春の生温かい雨が降った朝。会社の大会議室では、この部署に配属された三〇名程度の新卒社員研修が行われていた。今日はその第一回目が行われている。
 研修の講師を行っているのは、この部署の部長である片瀬という人。三十路くらいの落ち着いた雰囲気を醸し出すイケメン属性で、面倒見も良いと社員から好感を持たれていると、僕は推測している。この人だったら僕のことも理解してくれるかも知れない。この時は、そう期待していたことも事実。
 
「我々コンサルタントは常にクライアントの要望に応えないといけない。さて、ここにクライアントが課題であると認識している『A』がある。しかし、本当の課題は『B』だ。この時どういうアプローチをするべきだろうか」
 
 片瀬部長は皆に視線を配ると、笑顔で問いかける。
 
「『A』の課題を解決する提案をするのが正しい、という人は手を挙げて」
 
 僕は『A』の課題解決をするのが正解だと思っていて、思わず手を挙げそうになった。会議室の後ろの方の窓際に座る僕は会議室を見回す。誰も手を上げていない。こういう時、僕は手を挙げないようにしている。
 
「では『B』の課題解決を解決する提案をするのが正しい、という人は手を挙げて」
 
 さっきの質問で誰も手を挙げないのだから、今回は全員が手を挙げるに決まっているじゃないか。こういう回りくどい人は苦手だ。予想通り皆が挙手をする。でも、僕は手を挙げなかった。だって、『A』が正解だと思ってるから。

「よし、そう。我々はこういう時、クリティカルな『B』の課題を解決する提案する。これがコンサルティングファームの役割なんだ」
 
 僕の考えを否定されたようで苛ついた。「ところで……」と片瀬部長が話を続ける。
 
「どちらにも手を挙げなかった君。えーと、結城くんか」
 
 いきなり名前を呼ばれ、全身の毛穴が一瞬だけ開いたような感覚になる。
 
「答えをださない結城くん。君のような人はコンサルタントには向かない」
 
 一斉に僕を見る同期たちの視線が痛いし恥ずかしくて僕は黙ったままだ。
 
「沈黙! それが答えなんだ。じゃないからな」
 
 同期たちの笑い声が聞こえる。その声を聞いてから片瀬部長も笑っている。一体、そのセリフの元ネタを知っている奴が何人いるのか。まったく、つまらない奴らばかりだ。
 
 僕の社会人としての生活は、()()最初から最悪だった。

 ***
 
 僕は、小さい頃からこういう子どもだった。頭の中では色々考えているが、なかなかそれが表側にでてこない。そのくせ、頑固であるために細やかな反抗の態度を取る。
 小学校四年生の頃、夏休みの自由研究で住んでいる地域の「空気中浮遊粉塵」の量を調べるということした。試験管に水と少しの油を入れて、街道沿い、林道沿いなど七箇所に設置する。空気中の浮遊粉塵は試験管の中に落ちて、空気が汚れているところほど試験管の水かさが増す。という、子どもながらに考えた方法で僕の中では完璧な実験方法だと確信していた。
 僕は、漢字の書き取りや読書感想文を放置し、この自由研究に没頭していた。試験管を設置した場所に毎日毎日足を運んで、一週間後に回収。写真を撮ってプリントアウトして、大きな模造紙に地域の地図を描いて空気の汚れた場所順にグラフも作った。
 なぜ、自由研究を頑張っていたかには理由があった。夏休みが始まったばかりの日、同じクラスの相澤というリーダーっぽい子のグループから遊びに誘われた。自転車で三〇分ほど離れた大きな国営公園へ行くことになり、集合場所へ行った。
 当時、僕は自転車を持っていなかったから、皆が自転車を立ち漕ぎで国営公園へ向かうなか、頑張って走ってついて行くのだが。もちろん、自転車についていけるわけもなく国営公園に付いた頃には、皆はもう帰るところだった。帰りも自転車に乗る皆から置いていかれるわけで、結局、僕は三時間半歩いただけの夏休み初日を過ごした。
 
「友達と国営公園、楽しかった?」
「うん。楽しかった」
 
 家に帰り、母との会話を嘘で取り繕う。幼いながら、なんか惨めな気持ちにはなったけど、そこまでは良かった。夜、相澤グループの一人の親から電話がかかってきて受話器を上げる母。徐々に声のトーンが暗くなる母の声。
 
「誠也、相澤くんたちね、あんたが自転車持ってない事知っててわざと誘ったんだって」
「そか」
「だから待ち合わせ場所も遠くにして、皆でからかおうって。なんで楽しかったなんて嘘つくの」
 
 余計なこと言いやがって。正義感出して親に言うから、母にもバレてしまったじゃないか。からかわれたり、嵌められたことより、そっちのほうがよっぽど悔しかった。

 だから、僕は相澤たちを見返してやるため、自由研究に精を出していた。
 夏休みが終わって一週間がたった理科の授業で自由研究の発表会が行われる。僕は筒状に丸めた模造紙を担いで登校した。心のなかでは何度もシミュレーションをして、皆の驚く顔や先生に褒められる場面まで妄想していたんだ。
 出席番号順で発表をする。相澤は出席番号一番だ。「俺に出席番号で勝てるのは『相上(あいうえ)』だけだ」これが彼の口癖だった。相澤の自由研究はホームセンターとかで売っている「◯◯制作キット」の類で、風力発電をする装置を披露した。風車に小さな扇風機で風を当ててモーターが回りLEDライトが点くというもの。
 発電させるのに、電池を使った扇風機を使うのかよ、と心の中でツッコミを入れて馬鹿にしていた。
 いよいよ僕の番だ。一人で練習した通りに研究結果を発表する。
 
空中浮遊粉塵(くうちゅうふゆうふんじん)ってかっこよくね?」
「うん。かっこいい」
 
 僕が話している最中に聞こえるコメントが僕のテンションを上げ、饒舌に発表を終えた。どうだ! と皆を見回していると、担任で科学クラブの顧問である大石先生が言う。
 
「その方法だと正しい空中浮遊粉塵は測定できないな。水は蒸発するだろ」
「試験管に2mlのサラダ油を入れてるから水は蒸発しません」
「蒸発しないかの前実験が足りないし雨が降ったかもしれないしね」
「毎日、観察に行ったけど、雨は一日も降らなかった」
「夜に降ったかも知れないじゃないか。とにかく実験方法が間違ってる」
 
 僕は、また皆の前で恥をかいた。そこまではまだ良かった。自由研究の優秀賞を獲ったのが風力発電。科学クラブに入っている相澤の物だったのが嫌だったんだ。

 ***

 中学生になった僕は、画を書くことに没頭していた。画と言ってもアートなものではなく、かといって漫画というレベルでもない。自分の好きなキャラクターや自作のカッコいいと思うキャラクター。女の子の画も描いていたのだが、どうしても胸の部分の膨らみを書くのが恥ずかしくて顔ばかり描いていた。どうせ誰にも見せない画なのにどうして恥ずかしかったのだろうか。
 そんな日の目を見るはずのない僕の画が、一度だけ皆の目に留まることとなるのは中学二年の運動会の時である。クラスの応援旗のデザインを決める事が議題の学級会であった。
 小学校から一緒の例の相澤のアイデアである不死鳥フェニックスをモチーフとする案が多数決により決まってしまった。クラスで画が上手い美術部の宗像さんと数名の女子が担当することになった。
 その日から、朝早くに学校へ登校し放課後も楽しそうに応援旗の制作に励んでいるみたいだったが、数日後の朝に僕が投稿すると教室は騒然としていた。
 旗の布に上手く絵の具が乗らず、バリバリとしていたり、滲んでいたりと無惨で不格好なフェニックスが描かれている。床に広げられた大きな旗の前に座り込み泣いている宗像さんを見ると、思わずニヤけてしまった僕を相澤が指摘する。

「おい、結城。なに笑ってるんだよ」
「結城、酷いよ。宗像さん、一生懸命みんなのために応援旗作ってるのにさ」
「わ、笑ってない」
「いや、絶対に笑ってたね。俺確実に見たから」

 皆に責められると、首から耳を超えてこめかみまで熱い何かが登ってくる感じがした。喉まで込み上げてくる言葉をなんとか押さえてその場から逃げようとした時に、背の高い女子バレー部の三人衆に道を塞がれる。僕が心の中でバレー山脈と名付けていた彼女たちは、体の小さい僕の眼前に高くそびえ立つ。もう逃げられない。

「ファブリックメディウム」

 僕の蚊が飛ぶような声を聞いた皆が「は?」という。続けて蝿が飛ぶような、さっきより少し大きな声でもう一度「ファブリックメディウム」と言うと、「は?」「は?」「なんだよそれ」。僕を取り囲むクラスメイトたちの声が耳にまとわりつく。

「布に絵の具を塗る時は『ファブリックメディウム』っていうやつを混ぜるんだよ!」

 変声期途中の僕の変な声は、教室中に響き渡った。シーンとする中、僕は更に言わなくてもいいことを言う。

「美術部のくせにそんな事も知らないのかよ。あと、そのフェニックス……構図がズレてる」

 僕の発する言わなくてもいいことは、宗像さんを更に号泣させることになり、クラスメイト全員からの顰蹙を買うことになった。「私もう描かない! 結城が描けばいいじゃない」そう叫びながら涙をながす宗像さんに全員が同調する。
 一体、どういう論理的思考をすれば、僕が旗のフェニックスを描くことになるんだろう。
 結局、運動会のギリギリまで放課後の教室で一人、鳥の画を描く事になった。そこまではまだ良かった。相澤のアイデアである不死鳥フェニックスを描くってのが気に入らない。

 運動会当日、僕のクラスの応援席には見事なフェニックスが秋の風にはためいた。応援旗の出来を称賛してくれるクラスメイトも多くいて、恥ずかしくてお尻がむず痒くなるような、もっと褒めてくれというような感情が交じる。そう、絵の具とファブリックメディウムが交じるように。
 そんな応援旗も運動会が終わってしまえば二度とはためくことはない。教室の掃除用具入れの上で半年間、埃を被り三年生への進級前に僕の手によって青いポリバケツのゴミ箱の中へと入っていった。せめて僕の手で捨ててあげたかった。

 ***

 大学生になった僕にも、やっと友達と呼べるようなものができた。いや、先輩だから友達というわけでもないかもしれない。
 出会いはサークルの勧誘が行われる新入生のオリエンテーションの時。一際強引に新入生の腕を引っ張りながら勧誘をする女の人は僕と目が合うと一直線に向かってくる。
 
「キミのような性格の弱そうな子を待っていた! ぜひ我らがサークルに入りたまえ」

 その声に僕は思わず身を縮める。目の前には、背の高い女性が立っていた。いつもなら即座に逃げ出していただろう。でも、その人の目には何か違うものが見えた。他人を見下すような上から目線ではない。どこか温かみのある、包容力のある眼差し。
それでも僕は、いつもの防衛本能で言ってしまう。
 
「どいてください。あなたのような背の大きな女の人が目の前に立ってるの苦手なんです」

 予想していた反応——不快な表情や、諦めの溜め息は来なかった。代わりに、大きな笑い声が響いた。
 
「あははは。キミは変なヤツだな。よし! 気に入った。部室へ来なさい」
「ちょっ、人の話を聞い……」

 こんな具合に連れて行かれた『サブカル文化研究会』通称『さぶんけん』の部室には、手作りらしきベニアの本棚に古い漫画や雑誌がずらりと詰め込まれ、マネキンにはコスプレの衣装が着させられている。
 破れた所をガムテープ貼りにしたソファに座る無精髭の男。二つ並べられた長机に小説を並べ、パイプ椅子に背筋をピンと伸ばした正しい姿勢で読書するショートカットの女性。

「どうだ! オタク少年。キミの好きなものばかりが詰まっているだろう。ここはキミのユートピアさ」
 
 僕はオタクではない。アニメや漫画は見るけども、特別好きなアニメもなければ飛行機が好きでも鉄道が好きでも秋葉原が好きなわけでもない。どうせ大学でも()()人と上手にコミュニケーションを取ることは出来ないのだろう。
 いいんだ。これで。僕は卒なく大学生活を過ごし、卒なく就職して、卒なく人生を終えるんだ。楽しい人生なんていうものとは無縁な人生を過ごして終える。ただそれだけだ。

「よし、キミが『さぶんけん』に入ってくれたお陰で、我らがサークルの存続の危機を免れた。今日は新歓コンパと行こうか。おい、諸君ら! 宴の準備を始めなさい」
「はい! 姐御」

 無精髭とショートカットが長机の上にあるものをブルドーザーの様に床に落下させ、ビニール製の赤いチェックのテーブルクロスを広げる。古い冷蔵庫からはキンキンに冷えたビール、焼酎、日本酒などあらゆる酒瓶が並ぶ。プラスチックのコップに乱暴に注がれる日本酒が、全員の前に並ぶと姐御と呼ばれる女の人と無精髭の口上が始まる。
 
「姐御、飲みすぎないでくれよ。連れて帰るの面倒くさいんだから」
「アホンダラ! おれに指図するなんざ一〇〇年早ぇ」
「誰にも止められなくなるぞ……暴走するこの時代を!」
「恐れるに足らん! おれァ姐御だ! 乾杯ー!」

 呆気に取られる。一体この人たちは何をしているのだろうか。

「何をやってるんですか?」
「ん? もしかしてキミ、シャンクスと白ひげのシーン覚えてないの?」
「あ、漫画のやつ……」
「『さぶんけん』のメンバーたるもの知ってて当然だろ。まあいい。キミも飲みなさい」
「僕、未成年なんですけど」
「かまわん! 責任は部長の私が取る」

 そう言うと姐御は部室のドアの鍵を締めた。僕はこのサークルに入る気なんて無いのに、勢いに押されて飲まされ、人生始めての酒に酔った勢いで入部届を記入してしまった。そして、この破茶滅茶な四年生の姐御と『さぶんけん』の仲間とは長い付き合いとなる。

 夏が近づくと他のサークルは合宿と称した旅行の予定のを立て始め盛り上がり始める。それにくらべて『さぶんけん』といえば。

「諸君! 今年も東京ビックサイトに熱い夏がやってくるぞ!」

 姐御が何を言っているかというと、夏のコミケのことである。このサークルではショートカットが考えた物語を元に無精髭が漫画を描いているのが日常で、たまに僕もベタ塗りやスクリーントーンの手伝いをさせられていた。
 漫画の物語が面白いかと言えば、そうでもない。決してつまらない訳ではないのだが所詮素人の物語だ。でも無精髭が描く漫画は異常に上手かった。そして、姐御の役割はは出来上がった漫画を満足そうに読むだけ。
 僕にはもう一つ大事な役目があった。

「結城! さぶんけんの漫画、面白かったか?」
「……普通です」
「お前、私が満足気に読んでるから普通って言ったろ。本当は面白くないと思ってるくせに」

 姐御の言う通りだ。ずばりと本心を見抜かれていたことで恥ずかしい気持ちになった。僕のこういうところを姐御はいつも「()らしむべし()らしむべからず、だな」と言う。

「主人公の女騎士、私に似てるだろ?」
「はい。そう思いました」
「なぜだかわかるか?」
「いえ」
「私がするコスプレの再現度を上げるためだ」

 コミケで同人誌を販売するときに姐御がその漫画のキャラクターのコスプレをするのが恒例なんだとか。部室にならぶ衣装も過去のコミケに参加した時のものらしい。

「どうだ! 過去のコスプレ衣装たちの出来は。素晴らしいだろう」
「ファブリックメディウム」
「なんだ。急に無詠唱魔法を発動しやがって。まだ厨二病が完治してないなんて優秀だな」
「ちが……う。エンブレムのところ、ファブリックメディウムを絵の具に混ぜたらもっと綺麗にできるのに。あと、縫製が甘い」
「よしよし! そうか。結城は衣装担当に任命する」

 また言わなくてもいいことを言ってしまったのに、姐御は機嫌を悪くすることはなく、あっけらかんとしていた。
 衣装担当に任命されてから僕は、裁縫に没頭することとなる。衣装の型紙の作り方や布の種類などを調べ、何度も手芸用品店に足を運ぶ。僕は意外とこういうことが好きなんだと実感した。毎日試験管を見に行ってた小学校の時の自由研究みたいなワクワク感を感じていた。
 一日の講義が終わった後や講義の空き時間はすべて衣装作りに費やしたが、とにかく細かいパーツの多い衣装に手こずっていた。作業をしている僕の近くで作画をしている無精髭も、主人公の衣装を描くのが面倒くさいとぶつぶつ文句を言っている。彼がふと僕と目が合うときに毎回コクンと頷くのは、きっと「衣装、細かいよな」の合図であろう。

「あの、無精髭先輩……ちょっといいですか」
「うん。なに?」
「ブーツの素材なんですが、合皮ですか? もっとテカテカしてたほうがいいですか?」
「俺は合皮の感じをイメージして描いてるよ」
「わかりました。どもです」
「すごいなお前、ハイヒールを魔改造してブーツ作るなんて、歴代最高の衣装担当かもな」

 褒められた。あまり褒められたことなんてないから、どんな態度を取って良いかわからないけど、恥ずかしくてお尻がむず痒くはなった。
 大学が夏休みに入りいよいよコミケの開催日が迫ってくると、僕は部室に籠もって作業に没頭した。あまり効かない部室のエアコンは送風音だけは大きい。汗が薄っすら肌に滲んで衣装の縁に使う金色のビニール素材がへばり付く。
 『さぶんけん』の皆が、印刷された同人誌が入った段ボールを部室に運んでくる。製本された実物を見るとなんだか達成感を感じた。僕のやった作業はベタ塗りとトーンだけだが、そのページを確認すると綺麗な出来栄えで気分が良くなった。
 
「随分と良い出来だな。結城、ちょっと着てみてもいいか?」
「あ、はい」

 姐御は突如、皆の前で着替え始める。僕は声にならない叫び声を上げ、慌てて目を逸らす。他の皆は全く気にしていないようだ。後で聞いた話、姐御の生着替えはよくあることで、そういうことに羞恥心はないらしい。無精髭に関してはデッサンのモデルも引き受けているとのことだ。
 衣装は姐御にぴったりで、出来栄えもとても良い。僕の最高傑作だ。姐御や無精髭も大絶賛してくれて、僕の注ぎ込んだ夏休み前半は報われたと思ったのだが。
 
「後ろ襟の縁だけは銀色なんだけど。なんで金色なの?」

 という、ショートカットの言葉で嫌な気分になった。無精髭の描いたカラーのキャラクターデザインを何度も確認した。

「普段は髪で隠れてるけど、『なびく髪の下からは銀色の襟の縁が鈍く光る』ってト書きがあるじゃない」

 そもそも脚本なんて読んでないし、漫画のそのシーンは白黒じゃないか。変なこだわりを出してくるなよ……ウザいな。

「これ、銀色に直して」
「いや、材料がないし」
「銀色に塗れないの?」
「顔料がないし、色が布に着いちゃうかもしれないし」
「じゃ、責任取って手芸店に買いに行けばいいじゃん。自分のミスでしょ」
「そんなに気に入らないならショートカット先輩がやればいいだろ!」

 ふざけるな、僕のミスじゃない。自分が伝えなかったのが悪いんじゃないか。小学校の時の自由研究で大石先生にケチを付けられた時のことが、中学校で相澤やみんなに責められた時のことが頭をよぎる。
 こんな衣装、青いポリバケツのゴミ箱に放り込んでやろう思うくらい苛ついた。すべてを放り出してコミケの参加もこのサークルも辞めたい。一生懸命やったのに、なんでこんな思いをしなければならないんだ。

「はいはーい。そこらへんで()めとけよー。あとは意地のぶつかり合いになるだけだ」

 姐御の制止が入る。「言い合って、少しでも間が空けばそこで止めるのが丁度いい」らしい。それ以降の言葉は捻り出さなきゃ出てこない揚げ足取りだけなんだ、という姐御の持論だ。
 それから暫く、僕はショートカットと目を合わさなくなった。無論、コミケ当日も彼女とは距離を置いた。

 コミケの朝は早い。僕は朝四時に起きて用意する。母は僕に合わせて一緒に早起きして朝ご飯を作っている。
 
「誠也がこんなに早起きするなんて小学生の頃以来ね。イベントだっけ?」
「うん」
「誠也。最近、楽しい?」
「うん」
「そう。良かったわね。一生懸命にちゃんと楽しんでおいで」
「うん」

 姐御の衣装を母から借りたスーツケースに綺麗畳んで入れて家を出る。この時間に歩いている人は少ないし、普段座れない電車もガラガラだった。大きな荷物を持っているから良かった。普段から電車がこのくらい空いていれば良いのにと思っていたが、会場に近づくにつれてホームから人が流れ込んでくる。
 雰囲気でわかる。みんなコミケの人たちだろう。駅から会場までの長い道を歩き、受付を通って2スペース分ある『さぶんけん』のブースに到着すると皆は既に到着していた。

「来たか結城! 衣装を持ってこっち来い」

 ここでついて行ってしまったことが、僕の人生を左右する出来事になるんだ。

 ***

 この会社に入社して四ヶ月が経ったころの僕の業務は、先輩社員がクライアントに提出するレポートのデータ集計だった。一ヶ月の研修を終えて僕のメンター兼教育係になった先輩社員の隣の席でパソコンとにらめっこする毎日。
 この業務は月末までのマーケティングからの反響を集計して、翌五営業日までにミスなくまとめなければならない。
 誰でも出来るが、絶対にミスをができない作業。データは社外へ持ち出せないし、残業をすると怒られる。『地獄の五日間』と名付けたこれが今月も始まる。
 そもそも社内システムが多すぎる。なんでこんなに面倒くさいシステムなんだろう。きっと頭の悪い人が作ったんだろう、使いづらくてしょうがない。お陰で僕が苦しむんだ。
 僕はとにかく、この会社に対する不満が溢れていた。遅刻をせずに出社し、喫煙者の様に喫煙所でサボることなく、皆の様につるんでランチにもいかない。むしろ弁当を食べながら作業をしている。
 なのに、僕に文句を言ってくる。僕は言い返さないから。
 入社してすぐの新卒研修の時に僕を笑っていた同期とは、ずっと距離を取っていて未だに必要なこと以外は話さない。度々行われる同期飲みという訳のわからない飲み会をしている奴らを横目に、自分の仕事を終わらせたら帰宅する毎日を送っていた。
 社内チャットには同期チャンネルにフォトアルバムがある。入社してから今までの同期飲みの写真や休日に出かけた写真などがアップロードされているこのアルバムには、入社式の集合写真以外に僕の写真は無い。
 家族より長い時間を一緒にいる他人たち。たまたま同じ会社になった他人たちと何故、仕事以外で一緒に過ごさなければならないいのか。なにかインチキ宗教的な、同調圧力的なものに嫌悪感を抱く毎日が続いていた。

 七月六日、金曜日。『地獄の五日間』が終わる日の朝は雨が降っていた。合皮の革靴のソールが削れていて、地面に溜まった水が僕の靴下をぐじゅぐじゅにした。
 ビルの四階、六機あるエレベーターを南側へ向かう。首から下げたIDをかざしてオフィスへ向かい、自分のデスクに座ろうとした瞬間――

「結城、ちょっといいか」

 課長に呼び止められる。無言で連れて行かれた小会議室に座っていたのは片瀬部長だった。
 六人掛けのテーブルに座ると、片瀬部長は課長が隣に座るのを見計らってすぐに口を開く。

「結城くん、毎月残業が多いんだよね」
「すみません、片瀬部長。まだ結城は仕事に慣れていなくて」

 何のことだ? 僕は課長に言われた通り、先輩社員のデータ集計を期間内に終わらせたのに。暫くぽかんとした顔で黙っていると、片瀬部長が僕に問いかける。

「あのさ、研修のときもそうだったけど、君。なんでいつも沈黙なんだい?」
「あの、僕は何がいけなかったんですか?」

 急に目を泳がせて慌てた様子の課長が口を挟む。
 
「結城、残業をしないようにしろと、あれだけ言ったのになぜこんなに残業時間があるんだ」
「優先順位が月初五営業日までにデータ集計を終わらせる事なので、それを優先したら残業してしまっただけで」
「残業しないで、期限内にデータ集計をするんだよ」
「どちらかしか出来ない時はどうすればいいですか?」

 僕と課長の応酬を聞いていた片瀬部長は笑い出す。それを見た課長も愛想笑いをし始める。ガラス張りの会議室を外から見たなら、和やかな会話をしているように見えるんだろうな。そもそもこの会議室に『僕にデータ集計をやらせている先輩』という居るべき人が居ないじゃないか。こんな会議には何の意味もない。
 
「結城くん、君の事を一旦、僕が預かろうか。課長、それでいいかい?」

 なんでそうなる。部署の皆の憧れで、仕事のできる片瀬部長が教育係なんて大変な毎日が待っているに決まってる。しかも、コイツは絶対に僕のことが嫌いなはず。きっと、僕が出来ない事をわかってて楽しんでる相澤みたいな奴なんだ。
 会社で出世したいわけじゃないし、仕事ができるようになりたいわけでもない。僕は没頭できる事が長くやれるだけの収入を得られればいいんだ。仕事に没頭する人生なんてまっぴら御免だ。
 僕は入る会社を間違えたのかも知れない。なにが『働く一人一人が働きやすく主役になれる会社』だ。会社説明会はインチキ宗教の勧誘みたいじゃないか。
 一次面接も、二次面接も、最終面接もおかしかった。面接というよりは、どうぞ我が社へご入社くださいという営業じみた感じだった。そこそこの規模の会社だし、待遇も良さそうだからこの会社に決めたというのに。
 翌日も、その翌日も雨が続いた。翌週からの地獄の毎日が始まるという合図だったのだろうか。でも、どうせ土日は家に籠もっているから天気なんてどうでもよかった。
 籠もって何をしているかというと、大学時代と変わらずだ。僕はこの夏のコミケの衣装を作っている。
 この趣味が長く続いているのは、仲間が居るからだろうか。「進捗はどうだ?」というLINEグループの通知に返信する。最近の残業続きで衣装作りは少し遅れているけど、なんとか間に合うだろう。
 月曜日が来なければいい。このまま、ずっとこの作業に没頭していたい。そう思いながら月曜日の朝に繋がるベッドの中へ潜り込むと、スマホの通知音が鳴った。

