信じられない。
 悪い夢でも見てるんじゃないのか。さっきまでそばにいた2年前の心葉のほうが現実で、こっちが夢だと思いたい。
「ねぇ心葉、起きてよ」
 無言の彼女の頬をそっとなでた。
「ねぇ心葉」
 温かい。
 生きてる。
「さっきまで、一緒にいたじゃないか」
 いつ命の火が消えるのか分からない心葉を、ひとり病院に残すのは忍びなかった。けれど、俺は心葉の両親と一緒に一旦家へ戻ることにした。
 心葉の両親は、看護師から心葉の服を取りに行くように告げられていた。きれいな服に着替えさせてあげるのだ。筋肉の硬直が始まってからでは袖を通すのさえ難しくなる。だから早めに。その言葉はあまりに性急で、あまりにリアルすぎた。
 頭が爆発しそうだ。混乱、後悔、絶望。いろんなものが入り混じる。事故のあと、罪悪感の塊だった俺は半年以上もここに来ることができなかった。そのうちにタイムスリップしてきた心葉と出会い、今の今までずるずると来られずにいた。ちゃんと会いに来ていればよかった。
 それでも俺は「家に帰らない」と伝えようと母に電話した。そしたら「今夜は植村くんたちと一緒にいてあげなさい」なんて先手を打たれてしまった。なんだよ。親って、何でこんなに色々お見通しなんだろう。

 心葉の父親の運転で、家に向かった。
 父親は直己(なおみ)さんというらしい。五大陸の最高峰を制覇した冒険家と同姓同名だと、乾いた笑いを浮かべていた。母親は心実(このみ)さん。名前だけじゃなくて、しぐさやため息のつき方まで心葉とそっくりだと改めて知った。
 心葉の家に来たのは、小学生のとき以来だった。
 家は真っ暗で、心実さんが手際よく明かりをつけていく。夢のようなこの半月ほどのことを思い出しながら、パチンパチンというスイッチの音を目が覚めるような思いで聞いた。心葉は居て、心葉は居なくなった。
「どうぞ」とリビングに通され、俺が心葉に出してあげたのと同じオレンジジュースが出された。
「ありがとうございます」
 俺はゆっくり口に含んで、ごくりと飲み下した。前よりずっと、苦かった。
 ふふふと笑う心葉がいないせいで、味が変わって感じた。
 泣けた。
 彼女は病院で生きている。生きているのに、ここにはいないんだ。そういう事実を喉元に突きつけられているようで、無性に悔しかった。
 テーブルを叩こうとして、やめた。
 心実さんがテーブルに両肘をついて頭を抱えるようにしていた。その肩を直己さんが優しくさすっていた。誰一人として口に出さないだけで、皆それぞれに心葉の死を受け入れ始めていた。
 しんと静まりかえったリビングを見渡し、俺はあてもなく何かを探していた。壁にかかる賞状や写真が悲しい。毎日はどれも普通で、どれも特別。今日だって、彼女の人生のほんの一幕で、特別な日というわけではなかったはずだ。
 彼女の最期を一緒に過ごしたのが、たまたま俺だった。彼氏だとか、幼なじみだからとかの理由で、ここに招かれたわけじゃないと思った。
 俺は何があったのか、もう一度すべて2人に説明した。
 事故が起こってすぐ、交差点にできた人だかりの中から、救命の心得があるという女性が現れたと思う。獣医学部の大学生だとか。俺が心葉を抱き起こそうとして「頭打ってる。動かしちゃダメ」と咎められたのを覚えている。
 小雪がちらつき、心葉が冷たくなっていってる気がした。それでも彼女をそのままアスファルトに寝かせておかなければならないのが、辛かった。
 救急車がやって来て、心葉を見送って。それで、警察の人が来て、俺は泣きながら全部を説明して。それから、どうしただろう――。たしかスマホの履歴を見て、俺は事故後すぐ親に電話をかけたのだったか。それで、心葉の親に搬送先を伝えたのかな。よく思い出せない。
 そして気がつけば俺は病院にいて、集中治療室の前のベンチで心葉の両親が出てくるのをただひたすら待っていた。
