くしゃみをし始めた心葉が心配で、どこかで暖をとることにした。風邪をひかせるわけにもいかないし、ちょうどお腹も空いた頃。でも世の中はクリスマス。レストランはどこもいっぱいで、駅前のファミレスさえ長蛇の列。中学生の俺に店の予約なんて発想はなかった。素直に詫びると、心葉(このは)は「だいじょぶだいじょぶ」といつものように笑った。
「ティムタム持ってきたから」
 2歳上の彼女にそそのかされ、カフェに行くことにした。予備校のすぐ裏にある。プレゼントはそこで渡すことにしよう。俺は手提げを覗き込んだ。
 広場を出て少し歩いたところの横断歩道を渡ればいい。そうして小道を進めば、裏からカフェに着ける。これが一番の近道。本当は遠回りしたいんだけど。
 流れる車をぼんやり眺めながら、俺は繋いだ手を離すのが惜しくて仕方がない。今日が永遠に続けばいいのに――。そう思って彼女の横顔をちらっと見るも、すぐ「なあに?」と視線を返されてしまう。心の中を全部見透かされてるみたいで、赤面させられる。俺は思わずぷいと反対側をむいた。
 そこに犬を散歩している少女がいた。雪の残る道を慎重な足取りで、ゆっくりと。妙な違和感を感じたけれど、俺にはそれが何なのかすぐに分からなかった。きっとホワイトクリスマスに浮かれていた。
 向かう先の信号は赤だった。それなのに、彼女はまっすぐそのまま車道へ。
 犬……。ああ、盲導犬か。
 あっ――。
 次の瞬間、俺の足は彼女を追って走り出していた。
「あっ、柚(ゆず)くん」
 俺を呼ぶ心葉の声をふりはらう。
 駆け寄るその間に、俺はたくさんのことに気がついた。
 点字ブロックが雪に埋まっている。くそっ。融雪装置ついてないのかよ。
 音声信号機は? こんな大きな交差点なのに故障、いや、雪で音が吸収されている。
 ――くそっ。
 たくさんの偶然が重なっている。なんにせよ、あの少女は気づいてない。
「危ないっすよお!」
 俺の声は届かない。
 車道と歩道の段差が雪に埋もれていて、そのせいで盲導犬が止まれなかったんだ。
 ――くそっ。
 俺は少女を追って車道に飛び出した。歩行者信号はまだ赤だ。
 右目の隅には、もうトラックが迫っていた。
 スピードにのって交差点に差し掛かってくる。そっちは青だからね。
 ――ああっ。くそっ。
 昨日の雪が解けきってない。路面はシャーベットみたいにぐずぐずと濡れている。
 直感、ブレーキは間に合わないとわかる。どう考えても、あのトラックが停まるのは停止線を過ぎてからだ。
 慌てた様子の運転手と目があった。必死の形相でブレーキを踏んでいた。たぶん俺も彼と同じように、ひどく殺気立った顔をしていただろう。
 ガガッガッという鈍いABSの音が響き、タイヤもキーキー鳴いていた。たぶんこの間1秒もない。世界はスローモーションになっていた。
 少女は横断歩道の真ん中まできて急に事態を理解して怖くなったのか、その場にしゃがみこんでしまった。
 あああああああっ、くそうっっ。
 彼女の丸まった背中をめがけて、俺は勢いよく飛び込んだ。
 キーキキキキキィィィッッッ。
 ものすごい音がして、なんとトラックは停止線を踏んで停まった!
 直感でも、論理でもなく、感情の勝利だ。俺とドライバーのおっちゃんの。
 ヤレヤレと額の汗を拭いながら少女に声をかけていると、背中から大声が聞こえた。
「柚くん! あぶな」
 ドンッ――。
 えっ?
 次の瞬間、俺は少女もろとも心葉に突き飛ばされていた。
 ガンッという別の鈍い音が聞こえた。
 俺は中央分離帯のほうまで転がってきてしまったらしい。冷たいアスファルトに打ち付けられた頬がじんじんと痛んだ。わけも分からぬまま「ってぇ」と起き上がり、メガネを拾って辺りを見渡した。
 トラックを振り返って見た光景に、俺は自分の目を疑った。
「心葉っ!?」
 ああああっ。なんでっ?
 数メートル離れた場所に、心葉がぐったりと倒れていた。状況がよく分からない。
 中型バイクが転がっている。青いカウルはバキバキに割れ、そこら中に破片が飛び散っていた。痛そうに脇腹を押さえる男性ライダーの姿も見えた。
 ――心葉は?
 俺は大慌てで心葉の元に走った。
「心葉、大丈夫か?」
 道路に寝そべる彼女の肩をそっとたたいた。頭を打ってる。
 返事はない。嘘だろ。
 純白のダッフルコートは汚い雪に濡れ、黒ずんでしまっていた。ああ、どうして――。濡れた髪、血の気の失せた顔。後頭部から血が滲んでいるのが見えた。
 はねられたのか。そうとしか考えられない。
「くそっ」
 とにかく脈を確認する。大丈夫。胸元を見る。息もしている。
 学校で習ったのはここまでだ。あとは、どうすればいいんだっけ?
「大丈夫、心葉。大丈夫だから……」
 声をかけながら、俺は必死で頭の中を整理していた。
 少女を助けることで頭がいっぱいで、トラックの影からバイクが飛び出してくるなんて、思いもよらなかった。完全に油断していた。でも心葉には見えていたんだ。
 それで、俺を助けようとして。それで――。
「心葉、返事をしてよ。ねぇっ」
 渡しそびれたプレゼントの袋が、散らかった横断歩道の隅で濡れていた。
「ああああああああああああああああああっ。心葉、心葉、心葉ぁぁぁあああっ」