「諸君! 来週の日曜日に私の家に集合だ」

 
 月曜日、僕の席は片瀬部長のすぐ近くに移動させられた。与えられた業務のレベルは今までの集計作業などより遥に難しいものだったし、もちろん業務時間内に終わらないので残業を命じられる。残業しちゃいけなかったんじゃないのか、職権乱用だ。嫌がらせをしているとしか思えない片瀬部長が、段々と小学校の同級生の相澤に見えてくる。
 次の日は片瀬部長のクライアント訪問へ同行する事になったが、待ち合わせ先のビルのロビーで帰社させられることになる。

「結城くん、君の格好は何だ。ヨレヨレのスーツに汚いワイシャツ、靴まで……さすがにクライアントの前に連れていけないよ。会社に戻りなさい」

 移動時間が無駄になってしまった。この一時間があれば残業しなくていい分衣装制作に時間を使えるのに。コミケは来月に迫っているのだから、今は一時間でも惜しい。こうやって僕は会社に、いや片瀬部長に時間を搾取されている。
 こんな毎日がいつまで続くのだろうか。
 金曜日、四半期に一度の部署の飲み会が催されるが、勿論欠席の旨を伝えてある。日曜日までに衣装を粗方完成に近づかせて置かなければ皆に迷惑をかけてしまう。

「結城くん――」

 片瀬部長に名前を呼ばれ、嫌な予想をした続く言葉は的中する。同期や同僚とコミュニケーションを取らない僕は、率先して飲み会に参加をしろとのことだ。このご時世、こういうのはハラスメントだろうに。
 
 
「――という訳で、衣装制作が進んでないんだ。ごめん姐御」
「あははは。キミらしいな。まったく、()らしむべし()らしむべからずだ」
「笑い事じゃないし意味がわからない」
「とにかくだ、遅れは取り戻しておけよ。今年も東京ビックサイトに熱い夏がやってくるぞ!」

 姐御の卒業とともに、僕た『さぶんけん』は非公認サークルとなった。新入生が入ってこなかったのだ。結局、元さぶんけんの四人は部室を姐御の家に移し活動を続ける事となったわけだ。非公認となったことで大学の課外活動補助金制度が使えなくなり、金銭面はきつくなった。
 出展費や印刷費、衣装には馬鹿にならないし、それが年に二回ある。そのためにはたくさん同人誌を売らなければならないし、それには良い作品、良い衣装を作る必要がある。僕たちの活動は常に金がかかる。

 夏季休暇がはじまり、今年の熱い夏コミケが始まった。
 駅から会場までの長い道を歩き、受付を通って2スペース分ある『元さぶんけん』のブースに到着すると皆は既に到着していた。

 ***
 
「来たか結城! 衣装を持ってこっち来い」

 大学一年の夏、初めて参加するコミケが始まった。
 僕は衣装を持って姐御と更衣室へ向かう。衣装の入ったスーツケースを手渡すと、姐御から紙袋を渡された。

「え? これは……」
「とりあえず、キミはこれに着替えて来い」
「は、はい」

 言われるがままに着替えてブースに戻ると、無精髭とショートカットが目を輝かす。僕が顔を真赤にしていると、完璧にコスプレ衣装を着こなした姐御がブースに戻ってくると同時に奇声を上げる。

「ひゃー! 思ったとおりだ! いいじゃないか、結城」

 更衣室に入り、紙袋の中を覗くと女子の制服とウィッグが入っていた。売り子の質が高ければ同人誌の売上が上がる。姐御は華奢な体格の僕を見た時から、女子高生の格好をさせようと考えてたらしい。

「化粧もバッチリだ! 結城、いやこの姿の時は『優希ちゃん』と呼ぼう」
 
 キャラのコスプレをした姐御と、女子高生のコスプレをした僕を目当てに購入客は殺到する。一体何人の男どもと一緒に写真を撮ったことか。姐御の戦略は大成功。僕が初めて参加したコミケで、さぶんけんの同人誌は二〇〇冊が完売したのだ。
 この達成感、この成功体験がたまらなく心に焼き付いている。

 ***

 コミケに参加し始めてから今年で五年目だ。僕の女子高生のコスプレも板についてきた。最初は姐御に敬称をしてもらっていたが、今では自分の化粧ポーチを持っているほどだ。

「優希ちゃん、今年の制服も可愛いな。ちゃんと女子高生の流行を取り入れてる。立派な変態だ!」
「変態ってなんだよ! 僕は売上のために」
「変態でもいいじゃない。可愛いわよ」
「ちょっと、ショートカット先輩まで。フォローしてよ無精髭先輩」
「あ、ああ」
「あははは。なに、結城を見て赤面してるんだ、無精髭」
 
 準備が終わり、いよいよ来場者がなだれ込んでくる。この、今からはじまるぞ感が心をゾワゾワとさせる。この感覚が好きだ。それは皆一緒の気持ちだろう。冒険に挑む勇者たちの様な輝いた目をして来場者が入ってくる入口を見つめる。
 僕たち『元さぶんけん』はこの五年間でSNSのフォロワーも増え、ほんのちょっとした有名人になっていた。ブースにも行列ができ始めていて、いいスタートで始まった一日目。
 困るのは女子高生のコスプレで入る男子トイレだ。小便器の前に立ち用を足す女子高生というシュールな姿は、自分で想像しても笑えた。きっと僕のクオリティなら女子トイレに入ったほうが自然だと思う。
 一日目は昼ご飯を食べる時間が無いくらいの盛況ぶりで、本の売上も良かった。購入してくれた人と一緒に撮る写真のせいで、笑顔が顔面に張り付いている。
 一日目が終わり、ブースの上に並べてある本や小物に大きな布を掛けて会場を後にした。僕たちは初日の反省点や改善点を議題に居酒屋で飲んでいる。

「諸君、今年も出だしは好調だぞ。よくやった」
「優希ちゃん、今回の物語はどうだった?」
「すごく面白い。さすがショートカット先輩だなと思った」
「ああ、さすが書籍化作家だな。それに無精髭の画もかなり良いぞ」
「いや、俺なんてまだまだ。未だアシスタントだし……プロ漫画家の壁は厚いね」

 ショートカットは大学在学中にライトノベルの新人賞を獲りデビューした。無精髭も佳作を獲り連載に向けて頑張っているようだ。それに引き換え僕と来たら毎日部長にいびられているお荷物社員扱い。皆との差に少し気後れしてしまう。
 
「優希ちゃん、例の部長とはどうだ?」
「どうだって、前に言った通りだよ。僕の事をからかって楽しんでるんだ」
「まったく、お前はそういうとこ優希ちゃんだな」
「なんだよ姐御、意味わからない」
()らしむべし()らしむべからずって事だよ」
「余計に意味がわからないって」

 コミケ二日目。この日、僕の人生を左右するであろう事件が起きる。
 なぜか、駅から会場までの道のりがえらく短いという感覚がする。毎年、感じている二日目の不思議だ。
 コミケ初参加の人々の初日は辿々しかったり恥じらいがあったりするが、二日目には(こな)れてくる。隣のブースとも仲良くなってくるものだ。両隣のブースも初参加だったらしく、ベテランの雰囲気を醸し出す僕たちに圧倒されていたが、どうやらコミケの空気に馴染んだようで今日は元気に振る舞っていた。
 参加十一回目の僕ともなれば、それは大ベテランで堂々たる振る舞いだ。それは、『女子高生のコスプレをしている優希ちゃん』だからであり、素『結城』であれば百回目であろうが、こうは行かないだろう。
 購入してくれた人とは要望があれば一緒に写真を撮る。その時は自分たちのスマホでも撮るようにしていた。勿論、漫画の主人公のコスプレをした姐御の方がツーショット写真を沢山撮るわけだが、僕もそこそこの枚数をこなすので、年々、女子高生感に磨きがかかっている。

「じゃぁ、撮りますよ。はいチーズ! もう一枚!」
「ありがとうございます。応援してます」

 そう言って、僕と握手した男の顔を見上げた瞬間、世界が止まったように感じた。にこやかに微笑む見慣れた顔。片瀬部長だ。
 全身の毛が逆立つようにビクッとして硬直する。頭の中で警報が鳴り響く。逃げなければ。でも足が動かない。手を振りながら去っていく彼を、引きつった笑顔が固まったままで見送る。
 僕は自分の顔が次第と青ざめていくのを感じた

「どうした、優希ちゃん」
「あ、あ、あ、あ、あ……」
「なんだよ、有名人でもいたのか?」
「姐御、最悪だ。あいつ……アイツが片瀬部長なんだ」

 女子高生が僕だとバレてしまっただろうか。いや、あの感じなら気付いていないはずだ。僕は気が動転して、その後の記憶が曖昧だった。
 毎年盛り上がる打ち上げも、片瀬部長が頭をよぎり楽しめなかったし、その夜もベッドに蹲りながら、時折「ああああ」と叫びながら過ごした。
 夏季休暇も残り三日間、僕にとっては死刑執行までの残り少ない時間のように感じる。

「イベント、楽しかった?」
「うん。楽しかった」

 朝食を食べながら、母から聞かれる問いに半分だけ嘘で取り繕う。母は少し悲しそうな顔をして食器の片付けを始めた。
 この数ヶ月、休日はすべて衣装作りに当てていたので、残り三日間はどこかに行ってみようかと考えていた。会社に行きたくなくて鬱々としているし、気分転換になればよい。かといって遠出をするお金もないし、一緒に行く友達もいない僕はどうすればよいのだろうか。
 ベッドの上、スマホを取り出して友だち一覧を見てみるが、スクロールする必要がない程の数に我ながら呆れる。
 小学四年生のあの時に僕が自転車を持っていれば、友だち一覧はスクロールする事が出来たのだろうか。僕が科学クラブに入っていたら、この夏季休暇を一緒に出かける友だちが居たのだろうか。寝転びながらする自己内省は因果関係まで縺れ込むと弾けて、僕の体を家の外へと誘った。
 
 僕は歩く。細い道から徐々に合流する太い街道へと。近所の道の三倍の車線が流れる道を駅の方向に進む。市立病院を過ぎて市役所を過ぎて、まだ歩く。十三年前に友だちが乗る自転車を追いかけて歩いたこの道を進むこと一時間。
 眼の前には国営公園の入口が見えている。小学生の時は片道一時間半かかった道を大人になってから歩くと、三〇分の分だけ成長している。無料だったあの頃には入場せずに踵を返した入口で、四五〇円払って入場する。
 青空とバランスの良い鮮やかなサルスベリの花を通り抜けると、背の高い黄色だらけのヒマワリが視界に飛び込んできた。
 この景色も小学生の頃の僕では素通りしていたはずだ。思いつきで出かけたこの公園だったが、なにか心が洗われたような気持ちで自分を見つめ直すことが出来た。
 売店で買ったベーグルを食べ歩きながら、帰り道を歩く。食べ終えた包み紙をポケットに詰め込んで、頭を空っぽにして歩くと休み明けの会社の不安が消えていくような気がした。
 
「休日に出かけるなんて珍しいわね」
「うん、国営公園に歩いて行ってきた」
「そう、楽しかった?」
「うん。楽しかった」
「そう。それは良かったわ」

 母と二人で暮らしているのに、僕と母との会話はいつも少ない。僕と会話をした後はどこか悲しそうな顔をしているのだが、今日はなんだか少しだけ嬉しそうな感じがした。

 次の日、些かの筋肉痛をふくらはぎと尻に感じながら起きた。普段どれだけ運動していないかが立証される。だけど、少しだけ心地が良い。
 昨日、寝る時に残りの二日間をどう過ごすか考えていた。国営公園に行ったことで小学生の夏休みの記憶が呼び起こされたのか。僕はかつて自由研究で『空中浮遊粉塵』の調査をした場所へ無性に行ってみたい衝動に駆られていた。
 当時、試験管を仕掛けた場所は随分と様子が変わっていた。一車線であった街道は二車線になり、駅近くにあった線路沿いの雑木林は、大きな駐輪場となっている。
 十年そこそこで、こんなに変わるものなのか。今なら沢山の空中浮遊粉塵が採取できそうな程、この町の人は増えたのかも知れない。と、昔に試験管を仕掛けておいた場所へしゃがみ込んでいた。

「結城?」

 急に呼ばれる名前にビクッとして振り向くと、どこか記憶の中に居る少女が成長した姿の女の人が立っていた。

「宗像さん?」
「うん。久しぶりだね」
「う、うん。久しぶり」

 僕はおもねるような笑顔を浮かべようとするが、多分引きつった笑顔になっているだろう。中学二年の運動会の応援旗の初代制作担当の宗像さん。僕が言わなくてもいいことを言ったせいで泣いてしまった当時の彼女の事が頭をよぎると、どうしてもバツが悪くて目を逸らしてしまう。

「なんで、こんな所でしゃがんでたの?」
「自由研究で、あの、ここに」
「あはは。自由研究って、小学生じゃん。相変わらず変わってるね」
「いや、自由研究はいましているわけじゃなくて」
「結城は、今、社会人?」
「うん。コンサル会社で働いてる」
「すごいね。カッコいいな」
「いや、まだ新人だし……宗像さんは?」
「私は卒業した美大の助手をやってるんだ」
「美大に行ったんだ。美術部だったもんね。助手っていう職業があるんだね」
「そうなの。デザインの研究したり教授の手伝いしたり。わたし、絵が好きだから」
「そか。いいな」

 いいな。好きなことが仕事で。僕もそういう進路に進んでいれば、いや、僕には無理だな。宗像さんとの別れ際の「そうだ結城。LINE教えてよ」に、少し戸惑い返答した「え、あ……うん」これは暫く寝る時に目を瞑ると、脳内で再生された。
 
 ――この2日間さ、外に出ると意外な発見や出会いがあった。前に話した、「皆に置いてきぼりをくらった話」の国営公園に行ったんだ。なんかヒマワリとか咲いてた。あと、自由研究をした場所に行ったら、中学の同級生に会った。フェニックスの構図がずれてた美術部だった女の子。その子とLINE交換した
 ――は? なんだ急に
 ――えっと、夏季休暇の話し
 ――優希ちゃん、明日暇か?
 ――うん。
 ――だろうな。明日18時にいつもの居酒屋に来い

「おい優希ちゃん。なんだこれは。こんな長文のメッセージを送ってきやがって」
「ごめん、姐御」
「どこのメンヘラかと思ったぞ。しかも、『前に話した』って四年くらい前だろ」
「うん。そうだけど」
「普通、覚えてないぞ、人のそんな昔の話なんて。このコミュ障め」

 夏季休暇の最終日、姐御と一緒にいる居酒屋は大学の頃からよく行っていた馴染の店。擦れた畳の小上がりの端の席が『元さぶんけん』の指定席だ。瓶ビールを構え僕の方を向ける姐御に、いま半分残っているビールをくいっと飲み干して両手でグラスを差し出す。
 この一連の所作にもたついてしまうと、姐御はひどく不機嫌になる。お酒を飲むペースのイニシアチブは毎度、姐御が握っていた。

「でもまぁ良かったじゃないか。夏休み最後に淡い恋の始まるフラグが立って」
「そんなんじゃないよ。宗像さんは……あ、明日から会社か、鬱だ」
「原因はコミケに来てたお前の上司だろ?」
「うん。あぁ会社辞めたいな」
「駄目だ! お前が無職になったらコスプレの予算が減る」
「会社を辞めちゃいけない理由はそれかよ……」
「いや、それだけじゃない。お前はその会社で揉まれて人間的にも成長しなければならない」
「姐御にはわからないよ。あの部長にいびられる弱い立場の僕の気持ちなんて」
「にししし。そんなお前に武器を授けようじゃないか」

 姐御は座卓の上に数枚の写真をぽんっと放り投げる。
 写真には、女子高生の格好をした僕と片瀬部長が写っていた。
 
「どうだ優希ちゃん、わかるか? これをどう使うのか」

 漫画に登場する魔王のような邪悪な笑みを浮かべる姐御の周囲に、黒く淀んだ魔素が漂うエフェクトを僕の脳が付け足した。
 

 駅から徒歩六分。オフィスビルの敷地内に入り、ロビーのセキュリティゲートを通ってエレベーターに乗り込む。入社初日より緊張しいている僕はしばし、オフィスのあるフロアのトイレに入り、小便器の前と洗面台を数回、行き来する。
 中学の時、髪を切った次の日の朝は同じことをしていた。僕は根っからの小心者なんだろう。こんな事をしていても刻一刻と始業の時間は迫ってくるだけなのに。
 オフィスへ入り、片瀬部長とい目を合わせないように自分のデスクに座る。「おはよう。結城くん」右耳に聞こえる声に「……ぉはようございます」と返事をする。
 片瀬部長に名前を呼ばれる度に肝が冷える。何度か目が合ったが特に違和感を感じないことで僕は確信した。僕がコミケにいた事に全く気付いていないようだ。
 同僚や同期たちの中には随分と日焼けした者がちらほらといる。さぞ楽しい夏休みを過ごしたんだろうな。そう言えば、夏季休暇中に同期BBQを開催するなんていうチャットが流れていたような。僕には関係ないけど。
 その日の昼食休憩後は十三時から部署会議があった。会議の内容は、各自が担当している案件の進捗確認と課題の洗い出し。

「進捗に関してはわかった。次は予め提出してもらった課題に関してだが、今、俺の中で考えられる打ちてがあるものは、順に指示を出していくぞ」

 スマートに課題に対する解決案をすらすらと、そして淡々と述べていく片瀬部長。コイツの事をカッコいいとか思ってる奴がいるんだろうな。
 
 ――みんな知らないだろ。コイツ、女子高生好きの変態なんだぞ。
 
 この事実を皆が知ったら、どんな反応するかな。僕の脳内に、そうなった世界線が創造されている。いつの間にか僕はその世界に没入し楽しんでいた。
 会社に出社する片瀬部長。普段は部下たちが率先して挨拶するはずなのに、無視される。「おはよう」と話しかけるが、避けられて裏で白い目で見られるんだ。なんて無様なんだろう。ざまあみろ、片瀬。
 会議中、この妄想をしていると、新卒研修からずっと心にかかっていた靄が晴れていく爽快感を感じる。
 
「おい、聞いてるかい? 結城くん」
「あ、はい」
「随分、嬉しそうな顔をしてたね。そんなに会議が楽しいかい?」
 
 下を向いて赤面する僕を皆がクスクスと笑う。片瀬はいつも僕をいじって笑いを取る。ユーモアのある理想の上司を演じやがって。本当に卑劣な奴だ。覚えてろ、この変態め。
 この事で僕は決心した。あと、三回だ。あと三回、片瀬に嫌な思いをさせられたら、この爆弾を投下してやる。そう考えると自分が強くなった気がする。核保有国とはこういう事なのか。出来れば使いたくないが、来るなら来い。
 
「結城くん、データ確認した」
「はい。なにかダメな所ありましたか?」
「いや、よく出来てる。オーケーだよ」

 オーケーなのかよ。いつもみたいに文句言ってくればいいのに。こっちに対応策があると、なかなかチャンスは訪れないものだ。いっそ、こちらから仕掛けるのもありかも知れない。
 その週は平穏で平和な生活を送れた。僕がこの週末に散歩に出かけたのは、先週、散歩をすることで心がスッキリした事とLINEの友だちが増えた事、対片瀬用の武器を手に入れられた事などに起因する。
 翌週の月曜日、部署チャットの同期グループが賑やかだ。
 
 <23卒同期チャンネル>
 ――同期A:ランチの店どうする?
 ――同期B:駅前のイタリアンは?
 ――同期C:あそこなら10人席あるね
 ――同期D:10人ww 丁度同期の人数w
 ――同期E:@結城誠也
 ――同期F:メンションw
 ――同期G:来ないでしょ

 ――結城誠也:行くよ。


 駅前にある大箱の本格イタリアンの個室は、面白い個室の仕掛けだ。
 車輪の着いたコの字の壁は移動式で、普段は六名席だが人数によって十名席に早変わりする。

「珍しいね。結城くんがランチ会に来るの」
「なんかチャット見返してたら、月に一回の同期ランチ会って経費になるって見たから」
「そうだよ。二千円まで。最初の研修の時に説明されたじゃん」
「あの時、あまり聞いてなかったから」
「結城、お前も今度、同期飲み来いよ。しょっちゅうやってるから」
「うん。時間が合えば」
「そう言えば、なんで結城くんだけ片瀬部長の直属なの? 羨ましいんだけど」
「羨ましい? なんで?」
「あの人、仕事できるし、カッコいいし。しかも最年少部長でしょ?」
「いや、わからない。急に課長に呼び出されてそうなっただけなんだけど」
「もしかして、結城くんってめっちゃ仕事できるから抜擢人事?」
「いやあ、憧れるわ。片瀬部長みたいになりたいよな」

 何もわかってない。アイツがどんなに意地が悪いか。しかもロリコンの変態なのに。アイツが褒められる度に苛立ちを感じる。早く僕が作り出した世界線にアイツを突き落としてやりたい。
 
 そのチャンスは次の日に突然やってきた。
 夕方、片瀬から依頼されたタスクを完了し報告をする。

「おい結城くん。これ、データおかしいし日本語もおかしいだろ」
「はい、すみません。すぐ直します」
「いや、これは後でいい。ちょっと打ち合わせいいか?」

 小さい会議室はえらくクーラーが効いていてジャケットを着てこなかった事を後悔した。椅子に座り、テーブルに手を置くと、ひんやりとした感覚が不快に感じるのはエアコンのせいだけではない。

「あの……」
「ちょっとまってね。えーっと、この資料とこの資料と……はい。おまたせ」
「あの、僕またなにかダメな所ありました?」
「ダメな所はたくさんあるよ。でも、その件じゃないんだ。俺のクライアントのいくつかを担当してほしくてね」
「え、でも」

 新卒社員がクライアントを担当するのは早くても年明けからのはずなのに。しかも、僕が先輩社員や課長の手に余る落ちこぼれだから、片瀬が面倒をみてるんじゃないか。

「僕に出来ないことをやらせて、失敗するところが見たいんですか?」
「そんなわけないだろ。勿論、俺もサポートするから大丈夫だ」
「これは命令ですか?」
「まあ、命令かといえば、そういうことになるな。一応俺は上司だから」
「断ることはできますか?」
「どうした。なんか、今日はやけに攻撃的だな」

 出来ない仕事を担当して失敗すれば、僕の人事考課は最悪になるはずだ。しかも考課者は片瀬だ。体よく僕を追い出すにはよく出来たシナリオだよ。だが、そうはいかない。窮鼠が猫を噛むところを見せてやろうじゃないか。

「部長、質問いいですか?」
「ああ、なんだい?」
「部長って……ロリコンですよね?」
 
 言葉を発した瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。もう引き返せない。これまでの人生で、誰かと正面から対峙したことなど、ほとんどなかった。いつも逃げてきた。でも、今回は違う。
 片瀬は一瞬、目を見開いた。その表情に、僕は小さな勝利を感じる。でも、すぐに彼は冷静さを取り戻した。

「呆れるよ。仕事の質問かと思えば、キミは一体どんな思考回路をしてるんだ」

 いつもの余裕な態度。でも、その声には僅かな動揺が混じっている。僕にはそれがはっきりと聞き取れた。
 
「誤魔化しても無駄ですよ」

 自分の声の強さに、僕自身が驚いた。今まで、こんな風に誰かと対峙したことはなかった。小学校の時の相澤との一件も、中学校での宗像さんとの出来事も、全て逃げてきた。でも今は違う。今の僕には武器がある。
 
「いいかい結城くん。今は仕事の話をしてるんだ。関係ない誹謗中傷はよそでやってくれないか」

 攻撃態勢の僕の心臓の鼓動は、首の血管や、こめかみまでがドクドクと脈打つほど激しい。引き金は弾いてしまった。もうあとには引けない。誤魔化したり叱責してきたりしたら、爆弾投下のボタンを押してやる。

「片瀬部長、あなたは仕事もできるし、みんなの憧れだし出世頭だけど、実はプレッシャーやストレスを感じてる。その捌け口が『女子高生』なんだ」
「なんだそのプロファイリングは。急にどうしたというんだ」
「まだシラを切るんですね。証拠出しましょうか?」
「そうか、そこまで言うなら出してみろよ」

 ついに、爆弾投下のボタンを押す、その時がやってきた。
 呼び出された時にいつでも出せるように手帳のポケットに仕込んでいた六枚の写真。優希になった僕とピースをしている片瀬が写ったこの写真を取り出し、テーブルの上に並べた。
 写真を並べていく手が、微かに震えている。でも、それは恐怖からではない。むしろ、高揚感だった。片瀬の表情が徐々に変わっていく。その様子を見ているだけで、これまでの鬱屈した感情が溶けていくような気がした。
 片瀬が瞼をぴくぴくと痙攣させながら写真を凝視する。その様子で、コイツが焦っているのは十分に伝わってくる。

「証拠です。どう見ても、これ片瀬部長ですよね」
「これを、どこで……」
「そんなことはどうでもいいんです。部長が女子高生好きの変態である事実はかわらないので」
 
 クライアントの課題や社員の課題はスムーズに、そしてスマートに解決していくあの片瀬が、頭を抱えている姿を見ると心が高揚する。

 ――さあ、どう出てくる片瀬。

「結城……くん。何が望みだ」

 片瀬が僕の軍門に降った。この達成感は大成功した初めてのコミケの時とも違う、なんとも形容のしがたい特異なもので、興奮状態が継続している。

「僕の望みですか。色々とありますが、まずはクライアントの担当はしません」
「そうか。わかった。他には」
「他のは、考えておきます」
「そうか」
「部長、僕もう、戻ってもいいいですか?」
「ああ」

