ほぼ丸一日が検査に費やされた。血液検査と尿検査の結果、私に打たれたシリンジの中身は麻酔成分だったようだ。視神経にも副作用が及んで一時的に視機能が失われたようだが、入院している間に元に戻っていた。左腕は肘ロック機構が外れて正反対に折れていたものの、自分で直せる範囲の故障だった。
 弐ノ宮さんの方からは交感神経や心機能を亢進させる成分が検出されたが、これと言って特定の薬剤には絞られず、水に溶かした混ぜ物だったのではないかと教えられた。過呼吸になったのは薬の影響と心理的不安の両方があるだろう。
 病衣に着替える際、ポケットに手帳とペンが入っていたことを思い出し、立ち会っていた軍人に頼んで鑑識に回してもらった結果、指紋は地下放水路の遺体と、筆跡は玖瀬祈の日記のものと一致した。遺体そのものも玖瀬祈であると確認され、失踪事件は殺人事件に名を変えて再捜査が始められた。
 解剖もセンターで行なわれたものの、死因はこれと言って特定できていなかった。体内から薬物の成分が検出されたが致死量ではなく、便宜上、心不全としか書きようがなかったと七村室長から報告を受けた。
 犯人の方はと言えば、大男が床に昏倒している状態で確保され、現在は病院で治療中らしい。意識が戻り次第、取調べが始まるそうだ。
 地下放水路の方からも指紋や毛髪が採取され鑑定にかけられたが、此方はこれと言って有力な手掛かりが出てこなかった。浮浪者からも聞き込みが開始されたが協力的な姿勢は得られない。彼らは金品を受け取る代わりに用心棒のような役割を果たしており、あの地下を守っているらしかった。
 三上さんから地下の写真を見せてもらった。遺体が置かれている部屋以外にも、寝泊まりしている痕跡や、メーカーや年代がバラバラな機械を寄せ集めた簡易の化学実験室が撮影されていた。グローブボックスや蒸留装置、冷凍庫、発電機などなかなか本格的な内容であり、最近カタログで見たような最新バージョンまで製品もあった。何を作っていたにせよ、資金源だろうと三上さんは言った。
 玖瀬祈の遺体が見つかったことにより、彼女と最後に接触した人間から順番に重要参考人が絞られていった。日記の中で名前が挙がっていた八重樫藍や士師も聴取の対象となり、捜査員の張込みの対象となったようだ。
 玖瀬祈のポケットから回収した手帳は彼女の学生手帳であり、普段ならスクールバッグに入れているところを、わざわざペンと一緒に持ち出したらしい。彼女が住宅街で攫われてからあの暗い地下室で息絶えるまでの経緯が震える筆致で記されていた。その中で彼女は自分のこれまでの行動を後悔していなかったし、寧ろ自分の正当性を信じ鼓舞し続けていた――八重樫藍に費やした十七年間を台無しにしないために、たったひとりで。
 私が大男のこめかみに叩き込んだ一発は誰のためだったのだろうか。入院してようやく安全になったのを実感し、そんなことをぼんやり考える時間があった。自分の身を守るためだったし、結果的に弐ノ宮さんを助けることになったが、私は確実に脳裏で生前の玖瀬祈を思い出していた。かと言って玖瀬祈のためと言うのはおこがましい気もした。あの時の私は今までに無いほど単純な思考に支配されており、前時代的で、未熟で、非抑制的だった――人並みに表現するなら、怒りが爆発していた。今までこんな感情に支配されたことはなかったので、それが本当に花火のように、拳銃に込められた弾丸のように、一瞬でエネルギーを漲らせ、波のように引いていく感覚が、今思い返しても我が事のようには思えなかった。
「何とも無いですか?」
 玄関を出ると弐ノ宮さんが立っていた。検査入院に一日、職場から言い渡された休暇に一日費やしたので三日ぶりに彼の顔を見たが、すっかり元気そうだ。
 七村室長からはもっと休んで良いと言われたが、玖瀬祈の遺体解剖の結果を聞くと、大人しく家で過ごすのは難しかった。事件当事者になってしまったのでもう玖瀬祈の解剖には関われないが、溜まってしまっている仕事を同僚たちに負担させ続けるわけにもいかない。そもそも私がこうなったのは自分から旧赤月区に行きたいと言い出したことが原因でもあった。
「弐ノ宮さんこそ大丈夫ですか? 私は平気なんですけど……私のせいで弐ノ宮さんに迷惑を掛けてしまったと言いますか……」
 頭を下げると、彼は慌てて手を横に振った。
「俺こそ頼りなくて申し訳ないです。元はと言えば悪いのは向こうですからね?」
 そう言われてしまうと、他に否定する余地がない
 ふたりで地下駐車場に下り、公用車に乗ってマンションを出た。遊園地に放置していた車を回収してそのまま乗っているのか、別の公用車を手配しているのかは不明だが、車内に置いてきたタブレットは入院中に返却された。
 弐ノ宮さんは私が大男をぶん殴ったことについて何も言わないし、私も、彼が大男に向かって発砲したことを少しも触れない。必死になった人間がどんなことをするかは、私なんかより荒事に接することの多い弐ノ宮さんの方がよく知っているだろう。しかしあの瞬間が脳裏にふと思い浮かんでは、あんな攻撃性が私の中に眠っていたのだなと恐怖と感心のないまぜになった感情が込み上げることがあった。
 センターに出勤すると、午前中は道行く人に見られたり声を掛けられたりしたが、時間が経過するとそれも減っていった。事件の詳細について根掘り葉掘り聞こうとするのは六部さんくらいで、それも周囲に諌められて渋々引き下げられた。少しずつ日常が戻ってきて、地下放水路に居たことも、遺体を見つけたことも、人を殴り倒したことも、全て夢だったようにさえ思えてくる。
 私を現実に引き戻したのは分室に立ち寄った三上さんで、大男が意識を回復したから供述と擦り合わせたいと申し出があった。同じことしか話せないと一度は断ったものの、それで良いと念押しされる。
 結局、私はこれまで数回繰り返した内容を、分室のソファに腰掛けた三上さんに向かって懲りずに復唱していた。三上さんは黙って俯きながら聞いており、時々顔を上げて詳細を確認し、また俯いて続きを求める。最後まで聞き終えた三上さんは「そうか……」と空白をはらんで頷いた。
「お前の目が見えなかったのは確かなんだな?」
「確かです。今とは全然見え方が違っています」
「で、こっちの症状も本当?」
 そう言いながら三上さんは弐ノ宮さんを振り返った。
「私にはそう見えました」
「命の危険を感じたのも? 本当に連中はお前や護衛君に敵意があった?」
 随分含みのある嫌な聞き方をするなと思ったが、仕事である以上は仕方ないだろうか。私は不服そうな表情になるのを堪えて首肯する。弐ノ宮さんは表情ひとつ動かさずに三上さんを睥睨していた。
 三上さんは眉間を揉んだり顎を撫でたりして判断に迷うような素振りを見せていたが、やがて私の方をしっかり見て、実はな、と切り出した。
「行方をくらましている五月女氏の捜索について、上から正式に打ち切りの通達が来た」
「打ち切り?」
「捜すなってことだ」
「上からって?」
「上は上だ」
 私と三上さんは一瞬見つめ合い、私の方が先に視線を落としてしまった。フィクションで描かれるような駆け引きが可能性として浮かび上がり、いやまさか、と打ち消していく。ただの医師であったはずの五月女先生がどうしてそんな立場になってしまったのだろう。
 三上さんは胸の内ポケットから一枚の写真を取り出し、ローテーブルの上に置いた。
「この男に見覚えはあるか?」
 写真の解像度は粗くぼやけているものの、三〇代くらいの男が映っていることが分かった。顔立ちを見て何処かで見覚えがあるような気もしたが、何処の誰かと問われると明確な回答が出てこない。
 三上さんは写真の隣に別の写真を並べた。此方は解像度が少し上がったが、背景が灰色に塗りつぶされ、首から下は切られている。加齢の徴候が強く、表情は作り物のように真顔だ。
「五〇年経過させた予測写真だ。こっちは見覚えあるか?」
 そう問われ、確かに見覚えがあると確信が湧いた。もっと暗い場所、もっと重苦しい雰囲気、人間めいてにおいの溢れた場所でこんな顔を見たことがある。地下放水路にいた老人だ。
 三上さんは加工前の写真に指を置いて、
「匿名の垂れ込みで出入りしているのがこの男だという情報が入ってな。誰が垂れ込んだんだか知らんが……旧再生医療センターにも勤めていたらしい。お前らが地下から出て来た所だ」
 旧再生医療センターについては休暇中に軽く調べてみたが、五〇年前の施設ということもあり記録は残っていなかった。公的記録に名称だけ記されていたものの、誰が関わり、どんな研究をしていたかは不明のままだ。
「この男……今じゃこっちの老人だが、櫛原と言うらしい。医師会の名簿からはとっくに名前が削除されていて、あまり記録も残っていない」
「それも垂れ込みですか?」
 三上さんはつまらなそうに頷く。
「五月女の捜査が止められて、代わりにこっちを調べろってことらしいな。膨大な画像データベースから引っ張って来ているだけだから何処のどんな画像かまでは分からんが、ほら、これも見ろ」
 そう言って彼はローテーブルに新たに写真を追加した。三〇代の櫛原を引きで撮ったような写真で、解像度が荒かったのは元が集合写真をアップにしたかららしい。皆が一様に真新しい白衣を着ていた。三上さんは十人程度が集まっているその写真の櫛原を示し、すっと指を動かして別の男を指す。穏やかに微笑む、すっきりした顔立ちの若い男だ。
「見覚えないか?」
「……いいえ」
「本気で言ってるのか?」
 三上さんは呆れたように息をつき、
「じゃあこの名前はどうだ? 士師。似てないか?」
 そんなに念を押されても、私は士師の顔を知らないのだから仕様がない。収容番号十号からほのめかされたこともあったが、彼が私を知る機会があっても、私にはそれが無かったはずだ。首を横に振ると、三上さんの口から大きなため息が出てきた。
「お前、生きている人間に興味が無さすぎだろ。お前の高校の後輩だよ。お前が三年生の時、士師は一年生。一回も見たこと無いのか?」
「無い……と思います」
 我ながら驚きつつ、やはり記憶を探っても思い当たる節は無い。クラスメイトやその関わり、図書室の常連を思い浮かべてみたが一向に心に引っ掛からなかった。
 まあいい、と三上さんが話を続けた。
「問題は同じ名字で似た顔の人間が五〇年以上前の写真に写ってるってことだ。相当濃い血縁かもしれんが、こんなに綺麗に舞台を整えられた犯罪もそうそう無い。五月女は追うな、でも事件は追えと何処かの誰かさんが言ってるらしいな」
 弐ノ宮さんを窺うと、彼は扉の前に立ったまま正面を見据えていた。まるで置物であるかのように気配を消して、ただじっと会話の行方を見守っている。
 三上さんは一度どすんとソファにもたれた後、ローテーブルの上に身を乗り出して挑発するように手招きした。私が仕方なく顔を寄せると、耳打ちするように――だが三人しかいない部屋では無意味だと互いに分かっている――、
「護衛君はどうだ?」
「俺が何ですか?」
 三上さんが弐ノ宮さんを振り返り、弐ノ宮さんも彼を見下ろした。初めから敵意や疑心を隠す気などなかった三上さんは、それでも便宜上体裁を整えていたものの、此処に来ていよいよ取り繕うことも諦めたようだ。足を組み、肩を竦め、堂々とソファにそっくり返った。
「あんたの経歴をずっと洗っているが、特定の時期からずっと遡れなくてね。軍や機密に関わる人間は隠されているもんだが、あんたは隠されているんじゃない、無いんだ。あんた何者なんだ?」
 今にも互いに銃口を向け合うような気迫があり、部屋から逃げてしまおうかとも思ったが、私はこのふたりから逃れられるような立場ではなかった。あの、となるべく穏やかな調子でふたりの間に入った。
「多分、三上さんはずっと弐ノ宮さんのことを疑っているんですけど……この疑心暗鬼って終わります?」
「身の潔白が証明されるまでは終わらんだろ」
「じゃあ、証明の補助ならできます。ちゃんと私たちは命の危機に晒されましたし、そこまで連れて行ったのは私です。その上で私は助けてもらいました。……何か機密を守るために言えないことがあるにしても、職務は全うしていると思うんですけど、どうですか?」
 弐ノ宮さんには私を助けようとする意思があったし、互いに生命の危機を感じている恐怖を認識し合っていた。もし三上さんの疑いが正しいものなら、何処かで職務を放棄し、護衛らしからぬ行動を取っていただろう。私はその点において弐ノ宮さんを信頼していた――例え私に嘘をついていてもだ。
 誰よりも警察官らしく弐ノ宮さんを疑っていた三上さんは、私の言葉が効いたのか、馬鹿馬鹿しく思えてきたのか、言葉を失う。ローテーブルの写真を束にまとめて内ポケットに戻し、私の顔をまじまじと見て、
「毒気を抜かれるとはこのことだな。お前にこんな気持ちにさせられるとは思わなかった」
 そんなことを言って、足早に分室を立ち去っていった。
「なんか、失礼なことを言われたような……」
「感じ悪いっすよね、あの人」
 先程までと打って変わり、弐ノ宮さんは愉快そうな笑みを浮かべている。三上を見送り、丁寧に扉を閉じていた。失礼なことを言われたのは彼も同様だが、あまり気にしていないらしい。私の方を振り向くと、その顔はいつも通りの人懐こそうなものに変わっていた。



 扉をカツカツと爪で叩く音で目を覚ました。浴槽に沈む自分の体を見て、下手をしたら溺れ死んでいたのかもしれないことを悟る。扉の磨りガラスの向こうには飼い猫の影が映っていた。髪は毛先が湿っており、頭は熱っぽい。折角の休日を風呂で寝落ちしてしまうのは勿体無かったが、それだけ疲れていたということだろうか。仕事に戻って一週間、私は時々玖瀬祈の遺体を思い出しながら、解剖の日々を続けていた。
 弐ノ宮さんからは、予定を伝えてくれれば身辺警護つきで出掛けられると言われていたが、そうまでして出掛けたい場所は特に無かった。その場合は弐ノ宮さんではなく別の局員が出動するらしいが、未だに顔を見たことはない。食料の買い出しは仕事の帰りに、それ以外の足りないものは通販で買い足してしまっているが、そんな生活も事件前とあまり変わってはいない。家で大人しく過ごすことが苦にならない人間で良かった、と私は最近考えている。
 風呂に入ったのはほの明るい夕方のはずだが、浴室内も脱衣所も真っ暗になっていた。手探りでゆっくり立ち上がり、右手で体を支えて浴槽から脱出する。髪を洗う予定だったが明日に回そうと思った。長湯のし過ぎで何となく調子が悪い気がする。
 浴室の扉を開けるとチャムが再会を喜んでくるくる回り、濡れた足にまとわりついた。手を伸ばしてバスタオルを取る間も、いちいちそれを追いかけて先回りしようとする。彼にとっては何日も放置されていたようなつもりなのだろう。バスタオルを抱いて暫く撫で回し、戯れてやると、ふとチャムは動きを止めて通路側の扉に顔を向けた。じっと獲物を捕捉したように身構える。