 直己さんが優しい表情を崩さずに静かに俺を呼んだ。部屋に入ってすぐ、ベッドに横たわる心葉と対面した。白い布団にくるまれ、すやすやと眠っている。幸せな夢でも見ているみたい。長いまつげ。きれいな顔をしていた。
 でも、奥歯で砂を噛むような、じゃりっとした違和感があった。吐き気もした。
 これだけの大病院なら安心できるはずだった。だいたい、事故直後に、彼女には脈も呼吸もあった。もう心配ない。助かったんだ。そんなふうに、心葉が一命をとりとめて、ホッと一息つけるタイミングなのに、なぜかそういう気分にならなかったのを覚えている。
 一旦家に帰ることになって、看護師に「こちらはどうされますか?」とていねいな口調で尋ねられた。手渡された白いビニール袋の中には、泥でぐちゃぐちゃに汚れたダッフルコートと、中に着ていたタートルネック。心葉が着ていた服らしかった。救命処置のときに切られたのかズタズタで血痕も見えた。俺は泣きながら中身をあらため「持って帰ります」と声を振り絞った。心葉のリュックは母親が大事そうに抱えていた。
 ――それが俺の覚えている全てだった。
 心葉の意識はこの日から戻っていない。
 俺はずっと自分を責めていた。おいそれと見舞いにも行けず、ただひたすら事故のことを心の奥に閉じ込めていた。
 両親は俺を責めなかった。あまつさえお礼まで言われた。
「ありがとう。君が居てくれてよかった」
 直己さんが何度も頭を下げた。そんなことないです。俺のせいで心葉は――。
 俺はひたすら自らを恥じた。
 タイムスリップしてきた彼女に、未来を変えさせることもできなかった。
 どこかに、何か大事なことを忘れている気がした。
 心葉に伝え忘れたこと? 心葉に言われたこと?
 なんだろう。思い出せそうで、思い出せない。
 あの日見た何かが関係しているんじゃないか――。
 俺の中には、小さな確信みたいなものが生まれつつあった。それが何なのかはまだ分からない。シアノバクテリアが酸素をぶくぶく吐くみたいに、小さく。でも着実に、俺の中からふつふつと湧き出てくる何かだ。記憶の奥底の、誰も訪れようとしない場所から。たぶん、ハメリンプールみたいな所。
 時間がない。
 今日、この家を出てしまったら思い出せず、一生後悔することになると思った。
 どれほどの時間を、2人で共有できただろうか。
 どれほどの想いを、2人で共有できただろうか。
 俺ばかり浮かれていて、心葉のほんとうの気持ちに気づいてあげられなかったんじゃないか。
 彼女に何をしてあげていたら――。俺が何かをしなかったら――。
 どうしようもない反省ばかりが頭をよぎった。悔やんでも悔やみきれない。
「このまま、君は行ってしまうの?」
 無念すぎる。
 あまりにも、あまりにも……だろ。
 何かできることはないか。もし本当に、彼女がもう永久に戻らないのなら、俺は何をするべきか。
 彼女の最後の願い。俺が叶えてあげられる、心葉のお願いは何だ?
 考えろ。
 考えろ。
 考えろっ。
 頭がうまく働かない。心はもっと働いてない。
 ねぇ先輩。論理的には何ですか?
 ねぇノゾミさん。感情なら何ができるってんですか?
 直感、論理、感情?
 なんだ、なんだ、なんだ――?
「心葉、教えてくれよ」
 俺が助けた盲目の少女も、心葉が突き飛ばしてくれた俺も、無傷だった。バイクのライダーも骨折程度だった。なのに、なんで心葉だけが命を落とさなければならない?
 彼女は俺たちを救った。それで十分だろ。
 ねぇ神様。2人も3人も一緒でしょう。心葉も助けてよ!
『ふふふーん。難しい顔しちゃってぇ』
 いつもの鼻歌が聞こえた気がした。
『柚くんは、笑っていて』
 まだそんなこと言うタイミングじゃないだろ!
 何を問いかけている?
 彼女の生きてきた理由は何だ?
 彼女に助けられ、俺が生きている理由は何だ?
 何十億年の地球史の果て。シアノバクテリアからずっと続く俺たちの意味は何だ?