 僕は一人で会議室を後にする。オフィスに戻る時、ガラス越しに片瀬の姿を見ると、両肘をテーブルに突き頭を抱えている姿が見えた。

 僕と片瀬の対決は、僕の完全勝利だ。いつも誰かと言い争うと尻尾を巻いて逃げてきた僕の人生で初の白星に満足しながら自分のデスクへと凱旋した。

  最近、今までより一時間ほど早起きをすることにしているのは、散歩に行く習慣が出来たからだ。外に出て歩くようになってから良いことが多く起きる経験から、僕にとっては験担ぎとなっていた。
 散歩している人なんてたくさんいるが、僕にとってこれは、革命的なものだった。出勤ギリギリまで二度寝をし、働かない頭と怠い体で満員に近い電車に乗ると、座席に座り寝ている人を見ると羨ましいとか、苛つくとかそういった感情になりがちだった。
 朝から適度に運動し、季節ごとの町並みを観ることで感性は豊かになるだろうし、朝ご飯だって美味しい。
 
「最近、朝ご飯残さないわね」
「うん。散歩、してるから」
「良いことね」
「うん。ごちそうさま」
「そうだ誠也。お父さんがね、たまには都内でご飯でもしようって」
「僕と父さんだけ?」
「ええ、そう言ってたわ」
「……考えとく」

 両親は僕が小学生になった頃、離婚した。このご時世、離婚なんて珍しい事ではなかったが小さいながら母の悲しい顔をしていた時期を覚えている僕は、父をよく思っていなかった。
 中学や高校の入学の時、成人を迎えた時などの節目に手紙が送られてきたが、読まずに破り捨てた。僕の人生に他人となったアイツに干渉して欲しくなかったんだ。
 折角、心地の良い朝だったのに、あんな奴の話を聞いたら気分が悪くなってしまった。
 少し早く会社に着いた僕は、会社のロビーにある社員用のフリースペースでノートパソコンを開く。冬のコミケの衣装の布や装飾品の類の調べ物をしている。年末に開催される冬のコミケに向けての衣装を作りたい欲求が沸々としていた。

「結城くん。おはよう」
「あ、お、おはよう」
「会社くるの早いね。もう仕事はじめてたの?」
「いや、うん。まあそんなところかな」
「さすが片瀬部長の懐刀だね」
「懐刀? なにそれ……」
「最近、同じ部署の人たちが結城くんの事そう呼んでるんだ」
「やめてよ。そんなんじゃないし。膨大な量の資料とか作らされてるだけ」

 傍から見るとそうみえるんだ。実際は、こき使われてる奴隷が反旗を翻して貴族を脅迫しているという図なんだけど。この事実を知ったら皆、驚愕するだろうな。僕は自分が有利なこの状況を楽しんでいた。まるで陰の実力者の様な自分が誇らしかった。
 この日、片瀬はクライアント先に直行で帰社したのは昼過ぎだった。自分のデスクに戻らずに僕を会議室へと呼び出す。

「なんでしょう?」
「会社に戻る時に自分用のワイシャツを買ったから、ついでにキミのも買ってきたよ」
「これは、僕のご機嫌取りですか」
「うん、それもあるけどね。キミのワイシャツって入社するより前から着ているやつだろ」
「はい。そうですけど」
「しかも二着しか持ってないだろ。襟が綻びてるし見た目が悪いからね」
「ワイシャツ四着の賄賂ごときで部長が変態だって事を黙ってるつもりはありませんけど」
「そんなつもりはないよ。呼び出したのはね、やっぱりクライアントを担当してみないかと提案しようと思ってさ」
「なんで、そんなに僕を失敗させようとするんですか?」
「おいおい、そんな気はさらさら無いよ。キミが失敗すると僕の責任になるしね」

 たしかにそうだ。普通に考えれば上司からの指示なのでやらなければならないのも事実。

「わかりました。フォローはお願いします」
「よかった。じゃあ、引き継ぎするから次の打ち合わせに同行してくれ」
「はい」
「あと、例の『望みの件』早く決めてくれ。後回しにするのは好きじゃない」
「……はい」

 なんだ「早く決めてくれ」って、脅迫してるのはこっちだぞ。なにを堂々としているんだ。片瀬のこういうところが気に入らない。
 その夜、片瀬に貰った洗面台の鏡の前でワイシャツに袖を通すと、サイズがぴったりだった。そして、僕の薄っぺらい肌が透けて見えるようなワイシャツと違って、程よい高級感がある。
 新しいシャツの折り目を消すためにアイロンがけする僕の手つきは、衣装作りのお陰で手慣れたものだった。
 翌日から、新しいシャツを着て出かけるのだが、片瀬に買ってもらったものだと考えると、なんだか気持ちが悪かったので貢物だと思うことにした。すると不思議なもので自然と受け入れられたのだが、シャツに比べてスーツの安っぽさが目立っていることに気付くと恥ずかしさを感じた。
 一度気になると、ずっと脳裏にこびりつく性分で。結局、僕は次の休日に新しいスーツを買いに行くこととなる。冬のコミケのために出費は抑えたいのに、二着目半額という店員の言葉に乗せられて、グレーとネイビーの二着を買わされた。

「お、結城くん。スーツを新調したんだね。いいじゃないか」
「紳士服のお店で二着目半額のやつを……」
「最近のは良い生地だからね。うんうん、よく似合ってるよ」

 以前、クライアントのオフィスのロビーで帰らされた嫌な思い出のビルの入口で片瀬と待ち合わせをした。

 初めての同行。片瀬は僕をクライアントに紹介すると、僕はあたふたと新卒研修でやった名刺交換を思い出しながら挨拶をする。手が震えそうになるのを必死に堪えながらなんとか乗り切った。

「これからは私の懐刀、結城が窓口をしますのでよろしくおねがいします」
「結城さん、今後とも宜しくお願いします」

 僕の様な新卒の若造が、テレビCMを流しているような企業の担当をするなんて思っても居なかった。片瀬は僕に脅されているから賄賂のつもりで成果を出させようとしているのか、はたまた、僕に大恥をかかせて窓際に追いやろうとしているのか。僕にその真意はわからない。頑張ろうという意気込みと疑心暗鬼が交差する。
 
 『地獄の五日間』僕がそう呼んでいた毎月の月初五営業日の翌日、事業部全体の納会が開かれる。
 この会では、前月の事業部の予実の成果が発表される。その中で『Pick Up』という、その月の特筆すべき出来事を発表する時間があるのだが、今月は僕の名前が挙がった。

「第二コルサルティング部の新卒、結城誠也さんがスターコーポレーションの担当をすることになりました。ナショナルクライアントを担当を新卒がするのは、片瀬部長以来の最速記録タイです。皆さん拍手を」

 事業部百人余りの拍手が僕に向けて鳴り響く中、片瀬の思惑を理解した。こっちが本当の『賄賂』だったのかと思うと実に気に食わない。皆の前に立たされマイクを持たされたのも晒し者にされたようで気が滅入る。
 それから暫く不貞腐れながら担当する会社の資料を作っている。今までやっていた報告のためのデータ収集とまとめる作業は卒なくこなし、それを元に新たな提案作りを片瀬と練る。そして、客先でのプレゼンテーションは僕が行う予定だ。

「この提案資料は酷いな。俺と打ち合わせした内容を列挙しただけじゃないか」
「これで伝わりませんか」
「伝わるよ。隅々まで読めばね。でも、それじゃ話にならないんだ」
「クライアントは文章が理解できない馬鹿ってことですか?」
「馬鹿なのはキミだよ、結城くん。いい加減怒るよ?」
「部長はすぐそうやって僕を馬鹿にするんですね。いいんですか? 例のことバラしても」
「バラされたら正直困るよ。でもね、それでも俺はキミの意見を否定する」
「部長は自分の立場がわかってないですね」
「立場がわかっていないのはキミだよ。とにかくだ、この提案資料はやり直しなさい」

 やらないといけない日々の業務がある上で、資料の作り直しなんて馬鹿らしい。僕の作った資料は完璧だし、気に入らないなら片瀬が自分で作れば良いのだ。そもそも、僕に任せられないなら最初から任せなければいいのに。
 僕の真っ赤な不満はあと少しで臨界点を越えて破裂してしまいそうだったが、その怒りを急速冷却し真っ青にさせる出来事は数日後に迫っていた。

「結城くん、スターコーポレーションからのメールだけど、これはどういうことだ」

 ――To:片瀬部長 CC:結城様
 お世話になっております。スターコーポレーションの飯塚です。
 先日、貴社の結城様よりご提案いただきました内容でございますが
 弊社内で検討した所、目標の成果を得られるとは
 到底思えない内容でございました。
 したがって来月からの発注は見送らせていただくことになりました。
 貴社とは長く取引させていただいていて大変心苦しく思っておりますが、
 何卒ご理解いただければ幸いです。
 
 この会社、なんなんだろう。打ち合わせのときにはあんなにいい顔をしていたのに。急に掌を返したようなメールを送ってきて。こんなところこっちから願い下げだ。
 
「提案資料、先方に送ったのか?」
「はい、提案内容は部長との打ち合わせで決まった内容です」
「いや、資料の作り直しを指示しただろう」
「簡単な図やグラフは入れておきました」
「なんで俺に見せない?」
「どうせ、何度もやり直しさせられるので。巧遅拙速を優先しました」
「はぁ、結城……くん。キミ、自分は悪くないと思ってるだろ」
「僕が悪かったんですか? 提案内容は部長と決めたやつで、内容は完璧に漏れなく伝えました」
「本当に伝わってると思ってるのか? 伝わってないから受注できなかったんだぞ」
「それは僕のせいじゃなくて、先方の読解力に問題があったんじゃないですか?」
「キミ、ヤバい奴だな。俺の心が折れそうだよ。話が長くなりそうだ。今日、飲みに行こうか」
「はい。奢りならいいですけど」

 去り際に片瀬はため息をついたのを僕は見逃さなかった。ため息をつきたいのはこっちだというのに。片瀬とサシ飲みなんて気が重すぎるが、これも仕事だと割り切るしか無い。

 <23卒同期チャンネル>
 ――同期A:今日、同期飲みしない?
 ――同期B:ちょうど暇。私行くー
 ――同期C:いつものとこ?
 ――同期D:あとから行く
 ――同期E:@結城誠也
 ――同期F:メンションw

 ――結城誠也:僕、片瀬部長とサシ飲み
 

「他のお客さんがいるから、今回のクライアント名は『S社』と言うことにしようね」
「はい。わかりました」

 片瀬と僕は会社からほど近く、比較的静かな雰囲気の居酒屋に居る。『元さぶんけん』がよく行く古めかしい居酒屋と違って少し高級な感じがする。瓶ビールが運ばれると、僕は姐御がするように瓶のラベルを上にして片瀬に向ける。

「さて、何から話そうか」
「ご自由に」
「まず、俺は君の事を買っているんだ。もちろん、高く評価しているという意味でね」
「そうは思えませんけど」
「そう突っかかるなって。これに関しては嘘は言っていないと宣言しておくぞ」
「巧遅拙速を優先した。と、言ったね。たしかに巧遅拙速が良い場合は多い――」
「はい。だから僕は――」
「待て、まだ俺が話している。毎月S社からいくら広告予算を貰っている?」
「1200万円です」
「そう。年間1億4400万円だ。キミの巧遅拙速という拙い資料をメールでポンっと送って来るような会社に年間1億4400万円払うか? どう思う?」
「でも、それは……提案書を先方がちゃんと読めば……」
「ちゃんと読めば、なんだい?」
「僕は正しい日本語でちゃんと……」
「うん。ちゃんと、なんだい?」
「S社の担当者が……」
「うん。S社の担当者が、なんだい?」
「……」
「本当は、キミ自身もわかってるんだろ?」
「……」
「別にね、キミを論破したいわけじゃないんだ。キミの高いプライドが邪魔してるんだろうね」
「プライドじゃありません。スターコーポレーションの担当者だって、あの提案を実践していれば成果は出たはずだし、確かに僕の資料は拙かったかもしれないけど、その拙い資料を送ってきたのが気に入らなかったのかも知れないじゃないですか。プライドが高いというならスターコーポレーションの……」
「S社だ。社名を出すな」
「あ、はい」
「よし、一旦クールダウンしようか。日本酒はいける口か?」
「はい、大学時代に鍛えられました」
「よしよし。気が合うな」

 片瀬はさっきまでの険しい顔から一変、明るい表情と声で「女将さん! 日本酒おすすめの」と発する。二合の冷酒を氷が入る窪みがあるガラスの徳利に注いで持ってくる女将は、片瀬の事を「片瀬くん」と呼ぶ。

「この居酒屋ね、俺が新卒の頃から来てるんだ。ここらへんじゃ珍しく、終電過ぎても開いててね。当時は残業仕放題だったから、夜中にここでご飯を作ってもらって、二駅先の自宅まで歩いて帰ったもんだよ」
「いつもすぐ退社する部長がそんなに遅くまで仕事してたんですね」
「ああ、入社してか三年くらい、俺は出来が悪かったんだよ」
「あまり信じられませんけど」
「俺のことがそんなに信じられないか?」
「はい。耳障りの良いことしか言わないし、腹黒で嘘っぽいんです」
「ははは。耳障りのじゃなくて『耳当たり』な」
「そういうところもです。すぐ揚げ足を取るし、女子高生好きのロリコンなのを隠してエリートぶってる」

 片瀬は徳利を持ち上げ、僕の間の前にある切子のお猪口に酒を注ぐ。

「うーん。正直、女子高生を見て可愛いと思うのは事実だよ。勿論、法に触れるようなことはしてないけどね。だけどさ……」
「はい」
「女子高生の格好をしているキミも大概じゃないか?」

 僕は、口につけようとした切子のお猪口を落とした。こぼれた日本酒はテーブルの上に置いたスマホに掛かる。

「な……」
「ワイシャツだよ」
「ワイシャツ?」
「俺ね、昔は全く仕事ができなかったから、せめて見た目だけでもとスーツやワイシャツを沢山買ったし、調べてもいたんだ。お陰で変なスキルを身に着けてさ。人の体をみると、ワイシャツの首周りと腕の長さがわかるんだよ」
「……」
「結城くんのワイシャツを買った時に、キミが脅しに使ったコミケで撮った写真の女子高生と同じサイズだと思ってね。写真フォルダを漁ってよく見てみたら、化粧はしてるけど、あの女子高生がキミだと気付いたんだ。両目の下にある小さなホクロの位置も同じだし」

 体を見てワイシャツのサイズがわかるだって? 本物の変態じゃないか。女子高生のコスプレをしてた僕の体を見てたってことだろ。

「おいおい、俺をそんな目で見るなよ。でもさ、これで俺にもキミを脅迫する材料ができちゃったと思わないかい? これで一蓮托生だな」
「……」

 まずいまずいまずいまずい。絶対勝てると思っていたオセロの盤上が相手の色に染まっていくような、絶望に近い感覚に襲われた。

「大丈夫、安心して。バラされない限り、俺から結城くんの秘密をバラすことはないからさ」
「……」
「さて、S社の話に戻ろうか」
 
 コイツはヤバい。僕が太刀打ちできる相手じゃなかった。議論の運び方、戦略、切り札を出すタイミングのすべてが、一番効果を発揮する戦い方を熟知している。

「なにも泣くことないじゃないか」

 一粒だけ流した涙は、堰を切った様に次々とテーブルの上にこぼれ落ちて、さっきこぼした日本酒と混ざり合う。自分でも抑えきれないほど、止め処なくあふれる涙は、悔しさと自分の愚かさに対するものだったと思う。
 
「片瀬部長……」
「ん?」
「僕の完敗です。すみませんでした」
「じゃぁ、一つアドバイスだ」
「はい」
 
「目上の人にビール注ぐ時は、左手を添えるんだぞ」

 家路につくまでの電車も、駅からの歩いている時間もずっと片瀬の言葉が耳にこびりついていた。その声は、風呂に入っても布団に入ってもずっと繰り返し再生されていた。
 僕とまともに向き合ってくれる人は、姐御をはじめとする『元さぶんけん』の人たちだけだった。会社の同期も先輩も、どこかで僕をネタの様に扱っているのはわかっているし、別にそれでいいと思っている。
 だけど、片瀬は、片瀬部長はもしかしたら僕と真正面から向き合ってくれているのかも知れない。
 人前で泣くなんて、恥ずかしくて絶対にしたくなかったけど何故か、片瀬部長なら大丈夫なんだと変な安心感を覚えてしまった。
 そんなことより、重大な問題があることを思い出した。片瀬部長が女子高生好きの変態であることをネタに脅していたのに、その女子高生が僕だったということで、相手もミサイルのボタンを持ってしまった。
 次の日、気まずそうに挨拶をすると片瀬部長は何もなかったかのように振る舞う。

「か、片瀬部長」
「ん? どうしたんだい?」
「部長って、ランチはどうしてるんですか?」
「適当に済ませてるな。仕事しながら食べたり、他部署の人と情報交換しながらってときもあるし」
「今日はどうするんですか?」
「特に決まってないけど、どうした? 一緒にランチでも行くかい?」
「は、はい。おねがいします」

 午前中に終わらせるタスクは早めに片付いた。僕はチラチラと片瀬部長を観察する。パソコンに向かい、頻繁にかかってくるクライアントからの電話を対応し、部下の相談を捌いてる。マルチタスクを涼しい顔でこなしている姿は、味方だと思うと頼もしく見えた。
「よし」そう言った表情をする片瀬部長は、一呼吸置くと僕の方へ顔を向ける。「結城くん、行けるか?」そういうと椅子の背もたれに掛けてあったジャケットを手に取った。
 会社の近くの定食屋に入ると、焼いた魚と炊きたての米の香りが食欲を刺激する。店の雰囲気からすると、長く営業を続けているように感じるが、隅々まで綺麗に掃除されているのが見て取れる。
 
「やっぱり米だよな。結城くん、ここはご飯のおかわり仕放題だ。一杯食べなよ」
「はい。じゃ、僕は焼きサンマ定食で」
「お、いいね。今年は豊漁らしいからな。俺もサンマにしよう」

 今朝、片瀬部長のカレンダーを確認すると、僕がやらかしてしまったスターコーポレーションとのアポイントが入っていたのに気付いた。多分、僕のせいで失注したのを挽回しようと動いているのだろう。

「S社の件ですが、部長、色々動いてますよね」
「ああ、俺の責任でもあるからね」
「僕のせいでああなったのは重々承知してるのですが、僕も一緒にやらせてくれませんか」
「お。ここから巻き返すのって結構難しいけど、本当にやるか?」
「はい。どうしても挑戦してみたいです」
「よし。やってみるか。上手くいく確率、かなり低いぞ。覚悟しておけよ」

 その日から、僕と部長の奮闘が始まった。
 まずは、巧遅拙速と息巻いて作った提案書の整理と修正をする。クライアントのスターコーポレーションが過去一年間に出稿した広告と反響の裏付けとなる膨大なデータの集計を詳細にし直し、分析と打ち手を考えられるだけ書いた。
 作成した資料を部長に送信すると、次の日の朝には修正すべきところと不要な部分にコメントが入って戻って来る。効果的なプロモーション方法と予測の数字をシミュレーションを一覧にしては、また片瀬部長に送る毎日。

「よく調べたな、結城くん。昨日の夜資料見て驚いたよ」
「すみません、部長の睡眠時間を奪ってしまって」
「いや、キミも相当自宅作業してるんじゃないかい?」
「はい。でも没頭して作業するの、好きなんで」
「よし! 昼、行くか! サンマ定食」

 ここ数日は更に早起きして作業をしている。散歩も継続しているためか昼ご飯も美味しく食べられる。ここの焼き魚はカウンターの厨房にある小さな囲炉裏でじっくりと遠火の強火で焼いているお陰か、本当に美味しい。そして、大きな土鍋で炊いた米が食欲を刺激する。

「よく食べるな。さすが若者」
「部長、『若者イコールたくさん食べる』は、おっさんの考え方ですよ」
「あはは、良いツッコミだ。キミって意外と会話が上手いんだな」
「あ、すみません。軽口を叩いてしまって」
「いやいや、構わないよ。俺もそっちのほうが話しやすいし」
「部長、昔は仕事が出来なかったって言ってましたよね」
「ああ、新卒の時ね。毎日上司や先輩に怒られてたよ」
「信じられないんですけど。本当ですか?」
「ああ。雑な性格でね、資料作成もクライアント対応もいつも抜けてるんだ。しかも大切なところがね」
「どうやって、改善できたんですか?」
「すごいアナログな方法なんだけどね、俺のデスクにいつも手帳が置いてあるだろ」
「あ、あの汚い革の」
「汚い……味があるって言って欲しいけどな。あの手帳にやること一覧が書いてあるんだ『◯◯する』という動詞の形でね。これが、動詞の形になってないとタスクに取り掛かることができないんだ。未だにね」

 片瀬部長は幼少のころから片付けが苦手な少年で、学校の机の引き出しやランドセルの中などが本当に汚かったらしい。今でも油断をすると部屋がゴミだらけになる、片付けられない人らしい。
 新卒当時の上司に貰ったのが、あの汚い手帳で「やることを事前にこの手帳に全部書きなさい」というアドバイスを貰ったのだそうだ。すると、自然にやるべきことができるようになったのだろうだ。そして、動詞の形で書かなかったタスクは、不思議と未だに出来ないんだそうだ。
 
「意外と人間っぽいところもあるんですね。弱点があるというか」
「そりゃそうだよ。俺だって人間なんだから」
「でもなんかわかります。僕もコスプレの衣装を作る時に、やることを箇条書きにしますし、型紙も……」
「おい、あのコスプレの衣装ってキミが作ってたのか?」
「あ、あ、はい。実は……」
「すごいじゃないか! あんな漫画の中から飛び出てきたようなのを作れるなんて」
「内緒にしておいてください。なんか恥ずかしいので」
「ああ。わかった。でも、あれを作るのって結構金かかるんじゃないか?」
「はい。だから僕、自分の服とかにお金をかけられなくて」
「なるほど。なんかごめんな。前にキミの服装の事をきつく言ってしまって」

 片瀬部長との会話はいつの間にか苦ではなくなっていた。仕事に関しては妥協がないけれど、何かと僕に気を使ってくれる。今まで僕は腫れ物を触るような扱いを受けることが多かったから、正面から向かってくれてると思うと心の中に灯りが点いたような気分になった。
 片瀬部長はスターコーポレーションに渡りをつけ、再提案の機会を得るまでに漕ぎ着けた。今月の発注は無いものの、まだ他社への発注はせずにインハウスでのプロモーションを行っているとのことだった。
 まだ挽回の余地があることに安堵した僕はそれからも、スターコーポレーションの提案書作りに没頭した。
 
 <23卒同期チャンネル>
 ――同期A:ちょっと聞きたいことがあるんだけどいい?
 ――同期A:@結城誠也
 ――結城誠也:うん
 ――同期A:広告効果のデータ集計をしてるんだけど
 (CPM)(CPC)(CTR)(CV)(CVR)(CPA)
 全部出したら、先輩が「必要なものだけでいい」っていうんだけど
 クライアントによって『どの項目が必要な指標なのか』わからなくて
 ――同期D:俺が教えようか? データ集計得意だし
 ――同期A:大丈夫。結城くんの方が詳しそう
 ――同期D:えww 
 ――結城誠也:あとで教える。18時から会議室でいい?