 パリン、と私の耳にもガラスが割れるような音が聞こえた。リビングからだと直感したが、窓が割れたのか、それ以外のガラス製品が割れたのかは分からない。それよりも何故割れたのかが重要だった――誰かいるのだろうか? 扉の向こうからは他に何も聞こえないが、直感を信じるのであれば他人の気配があるような気がしていた。
 チャムが牙を剥き出して威嚇しようとしたので慌てて諌める。洗面台から支給スマホを取り、画面をつけると夜八時を回っていた。音と通知をオフにし、メッセージアプリの起動画面に入ると、リビングの方からはカラカラと窓を開ける音が聞こえてくる。誰かが窓を割り、鍵を開けて入って来たのだ。頭にさっと血が巡って熱くなり、心臓が脈打って肺を潰してしまいそうだった。メッセージ入力欄に震える指で入力し、打ち間違いを直すのももどかしくなる。
 履歴に新規メッセージが入った。
『何か起きてますか? 大丈夫ですか? ニノミヤ』
 普段このアプリでメッセージをやり取りすることは無い。大体の時間は顔を合わせているし、重要なことは電話が掛かってくる。今の状況が何となく彼に伝わっているのだと私は察した。
『部屋のリビングに誰かいるかもしれません』
 返信が来るまでの間、私は屈んでじっとしていた。チャムは私に身を寄せながら、まだ扉の向こうを窺っている。リビングの窓が開いた後は何の音も聞こえてこないが、誰かがいるような気配は続いていた。
 地下放水路で捕まった時とは違い、今の私はあまりに無防備だった。左腕は外したまま洗面所の上に置いてあり、着替えも全て洗濯カゴの中にある。体を水滴が伝ってバスマットに落ち、あるいはチャムの体に落ちて、私はスマホを持ったまま拭うこともせずに身動きを取れずにいた。頭がぼうっとしてくる。マインドパルスだろうか、とぼんやり考えた。
 スマホの画面が動いて、弐ノ宮さんのメッセージが続いた。
『壱ヶ敷さんはどこ?リビング?』
『脱衣所です。猫といます。窓の開く音がしました』
『今部屋に行きます。そのままいて下さい』
 弐ノ宮さんは何処にいるんだろう、部屋に居るのだろうか? もしマインドパルスだったらどうするのだろう? そんなことを思い浮かべたが、今の私には疑問を呈する余裕がない。
 チャムは私を見上げて「どうする?」と言わんばかりの表情をしていた。まるで自分も参戦するとでも言いたげだ。駄目だという意味で首を横に振ると、スマホの画面に髪の毛の水滴が降った。
 やがてガチャガチャと荒っぽい玄関の開閉音がし、走る勢いで脱衣所の前を誰かが横切った。
「治安維持局だ、両手を挙げろ!」
 リビングの扉を破るような音と怒声が同時に響き、誰かが短く悲鳴を上げる。
「そうだ、両手は頭の後ろ!」
 鋭い指示を飛ばしたのを聞いて、確保するべき犯人が居たのだと分かる。誰かが窓を破って侵入していたのだ。
 数秒間の沈黙があり、
「おい……何やってる?」
 低い声で訊ねる様子に異変を感じ、私は扉の向こうを見る。弐ノ宮さんの声には戸惑いと警戒の色がありありと見え、犯人に何か異常があったのだと察知した。バスタオルを巻き、チャムを胸に抱いてそっと廊下に顔を出す。暗い通路に誰かが立っており、その向こうのリビングにももうひとり立っているのが見える。手前の人間は私服に身を包み背を向けているが、シルエットは弐ノ宮さんのものだ。と言うことは、奥に立ってベランダの窓ににじり寄っているのが犯人らしい。
「おい、動くな。止まれ! 撃つぞ!」
 弐ノ宮さんが拳銃を構えたまま警告するが、犯人は止まる様子も見せずにじりじりと窓の向こうへ後退していく。「違う、違うんだ」と犯人が呻くように繰り返した。
「体が……勝手に……」
 犯人の体は窓から入り込んだ風でレースカーテンに包まれ、一瞬見えなくなる。どんどんと窓の向こうへ影が吸い込まれていく。
 夜風を受けて尚、私の頭はぼんやりと熱を持っていた。それが少しずつ強くなり、痛みまで感じ始めるようになると、弐ノ宮さんも拳銃を取り落としてゆっくり前進し始める。犯人は既にベランダの手すりによじ登っており、弐ノ宮さんがこの後どうなるかは目に見えていた。チャムを放り出して弐ノ宮さんの足に飛びつく。片腕とは言えあまり体重差は無いはずだが、それでも弐ノ宮さんの体は前に進もうとしていた。視線だけ見下ろした弐ノ宮さんと目が合い、彼が汗を浮かせているのを見る。
「やめてくれ、助け――」
 ベランダの手すりに仁王立ちになっていた犯人は、その言葉を最後に手すりの下へ姿を消した。掻き消えるような悲鳴が尾を引いて、それも聞こえなくなった頃、弐ノ宮さんの足から力が抜けて膝をつく。床の冷たさが右手から伝わり、頭の熱も冷えていった。
 私は巻いていたバスタオルを引き上げ、弐ノ宮さんと一緒にベランダへ駆け寄り地上を見下ろした。
「……犯人、ベランダから地上へ落下しています」
 いつの間にか取り出した通信機で弐ノ宮さんが報告する。彼は部屋に落ちている拳銃を取り上げ、
「あ、ごめんなさい。スニーカー履いたまま上がっちゃいました」
 足を上げて見せ、私にそんなことを詫びる。
「風邪ひくと悪いので、とりあえず着替えて下さい。すぐに警察も来ますから」
 脱衣所を示され、私はそこに引っ込んだ。ずっと廊下に居たらしいチャムもついてくる。電気をつけ扉を閉めると、一時的だが自分が日常に戻ってきたような心地になる。チャムは何事もなかったかのように毛繕いを始め、時々扉の向こうに耳をそば立てては、見知らぬ隣人に注意を払っていた。
 私は頭の中で、ベランダから飛び出した犯人の声と、弐ノ宮さんにしがみついた時の感覚を何度も繰り返していた。あの瞬間が何十倍にも引き延ばされ、永遠の時間のように解釈され、それでも一瞬だったと否定する。私はあの瞬間に様々な思考を詰め込み、犯人を引き止める言葉や行動もそこに含まれていたものの、結局選んだのは弐ノ宮さんを止める行動だけだった。その時の感覚は、地下放水路で大男を殴った時の一瞬に非常に似ていた――私はとてもまともな思考であの選択をしていたという感覚だ。
 体と頭を拭き、義手を装着するために鏡を見たが、濡れて乱れた髪の下にひどく沈鬱な自分の顔を見つけると、それも何となく躊躇われた。しかし少しでもまともな自分で在ろうとして、手早くハーネスを通しソケットにはめていく。下着をつけ、寝巻きではなく一度脱いでいた私服を着て、拭いたバスタオルは洗濯機に放り込んだ。脱衣所の中に忘れ物がないか確認し、洗濯機の蓋を閉め、化粧水だけつけてから廊下に出る。
 弐ノ宮さんはリビングのドアの前に立っていた。リビングの電気が逆光になって顔に影が落ちている。カーテンは閉まっているが、開けられた穴から風が漏れているらしくふわふわと揺れていた。私が出てきたのを見て、難しい顔で俯いていたのをにこやかな笑顔に切り替える。
「怪我はないですか?」
「平気です。お休みだったのにすみません」
「こういうのって休みとか関係ないですから」
 彼は普段よりも低いところで雑然と髪をまとめ、シャツと細身のスウェットパンツを身に着けていた。恐らく部屋で過ごしていたところで異変を察知し駆けつけたのだろう。イヤホンマイクを普段通り片耳に掛けているが、ハーネスは無くポケットに通信機を突っ込んでいる。先程まで履いていたスニーカーは玄関に揃えて置いてあった。
「まあ、間に合って良かったです。壱ヶ敷さんに信用してもらってるみたいだし、こういう時に仕事しないとなんで」
「来てもらえて助かりました。あと少し遅かったら、殺されていたかもしれないし……」
 犯人の目的はまだ分からないが、あの状況から私が犯人を取り押さえて通報する未来はどうやっても想像できない。私がもう少し早く風呂場で目覚めていても、あるいはもう少し遅く目覚めていても、ろくなことにはならなかっただろう。
「そう言えば弐ノ宮さん、マインドパルスはどうだったんでしょうか? 多分、ありましたよね?」
「そう、その話」
 思い出したように彼は頷いた。
「部屋にいた時、何か妙な感じはして……その時に玖瀬祈さんの手記を思い出したんです」
 手記というのは地下で学生手帳に書き付けていたものだろうか。あの時、内容を聞く前に大男が戻ってきてしまったので、私が確認したのは仕事に復帰してからだった、
 玖瀬祈は自身の体に起きた変化を事細かく記していた。多少のふらつきも、熱も、寒気も、吐き気も、何もかもを丁寧にだ。その中で痛みの描写が増えると、フードの子どもからマインドパルスを受けても影響が無いことを記していた。彼女自身がそのような意図で記したわけではないが、痛みに意識を割かれてマインドパルスの影響が減っていたことは事実だ。
 弐ノ宮さんは自身の素手を差し出し、右手の親指の付け根にひどく爪の食い込んだ痕を見せた。
「最初はこのくらいで体の自由がききました。メッセージのやり取りの辺りですね。ただ犯人がベランダから落ちる頃は、この程度じゃ駄目でしたけど」
 使用者は恐らく犯人と別にいるし、その影響力が距離によるのか、意識の割き方によって程度を変えられるのかは不明だ。
「痛み以外には何かあるでしょうか?」
 私が訊ねると、弐ノ宮さんはうーんと大仰に首を傾いで見せる。
「えーと、何ですかね……呼吸、とか」
 言葉尻を濁して彼は言った。なるほどそれなら痛みと同様に、自分の内面へ意識を向けやすいはずだ。残念ながら私が試すすべは今のところ無いが。
 弐ノ宮さんはあっと声を上げて、廊下の隅に座っているチャムを示した。
「警察が来る前に、何処かに入れて置いた方が良いですよ。逃げちゃいますから」
「そうだった……おいで、チャム」
 チャムは見知らぬ隣人を警戒しているらしくじっと此方を窺っていたが、名前を呼ぶと腕に飛び込んできた。ベッド横のキャリーケースに入れて鍵を閉め、私のことが見えるように椅子の上に置いてやる。中に敷いてあったタオルを整え、その上に陣取って再び隣人を観察し始めた。
 間も無く警察が到着し、聴取と現場検証が行なわれた。知り合いの警察官はいなかったが、治安維持局の方で話が行っているらしく弐ノ宮さんが立ち会っていることについて詳細は聞かれない。
 犯人はベランダから入ったと推定された。ベランダの窓を外から割り、手を入れて鍵を開けて部屋に侵入。使用されたマイナスドライバーをベランダに落とし、カバンやノートPCなどを物色。その最中に弐ノ宮さんが来てベランダから飛び降りたと考えられる。
 盗られたものが無いか確認してみると、職場のIDカードだけが無くなっていた。普段はカバンの中に入れており、職場内でのみ首から提げている。使い道と言えば職場に侵入する以外無い。
 警察は近隣の通報で同時刻に三件の飛び降りがあったと教えてくれた。警察もマインドパルスによる犯行を想定して動くつもりらしい。治安維持局が既にマンション周辺の警戒に出ているらしく、監視カメラも後ほど提出すると言うことだった。
 犯人の顔を確認してほしいと言われ、コートを羽織って一階まで降りた。パトランプが回転して壁の上を走り、夜風に規制線がバタバタと音を鳴らしている。何人もの警察官が出入りして、歓楽街のような騒がしさを見せている。
 警察官に案内された場所は私の部屋がある位置よりも少しずれていて、コンクリートに暗いしみが広がっていた。ブルーシートが掛けられており、ふと脳裏には玖瀬祈の姿が蘇る。
「だいぶ酷い状態ですけど、解剖の先生なら平気ですかね」
 そんな念押しをされて捲られたブルーシートの下には、下半身のひん曲がった男が目を開けて眠っていた。上半身は人の形を保っており、その顔かたちが警察官の持つ懐中電灯によって無遠慮に照らし出される。私はためつすがめつ眺め、死や、強力なライトによる陰影の影響を差し引いて記憶と照合する。
「……隣の部屋の人だと思います。二〇〇八号室の」
 いつ出会ったのかは覚えていないが、お互いに顔を認識している意識はあった。見掛けると「ああ、隣の部屋の人だな」と分かる程度には面識があり、同時に玄関から出てきた時には気まずく挨拶をして、エレベーターを一緒に降りたこともある。その時に私がこのカードを手に持っていた可能性はあるが、自分から見せたことは無い。
「弐ノ宮さんはこの方のこと、ご存知ですか?」
「いや、俺は……」
 全く見当がつかないと言わんばかりに彼は首を振る。彼はこれまで普通の社会人と違う生活時間を送っていたらしいので、見たことがないのは仕方ないかもしれない。
「これ、この男のポケットから」
 そう言って警察官から手渡されたのは、紛失していたIDカードだ。彼は部屋でこれを盗み、ポケットに入れた後、弐ノ宮さんと鉢合わせて飛び降りたのだろうか。
 弐ノ宮さんはIDカードを横から覗いて「ああ、これか」と声を上げた。
「どっかで見たことあると思ったんですけど……壱ヶ敷さんからメッセージが来る前、妙にこれが頭の中に思い浮かんだんです。すごく気になって……どうして思い出したかも分かってなかったんですけど」
 彼の話を聞いて収容番号十号が頭をよぎった。彼はマインドパルスによって他人の想像した内容を知ることができるらしいが、それが可能なら、自分の想像した内容を他人に共有させることも可能では無いだろうか。例えば何かのイメージを相手に共有させ、その後に盗むことや欲することを求めれば、表面的に見られる行動としては――しかし何故、職場のIDカードなのだろうか。
「痴情のもつれとか、怨恨とか、そういう線は無いですか?」
「無いと思います。そこまで知らないので……」
「このカードを使って入れる場所には何が?」
「死亡鑑定書とか、遺体とか、あとは少し高価な医療器具ぐらいです」
 なるほどね、と警察官はメモをしながら、
「では、あなたが巻き込まれているという事件の方は? そっちの方で可能性はありますか?」
「無くは無いと思いますけど……」
「あるとすれば警告ですかね」
 弐ノ宮さんが急に真面目な顔つきでそんなことを言った。
 警告、と私も警察官も言葉を繰り返す。
「住所を知っていて、周りの人間をマインドパルスで動かせる――いつでもお前を襲えるぞ、という警告です。最近、不本意ながら彼らと接触した可能性があるので。部屋の方に盗聴や盗撮の形跡はありましたか?」
「いや……ちょっと待って下さい」
 警察官はそう言って無線で確認したが、私の部屋からも共用廊下からも見つからなかったようだ。これからマンションの管理会社が二〇〇八号室の鍵を開けて中を見せてくれるらしいが、恐らく何も出てこないのでは無いかと思う。
 私と弐ノ宮さんは部屋に戻り、警察官が撤退するまで部屋の隅に待機していた。隣に置いたキャリーケースの中でチャムが目を光らせ、次に家探しされるのは自分ではないかと緊張した面持ちで人々の動きを眺めていた。時々、弐ノ宮さんは通信機でやり取りをし、また警察官とも話して安全面の相談をしていたようだが、万全の待遇を受けるのは難しいらしい。