「心葉……あああ。一緒に迷子になろうって決めただろ」
 ゴールになんて全然たどり着いてない。まだスタートラインにも立ってないよ。
 最期の願いはなんだろう。
 彼女が俺に、教えてくれたことだろうか。
「何が間違いの始まりだったのか……。行かなければよかった? ああ。心葉ぁ。そうじゃないって、言ってよ……デコピンでもなんでも受けるからさぁっ」
 俺が自分をいくら責めても、彼女はちっとも喜ばないってわかってる。
 固く目を閉じるといよいよ大粒の涙がこぼれ、ボタボタ落ちては床に染みをつくった。情けねえ。でも、今日だけはいいだろ。今日だけは。
 俺が全部悪いってことで、いいから。
「心葉っ――心葉ぁあ――心葉ぁああ……」
 何度も名前を呼んだ。
「心葉さん……」
 このまま彼女が灰になり、何も残らないのは忍びない。無に帰す。
 彼女の生きた18年はどうなる!? ただの灰か? 違うだろ!!
「お前、いたんだよな? 俺の目の前にさ。ほんとに、いたんだよなぁ」
 瞼の裏で、心葉がふふふと笑った気がした
『ごめんごめん。ちょっと、いじわるしすぎたね』
 耳鳴りのように彼女の鼻歌も聞こえた。
 もう何度も聞いた、あの優しい響き。もっと、ちゃんと聞いておけばよかった。
『ふふふふーん。いいこと思いついちゃった』
 ああそうだ。いつもの思いつきだ。
「あっ」
 俺の脳裏で何かがぴーんと甲高い音を立てた。
 もしかしたら、もしかしたら――。俺は両親に断って、心葉の部屋に駆け込んだ。
 きっちりと整理整頓され、彼女が去年のクリスマスの日に家を出たときのままの状態で缶詰みたいに保存されていた。
「――なんだ? なんだっけ?」
 俺は独り言をつぶやきながら、彼女の部屋を物色した。
 うっすらと感じる彼女の匂い。ああ。もうすぐ永久に失われるのか――。いちいち鼻の奥がじんとする。でも今は思い出に泣いている場合じゃない。俺は大きく深呼吸して捜索を続けた。
 ハンガーにかけられた制服。ベッドの上にはぬいぐるみと、きちんと畳まれたパジャマ。机の上には、イルミネーションのチラシ。去年のだ。
 学校関係は本棚の一箇所にまとまっている。教科書、ノート。文化祭のしおり。
「違う」
 探しものはもうすぐそこ。化石ならもう、その一部が露頭に顔を出している頃か。
 俺はあの日、何を見た? 心葉は何か俺に言った?
「俺ならわかるだろ? だって、幼なじみなんだろ?」
 そう自分に言い聞かせながらも、俺は焦っていた。机の周りも探した。
 大学のパンフレットのたば。オーストラリア土産のアロマオイル。
 その隣にある小さなフォトフレームが目にとまった。
 オーストラリアで撮った写真。そんなものが主も帰らぬまま閉ざされていた部屋になぜある? 答えは一つしかない。タイムスリップから戻った心葉が持ち帰ったんだ。高1の頃の心葉の隣で笑っているのは先週の――高1の俺だ。
 なんだよ。俺たち、ちゃんと恋人みたいじゃないか。
 楽しそうな笑顔が、やたらと涙を誘った。
 ペーパーウェイトになってる石は、俺が小学生のときにあげた修学旅行の土産のようだった。たぶん俺の部屋に置いてあるモミジの葉の化石の片割れだろう。いつだったか心葉は「そんなの失くしちゃったよ」なんて強がってたけど、嘘かよ。
 お前こそ物持ちいいじゃないか。
「心葉ごめん。開けるよ」
 思い切って、机の引き出しを開けた。ここも、きちんと整理されている。
 その時、クリアファイルに収められた、一枚のパンフレットが目に飛び込んできた。
「あった!!」
 瞬間、これだと分かった。
 アイバンク――。
「これだっ!」
 ひらめきはやがて確信へと変わった。
「ごめんな、心葉。気づいてやれなくて!」
 引き出しからパンフレットを取り出し、ぎゅっと抱きしめた。
 心葉はきっと、ここにドナー登録していたんだ。誰かのために、できること。自分にもしものことがあったとき、すぐに献眼できるように。なにもかも、準備。彼女らしい。
「あぁ財布! カード! 電話っ!!」
 うまく言葉にならない。俺はとにかく思いついた順に単語を叫び、部屋を飛び出した。