私は地面に横たわっている。アスファルトの上に四肢を投げ出して、低い轟音が迫るのを待っている。まるで杭を打たれたように、身を起こして逃げ出すことも、寝返りを打つことも叶わず、大きな黒いタイヤが高速回転しながら迫るのを待っている。
 私の左腕は細く、頼りなく、あっという間に四トントラックのタイヤの回転に巻き込まれ、引きちぎられた腕が後方に跳ね上がっていく。さながらホームランを打って投げ捨てられたバットのように宙でうねり、アスファルトに転がる。
 トラックが過ぎ去ってしまった後も、私は自分の体からちぎれた左腕を見ている。肩に辛うじてしがみついている上腕の上端と、遠くに転がっている上腕下端の間にはモザイクのような闇がうごめいて、そこに神経が通っているような感覚はない。
 私の感情は気の遠くなるような思いをしていたが、私の理性は意識にしがみついて事の始終を海馬に刻みつけていた。呼吸、心拍、汗が冷える皮膚感覚、左肩を濡らす血の温度、激痛と呼ぶには余りある痛み、アスファルトの上に漂う排気ガスのにおい。全てが記憶細胞ひとつひとつにしみついて、一思いに気絶させてくれと泣き喚きたい感情を無下に抑えつけられる。
 また轟音が響いてくる。トラックが迫ってくる。そうやって私の右腕が、左足が、右足が、首が、胴体から引きちぎられて、それでも私は、痛みから解放されることも叶わず、そのすべての行方を目で追っている。
 いつの間にか私の周りには救急隊員が集まって、私の体をストレッチャーに乗せ、何処かに運ぼうとしている。
 私は彼らに向かって事情を説明しようと試みている。何が起こり、自分がどうなっているのか。患者である私が、自分で全てを説明しようとしている。しかし、救急隊員がバイタルサインと搬送先の病院名を怒鳴り合っているので、私の声は届かない。血圧と血中酸素濃度を叫ぶ声も飛び交ったが、首と四肢と胴体が離れている状態でそんな行為に意味はあるのかと、私は意識の端でひどく冷静に考えている。
 やがて救急隊員が蜘蛛の子を散らしたように周りから消え、手術着に身を包んだ医師と看護師が自分の体を手術台に並べていく。左肩と左腕の間に青緑色のスクリーンが下ろされ、その向こうには強い照明でメガネを反射させた医師が立っている。彼は青緑色のゴム手袋にメスとピンセットを持っており、スクリーン越しに私を見下ろして、
「麻酔は要らないね」
 無感情なほど落ち着いた調子で言って、ピンセットの鋭い先端を左肩の露出した肉の隙間に押し込み、断裂した神経をつまみ上げ――



「――――」
 何処か遠くで声が聞こえたような気がして、ああ、自分の声だ、とすぐに気が付いた。「痛い」だか「やめて」だかを寝言で叫び、その声で目覚めたようだ。
 室内はまだ暗く、就寝してから大して時間が経っていないらしい。枕もとのスマホを手繰り寄せると、画面のデジタル時計は午前二時を表示している。良かった、まだ寝れる、という安堵と、明日も仕事なのに睡眠を邪魔されてしまったという口惜しさが、既に眠りの満足感を妨げていた。
 時々、こんな悪夢を見る。それも今回は最悪の状態に近い。普段なら断片的に、今日は腕だけ、昨日はトラックが過ぎるだけ、というものが、たまにひとつの夢に放り込まれ、一緒くたにされてしまう。夢とは記憶の再編であると言われているが、そろそろもっと効率的な方法を脳が編み出しても良いのではないかと思う。
 スマホを枕横に戻すと、お腹のあたりから四つの圧点が迫ってきて、夜闇の中により濃くて小さな影がぬっと現れる。二つの小さな瞳が、カーテン越しに入り込んだ外光にぼんやりと照らされている。飼い猫のチャムが、主人の突然の起床に不服を申し立てに来たようだった。謝罪代わりに顎の下を撫でると、彼は胸から下りて右脇の隙間に潜り込み、主人の腕を押しのけて丸くなる。
 猫を下敷きにしないよう、右腕と胴体で挟むようにして横向きになる。布団を掛け直したついでに、体の上になった左肩を右手で触り、上腕の半分から先がないことを確認する。肘や手首は存在せず、幻肢感覚さえもない。私の現在の左腕はテーブルの上に転がっている。筋肉と運動神経と感覚神経と皮膚と脂肪の代わりに、モーターとケーブルとプレートで構成された腕が、ハーネスやデバイスと一緒に並んで、ユーザーに使用されるのを行儀良く待っている。
 腕を視認している自分の眼がすっかり冴えてしまっていることに気づいて、もう一度眠れるだろうかと考えた。同じ夢を見るのも御免だ。朝起きる時間を逆算して、短時間作用型の睡眠薬に頼ることにした。
 室内は暗く、例え住み慣れた部屋であっても明かりをつけずに歩き回れる自信はなかった。万が一転んだとき、咄嗟に出せるのは右手だけというのも理由のひとつになる。折角さっきまで眠っていた猫が、起こされた挙句に電気までつけられてはたまったものではないだろうが、そこは人間の都合を優先させてもらう他ない。
 枕元を探って、スマホの隣の調光リモコンを取り、常夜灯のボタンを押す。天井の照明がぼんやりとオレンジ色のライトを光らせる。ベッド下に脚を下ろし、大きな家具のぼんやりとしたシルエットを避けて、キッチンまで向かった。
 キッチンカウンター上の薬箱を開いて、睡眠薬のシートを取り出す。先週も飲んだので、何となく箱のどの位置に入れたかを覚えている。シートの裏に刻印された薬剤名を確認してから、シートごとキッチンに持って行って、食器用ラックのコップで水と一緒に飲む。無味無臭の小さな粒を一錠。
 食道から胃に向かって水道水に押し流された錠剤は、何故か飲んだ時点で既に効き始めているような心地さえある。実際には胃に到達して溶け始めるまで、少なくとも一五分から三〇分は待つ必要があり、この隙間時間がいつももどかしいと思う。