「ごめんねー。なんか忙しそうにしてるのに」
「大丈夫、部長からのレビュー待ちだから。データ集計の項目だったよね」
「うん。先輩の言ってることが、まったく意味がわからなくって」
 
 同期Aさんの悩みはつい先日、僕が躓いていた問題と同じで片瀬部長に教えてもらったばっかりだった。記憶に新しいものだから上手に説明ができたと思うと同時に、教えることで改めて理解が深まったという実感がある。
 こういやって人間は成長していくのだろう。僕はきっと、その成長のチャンスをずっと逃しながら生きてきたのだと思う。
 
「すごいわかりやすかった。さすが片瀬部長の懐刀だね」
「いや、僕も最近教えてもらったばっかりで。しかも、いっぱい部長の足を引っ張っちゃってるんだ」
「またまた、謙遜しちゃって! そうだ。今日同期の何人か飲んでるって言ってたよ」
「そうなんだ、行くの? えーっと」
「まさか、結城くん。私の名前覚えてないの?」
「ごめん、あまり絡んだことないから」
「秋村だよ。秋村彩音」
「僕は、結城誠也です」
「いや知ってるから。飲み会一緒に行く?」
 「うん。ちょっとだけなら顔だそうかな」
 
  <23卒同期チャンネル>
 ――秋村彩音:今から向かうねー
 ――同期D:オッケー。もうみんな集まってるよ
 ――秋村彩音:結城くんも一緒に行く
 ――同期B:珍しい!初めて飲むね
 ――同期D:結城もか。席座れるかな。
 ――同期E:余裕余裕。大丈夫。おれ痩せてるからw

 初めて参加する同期との飲み会には、僕を入れて五人が参加した。僕は今まで飲み会と言えば『元さぶんけん』の三人、片瀬部長を入れると四人としかしたことがない。この日で、一緒に酒を酌み交わした人が倍の数になったのだ。

「えー! 本当に? だとしたら私たちって結城くんに取って貴重な飲み仲間じゃん」
「う、うん。だから慣れてない分、変なコミュニケーションを撮ってしまうかも知れない」
「二十三歳にもなってマジかよ。絶対童貞だろ結城」
「ちょっと、堂島くん。デリカシー無いって」
 
 ――堂島。同期Dは堂島という名前か。よし覚えた。
 
「さっきも彩音と一緒に会議室に居て、変な気分になったんじゃねぇの?」
「彩音? あ、秋……村さんか。いや、そんな気分にはならなかったよ」
「なに、真面目に答えてるんだよ。コミュ障かよ、キメぇな」
「大地、やめなさい。結城くんに嫉妬してるの?」
「うるせーな、尾藤先輩は。嫉妬なんてしてねえって」
「ナイス枇杷(びわ)さん、さすが堂島くんの先輩」
「こら、彩音。遠回しに浪人生をバカにしたな」
「いやー、それにしても結城くんはすごいなぁ。スターコーポレーションの提案作ってんねやろ?」
「うん。大苦戦中だけど」
「すごいなぁ結城くんは。二十三年卒、期待の星やんな」
「いやいや、瑛介、片瀬部長に贔屓されてるだけだって」
「堂島、お前、絡み酒やめぇや」
「そうだよ。江藤くんの言う通りだよ」

 同期との飲み会では、いっぱい話すことができたし、たまには参加するのもありだなと思いながら帰宅する。ちょっとお酒が入ってるけど今日も資料作りをしてから寝よう。

「結城くん、昨日作ってくれた資料見たぞ。酔っ払って作業しただろ」
「あ、はい。わかりますか? 昨日、同期飲みに初めて参加して……」
「お。いいな。同期は大事にしろよ! 一生で新卒の同期は長い付き合いになるからな」
「部長の同期って誰ですか?」
「んー。今残ってるのは人事部の部長と、コンサル第一部の課長が二人、総務の課長と経営企画室の室長かな。あとは子会社に出向したり転職したり独立した奴もいるよ。たまに同期会ってのがあるな」

 思えばこの頃は、充実した社会人生活を送っていた。ちょっと前までの憂鬱な毎日が嘘のように早く会社に行きたいと心待ちにするほどであった。

「うん。今日は誤字脱字がないな。昨日はシラフで作業したみたいだな」
「あ、誤字脱字で飲んでるか飲んでないかをチェックしてたんですね」
「ああ。俺もよくやって上司に注意されたんだよ」
「よし。そろそろ、この提案書をまとめに入ろうか」
「僕がまとめてもいいですか」
「うん。ここまで頑張ったんだ。最後までやりきろう」
 
 今回の提案は網羅的で、多岐にわたる。そのため最初のページをわかりやすくまとめる必要があった。特に大手クライアントは決裁者と現場との距離があることがおおいため、エレベーターピッチと呼ばれるダイジェスト版があると良いらしい。僕の作ったそれは、小学生の時の自由研究をまとめた模造紙より、わかりやすく図解してまとめたものとなった。
 さすがに、一流のビジネスパーソンたちをバカにした感じになってしまったのではないかと心配になったが、このまま片瀬部長に送信した。ファイルを添付して送信ボタンを押した瞬間は、小学校の自由研究の発表を始める瞬間のようで、少し嫌な未来が頭の隅っこをよぎった。

「結城くん、ちょっと会議室に来てくれるかい?」
「ト、トイレに寄ってから行きます」
「うん。じゃあ先に行ってるね」

 片瀬部長の呼び出しに、いつになく緊張する。僕は小便器と鏡の前を行ったり来たりしていた。僕は多分、怖いんだろう。四度目の鏡の前で顔を洗うと覚悟を決める。僕は気合を入れて会議室へと向かった。

「お。長かったな。デカいのが出たのか?」
「いえ、小さい方を……四度ほど」
「相変わらず変なやつだな。君は」
「さてさて。見せてもらったぞ。君の自信作を」
「は、はい……」
「ユニークだけど、わかりやすくていいぞ。驚いたよ」
「え、あんなやつで本当に良いのですか?」
「ああ、すこし直す所はあるけど、基本はあれで行こうか。よく頑張ったな」
「ありがとうございます……なんか意外です」
「来週あたり、スターコーポレーションに再提案のアポ取るから、プレゼンの練習もしなきゃな」
「え、僕がプレゼンするんですか?」
「ああ、なんかキミなら出来る気がしてきたよ。今日は酒をご馳走してあげよう」
「ご馳走になります」
 
 次の日から始まったプレゼンの練習で、早々に挫折しそうになったのは僕の圧倒的なコミュニケーション能力の無さが原因だった。片瀬部長に何度も手本をみせてもらうが、どうしても間のとり方や、自信の無さを指摘される。
 こればっかりは場数が物を言う。その点、僕の場数はいいところ中学生レベルだろう。これは早々に諦めたほうがいいのかも知れないと思い、片瀬部長にギブアップの旨を伝えたのだが、中々に許してくれない。
 少し前の僕ならそれを片瀬部長からのいじめだと受け取って拗ねていただろう。
 僕のプレゼンは全く上達しないまま、再提案の日が迫って来る。

「部長、僕怖くなってきました」
「大丈夫だ。最悪俺が話すから泥舟に乗った気でいなさい」
「泥舟って、それダメじゃないですか」
「そもそも、失注してるんだぞ。キミが作った泥舟を俺が漕いでやるって言ってるんだ」
「すみません」
「謝らなくていい。『駄目で元々』だから気にするなって意味だよ」
 
 遂にその日はやってきてしまった。

  <23卒同期チャンネル>
 ――江藤瑛祐:@結城誠也 今日、スターコーポレーションの提案やろ?
 ――結城誠也:うん。今日の13時から訪問
 ――同期C:おお頑張って!
 ――秋村綾音:絶対大丈夫だよ。応援してるファイトー
 ――尾藤枇杷:受注できたら飲み会しようね
 ――同期F:グッドラック結城くん!

 ――結城誠也:ありがとう。精一杯がんばってくる

「提案前はランチを食べないという験担ぎをしてるんだけど、結城くんもそれに付き合ってもらっていい?」
「はい。僕もランチを食べたら眠くなりそうなので」
「たしかに『験担ぎ』というか俺も眠くなったことで上手くいかないことが多かったってだけかもな」

 片瀬部長が何でも無い話をしてくれてるのは、僕の緊張を解してくれているからなんだと思う。いつもより口数の多い彼と電車に乗ってスターコーポレーションのオフィスへと向かうのだが、過去二回来たこのオフィスとはまた違う景色に見えた。
 エレベーターを登り『STAR CORP.』というロゴマークが見えると武者震いを感じた。
 
「結城くん。心の準備はいいか」
「はい! 行けます」

 僕たちは、意気揚々と受付へと向かった。
 
 「本日は再提案の機会をいただきありがとうございます」
 
 一言話す度に喉がカラカラに乾いていくのを感じる。眼の前に座る六名のクライアントにオンライン参加の四名。向かい側に座りながら、画面共有機能を使い力いっぱい作った資料を展開する。
 ページが切り替わる度に、そのページを作った時の記憶がまるで回り灯籠の様に蘇る。

 「ここまでで質問はありますか」

 嫌いな質問タイムだ。心臓が高鳴り、手のひらに汗が滲む。質問されても答えられない不安と、質問されないことへの不安が交錯する。
 緊張で、一〇秒前に自分が何を言っていたのかも思い出せない。その感覚は五秒前の記憶も蝕んでいき、次第に話している今、自分が何を言っているかもわからなくする。
 そろそろ限界を迎えそうだ、もしかしたらもう限界を超えているかも知れない。段々と吐き気までしてきた。視界の中で、プレゼンをしている会議室が大きくなったり小さくなったりと伸び縮みしている。一瞬、片瀬部長と目が合ったような気がした途端。

「結城くん、ありがとう。ここで補足の資料を皆様にお渡しします」
 
 片瀬部長は、参加している先方の参加者に1枚ずつプリントアウトされた資料を配り始めた。

「とある会社の社員の方々を対象に社員教育に関するアンケートを行ったものです」
「うん。サンプル数三十名ってのは少ないんじゃないですかね」
「そうですね、当社のサービスを導入するならばせめて四〇〇は……ん?」

 会議室に居るクライアントたちが、互いの資料を見せ合いながらどよめき始める。
 
「後藤、岡田、前田 、近藤 、遠藤って……」
「私の資料の回答者は、藤田 、村上 、中島 、石川 、青木、橋本……」
「こっちは、阿部、野口、松田、菅原 。全員、私の部署の社員の名前だ」
「片瀬さん、これはどういうことですか?」
「ピンポイントでアンケートを取らせていただきました。勿論、正式な手順で」
「そんな事ができるのですか?」
「はい。今回はデモンストレーションを兼ねて、名字を記載してありますが、実際はイニシャルであったり、無記名であったりで行います。この手順を踏んでから、先程、弊社の結城が説明した……」

 先方は片瀬部長の話をそっちのけで、資料に記載されている部下の回答に齧りついている。暫く資料を熟読している姿を静観している片瀬部長と目が合うと、ニィっと口角を上げた。
 激しく脈打っていた僕の心臓は正常な速度を取り戻していく。

「あ、すみません。つい資料を読み込んでしまいました」
「ははは。ありがとうございます。では、結城くん、続きを」
「先ほど、皆様に見ていただいた資料の精度でアンケートを取ることと同時にオプトインすることも可能でございまして――」

 降下するエレベーターの中で片瀬部長が僕の背中をバシっと叩いたとき、プレゼンテーションは大成功に終わったと確信した。
 会社へ戻る途中で遅めのランチを取ることにした。

「やっぱり提案の後は米に限るな。結城くん」

片瀬部長は、いつもの定食屋で、いつものように米を口に運ぶ。でも、今日はどこか特別な空気が流れている。それは、共に戦いを終えた戦友のような、そんな雰囲気だった。

「いや、部長は結局いつも米ですね」

自然と口から出た軽口に、片瀬部長が楽しそうに笑う。数ヶ月前までは想像もできなかった会話だ。この人は本当に、最初に僕が思っていた人とは違っていた。

「日本の心だからな」

片瀬部長はそう言いながら、じっと僕の顔を見る。

「それはそうと、どうだった? 提案は」

その問いかけには、純粋な関心が込められていた。もう、上司が部下を試すような質問ではない。

「打ち合わせ通り、部長の助け舟が本当にありがたかったです」

「いや、ちょうどいいところまで君が持ち堪えたからだよ。よく頑張ったな」

その言葉に、喉元に込み上げるものを感じた。これが、誰かと真摯に向き合って仕事をすることなのか。そう思うと、不思議と目頭が熱くなる。
 
「ありがとうございます」
「途中のあの感覚、わかったか?」
「んんー。先方の空気感が変わった感じがしましたが、なんかうまく説明できません」
「うん。俺もうまく説明できないけど、あの感覚を覚えておけよ」
「今回の提案で、来月からの契約を受注できるでしょうか?」
「それはわからない。だが、やるべきことはやった。期待して結果を待っていよう」

 一つの案件を、やりきった達成感は確かに僕の中に染み渡っている。これはコミケの衣装が完成した時の感覚にとてもよく似たものだった。そして、結果が出るまでのそわそわとした感じは、コミケでの衣装の評価が気になる感覚と酷似していた。
 会社に戻っても興奮は冷めやらず、暫く提案した資料と今日は返答が来るはずのないメールボックスの画面を切り替えながら過ごした。
 こんな時に喫煙者ならばビルの喫煙所にでも行くのだろうけど、タバコを吸うという行為に何のメリットがあるかがわからないのもあって、その道は通ってこなかった。

「片瀬部長、あの、なにか手伝うことってありますか?」
「ははは。結城くん。手持ち無沙汰なんだろう」
「はい。なんか、気付いたらずっとメールボックスと資料を眺めています」
「そういう時は今回の提案を横展開できるように、資料の整理をするといいぞ」
「はい。そうします」
 
  <23卒同期チャンネル>
 ――秋村彩音:@結城誠也 提案どうだった?
 ――堂島大地:上手く行ったか or 上手くいかなかったで賭ける?
 ――江藤瑛祐:堂島、寒いて。スベっとるで?
 ――結城誠也:うん。どうだろう。手応えはあったように感じる
 ――同期C:わお。良い結果が出るといいね!
 ――秋村彩音:うんうん。結果はいつわかるの?
 ――結城誠也:まだわからないんだ
 ――尾藤枇杷:受注できたらって言ってたけど、今日飲んじゃう?
 ――同期F:ありよりのアリです
 ――同期G:いいね。みんな予定はどう?
 ――同期H:ごめん、今日予定ありなんだ
 ――同期I:投票開始
 ――今日飲み会行く人 [行く:6] [行けない:4]

 次の日も、スターコーポレーションからの連絡を確認する一日が続いた。少し前まで丸一日かかっていた日々のタスクも夕方前には片付づくようになってきた。
 そうなると、僕のやることは資料の整理とメールボックスの確認、社内チャットのパトロールだけになる。時折、片瀬部長と目が合うと「まだ連絡は来てないよ」の合図である首を横に振る仕草が見える。
 そういえば、ここ最近、片瀬部長はデスクワークをしていることが多い。たまに席を外すが、社内での会議ばかりで事業本部長や取締役といった役職の人たちと頻繁に話をしている。

「部長は最近、忙しそうですけど、どんな仕事をしているんですか?」
「ちょっとまだ言えないんだけどな。そうだ、手が空いてたら手伝ってくるか?」
「はい。僕に出来ることならやります」
「心強いよ、ありがとう。まとめてデータとやって欲しいことを送るから確認して」

 片瀬部長に頼まれた仕事は、競合のサービス資料や導入企業のデータが多岐にわたって入力されている。フォーマットもバラバラで整理されていない。このままではどう比較して、どうまとめればいいかわからない。一つ一つ丁寧にデータを精査しなければならいので、相当な時間がかかる。今の手持ち無沙汰の僕にはぴったりな作業だった。
 

 いつのまにか、日が落ちると少し肌寒い季節がやってきていた。
 
 ――諸君、そろそろ熱い冬が始まるぞ

 姐御が招集の号令を発した。

 ――ショートカット:私はいつでも大丈夫
 ――無精髭:俺は〆切間近だから来週以降なら
 ――優希:僕も来週以降の仕事後なら
 ――姐御:よし、では来週の水曜日にいつもの居酒屋に19時30分だ!

 提案に没頭しすぎて、コミケの事をすっかり忘れていた。まさか、この僕が唯一の楽しみにであるコミケの事を蔑ろにするなんて。

「――という訳で、小物制作とかまったく手を付けてないんだ。ごめん姐御」
「あははは。キミらしいな。まったく、()らしむべし()らしむべからずだ」
「意味がわからないって」
「でも意外だな、あれだけ会社の不満をぶち撒けながら生活してたキミが今や仕事の虫か」
「俺からすれば、コミュ障の優希ちゃんが同期と飲んでることが奇跡だよ」
「うん。なんか皆が僕をよく誘ってくれるんだ」
「優希ちゃんがしっかり育って、お兄ちゃん嬉しいよ。うう」
「誰がお兄ちゃんだよ、こんな髭面の兄貴なんていらないって」
「そうよ、無精髭って呼んでるけど、アンタ無精髭ってレベルじゃないわよ。モジャモジャよ! モジャ男よ」
「そんなこと言ったら、ショートカットだって髪長ぇじゃねぇか、ロン毛!」
「何だと! モジャ男。やるか?」
「いい度胸だ、ロン毛女」
「はいはい、じゃれるのはそこら辺にしとけよー。ムキになるんだから」
 
 『元さぶんけん』のメンバーは気を使わないから居心地が良い。最近では会社の人たちと話をするのも慣れてきたけど、このメンバーと一緒にいる楽しさは別格だ。
 
「腐属性の私としては、優希ちゃんと片瀬部長で発酵しそうだよ」
「ショートカット先輩、僕を使うのはやめてよ」
「やっぱり優希ちゃんが右だよなぁ」
「わぁぁ! やめてぇぇぇ」
「あははは。とにかくだ、遅れは取り戻しておけよ。今年も東京ビックサイトに熱い冬がやってくるぞ!」

 次の日の朝、珍しく早起きができなかったのは昨夜のみすぎたせいで二日酔いになってしまったからだ。頭痛と吐き気が波のように押し寄せてくる。

「酷い顔ね。二日酔い?」
「うん。大学の時の先輩たちと飲んでた」
「最近、会社の人たちともたまに飲んで帰ってくるわね」
「うん」
「あなたにも一緒に飲む仲間ができて、お母さん嬉しいわ」
「うん。なんだか上手くやれている気がする」
「そう。朝ご飯は食べられる?」
「うん。食べる」

 母の言う通り、社会人になってからコミュニケーションの幅は確かに広がった実感がある。そして、人と関わることに躊躇していた頃に比べて随分と生きやすくなった。月曜日が来るのが嫌だったあの頃を嘘のように思う。
 この日は僕の二日酔いを嘲笑うほど陽気な天気だった。会社に着くまでには天気に見合うくらいの体調は取り戻せた。すると、食欲が湧いてくるもので昼休憩が待ち遠しくなればなるほど時間が遅く進むわけだ。
 久し振りに焼き魚と炊きたての土鍋ご飯を体が求めている。この日、ありがたく同期からのランチの誘いがあったのだが、口とお腹が焼き魚定食になってしまっているため、一人でのランチとなった。
 美味しかった。幸せは腸で感じるという、どこかで見た情報はあながち間違えてはいないのかもしれない。腸内で生成されたセロトニンは会社に戻る頃に最高潮を迎えた。

「戻って来たな。結城くん」

 執務スペースに入ると部署の皆が僕に注目する。

「結城くんが提案したスターコーポレーションの案件、見事、受注しました!」

 片瀬部長が発する大きな声を合図に皆が拍手をする。その拍手の音はお腹に響くほどの音圧だ。僕は暫く実感が湧かなくて唖然としていると、片瀬部長が手を差し出しながら僕に向かって歩いてくる。
 僕はその手を恐る恐る握り返すと、次には力強いハグが待っていた。
 この日の出来事は、社会人として初めての成功体験となる。僕が所属するコンサルティング第二部の皆が開いてくれた祝勝会は、平日だというのに大勢が参加した。

  <23卒同期チャンネル>
 ――秋村彩音:@結城誠也 祝勝会お疲れ様でした。結城くん本当におめでとう
 ――江藤瑛祐:ほんますごい!結城くんおめ!
 ――同期I:今度は同期だけでも改めておめでとう飲み会しようね
 ――尾藤枇杷:受注の瞬間、ちょっと涙出ちゃったwおめでとう
 ――同期F:かっこよかったよーーーー!
 ――同期G:うんうん。日程決めよう。来週あたりで。おめおめ
 ――同期H:おめでとー。
 ――同期C:コングラッツ!尊敬!

 ――結城誠也:本当にありがとう、応援してくれてすごく嬉しかった

 
「誠也、そろそろコート買ったほうがいいんじゃない?」
「コート、高いから」
「お母さんが買ってあげようか?」
「いや、大丈夫」

 最近は本当に寒くなった。秋をすっ飛ばして冬が来たのではなかろうか。少し前まではTシャツで散歩していたのに、朝の散歩もトレーナーかフリースを着ていないと震えが止まらないほどだ。
 
 この日の夕方、会社では事業部全体に通達があった。
 来年度から発足する新規事業の陣頭指揮を片瀬部長が執ることになった。新規事業に参画する社員は希望者と抜擢で、面談後に若干名が選ばれるとのこと。
 片瀬部長が仕切る新規事業はどうなものなのか、興味が湧いた。今の仕事と兼務での新規事業は、さぞ大変なんだろうけど、彼なら涼しい顔をして上手くやるんだろうな。
 僕は片瀬部長と関わる時間がすくなることを予想すると、胸に小さい穴が空いたような感覚を覚えた。
 新規事業への参画希望者は多数いるという噂や、社内チャットでの意思表示も多い。僕がこれに参画するスキルと上昇志向を持ち合わせていれば、希望したのかも知れないけど、新卒では無理だろうと高を括っていた。
 そんな中、新卒社員も幾人か希望する人がいるみたいだ、僕の部署の新卒からは、同期Dこと堂島が手を挙げた。この日の同期ランチでは新規事業についての話で持ちきりになった。

「堂島くん、がんばってね」
「彩音、ありがとう。絶対に新規事業メンバーに選ばれて最年少出世してやるぜ」
「堂島、大風呂敷広げとったら、駄目やったとき恥ずかしなるで」
「俺が選ばれると悔しいのか? 江藤」
「いや、まったくそんな事は思ってへんけど、江藤はアレやな。まぁええか」
「ふん。部長の腰巾着の結城くんは立候補しないのか?」
「腰巾着……じゃないし、僕じゃ無理だと思うから」
「まあそうだな。これからは部長のフォローなしで頑張れよ」
 
 ランチの間ずっと堂島の話を聞かされて、皆うんざりとした表情をしていたと気付けたのは、最近僕が人の表情をしっかりと見るようになってきたからだった。スターコーポレーションの提案で少しだけ成長できたのかもしれない。

「堂島、調子のってて感じ悪いやろ。だんじりの上に乗ってるおっさんみたいやで」
「あはは、ちょっとわかる」
「せやろ! 結城くんも何であんなに馬鹿にされて何も言い返さへんねん」
「え? 僕、馬鹿にされてたの?」
「鈍感かいな!」

 片瀬部長に完全敗北したあの日までの僕は、周りの人すべてが僕のことを馬鹿にしているんだと、周囲三六〇度の全てを敵視していた。フォローしてくれる部長や応援してくれる人たちのお陰で、そんな凝りも解れ、いつの間にか本当の敵意にも鈍感になってしまったのかもしれない。
 お陰で、随分と心が平和な日々を送れていたのは事実だったが、同時に危険察知能力を失ってしまった事で、今後の人生を左右する事件が起きることになる。

 新規事業の発表があってから数日後の夕方、片瀬部長とスターコーポレーションへ訪問した。僕が提案した施策の出だしは好調であることに安堵したが、オペーレーションと業務フローに課題があるために、週に二日ほど僕が常駐して推進していく事となった。
 
「週二日……僕は上手く馴染めるでしょうか。自信がありません」
「俺と離れて仕事するのが寂しいか?」
「いえ、その感情は微塵も感じませんね」
「えー。それは俺が寂しいな。じゃあ今日は二人で結城くんの送別会をやろうか」
「なんですか、送別会って……」
「まあいいじゃないか。たまには飲もう。予定は空いてるか?」
「はい。あそこがいいです」
「俺の行きつけのとこか。いいな」

 片瀬部長が「片瀬くん」と呼ばれるこの店。僕がこてんぱんにやられたこの店が、とても心地が良い。僕は右手で持ち上げた瓶ビールに左手を添えて、片瀬部長のグラスに注ぐと嬉しそうに注がれたビールを飲み干した。
 僕を飲みに誘ったのには理由があった。それは勿論、週に二日、客先に常駐する僕の送別会ではなく、新規事業へ参画のスカウトだった。

「え? 僕ですか? 多分、足を引っ張ってしまいます」
「俺は君の事を買っているんだ。もちろん、高く評価しているという意味でね」
「前も同じことを仰ってましたが、僕の何を……仕事もできないしスキルもないし」
「たしかにね」
「それは認めるんですね」
「ああ、嘘は言わないようにしているからね。俺が評価しているのは君の適応能力だ」
「適応能力? どういう意味ですか?」
「俺が講師をやった新卒研修を覚えてるかい?」
 
 ***

 どうせ『A』に手を上げるやつは居ないだろうと思いながら、笑顔で問いかける。
 
「『A』の課題を解決する提案をするのが正しい、という人は手を挙げて」
 
 後ろの窓際のヤツ。今『A』に手を挙げようとしたな。みんなに合わせて『B』に挙げるのか。つまらないヤツだ。
  
「では『B』の課題解決を解決する提案をするのが正しい、という人は手を挙げて」
 
 お、こっちにも挙げないのか。もしかしたら……確かめてみるか。

「ところで……」
「答えをださない結城くん。君のような人はコンサルタントには向かない」

 どう来る? 黙ってるか? 反論するか?
 