「今日から三日間、ドローンと監視カメラの人間を増やして警備を強化してくれるらしいですけど、シェルターを使うのは駄目でした」
「シェルターって、戦争が起きた時に使うやつじゃないんですか?」
 窓ガラスの割れた部分に段ボールの切れ端とガムテープを当てながら、弐ノ宮さんは笑って否定した。
「要人警護にも使いますよ。国防省が保有する各地の拠点と言うか……機密レベルが高いのであんまり言えないんですけど」
 私は警察からもデコイのような扱いを受けている一般人だし、そんなものだろうと思う。三上さんあたりは内心で犯人に向かって、とうとう尻尾を出したなと喜んでいるのではないだろうか。
 私は空気が入らないようにガムテープの接着面を押し当てながら、今日はチャムをキャリーケースに入れたまま寝ようと考えた。今晩だけでも窓の鍵がついている自分の部屋と交換するかと弐ノ宮さんに提案されたが、窓を開けて眠るのは夏場によくやることだし、他人の部屋で眠れる自信もない。また誰かがベランダを通って忍び入ることが無いようにベランダ側にもドローンが配置されていた。
 窓の隙間はぴったりと塞がれ、私は内心でその出来に満足感を覚えつつ、
「手術まであと二週間くらいですから、辛抱だと思って過ごします。鍵の交換は明日の朝電話してみますけど、たぶんすぐ来てくれると思いますし……」
「壱ヶ敷さん、直接狙われる可能性が高くなっていると言うことですからね? こっちも最善は尽くしますし、俺はそのために居るわけですけど……壱ヶ敷さん自身が用心を忘れたら、意味が無いですから」
 こんなに他人に心配されることになるとは思いもよらず、治安維持局と言うのは大変な仕事だなと呑気に考える。これまでも自分を気に掛けてくれる他人はそれなりにいたが、実際に行動レベルに移してもらえることはなかなか無い。子どもの頃にもこんな扱いを受けていたら、もう少しましな性格になっていたのだろうかとふと考えた――あるいは当時も同じような人間がいて、単に私がその優しさに気づく余裕を持ち合わせていなかったのかもしれない。



 私の部屋の窓は翌日に修繕され、三日間は平穏な日々が続いた。平穏とは言え私の外出は特に制限され、あらゆる外回りの用事がキャンセル、メーカーとの商談も含めた外部との接触もキャンセル。代理の人間が用意され、私は自宅と職場を往復するだけの数日間を過ごすはめになる。
 収容番号十号との二回目の面会は、私の安全面を考慮してオンライン実施になった。私はカメラ付きの貸出ノートPCを分室の応接用ローテーブルに置き、向こうは十号の居室の窓からカメラを差し込んで、特別収容施設側の刑務官が機器類を操作する。三〇分のアラームがセットされ、互いにヘッドセットは着けずスピーカーをオンにした状態で開始された。
 十号は地下放水路で出会った男たちやパーカーの子どもについて手掛かりを持っていなかったものの、マインドパルス症患者が徒党を組む可能性については前回に引き続き肯定的だった。
「誰だって自分のことは認めてほしいですし、そういう目的でコミュニティは出来上がりますからね。まあ、もし人権を訴えるためなら自分のように大人しくしているのが利口だと思いますけど」
 画面の向こうでも十号は変わらない微笑みを浮かべ、身も蓋も無いことを言う。
「では、人権を訴える以外の可能性は何が思い当たりますか?」
「こんな風に収容されるのを望んでいる……にしては手間をかけ過ぎている気がします。もっと自分たちを貶めてほしいんじゃないかな」
「貶める?」
 そんな自虐的な理由があるだろうかと思ったが、しかしまた実情を鑑みると、妙な納得があるのも事実だ。
 私はもうひとつ確かめたかったこととして士師の名前を挙げた。
「士師さんのことをもう少し教えて頂けませんか? あなたが何処まで知っていて、マインドパルスに関する事件とどんな関りがあるのか……」
 個人的に調べたことは、まず士師が本当に後輩として在籍していたかどうかという点であった。数少ない高校時代からの――そして現在は民間の病院に勤務している友人から確認できたことは、士師という人物が確かに存在していたものの、大した接触を持たなかったと言うことである。卒業後の進路や在籍中のエピソードは特に無い。友人も、此方が名前を出して何とか情報を引き出そうとしたところで卒業アルバムを引っ張り出し、他の後輩たちに声を掛け、ようやくそれだけを思い出してくれた。
 友人づてに一枚だけ集合写真が送られ、赤枠でひとりの人物が強調されていた。なるほど確かにその顔は三上さんが見せてくれた写真とよく似ており、かたや五〇年前の写真、かたや十年前の写真で同じ造形の顔が写っているのは奇妙であった。
 十号は思考のための沈黙を挟んだ後、
「彼にマインドパルスは使えませんよ。ただ彼の家族にいました」
「家族? ご兄弟とか?」
「血の繋がっていない家族だったと思います」
 それは養子や片親という家庭事情があったのだろうか。マインドパルスはマインドパルスそのものの遺伝子と、他の特定の遺伝子の組み合わせで発現されると考えられており、実子でも発現の確率はかなり低い。両親がふたりともマインドパルス症患者で、その子どもには発現していないケースもある。
「彼の血の繋がった家族はご存知ではないですか?」
「さあ、聞いたことありませんね。彼も人の子なら、実の親くらいいると思いますけど」
「親と言うか……それこそ……ドッペルゲンガーぐらい似てて」
 言ってしまってから、一卵性双生児という言葉を思い出した。扉の前で黙って俯いていた弐ノ宮さんが少し顔を上げて、正気を確かめるように私を見ている。
 画面の向こうでは十号が笑いを押し殺すように顔を落としてた。
「非科学的なことを言いますね」
「すみません。でも、それくらいそっくりな人がいなかったか、知りたくて」
 ひとしきり肩を震わせた後、十号は顔を上げ、
「残念ながら僕もあまり知らないんです。あの人も結構な秘密主義で。……でもドッペルゲンガーですか。本当にそうだったら面白いですね」
「たぶん現実的には、かなり遺伝子が近い血縁者だと思うんですが」
「それ以外でドッペルゲンガーを科学的に説明することってできるんですか?」
 十号が初めて純粋な好奇心を示した。
 人は科学という理屈を手にして以降、何でも理論で説明しようとしてきたが、同時にまた理論では説明がつかない存在も求めていた。幽霊、神話、宇宙人。実在しないなら何と見間違えたのか。幻覚、錯覚、鏡像……様々な説が思い浮かぶが、
「視覚に異常が無くて、確かにそれがそこにいるとしたら、それは何でしょう?」
 まるで私の思い浮かべた回答は自分の好奇心を満たさないものであるかのように、十号は初めから突っぱねた。
 では――同じ姿、似たような振る舞いで、同時に別々の肉体を持つ存在。その条件を科学の範囲で満たすとすれば、一卵性双生児以外の原因で、遺伝子が近く、形質も近いことが必須条件になる。私は画面の向こうの十号に向かって、また扉前から見守っている弐ノ宮さんに対して、水瓶の底にへばりついた一滴を落とすかのような心地で首を捻った。
「……クローン、とか」
「クローンですか。確かにそれは都市伝説になるか」
 十号は感心したように頷いて、椅子の背に身をもたせた。ギイ、とパイプ椅子の音が聞こえた。
「でもヒトクローンは実現してませんよ。実験するにも倫理的な問題があるので」
 法律が定められており、細胞を培養する科学者は制定されているガイドラインに則って生命の境界を攻めている。もしもまだ誰も倫理を踏み越えていなければ、人間のクローンはひとりとして生まれていないはずだ。
「顔だけとか、部分的には?」
「心臓や脳を同時に作る必要があるので、難しいですね」
 脳裏には旧再生医療センターという名称がちらついていた。公的機関であれば余計に研究費が厳しく監視され、人道を外れた実験などできるはずもない。可能性だけ考えればハエやマウス、せいぜいがサルを使った基礎研究レベルのクローン実験くらいしか実践できないだろう。それをするにも、人類の発展にとってどんな寄与が可能か題目を設定し、研究費を得るための説得が必要になる。
 十号はドッペルゲンガーのクローン説をいたく気に入った様子だった。面会の始まりに地下放水路で出会った男たちや子どもについて訊ねた時は素っ気なさが声にそのまま表れていたが、士師からこの話題に移ると食いつきが違った。彼の中ではドッペルゲンガーが実在しており、その理屈を説明するのにクローンの存在が最も納得できるらしかった。
「そういうイメージを受け取ったことがあるんですか?」
 まさかと思いながら、しかし全く有り得ないわけでもない可能性について確認してみる。
 十号はいつものひどく落ち着いた笑顔で此方を見つめた。カメラのせいで僅かに視線が合わないはずなのに、何故だかその瞬間はぴったりと見つめ合い、
「五〇年前、他人の頭の中を覗けるなんて誰ができると思いましたか?」
 そんな風に私に質問を返してきた。
 百年以上前は誰も空を飛ぼうとしなかったし、まして月面に立つことなど夢にも思わなかった。火だけがエネルギーであり消毒だけが医療だった。望むと望まざるとに関わらず、いつも誰かが勝手に一歩前へ進めてしまう。発光現象がそうしたように、明日、世界の何処かで誰かが時間旅行を可能にしたとしても、恐らく私は納得してしまうだろう。
 時間旅行――それができたら学生時代に戻って、士師さんのことを確かめられるだろうか。彼の家族、彼が私を知っていた理由、彼の写真。十号との面会を終了させた後も、私はソファに座ったまま会話を反芻していた。
 クローン以外の可能性は無いだろうか? 現在の常識では説明が難しいが、何かひとつの問題をクリアすれば――例えば倫理のような問題を――士師の写真の謎を解明できてしまう可能性。私が生まれる前と学生時代に二度、変わらない容姿で写ることができる理屈。例えばひとつには、彼が自在に容姿を変えられる技術を持っている可能性――高度な整形技術を有しているとか、映画さながらの特殊メイクが可能とか。あるいは彼の姿は写真に写ったまま変わらない可能性――年齢が不変とか。フィクションのようなことを夢想し、所詮フィクションと現実だしなという考えに立ち返る。
「士師さんのことって本当に覚えてないんですか?」
 扉の前で待機し続けながら、弐ノ宮さんが訊ねてくる。
「学校で一年くらい一緒だったんですよね? そういうのって覚えているものじゃ無いんですか?」
「全然喋ったことも無いですし……同級生でもよく知らない人が居たくらいですから」
「でも一年間、毎日同じ場所を通って、同じ建物に入ってたんですよね?」
「学生の一年間なんてあっという間ですよ」
 弐ノ宮さんは心外と言わんばかりに眉根を寄せた。
「一年は長いと思いますよ。それすら忘れるなら、壱ヶ敷さん、手術が終わったら俺のことも忘れそう……」
「いや、それはさすがに……」
 否定はしたものの、弐ノ宮さんは疑わしげに首を振っている。
 一カ月にも満たない期間で何度も命の危機に直面した人間など、忘れたくても忘れられるものでは無いだろう。人生における印象の強さに雲泥の差があるし、正直なところ、三年間見続けたクラスメイトの顔よりも初めて解剖を担当した他人の方がプロフィールを覚えているタイプだと自負している。顔も見たこともない祖父母よりは月に一回だけ自主参加していた外部講師の方が記憶に残っているし、人の印象の残り方なんてそんなものだ――その初解剖した他人も、外部講師も、今どんな縁が続いているかと言えば何も無く、ただ思い出として薄らいでいくだけであったが。
「そんなに言うなら、手術が終わった後も定例会とかしますか?」
 私は半分冗談のような気持ちで言ってみた。
「定例会?」
「……あ、食事会って言った方が適切ですね」
「食事のこと会議みたいに言わないでくださいよ」
 呆れたような失望したような声色で弐ノ宮さんは笑った。 
 私もこれまでに食事のことをそんな風に言い表したことは無かったので、自分の口から何故そんな表現が出てきたのかさっぱり分からず、返す言葉が見つからない。時々会って食事でもしようという程度の意味だ。
 少しずつおかしさが込み上げていたらしく、壁の方を振り向いて低い笑い声を漏らしていた弐ノ宮さんだったが、此方を向き直った時には期待を寄せるような表情をしていた。
「でも、いいんですか? 壱ヶ敷さん、そういうの面倒くさがりそうですけど」
「どうせ家が隣なんですから、食事のタイミングが被る時くらいあるんじゃないんですか?」
「でも俺、家を空けたり夜中に帰って来たりしますよ」
「それはまあ、待ちます」
 私はそう言いながら席を立ち、給湯スペースの電気ケトルのスイッチを入れに行った。面会という一仕事を終え、コーヒーでも飲みたい気持ちになっている。
 弐ノ宮さんは私の返事を聞いて意外そうな声を上げていたが、喜んでいるのか揶揄おうとしているのかは分からない。一瞬だけ振り返って様子を窺うと真面目な顔をして立っていた。
「三上さんに言われたことはどう思ってるんですか?」
 引き出しからコーヒー瓶を取り出していると、彼が不意にそんなことを訊ねてくる。何でしたっけ、と私はマグカップを並べながら問い返した。
「俺の経歴が遡れないって」
 そう言えばそんなことを言われていたっけ、と思い出した。特殊な仕事に就く人間にはよくあるものだし、機密を守る仕事なら必要に迫られる嘘もある。医者にもあるし、解剖医にも多少ある。自分に悪意を持って近づいてくる人間が経歴不明ならまだしも、弐ノ宮さんを疑うのは今更な気がしないでもなかった。
「私、信頼してますよ。弐ノ宮さんのことも治安維持局の皆さんのことも」
「でも俺のこと、怖いでしょ。壱ヶ敷さん、今回の件は何も知らないし」
「今回のこと?」
「五月女先生」
 まあそれは確かに、と内心で得心する。彼の言う通り、五月女先生の捜索を打ち切るよう上層部から警察にストップが掛かったことや、治安維持局が今回の事件に熱心であることを、私は命が狙われていることと同等に怖がるべきなのかもしれない。恐怖は人の防衛本能を高め、予防を講じさせる。自分の身の回りで何が起きているのか疑い、恐怖を抱くからこそ自分の身を守ることができる――だが物事には限度があり、分相応というものがある。私は今回の件に関し、己の身を守るというただ一点において、弐ノ宮さんと治安維持局に全幅の信頼を置くに至っていた。
「弐ノ宮さんのことを全部知らないと信じちゃいけないんですか?」
 コーヒー瓶の蓋を開け、カウンターに置こうとしたところで手から落ちた。床で大きく跳ねた蓋はローテーブルの下を潜り抜け、弐ノ宮さんの足元まで滑っていく。あっと思って駆け寄り、先に床へ手を伸ばしていた弐ノ宮さんから受け取る。