 コップを片付け、ベッドに戻ろうとして振り返ると、猫は常夜灯に照らされながらベランダのカーテンを見ていた。外のぼんやりした明かりの中に、遠くの航空障害灯がワンポイントのように点灯している。飛行機よりも低い位置を飛ぶヘリやドローンのために、マンションやビルの上で白い障害灯が光っている。
 カーテンを見て思い出したのは、夜に洗濯を回して外に干したまま、忘れて就寝してしまったことだ。室内に干して湿度が上がる感じが不快なのと、どうせ外に干しても誰も盗みはしないという過信から、外に干していたのだった。
 気圧差で重たくなった窓を片手で開けるのは、寝起きにはなかなかの重労働だ。ようやく細く開けると、隙間から室外の空気なだれ込んで笛のような音を立て、カーテンをめくり上げる。すっかり開けてしまうとカーテンは何事もなかったかのように落ち着いて、晴れてしんと静まり返った地上二〇階のベランダは、地上の歓楽街の怒号も、緊急走行中のサイレンも届かない。
 置きっぱなしで褪色したプラスチックの踏み台の下から、サンダルを引っ張り出して足を引っ掛け、猫が出ないように後ろ手で網戸を閉めた。再びさっと夜風が吹き込んで洗濯物とカーテンを煽る。ハンガーに下がったピンチが互いにぶつかってカチャカチャと鳴った。
 夜の高層マンションに、音はよく響く。隣室のベランダ窓の鍵がカチャンと下ろされたのもすぐに気づいて、私は息を潜めるように動きを止めた。カラカラと網戸が引かれ、左の部屋の住人がベランダに出て来たことが、避難時以外は蹴破られることのないパーテーション越しに察知できる。私がサンダルを履いて立ち尽くしたまま、気取られないように恐る恐るピンチハンガーを竿から外そうと試みているうちに、カチャン、パチン、と音が聞こえた。
 深く息を吸い込んで、少し止めて、またゆっくりと息を吐き出す。吸気を味わうような、呼吸することそのものを味わうような、現代では少し贅沢にさえ思える習慣を隣人は持っているのだろうか――と思っていると、夜風に乗って、パーテーション越しに有害な化学物質のにおいが運ばれてきた。
 これは医学生の時、片手で数えるほどしか嗅いだことのないにおいとして記憶されていた。どちらも、歳を重ねた医師がふらっと姿を消して、帰ってきたと思ったらまとっているようなにおい。大きな施設の端っこに追いやられてしまい、昔はすし詰めだったが今や貸し切りのような密度で、大抵の人の生活からは切り離された喫煙習慣を、左の隣人は持っているようだった。
 隣人もまた教授陣と同じように、結構な年齢の人物なのだろうか? 頻繁にベランダで吸っているのだろうか? マンションの規約も、今や喫煙に関する項目は小さな文字で、後ろの方に追いやられている。ペットはクリーニング代の前払いが義務付けられているが、恐らく喫煙に関しても似たような規約があるはずだった。
 顔も知らない隣人はまたひと吸い、ふた吸い、味わうようにゆっくり呼吸している。知らない人間の呼吸音を黙って聞いているのは、他人の寝息を聴いているようで居心地が悪い。それに洗濯物ににおいが移るかもしれない。私は忍ぶのを諦めて、さっとピンチハンガーを竿から取り外し、サンダルを脱ぎ捨てて網戸の向こうに引っ込んだ。
 その間、隣人は音を聞きつけてはっとしたように呼吸を止めて、様子を窺うかの如くじっとしていた。
 私が窓を閉め切ると、ベッドから下りた猫が遠慮深げに首だけ伸ばして「ナ」と声を掛けてくる。回収した洗濯物には彼が愛用しているタオルも下げられており、外して彼に投げてやると真面目な顔つきでにおいを嗅ぎ始めた。
 ピンチハンガーを室内物干しに引っ掛け、ベッドに戻る。常夜灯も消して枕に頭を預け、胸の前でタオルを嗅いでいる猫を眺めていると、徐々に瞼が重くなってくるのを感じる。脳の緊張感がほどけ、思考が緩んでく。そのうち猫の方が先に寝息を立て始め、その規則的な鼻息に耳を傾けていると、間もなく眠りに落ちた。



 いつも通り出勤したが、メールチェックしていたところで電話が掛かってきた。用件を聞いて、すぐに白衣を取り上げてオフィスを出る。電子ロックを掛け直してエレベーターで地上四階まで上がり、第三会議室の扉をノックしようと思ったが、扉は内側に向かって開いていた。失礼します、と言いながら中を覗く。
 シルエットの細さと結わえられて背中に垂れた髪を見て、背の高い女性が立っていると思ったが、着ている黒いロングコートを見て男性だと思い直した。しかし振り返って人懐こい笑みを向けられると、やはり女性の可能性も蘇ってくる。
「初めまして。壱ヶ敷さんですか?」
「はい……解剖室分室の壱ヶ敷です」
「治安維持局の弐ノ宮佑です。宜しくお願いします」
 差し出された手を握り返すと、手袋越しの骨格が男性的だった。私はまだ内心で性別が不確かなこの人物を見上げ、どうも、と改めて目礼する。彼は左側にイヤホンマイクを装着し、そのコードはハーネスの胸部ベルトに下げられた小さな通信機を経由してコートの下に隠れていた。ハーネスは目立たないように質素で細く、装飾品のような見た目をしているが、恐らく実用性重視のマガジンポケットや伸縮警棒などの標準装備も収納されているはずだ。正面からは見えないが、腰には拳銃も下がっているだろう。
 交わしている握手の横に、見慣れたスーツ姿の男性が立つ。刑事課の三上さんがいつも通りの色のない表情で私を見下ろしていた。