「沈黙! それが答えなんだ。じゃないからな」

 よし。沈黙。いいじゃないか。

 ***

「あれな、本当の正解は『A』なんだよね」
「え? 僕が合ってたんですか」
「普通の正解は『B』で、本当の正解は『A』なんだ。『A』を解決しないと『B』の提案が通らないからね。S社の提案をした君ならわかるだろう」
「は、はい。なんとなく」
「そして、重要なところはその後だ。俺は君の事を煽ったんだけど、君は沈黙を通した」
「恥をかかされて、内心、怒りに震えてましたけどね」
「それで、いいんだ。あそこで取り繕ったり、怒りに任せて反論したりしなかったのが、俺が言っている適応能力なんだ」
「どういうことですか?」
「うーん。まぁ、そのうちわかるさ」
「なんですか! 意味がわからない」

 結局、片瀬部長に乗せられて新規事業への参画のスカウトを受けることにした。
 僕のことを認めてくれている事を思い出すと、少しむず痒いけども新しい目標ができたことに僕の仕事意欲は湧き上がり始めていた。

 新規事業のメンバーが発表される。僕の所属する事業部、約一〇〇名の中から六名が選ばれた。他部署からはベテラン四名、僕の部署からは僕と堂島の新卒二名だ。それに伴い、新規事業メンバーの席が用意される。片瀬部長は、僕たちの席が集まる島にも席があるが、今まで通り第二コンサルティング部にも席があり、行ったり来たりするそうだ。
 早速、この日キックオフミーティングが行われた。この新規事業では、今まで長年コンサルティングを行ってきた知見から、独自のサービスを展開していく。
 期間は一年間。この期間内に一定の予算を達成する事が僕達新規事業メンバーのミッションだ。成功すれば会社は大体的に予算を投じて事業部として立ち上がる。失敗すれば撤退して誰かが、この場合片瀬部長が責任を取ることになる。

「おい、結城。なんでお前がメンバーにいるんだよ」
「抜擢人事で片瀬部長に」
「ほらな。やっぱりあの人は腰巾着の事を贔屓してるんじゃねぇかよ」
「うーん。足引っ張らないように頑張るよ」
「当たり前だ。俺の出世が懸かってるんだから。チッ、デスクも隣なんてマジで最悪だよ」

 僕たちのやり取りは他のメンバーの人たちも見ていたらしく、早速注意が入る。実はこのチーム、僕と堂島以外は事業部内でもトップ郡の成果を出し続けているデキる人たちで、歴戦の猛者感というかオーラが溢れ出している。
 僕は週に二日間、スターコーポレーションに常駐しているので、基本的にはリサーチやデータ集計と資料作りを担当することになった。堂島はそんな僕のことを事務職だと言って、()()馬鹿にしている。
 そんな堂島はといえば、ベテランのメンバーと共に中規模の会社へと赴き、経営課題のヒヤリングに奔走している。元からコミュニケーション能力というか、話すのが上手い堂島は、場数を踏んで僕から見ても垢抜けた感じがする。
 しかし、ヒヤリングした議事録はいい加減な箇所が少なくない。その議事録から資料にまとめる僕の負担はその度に加算されていく。

「堂島くん、議事録の『少し多い』とか『頻発する』とかを、具体的な数字でヒヤリングしてもらっていいかな。資料にまとめるときには定量的なものにしたくて」
「は? クライアントが言ってるんだからしょうがないだろ。聞きづらい事とかってのがあるんだよな。お前みたいに空気が読めないヤツにはわからないだろうけど」

 堂島がベテランメンバーに怒られないように、こっそり呼び出して伝えたのに。これでは解決しない。やはり、ここは片瀬部長に相談したほうがいいのだろうか、とも思ったが「部長にチクるな腰巾着」とか言われるんだろうな。
 しかし、このままだと面倒くさいことになりそうだ。こういう問題は()()()()()()()()()()()()()()
 「あれ……」一瞬、片瀬部長が頭をよぎった。
 そうか、僕が脅迫をしたときに言われた言葉だ。そうだ、片瀬部長ならば後回しにしない。

「堂島くん。ダメだ、これだけは譲れないよ。しっかりと数字の部分をヒヤリングして」
「ふざけんなよ結城のクセに、お前がチームの輪を乱すって報告しておくからな」

 これは江藤が教えてくれたことなのだが、堂島は同期たちにも僕の悪口を言っているようだ。これに僕が腹を立てたかといえば、そんな感情は皆無であった。たまたま同じ会社に同じ年に入っただけの人だ。堂島はそんな子どもなところがあるのは薄々感じるようになったが、相手にすることはない。僕のミッションは、新規事業を成功させることなのだから。
 その後も、堂島の子供じみた行動に頭を抱える出来事は度々起こった。

「よし、今週の進捗会議の議題はこれで全部だな。その他になにかある人はいる?」

 会議のファシリテーターを務める片瀬部長が、メンバーの顔を見渡すと堂島が手を挙げている。片瀬部長が発言を促すと、堂島は意気揚々と例のことを話した。
 内容はこうだ。僕は片瀬部長や他のメンバーの前では大人しくしているが、同期の堂島には上から目線で、ヒヤリングの仕方や、議事録の書き方をいちいちケチを付けてくる。大手案件を受け持っている自分の方がレベルが高いと勘違いしていて、チームの輪を乱している。
 その発言を聞いた瞬間のメンバーの呆れた顔を見ると、心臓を尖った長い爪を立てながら握られているような感じがした。

「え、っと……」

 珍しく片瀬部長が言葉に詰まると、堂島がよく同行しているメンバーが言葉を挟む。

「部長、ちょっと私に話させていただいいてもよろしいですか?」
「うん。どうぞ」
「堂島、結城はお前にどういうケチを付けてるんだ?」
「ヒヤリングの仕方が曖昧だとか、議事録が定量的じゃない部分があるとか」
「お前はどう思うんだ?」
「ぶっちゃけヒヤリングって、空気読みながら聞き出さないと行けないじゃないですか。結城みたいな陰キャは、空気読まずに上から目線で聞けるかもですけどね」
「なあ、堂島。お前はまだ学生気分が抜けてないのか?」
「え……」
「正しい数字、数値を聞くのは当たり前だろ。結城、ちょっと堂島の議事録見せて」
「あ、はい。これです」

「はぁ。ごめん結城。もう一回、堂島を俺に全部同行させて教育し直すから許してくれ」
「いえ、僕はちゃんとした資料がいただければ大丈夫ですので」
「部長、すみません。私の教育不足です」
「うん。堂島くん、今回の君の意見は見当違いだ。今後はしっかり頼むよ」

 堂島を見ると悔しそうな顔をして下唇を噛みしめていた。会議終わりにフォローをしようと話しかけようとも思ったが、それは逆に更に追い詰めるようなことになりそうで、口実に会議室の掃除を買って出た。
 翌日、同期に聞いた話だが、あの後、僕を抜きにした無理やり同期飲み会が開催されて堂島が大荒れだったようだ。
 堂島の気持ちもわからなくない。僕だって片瀬部長に対して、つい最近まで似たような感情を抱いていた。かといって、片瀬部長が導いてくれたように、僕が堂島を諭すことなんて絶対にできないだろう。今の僕は、人の振り見て我が振り直すよう、常に意識することに専念するだけだ。

 休日、昼前に散歩へ出かける。
 普段は、休日も朝に散歩をしているのだが、今日、十一時少し前に家を出たのには理由があった。
 
 ――宗像さん:久しぶり。結城って明日なにしてるの?
 ――結城:え、散歩かな
 ――宗像さん:おじいちゃんみたいだねw 私も一緒に散歩していい?
 ――結城:え? 散歩だよ??
 ――宗像さん:うん! じゃあ11時に結城んちの近くの公園に行くわ

 これが昨日来たLINEなのだが。一体、急にどうしたのだろう。
 こういうときって服装はどんなものがいいのだろう。いや、ただの散歩だから別にオシャレをする必要はないはずだけど。
 晴れていて風のない日の心地は心が弾むのだが、昔の同級生と待ち合わせをしていると考えると、僕の足取りが力なく進んでいるように感じる。それは自宅近くの児童公園に近づけば近づくほど弱々しい歩みとなっていく。
 スプリングで支えられたテントウムシの色形をした遊具にもたれ掛かっている宗像さんは僕に気づくと、笑顔で手を上げた。タイトなスウェット生地のパンツにパーカ、小さめのリュックサック。宗像さんも僕と同じく家電量販店に行くような格好でよかった。

「で、どこを散歩するの?」
「いつもは、この辺りを一回りして、途中寄り道したりしてるけど特に決まってない」
「そっか、じゃぁ、いつも通り一回りしようか」

 冷たい空気が頬を撫でる。「なんで急に誘ったの?」という質問が喉まで出かかっては引っ込む。仕事では堂々と発言できるようになってきたのに、昔、泣かせてしまった同級生の前では、まだ臆病な中学生のままだった。

「どう? コンサル会社の居心地は」
「ずごく悪かった……んだけど、なんか最近いい感じかも」
「よかったじゃん。私にはよくわからないけど」
「宗像さんはどう?」
「んー。あ、そうだ中学校の方に行ってみようよ」
「あ、うん」

 中学校までの道は昔、砂利道だったのだが道路が舗装されて随分と綺麗になっていた。畑だったところがコンビニになっていたり、美容院ができていたり。
 昔は、自宅から中学校まで遠いと感じていたけど、今歩いてみると大した距離ではなかった。

「校庭、割と小さいんだね」
「うん。昔は広く感じたんだけどな」
「ね。運動会でトラック一周とか長って思ったもん」
「運動会……」
「ねぇ、これ覚えてる?」

 宗像さんがリュックサックを開けてゴソゴソと取り出したのは、なんと僕の作った応援旗だった。

「なんで……それ」
「懐かしいでしょ。結城が捨てたのを私が救出してあげたんだ」

 その瞬間、時間が止まったように感じた。あの応援旗。僕が最後まで描き切った、でも最後には捨ててしまった応援旗。それを宗像さんが持っているなんて。
 
「うん。あの時はごめん」
「いや、あれのお陰なんだ。私が美大に行ったのって」
「どういうこと?」
「私ね、絵がうまいって自分で思ってたんだ。だから結城に言われた言葉、すごく傷ついたの。皆の前で大泣きして恥ずかしかったし」
「本当にごめんなさい」
「でもね、その悔しさがバネになったというか、それから本気で美術に取り組めたというか。『ファブリックメディウム』『美術部のくせにそんな事も知らないのかよ。あと、そのフェニックス構図がズレてる』一言一句覚えてるよ」

 彼女は応援旗を広げながら、懐かしむように言うと、冗談っぽく笑いながら僕を睨んで、話を続ける。

「私、今の美大の仕事辞めて、アーティスト一本でやっていくんだ。それで引っ越しの準備をしてたら、この応援旗が出てきてさ。これのお陰で美大に行けたから。私の美大のステージは終わったから、これ返すよ」

 あの出来事が宗像さんの人生の分岐点になった事実を知って唖然としている僕に、宗像さんは応援旗を渡して、去っていったのだが、その去り際の言葉が格好良かった。

「そのフェニックスだって構図ズレてるからな!」だって。あれは痺れた。

 新規事業の進捗は計画より遅れていて、片瀬部長はなんとか巻き返そうと日々奮闘している。僕が常駐先から直帰はせずに会社に立ち寄ってみると、新規事業チームの頭上の電気以外が消えたオフィスで一人残業している片瀬部長がいた。

「部長、お疲れ様です。まだ残業してたんですね」
「おー。結城くんか。常駐先から直帰しなかったの?」
「はい、明日の進捗会議でブレストもありそうなので、あらかじめホワイトボードに書いておこうと思いまして」
「結城くん、君ってやつは……俺、感動して涙が出そうだよ」
「それは、疲れすぎて変なテンションになってるだけでしょうね」
「そうかもしれないな。久しぶりにキャパオーバーしてる感じがするよ」
「息抜きも大切ですよ! 奢りなら付き合いますけど」
「いや、まだやることが山程あってな。飲みたい気分ではあるから、家で作業しながら飲むことにするよ」
「家飲みでもいいですよ。たしか会社から近かったですよね」
「お。そうするか。俺んち、会社から一駅だから」

 ビルの裏口から出て、タクシーに乗り込む。コンビニで酒とつまみを調達してから部長の家へ向かった。さすが部長ともなると良いマンションに住んでいる。見上げるほど大きいマンションはドラマに出てくる主人公が女を連れ込むような佇まいだった。
 
「部長って、ご結婚は……女子高生好きの変態に奥さんがいるわけ無いか」
「君ね、俺にだって彼女くらいいるんだぞ」
「ま! まさか……女子高生」
「んなわけあるか! ちゃんと成人女性だ」

 この新規事業で開発するサービスは、AIを活用した業務システムだ。各業種、各会社の業務内容や商流、業務フローなどをセットアップすると、今までの法務や、会計、各社員の顧客とのやり取りまでを高機能AIが解析し、業務改善を図る事のできるものだ。
 わかりやすく言うと、分身の術を使って増殖した三百万人の片瀬部長が、ビジネスマン一人ひとりを二十四時間サポートしてくれる様なものだ。これが実現すれば、僕のような新卒社員でもスターコーポレーションクラスの企業六社分のコンサルティングを可能にする。
 勿論、これを実現させるまでには数年間は時間を要するが、まずはそのプロトタイプを提供できるまでをマイルストーンとしたのが僕たち新規事業チームの目標だ。

「このサービスって改めて考えると、物凄いシステムですけど」
「実現させようと改めて考えると、途方もなくて絶望しそうになるだろ」
「はい。賽の河原で石を積んでいる気分です」
「大丈夫だ。完成までを分割して分割して分割してマイルストーンをしっかり設定できれば可能だ」
「部長のバイタリティは本当に尊敬します」
「ははは。仕事漬けの淋しい人生だよ」
 
 部長の家のオシャレなリビングのテーブルで僕たちはノートパソコンを開き、乾杯をした。僕は一つのことに没頭しないと作業ができないけど、部長は話しながらも一切、手が止まることがない。マルチタスカーってやつなんだろうな。

「ヒヤリング内容を数値化したらバブルチャートにしておいてもらっていいか」
「はい。今ちょうどその作業をしています」
「……」
「え? なんか僕マズイこといいました?」
「いいや、君は本当に仕事ができるようになったな。俺の目は間違ってなかったなって」
「相変わらず上手いですね。人を乗せるのが」
「捻くれてるなぁ、本当にそう思ってるんだって」

 こうやって夜遅くまで作業をしていると、コミケ直前の追い込みみたいでテンションが上がっている事に気づいた。

「あ、そうだ。冬のコミケ……」
「そんな季節だな。今回も出展するんだろ?」
「はい。部長……来ます?」
「いや、あの女子高生が結城くんだと知ってしまったんだ。さすがに行きにくいよ」
「五年間も僕と2ショットで写真撮っておいて今更ですか?」
「たしかにな。考えておくよ」
 
 ある程度作業を終えたところで、僕達は本格的に飲み始めた。

「そうだ、思い出しました、部長を脅迫した『僕の望み』を決めました」
「な、なんだ。言ってみろ」

「片瀬部長のLINEを教えて下さい」
「なんだ。それだけか?」
「はい」
「構わないけど、本当にそれだけか?」
「はい。へへへへ」
 
 酔いが回ってきて僕は幼少期の事や、大学でのサークル活動の事などを随分と話したような気がする。結局終電を逃した僕は片瀬部長の家に泊まることになった。
 次の日、目が覚めてリビングへ行くと部長が朝食を作っていた。

「おはよう。朝飯、出来てるぞ」
「おはよう……ございます」

 なぜ、恥ずかしい気持ちになったのだろうか。多分、人の家に泊まったのが初めてだったからだろう。修学旅行のときの朝もそういえば、恥ずかしかった記憶を思い出した。
 
 新規事業チームは、少しずつ遅れを取り戻して来た。これはチームワークが機能してきた事に起因する。最近では、堂島も一生懸命やっているように見えた。
 そして、この日『AIメール』という機能が実装されたと、システム開発部から連絡が来た。僕のメールアカウントを紐づけてみるのをチームのメンバーが覗き込む。

 画面右側にあるAIアシスタントの吹き出しが音を立ててポップアップした。

 <AIアシスタント>
 ――結城さん、スターコーポレーションの飯塚様から、
 ――本日12時〜13時の間にメールが来ることが予測されます。
 ――前回送ったメールで結城さんが質問された3点に関する返信だと思われます。
 ――返信の内容次第では、3ヶ月分のデータ集計のタスクが発生します。
 ――このタスクには、結城さんの作業スピードで2時間程度が予想されますので
 ――予定を全部詰めないようにしておいてください。
 <不明な点があれば入力してください>

「「おおー」」とメンバー全員の驚きの声がオフィスに響く。
 AIが過去のメールのやり取りから、先方からの返信のタイミングを予測し、発生するタスクの可能性と僕の作業スピードを試算して出した回答がこれだろう。
 そして、この後、僕たちは更に驚くべきことになる。
 十二時五十分。AIが予測した通りスターコーポレーションの飯塚氏からのメールが届いたのだ。そして午後、僕はちょうど二時間のタスクをすることになった。
 気持ち悪いほどの的中率に、AIが人間を滅ぼすディストピアの映画を思い出した。

「なんか、怖いですね……」
「あ、ああ。ここまでだとは思わなかった」
「これが当たり前の時代になっていくんだろうな」

 僕は、驚きと恐怖と期待と満足感と、わけのわからない色んなものが入り混じった不思議な感覚を覚えた。これはチームの誰もが感じただろう。
 こうして新規事業は、目玉サービスの一つ『AIメール』実装という大きな一歩を踏み出した。

   <23卒同期チャンネル>
 ――江藤瑛祐:噂聞いたで! すごい機能ができたんやって?
 ――堂島大地:ああ、これはすごいぞ! 新規事業は成功確実だな
 ――尾藤枇杷:大地、油断大敵だぞ
 ――同期F:一段落したなら今日の飲みは来れる? 堂島くん、結城くん
 ――堂島大地:おう、俺は行けるよ
 ――同期G:いいね、話聞きたい
 ――同期H:おめでとー。飲もう飲もう
 ――同期C:二日酔いの覚悟できた
 ――秋川綾音:結城くんは来れそう?

 ――結城誠也:ごめん、今日は予定あるんだ。楽しんで!

 
「この場所って『さぶんけん』の時の部室をまったく一緒だよね」
「ああ、部室のソファから机から全部パクってきたからな」
「なんでまた、あんな汚い部室と全く同じにするかね」
「おい無精髭、お前のお気に入りのソファだぞ」
「お気に入りじゃないって、他の椅子は腰に悪いからしょうがなく」
 
 姐御の家のガレージが今の『元さぶんけん』の活動場所だ。僕たちは冬のコミケに向けて頻繁に集まっている。今日は上がったネームの講評会が開催された。

 ***
 
 ――時は20XX年、人工知能が企業間取引を支配する未来社会で人間は企業の戦略や、提案をプレゼンテーションするだけの役割であった。評価をされるのは、容姿が良く、プレゼンテーションが上手い人材である。
 幼少の頃から容姿にコンプレックスを持った主人公は、血の滲む努力により、完璧な容姿を手に入れた。
 主人公は圧倒的なプレゼンテーション能力に長けていて、AIが作り出した戦略を美しく提示する仕事で会社の頂点に立つ。
 そこに、かつて彼女を苦しめた過去の いじめっ子たちが彼女の部下として現れた。
 評価されないと身分が低下し、評価されればルッキズムと非難される矛盾に直面しながら、権力と良心の間で揺れ動く。人間社会の愚かさに失望したAIたちが、この歪んだシステムに終止符を打とうとする中、彼女は自身の価値観と人間性の意味を問い直し、真の勝利とは何かを模索する。
 
『美人経済新論〜美貌のアルゴリズム〜』
 原作:ショートカット
 漫画:無精髭

 プロローグ:人工楽園の蝶
 
「システム起動。配電開始。都市機能、正常稼働」
 
無機質な女性の声が、暗闇を切り裂く。
ゆっくりと、街灯が点灯していく。近未来的な高層ビル群が、朝もやの中からその姿を現す。
20XX年。これは、人工知能が支配する「楽園」の夜明けだった。
神崎美玲(かんざき みれい)は、18階建てのマンションの一室で目を覚ました。
 
「おはようございます、美玲さん。今日の体調は98.7点です」
 
ベッドサイドに設置された人工知能アシスタント「ARIA(アリア)」の声に、美玲は小さくため息をつく。
(また0.3点、足りなかったわけね)
彼女は優雅に身を起こし、壁一面の鏡の前に立つ。そこに映る姿は、まさに絵に描いたような美女だった。しかし、その瞳の奥には、どこか虚ろな影が潜んでいる。
 
「美玲さん、本日のスケジュールをお知らせします。9時からテクノ・フューチャー社での新プロジェクト発表会。13時からランチミーティング。15時から―」
「わかったわ、ARIA」
 
美玲は鏡に映る自分の姿を凝視しながら、ARIAの声を遮った。
(これが、私の求めた姿)
しかし、その言葉とは裏腹に、彼女の心の中では別の声が響いていた。
(本当に、これでいいの?)

15年前。中学2年生の美玲は、教室の隅で震えていた。
「ねえ、ブス。今日も弁当、山盛りなんだ? 太りたいの?」
クラスの女子たちが、彼女を取り囲んでいる。
 
「違うの……これは……」
「うわ、しゃべった! ブスの声、気持ち悪い!」
 
どっと笑い声が起こる。美玲は必死に涙をこらえた。
(どうして……どうして私だけ)
太った体型、厚い眼鏡、そばかすだらけの顔。美玲は、自分の容姿を呪った。
その日の帰り道、彼女は決意した。
(絶対に、美しくなってみせる)
それは、復讐の誓いでもあった。

「美玲さん、出発の時間です」
 
ARIAの声に、美玲は我に返る。
 
「ええ、行くわ」

彼女は完璧な笑顔を浮かべ、高層マンションを後にした。
街には、すでに多くの人々が行き交っている。しかし、そこには不自然な静けさがあった。
(みんな、同じような顔をしている)
確かに、街行く人々は皆、整った顔立ちをしていた。しかし、その表情は妙に平板で、生気が感じられない。
美玲は無意識のうちに、自分の頬に手を当てていた。
(私も、同じなのかしら)
彼女の乗った電車は、静かに目的地へと走り出す。車内には、タブレットやスマートフォンを操作する人々の姿。しかし、誰一人として会話を交わす者はいない。
(人工知能に仕事を奪われた、なんて言うけれど)
美玲は、車窓に映る自分の姿を見つめた。
(本当は、私たちが自ら人間らしさを捨てているのかもしれない)
電車が新宿駅に到着する。ホームには、整然と並ぶ人々の列。
 
「本日も、AIとの共生にご協力ください。あなたの幸せは、正しいアルゴリズムが導きます」
 
駅内アナウンスが流れる中、美玲は人混みに紛れ込んだ。
テクノ・フューチャー社のオフィスは、超高層ビルの50階。エレベーターに乗り込むと、瞬時に目的階へと到達する。
 
「おはようございます、神崎さん」
 
受付のアンドロイドが、完璧な笑顔で彼女を出迎える。
 
「おはよう」
 
美玲は軽く会釈を返す。廊下を歩きながら、彼女は周囲の様子を観察した。
オフィスには、人間の姿がほとんど見当たらない。代わりに、人工知能を搭載したロボットが忙しそうに動き回っている。
(ここにいる人間は、私を含めて……10人もいないわね)
美玲の仕事は、人工知能が作り出した戦略や提案を、美しくプレゼンテーションすること。それが、人間に残された数少ない仕事の一つだった。
 
「神崎さん、準備はよろしいですか?」
 
上司の声に、美玲は優雅に微笑んだ。

「ええ、万全です」
 
会議室に入ると、そこには幾人かの重役たちの姿があった。しかし、その大半は等身大のホログラムだ。
 
「では、始めましょう」
 
美玲は深呼吸し、プレゼンテーションを開始した。
 
「本日ご提案する新戦略は、AIが過去10年分のビッグデータを分析し、最適化したものです」
 
流暢な口調、完璧なジェスチャー。美玲のプレゼンテーションは、まるで芸術のようだった。
(でも、これは私の言葉じゃない)
心の中でそうつぶやきながらも、彼女は完璧な笑顔を崩さない。
 
「素晴らしい提案です、神崎さん」
「さすがですね。あなたのプレゼンテーション能力は、我が社の誇りです」
 
称賛の言葉が飛び交う。しかし、美玲の心には空虚感だけが残った。
(これが、私の求めた世界)
会議室を出ると、美玲は静かに廊下を歩いた。大きな窓からは、東京の街並みが一望できる。
(昔の私を見下した人たち。今、私は彼らを見下ろしている)
高みに立った今、かつての いじめっ子たちのことなど、もはや気にも留めていなかった。少なくとも、そう思い込もうとしていた。
そのとき、廊下の向こうから人影が近づいてきた。
 
「あの、すみません……」
 
おずおずとした声に、美玲は振り向く。
そこには、見覚えのある顔があった。
(まさか……)
 
「私、新しく配属になりました。倉田明日香と申します。よろしくお願いします」
 
目の前で深々と頭を下げる女性。その姿に、美玲の心が凍りつく。
(倉田……明日香)
かつて、美玲をいじめの標的にしていた一人。その彼女が、今、部下として目の前に現れたのだ。
瞬間、様々な感情が美玲の心を駆け巡る。
憎しみ、恐怖、そして...どこか懐かしさ。
(私は……どうすればいい?)
完璧な仮面の下で、美玲の心が激しく揺れ動く。
しかし、彼女は平然とした表情を保ったまま、ゆっくりと口を開いた。
 
「ようこそ、テクノ・フューチャーへ」
 
その声は、いつもと変わらぬ優雅さだった。
(ショーの幕が上がったわ)
美玲は、心の中でそうつぶやいた。
これから始まるのは、復讐劇なのか、それとも贖罪の物語なのか。
彼女にも、まだわからない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
この瞬間から、美玲の人生は大きく変わろうとしていた。
人工知能が支配する世界で、彼女は自分の人間性と向き合うことを余儀なくされる。
そして、その過程で見出す答えが、この歪んだ社会を変える鍵となるかもしれない。
美玲は、静かに目を閉じた。
(さあ、始まるわ)
彼女の心の中で、小さな蝶が羽ばたきを始めた。
その羽音が、やがて大きな嵐を呼ぶことになるとは、誰も予想していなかった。
 
 ***
 
「あははは。ショートカットよ! 随分と作家性を前面に押し出してきたな」
「ふふふ。自信作よ。本当はBLにしたかったんだけど」
「それはダメだ! 私の出番が無くなる」
「姐御、主人公のデザインはどうだ?」
「うん! さすが無精髭だ。この聡明そうなのに少しエロそうなのがたまらん!」
 
 タイムリーにAIがテーマな事に驚いた。人工知能が企業間取引をするというのは、僕たち新規事業チームの描く最終目標なのに。しかも、更にその先の未来を予測している。話が面白いかどうかは置いといて、ショートカット先輩の才能が恐ろしくなった。
 改めて見てもこのコスチュームは作り甲斐のありそうなデザインだ。暫く仕事に没頭していた脳みそが一気にクリエイティブ脳にスイッチした音が僕の頭の中に響き渡った。

「無精髭先輩、この服の素材ってどんなの?」
「エナメルっぽい素材をイメージしてる」
「そっか、姐御の体にピッタリにしないと映えなさそうだなぁ。姐御、採寸させて」
「よしよし、優希ちゃん。私のナイスバディを採寸させてやろうじゃないか」
 
「姐御、ちょっと太ったね」
「優希! 貴様! これは豊満というのだ」
「いや、だめ。あと三キロ痩せて」
「無理だって、食欲の秋だぞ! 季節の中で一番熱い季節だぞ」
「だったら、漫画の方を太く描いてもらうしかないね」
「断る、俺の美的センスに反する。姐御、諦めろ! そして痩せろ」
「嫌だぁ、飯だ! 飯を持って来い」

 相変わらず騒がしい『元さぶんけん』の熱い冬は、もうすぐそこまでやって来ていた。
 ネームの講評会が終わると、いつものように飲み会が始まる。部室と同じ作りのこのガレージで飲んでいると、大学生に入学したての頃を思い出す。

「姐御に無理やり連れてこられたんだよね」
「優希ちゃんを見た時にビビビッと来たんだよ。女子高生の格好をさせたいってね」
「なんだよ、それ」
「捻くれたヤツだったよな、キミは。ショートカットとも暫く口聞かなかったし」
「あれは、ショートカット先輩が……いや、あれは僕のせいだね。ごめん」
「あー! 喧嘩してから四年経って初めて謝ったぞ! ショートカット」
「許すよ。てか、とっくに許してるけど。なんか、優希ちゃん最近変わったよね」
「ああ、変わったな。例の部長とやり合ってからだな」
「もしかして、優希ちゃん、ついに右に行っちゃった?」
「んなわけないって! 泊まったけど」
「お泊り? ゆ、ゆ、ゆ、優希ちゃん。詳しく聞かせて」
「ショートカット先輩……よだれ出てるって」