 キッチンでは電気ケトルの内圧が高まる音がしていた。徐々に甲高く、ケトルの注ぎ口から薄い蒸気と共に外へ漏れ出す。その音が私の鼓膜を圧迫し、私の意識を遠く彼方へ押しやった。私の時間間隔が周囲から切り離され、弐ノ宮さんが蓋を取り上げてから私の目を見て渡すまでのその一瞬が、一枚一枚の写真のようにスライスされていく。そのスライス画像の一枚とかつての私が、一瞬間だけ全く重なった。しかしどの時点の私と重なったのかが分からない。直近のことかもしれないし、もっと昔のことかもしれない。これは既視感であったが、不安や焦燥のような興奮に近い感情も伴っていた。――彼のこんな風な光景を、こんなにも無意味な日常の一瞬を、私は見たことがあったのだろうか。
「……お湯、沸きましたよ」
 暫く見つめ合っていたのか、それともほんの一瞬だったのか分からないが、弐ノ宮さんにそう声を掛けられて、私は現在に引き戻された。給湯スペースに戻って蓋を置き直す傍ら、私はまだ、網膜に焼きついた先程の光景の正体を記憶の中に求めている。直接見たものか、遠くから見たものか、何処で、いつ、誰と――符号を合わせるようにひとつひとつ突き合わせ、あれでもないこれでもないと記憶の断片を取り替えていく。
「まあ、信頼を置いてもらえるのは嬉しいので、それは有難く受け取ります。嘘をついてるみたいになってるのは俺も嫌なんで、いつかちゃんと話しますね」
「それは……楽しみにしておきます」
 私は振り向かずに言った。胸中を一種の寂しさに似た感情が去来し、とは言えその正体は掴めないままだ。
 マグカップにコーヒー粉末を落とし、蓋を閉めて電気ケトルからお湯を注ぐと、湯気が立って弱々しい豆の香りが漂ってきた。それが多少なりとも引き鉄になり、私がその時もコーヒーを飲んでいて、あんな風な眼差しの人と目が合っていたことまで思い出した。だがそれは記憶の断片であり、パズルの枠のようなものであり、肝心の核の部分が記憶の底から湧き上がってこない。
 不意に着信音が鳴って、そこまで来ていた記憶は波のように素早く遠ざかった。ローテーブルに置いていた私用スマホのを取り上げると三上さんの名前が表示されており、私と弐ノ宮さんは顔を見合わせる。この時ばかりは特に記憶細胞も刺激されない。
 弐ノ宮さんが「どうぞ」と手で示したので、私は応答ボタンを押して電話に出た。
「もしもし、壱ヶ敷――」
「おい、テレビつけろ!」
 ほとんど怒鳴るような声が飛んできて私は思わず耳からスマホを離す。私に向けて言ったものではなく電話の向こうの部下に言ったもので、部下に続けて何かを指示していた。私が応答していることに気づき、
「悪い。SNSでもニュース配信でも良い、とにかくお前も見ろ」
 三上さんからはよく面倒な依頼の電話が入ってくるものだが、まさかテレビをつけろという注文が飛んでくるとは思わなかった。開きっぱなしだったノートPCの自動スリープを解除しブラウザを立ち上げる。その間に弐ノ宮さんがさっと自分のスマホを此方に差し出したので見てみると、配信サイトのランキングページが開かれており、短時間でアクセス数の伸びた動画が並べられていた。その中に「無題」というタイトルの動画が上がっている。一分程度の内容で、投稿されたのは一時間ほど前だ。私が無言でそのタイトルを指すと、弐ノ宮さんが頷いて再生ボタンを押した。
 ピントの合わない床が映し出された。デニムジーンズと靴が映り込み、座席を撮っているのだと分かる。二人組の女性が画面の外で何やら話しており、その後ろで聞き覚えのある電子音が鳴ったので、モノレールの車内であることが窺えた。カメラの手前に次々と値札の付いたアクセサリーや化粧箱が映され、「可愛い」「やばくない?」と呟きのような会話を交わしている。ふとひとりが「あの人たち何か言ってる」と声を低め、隠し撮りのような角度にカメラを動かした。
 画面の半分以上を連れの女性の体で隠した先で、年齢も性別もばらばらな人々が一様に天井を仰ぎ、ぼそぼそと何かを呟く姿が映し出される。それは波のようにモノレール車内の奥から手前へ伝染していき、やがて撮影者の二人組も撮影のことなど忘れてしまったかのようにカメラを膝上に投げ出して、
「マインドパルスが人々を導く」
 示し合わせたかのように三回繰り返した。言い終わって数秒後、「え、何?」と動揺した声で言い合いながら、思い出したかのようにカメラを持ち直して撮影終了の音が鳴る。そこで動画も途切れていた。
 三上さん、とスマホを耳に当て直す。音声をスピーカーモードにして弐ノ宮さんにも聞こえるようにした。
「動画見ましたけど……人々を導く、ってやつですよね?」
「ああ、そうだ。似たような動画が何本か確認されてるんだが、喋っている内容はどれも同じだな」
 三上さんが言うには、いずれも日常を切り取った動画の中で唐突に「マインドパルスが人々を導く」と三回復唱しているらしい。ライブ配信中に確認されたケースもあるらしく、SNSで探せば映像が出てくるようだ。
「警察が現在把握しているのは、今から一時間半前、午前十時三〇分過ぎから動画が撮影され投稿されたということだ。撮影場所はモノレール西駅を中心に半径五〇〇メートルの範囲。現在監視カメラやネットを確認中だが、今のところいたずら目的で集団が協力しているような情報は無い」
「じゃあ、やらせや作り物じゃないってことか」
 弐ノ宮さんがスマホの画面をスクロールしながら言う。
「そこに護衛君もいるのか?」
「いますよ」
「そうか……なら護衛君も聞いてくれ」
 三上さんの声の調子が下がり、ああ、ろくでもないことだな、と直感が働いた。弐ノ宮さんも同様だったらしく、ふたりで顔を見合わせる。
「さっき犯人らしき男から電話があった。士師と名乗ったそいつはお前を指名して、これから一時間後に生命医療先端研究所という場所に来いと言った。護衛も一緒で良いと」
「明らかな罠じゃないですか」
 弐ノ宮さんが遮った。
「向こうに交渉するつもりなんて無いでしょ。壱ヶ敷さんの電極プローブを抜いて、その後逃げるだけで――」
 だが、と三上さんが更に強い語調で遮る。
「これを逃すと、ドームのいつ何処で起きるか分からないテロ行為に後手で対応するだけだ。向こうには主義主張があって、それを明確に伝える機会を窺っているはずだ。それがイチガシキ、お前を呼び出して行なわれるんじゃないかと俺は思っている」
「つまり……穴から出てくるのを待つんじゃなくて、私に穴に入ってこいと言うことですか?」
「平く言えばそうなるな」
 身辺警護が入る前に警察が考えていたデコイ作戦が、此処にきて息を吹き返したと言うことだ。民間人ですよ、と弐ノ宮さんはすっかり憤慨した様子だったが、不意を突かれるよりはマシに思える。一時間とは言え周辺警備を増やし、犯人を囲んだ状態で話し合いに臨むことができれば、最悪私が死ぬことになっても検挙することができるだろう。弐ノ宮さんが生きて情報を持ち帰ることができれば逮捕への道に繋がる。
「三上さん。その生命医療先端研究所と言うのは何処にあるんでしょうか」
「ちょっと、壱ヶ敷さん……」
「話をしてみたいという興味もあります。ですがそれよりも、遺体開頭事件と玖瀬祈事件を両方終わらせられる可能性があるなら、私はそうしたいです」
「壱ヶ敷さんがそのために危険に出向く必要は無いって言ってるんです」
「じゃあこの機を逃して、明日いきなり襲われる方が安全なんですか?」
 私がそう言うと、弐ノ宮さんは言葉を飲み込んで暫し苦悶した後、「ちょっと待ってて下さい」と部屋の隅に行った。通信機で本部に連絡しているようだ。
 何かを察して黙っていた三上さんが通話口の向こうで話を再開させた。
「生命医療先端研究所は、旧再生医療センターの後進みたいな所だ。そこの所長にさっき連絡してみたが誰も出ないし、受付も知らんと言う。もしあの櫛原って老人が絡んでいるなら、昔のツテを使って脅すなり何なりやってるのかもな」
 ひとりかふたりの人間が出入りする程度ならあまり目立たずにできるだろう。
「こっちも一応はテロ対策本部を立ち上げ中だが、そっちが動いてくれるなら人員を回す」
「これってテロなんですか?」
「立派なテロ予告だったろ。生意気に交渉の電話まで寄越しやがって、警察を挑発してるんだよ」
 そうですか、と返事はしたものの内心ではピンと来ていない。確かにテロ組織として考えれば、武装もせずに世間を混乱させられる点で厄介なのかもしれない。
 戻ってきた弐ノ宮さんは苦い顔を浮かべていた。
「許可は下りて……でも治安維持局は壱ヶ敷さんの安全第一です。研究所に入って良いのは壱ヶ敷さんと俺だけなんですか?」
 そうだな、と三上さん。
「念の為言っておくと、犯人からは非通知で掛かってきて追跡できなかった。研究所に電話したら不審人物は所内にいないと言う。順次それとなく避難しろと伝えたが、やっているかは不明だ。電話に出たやつが脅されている可能性もあるからな」
「通信は?」
「持ってくるなとは言われていない。言い忘れたという感じも無かったが。そっちのGPSと合図で突入できるように手配しておくが、具体的な相談は本部と詰めた方が良いか?」
 三上さんはすっかりデコイ作戦にやる気になっており、声の調子が戻っていた。それに辟易したのか弐ノ宮さんは小さな声で頷き、私が電話を切ると大きく息を吐いた。
「あの……前回に引き続き、弐ノ宮さんを危険なことに巻き込んでしまったことは申し訳なく思うんですけど」
 よくよく考えればそうだな、と思い返しながら私が詫びると、いえ、と彼は首を振る。
「俺はこれが仕事なので。ただ普通と違ってマインドパルス相手となると、武力があれば良いと言うわけでは無いのが難しいですね」
 所定の位置に戻り通信機のイヤホンマイクを触りながら、弐ノ宮さんは何を話すべきかを探している。通信で警察と本部のやりとりを聞いているのかもしれない。
「何かあったら、俺のことガツンとやっちゃって良いですからね」
「ガツン?」
「多少の怪我なら平気です。俺、傷の治りには自信があるんで」
 傷の治りについては過剰増殖性細胞症の細胞サイクルに関するジンクスだが、超人でもあるまいし、一瞬で傷が治るはずはない。
「それでもし死んだら、結構夢見が悪いと思うんですけど……」
 私がそう言うと、弐ノ宮さんはちょっと引き気味に苦笑した。
「死なない程度にですよ。壱ヶ敷さんなら致命にならない程度に加減できるでしょ」
 私が目の前で人を殴り、あわや殺しかけたところを彼は見ているはずだが――と思ったものの、彼自身がそれどころでは無かっただろうか。
 間も無く三上さんから連絡が入り、警察の手配が進んでいることを告げられた。センターから公用車で出発して生命医療先端研究所に到着するまでには配置が完了し、伝令された作戦通りに動けると言う。
 作戦としては、マインドパルスの最大範囲とされる五〇〇メートル付近に警察を待機させ、弐ノ宮さんと治安維持局の通信を待つとのことだった。私と弐ノ宮さんはなるべく話を引き延ばしてドローン部隊を展開させる時間を作ること。マインドパルスによって研究所内に連れ込まれ外から確認できなくなることも、通信が絶たれることも想定の範囲だった。ドローン部隊には捕獲ネットと催涙弾が装備され、なるべく現場へ人員を投入せずに捕獲する方針に固められる。
 マインドパルスの最大持続時間は一日三〇分程度とされているので、仮に私と弐ノ宮さんが殺されたとしても、犯人たちは三〇分以内に警察の包囲網を突破して逃げる必要がある。それよりは私を殺して電極プローブを奪った後、弐ノ宮さんを人質交渉に使った方が賢明だ。
「センターを出発します」
 弐ノ宮さんが硬い声で通信を入れ、公用車は道路に滑り出た。少し遅れて何台かの普通車に囲まれ、警察官が乗っていると気づく。
 生命医療先端研究所は設置されて三〇年ほどの施設らしい。中央区のビル街を少し離れて、高さよりも広さを求めるような土地にあり、立地は法医学総合分析センターと似たような環境にあった。管轄は衛生省。名称の通り生命医療に関わる分野の研究を広く扱っており、公式サイトにも研究テーマや所属研究員の紹介が詳細に行なわれていたが、特に目を引くものは無かった。真っ当に公的な研究をしているという印象だ。
 研究所に到着するまでの間、私と弐ノ宮さんは互いに黙っていた。目的地に近づくほど緊張が膨らんで爆発するのではないかと思ったが、寧ろ近づけば近づくほど、これから本当にテロが起こるのだろうかと肩透かしを喰らうような気分になっていった。巡回するパトカーや設置された検問が普段より多少増えているものの、街はいたって平静だ。物々しいのはこの公用車と周囲の地味な普通車だけで、誰かに騙されているのではないかとさえ思えてきた。
 研究所の名前を彫ったモニュメントの横を通り過ぎ、駐車場に入った。何台かの車が停まっており、研究所に勤める人間が完全に避難したかどうかは分からない。既に覆面パトカーたちは解散して所定の配置に戻ったらしく、私と弐ノ宮さんだけが駐車場に立っていた。周囲を見渡したが人影はなく、弐ノ宮さんが「進みます」と通信を入れて正面玄関に向かって先行する。
 犯人側からは、到着の合図として受付に声を掛けろと指定されていた。この時点で私たちは屋内に入ることが決まっており、地下であれ地上階であれ、外からは観察しにくい場所に連れて行かれることが想定される。治安維持局が監視システムの権限を一部奪えたらしいので監視カメラから確認することは可能だが、此方から何か仕掛けるには少々頼りない。
 正面玄関前からはエントランスに立つ何人かの姿が見えた。スーツか白衣を着ており、スタッフのように見える。玄関の自動ドアを抜けてエントランスホールに立つと、彼らは私たちを振り返って眺めていた。見える限りでは犯人らしき不審人物は見当たらない。
 奥に受付の看板が下がったカウンターがあり、この施設の事務らしい女性が此方に気付いて立ち上がる。
「アポイントメントはお済みですか?」
 そう言われ、どのような予約なのだろう、と私と弐ノ宮さんは言葉に詰まる。犯人に呼び出されたのですが、とはまさか言えないし、警察が囲んでいるので逃げて下さい、とも言えない。
「治安維持局の者です。話は通ってませんか?」
 弐ノ宮さんがそう言うと、受付は奥のエレベーターを手で示した。
「あちらのエレベーターから地下二階へどうぞ」
 来客用と印字されたカードキーが手渡され、弐ノ宮さんが受け取る。エレベーターやエスカレーターにはカードキーをかざす装置が備えられており、なかなか人の出入りを厳重に制限しているようだった。機密事項を扱っている部署なら余計に外部の人間への警戒が強いのだろう。しかし今の状況を考えると、どうにもちぐはぐな印象だ。外部に警戒心の強い場所に、本当に犯人がいるのだろうか?