「さっき電話でも説明があったと思うが、本日付けで治安維持局の身辺警護が入る。警察も連携を取るが、基本的にはそっちの護衛チームがあんたの身を預かることになる。国防省の方が随分とあんたを気にしているらしい」
 三上さんはそう言って三白眼を弐ノ宮さんへ向ける。弐ノ宮さんの方はその視線を困ったような笑顔で受け止めていた。こんな一般人に身辺警護が就くことにも驚きだが、どうやら背景には行政機関同士の静かな駆け引きがあるらしい。何かを得るために自分の安全が利用されている気がしないでもないが、利用されなければそもそも自分の身が危険に晒されてしまうので無闇な拒否もできない。
 遺体開頭事件と通称される事件が起き、捜査関係者の間で私は次の被害者と目されていた。被害者も私も同じ製造会社の義手を使用し、同じ医師から手術を受けているので、次に犯人が狙うとすれば私が順当だろうなと私自身も思う。犯人は被害者である四波崎氏の頭頂葉に埋め込まれていた電極プローブを抜き去り、縫合もせずゴミ捨て場に遺棄した。その痛ましい遺体が私の解剖室に回ってきて、入念に頭部と治療記録を確認したところ、同じ医師の世話になっていたことが突き止められた。
 警察はまず、何故電極プローブだけが持ち去られたのかを考えた。義手は四波崎氏の体に装着されたままだったし、側頭部に埋められてプローブに繋がっているデバイスもそのままだった。ということは、単純な義手を狙った犯罪ではなく、電極プローブがピンポイントで狙われた可能性が高い。頭蓋骨の切断方法や、電極を一本も折ることなく除去した手並みから、私は「外科的手技に心得のある人間が行なった可能性がある」と所見を書いた。
 ここでひとつ浮上したのは、医療デバイスを狙った商業的な目的の犯罪だ。例えば産業スパイや転売。もうひとつ浮上したのは、何かを告発するために乱暴な手を使ってでも電極プローブを入手する必要があったこと。後者の考えが出てきたのは、医療記録を確認していた際に少々不自然なデータが出てきたためである。
 我々の主治医である五月女氏は義手を施術した患者の記録を、やや過剰なプロテクトをかけて保管していた。その記録は、埋め込んだ電極プローブの管理番号と施術前後の機能評価をふたつのグループに分けることができた。自然な通し番号を割り振られた平均スコアのグループと、不自然な通し番号を割り振られた優良スコアのグループである。全て義手ユーザーとしての平均スコアに収まっているものの、それは逆に、義手の理論値を常に出し続けているようにも見えた。また不自然群は術後も丁寧に経過が追われており、リハビリセンターでのフォローアップが他の患者よりも手厚いようであった。リハビリセンタースタッフとして機能評価をしていたセラピストたちは、不自然群の成績が良いことに気づいていたものの、それを異常だとは思っていなかった。私自身もそうだ。患者自身は他者とではなく術前と成績を比較するものだし――そしてそれは往々にして、何処まで成績が良くても術前を越えることはない――、セラピストにとっては同種の電動義手を使用する成績の良い他の患者に紛れてしまうので、そもそも疑う余地がない。
 五月女氏の厳重なプロテクトを掻い潜って、このデータを入手した人物がいた。三年前の不審なアクセスが確認され、この事件が先日起こり、警察が訪ねた頃には当の五月女氏は消息を絶っていた。これはただの治療関係ではなく、医師と電極プローブと被害者の何かがおかしいらしい、と関係者の全員が気づいた。
 警察という第三者が介入することで、被害者と私を含めた不自然群に使用されている電極プローブに対して改めて光が当たられた。まさか私たちの頭をもう一度開けるわけにはいかないので、あくまで予測の範疇を越えないが、一般に流通されている医療デバイスとしての電極プローブではないのではないか、という仮説が立てられた。機能評価の成績を鑑みると、一般の電極プローブと比較して伝導効率が良い可能性が高い。犯人はこの点に対して動機を持ち、治療記録にアクセスして被害者を探し出し、今回の殺人に及んだのではないか。そしてその治療記録には私の住所や電話番号を含めた個人情報も記載されている。
 何故、治安維持局――ひいてはこれを管轄する国防省がこの事件に興味を持ったのかは分からない。しかし警察である三上さんが面白くなさそうな様子だったので、事情があって首を突っ込んできたのだろう。
「警察でもあんたの護衛を手配予定だったが、その前に治安維持局が来てね。まあ、こっちよりもそっちの方が、色々システムに介入できて対応しやすいのは事実だよ」
「システム?」
 私が訊ね返すと、三上さんはぴっと天井の監視カメラを指差した。
「警備システム。監視カメラ、自動ドア、訪問記録、郵送物の検閲。お前のマンションにももう入ってるんじゃないか」
 弐ノ宮さんを見ると、彼は困惑とも笑顔ともとれない微妙な顔で小さく首肯している。
「身辺は俺だけですが、他のメンバーが傍に待機しています。何かあれば二分以内に駆けつける配置になってますから」
「ミイラ取りがミイラにならんようにな」
 三上さんはそう言って自分の側頭部をわざとらしく叩き、鳴っていた電話に応答する。忙しく電話の向こうに返事をして、立ち去る素振りを見せるが、廊下に出ていく手前で振り返り、
「一応聞いておくが、治安維持局のお兄さん。現在失踪中の五月女先生と面識は?」
「いいえ」
 じっとふたりで見つめ合うが、当の弐ノ宮さんは鋭い眼光にたじろいでいる。その顔つきに毒気を抜かれたのか、三上さんは嘆息を漏らして部屋を出ていった。
「いつもあんな感じなので、職業病だと思って大丈夫ですよ。自分の印象を操作して被疑者をコントロールする必要があるので。グッドコップとバッドコップの、バッド役ですね」