 飲みながら、話題は僕の近況報告となった。AI関連の新規事業の話や同級生の宗像さんとの話をする。大学生の頃から、僕の話し相手はこの人たちだった。もはや『元さぶんけん』の人たちは僕の全てを知っていると言っても過言ではない。

「そろそろ僕帰るよ、家遠いし。皆は楽しんで」
「おう! 雨降ってっから気をつけて帰れよー」
「また来週〜」

 ***

 冷たい雨が降っていても都内は賑わっている。雨はコンクリートの地面や建物に跳ね返ると、跳ねて丸い水玉となる。無数の水玉と同じ数の足音は皆、それぞれの家路へと向かうのだろう。一人を除いて。
 
 飲み会終わり、一人の社員が、ふらふらとオフィスに向かって歩いている。
 傘を差していない、その男の髪から滴り落ちる水滴は大理石調のビルの床にジグザグの跡を残す。電気の消えた執務スペースへと入っていく社員は、ブツブツと呟きながら結城のデスクに乱暴に座った。
 
「うき……ゆうき……みーんなゆうき……いやだいやだ。ん? なんだ〜これ?」

 ***

 『AIメール』は既存の会社のシステムとの相性もよく、導入コストも世にある業務系システムとは比べ物にならないほどかからない。コンサルティング業務を行う僕の事業部の全社員に導入してみたところ、業務効率は30%上がった年内で重大な瑕疵がなければ来年からは、クライアントへの導入を本格的に進めていくという方針が決まった。
 これが実現すれば、当初計画していた目標の二倍の成果となる。そうなれば新規事業チームは晴れて事業部となり、順当に行けば片瀬部長が事業部長となり大出世することとなるのだ。チームのメンバーにもそれに伴い報われる結果になるだろう。

「これもチームの皆の頑張りのお陰だ。ありがとう」
「部長、このまま突っ走りましょう」
「よし、最後まで油断せずに褌を締めてかかろう」

 こうして、今年の最終月が始まった。
 僕は師走に忙殺されながらも、冬のコミケの衣装作りに精を出す日々を送っている。この頃になると僕は常駐先のスターコーポレーションにも馴染み、担当の飯塚氏とも飲みに行く仲になっていた。

「結城さんには本当にお世話になりました」
「いえ、僕のような新卒を育てていただきありがとうございます」
「来年からは、月一回の打ち合わせだけになってしまいますね」
「最初、常駐が不安だったんですけど、今となっては寂しいです」
「そう言っていただけると嬉しいですね。来年からは片瀬部長率いる新規事業に本腰をいれるとお聞きしましたが」
「はい、このまま行けば来年にローンチできそうです。こちらもご提案させてください」
「もちろんですとも。結城さんがご提案してくれるなら大歓迎です。是非来年も引き続きよろしくおねがいします」

 僕がクライアントとこんなに良い関係を築けるなんて誰が想像しただろうか。この月が師走と呼ばれる理由を身にしみて味わいながらも、充実した毎日に満足している自分を不思議に感じた。

 会社帰りに手芸用品店へ寄った。ここに来ると心が躍る。
 筒状に巻かれた布たちを見て、これがどういう衣装に変身するかを想像するだけで、にんまりと笑みがこぼれそうになる。
 メインのエナメル生地はもう発注しているから、細かいところの生地と小物のパーツか。予算内に収まるかが気になるところだが、やはり『元さぶんけん』といえばコスチュームのクオリティが目玉だ。しょうがない足が出たら自腹を切るか。新しいミシンは暫くおあずけだな。
 
 ――無精髭先輩、いま手芸用品店で買い物終わったらから家に遊びに行っていい?
 ――おお。早く来てくれ。俺が死ぬ前に
 ――何があった!
 ――話が長くなるから、優希ちゃんが来てから言う。カップ酒買ってきて
 ――わかった

 無精髭のアパートに行くと、人の住む部屋とは思えない汚さだった。

「部屋、汚っ!」
「しょうがないだろ。住んでるんだから」
「なんだよ、それ。理由になってないって」
「まあ、カップ酒のもうや」

 無精髭はカップ酒のキャップを開けるときに失敗して酒をこぼすが、何も気にしていない。きっとここまで汚れていたら感覚が麻痺するのであろう。

「で、どうしたの?」
「スランプなんだ」
「なんで、コミケのヤツ、すごく面白いし絵も完璧なのに」
「あっちは上手くいくんだけど、自分のやつが書けない」
「ああ、連載に向けて頑張ってるやつ」
「そう。俺の何がいけないんだ?」
「ヒゲ、汚い部屋、不潔、髪の毛ボサボサベトベト」
「いや、真面目に聞いているんだ」
「漫画の?」
「うん」
「素人意見だから見当違いかも知れないけど、無精髭先輩は絵が上手い」
「うん。それで」
「漫画が下手だ」
「優希ちゃんも編集と同じこと言うんだな」

 無精髭の絵は誰が見ても上手い。そこらの漫画家より上手い。だけど、漫画になると途端に読む気を無くす程つまらなくなる。

「なんでコミケの漫画は面白いというか、上手いんだと思う?」
「わからん、漫画を描きすぎて、もうよくわからん」
「無精髭先輩が面白い物語だと思って、面白く描こうとしてるからだとおもう」
「深いな……続けろ」
「自分で作った物語を面白いと思ってないんだ。実際面白くないし」
「ひどいな……続けろ」
「ショートカット先輩の物語は面白いと思ってるから、面白く描こうとしてるってこと」
「俺は面白くないものを、うまく描こうとしてるってことか?」
「わかってるじゃん。それ」
「優希ちゃん、君、すごいな。俺の編集になって欲しいくらいだわ」
「無理だよ……」
「ありがとう! 燃えてきた。よし! 帰れ!」
「えー!」

 なんか、それっぽいことを言ってしまったけど。無精髭が納得してくれたならそれは良かったのかも知れない。
 ああ、追い出されてしまった。帰るにはまだ早いしショートカット先輩に連絡してみるか。

 ――ショートカット先輩、遊びに行っていい?
 ――ああ、早く来て。私が腐る前に
 ――えー。なんで!
 ――ハイボール買ってきて
 ――了解

 ショートカットのマンションに入る。さすが女の人の家だ。綺麗に掃除が行き届いてる。

「酒臭っ!」
「しょうがないでしょ。フラレたんだから」
「また失恋したの?」
()()ってなんだ!()()って」
「今度は誰にフラレたの?」
「バンドマン」
「なんでそこ行くんだよー。バンドマンと底辺Youtuberはダメだって言ったでしょ」
「だめだ。私はもう小説が書けない体になってしまったわ」
「異世界ファンタジーなんだからバンドマン関係ないでしょ」
「だめなんだ。私が異世界ファンタジーを書くためにはあのデスヴォイスが必要なの」
「メタルかよー」
「優希ちゃん、ゴスロリのコスプレして。お願い。今すぐ」
「嫌だし、衣装ないし」
「ふふふ。実は持ってるんだなー」
「絶対やだ! 帰る」

 本当に『元さぶんけん』の人たちは変な人ばかりだ。普段、真面目な人達と仕事をしている分、ギャップが激しすぎる。

 ――優希ちゃん、いつもの居酒屋に集合だ

 姐御か。こうなったら今夜は『元さぶんけん』巡りだ。
 居酒屋に着くといつもの小上がりで姐御が手招きをしている。いつもの光景だ。僕は手芸用品店から今に至るまでの話をする。

「うん。あいつらから連絡があってな。珍しいじゃないか優希ちゃんから遊びに行くなんて」

 姐御の言葉に、僕は居酒屋の生ビールをじっと見つめた。泡が少しずつ消えていく様子が、どこか懐かしい。
 
「たまたま近かったし、時間があったから」

 言い訳めいた言葉を口にしながら、自分でもその薄っぺらさに気づいていた。
 
「いいや、前の優希ちゃんなら、同じ状況でも自分から連絡なんてしなかったな」

 ハッとした。思い返せば僕はいつも受け身だった。遡れば小学生の頃からかもしれない。いつも斜に構えて、人を遠ざけるフリをして、それは同級生だけでなく母にもだ。

 「斜に構えている人間ってね、正面から向き合おうとしても逃げちゃうの。だから横から、後ろから、時には上から不意打ちするように接近する必要があるんだ」

 その言葉に、片瀬部長の顔が浮かぶ。そうか。斜に構えている僕の正面に回り込んで突っ込んでくる、姐御みたいなタイプが僕の殻を割ってくれていたんだ。片瀬部長も、きっと同じことを考えていたのかもしれない。

「でも今は違う」

 姐御は満足そうに頷く。

「そう、今の優希ちゃんは違う。自分から連絡して、人と関わろうとする。その変化が嬉しいのさ」

 姐御は一気にビールを飲み干すと、ニヤッとしながら僕に問いかけた。
 
「響いたか?」
「うん。悟った」
「そういえば、あいつらの様子はどうだった?」
「無精髭先輩は漫画の事を悩んでて、ショートカット先輩は振られて腐ってた」
「あはは。あいつららしいな」
「で、なんか言ってやったのか?」
「うん。無精髭先輩には、それっぽいことを言って、ショートカット先輩からは逃げてきた」
「合格! それでいいんだよ」
「どういうこと?」
「皆に斜に構える必要はないし、皆に親身になる必要は無い。環境に適応しろって事だ」
「片瀬部長と同じこと言ってる」
「ほう。なかなか見る目がいいな。その部長は。今度紹介してくれ」
「彼女いるらしいよ」
「なんだよ、つまんねぇ」

 初めて姐御と真面目な話をした気がする。姐御なりに僕のことを気にかけてくれてるのだろうか。『皆に斜に構える必要はないし、皆に親身になる必要は無い』か。真芯を捉えた話だったな。
   
 あっという間に時は流れ、今日は仕事納め。
 つい先日までクリスマスムード一色だった町並みは、徐々に正月に向けた独特の空気感を出している。
 部署単位で開催される忘年会に向かう同僚たちとは別の方向に向かう。常駐先だったスターコーポレーションの忘年会に呼んで貰ったので、少しだけ顔を出すことにしたからだ。万年ぼっちの僕が色んなところに呼んでもらえるなんて、なんだか人気者になれたような気がする。
 
「結城さん。これは、スターコーポレーション皆からのプレゼントです」
「え、いや、そんな困ります」
「大丈夫ですって、ほんの気持ちですから! 開けてみてください」

 ただの取引先の新卒の僕に、こんなに良くしてくれるなんて。嬉し涙が止まらなくなった僕の肩を飯塚氏が抱いてくれると、余計に涙が出てきた。
 とても暖かい。心も体も暖かい。そして、仲間の待つ自社の忘年会へと急いだ。

「皆、結城が来たぞ」
「よっ! 待ってました」
「結城くん、そのコートどうしたの? すごく似合ってるね」
「スターコーポレーションの皆さんがくれたんだ。いつも寒そうだからって」
「片瀬部長! 結城くんがお客様から賄賂を受け取ってまーす」
「いや、違うから!」

 和やかで賑やかな雰囲気の忘年会。幼い頃から大勢は苦手だとずっと思っていたけど、心地が良い。ここに僕の居場所がちゃんとあることが嬉しかった。
 僕のところに片瀬部長が徳利を持って参上した。

「結城くん、よく頑張ったな。ほら、乾杯しよう」そう言うと、僕のお猪口に酒を注ぐ。酒を酌み交わしながら、今年のお礼を伝えた。締めの挨拶のために立ち上がる直前に耳元で片瀬部長が囁いた。

「コミケ、行かせてもらうよ! また明後日な」


 年末に行われた冬のコミケは過去最多の来場者数となった。
 近年、三回に渡って開催が中止されたコミケだが、そんな過去が本当に合ったのかと思うほどの盛況ぶりだ。
 僕は冬のコミケのほうが好きだ。夏のコミケは暑いため、コスチュームの通気性や素材を気にしているが冬はやりたい放題できるので、僕は創作意欲を思いっきりぶつけられるのだ。
 近未来を意識した白いエナメル素材のコスチュームは、姐御のダイエットの成功により完璧なものになった。

「どうだ! みんな。五日間断食の成果は」
「完璧よ! さすが姐御」
「やっぱり断食したんだ。強硬手段に出たね」
「俺も締め切りに追われて、断食状態だったよ」

 無精髭の方が痩せた気がする。逆に冬の猫みたいにふっくらとしているショートカットの()()()()()は、彼女のデリカシーの無さを表している。
 開場直前、僕たちはブースの前で円陣を組んだ。
 
「諸君、この五年間の集大成だ。必ず売り切るぞ!」
「おー!」
「さーぶーんーー……」
「……」
「おい! 諸君どうした? 『けん』と叫べ」
「思いつきでやるなよ! そんな掛け声ないだろ」
「構わん! 叫べ! せーの」
「けーーーーーん!」
 
 会場と同時に雪崩のように押し寄せる来場者たちに驚いた。人間というのは一つの場所にこれほどの数が集まれるものなのか。僕はこの人間のスタンピードにたじろいだ。コミケには過去八回参加している僕だが、人の数に逡巡としてしまっていた。
 今年も『元さぶんけん』のブースは大賑わいで、姐御は引っ切り無しに写真を撮られている。姐御に無理やり練習させられた僕の女声での「買ってくれて、ありがとうお兄ちゃん」はTikTokでバズったお陰で出番が多かった。

「大盛況だね、結城くん。あ、今は優希ちゃんか」

 いつも聞いていた声で話しかけられると、心臓が止まるかと思った。振り返ると普段とは違いカジュアルな格好をした片瀬部長が立っている。自分が誘っておいてなんだけど、知り合いに見られるのはやっぱり恥ずかしい。

「二冊買わせてもらったよ。さて、写真を撮ろうか優希ちゃん」
「か、か、買ってくれて、ありがとうお兄ちゃん」
「おおぉぉTikTokでバズったやつの恥じらいバージョンじゃないか」
「普段は、絶対やらないんですからね」
「ツンデレバージョンか!」

 片瀬部長は僕のことを散々、いじって帰っていった。
 今年の冬のコミケは過去最大の盛り上がりと、過去最大の売上を叩き出し幕を閉じた。

 大晦日でも、僕の日課である散歩は欠かさない。白い息は朝日に照らされてキラキラと暖色の光りを放つ。電線に止まる、ふっくらとしたスズメの鳴き声は澄んだ空気の中を遠くまで飛ばしている。
 去年の大晦日は何をしていたかな。ふと思い出してみる。たしか、昼過ぎに起きて漫画を読んでサブスクで映画を観て、スマホゲームをして、夜に母とすき焼きを食べて……。
 僕と母は、大晦日に二人ですき焼きを食べるのが恒例行事だ。いつも無口な僕との大晦日は、嘸かしつまらないものだっただろう。彼女の楽しみって、何なんだろうか。そんな事を考えながら散歩を終えた。
 「お母さん」朝ご飯の味噌汁を一口飲んでから話しかける。

「なに? そんなに改まって」
「改まってはいないけどさ。今日もすき焼きだよね」
「そうよ。誠也が小さい頃から好きだったから。『甘いのにお米に合う奇跡』って」
「そうだったんだ。食材ってもう買った?」
「まだよ、後で正月のおせち料理の食材も一緒に買物に行ってくるけど、なにか欲しいものあるの?」
「いや、買い物。一緒に行ってもいい?」
「あら、手伝ってくれると助かるわ」
 
 車で二〇分ほどの大きなスーパー。小さい頃、日曜日の度に一緒に来た思い出がある。小さなゲームセンターのメダルゲームをよくやっていた。

「懐かしいわね。メダルゲームしてきてもいいのよ。私は読書してるから」

 母の言葉に、記憶が一気に押し寄せてくる。日曜日の午後、このフードコートで母はいつも同じ場所に座っていた。コーヒーを飲みながら読書をする母の姿は、まるで風景の一部のように自然で、当たり前すぎて気にも留めていなかった。

 ふと気づく。母は僕のために、どれだけの時間をここで過ごしてくれていたのだろう。

 驚くほどに退屈だった。あの頃の僕は、何が楽しくてこれに熱中していたのだろうか。カップに入ったメダルが少なくなると、ソワソワして、ちょっとメダルが増えると安心感が心を満たしていた。あの感覚が全く無く、早く手持ちのメダルが無くなってくれないかと願うほどつまらなかった。
 ゲームセンターを後にした僕は、フードコートでソフトクリームを二つ買って母のもとに向かう。彼女はあの時よりは老けたけれども、あの時とお同じように足を組み読書をしている。

「ゲーム、楽しかった?」
「つまらなかった」
「あはは。つまらなかったの? つまらなくても楽しかったっていうあなたが? あはは」

 久しぶりに母の笑った声を聞いた気がする。
 大量の買い物を済ませて家に戻ると、母はすき焼きの準備と、おせち料理の準備にとりかかった。
 
 学生から社会人となり多くのことを学んだ一年は、甘いのに米に合う奇跡とともに暮れていった。

 ――宗像さん:あけましておめでとう
 ――結城:あけましておめでとう
 ――宗像さん:地元に戻ってきてるんだけどさ、初詣いかない?
 ――結城:うん。いいけど

 待ち合わせ場所の神社まで歩いて十五分元旦から縁起のいい場所に散歩できるのは幸先が良い。
 白い息がたなびくゆっくりとした風が耳を冷やす。

「結城! こっちこっち」
「宗像さん、ひさしぶり。あけましておめでとう」
「うん。あけましておめでとう」
「どうしたの? 初詣に誘うなんて。他に友達はいないの?」
「はぁ? いるに決まってるでしょ。あんたが友達いないから誘ってあげてるのに」
「あはは。そうだったんだね。ありがとう。初詣に行こうと思ってたから嬉しいよ」
「嬉しいなら、いいけど」

 こじんまりとはしているが出店が出ている。ちょうどお腹も減ってきた時間帯。小さい頃に食べたお祭りみたいな、延びた焼きそばが何故か好きな僕の食欲は活性化する。

「焼きそばたべたいの?」
「うん。よくわかったね」
「あんた、ずっと焼きそばの屋台をみてるから」
「屋台じゃなくて出店ね」
「どっちでもいいって、あんたのそういうところだからね」

僕の家の前まで一緒に歩きながら焼きそばを食べる。「じゃぁ、また」そういうと宗像さんは早足で帰っていった。

「宗像さんと初詣、楽しかった」
「うん。お母さんの分の焼きそば、買ってきたよ」
「ありがとう。うれしいわ」

 九連休の正月休みがやっと終わった。
 リア充でない僕にとって、長い休みというのは永遠とも思えるほど長く感じるわけで、年始からの仕事の準備も思いのほか進んでしまった。
 でも年始からスタートダッシュをかけて『AIメール』の導入企業を開拓していく準備を事前に出来たのは喜ばしいことだ。

  <AIアシスタント>
 ――結城さん、スターコーポレーションの飯塚様へのメールを作成しました
 ――飯塚さん、旧年中は大変お世話になりましたこと、
 ――心より感謝申し上げます。
 ――昨年、皆様と一緒に仕事をして、培ったものを活かし
 ――本年も貴社の皆様のお役に立てるよう最大限の努力をいたす所存でございます。
 ――次にお伺いする1月21日を楽しみにしております。
 ――その際に、先日お話したご提案も一緒にできれば幸いです。
 ――本年も宜しくお願い申し上げます。
 <追記する内容はありますか?>

 出社して、パソコンを開くとAIアシスタントからのメッセージが現れる。なんて仕事のできる子なんだろう。取引先や関係者へのメールがほぼ完璧に出来ががっていて、一文加えれば済んでしまう。四時間分の仕事が片付いた状態で新年一日目の仕事が始まった。

「『いただいたコートが大活躍しております。コートを着る度に皆様の顔が浮かびます(笑)』っと」
 
 このシステムを導入している僕の事業部の人たちからも感嘆の声が聞こえる。
 片瀬部長も確かな手応えを感じている様にオフィスを見回していた。
 一月から、本格的に新規事業は対外的にも動き出すことになる。これからは社内だけで稼働していたシステムがクライアント先でも稼働をすることになる。もし、致命的なトラブルがあれば損害の保証や訴訟に発展することもあり得るため、細心の注意と完璧な仕事が求められる。

「皆、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「さて、新年早々の会議だけど、3月末までの導入数の目標を決めた。」
「社数ですか? アカウント数ですか?」
「5000アカウントだ」
「ご、5000! これはまた大きく出ましたね」
「ああ、だが十分可能だと思っている。そして、来年度以降の事を考えてアライアンス戦略を取ろうと思う」
「アライアンス? どことですか?」

 AIの演算処理には、高性能のサーバが必要で消費電力も物凄いらしい。これを自社で全部賄うと、投資金額が莫大なものとなり、その分リスクも大きくなる。
 そこで、AIサーバーの世界最大手ハイパー・マイクロ・テック社とのアライアンスを組むと片瀬部長は言う。もし、これが実現すれば経済ニュースに出るほどの大事だ。

「そんなこと実現できるんですか?」
「ああ、去年から打診はしてたんだ。去年末、担当部署とのパイプができてね」
「いつの間に。さすがですね」
「三月中に世界最大手、HMT社とのアライアンスの基本合意をするための動きをする」
「部長、三月中って本気ですか? いくら片瀬部長でも……」
「ああ、だから俺はこっちの動きに集中する。5000アカウントは任せたぞ」
「はい」
「結城くん、君は僕のサポートを頼む」

 話がとんでもなく大きくなってきた。ただの新規事業だと考えていたけど、これはもはや社運を賭けた一大プロジェクトだ。
 そうなると、経営陣としても新規事業チームにリソースを割き始めるわけで。急遽、ベテランコンサルタントが五名、サポート要員が三名、そしてなんと常務取締役、計九名がチームに参画した。
 こうして増員された新規事業チームは更に加速して事業推進をしていく事となる。人的リソースが増えたとはいえ、僕の仕事量は日に日に増えていき、まるで雪だるまの頭のようにでかくなっていった。すると、貧弱な体の部分は押しつぶされそうになる。正月休みの暇さが懐かしく思えるほど膨大なタスクはAIアシスタントですら心配してくれる程だった。
 
   <AIアシスタント>
 ――結城さん、あと10分で会社を出ないと、お客様とのお打ち合わせに
 ――遅れてしまいます。用意をしてください
 ――遅れる場合はメールをお送りますがいかがしますか?