 観察するように此方を見つめる人々の視線を抜けて、エレベーターの前に立つ。メインエレベーターとは反対側にある、いかにもスタッフ用と言わんばかりの小さな造りだ。弐ノ宮さんはカードキーをかざしてエレベーターの箱を呼んだ。彼は何か言いたげに振り返り、私の肩越しに後ろを見つめて動きを止めた。つられるように私も振り返る。
 受付と目が合った。それを妙だと感じたのは、彼女がカウンターを離れて私の後ろにいたからだ。そして周囲の職員と思しき人々も囲むように近づき、私を見ていた。
 観察され、見張られ、意識されているという異様な状況。互いに会話もなく、ただ静かに、しかし僅かに驚いたような表情で私を見つめている。
 私の右腕を掴む弐ノ宮さんの手が――いつ掴まれたかさえ私は覚えていなかった――、かたく強張り、汗ばんでいることに気づいた。険しい顔をして、首に汗を浮かせ、足に杭を打たれたように立っていたが、少しだけ目を閉じて呼吸すると手の力が弱まった。
 ぼんやりと頭が痛んでいた。熱を持った脳が頭蓋骨の中で膨張するような感覚。事前に決めていた対策を思い出して、今取るべき行動を思い出す――マインドパルスが発生していて、弐ノ宮さんが行動不能で、民間人がいる場合。左手でポケットから支給スマホを取り出し、緊急コールボタンを押した。
 正面玄関の自動ドアが開いて三機のドローンが飛び込んできた。低いモーター音が静かなホールに響き、周囲をくるくる回って位置を見定め、ボディの下に取り付けられた不格好な大きさのネット射出機の予備動作音が聞こえる。細い網目のネットを射出してその場の人間の行動を抑制するのが目的で、居合わせた人数が多すぎれば事故が発生するとして使用を躊躇われていたが、現在の人数なら問題ないと判断したようだ。
 ふと護衛の手が右腕から離れた。しびれを感じたのでよほど強い力で掴まれていたらしい。彼は一台のドローンに向かって素早く両手をかざす。次の瞬間にはその両手から激しい破裂音が響いていた。一発、二発、三発――一台目、二台目、三台目。それから四発目――私の左手の支給スマホを綺麗に画面だけ。一連の動作は面白いほど精確で素早く、ある種の競技のようにすら映った。彼の目ははっきり開かれており、動揺など無い怜悧な視線が床に転がるスマホを見据えている。ドローンはモーター部分を綺麗に撃ち抜かれて煙を噴いていた。
 これが人だったら彼はもう四人撃ち殺している、と私は逃避的な思考を浮かべてしまう。銃弾に弾かれた衝撃は左肘から上に掛けて走り、今ようやく肩に届いていた。
 静まり返り、人の呼吸しか聞こえないようなホールに、ポーン……とエレベーターが到着した音が鳴り響いた。それが合図であるかのように弐ノ宮さんはまた私の腕を掴んで、エレベーターの中に引き連れる。周囲の職員たちもゆらゆらとおぼつかない足取りで近づき、押し寄せて人垣を作り、私がエレベーターから出ようとするのを阻んでいた。
 行先ボタンの案内板に、地下二階に何があるかを示すものはない。ただ無機質に地下一階と地下二階のボタンが並ぶだけで、行き先を知っている者だけが使うエレベーターであることをデザインが物語っている。
 弐ノ宮さんの右手にはまだ銃が握られている。ただそれだけでこちらの行動を制限する説得力があった。私は私用のスマホを取り出すべきか否か迷ったが、彼の射撃の腕前を見た後では、次に撃ち抜かれるのが自分の頭でもおかしくないと分かっている。そう思うと自分から何か行動するのは躊躇われた。
 ポーン……と再び到着の音が鳴った。エレベーターの扉は静かに開き、地下二階が私たちを出迎える。地上とは違って自然光も窓もない壁は、自分の職場である分室に似ているが、いやに圧迫感がある。
 三方向に分かれた道のひとつに向かって連れ出される。角を曲がると左右に幾つもの部屋があり、病棟のようにも見えた。その内のひとつへ弐ノ宮さんが迷いなく入っていった。慌てて出入口の周辺を見渡すと、右上に「第二実験室」というプレートが掛かっている。
 部屋の中は半分より手前でガラスに仕切られ、ガラスの向こうはドラフトのような排気設備が備わっているようだった。中央に手術台が一基だけ据えられている。解剖室や無菌室のような潔癖な環境を求めるその部屋が、今は扉を開かれ、何処からか流れて来る気流にアクリルの透明カーテンをたなびかせていた。その手前に放水路で見た老人、櫛原が立っていた。
「銃を仕舞ってもらえるかね」
 櫛原がこめかみを叩きながらそう言うと、弐ノ宮さんはゆっくり銃をホルスターに戻した。苦々しく櫛原を睨みつける表情がその抵抗を示すように、動作も非常に緩慢で、時々抗うかのように手が止まるが、それでも最後まで動作を完了させる。
「さあ、法医学者君。彼の通信機を取ってくれ」
 まるで手術中の医者がメスを求めるかのように、掌が空中へ差し出される。ああ、法医学者って私か、と熱と痛みに苛まれる頭で私は気がついた。
 弐ノ宮さんを横目に窺うと、彼もまた私を横目に見ていた。隙を見て逃げ出すべきか、今はおとなしく従うべきか、どちらともとれない表情をしている。
「此処に来て相談かね?」
 老人は半笑いでそう釘を刺し、早く、と手で催促する。
 私が躊躇する振りをして妙案は無いかと頭を巡らせたが、答えが見つかるよりも早く背後に誰かが立った。弐ノ宮さんのイヤホンマイクに手を掛けて引っ手繰るように外し、本体の通信機も乱暴に剥がし、ついでと言わんばかりに弐ノ宮さんのスマホと拳銃も取り上げてしまう。
「よう、久しぶり。イチガシキさん」
 その男は私のポケットにも手を突っ込んで私用スマホを取り出し、正面に回って挨拶をした。五〇年前にも十年前にも写真を残している士師だ。
「前回はこの爺さんが失礼したね。まさかあんなところに迷い込んだ人が、目当ての人間だったとは思わなかったよ」
 彼は弐ノ宮さんの拳銃を自分のポケットに入れ、それ以外の物はジャグリングでもするように弄びながら、部屋の隅に歩いていく。角にバケツが置いてあり、そこにボチャンと沈めてしまった。地下放水路でそうなったように、サアア、と泡立つような音が聞こえ、にわかにプールのようなにおいが香る。彼らはいつもこうやって余計なものを処理しているのだろうか。
 櫛原は呆れたように首を捻ってから、空のままの手を下ろした。こめかみを叩いて仕切りの向こうの部屋を顎で示す。
 弐ノ宮さんは私の手を引いて仕切りの中に入った。扉が閉められ、鍵の掛かる音がする。内鍵は周到にも外されていた。自由になったらしい護衛が扉に飛びついて開閉を試み、次いでガラスを叩いたり蹴ったりしたが、ひびのひとつも入らなかった。ハーネスから警棒を引き抜いて打ち据えてもみるが結果は同じ。ガラスを叩いた音だけが虚しく反響した。
 意外にも頑丈な構造に隔てられ、猛獣でも観察するように櫛原が一連の動きを見ていた。
「君には手術を受けてもらうが――」
 櫛原は自分の右頭頂部を指した。
「準備の間に問診といこう。君の調子、君の考え――」
「弐ノ宮さんはどうするんですか?」
 私が口を挟むと、櫛原は眉を上げてさも意外であるかのような顔をした。
「手術って、目的は頭の電極プローブですよね? なら弐ノ宮さんは生かして帰してください」
「無論、簡単には殺さんとも。残念ながら我々には武力が無い。警察に踏み込まれては対抗するすべもないからね」
 そのための武器だとでも言わんばかりに、士師が拳銃をポケットから少しだけ引き出して見せる。
 此処までは私も警察も想定内のシナリオだ。かなり最悪寄りのシナリオではあるが、犯人を検挙するという最大の目的は達成できる。
 私が此処に来た以上、私の無事についてはある程度度外視していた。私は頭を開かれて電極プローブを抜かれ、四波崎氏のように頭を閉じられないまま何処かに投棄される可能性だってある。この部屋の中央に据えられた手術台はさながら断頭台のように、異様な存在感を放って私の意識に侵入していた。
 私の脳内では既に四波崎氏の輪郭が私にすげ替えられていたし、地下水路の奥に放置された玖瀬祈の輪郭も私に塗り変わっている。しかし弐ノ宮さんを生きて逃がすことができれば、彼によって犯人の顔と氏名が伝わり、犯人を逃す可能性をひとつでも減らすことが出来た。四波崎氏と玖瀬祈の立件に繋ぐことが出来るのだ。今――あるいは最初から、私にとっての希望はこれだけだった。
「何でこんなことやってるんだ」
 弐ノ宮さんがドアの前で士師と相対した。しかし士師は笑顔を貼り付けたまま答えない。代わりに櫛原が、音楽家が演奏を止めるように手を差し上げて言葉を引き取った。
「君は、君自身が誰よりも一歩先んじているとき、どうするかね? 後ろの者を置いてどんどん前へ進んでいくか、振り向いて遅れている者に手を差し延べるか――」
 舞台を歩く役者のように大仰に手を振り、弐ノ宮さんと私の注目を惹きつけるように振る舞う。
「我々は振り向いているのだ。発光現象によって一歩先んじた我々には、未だ後塵を踏む人類へ手を差し延べる力がある。我々の力――君たちが未だ『症状』と呼ぶそれは、社会にとって未だ未知数の忌むべき存在である。それは十分に理解しているとも。今はまだ行動を通して価値と存在意義を訴え、居場所をつかみ取るフェーズなのだ」
 難しい言葉を並べているが、要は彼らにとってこの行動は善であり、今はまだ理解されていないもののいずれ評価されるはずだと言いたいらしい。
「死人は必要なのか?」
「だが死人がいれば人の目を引く。世間はそういう激烈なスパイスが無いと記憶に残さない」
 弐ノ宮さんの問いに、櫛原はまともなことを言っているという調子で答えた。
「もう良いだろ。爺さん、あんた準備しろよ」
 士師にせっつかれ、櫛原は渋々と踵を返して部屋を出ていった。それを見送った士師は、壁に立てかけられたパイプ椅子を引いて仕切りガラスの前に設置し、そこに悠々と腰掛ける。
「あいつは話し相手に飢えててさ。俺があんまり相手をしないから」
 警棒を持ったままの弐ノ宮さんを前に、ガラス越しに足を組んでにっこりと笑いかけた。それから体を傾けて後ろの私に目線を合わせる。写真と印象が変わらない何処にでもいそうな青年であり、あの地下放水路で玖瀬祈の死体を作ったり、動画を撮って世間の恐怖を煽るような人間には思えない。
「イチガシキさん。俺のこと覚えてないでしょ? 話したことないもんな。あんた、学生時代、廊下でひとりの生徒が暴走したの覚えてる?」
 そう言われて、もうほとんどおぼろげになってしまった学生時代の記憶を手繰る。私が暴れる男子生徒と取っ組み合うような形で宥め、鎮静化させたことがあったのは確かだ。その生徒がマインドパルス症であることは大抵の生徒に知られていたし、たびたび症状を悪化させて近くの人間が狂ったように騒ぎ立てる光景を遠巻きに見てきたが、その日ばかりは私も傍にいて、何故か私は自由に身動きが取れた。それが埋め込んだばかりの電極プローブのせいだと気づいたのはもっと後で、当時の私は騒ぎを収めることばかりを考えていた。
「あの時、あんたにマインドパルスが効かないって知ったんだ。覚えていて良かったよ」
 毒気は無いが何処かくたびれたような笑顔を士師は浮かべている。学生時代からこんな表情をする人間だったのか、今までの人生を経てこうなったのかは分からない。
「四波崎さんからプローブを取ったんですか?」
「うん。此処にあるよ」
 彼は、櫛原とよく似た仕草で自分の頭をとんとんと叩く。こめかみの上から顎に向かって縫合痕が延びているのが見えた。
「これ、すごいよな。本当にマインドパルスが効かないんだ」
「あなたはマインドパルス症患者ではないんですよね?」
「そうだ。俺は健常だよ」
「それで……どうしてこんなことを?」
 ガラス越しの私たちを見ているのか、ガラスに映っている自分を見ているのか、何となく士師と目が合わない。彼は暫し沈黙した後、櫛原が出て行った方向を振り返って、
「爺さんの話を聞いて、どう思った?」
 まるで友人と将来の話をするような調子で私たちに聞いてきた。
「患者が権利を訴える……その行き過ぎた例だとは思いましたが」
「そっちの番犬君は? マインドパルスを受けてどうだった?」
「は?」
 番犬君、と呼び掛けられた弐ノ宮さんが不愉快そうに聞き返す。しかし今重要なのは自分の呼ばれ方ではないと思い返し、
「……いいもんじゃない。プローブを奪ったあんたと同じ感想だろ」
 低い声でそう返した。
 そうだよな、と士師は嬉しそうに笑った。この場には似つかわしく無いほど子どもっぽく、心から発したような声音だった。
「そうなんだよ、マインドパルスって嫌だよなあ」
 士師は開いた脚を広げ、パイプ椅子の背もたれに仰け反り、まるで午後の授業を愚痴る生徒のような無防備な姿を見せる。いかにも隙だらけのその姿勢は、しかしこの場における彼の優位を示している。愚痴というよりは寧ろ誰かに聞かせでもするかのような言い方に、私は微かな違和感を覚えた。
 ドローンを撃ち落とされた後、警察がどのように部隊を再展開しているかは不明だが、恐らく監視カメラと非常階段を使った配置に変わっているはずだった。重たい扉も開けられる特殊なロボットを使って遠隔から経路を確保し、ドローンを各方向に配置させる作戦だ。
 私は早くもその作戦部隊が地下まで到達しているのかと思ったが、櫛原の出て行った方向から姿を見せたのは、より小柄な人影だった。おずおずと首を伸ばして室内を窺うその人物に、私はあっと声を漏らす。
 誰ですか、と訊きたげに弐ノ宮さんが振り返る。
「八重樫藍さんです。暴行事件の……」
 綺麗に切り揃えられた前髪の下で大きな瞳を一層瞠り、八重樫さんは士師を見つめていた。その顔にはありありと不安が現れている。
 ああ、彼女にわざと聞かせたのだと察しがついた。仕切りガラス、閉じられた扉、見物席のように置かれたパイプ椅子。士師はこの空間を選ぶにあたって、この瞬間を想定していたのだ。
「ねえ、燿さん、何の話……?」
 八重樫さんは士師を下の名前で呼んだ。玖瀬祈の日記によれば親しい間柄のようだが、恐らく恋人関係にあるか、かなりそれに近い関係なのだろう。八重樫は少し依存的で、強権を振るう士師にいかにも従順そうだった。
「藍、聞こえたのか?」
「あたしのこと、嫌?」
 私は弐ノ宮さんに声を掛け、彼も振り向いて頷くが、もうその時には頭がぼんやりと熱を持ち始める。
「藍のことは嫌って言ってないだろ」
「でも、今」
「マインドパルスは嫌いだよ。ずっと嫌いだ」
 士師は八重樫さんと話す間もずっと此方の様子を窺っていた。八重樫との会話など微塵も興味なく、それよりも此方の状況の変化を楽しんでいるようだった。
 意識を割かれまいと自分の耳を塞いでいた弐ノ宮さんは、手をゆっくりと離し、自分の掌を見つめていた。何かを堪えるように手が細かく震えている。やがて仕切りガラスに向かっていくと、割らんばかりの勢いでガラスを殴りつけた。
 八重樫が悲鳴を上げた。驚くと言うよりはその音に恐怖しているようだった。何故そんな音が鳴るのか、何処から鳴っているのか、彼女はその理解の過程をすっ飛ばしてただただ恐怖の悲鳴を上げている。
「こいつを止めてくれ」
 弐ノ宮さんは低く呟いて、またガラスを殴る。彼をじっと見ている士師を睨み返し、彼を殴るような勢いでもう一度。
「こいつを止めろ!」
 聞いたこともないような怒鳴り声が響き、私も一瞬身動きが出来なくなった。肺を絞られたような感覚を覚える。地下放水路で感じた恐怖はにじり寄るようなものだったが、今はただただ巨大なエネルギーに圧倒される気持ちだった。
「に、弐ノ宮さん……落ち着いて」