「冷静に分析されるのも、なんか嫌ですね」
 励ますつもりで言ってみると、弐ノ宮さんは苦笑していた。それから気を取り直すように、
「警護にあたっての注意事項や取り決めを説明したいんですが、どれくらいお時間頂けますか?」
「さっき電話で仕事の調整をしてもらったので、三〇分くらいはあります」
 解剖室長の計らいで、今日の解剖予定を少しずらしてもらっていた。職場も万全の体制で治安維持局の介入を受け入れるということだ。特にこの職場は民間人が所属するもののほぼ公的機関の一部と言って差し支えないので、省庁から命令されて二言目には「はい」と受け入れている様が目に浮かぶ。こんなことを論評している私自身も、やれと言われて断る自信はない。
「近くにいる自分は壱ヶ敷さんの安全を第一に行動します。此方のGPSと報告に基づいてチームが動くので、俺に何かあった場合にはチームの指示に従って下さい」
 そう言って弐ノ宮さんからいかにも官給と言ったシンプルなスマホが手渡された。パスコードロックを解除すると、中に入っているのは電話アプリとメッセージアプリ、後は設定ファイルといくつかのテキストファイルのみ。護衛チームとのみやり取りができるメッセージアプリと、解除画面からでも呼び出せる緊急コールの使い方を確認し、これを常に携帯しておくように厳命される。GPSはこのスマホと弐ノ宮さん自身についていて、護衛チームの方がいつでも確認できるようになっているのだろう。
 業務で得た内容は機密事項として扱うこと、捜査情報もこれに準ずること、自宅のカードキーのコピーが作成され身辺警護期間中は治安維持局で預かり、契約終了後は破棄されること、これらを含めた詳細な契約内容が支給スマホの中に明記されていることが説明された。自宅で書類にサインすればこの内容に了承するものとみなされ、その書類は自宅に郵送されるらしい。
 契約の期間は書類上明記されないが、私の脳内の電極プローブが交換されるか、その前に遺体開頭事件の犯人が逮捕されるまでだ。私の手術の日取りはすでに決まっていて、来月末を予定している。病院も執刀医も決まっているが、肝心の代替品の取り寄せが間に合っていない。既に取り付けている義手に適合する医療用デバイスともなれば、今日明日で収まる話ではない。
 確保されている医療用デバイスは、既に別の被害者候補に優先されていた。そちらは既に手術を終えているか、三日くらい自宅待機をして手術に臨むくらいの時期である。私は最後に順番を回されていた。
 三上さんは私の安全を慮っているような口ぶりだったが、その実、警察にとって私は都合の良いデコイのような存在だ。捜査機関に協力的で、その内情を知っていて、社会の不穏分子を排除することに理解を示せる。そんな私が列の最後に並んでいれば、私が手術室に入る前に犯人が再び攻勢を仕掛けてきても、捜査機関は気兼ねなく対処できる。警察の対応が遅いとか、民間人を守ってくれないとか、そんな文句は出てこないし、多少危険に晒されても犯人を逮捕するための協力だと説明できる。おまけに私は、今日から最大で一ヶ月間、自宅以外の生活を初対面の青年と共にすることになる。
 よくよく考えてみると結構なストレスだな、と私はトイレで手を洗いながらぼんやり思った。私にもストレスだが、こんな仕事を繰り返している治安維持局というのもなかなかストレスフルな職場だ。
 誰と話すにも護衛が必要で、何処へ行くにも護衛のチェックが入った。遠隔にいるというチームがどの程度干渉しているかは不明だが、恐らく職場のほとんどは監視カメラを通して見ているのだろう。
 右手と左手のスキンを使い捨てペーパーで拭いてトイレの外に出ると、弐ノ宮さんが番犬のように立っている。私が出てきたのを見て、「行きましょう」と先行して歩く。自分のことを孤独だと思ったことはなかったが、長時間も他人が緊密な距離に居続けると、今までの自分はひとりだったのだなと認識させられる。雑踏の中で自分がひとりであることを思い知らされるように、連れ立って歩くことでそれが身に沁みる。解剖台で物言わぬ死体と向き合う時間が長いせいもあるだろう。
 廊下を先行する治安維持局の制服は、死体と生体が同居するこの職場で浮いていた。街中に立つ軍人のような、病院で駆け回る生体のような、ちぐはぐな印象がある。非日常に放り込まれているという実感が今更になって湧いてきた。来客への印象を排除した機能性ばかりの薄暗い廊下を淀みなく歩き、仕事場である解剖室分室に戻って、彼がデフォルトとしての待機位置に立つと、いよいよその感が強まる。
 しかし仕事に戻ってしまうと、私は日常であるか非日常であるか関係なく、目の前の業務に集中していた。部屋の隅に積み上げた段ボールのひとつを抱え上げた時に「手伝いましょうか」と声を掛けられて飛び上がり、既に弐ノ宮さんを意識の外に置いていたことに自分で驚いた。
「すみません。義手の方ってどう手伝ったら良いか分からなくて」
「いえ、これで普段生活できてますから、大丈夫ですよ」
「何かあったら遠慮しないで言って下さいね」
 悪気なく微笑む彼に私もまた微笑み返したが、内心は罪悪感のような、自尊心を傷つけられたような、苦い気持ちが顔を出している。この気持ちは腕を失って以来一〇年以上の付き合いになるが、未だに仲良くなれた例は無いし、むしろ義手の練度が上がるほどその現実と周囲の視線が乖離していくような気がしている。人の助けを借りる必要が増えたことが、余計に自立心を強めたのかもしれない。そこに私は自身の幼さを見出し、成人してからも心の何処かで幼少期の自分を飼い馴らし続け、持て余していた。