 こんなことならばリモートでの打ち合わせにすれば良かったという苛つきが、自分の足取りに表れているのわかる。今は打ち合わせに出て帰るまでの一時間半ですら惜しいというのに。
 去年、毎週出社していたスターコーポレーションに慣れた足取りで入っていく。間違って受付をせずに会議室に向かおうとするくらいだった。

「結城さん、随分疲れてるでしょ」
「あ、顔に出てますか。僕もまだまだですね。ははは」
「新規事業、そんなに忙しいですか?」
「ええ。普通の社員であれば過労で倒れてしまうかも知れません」
「大丈夫ですか?」
「はい。なぜなら、当社の『AIメール』を搭載した業務システムがですね……」
「ちょっと結城さん! プレゼンの入り方がうまいなぁ」

 提案は上手くでき、導入を前提に進めていくこととなった。
 会社に戻って、営業進捗をシステムに入力すると、僕はいつものように膨大なタスクに没頭し始める。就業時間直前にアラートを鳴らすAIアシスタントに残業申請を頼み、コンビニへ夜ご飯を買いに行った。

「お、結城くんも残業か。苦労をかけて、すまないな」
「片瀬部長もですか」
「ああ、てんてこ舞いさ。相手の方が格上の会社だから今までのように殿様商売ができない」

 会社の最寄りのコンビニで打ち合わせ帰りの片瀬部長に遭遇すると、一緒に買物をお終え、ビルの横にある小さな広場のベンチに腰を掛けた。

「さっき、駅の近くで結城くんの同期たちと会ったよ。同期飲みだって。仲がいいな」
「はい。僕は仕事が終わらないのでいけませんでしたが」
「俺が大量にタスクを振ってるからだな。本当に申し訳ない」
「いえ、気にしないでください。僕の仕事が遅いだけなので」
「そうだ。HMT社との打ち合わせが決まったぞ」
「すごい! あ、僕もスターコーポレーションの提案通りました」
「やるなぁ! さすがだよ。残業前に缶ビールで乾杯するか」
「はい!」
「あ、雨が降ってきた。濡れるし寒いからオフィスに戻って飲もう」
「オフィス内って禁酒じゃ……」
「気にするな、そんな小っちゃいこと」
 
 ***

 駅の近くの居酒屋で酒を飲みならが談笑している若いビジネスパーソンたち。
 結城の同期たちは、毎度のことながら今日も飲み会を開催していた。

「結城くん、今日も来れなかったんだね」
「最近、あいつめっちゃ忙しいらしいで。新規事業のタスクが溜まっとんのやって」
「新規事業、やっぱり忙しいんだ。なのに、堂島くんはなんで参加してるの?」
「俺は、予算を達成してるからな。結城とは出来が違うんだよ。へへへ」
「本当にそうなのかな。傍から見てると結城くんのほうが仕事できそうなんだけど」
「はぁ! あいつなんて未だに殆ど事務作業なのに」
「俺、結城の提案資料見たけど、めっちゃ凄かったよ」
「何なんだよ! 皆、結城、結城って。うざいんだよ! クソッ」

 堂島の怒鳴り声は店中に響き、店員がしばしば注意するほどだった。

 ***

 次の日、僕が会社に行くと騒然としていた。

「結城くん、なんか大変な事になってんで」
「どうしたの?」
「メール確認してみてや」

 急いでデスクに向かいパソコンを開く。

  <AIアシスタント>
 ――結城さん、メールの中に一件、誹謗中傷の恐れがあるメールがあります
 ――メールを表示しますか?
 ――[Yes ・ No]
 ――[Yes]
 
 To:ALL@xxxconsulting.co.jp
 Sub:御社の片瀬は女子高生好きのロリコン変態野郎
 ――添付ファイル:xxx.jpg

 添付ファイルを開くと、片瀬部長と女子高生のコスプレをした僕の画像が表示された。
 
 なぜ、これが流出して全社員のメーリングリストに送信されてるんだ。
 震える指先で、デスクの引き出しに手を伸ばす。あの写真、片瀬部長を脅迫した時の切り札が、ここにあるはずだ。洋封筒に封じ込め、まるで自らの罪を封印するかのように糊付けしたあの証拠が。
 無い。いくら探しても、あの封筒が見つからない。盗まれた——その事実が、重い鉛のように胸に沈んでいく。
 誰が……? その一言が、オフィスの喧騒の中で、静かに、しかし確実に僕の中で膨らんでいった。

「江藤くん、片瀬部長は?」
「今、人事部の人に呼ばれて上のフロアにおるらしい」

 その日の午前中に行われるはずだった新規事業の進捗会議は中止となった。その日人事部から各社員へメッセージが届いた内容は「事実とは認められなく悪質な誹謗中傷のメールが差出人不明なメールアドレスから届きました。くれぐれも騒ぎ立てないように」というものだった。
 しかし、人というのは噂が好きな生き物のようで事業部中が、多分、他の事業部も片瀬部長の噂で持ち切りなのだろう。
 それから数日が経ち、画像はイタズラであったのだろうと言うことで、変な噂も収まりつつあった。

「皆、この大事なときに、迷惑をかけて申し訳ない」
「部長のせいじゃないですよ」
「乗り切りましょう」

 臨時で行われた進捗会議は、片瀬部長の謝罪から始まった。新規事業チームは団結しているのが、他の部との連携ができないと推進力を失ってしまう。また、もし社外にまで波及してしまうと新規事業自体が立ち消えてしまうかも知れない。
 
 僕のせいだ。僕が、早くあれを処分していれば。いや、そもそもあの写真で片瀬部長を脅そうというのが間違っていたんだ。
 
「部長、あの」
「ごめん、後にしてくれるか」

 マズイ、やっぱり怒ってる。そりゃそうだ。僕はなんてことをしてしまったんだ。
 この日、僕は仕事が全く手につかないほど動揺していた。心臓はずっと早い鼓動を打っている。冷や汗は止まらないし、トイレでは急に嗚咽が出る始末。
 僕はこの場にいるのが苦しくなってしまい、会社の近くのカフェへ逃避した。ノートパソコンは持ってきたものの仕事は全く捗らずノートパソコンの画面はスリープモードとログイン画面を何度も繰り返した。
 カフェから外をみると、すでに日が落ち薄暗くなっている。しかし、オフィスに戻る気にはなれなくて、会社の周りを歩いている。気づけば、よく片瀬部長と行った居酒屋へと足を向かっていた。
 コートを着たまま瓶ビールを頼み、喉に流し込む。かじかんだ手に瓶ビールの冷たさが追い打ちをかける。

「あら、一人なんて珍しいわね。片瀬くんと待ち合わせ?」
「い、いえ、一人です」

 いつも片瀬部長と来ていたこの店。最初に呼び出されて脅迫したのもこの店。完膚なきまでに叩きのめされて泣いたのもこの店。僕の人生を変えた場所に一人。またいつか片瀬部長と一緒に来ることはできるのだろうか。そんな事を考えながら、何か注文しようとメニュー表を眺めていた。

「あら、やっぱり待ち合わせじゃない。片瀬くん」
「え、ああ。結城くんも来てたのか。奇遇だね」
「はい。あ、すみません。会社に戻らないで、そのまま来てしまいました」
「いいよいいよ。そんなこと気にしないで」
 
 なんか、いつもと同じ感じだな。てっきり怒っているか、落ち込んでいると思ったんだけど。

「怒ってるか落ち込んでっると思っただろ?」
「超能力者ですか?」
「いや、超能力者じゃないな。でも、その通りだよ。怒ってるし落ち込んでる」
「すいません……僕」
「いや、結城くんに対して怒っているわけじゃないぞ」
「え? でも」
「自分とあれを送ってきたヤツにね。もちろん君じゃないことはわかってる」
「封筒に入れてデスクの奥底に入れてたんですが、無くなってたんです」
「じゃあ、犯人は会社の、しかも同じ事業部の誰かだな。俺、敵も多いからなぁ」
「大丈夫なんですか?」
「ああ、どうだろうな。なるようにしかならないさ。やるべき事をやるしかない」
「片瀬部長は、強いんですね」

 僕だったら会社をやめて引きこもってしまうレベルなのに、この人のメンタルの強さはどこから来るのか。僕とは根本的に作りが違うんだろうな。

「どうなるかわからないけど、HMT社との契約だけは絶対やりきるぞ」
「はい。僕も全力でやるのでなんでも言ってください」
「本当に心強くなったな。ありがとう結城くん」

 そうだ。僕もやるべき事をやろう。逆境がなんだ、俄然やる気が出てきた。
 今日の遅れを明日から取り戻す決意を胸に帰路に就く。

  <AIアシスタント>
 ――結城さん、メールの中に一件、誹謗中傷の恐れがあるメールがあります
 ――メールを表示しますか?
 ――[Yes ・ No]
 ――[Yes]
 
 To:ALL@xxxconsulting.co.jp
 Sub:【続報】御社の片瀬は女子高生好きのロリコン変態野郎2
 ――添付ファイル:xxx2.jpg
 
 次の日、他の画像が送られてきた。他の年のコミケの写真だ。

「なんか、確定だよなぁ」
「あれ、絶対に合成じゃないでしょ」
「援交じゃない?」
「気持ち悪い、陰でそういう事してたってことでしょ」

 朝、社員たちが片瀬部長の噂をしている。間が悪く出社した部長が「おはよう」と声を掛けるが、反応は予想通り。目を逸らし、無視をして蜘蛛の子の様に散ってゆく。

  <23卒同期チャンネル>
 ――尾藤枇杷:結城くん、大丈夫? なんか大変そうだけど
 ――江藤瑛祐:また画像が送られて来るとはなぁ
 ――同期I:ちょっと、幻滅しちゃったのは事実だけど
 ――秋村彩音:まだ事実とはわからないけど、なんかちょっと怖いな
 ――同期F:結城くん、あまり部長かかわらないほうがいいんじゃない?
 ――同期G:巻き込まれるかもしれないしな
 ――同期H:うんうん。堂島くんも大変だね
 ――堂島大地:新規事業に来たことを後悔してるよ。上司が変態は最悪
 ――同期C:うちらの部も兼務してるから、上司が変態は同じなんだけどw

 反吐が出る。つい最近まで「憧れる」とか「尊敬する」と言ってた口はどこに行ったんだ。それは僕も同罪か。皆が片瀬部長の事を誹謗中傷していても、何も言えず沈黙を貫いて。この沈黙が片瀬部長のいう「適応能力」なのだとしたら、それは間違いだ。ただ意気地がないだけ。結局僕も他の皆と一緒なんだ。
 
「部長、ランチ一緒に行きませんか?」
「結城くん、俺と一緒に行動するのは良くない。結城くんまで巻き込んでしまう」
「僕は構いません」
「ありがとう。でも、遠慮しておくよ」

 片瀬部長が孤独に思えて胸が苦しくなる。誰も近寄らないし、歩いていても目を逸らし道を開ける。中学生や高校生のいじめみたいだ。なにが一流企業だ、なにがコンサルタントだ。
 ふと、小学校時代のクラスメイト、相崎の顔が脳裏に浮かぶと同時に心が萎縮した。そして、あの時と同じように全てが嫌になってしまった。

 ――宗像さん:今週の日曜日、個展を開くんだけど来ない?
 [――いま仕事がトラブル続きで、そういう気分じゃな_]
 ――結城:おめでとう。是非伺わせてもらうよ
 ――宗像さん:ありがとう。あとで詳細送るね
 
 断ろうとしたのを、どうして行くと返事したのか。なにか、ここは行っておかないと行けないという直感のような何かが働いたのかも知れない。スピリチュアル的なものは中学二年生の時、早めに卒業したはずだけど、今はそれに縋ってもいい。呪術でも魔法陣でも祈りでも構わなかった。

「ありがとう結城、遠かったでしょ?」
「いや、割と会社から近い距離だから何も問題ないよ」
「お花、ありがとう。びっくりしたよ。結城ってそういうこともできるんだね」
「あ、うん。一応社会人だから」
「あはは。嬉しいよ。ゆっくり観ていってね」

 すごい。まさかこのレベルだとは思わなかった。並ぶ作品の数々すべて宗像さんが作ってるなんて信じられない。プロのアーティストのクオリティに驚きの連続だった。

「値段が表示されてるってことは、これ売ってるって事だよね?」
「うん。なにかいいのあった?」
「この、タイピン」
「お。さすがだね。ダマスク柄を選ぶなんて。それ、私の力作よ」
「友人割引してあげようか?」
「いや、いい。そのままの金額で」
「相変わらず、変なやつだね。そうだ、私も今日はもう閉めるから一緒に帰ろうよ」
「あ、うん。じゃ、手伝うよ」
「……結城、変わったね」

 都内で一人暮らしを始めた宗像さんとは、新宿駅まで一緒だ。地下鉄を出ると僕は中央線、宗像さんは京王線に乗り換えるために改札を出る。
 「ここから京王線で一駅に美味しくて安い店があるから」と無理矢理に京王線に乗せられて、その店へと入った。

「ああ、お腹へった。展示会だとお菓子くらいしか食べられないのよ」
「なんか、すっかりアーティストだね。びっくりした」
「まぁ大変だけどね。やりたいことだし、楽しくやってるよ」
「結城は? どう最近」

 僕の最近はどうなんだろう。年末までは良かった。物事がうまく進み、自分が成長できたとも思えた。それが、たった一つのつまらない出来事で、目標への道が途中で崩壊しているかのように思えて、先へ進めない。来た道を引き返す事もできず、回り道探しても見つからない。八方塞がりとはこの事だ。

「ふーん。組織の中で働くってのも難しいんだね。私には全然わからないけど」
「仕事以外の部分でさ、人の趣味趣向が時代に合わないとあそこまで問題になるなんて」
「女子高生が好きなんて、私が彫金が好きなのと大して変わらないとおもうんだけどな」
「うん。つまらないなって本当に思うよ」
「芸術家なんてヤバいヤツばっかりだよ。滴る血が好きだったり、ずっとウンコばっかり油絵で描いてるヤツもいるしね」
「すごいね……。でね、その写真の女子高生ってのが、実はコスプレした僕なんだ」
「え! あははははは。結城もヤバいヤツ側だったのかー!」
「ちょっと、笑いすぎだって。問題を抱えて悩んでるのに」
「結城、明日休みでしょ? うちに泊まりなよ。こっから近いからさ」

 半ば強引に家に連れて行かれた。小柄な僕は宗像さんに渡されたスウェットがピッタリだ。ベッドと作業スペースと小さい組み立て式の座卓だけのワンルームマンション。コンビニで買った缶の酒を飲みながら、僕の衣装作りの話で盛り上がる。
 次の日の展示会を手伝わせるために僕を泊めた事に気づいたのは、眠りにつく直前だった。
 展示会では僕が受付をする。すると、宗像さんは来場者と話すことができるのだ。この『作者と来場者が話す』というのが大事なそうだ。きっと、僕がオンラインミーティングではなく、客先へ足を運ぶのと同じ原理だと思う。

「ありがとねー。結城のお陰で昼ご飯たべれるよ」
「騙し討ちみたいな事しなくても、頼まれたら手伝ったのに」
「マジか。結城って本当に変わったなぁ」

 この日の昼時は来場者がちょうど途切れた時間があり、僕もその隙におにぎりを頬張った。

「宗像。展示会おつかれー」
「お、アンタたちも来てくれたのか。ありがとう」

 見た目の雰囲気からすると、宗像さんのアーティスト仲間だろう。独特な雰囲気の二人組がジロジロと作品を見て回っている。
「指紋が付くからベタベタ触らないでねー」という宗像さんの言葉を無視する二人組がこちらへ向かってきた。

「作品、いいじゃん。今度、妹の結婚式のティアラ作ってよ」
「いいよー。妹さんとLINE繋げて」
「うい。あれ? この人、宗像の彼氏?」
「いや、コスプレの衣装作ってる同級生の結城」
「コスプレかぁ。いいよなぁ。あれはもはやアートだ」
「い、いや、僕の場合、趣味というか……」
「そうだ、紹介するね。こっちが『滴る血』で、こっちが『ウンコ』」

 衝撃的だった。僕は自室のベッドに寝そべり天井に飾ってあるフェニックスの応援旗を眺めている。アーティストという生き物の自由さと窮屈さを目の当たりにすると、とても同じ国の人間の、同じ年代の種と思えない。
 あんなに自由で不自由な生き方があったとは。それと比較すると、僕は不自由で不自由な生き方をしていると悟った。

 <AIアシスタント>
 ――結城さん、メールの中に一件、誹謗中傷の恐れがあるメールがあります
 ――メールを表示しますか?
 ――[Yes ・ No]
 ――[Yes]
 
 To:ALL@xxxconsulting.co.jp
 Sub:【まだ続報あり】御社の片瀬は女子高生好きのロリコン変態野郎3
 取引先にも送っているかもしれませんw
 ――添付ファイル:xxx3.jpg

 三通目のメールが送られた日から、事業部の全員が片瀬部長を透明人間のように扱った。自分の中学高校時代の記憶が頭をよぎったからなのかも知れない。その態度に僕の腸は煮えくり返る。いい大人が、やっていることが中高生のいじめと一緒じゃないか。
 僕の中で、何かが吹っ切れた気がする。

「片瀬部長、おはようございます」

 僕の大きな挨拶がオフィスに響き渡ると、静寂が追いかけてくる。みんなの白い目が僕に向けられる。続けざまに部長に話しかけ続けているとその目は好奇の目に晒された。

「結城くん、無理に話しかけなくていい。状況が悪化するだけだ。ちゃんと、この場に適応しなさい」
「いいじゃないですか、滴る血が好きでも」
「は? 何を言ってるんだ」
「いいじゃないですか、ウンコが好きでも」
「おい、結城くん……」
「いいじゃないですか、女子高生が好きでも。僕は、片瀬部長と一緒に仕事をするのがが好きなんです」

 感情的になっている僕を、片瀬部長が会議室へと連れて行く。オフィスでは今頃、僕の奇行が話題になっているだろうが、もう、そんな事を気にすることはやめた。
 環境に適応してきたものが進化し生き延びてきたというが、あの場で沈黙し同調し傍観していることを適応と呼ぶならば、僕は生き延びなくていい。
 
「結城くん、君ってやつは本当にいつも予想の斜め上を行くよな」
「はい。根っからの捻くれ者ですから」
「だからって、わざわざ自分から火中に飛び込むか?」
「僕は適応して進化することをやめました。やるべきことをやっただけです」
「やるべきこと……か。君のおかげで勇気が出たよ。俺もやるべきことをやるか」

 その日以降、片瀬部長と僕はHMT社との契約をするためだけに全力を注いだ。オフィスでも、進捗会議でも、堂々と振る舞う。勿論反発はそこかしこで起きているらしい。実際に新規事業チームの中でも批判的なメンバーが多くいる。

「もう部長についていけないですよ。社内で色々言われるんですよね。変態の部下って」
「そうか、堂島くん。じゃぁ、抜けてもらっても構わないぞ」
「部長が責任を取って抜けるべきじゃないですか?」
「じゃぁ、来週のHMT社のプレゼンとその後の交渉も契約も君がやるか?」
「いや、それは……」
「じゃぁ、君は黙ってなさい。他に意見のある人はいる?」
 
  <23卒同期チャンネル>
 ――堂島大地:片瀬が暴走w さっき会議で「無能はやめろ」って言われた
 ――同期C:まじ? 変態の上にモラハラ? パワハラ?
 ――勇気誠也:堂島くん、嘘はやめようよ。そんなこと一言も言ってない
 ――堂島大地:出た、変態の側近w
 ――同期H:結城くんが、庇いたい気持ちはわかるけど、さすがに……
 ――勇気誠也:添付【第一五回進捗会議録音.mp3】
 ――勇気誠也:これ、証拠。これでも信じられない?
 ――江藤瑛祐:堂島が噛みついてボコボコにされてるだけやん、かっこわるw
 ――尾藤枇杷:大地、ダサいことするなよ。呆れる
 ――堂島大地:いや、そもそも片瀬が変態だからいけないんじゃん
 ――結城誠也:あの写真だって、捏造かも知れない
 ――同期G:たしかに、合成もAIでできるしね。画像なんて特に
 ――堂島大地:合成じゃないだろ、一枚だけじゃないし。ほら
 ――添付【xxx.jpg】【xxx2.jpg】【xxx3.jpg】【xxx4.jpg】
 ――秋村彩音:え? なんで堂島くんが4枚目持ってるの?
 ――堂島大地:[添付ファイルを削除しました]

「堂島! どこ行くねん! お前は、そのままパソコン触らんと座っとれ。誰か! 偉い人連れてきてくれ」江藤が逃げようとした堂島を捕まえると、オフィスは騒然とし、野次馬が集る。
 
 片瀬部長をはじめとする関係者とシステム部のエンジニア、常務が集まり、堂島と堂島のパソコンを持って会議室へと向かった。

「え、ちょっと何?」
「逮捕された人みたいだったんだけど」
「堂島、なにかやらかしたの?」

 システム部のエンジニア立ち会いのもと堂島のパソコンを調べると、不明な送信者を装い、全社員と外部に片瀬部長の画像を送っていたのは堂島だと発覚した。
 聴取の結果、堂島は全て自白したらしい。自分の方が仕事ができるのに、同期にチヤホヤされる僕をライバル視していた堂島。片瀬部長に上手く取り入って贔屓される僕が、部長の手を借りて大手の契約を取ったり成果を出すことに腹がたったんだとか。
 去年、酔ってオフィスに来た歳、偶然物色していたデスクの中で女子高生の写真を手に入れ、いつか使えると思って保管していた。僕のことばかり贔屓する片瀬部長を陥れるために誹謗中傷のメールを送ったとのこと。
 
 人事部から処分が出るまでの間、堂島は出勤停止命令が下された。

「部長、これで一件落着ですね」
「いや、そうはいかないんだよ結城くん」
「え? まだなにか問題があるんですか?」

 部長とよく行く例の居酒屋で、まだ浮かない顔をしている片瀬部長に僕は瓶ビールを注いでいる。

「堂島くんはHMT社にもあの画像を送っていたらしくてな、先方から連絡が来たんだよ」
「え? 堂島……」
「まったく、次から次へと。上手くいかないもんだな」
「いや、でも堂島の企てだと証明されたから、先方にも説明すれば」
「社内のゴタゴタで、という顛末はなんとかなると思うが、写真の説明がな」
「うーん。合成写真を捏造したと言うことには」
「ならないだろ。相手はAI系企業の世界シェアトップ企業だぞ。しかも合成写真判定の特許を持ってる会社だ」
「親子ということには……」
「それは無茶苦茶だよ」
「部長、やるべきことをやりましょう」
「はは、根拠なき自信が湧いてくるな。君に鼓舞されると」
 

「片瀬部長、おはようございます」
「あ、ああ。おはよう」

 容疑が晴れると、同僚たちは再び掌を返したような態度を取る。それには、さすがの片瀬部長もたじろぐわけで。まったく人間というものはおかしな生き物だ。
 
「部長、法務部からの事業の法務リスクと、契約書のドラフトが送られてきました」
「ありがとう。じゃ、法務リスクの対処法のリサーチと打ちてを挙げておいて」
「あと、営業状況のヨミ管理を更新しておきました。概ね大丈夫です」
「了解、今日の進捗会議、俺出ないからファシリテーションお願いしてもいい」
「はい、やっておきます。あとで報告しますね」

  <23卒同期チャンネル>
 ――秋村彩音:さっき、結城くんと片瀬部長のやり取り聞いたけど、すごいね
 ――江藤瑛祐:俺も聞いてたけど、チンプンカンプンや
 ――同期I:うちらみたいに、飲み会ばっかりしてる連中とはレベチよね
 ――尾藤枇杷:うん。でも飲み会が私の唯一の楽しみだからなぁ
 ――同期F:じゃ、今日も?
 ――同期G:行っちゃう?
 ――同期H:結城くんは忙しそうだからメンションするなよ
 ――同期C:@結城誠也

 ――結城誠也:(笑)ちょっとだけ顔出すよ

「堂島のやつ、ヤバイよな」
「うん。前から結城くんの事を目の敵にしてたもんね」
「あいつ、最初から怪しかったんだよなー」
「よく言うよ。上司が変態とか言ってたじゃないか」
「ごめん、結城くんの言う通りだよ。なんか同調しちゃったというか」
「でも江藤くん。ありがとう。堂島くんを取り押さえてくれて」
「ああ、あいつは絶対逃げると思ってやな」
「格好良かったよ、江藤」
「褒めてもなんも出てこーへんで」
「でも、これで新規事業も安泰だねー」
「う、うん」
 
 
 あと一週間。HMT社へのプレゼンテーションが迫ってきた。
 プレゼン資料は粗方できている。予測される質問に対する資料も必要以上に準備した。アライアンの条件もHMT社にとっても十分にメリットが有り、リスクバランスも取れている。
 唯一の問題は、片瀬部長の画像だ。先方にも画像が流出しているとなると、対策を用意して置かなければならない。片瀬部長が退職すれば良いとかそういう単純な問題でもないところが厄介だ。片瀬部長や、法務部もこれの解決策を考えているが、これといった対策が出てこないらしい。となると、僕の頭で考えても良い案が浮かぶはずもないのが現状だ。

「タイムマシンがあれば、写真を処分しに行くんですけど」
「結城くん、追い詰められた時特有の発想になってるぞ」
「堂島のせいで……」
「いや、因果応報ってやつだよ。彼を責めても意味がない」
「部長は聖人みたいですね」
「聖人が女子高生好きなわけないだろ」
「あはは。その女子高生は男なんですけどね」
「あれは驚いたな。女子高生だと思ってたら結城くんだったんだから」
「……」
「ん? どうした?」
「いえ、なんでもありません」

 ***
 
 時間は無情にも流れていき、HMT社の重役たち来社した。
 取締役会が行われる会議室、着席したHMT社の全員に上等なお茶が配られ、続いて分厚い資料が配られる。片瀬部長によるプレゼンテーションがいよいよ始まろうとしていた。
 僕は会議室のモニターの横に座り、プレゼンテーションのスライドをめくる係として出席していた。僕の心臓は大太鼓が永遠になり続けるような音を立てている。

「本日はご足労いただきありがとうございます。これから当社とハイパー・マイクロ・テック社のアライアンスのご提案の最終プレゼンテーションをさせていただきます。まずは、今回の新規事業の責任者であります私、片瀬よりプレゼンテーションをさせていただき、その後に質疑応答の時間を準備してございます。それではよろしくお願いします」

 プレゼン資料を開く指が震えている。人間の身体はこんなに震えるものなのか。多分、僕の人生で一番緊張していて、今にも逃げ出したい気分だった。
 プレゼンテーションは二時間に渡る長丁場だ。
 会議室の照明が落とされ、第一部の『日本のビジネスを取り巻く市場と経済』が始まる。流暢に話しを進めていき、この新規事業がこれからのビジネスに必要なものだと、上手く織り交ぜていく。
 百戦錬磨の片瀬部長の話に、HMT社の重役たちは飲まれていくのをヒシヒシと感じた。
 間髪入れずに、そしてシームレスに第二部『新規事業のサービスと仕組み』に入っていく。まるで、第二部が始まったと気づかせないほどの自然な流れは芸術の域に達している。つい聞き入ってしまい、ページを送るのを忘れてしまいそうだ。
 それは、HMT社の人たちも同じようで、何度も頷きながらプレゼンテーションに食い入る。中には感嘆の声を上げる人もちらほらと居た。
 大きな身振り手振りで話す片瀬部長は、背後から差すモニターの光も相まって催眠術師のような、大魔道士のようなそんなオーラを放っていたように見える。
 パッと視界が眩しく光る。照明が点くと一同が強い瞬きを繰り返した。

「それでは、今から二〇分の休憩を取らせていただきます。休憩後は当社とHMTの具体的なアライアンスについてのご提案をさせていただきます」

 皆が三々五々、話しをしたり、会議室を出ていったりする。「いい感じにすすんでいる。これはスムーズに契約まで行くのではないだろうか」というのが僕の感想だった。

「部長、いい感じですね」
「ああ、資料もわかりやすいし反応もいいな。後半戦も気合を入れて頼むぞ」
「はい!」

 このままプレゼンテーションがいい流れで終わってくれればよいのだが、問題は質疑応答だろう。質疑応答は提案内容に関しての質問はもちろんあるのだが、それ以外に会社の業績の事や個人に関することもよく聞かれるのは、僕もこの一年で経験している。
 しかも、厄介なことに提案内容より重視されることが多々あるのだ。これもコンプライアンスが騒がれる()()というやつなのだろう。
 休憩時間の二〇分はあっという間に過ぎ、ついに運命の後半戦が始まる。
 第三部『HMT社との具体的なアライアンス』について、先方は文句はないだろう。すでにある稼働していない資産を利用して利益が生まれるわけだ。毎日家の庭に大金が放り込まれるような、()しかない条件だのだから。
 先方の顔は明るい表情をしている。脳内には庭に放り込まれた大金で何を買おうか考えている。そんな表情が並んでいた。ただ一人を除いて。

「これを以て、当社からのご提案とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました」

 HMT社の面々から拍手が起こった。僕は心の中でガッツポーズを繰り返す。あと少しだ。質疑応答を乗り越えれば決まる。逸る気持ちを押さえきれない僕の口元は緩んでいることだろう。