 宥めるように声を掛けると、彼は鋭く獰猛な顔つきで振り向いた。標的が移った、と本能で感じた。一瞬だけ迷うような視線の動きを見せたが、それはほんの一瞬でありすぐに掻き消えてしまう。ゆっくりと歩み寄った彼は手を伸ばし、私の襟を掴んで食い掛かるように引き寄せる。硬く唇を引き結んだまま、眉間には汗が伝っていた。
 彼は八重樫さんのマインドパルスに抗おうとしており、何処かで反旗を翻す瞬間を窺っていた。しかし同時に何かを破壊したい衝動に飲み込まれようともしている。八重樫さんの加虐性を増長させるマインドパルスは本人の中にある攻撃性を高めるだけで、殴れと命じているわけではない――殴りたいと言う攻撃性を表に引き出しているだけだ。
 仕切りガラスの向こうに立つふたりが視界の真正面に入った。八重樫さんが恐々と此方を見ており、士師がその横に立って無表情に眺めている。それから口を開き、何を言おうか逡巡してみせた後、「お前のせいだよ」と八重樫さんに言った。「お前のマインドパルスがこんな状況にしたんだよ」と。八重樫さんは動揺した表情で士師を見上げた。
 その後彼女が何を言ったのか、士師が何を言ったのか、見届ける前に私の襟首が激しく揺さぶられてしまった。背中が壁に向かって押しつけられ、肺の中の空気が押し出される。頭に熱がこもって脳が焼き切れそうだった。遠くで八重樫さんの泣き叫ぶような声が聞こえるが、正確なところは分からない。
 弐ノ宮さんは何か言おうとして、言葉にならないうめきを上げた。右手で作った拳が頬をかすめて背後の壁に振り下ろされる。不安で、怒りに満ちて、でも少しだけ笑っているように見える。いくつもの感情が並走し、自身がその状況に混乱しながらも、私をコントロールしようとする。
「ねえ、壱ヶ敷さん」
 ガラスの向こうから士師の声が届いた。八重樫さんの啜り泣く声に紛れて、いやに落ち着いた調子で私に話し掛けてくる。
「今、怖いって思ってるだろ? 番犬君が牙を剥いてさ。利口な彼がそんなことするはず無いもんな。その攻撃性は、普段の彼にあるはず無いんだよ」
 そうだ、そんなこと分かっている。私は内心で首肯した。
「このマインドパルスが解けた後、君は彼を許さなきゃいけない。どんなに殴られても、どんなに傷つけられても、どんなにひどいことを命令されてもだ」
 一段、一段、士師の声は低くなっていく。それは催眠のように平板で抑揚のない声であり、高く通るはずの八重樫さんの声よりもよく聞こえて耳にこびりついた。
「君は怯えては駄目だ。怖がっては駄目だ」
 何故、と私は無言で問い返した。私は弐ノ宮さんを恨まないが、今恐怖を感じることとは別だ。後で文句を言うつもりはないが、今身を守るためには必要なことだ。
 しかし彼の言葉は、今の私に向けられているものではないと気づいた。
「そんなことをしたら、番犬君が可哀想じゃないか……本気で君を傷つける気が無いんだから」
「うん……うん……あたし、違うよ……こんなことさせたいんじゃないの……」
 八重樫さんが士師に縋りつくが、士師はそんな彼女の存在を忘れてしまったかのように、じっと私を見ている。この視線も今の私に向けられたものではない。もっと遠くの誰かを見ている。
「でもさ……怖いんだ。次に番犬君が手を上げたら、君の体は強張るよ。機嫌を損なわないように、不安にさせないように、君は完璧に立ち振る舞わなきゃいけなくなる。マインドパルスはさ、君と番犬君の信頼関係にひびを入れるんだ」
 彼は恐らく過去の自分に向けて語っていた。自分の幼少期、マインドパルス症患者の家族と共に過ごし、恐らくは不遇であったろうその時代の自分に向けて。士師は自分の足に抱きついている八重樫さんを見下ろし、肩に手を掛けてそっと剥がした。
「藍。俺はプローブを埋めるまで、君といると、いつも疲れていた」
 ああ、まずい、八重樫さんにそれ以上ひどい言葉を掛けてはいけない。士師はこれまでも、マインドパルスで攻撃性を増した人間を八重樫本人に見せ、継続的に不安を煽っていたのだ。発火したように頭が痛かった。
 八重樫さんが何かを叫ぶと同時に、私はノミヤサンに両肩を強く掴まれ、横に引き倒された。顎と胸を強く床に打ちつける。私は床に転がったまま、気がつくと左腕を宙に引っ張られていた。
 ガチャン、と無機質な音が小部屋に響く。
 打ちつけた鈍い痛みがある。恐怖で心拍も上がっている。が、何よりも「絶対に無いことだ」と思っていたことが起こった驚きと、そんなことで驚いている自分に虚を突かれた。目で確認しない限り、背後の正確なことは分からないが――左腕が蹴り折られている。肘が反対側に曲がり、断端のソケットが外れ、引っ掛かっている袖で辛うじて持ち上がっている私の左肩にはあるべき感触が無い。意図的に――それも弐ノ宮さんに義手を壊されるのは、殴られるのと同じくらいの衝撃があった。
「あ……あ……ごめんなさい……」
 立ち尽くしていた弐ノ宮さんが震え声を漏らした。自分の横に膝を下ろし、ガラスを扱うように恐々と私の左腕を下ろす。
「ごめんなさい……こんなこと……」
 正気に戻ったのだろうかと思ったが、顔を見上げるとどうにも違うような気がした。
「嫌いじゃないんです……俺のこと失望しないで……」
 八重樫さんのように哀れっぽく縋り、私の右手を掴んで、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返していた。演技のようには見えないがいつもの彼らしくもない。ただ恐怖に煽られて嘆願する姿は感情の落差を作り、私を振り回そうとしていた。
 実際、今の私にとっては左腕を壊した彼の存在が恐怖とともに記憶にこびりつき、既にコントロールを始めようとしている。私の左腕は言わば弱点であり、その弱点を彼がこんなにあからさまに攻撃することを、これまでの私は有り得ないことだと思っていた。そして本来なら有り得ないことなのだ。
「本当にすみません……どうかしていて……あの、怪我……とかじゃないっすよね……」
 そう言う弐ノ宮さんの声音は憔悴していたが、同時にいつもの調子に戻り始めてもいた。彼は両膝をついたまま冷や汗を垂らし、申し訳なさそうに佇んでいる。
 士師と八重樫さんはいつの間にか仕切りガラスの向こうから消えていて、頭の熱も引き始めていた。ああ、マインドパルスが終わったのだと安堵感が押し寄せる。
「う、腕……つけ直すとか……」
「それより起こして下さい」
「は、はい」
 支えられながら身を起こすと、掴まれた肩や打ちつけた胸郭が痛んだ。左腕を確認すると、ソケットが外れて居心地悪くぶら下がり、左腕は肘が逆に曲がって中の構造が露出している。バランスも居住まいも悪いが、今は何より、肩甲骨からずれて浮いているハーネスを直してしまいたい。
 出入口から士師が戻ってきた。
「すまないね。あの子はちょっと繊細だから。腕、大丈夫?」
 弐ノ宮さんが掴みかかる勢いで飛び出そうとしたが、私がつい驚いてしまったのですぐに立ち止まる。
 士師は仕切りガラスに額を当て、演技めいた溜め息をついた。
「何もやり返せなくて歯痒いよな。分かるよ、その気持ち」
 士師をよく見ると、額に汗を浮かべて辛そうにこめかみを押さえている。電極プローブを移植しているはずだが、私と同じようにマインドパルスを物理的に受けているようだ。彼は自分に肉体的影響を受けてでもあの見せ物を作り上げたかったらしい。
 士師は弐ノ宮さんをまじまじと見つめ、
「君はお利口だ、本当に。与えられたものを大事にするのが上手だし、大事に出来るものを与えられている。羨ましいよ」
「……何のことだよ」
「君の名前、弐ノ宮って呼んでたよね? 合ってる?」
 弐ノ宮さんの言葉を無視して士師は続けた。
「俺たち、何かが違ったらきっと最高の親友になれたんだぜ。でも環境に愛されたのはお前だけだった」
 私の頭の中では、二枚の士師の写真と旧再生医療センター、そして収容番号十号との会話が蘇り、互いに結びつこうとしていた。しかし肝心の何かが足りず、宙ぶらりんでほつれてしまう。
 何の、と言い募った弐ノ宮さんを士師は片手を挙げて制し、私の方を振り向いた。
「壱ヶ敷さん。さっきの話の続きなんだけどさ。学校で君が止めたあのマインドパルス症患者の学生、彼がどうなったか知っている?」
「……いいえ」
「高校を卒業した後も職場が辛くて、通勤中の朝、電車を事故に巻き込んで自分も死んだってさ」
 嘘かもしれないが、無い話とも言い切れないのが現状だった。私が助けたのは一時のパニックのみで、その学生が持つ悩みそのものを解決したわけではない。
「君が助けた時、もっと大事になって、警察や世間が彼を危険視していれば、防げたことだと思うんだ」
「……防ぐとは?」
 私は続きを促した。
「もっと社会生活を規制するんだよ。同じ空間で過ごす人、家族、友人、みんなの人生が台無しにならないように」
 士師は何でも無いことのようにそう言った。主語を犯罪者に差し替えればそのまま通ってしまいそうな話だ。
「あなた、マインドパルス症患者を相当憎んでいるんですね」
「そうだよ」
 八重樫さんと親しい間柄にいるはずの彼は、事もなげに頷く。
 ずっと彼らはマインドパルス症患者の権利を訴える目的でいるのだと思ったが、同時に拭いきれない違和感もあった。それが今、彼の言葉によって得心した――士師は櫛原たちと肩を並べているようで、実際のところは真逆のことを目指しているのだ。一緒にいながら仲間を裏切り続け、最後に自分の望んだ世界を作ろうとしている。
「あなたは人生を台無しにされたんですか?」
 少しずつだが私は解剖台の遺体を前にしているような気持ちになっていた。
 そうだ、と士師は首肯した。
「俺の生まれた家にいたんだ。血も繋がってない祖父だよ。家族を支配して、自分の機嫌次第でなんでも思い通りになると思っているようなやつだ」
「あの櫛原さんではなくて?」
「爺さんは違う。あいつのことも嫌いだけどね」
 出入り口の方を一瞬だけ見た彼の眼差しは、確かに軽蔑の色を浮かべていた。
「医者も社会もそいつが病気だから許してやれと俺に言って、俺も子どもながらにそいつを許して……許して、許して、許して、どんどん心が削れて、それでも許して……」
 八重樫さんのマインドパルスによって弐ノ宮さんが攻撃性を増した時、士師は何と言っていたか。恐らく彼は支配的な祖父によって、陰鬱で緊張した家庭生活を強いられたのだろう。祖父の症状に振り回され、そのストレスを祖父自身に返すことが許されないのであれば、自身か他の家族を責めるしかない。優しさを求められ、正しさを求められ続けた。彼はその中で幼いながらに磨耗していったのではないか。やがて彼の中にマインドパルス症患者に対する強い怒りが生まれた。
「あいつが大往生して俺に残ったのは、悲しい子ども時代と、目減りした心と、疲労と怒りだけだ」
 士師は呼吸のような声を絞り出してそう言い、暫く沈黙する。
「八重樫さんのことも同じように思っているんですか?」
 仮に彼の情に訴えられるとしたら、傍に置いている八重樫さんくらいだった。恐らく櫛原と士師は互いのことを上手く利用していると考えており、櫛原の方は本当の協力関係にあるとさえ思っているかもしれない。
 士師は私の問いに首を振って答えた。
「あいつは偉いよ。自分の肩身が狭いって分かってる。俺の目的にちゃんと気づいてて、でも自分をちゃんと見てくれるのが俺しかいないから、泣きながら俺についてくるんだ。そういういじらしいところが大嫌いでさ」
 通路の方からガラガラとキャスターの転がる音が響いてきた。その振動に揺れて互いにぶつかり合う金属の細かな音も聞こえてくる。私は警察の姿を過らせたが、姿を見せたのは銀色のワゴンを押す櫛原だった。
「おい、さっきのひどい気分はなんだ? 準備が全く進まなかったぞ」
 彼は取っ手に引っ掛けていた白衣に袖を通しながら文句を言う。恐らく八重樫さんのマインドパルスのことを言っているのだろう。
「またあの娘をいじめていたのか」
「もう終わった」
「ようやく手術の時間か」
 櫛原は犬でも呼ぶように手を大仰に打ち鳴らした。後ろからパーカー姿の子どもがついてくる。地下放水路で見た時と同じパーカーを着て、櫛原と士師を交互に、次いで私と弐ノ宮さんを交互に見定め、
「もう手術? 行っていいの?」
 最後の確認のために再び士師を見て訊ねた。
「今日のためにお前は生まれて、生きてきたんだ。時間になったら取り掛かれ。やってやれ、モモ」
 まるでスポーツの試合に送り出すかのように士師が拳を作ると、モモと呼ばれた子どもは拳を突き返して返事をした。その顔は無表情だが恐れも迷いもなく、そして喜びも無いように見える。モモはもう一度私たちを見てから、背を向けて部屋を出ていった。
「……自爆テロでもさせる気か?」
 縁起でも無いことを弐ノ宮さんが言ったが、その声音は冗談にも聞こえない。
 モモが行った方向を考えるとエレベーターを使うのだろう。警察が部隊を配備する予定の非常階段とは真逆の方向にあり、途中ですれ違うとは考えにくい。監視カメラで子どもの姿を認め、何か異常を察知してくれれば良いが。
「種明かしをしようか?」
 櫛原が明かしたいとばかりに促しを求めたが、士師が何でもないといったような顔でその後を引き継いだ。
「エントランスホール、人が少なかっただろ。上の階に閉じ込めてあるんだ。集めた集団をモモが……まあ、何をさせるにしても、ろくなことにはならないよな」
 八重樫さんのマインドパルスは加虐性を煽り、櫛原は行動を強制させる。それと比較した場合、モモのマインドパルスはまた異なる性質を持っているように見えるが、私に詳しいことは分からない。
 櫛原は高く笑い声を上げた。
「武器を使わず、言語もなく人類を統制する。新しい手法だよ。君もやられたな、え? そこの優等生にかね?」
 彼は私の左腕を顎で示し、次いで弐ノ宮さんを見てにたにた笑った。思うに士師も櫛原も弐ノ宮さんのことを知っている風な口を利いているが、弐ノ宮さんの方はそんな扱いに納得が行ってないようだった。一方的に存在を知られているのだろうか。
「さあ、では優等生にエスコートをお願いしようか」
 櫛原はそう言って、士師に鍵を開けるよう示した。
 弐ノ宮さんがゆっくり振り向き、目が合って、お互いに何となく覚悟のようなものを察した。諦めに近い覚悟だ。私はもう、後は彼に情報を託すだけだという気持ちさえ抱いている。
 鍵がかちゃりと開いて、櫛原が揺れるアクリルカーテンを押しながらワゴンごと入ってくる。
 マインドパルスに対して根本的に抵抗するすべを、未だ人類は持っていない。確かにこれは一歩先を行く才能なのかもしれないと私は思った。断頭台に引き立てられる罪人、銃器の前に晒された人質、爆弾を見上げる人々、その次の時代はマインドパルスの前に立つ我々だ。ずっと逃げ延びる隙を窺ってきたが、その隙は一度も無かったように思える。私の唯一抵抗できうる右腕は今や、弐ノ宮さんが背中に回して強く捻り上げ、自由を奪われてしまっていた。
 ワゴンの上で銀器が天井の照明を強く反射させ、部屋中に光を散乱させていた。清潔なメス、ピンセット、はさみ――それからホームセンターで買うような電動ノコギリ。
 櫛原がワゴンの二段目のトレイに手を伸ばした。その手にはシリンジが握られている。私が以前打たれたものに比べると内径が太かった。
「ただの麻酔だよ。手術中に叫ばれては敵わんからね。前回のように遊んでいる余裕は無いようだ」
 首に針の痛みが走った。随分と雑な刺し方だと思ったが、これから死ぬ人間に丁寧に注射をする意味が無いのは当然だ。