 自分でやろうと思えば大抵のことを要領良く済ませてしまってきたことも、この事態に拍車を掛けている。それが却って「この子は自分でできるから大丈夫」という期待を周囲に抱かせた。手間のかかる子どもだと思われたくない気持ちもあった。私に構うより別の子どもを手助けに行く空気が醸成されたし、私自身がそういった子どもを助けに行くこともあった。周囲の大人がそうさせることさえ往々にしてあった。まるで私の左腕に役割を与えるようで、残酷なことだったなと今では思う。自分なりに立派にやってきた方だが、少し立派にやり過ぎたのかもしれない。大学に進んでからも就職してからもその役回りからは逃れられず、解剖室分室というひとりのオフィスを与えられてしまっていた。
 全ては腕を失ったことに端を発していると考えてしまう。失った腕は生えてこないし、毎晩のように悪夢を見るし、一〇年以上経過した今になって命の危険が迫っているし、ろくな目に遭っていない。無論、私は毎日解剖台の上で、同じような――あるいはそれ以上だが――ろくな目に遭っていない人の腹を開いているので自分はまだマシな方だと慰めることもできるが、幸不幸というのは人と比較するものでもない。
 事務机の上に載せた段ボールから琥珀色の瓶を取り出していく。形も大きさも異なるが全て酒瓶だ。憂鬱を前にしてこういうものに逃げたくなる気持ちもあるが、生憎アルコールの旨味が分からないので逃げようもない。
 職場で大量の酒瓶を取り出す私に、弐ノ宮さんが狂人を見るような視線を送っていた。
「……飲みませんよ? 捜査に必要なので」
 正当な理由を話したが、酒に溺れる人間の言い訳にしか聞こえない。部屋の隅には同様の段ボールがあと六箱積み上げられている。
 引きつった笑顔を返す弐ノ宮さんへ弁解しようとすると、ちょうど扉がノックされた。はい、と返事をし、弐ノ宮さんが廊下を警戒するようにゆっくり開く。六部ナツという化学分析室の後輩だった。
「おはようございまーす!」
 廊下で弐ノ宮さんと向かい合い、肩越しに私を見て部屋に飛び込んでくる。おっかなびっくりの素振りを見せているが、何のことは無い、興味本位で偵察に来たのだ。その証拠に彼女は好奇の視線を弐ノ宮さんへ注いでいた。
「えっ、あー、初めましてえ。室長が言ってたのってこの方ですか~? 六部です、どうも~」
「治安維持局から身辺警護で参りました。ご協力頂くこともあると思いますが、宜しくお願いします」
 彼女は透明ビニールに包んだ荷物を胸に抱えて、学生のようにはしゃいでいる。目新しいものを見つけるとすぐに飛びつく性格だが、放っておけば三日くらいで飽きる。職場の人間のほとんどはそんな彼女の嗜好に辟易しつつも、最近は「また始まった」程度の認識で流すことができていた。
 私は彼女の抱えている透明ビニールの中身を横から覗いて、保安検査済みマークが押された自分宛のタグがぶら下がっていることを確認する。通常なら運搬用ロボットが定時で運んでくる荷物だが、わざわざ保管室から自分で持ち出したのだろう。此処を訪れる理由を作ったに違いない。
「あ、これ、届けに来たんですよお。分析結果の方も今朝のメールに添付してたんですけど、先輩が返事くれなかったからリマインドの意味も込めて」
 私の視線を受けて六部さんが弁解した。
 今朝のメール……と記憶を辿り、ちょうど電話が来て中断されていたのを思い出す。まだ午前中なので他のメールも今からチェックして間に合うはずだ。
「すみません、今朝ちょっと慌てていたもので。こちら、検査ありがとうございます。結果も後で確認しておきます」
「はぁい、お願いします。また検査が必要だったら言って下さいね! 失礼しま~す」
 愛想良く私と弐ノ宮さんを交互に見た後、まるで逃げるようにビニール袋を私へ押し付け、六部さんが部屋から出ていく。彼女は廊下の角へ消え去る前に振り向いて、
「七村室長が挨拶に来させてって言ってましたよぉ」
 伝言を残し、今度こそ嵐のように去っていった。弐ノ宮さんがひっそりと息をついて扉を閉める。
「彼女、後輩で化学分析室の六部さんです。元気な方ですが、明後日くらいには落ち着くと思います」
「偵察に来られたんでしょうか?」
「まあ、恐らく」
 私は事務机に戻ってビニール袋を剥ぎ、中身を取り出した。確かに私が検査を依頼していた押収品のひとつだ。剥ぎ取ったビニール袋からはアルコールの香りが微かに漂い、どうしたって紺色のスクールバッグとは釣り合わない。持ち手に取り付けられたうさぎのマスコットが酒臭くては、蝶よ花よの女子高生と言えども台無しだろう。
「弐ノ宮さんってお酒詳しいですか? これ、嗅いだことあります?」
 私が手招きすると、彼は不審そうに近寄ってビニール袋を受け取り、手で空気を煽る。首を捻って思い出す素振りを見せるが、捻ったまま動かない。
「いや……分かんないですね。お酒飲まないので。この銘柄が何かを探してるんですか?」
 PCを再起動させながら私は頷いた。六部さんが送ってくれたという検査結果を見れば、部屋にある酒瓶の候補が幾つかは減るはずだ。
 弐ノ宮さんは物珍しそうにスクールバッグを眺めていた。
「このカバン、学生が使うやつですよね。被害者の物ですか? なんで酒臭いんです?」
「歓楽街に入ったところまでは監視カメラで追跡できています。何処かの店に立ち寄って、そこでトラブルがあって酒が掛かったと思うんです」
 酒が掛かる状況は、失踪者と同じ背丈の解剖室スタッフに手伝ってもらって何度か再現を試みることで幾つかのパターンに絞られた。液体の飛散した方向を考慮すると、成人男性が何らかの理由で酒をひっくり返し、スクールカバン側面の持ち手から開口部にかけて引っ掛けられた可能性が高い。