「それでは最後に質疑応答の時間を取ります。質問がある方は挙手をおねがいします」

 新規事業のサービスに関することの質問は完璧に片瀬部長が応える。AI技術に関する質問にも、システム開発部の凄腕エンジニアが早口で説明する。
 数々の質問が飛び交うが、その全てを見事に連携して撃ち落としていった。
 そして最後の質問者が資料に目を通しながら手を挙げる。

「ハイパー・マイクロ・テック法務部の相澤です」

 その瞬間、時間が止まったように感じた。相澤という名前が、過去の記憶を一気に呼び起こす。
 自転車を持っていなかった夏の日。理不尽な自由研究の評価。そして応援旗の一件。
 全て、相澤という名前と繋がっている。運命の悪い冗談としか思えない巡り合わせに、僕は苦い笑みを浮かべた。出席番号一番の相澤が、また僕の前に立ちはだかる。
 僕をのけ者にしたのも、既製品で作った自由研究で僕から優秀賞を横取りしたのも、僕が応援旗の作成をしなきゃならなくなったのも、全部相澤だ。
 そして今日も、ずっと出席番号一番だったであろう相澤という法務部の男が邪魔をする。

「先日、当社に匿名でリークがありました御社の片瀬部長が女子高生と写っている複数の画像についてです」
「……」
「事前に報告いただいていた内容としては、御社の社員がいたずらに画像を流出させた行為で厳重に処分も下された、ということですが、これに間違いはございませんか?」
「はい、その通りでございます」
「わかりました。しかし、この件で当社が問題視しているところは、片瀬部長の画像の真偽でございます。片瀬部長のご年齢からすると、御息女ではないことも推測されますが」
「はい、私に娘はいません」
「当社の合成写真判定システムにかけたところ、合成写真ではないことも判明しております。当社の大元があるアメリカは小児性愛やその類に厳しいのですよ。片瀬部長」

 マズイ、この淡々と話していく法務部特有の()()は、話術や誤魔化しで同行なる問題じゃない。

「す、すいません。ちょっと、一旦話を止めてもらっていいですか」
「ゆ、結城くん、君は突然なにを」
「いいから、このまま少し待ってください。お願いします」
 
 僕は席を立ち照明を落とすと、小走りでトイレへ向かう。
 予想していた。この状況を。準備していた。この対応を。
 トイレの洗面台と小便器を何往復したか、もう数えられないほどしている。
 怖い。膝が震える。手が、唇が。

 ――「答えをださない結城くん。君のような人はコンサルタントには向かない」
 ――「沈黙! それが答えなんだ。じゃないからな」
 ――「友達と国営公園、楽しかった?」
 ――「空中浮遊粉塵(くうちゅうふゆうふんじん)ってかっこよくね?」
 ――「いや、絶対に笑ってたね。俺確実に見たから」
 ――「ぜひ我らがサークルに入りたまえ」
 ――「結城くん、君の事を一旦、僕が預かろうか。課長、それでいいかい?」
 ――「()らしむべし()らしむべからずって事だよ」
 ――「結城……くん。何が望みだ」
 ――「目上の人にビール注ぐ時は、左手を添えるんだぞ」

 まるで走馬灯のように色々な声が聞こえると、恐怖が鎮まった。

「よし! 勝負だ相澤」

 勢いよく扉を開く音は会議室中に響き渡ると、皆の注目を浴びる。
 
「もっと静かに入り……誰だ君は!」

 暗い部屋に煌々と輝く巨大なモニターの光は、扉を開け仁王立ちする僕を照らすスポットライトとなる。

「女子高生? なぜ、女子高生が入ってくるんだ」
「おい、片瀬部長。これは、どういうことだ」

 優希の姿をした僕は、ツカツカとモニターの前に進んで行きプレゼン資料を次のページに送る。
 モニターには、女子高生と写る片瀬部長の画像が複数枚、貼り付けてある。
 モニターと僕を交互に見る一同が、唖然としている中、僕はウィッグに手を掛けて勢いよく取り外した。

「この女子高生は、この新規事業チームの結城誠也。僕です」
「……」
「相澤さん、この画像は合成写真ではないと判明したのですよね?」
「は、はい。その通りです」
「次のページを御覧ください。これは、御社が特許出願している顔認証AIで判定した、女子高生の顔と、僕の顔です。『同一人物』と判定されております」
「なんで、そんな格好をしているんですか?」
「上司が女子高生ではなく、コスプレをした部下と写真を撮っているという事実だけで十分だとは思いますが、説明しましょうか?」
「いえ、いや、参考にお聞かせください」
「僕はコミケという世界最大規模の同人誌即売会に参加するサークルに所属しています。女子高生のコスプレは販促の一環で、勿論、法に触れるものではありません。これらの画像は、その会場に来ていただいた片瀬部長と写真を撮ったものです」
「説明ありがとうございます。この件は承知しました。それならば問題ございません」

 こうして、HMT社への最終提案は終了した。
 前代未聞の破天荒なプレゼンテーションを先方がどう受け取るかわからないが、僕はやるべきことをやった。HMT社の重役たちを見送った後の常務を含む新規事業チームが、目を白黒させながら唖然としている様に清々しい気持ちすら覚えた。
 この後、再度ウィッグを着けてオフィスに連れて行かれたのは、僕の人生で消したい記憶第一位となるが、この会社の後世に語り継がれる伝説にもなるだろう。
 

「あっはっはっは。爽快爽快! 優希ちゃん、キミは最高なヤツだな」
「笑い事じゃないよ姐御。必死だったし、大ピンチだったし」
「優希ちゃんを題材に漫画を描いてもいいかい?」
「待って無精髭。私が小説にする」
「ショートカット! 盗作するつもりか」
「どこが盗作だ! このモジャ男」

 姐御のガレージに集まった僕たち『元さぶんけん』は夏のコミケに向けて、作品の壁打ち会をしていた。話も一段落したところで、今回の僕の話を肴に酒盛りをしているところだ。

「優希ちゃん、で、その会社とは契約できたの?」
「来週あたりに、返答が来るはず。もうドキドキだよ。もしダメだったら僕のせいだ」
「大丈夫、優希ちゃんはよくやったよ」
「いやー、波乱万丈な社会人一年生だったな。退屈しなくていいじゃないか」
「よくないよ。僕は姐御と違って平穏な毎日が暮らしたいんだ」
「時に優希ちゃん、中学の同級生の家に泊まった時は何もなかったのかい?」
「何も無いって、無精髭先輩はすぐそういう話をする」
「嘘だね。男と女がひとつ屋根の下だぞ。なにもないわけが無いじゃないか」
「いや、優希ちゃんは部長とデキてるんだから、女に興味はないわ」
「ちょっと、ショートカット先輩もやめてってば」
「今年の夏は、私が男装してBLで行くかぁ」
「いい! 姐御! 私の発酵した脳みそから創作意欲が湧いてくるわ」
「俺も男同士の絡みを描いてみたいと思っていたところだ」
「やだよ! 僕は絶対やだ! 断固反対する」
「あはは。キミは『()らしむべし()らしむべからず』じゃなくなったな」
「意味わからないって」
 
 今年もビックサイトに熱い夏が来そうだ。

  <23卒同期チャンネル>
 ――尾藤枇杷:大地、会社に退職届だしたって
 ――秋村彩音:え、そうなの?
 ――尾藤枇杷:うん。個別に聞いた
 ――江藤瑛祐:そらそうか、あんな事してのうのうと会社にはおられへんよな
 ――同期I:送別会ができるような辞め方じゃないね
 ――同期G:うん。なんか残念だけど、しょうがないね
 ――同期H:結城くんは知ってる?
 ――結城誠也:同じチームだからね。会議で知ったよ。

 堂島が退職した。彼のせいで片瀬部長を始めチームは迷惑を被ったが、僕は複雑な心境だった。堂島は僕だ。僕も一歩間違えば彼と同じ道を辿っていただろう。現に途中まで片瀬部長を脅迫していたのは事実。どこが、僕と堂島の分岐点だったのだろうか。

「たしかにな、君と堂島くんは紙一重だったな」
「そうなんです。それを考えると、なんか自己嫌悪に陥っちゃって」
「もう済んだことだ。あまり気にしないことだね」
「HMT社とは、あれからどうですか?」
「ああ、さっき内諾をもらったよ」
「え! 本当ですか」
「ああ、今週末にでも正式に返答があるが、本当に君には助けられたよ」
「あああぁ。よかった! 僕の一世一代の大博打だったんです」
「そりゃそうだろうね。取締役会でも話題になっていたそうだぞ」
「え……それは困ります」
「今回の立役者だからな、昇進も見込めるんじゃないか?」
「ぼ、僕が昇進ですか? ないない」
「とにかく君が味方で良かったよ。もし敵だと考えるとゾッとするね」
「ははは」

 片瀬部長の言った通り、金曜日に正式にHMT社からの返答が届きアライアンス契約が締結されることになった。本当に経済ニュースの各メディアが報じることとなった。もちろん社内は大盛り上がりで祝賀会では社長直々のお言葉も頂戴した。
 二次会でも盛り上がりは加速し、後日聞いた話、僕は陽気なテンションで浴びるように酒を飲んでいたらしい。
 
 もう一つ、問題があった。僕が幼い頃に両親が離婚して以来、一度も会っていなかった父親と月曜日に食事をすることになった。
 それは祝賀会の次の日の夕食時の事、母に仕事で成果を出せたことを報告した。もちろん僕が女子高生のコスプレをしたことは伏せて。
 潤ませながら喜んでくれた母をみると、ヘソのあたりがムズムズと何かが這うような恥ずかしい様な気持ちになったのだが。
 すると、母は立ち上がりレターケースから何十枚もの洋封筒を持ってきた。セロハンテープで貼り合わせてある手紙の束。

「今の誠也だったら読めるんじゃない?」

 そう言って、僕が読まずに破り捨てた父親からの手紙を手渡された。母は僕が破り捨てていた手紙を集め綺麗に貼り合わせて十年以上保管していたくれていたのだった。
 手紙を全部読むのには時間を要したけど、父親がいつも僕のことを想っていてくれたのは伝わった。それでも普段なら会う気にはならなかったはずなのに、激動の数週間で感情が高ぶっていた勢いもあってか、月曜日に食事をする約束をしてしまったのだ。
 
 月曜日、HMT社との契約のための資料作りに没頭していたのは、この日の夜に父親がに会うということを頭の中から追い出したかったからなのだが、没頭すればするほど時間は早くすぎるもので、あっという間に約束の時間が近づいてくる。
 最後にあったのは七歳の時、一七年振りに会うというか、ほぼ初対面と言えるような初老の男性に会って一体何を話せばよいのだろうか。何度も頭の中でシミュレーションする。
 まず、相手の一言目は「大きくなったな」これだ。
 僕は言う「そりゃ十七年も経てばね」うん。そうなるな。
「仕事だったのか?」当たり前だろ平日なんだから
「平日だからね」まあ、そう答えるよな。
 次は……「母さんは元気か?」かなぁ。
 「うん」しか答えられないだろ。
 「父さんって呼んでくれないか?」いやいや、これはドラマの観過ぎか。

 待ち合わせ場所の和食料理の店へ行くと、父親らしき男が入口で声を掛けてきた。
 店内に入り、半個室のテーブル席に向かい合って座る。
 父親らしき男は、暖かいおしぼりで両手を包みながら店員に瓶ビールを頼む。僕は目を逸らしていたが、ちらっと男の顔を見る。僕と同じ顔じゃないか。母とは顔が似ていないから父親似だろうとは思ってたけど、ここまで似るものか? 遺伝子の神秘を感じざるを得ない。
 母はこの男と同じ顔をした僕のことを、どんな目で観ていたのだろう。離婚したってことは、一緒にいられないということだろう。一緒にいたくない男と同じ顔をした僕を毎朝毎晩、見なければいけないって、どんな気持ちなんだろう。
 男は運ばれてきた瓶ビールを僕に注ぐと、自分のグラスに手酌をする。よかった。
 瓶ビールを頼んだ時点で、僕がこの男に酌をしないといけないのかと思うと、少し嫌な気持ちになっていたから。
 男は乾杯すらせずに、グラスに注いだビールを一気に飲み干すし、僕の顔をまじまじと見つめる。
 来るぞ。「大きく……なったな」が来るぞ。しかし、それは予想外の一言目から始まった。

「かーっ、ビールってのは暑くても寒くてもうめぇな!」

 予想外の第一声に、頭の中で練習していた返答が全て吹き飛ぶ。目の前の男は、手紙から想像していた父親像とは全く違っていた。
 僕はなんて返答すればいいんだろう。

「そりゃ十七年も経てばね」
「……? お前、ひょうきんな男に育ったな。はははは」
 
 一挙手一投足が、いちいち陽気なこの男との食事はあっという間に終わった。
「またな! 暇な時はLINEしろよ」そう言ってタクシーに乗り込む男を見送る。おとなになって初めて会ったこの男を、父親と呼べる日はまだまだ先になりそうな事だけはわかった。

「お父さんとの食事、どうだった?」
「お母さんが離婚したのは正解だったって事は理解した」
「あはは。そうでしょう、変なのよ。あの人」

 翌週、無事HMT社との契約が締結した。僕は参加しなかったけど、仰々しく調印式まで行って各メディアも取材に来ていたとのこと。僕が一端を担ったこのプロジェクトは予想以上に大きなものだったのだと実感する。
 このアライアンスの陰には女子高生をした新卒社員がいたとは、露程も思わないだろう。そう思うと笑いが込み上げてきた。

「おまたせ。何笑ってるんだ、結城くん」
「部長、お疲れ様です。HMTとのアライアンスのニュースを見てたら、プレゼンの時の事を思い出しちゃって」
「あはははは。あれは傑作だったな。あれが原因でプロジェクトがポシャってたら」

 ゾッとする。

「春から片瀬部長は事業部長ですね」
「ああ、事業部長ってのはかなり責任があるから、ちょっとまだわからないけどな」
「へぇ、そうなんですね」
「あ、オフレコだが、君の課長昇進の内示はそろそろ出るはずだぞ」
「え? オフレコなのに言っちゃっていいんですか?」
「何言ってるんだ。俺達にはもっとオフレコな話があるのに、こんな人事くらい大した事ないだろ」
「でも、女子高生課長とか言われるんだろうな」
「ははは。でも、俺の課長昇進の最年少記録を二年も塗り替えやがったな」
「片瀬部長のお陰です」
「いや、やっぱり新卒研修の時の俺の見る目は確かだったと実感したよ」

 三月末、社員総会が行われた。二〇〇〇人を超える社員が一堂に会する景色は圧巻だったと同時に、自分が小さな歯車なんだと思い知らされる。僕が所属する事業部の話はわかるが、他の事業部の話はチンプンカンプンだった。コンサルティングファームのコンサルタントたるもの、もっと精進しなきゃなと思っていったのは最初の二〇分。あとは眠気との戦いだ。
 その眠気を覚ましてくれるのが、表彰式。多くの猛者たちの名前が読み上げられていく。
 
「二〇二四年度、社長賞……コンサルティング事業部、第二部、部長。片瀬孝征」

 コンサルタント事業部の皆が立ち上がり、拍手し、沸き立ち、叫ぶ。
 はやり片瀬部長だ。満場一致のMVPだろう。ステージに小さく見える片瀬部長が表彰されている姿を目に焼き付けた。いつか、僕があそこに登ってやろうという小さな炎が胸に灯った。
 この日が人生最良の日だと感じだ。今思えば、あんなに憎んでいた人が。誰にも言えないが、死ねばいいとすら思っていたあの人が、今僕の視界の中で輝いて見える。
 この会社に入ってよかった。コミケに参加してよかった。応援旗を作ってよかった。自由研究に没頭してよかった。自転車を持ってなくてよかった。
 全てはここに繋がっていたのだから。


「で?」
「ん?」
「で、なんで結城は社員総会とやらの二次会に行かずに私と飲んでるの?」
「いや、最近社内の飲みが多すぎてさ、飽きちゃって。宗像さん忙しかった?」
「それは嫌味? 駆け出しのアーティストが忙しい訳ないでしょ」
「あとね、お礼を言おうと思って」
「お礼? お礼ってなに?」
「『滴る血』と『ウンコ』を紹介してくれたから」

 意味不明な言葉に、宗像さんは目を丸くする。

「はあ? ほんと、結城って変なヤツだよね」
「とにかく、宗像さんは恩人なんだ。ありがとう」

 この「ありがとう」には、応援旗の一件から始まった全ての出来事への感謝が込められていた。
 
「そう。明日、休みなんでしょ? 泊まってく?」
「う、うん」

 ――結城:部長、どういうことですか?
 ――結城:部長、返信ください
 ――結城:片瀬部長
 ――結城:おい、変態!
 ――片瀬部長:ごめん、バタバタしてて、また連絡する

 片瀬部長は三月末日を以て、退職をした。てっきり新規事業の事業部長になると思っていたのに。これから一緒にこの事業部を大きく成長させられると思っていたのに。
 僕の心は、裏切られた気持ちが溢れていた。

 ちょっと寒いけど春は近づいていると確信できるのは、公園にある桜の蕾の膨らみ具合を見上げているからだろう。毎朝の散歩で、日々、少しずつ暖かくなっていく季節を感じる。

「もうコートはクリーニングに出してもいい?」
「うん。もう流石にコートは着ないからお願い」
「誠也、忙しいんでしょ? 朝ご飯はお母さんが作ろうか?」
「いや、最近、料理にハマってるんだ。僕に作らせてよ」
「そう、あなたの負担じゃなければ、とってもうれしいけど」
「今年のおせち料理作りは手伝えるようになってると思うよ」
「それは心強いわね」
「じゃぁ、僕はもう出るね。行ってきます」
  
 僕は事業部に昇格した『AIソリューション事業部』で、日々業務に精を出している。
 片瀬部長の置き土産、HMT社とのアライアンス事業は無事スタートし、今月から少しずつHMT社のサーバへの移管が始まっている。

 ――無精髭:みんな。重大発表だ。無精髭邸に集合だ!今日だ!
 ――ショートカット:やだ
 ――姉御:やだ
 ――優希:やだ
 ――無精髭:みんな忙しい?
 ――ショートカット:空いてるけど、無精髭邸は汚いからやだ
 ――無精髭:じゃ、いつもの居酒屋で

「皆さん、ご機嫌いかがでしょうか?」
「なんだ、重大発表って」
「フッフッフッ。なんと俺こと無精髭」
「私の原作で、連載されることになったのよ」
「貴様、ショートカットなぜ先に言うんだ!」
「いいじゃない。LINEで報告してもいいレベルよ」
「言わせてくれよぉ」

 僕のアドバイスを聞いてから、無精髭は何本もプロットを作っていた。そして十本目のプロットを書き終えた時に悟ったらしい。「自分には物語を作る才能が無い」ということに。
 そこで、ショートカット原作で漫画を書いたところ、一発で連載が決まったらしい。しかも、大手少年誌だとか。

「おおお。これはめでたいぞ!」
「珍しいね。姐御がそんなに人のことで喜ぶなんて」
「何を言っている、当たり前じゃないか」
「おおお、姐御。俺の成功を喜んでくれるのか」
「ちがうぞ、お前が有名になったらコミケの売上が上がるじゃないか!」
「ぐぐぐ、金の亡者め」
「無精髭先輩、おめでとう! やっとデビューだね」
「ありがとう優希ちゃんだけだ」
「売上あがったら、コスチュームの予算あげてくれるよね?」
「もちろんだ」
「やった! 頑張ってね! 無精髭先輩」
「お前も金か!」

 いつも騒がしい『元さぶんけん』も昔から変わらないようで時と共に変わっていく。いつかはこのサークルも解散をすることになるんだろうな。

「ねぇ、姐御『元さぶんけん』っていつまで続くんだろうね」
「ん? 言ってなかったか? 今年の夏のコミケで解散するぞ?」
「えー!」
 
 衝撃的な解散宣言の真相は、今年の夏に明らかになる。

 今年の新卒社員の配属が決まった日、僕は少し早く出社する。
 きっと今日もアポイントで埋まっているはずだ。僕がパソコンを起動するとAIアシスタントが立ち上がる。

 <AIアシスタント>
 ――結城さん、今日の予定です。
 ――13:00【既存】㈱スターコーポレーション飯塚様MTG
 ――14:30【新規】カクヨグループ㈱オンライン商談
 ――15:30【新規】ベータ㈱オンライン商談
 ――16:00【社内】新卒研修
 ――17:30【新規】オヤ企画㈱オンライン商談
 ――ToDoの進捗が遅れています。江藤さんのリソースが空いていますので
 ――依頼するならばお早めにご指示ください

 今日も、AIアシスタントさんは絶好調だ。

「結城くん、俺にタスク振る気やろ? AIアシスタントさんが言うとったで」
「あはは。根回し機能は正常に動いてるみたいだね」
「AIアシスタントさんのせいでサボられへんわ、不便な時代やな」
「僕のタスクリストがあるから、できるやつから片付けといてくれると助かる」
「はいはい。まかしとき。売れっ子はお外に行ってらっしゃい」
「うん。行ってきます」

 古巣に来たような錯覚をしてしまうスターコーポレーションとの付き合いは、より良好となっている。「オンラインミーティングでいい」と言われてもここだけは足を運びたいクライアントで、最近ではお茶を飲みに来ているだけの人。なんて言われている。打ち解けたようで心地よい。定例の打ち合わせを終えると、急いでオフィスに戻りオンライン商談の連続。
 
「結城くん、タスクやっといたで! 今から研修やろ。頑張ってな」
「うん。ありがとう。助かる」

 去年まで片瀬部長がやっていた、新卒研修の講師は今年、僕が担当することになった。正直時間がないので断ろうとも思ったが、ふと去年の新卒研修の事を思い出すと引き受けてしまったんだ。

 「我々コンサルタントは常にクライアントの要望に応えないといけない。さて、ここにクライアントが課題であると認識している『A』がある。しかし、本当の課題は『B』だ。この時どういうアプローチをするべきだろうか」
 
 僕は皆に視線を配ると、笑顔で問いかける。
 
「『A』の課題を解決する提案をするのが正しい、という人は手を挙げて」
 
 だれも手を挙げないか。
 
「では『B』の課題解決を解決する提案をするのが正しい、という人は手を挙げて」
 
 予想通り皆が挙手をする。と思ったら一人手を上げていないヤツがいるな。

「よし、そう。我々はこういう時、クリティカルな『B』の課題を解決する提案する。これがコンサルティングファームの役割なんだ」
 
「ところで……どちらにも手を挙げなかった君。えーと、森原くんか」

「あ、はい」
 
「答えをださない森原くん。君のような人はコンサルタントには向かない」
 
 一斉に森原を見る新卒社員たち
 
「すみません、母からLINEが来てまして返信してました」
「……そうか。研修中はスマホを使わないように」

 片瀬部長、今年の新卒は不作のようです。
 
 片瀬部長、あなたが急に会社を去ってから一ヶ月が経ちました。
 デスクで資料を作り、ふと顔を上げると近くに部長がいるようで、やっぱりいない事を確信してしまうと、心にポッカリと穴が空いたような寂しさを感じます。
 片瀬部長、『AIソリューション事業部』は目標以上の成果を出しています。問い合わせが殺到して、とても商談が間に合いません。もし、部長がいらっしゃったらブルドーザーのようにどんどん捌いていくのでしょうね。
 片瀬部長、例の居酒屋の女将さんが寂しがっていました。僕一人で行くと、いつも「あら、片瀬くんと待ち合わせ?」と聞いてきます。結局、僕の一人飲みをして会計をする時に、どこか寂しいそうな顔をしています。
 片瀬部長、今年のコミケはいらっしゃいますか? 最近あたらしいウィッグと制服を買ったので、ちょっとお嬢様風になったと思います。多分、片瀬部長好みの女子高生です。

 
 ――片瀬部長:返信遅くなってすまない。新しい職場でバタバタしてて
 ――結城誠也:お元気にしてらっしゃいますか?
 ――片瀬部長:ああ、忙しい毎日だけど元気にやってるよ
 ――結城誠也:落ち着いたら、一杯やりましょう
 ――片瀬部長:しばらく飲みには行けないな。あ、今週日曜日の昼空いてるか?
 

「ゴメンな、こんな場所で」
「いえ、僕公園好きなんで大丈夫です」
「そっか。散歩が趣味だもんな」
「なんで、急に会社辞めちゃったんですか?」
「彼女のお父さんの病気が随分悪くてな、花嫁姿を見せたいって入籍したんだ」
「そうなんですね。おめでとうございます」
「お義父さんの経営している会社の後継者がいなくてね、小さい会社だけど俺が継ぐことになったんだ。結婚式の準備やら、新しい職場やらでバタバタしてるんだ」
「それなら、そうと言ってくれればよかったのに。急に辞めるなんてひどいですよ」
「はは。すまんすまん。俺も色々悩んでたんだ。まぁ、結城くんもいるし、新規事業は大丈夫だろう」
「買いかぶりすぎですって」
「そういや、課長昇進を辞退したって聞いたぞ」
「はい。まだ現場で学びたいことがあるので」
「相変わらず変なヤツだな君は。もったいない」

 しばらく、公園のベンチに座って、無言で缶コーヒーを飲む。片瀬部長は多分、この一年の事を思い出しているんだろうな。わかる気がする。僕もそうだから。長いようで短いような一年間だったが、片瀬部長に出会えたことが僕の人生にとって一番の転機になったはずだろう。

「あ、そうだ。新しい名刺渡しておくよ」

春の陽気に照らされた名刺が、片瀬部長の手から差し出される。

「はい。ありがとうございます……え? 名字」

目を疑った。そこには見慣れない、いや、あまりにも見覚えのある名字が刻まれていた。

「ああ、婿入りしたから名字が変わったんだ」
 

「あいうえ……?」
「そう。相上孝征だ。よろしくな」

 片瀬部長の笑顔には、いつもの温かさと共に、何かしらの運命のいたずらを楽しむような光が宿っていた。

 全ては繋がっていた。
 ただ、それは誰かに仕組まれたものではなく、人生という不思議な物語が紡ぎ出した、完璧な結末だったのかもしれない。
 
<了>