 私と弐ノ宮さんはよく耐えた方だ。願わくば玖瀬祈が手帳に書きつけたように、最後の足掻きをしてみせたいと思った。ただでは死なずに一矢報いたい。そう思う一方で、早鐘のように鳴る心臓に合わせて麻酔薬が血流に乗り、どんどん全身に回っていくような心地がしていた。
 弐ノ宮さんが私の体を前に押しやり、くるりと回して、中央に据えられた手術台のふちに押し付けた。腰かけた手術台はぞっとするほど冷えていたが、すぐに私の体温が伝導して生温くなる。
「そろそろ私もマインドパルスで遊ぶ余裕が無くてね。今日は随分使った。そしてこれから君の頭を開く大仕事だ」
 櫛原の声が遠く近く、何処から語り掛けられているか分からない距離で聞こえた。
 少しずつ瞼が重くなっていく。麻酔が効いてきたのかちょっとずつ指先から脱力していく。皮膚のうわべの感覚が生きていて、ぼんやり熱く、しかし関節の感覚は無い。自分の人差し指が何処についていて、どう曲げたら動くのかが分からなくなっていく。自分の体のイメージが瓦解し、周囲の空気に溶けていく。
 しかし意識を手放し切れないのではという恐怖が、同時にゆっくりと迫り上がっていた。事故に遭い左腕を失った時がそうであったように、術中も、四肢は脱力したまま意識だけが残り、自分の頭が開かれる瞬間も脳にピンセットが当たる感触も、それを覗き込む櫛原の顔も、全部意識上に知覚され、自分は痛みを自覚しながら死んでいくのではないか……。
「私の力は些か不便でね。君も知っての通りだろう? 大雑把にしか命令が伝わらず、繊細な動作は難しい。それでも随分コントロールできるようになったのだ。私はもう歳だが、一歩でも前進し続けている。君はどうだね、学生時代よりも美しい縫合ができるようになったかね? 穿刺を正確に行えるようになったかね? 相棒のごときメスを見つけたかね?」
 櫛原は朗々と語りながら、士師に向かって何か手真似をしていた。ずっと目の前に立っている弐ノ宮さんの両手に何かを持たせる。弐ノ宮さんは受け取ったそれをゆっくりと持ち上げた。
 彼の強張らせた顔の手前に、奈落のような銃口が向けられている。
「……ふざけんなよ」
 本当にふざけた話だ、と黙って弐ノ宮さんの言葉に同意する。ドローン三機を三発きっかりで撃ち落とした彼の腕なら、知人の眉間を精確に撃ち抜くことも、あるいは精確に急所を外すことも出来てしまうのだろう。
 もう私の意識は麻酔によってちぎれかけており、それでも腕一本、指一本が辛うじて繋ぎ止め、その時間が永遠に続くのだ。たった一本の細い意識の糸が、私自身の解体を私に見せ、全ての音と痛みとにおいを認識させ、恐らく脳を切り取られたとてそこに意識が残っているのだろう。局所麻酔されながら手術を受けた患者の比では無い。
 肚が決まりそうな心と、抵抗したい生命が拮抗し、瞼は閉じかけの寸前で堪えていた。それを何とか持ち上げ、弐ノ宮さんとお互いに見合う。
 櫛原と士師は警察への武力として彼を生かしておくようだった。早くとも私の頭から電極プローブを取り出してマインドパルスに抗う術を奪い、自分たちの計画を実行し、安全にこの施設から抜け出すまで、彼は生かされるはずだ。
 その間に彼が生存の細い糸を掴むことを、私はひたすらに祈っている。
 私は、最後にひとつだけ確かめたいことがあったのを思い出した。ゆっくりと鉛のように重たい右手を挙げて、溶けているかのような顎と、ほとんどもつれた舌を動かす。動かせているのかいないのか、私には自覚できない。
「玖瀬祈さんは結局……誰がどのように殺したんですか?」
 一瞬だけ全ての音が消え去って、自分の心音と、櫛原の浅く掠れた呼吸音だけが聞こえた。
「最期は私の毒だよ」
 ああ、これで聞きたいことは全部聞けた――私は奇妙な満足感に襲われていた。眠ってしまいたいという感覚さえあった。もういつ撃ってくれたって良い、という合図の代わりに弐ノ宮さんを見上げた。
 彼は銃口を向けたまま、私の視線を受け止め、それから眼球を横に動かした。私はつられるように視線の先を追う。彼は診察台のすぐ横につけられたワゴンを見て、再び私と目を合わせる。
 ワゴンの上で、電灯の光を受けてメスが輝いている。
 銃口の向こうで、弐ノ宮さんはしっかりと私を見ている。
 弐ノ宮さんの少し後ろに立つ櫛原が、肩越しににやにやと私を見ている。
 ――そうだ、痛みだ。玖瀬祈が最期に残した一矢がそこにあった。その一矢の放ち方を弐ノ宮さんは私に教えようとしていた。
 私が放った後の一矢の行く先は、弐ノ宮さんに託すことができる。それは情報を持ち帰るよりもずっと描きやすい放物線で、どんなにでたらめな方向に飛ばそうとも弐ノ宮さんなら大丈夫だという確信があった。
 私は、歪ではあるが確かに彼を信頼し、自分の右腕がどんな風に動いているのか、上体がどちらに向いているのか、もはや殆どの感覚フィードバックが無いまま、ただがむしゃらにメスをむしり取って弐ノ宮さんの横腹に突き出した。メスを握った感覚も、刃の向きをどう変えたかも分からない。その過程で唯一残っている明快な思考は、突き出した瞬間の、臓器と重要な血管を傷つけない位置を狙ったプロセスだけだ。その瞬間だけ時間が引き延ばされ、顕微鏡のように視界が狭く深くなり、メスによって切り裂かれた血管から飛び散る鮮血の一滴ずつが浮かび上がり、食い破られた薄い脂肪と筋繊維の一筋ずつが右手指の圧覚を押し返していた。
 弐ノ宮さんの脇腹を掠ったメスが、手を滑って床に落ち、耳障りな金属の高い音が立った。刺した勢いそのままに自分の体も手術台の下に投げ出され、弐ノ宮さんの足元に転がる。その頭上から、二発の銃声が響いた。
 気づけば、うう、と士師がうめきながら、私と同じように床に転がっていた。彼は血まみれの脚を引きずってアクリルカーテンの下を這いずり、通路に向かっている。血液が筋になって後を引いていた。
 櫛原もまた傍で床に蹲り、弐ノ宮さんに手荒く引き起こされていた。
「警察! こっちだ! ……おいこら、暴れるな!」
「めちゃくちゃだ! 味方を刺すやつ! 本当に撃つやつ! こんな馬鹿なことがあるか! 燿、八重樫、助けてくれ……!」
 櫛原は哀れっぽい悲鳴を上げながら、左大腿を血にまみれて床に投げ出す。その上にドローンが飛んできてネットを射出した。櫛原が暴れるほどネットが絡みつき、哀れなほど糸にくるまれて床に転がる。弐ノ宮さんが容赦なくネットごと手錠を掛け、手術台と繋いだ。今や櫛原は拘束され自由のきかないただの老人に成り下がり、やがて悲鳴を上げることさえ苦痛になったのか、出血する脚を押さえて丸くなる。
「動けますか? ちょっとあいつ捕まえてきます」
 弐ノ宮さんは私にそう声を掛けた後、部屋を飛び出して士師の後を追った。顔は青白いように見え、左脇腹を真っ赤に濡らしていたが、此方に心配させるような素振りはひとつも見せない。低いドローンのモーター音と彼の罵声が飛んできて、大丈夫そうだという妙な安堵感が胸に広がった。
 視界の端には憔悴した老人と、静けさ、体の気怠さ、そして弐ノ宮さんが無事なら何とかなりそうだという状況が、似つかわしくも「眠い」というシンプルな情動を起こさせた。体内に巡っている麻酔のせいか、気絶に近い状態が脳に起こっているのかは、今の私には分からない。もしこれで気絶できたなら人生初めての経験だ、ともつれるような思考の端で思い浮かべたが、響いた女性の悲鳴でその思考も掻き乱され、すぐそこまで姿を見せていた気絶も何処かに吹っ飛んでしまった。
「燿さん! やめてよ、ひどいことしないで!」
 背中を向けた弐ノ宮さんと、彼に引きずられるままの士師が入ってくる。それから少し遅れて、顔を青ざめさせた八重樫さんと数機のドローンが続いた。士師も櫛原と同様にネットが被さっているが、暴れなかったらしく大して絡んではいない。
 半ば乱暴に床に転がされた士師は、大腿部を押さえて呻いていた。その上に弐ノ宮さんが屈み、
「太い血管は外してる。これくらいで死にゃしない。弾も抜けてるからな」
 聞こえているのかいないのか、八重樫さんがポケットからハンカチを取り出して塞ごうとするが、脚の殆どが血まみれで何処が被弾部か分からないようだった。
 弐ノ宮さんは部屋の隅のバケツを蹴倒し、酸性液体の中から通信機を拾い上げてコートの端で拭った。
「応答願う、もしもし、もしもーし」
 いつかのように通信機を振り、パチパチとスイッチのオンオフを繰り返すが、今度こそ応答が無くなる。仕方なさそうにイヤホンマイクのコードを巻いてポケットに突っ込み、
「上に戻って合流しましょう。ドローンが来てるなら、こっちの状況に気づいてると思うので」
 そう言いながら私に肩を貸し、仕切りガラスの外に出した。士師、櫛原、八重樫さんを中に残したまま鍵をかけ、仕切りガラスの向こうに閉じ込める。振り返ると、彼の動線上に血液が滴っていた。
 通路を飛んでいたドローンが案内するように私たちを待ち、先行してエレベーターの方に向かった。カメラは搭載しているがマイク機能はついていないようだ。
「モモは殉教するぞ!」
 不意に後ろから士師が叫んだ。仕切りガラスの中で、彼は八重樫に寄り添われながらもその存在に意を介さず、苦悶の表情を此方に向けていた。痛みに対するものなのか、他に対するものなのか、苦しさの矛先は分からない。
「あいつにはこの計画のために死んでもらう。あいつだけじゃない、他の大勢もだ。もっと死人が必要なんだ。警察だろうが何だろうが、止めたかったら止めてみろ……マインドパルスで『人が自ら』死ぬって見せてやるよ」
 殆ど狂気的な瞳で士師は私を見ていた。まるで私だけが生きた証人になるとでも言いたげだ。青白い顔には生気が漲り、この瞬間こそが彼の人生だったと言わんばかりの気迫さえある。
「……行きましょう」
 弐ノ宮さんが腕を引いた。眉間を寄せ、額に薄ら浮かんでいた汗が玉粒になって一滴流れる。刺し傷のある脇腹はコートの下に隠れて見えないが、ズボンを血が伝っている。拳銃を低く構えて呼び寄せたエレベーターの箱を待ち、到着する前に私を脇に寄せて中をチェックした。彼が先に乗り込み、私を隅に乗せて扉を閉じる。地上階ボタンを押すと血で擦った痕がついた。
 箱が上がっていき、弐ノ宮さんの顔の輪郭がはっきり視界に捉えられる。私は袖にぶら下がっている自分の左腕に触れて、その指先から麻酔が抜け始めていることに気づいた。足元はまだ分厚いスノーブーツを履いているように感覚が帰ってこない。エレベーターの上昇に伴うものか、ぼうっとする熱っぽい頭の痛みが広がり始めた。
 ポーン……と小さな狭い空間に空々しい音が響く。一階のランプが光る。
 開いた扉に向かって弐ノ宮さんは銃口を突き出し、正面、右、左と順に警戒してから進んだ。無人の一階エントランスに出て、今度はエスカレーターが延びている天井に向ける。受付も職員も消えていて、代わりに何機かのドローンが飛んでいた。群れを成し、一気にホバリングで二階まで飛んでいく。
 群れを離れた一体が此方に向かってきて、
「壱ヶ敷、護衛君」
 聞き慣れた声がノイズ交じりに聞こえてきた。ドローンの下からは白いビニール袋がぶら下がり、不安定に左右に揺れている。
「……三上さん?」
「悪いが、今は何も言わずにこいつを使ってくれないか」
 ドローンの体を揺らし、ビニール袋の音を立てる。言われるがままに袋を外して中身を取り出すと、中にはアルミのケースが入っており、蓋を開けると細いシリンジが収められていた。ラベルには「筋注」とだけ書かれている。
「こいつは?」
 護衛が眉間にしわを寄せてドローンに訊ねる。その不快そうな表情が何に由来するものか判別つかないが、先程よりも顔は青ざめていた。
「鎮静剤だ。犯人が特定されている場合に限り使用が許可されている。今、上の階で犯人が人質を取っている」
 モモのことだ、と分かった。仮に捕獲ネットや催涙弾を使っても、マインドパルスで死ぬような行動を取らせれば意味がない。それならマインドパルス使用中でも私が接近し、麻酔を打てということだろう。やはり私は警察にとって何処までも使える駒という認識らしい。
「護衛君、あんた残りの弾は?」
「……装填済み一発、マガジンひとつ」
「ま、待ってください、弐ノ宮さんは――」
 怪我を、と言おうとしたが、彼は私を遮った。
 彼の脇腹を刺したのは私だ。そうすれば彼はマインドパルスを逃れて状況を打開してくれると信じた。その信頼は確かに今もあるが、この状況を人道的に何処まで利用して良いのかは分からない。しかし本人の意思は固く、既に足をエスカレーターに向けていた。
「よし、それじゃあ状況を説明するぞ」
 ドローンがふわっと上昇したので、自然と視線が上に誘導された。
 天井に向けて吹き抜けになっているエントランスホールは、長いエスカレーターが規則的に折り返されて上階に続いている。吹き抜けを複数のドローンが虫のように飛び交っていた。
「今、百人以上の人間が三階から七階に向かってのろのろと大移動中。移動するだけでそれ以外の動きは見えない。……いや、階はばらばらだが窓を叩き出した」
 ドローンがエスカレーターの真上を滑るように飛んでいき、私たちもついていった。殆ど二段飛ばしに近い駆け足で上へ向かう。弐ノ宮さんは低く悲鳴を漏らしたが、ひと呼吸吸い込んでからは堪えるように上っていた。
 二階、三階と上っていく内に人の気配が近づいてきた。どん、どん、と窓を叩く鈍い音も聞こえてくる。四階に上がったところで、茫洋と集まる人々が見えた。まるで解放を願う囚人のように、皆一様に窓に向かって掌を叩きつけている。白衣の姿もスーツの姿もあった。
「止まってください……止まってください……」
 飛んでいるドローンから何度も警告が繰り返されているが、結果は虚しい。ネット射出装置を備えた機体は捕えるべき相手を見つけられずにもどかしそうに飛び回っている。モモは一度何処かに姿を隠しているらしい。
「突入が遅れたのは非常階段にまでバリケードを張ってたからだ。監視カメラもあちこち剥がしてやがった。素人だと思ってたが、こいつら結構用意周到だぞ」
 四階から五階へエスカレーターを駆け上がり、人波が厚みを増していた。待て、と三上さんの少し焦った声が響く。
「何か変だ……カメラ向けろ……おい、冗談だろ」
 止めろ止めろ、と別のドローンから叫び声が上がった。三上さんのドローンが垂直に上昇していき、私と弐ノ宮さんは自然に足を止めて視線で追いかける。
 吹き抜けの柵に人々が群がっていた。初めは何かを求めて吹き抜けの中央に手を伸ばすように見ていたが、やがて人々は柵に脚をかけ、透明な床でもあるように宙へ踏み出した。
 雨のように降り注ぐ人々が、私と弐ノ宮さんの眼前を通り過ぎていく。二〇、三〇もの人々が堅い一階の床に向かって降り注いでいく。ああ、と悲鳴が折り重なり、吹き抜けの上下に響き渡る。ふと下を見ると、一階には人間が折り重なって山ができていた。
 弾かれたように弐ノ宮さんが駆け出したので、私もつられて後を追ったが、彼は上を向いたまま六階で足を止めた。銃口を上げた方向を見ると、七階の手すりの前にモモが立っている。周辺をドローンがホバリングしており、制止命令を出している。
「士師は確保しているぞ!」
 弐ノ宮さんが声を張り上げた。柵の高さは小柄なモモの体を隠しており、拳銃の射線が切られていたが、頭と肩は辛うじて見えていた。
 モモは冷めた目で此方を見下ろしていた。耳を貸さないというよりも、たったひとつの目的に意思が固まっている様子だった。柵に寄せる人波が次々に空中へ飛び出しても眉ひとつ動かさず、淡々とその影を見送っている。