「銘柄を特定できれば店も特定できて、足取りが分かりますから」
「歓楽街ねえ」
 彼は持ち場に戻りながら、呆れたような、物言いたげな様子でそんな言葉を呟く。職務上、歓楽街と呼ばれる場所に良いイメージが無いのは私も同様だ。そこでは多くの警察官が巡回し、軍人が立哨しても尚、日々大量の犯罪が生まれては見過ごされていく。弐ノ宮さんは持ち場である扉の横に立ちながら、酒瓶を開けていく私を興味深そうに見ていた。
「解剖医なのに鑑識……というか警察犬みたいなこともするんですね」
「設置したての頃はそんなことなかったはずなんですけどね」
 解剖室分室はその設立以来、様々に業務領域を変えてきたが、特殊な事件の被害者を扱う点と警察から便利に扱われる点においては変わっていないようだった。既に退職した先輩から引き継いだ際も「自分が解剖医であることだけは忘れないように」と念押しされており、私は既にそれを忘れそうな時がある。
 アルコールのにおいから銘柄を特定するというのも、弐ノ宮さんの言う通り、頼めるものなら警察犬にお願いしたいところだが、彼らは頭数が少ないため日々あちこちに稼働しており、なかなか予約を取ることが難しい。野生の力に頼れないのなら科学の力に頼ろうということで、化学分析室に液体と気体のクロマトグラフィーを依頼していたのであった。
「あの、弐ノ宮さん。ひとつ説明しておいても良いですか?」
 私はふと思い立ち、待機している弐ノ宮さんに声を掛ける。
 本来であれば女子高生の失踪が一件起きたくらいで三上さんのような刑事たちが銘柄特定を急かすわけもない。彼らが分室にわざわざ依頼したのは、その背景に彼らが追っている別の事件が絡んでいる可能性があるからだ。
 はい、と弐ノ宮さんは不思議そうに此方を窺う。
「私が今やっているこの作業、事件性が高いんです。同級生が失踪に関わっているんじゃないかと考えられていて。で、それが何故かというと、その同級生が別の事件の重要参考人になっているからなんですが……」
「別の事件?」
「『八重樫事件』と呼ばれる傷害致死事件です。報道では成人男性ふたりの喧嘩として扱われていますが、実際にはそこに居合わせている八重樫藍という女子高生が引き起こしたのではないかと警察では考えられています」
「女子高生が意図的に喧嘩を引き起こした……ってことは」
「共感性感情惹起、通称マインドパルスと呼ばれる現象が起きたと考えられています。あくまで推測で、状況証拠は揃っていないのですが」
 彼女は他にも二件の暴行事件に居合わせており、彼女自身も暴行被害を受けているものの、意図的にそういう状況を引き起こしていると考えられていた。今回傷害致死として死体が出たことで、警察も捜査に本腰を入れることができている。
 『八重樫事件』と呼ばれる一連の致死傷害事件の鍵とされるマインドパルスは、学術的には共感性感情惹起と呼ばれているものの、世間的には従来のテレパシーあるいは精神感応と混同されている。私自身も誰かに説明するとしたらそちらの超心理学的用語を使った方が伝わりやすいと思っている。マインドパルスとテレパシーを明確に区分するなら、遺伝するかどうか、そしてパルスを受け取った相手が特定の感情を引き出されるか否かだろう。八重樫藍のマインドパルスは他者の加虐性を増長させる効果を持っており、今回初めて傷害致死に至った。仮にこれが意図的に使用されている場合、物的証拠が残りにくい以上、立件まで持ち込めるかは警察の手腕に掛かっている。
 そして私個人にとっての問題もある。遺体開頭事件で持ち去られた電極プローブは、現在確認されている限りで唯一、マインドパルスに抵抗性を持っている――つまりこの電極プローブを頭に埋めている以上、私もマインドパルスの効果を受けない。この知見は学術的にも世間的にも公なものではなく、被害者の遺体を解剖しながら私が思い出したに過ぎないが、警察は怨恨や物盗りの線よりも細いこの線を辿ろうとしていた。
 何故、私の頭に埋まっているものがそんな効果を持っているのか。主治医であった五月女氏はそれを意図的に埋め込んだのか。一切不明であるところもこの事件の捜査を遅らせている要因なのかもしれない。
 それじゃあ、と弐ノ宮さんは腕を後ろに組んだ姿勢のまま室内に視線を彷徨わせ、
「その人が遺体開頭事件の容疑者で、次に壱ヶ敷さんを狙う可能性もあるんでしょうか?」
「二個目の電極プローブを求めているなら可能性はゼロではありません。なので、弐ノ宮さんにも本件をお伝えしておこうかと」
「これは本部に伝えても?」
 許可を求められ、私は首肯の代わりに手を差し出す。弐ノ宮さんはすぐにイヤホンマイクを口元に寄せてぼそぼそと報告し始めた。
 私も自分の作業に戻ることにして、事務机に向き直った。PCが立ち上がったのを確認して、メールクライアントから六部さんのメールを呼び出す。未開封が一件だけ見つかり、添付のドキュメントを開いた。スクールバッグから採取した試料をクロマトグラフィーで分析した結果と、分析を担当した六部さんの個人的なコメントが表になって出てくる。取り寄せた銘柄の中から検査に出したのは八品目、その中で試料の成分比と近いものが二品目。その二品目にだけパインとバナナの香気成分が含まれているので、自分の鼻を信頼しても良さそうだ。
 今日新しく検査を依頼する銘柄を選別するために、まずサンプルとしてスクールバッグのにおいをもう一度確認する。甘ったるく沈むような重さの中に刺すようなアルコールのにおいが混じったこの香りは、果実酒の中でもかなり独特で記憶に残っていた。飲酒の習慣は無いが、過去に一度だけこんな香りの酒を勧められ、香水を飲んだような気持ちになったのを覚えていた。残念ながらその酒を提供した店は潰れてしまっており、私も銘柄など覚えていなかったので、大量の酒を取り寄せてひとつずつチェックするという途方もない作業に追われている。
 一本目の酒瓶を手に取り、成分表と分析結果を比較して該当の果物が含まれているかを確認する。手で煽って香りを確かめ、強烈な発酵のにおいに顔をしかめながら脇に避ける。二本目、三本目と進めながら、失踪者のことを考える。女子高生が歓楽街の酒場で何をしようとしていたのか、そこに同級生である八重樫は居たのか、彼女たちはどんなやり取りをして、失踪している今、何を考えているのか。
 失踪した玖瀬祈を、私は一度だけ見たことがあった。これまでの職業人生で初めて事件に巻き込まれる前に出会った人物だ。もちろんその時は彼女が失踪するなんて思っていなかったので、あまり印象には残っていない。
 マインドパルスは本人の心理的不安時に起こるとされており、また本人の心理的に不安定になりやすいため、八重樫の事情聴取には警察以外にも私や精神科医、心理カウンセラーなどが立ち会った。彼女の自宅で執り行われ、その帰り道に玖瀬祈に声を掛けられたのを覚えている。
 玖瀬祈と八重樫藍は幼馴染であり、近所の家に住んでいた。幼い頃から不安定な八重樫を玖瀬が何かと気にかけ、別の高校に通うようになってからも連絡を取り合っていたらしい。物々しい公用車が八重樫の家に停まっているのを見て不安になったのかもしれない。
 玖瀬はいかにも大人しい真面目そうな少女で、制服も気崩さず、丁寧な言葉遣いで私に声を掛けた。会話の内容は「八重樫さんに何かあったんですか」とか「八重樫さんは大丈夫ですか」程度の物だったと思うし、私も守秘義務の関係で大したことは話していないと思う。それでも八重樫の心配をしているのが奇妙な、不釣り合いのようなものに感じたことだけ覚えていた。三上さんに幼馴染だと教えてもらって合点がいったものの、それでもやはり歪さを拭えない。それは、八重樫の両親が不安定な娘を持て余す一方で、同い年である玖瀬が真摯に心配していたためかもしれない。
 八重樫と玖瀬の間にトラブルが起こって、八重樫が誘拐を手引きしたのだろうか。八重樫は学校にあまり通えず、その代わり悪そうな大人たちとの付き合いが見られている。玖瀬がスクールバッグを残し住宅街で姿を消す直前、八重樫と通話した履歴もある。状況は揃っているが、肝心の物証が無いし、未成年であるため簡単に容疑を掛けることもできない。
 歓楽街の人間は意外と口が堅いらしく、聞き込みも功を奏していないらしかった。下手に口を割って後から恨まれるのが怖いのだろうか。銘柄を特定し、提供した店を特定し、そこで目撃情報を集めなければ玖瀬祈の足取りは掴めないだろう。
 私は腕時計をたびたび確認しながら、分析室に持ち込む酒の選定作業を進めた。



 法科学総合分析センターというのが私の職場の正式名称だ。段々慣れてくると皆「センター」と呼ぶようになるが、正式名称を言ったところで具体的に何をする組織なのか分かりにくいのは変わらない。
 法科学の各分野がひとつの建物に入れられ、横断的に犯罪を分析し警察に情報提供する捜査機関のひとつで、民間運営とは言われつつ実質的に内務省の管轄下にある。所属するのは警察訓練など受けたこともない医療関係者や化学者ばかり。時々、天下りのような形で保健所職員などが配属されることもある。他にも専門的分析のために民間企業も入っており、公民一体と聞こえは良いが一緒くたと表現しても差し支えなく、具体的に何処からが公で何処からが民かは判然としない。
 私は解剖室に所属しており、解剖室とそのオフィスは三階に存在しているが、解剖室分室は地下にある。そのため解剖室所属ながらもやや所属意識は薄く、グループ解剖で手伝いに行く時は出向するような気持ちになる。むしろ六部さんが所属する化学分析室の方が馴染みがあるような気がしないでもないが、一応、弐ノ宮さんを紹介するにあたっては解剖室を優先させた。
 先行する弐ノ宮さんの後ろを歩きながら、地下から三階までの道程を説明していったが、此方の案内もなくさっさと前を歩いていく彼を見ると事前に地図を頭に入れてきたのだろう。何処に何があるかよりも何をする部屋なのかという説明に終始した。
 そうやって廊下とエレベーターを経由し解剖室オフィスに入るまでにすれ違う職員たちに何度も振り返られ、顔見知りの職員からは声を掛けられた。午前中に来たばかりだというのに噂は既に広まっているらしい。揃いのスクラブを着た職員の中で治安維持局局員の制服は目立ち、さながら病院に紛れ込んだ軍人のように人目を引いた。降り注ぐ好奇の目を見ると、ああ真面目くさって毎日遺体を相手にしている彼らも普通の人間なんだなと妙な感慨深さが先行した。
 人の目を掻い潜るように解剖室オフィスに辿り着き、扉のない空間へ「おはようございます」と声を掛けると、解剖室スタッフたちは待ち構えていたかのように一斉に振り向いた。私は弐ノ宮さんの前に立って彼の方を指し示し、全員に聞こえるように声を張る。
「此方、室長から紹介があったかもしれませんが、治安維持局の……」
「え、若い! もっとおじさんだと思ってた!」
「おいくつなんですか?」
「護衛とかカッコいいじゃん、壱ヶ敷さん!」
 女性陣がわっと近寄ってはしゃぎ始める。七村解剖室長を含めた男性陣はその場に立ったまま物珍しそうに眺め、どちらも人命が掛かっていることなど忘れてしまったかのように、新人を迎えるような雰囲気で弐ノ宮さんに挨拶を試みていた。