 ポケットに入れたシリンジの感触を右手に確かめた。飛び出してモモに接近することを考えたが、その前にモモが柵の下へ飛び出してしまいそうな予感がある。殉教と士師は言っていた。
「これ以上被害を出してもお前の立場が悪くなるだけだ! マインドパルスを悪用してもお前が得することはないぞ!」
 ドローンの誰かが説得を試みようとしたが、モモは強く頭を振る。
「この病気は――」
 高く細い声を絞り出した。
「この病気はこの時のためにあるの。このために生まれたの。この行動が、病気を持って生まれたこの人生を救ってくれるの!」
 そう言ってモモは柵に両手を乗せ、まるで鉄棒で遊ぶ子どものように自分の体を持ち上げた――と思うと、体が強い力に弾かれて柵の後ろに吹っ飛ぶ。赤い血飛沫が軌道を描き、弐ノ宮さんが躊躇なく肩を撃ったのだと分かった。しかしモモは血塗れの肩など厭わないかのように柵に縋りつき、あっという間に乗り越えてしまう。小さな影は何もない空間に飛び出した。
 私は己の無力を悟りながら、柵に飛びついて右手を差し出した。例えモモの体を掴んでも加速度に耐え切れないだろうし、運良く掴めても引き上げられるはずがない。何にもならない右手を宙に差し出して、そこまで考え、それでも引っ込めることが出来ない――だがその諦観を尻目に、弐ノ宮さんが猛然と柵を乗り越え、同じく宙に身を投げ出していた。空中でモモの体を抱え込み、一階に向かって頭から落下していく。人山の上を跳ね、転げ落ち、彼の腕からモモが床にごろんと投げ出された。
 私は柵を掴んだまま、ぴくりとも動かない彼らを見下ろし、呆然として息を呑んだ。一秒とも二秒ともつかない時間を浪費する。それからにわかに「蘇生」という医者としての本能が沸き立ち、落ちるようにエスカレーターを駆け下りる。二階に差し掛かった所で、転がっていたモモの腕が微かに動くのが見えた。たちまち目が開き、私と目が合うや否やがばっと跳ね起きて、何処へともなく逃げ出そうとする。しかし落下の際に脚を痛めたのか、人山に脚を取られたのか、もつれて床に手をついた。
 私はポケットからシリンジケースを出して右手で中身だけを取り出すと、ケースを投げ捨て、無意識にシリンジから空気を抜いていた。私も生きた人間を相手に注射を打つことがあるのだなと呑気な思考が頭を掠める。立ち上がろうともがくモモの背中に覆い被さり、その細い肩に鎮静剤を突き立てた。
 モモは悶えるような悲鳴を漏らして尚も足掻いたが、やがて観念したように私の腕からずり落ち、膝をついた。床に寝かせると、目は開けているが動こうという気配はない。ただ憎悪の籠った視線を私に送り、やがて瞼の重みに抗い切れず目を閉じた。
 数機のドローンが一目散に飛んできていた。私はそのドローンに向かってモモを指し示し、救急車、と叫んでから弐ノ宮さんの方に取って返す。
 彼は人の山の麓に、大の字になって寝転がっていた。山の上から彼の体の下までべっとりと赤い筋が引いてある。私の中には希望も絶望も無かったが、駆け寄ってバイタルを確認するとさすがに絶望の感覚が込み上げてきた。呼吸無し、心音無し、チアノーゼあり、低体温、腹部出血あり。私はガラクタになった左腕をぶら下げたまま、右手を彼の胸骨に重ねて全体重を乗せ、一、二、三、と圧迫を開始した。手の下には本来あるべき胸郭の弾力がなく、ただ虚しく肉塊を圧迫しているだけのような心地になったが、めげずに――と言うよりはゴールのないマラソンを走っているような心地で――暫く続けていると、弐ノ宮さんの弱く咽る声が聞こえてはっとする。
「弐ノ宮さん、分かりますか? 弐ノ宮さん?」
 胸骨圧迫で切れ切れになった呼吸で呼びかけた。
 彼は焦点の定まらない目を空中に彷徨わせ、覗き込んだ私の顔を探していた。唇を細く開閉させ、何かを訴えたいのだと分かって耳を寄せると、
「煙草――」
 彼は絞り出した声でそんなことを言う。私は「はあ」と嘆息にも安堵にも似た息を漏らした。こんな死に体の状態で喫煙させて良いはずは無いが、しかし死に体だからこそという考えも同時に過る。
 もしも彼がこのまま解剖台に上がってきたら、私は疑うことなくメスを入れるだろう。真っ青で、血の気が失せ、手足を動かさず、ただ血だまりの中に倒れている彼に、腕を失ったあの日の自分が重なった。
 あの日の私と違うのは、今にも彼が気を失ってしまいそうだと言う点だ。彼は私と違い、あっという間に意識を手放して、心臓の動きを止めてしまいそうだった。
 弐ノ宮さんのコートの端を彼の左腹部に被せて圧迫止血を開始するが、弛緩した筋肉と生温い血液が右手の下から手応えを奪っていく。少しずつ脈圧が弱くなっていく。彼を何としてでも生かしてやろうという気持ちが、良かったと思える人生であってほしいという気持ちにすり替わっていく。
「……後悔はしませんか?」
 私はそう訊ねながら、傷口から右手を離し、彼のハーネスのポケットを探って煙草とライターを取り出していた。一緒に入っていた高エネルギー剤のタブレットケースがべっとりと血をつけたまま滑り落ちる。
「……うん……」
 弐ノ宮さんはうめきとも頷きともつかない声を上げて、ただじっと私の顔を見ている。意識があるかどうか分からないのに、何故か彼は私を見ているのだと錯覚させる。この場にあって――少しずつ人々が正気を取り戻し、混乱を取り戻し、遠くからサイレンが響き始めたこの場にあって、彼にとっては意思を交わし理解してもらえるのが私だけだと、そう思わせた。
 私は煙草の箱から一本取り出して自分の口にくわえ、ライターで火をつけ、ライターを置いた手でまた口から煙草を離し、彼の唇の間に差し込んだ。自分で吸ったことはないが、吸っている人間を見ていた記憶からミラーリングした脳が、右手に流暢な動作をさせていた。私の手にも、煙草の箱にも吸いさしにもライターにも、べっとりと彼の血が付着し、私ひとりだけがこの場で生きているかのようだった。
 自然と頭の中には分室の解剖室が浮かび上がってきた。銀色の解剖台で私と遺体が向かい合い、私の手によって開かれた遺体から、私は遺体の最期を拾い上げている。そうしながら私は過去の自分を救い、目の前の遺体を救おうとしている。
 煙草をくわえた弐ノ宮さんの肺が上下して、燃えている先端がほのめいた。長く、深く息を吸う。吸いさしを離してやると、ふうぅ、と細く浅い息が漏れ出る。その唇の端が微かに上がり、彼の視線が私の顔にはっきり注がれている感覚が生まれる。彼はぎこちなく、ゆっくりと右手を動かし、私の左肩にぶら下がっている腕に触れた。唇からは息しか漏れない。それでも彼が何を言おうとしているのかは何となく分かった。
 腕を壊してすみません。手術の日まで警護できなくてごめんなさい。
「起きて快復するまで待ちますよ」
 私がそう言うと、弐ノ宮さんは笑い声のような息を漏らした。それから深呼吸するように、すう、と息を吸い、暫く止まって、漏れるような息の音が喉から聞こえる。彼は眠るように目を閉じていた。
「弐ノ宮さん?」
 私は特に考えもせず、床に広がった彼の血に吸いさしを押し付けて火を消し、不道徳なことをしたなと思ったが、それよりもバイタルの確認を急いだ。ドローンを呼びつけ、救急隊を呼ぶように急かす。彼の死に抗っていることを証明するかのように無意味な止血行為を再開していた。



 電極プローブの交換手術が行なわれ、それに合わせて私の義手はダウングレードされた。少しだけ勝手が悪くなり、より視覚的なフィードバックが必要になったものの、今のところ職を変えずに済んでいる。
 士師と櫛原は逮捕され、それぞれ出生から遡って経歴が洗われているようだ。櫛原がずるずると薄暗い経歴を暴かれつつあるのとは対照的に、士師とモモは依然不明な点が多いらしい。
 モモは身体所見から十代と判断され、拘置から保護観察に扱いを変え、治療プログラムが徐々に開始されている。八重樫さんは犯行グループのひとりと考えられているものの具体的にどう関わったかが不透明であり、未成年ということもあって立件できるかどうか判断しかねているようだった。士師はずっと黙秘を貫き、何も話していないようだ。
 遺体開頭事件、玖瀬祈事件、研究所集団飛び降り事件――この三件は士師の予想通り、世間の目を強く惹きつけた。特に研究所集団飛び降り事件についてはその一部始終をマスコミが遠くから撮影していたらしく、大窓に駆け寄る人々と吹き抜けを上から下に落ちていく無数の影が人々の想像と恐怖を掻き立てた。マインドパルス症患者に対する恐怖は見事に煽られたというわけだ。マインドパルス症患者を怖がる人間と哀れに思う人間で世間が二分された。政府と医療機関が合同でマインドパルス症患者のための声明を出すらしいが、どちらの権利を守る内容かは明かされていない。
 あれから二ヶ月が経過しようとしている。退院したのが先々週で、私もいよいよ新しい左腕が馴染んできていた。
 手術以来、私が就寝中に見る悪夢は少し質を変えていた。タイヤに轢かれて痛みに悶え苦しむ私を、もうひとりの私が外側から眺めているという奇妙な構図に成り変わっていたのだ。時にはタイヤに轢かれる私の代わりに士師が横たわっていることもあった。
 士師は憮然とした表情で此方を見ていて、お互い何も喋らず、高速回転するタイヤが迫るまでじっと睨み合っていた。そしてタイヤが走り去ると士師のもとに駆け寄り、私は彼を助け起こし、何か会話をするのだが、何を話しているのか分からないままで夢から覚めてしまうことが多い。一度だけ覚えているのは私が士師に向かって、
「あれ、痛いですよね」
 まるで同じ虫歯治療でも受けたようなこと笑って話し掛けていた。士師がどんな表情を浮かべ、どんな言葉を返したかは覚えていない。私自身が私の言葉に驚いて起きてしまったためだ。
 夢の中の私は何のつもりであんなことを言ったのだろう。士師に言いたかった言葉、私なりの事件に対する心の整理、士師の向こう側にいる幼い私への慰め。どれもそれらしく見えて、的を射ていない気がする。
 士師が中心になって起こした事件は、やはり刑事事件であるし、そこには他人を害するという彼らの明確な意思が存在している。他人を不幸に巻き込んだ以上は罰せられるべきだと私も思う。しかし心の何処かで、士師もまた幼い自分自身に囚われ続けているのであれば楽になるすべが見つかると良いのにと思う。
 弐ノ宮さんは現場から救急搬送され、以降連絡が途絶えていた。一度民間の外来に運ばれ、その後、国防省運営の軍病院に運ばれたらしいが、マンションの部屋に帰ってきた形跡はない。「連絡下さい」とメモ書きを玄関の下に差し込んでおいたがそのままになっている。ポストの方は郵便物が溜まり始めて床に落ちていたので、一部は私が回収して部屋に保管していた。役所からの通知等は無く全てショップのダイレクトメールだったものの、勝手に捨てるのは忍びない。
 あんな大怪我をしたのなら、そうそう簡単に帰ってこられないのは当然かもしれない。肋骨の治療と臓器の回復で最低でも三カ月くらいは掛かるだろうか。それとももう――。
 私用スマホには連絡先を入れていないし、支給スマホは治安維持局に回収されている。手術を終えてからは身辺警護が終了しており本部にわざわざ連絡するのも妙な感じがする。
 もうひとつ確認をしにくい理由は、私がある記憶を思い出したことにあった。コーヒーを入れて解剖準備室の本を読んでいた時、記憶の引き出しに引っかかっていた本をようやく思い出し、それに付随する様々な記憶も蘇った。
 記憶の中で私は『基礎脳神経生理学白書』という本を読んでおり、脳と意識について調べていた。その本では『脳神経脊髄接合理論』という理論について熱を持った文章で説明されていた。簡単に言えば脳死患者や脊髄損傷患者がドナーの新しい肉体を得るという治療論だが、幼かった私にはあまり興味がそそられなかった。写真を眺め、そこに映っている著者と共同研究者の姿を見ていた。
 著者も背後にいる共同研究者の男性も揃ってくたびれた白衣を羽織り、いかにも休憩中と言った出で立ちで何処かの部屋の角に佇んでいた。著者はカメラ目線で、共同著者は俯き加減で、たった今カメラが構えられていることに気付いたかのように目線だけ此方に向けている。真面目そうな堅い表情をして、下がった口の端に手を添えているように見えるが、指の間には燻ぶった煙草が挟まっている。写真のタイトルには「著者と共同研究者・弐ノ宮佑博士」と記されていた。
 私はこの記憶を思い出して、本を読んでいた当時に時間を飛ばされたような心地になり、また今目の前で初めて本を読んでいるかのような心地になった。そして本に印刷された写真が目の前で臨場感を持ち、温度とにおいを伴って私との空間を共有した。
 中年を迎えた弐ノ宮博士は、研究者らしく適度に切り揃えた髪の下に、年相応のしわと肌の老化を刻んでいた。そこには確かに、私の知る弐ノ宮さんの面影がある。ただまとっている雰囲気はいかにも科学者らしい知的探求心と気難しさがある。この弐ノ宮博士は、殆ど私の知っている弐ノ宮さんと相似だ。しかし同一ではない。
 私の脳裏には収容番号十号の話が蘇り、二枚の士師の写真が蘇ったが、結局正解は分からないままだ。正解が分からないので、治安維持局に消息を尋ねて良いものかも分からない。
 誰かが倫理を踏み越えたとして――それが五〇年前の発光現象の前にせよ、後にせよ――踏み越えた先に弐ノ宮さんがいたとすれば、彼が赤月発光症候群の扶助金を申請していないことも、過剰増殖性細胞症でありながら何となく患者らしくない部分があるところも、三上さんが経歴を遡りきれなかったことも、全て説明がつくような気がした。それと同時に、発光現象が押した人類の体のスイッチは本当に赤月発光症候群だけなのだろうかという疑問も浮かぶ。
 このまま彼が姿を見せなければ、彼は公的書類に残らないまま存在を消す可能性さえあるが、それは何と無く寂しいものだ。私が職業柄、人の最期の書類を書く立場にいるからかもしれない。
 ベッドに体を起こした。腹の脇で寝ていた飼い猫のチャムが片目を開け、此方を見ている。頭を撫でると彼は寛容にそれを受け入れて目を閉じ、また寝入った。
 ベッドからそっと立ち上がって薬箱まで向かい、睡眠薬を飲むべきかどうか迷って、結局薬も取らずにキッチンへ行き、コップ一杯の水を飲んだ。体の中を冷たい液体がすっと落ちていく。
 コップを片付けてベッドに戻ろうとしたが、そう言えば以前もこのタイミングで洗濯物を片付け忘れたのに気づいたんだっけと思い出した。それからまた、夜に洗濯したチャムのタオルが干しっ放しであることを思い出す。キャリーケースの中に入れていたものを洗ったのだった。
 ベランダの方を振り向いた時、カラカラカラ、と網戸を引く音が聞こえた。二〇〇八号室はまだ入居が決まっておらず、人がいるはずがない。では、と微かな期待を抱いてベランダに出て、裸足のまま二〇〇六号室側の非常用パーテーションに駆け寄った。しかしそこには室外機だけが見え、ガラス戸が開けられている様子も無い。上か下の住人が開けたらしい。
 そんなものだよな、と思いながら、私は欄干に手を掛けた。遠くの航空障害灯が瞬いて、星の代わりに強く輝いている。地上ではサイレンが鳴り響き、不眠症のような街が昼と変わらない賑やかさを見せている。ハンガーに掛かったチャムのタオルが風に揺れた。
 不意に何かを燻ったようなにおいが鼻に掠め、私はいつの日かもこんな夜があったなと思い出した。大抵の人の生活からは切り離された習慣、ふらっと姿を消した人が、帰ってきたと思ったらまとっているようなにおい。それから一度だけ私も口にしたことのあるにおい。
 パーテーションの方を振り向くと、カラカラカラ、と音が鳴り、やがて一筋の煙が漂ってきた。