「あの、私が殺されるかもしれないんですけど……」
「ああ、ごめん、ごめん」
「すみませーん」
 決まり悪そうに身を引いたスタッフたちを、圧倒されていた弐ノ宮さんが苦笑しながら宥める。
 まだ騒がしいと思って廊下を振り返ると、化学分析室や放射線技術室、果ては経理室などの一階の職員まで、何人かが野次馬のように覗きに来ている。
「こら、見せ物じゃない。仕事に戻りなさい。見学しなーい」
 解剖室長が慌てて追い払い、ようやく騒ぎが収まってきた頃に、弐ノ宮さんがようやく挨拶を済ませた。
 地下の分室へ戻る前に、廊下を通りがてら、三階の第二解剖室も見学室から見せた。分室付属の第一解剖室より三階の第二解剖室の方が大きいのは、後者の方が後から新設され、メイン解剖室になったからだ。そのため現在では解剖室と言えば第二解剖室という向きもある。
 元々解剖室は地下にあって分室の方が本家と呼んで差し支えないものの、時代の移ろいとともに機能も三階へ移った。より清潔で、より明るい造りになり、解剖につきものの暗く湿ったイメージは分室に置き去りにされた。
 警察から回ってくる司法解剖の内、いわゆる変死体と呼ばれるものが分室に運ばれる。連続殺人やバラバラ遺体など、大抵はろくでもない死に方をした死体をひとりで解剖する。そういう事件がない時には私も第二解剖室でグループ解剖に従事するか、検案車に乗って外回りをするか、試験導入されている自動解剖装置のテストをする。
 自動解剖装置は大きくて幅を取るので、大昔に書庫にしていたスペースを潰して導入された。属人化しやすい解剖の手技をデータ化し、解剖の効率化と均質化を図るのが目的だが、なかなか正式導入には至らない。技術が経験を追い越すことは難しいらしい。一部の作業は自動化され、CTや MRIなど画像での診断と測定が可能になり、こうした技術を応用して胸腔や腹腔の穿刺も研修を終えた学生ならできるようになったが、その道何十年というベテランがやってしまった方が早いという事情は変わらない。切開と縫合に至っては医療現場と同じように完全な自動化が難しいらしい。ただその内、解剖医という職業は消えて自動解剖装置メンテナンス技師というものが誕生するのでは無いかと私は妄想することがある。現状、消毒液を詰め替え、試料採取用の容器を入れ替え、器具の汚損をチェックし、遺体とマニピュレーターのキャリブレーションをするだけの仕事だが。
 解剖室分室に戻り、私は朝一の予定にしていた解剖作業に着手する。一度司法解剖した遺体で、火葬される前に再鑑定依頼が入っていた。死因を洗い直せという警察のお達しだ。
 分室にはエレベーターで手ずから遺体を運搬する場合と、遺体保管室からベルトコンベアで自動運搬される場合があり、今回は一度保管庫に戻していたのでベルトコンベアを経由することにした。人ひとりを運ぶのはかなりの力仕事であり、警察や葬儀屋の力も借りられない以上、機械の力を借りるに越したことはない。分室オフィスと解剖室の間にある準備室からコンソールで遺体の管理番号を呼び出し、室温と湿度を確認し、換気が機能しているかを見た後、再鑑定依頼書と付属の事件資料を確認するために事務机へ戻る。
「俺は何処に立ってたら邪魔にならないですか?」
「人の出入りがあるとしたら、事務スペースから廊下への扉だけになるので……」
 私は扉と準備室入り口を交互に示した。準備室入口で動線はL字型に曲がり、閉め切られた解剖室へ続いている。
「じゃあ、この辺に立っておきますね」
 弐ノ宮さんは準備室の手前に移動して、扉からの動線と、解剖室への動線を確認し始めた。解剖室内は衝立やカーテンを除けばガラス越しに見える。解剖室に立ち入る場合は遺体内部に充満したガスや切開時の体液の飛散も考慮して手術用ガウン等の装備が不可欠だが、どうせひとりで解剖するのであれば、一緒に解剖室に入る必要もない。換気システムのある解剖室の扉を閉めておけば、それ以外は通常の出入りができる。私はそのままひとりで解剖準備に戻った。
 再鑑定依頼書と付属の事件資料は所内ネットワークのサーバーに保管されており、所内ネットワークに接続されたどのタブレットからもアクセスできるが、まだ分室用のタブレットにダウンロードしていなかった。ウィルスチェックも含めて二分程度かかる作業が開始され、進捗バーが牛歩の如く進んでいく様を放置し、隙間時間に机の上の整頓にかかる。
 仕事の密度と机上の荒れ方は相関関係にあり、机上の物を減らせば仕事もまた減るのではないかと期待する一方、それはあくまで相関であり因果関係は無いので、机を掃除し始めることはただの気休めであることも理解している。
 普段は使わないが特定の作業で偶然出したような道具を仕舞い、普段開かないが必要があって開いたファイルを閉じ直し、今朝出して放置していたカッターを筆立てに戻し、今までは埃を被っていたような本から栞替わりのペンを取って書棚に戻していく。書棚の方も、本のサイズが合わない事務用のラックを使っているため、平積みにしたり板を挟んで無理やり二段にしたり、最終的にその山が崩れて本自体がよれたりと、司書が見たら悲鳴を上げそうな保管の仕方をしている。医療用の本はどうしても大判であることが多いため、終いには床に積んでおくこともざらにあった。
 子どもの頃――例えば自分のお金で買うことが難しかった頃なんかは、フルカラーの大判本など宝物同然であり、たとえソフトカバーでも端が折れることを恐れて丁重に扱っていた。そんな宝物が、大学教授の研究室を見るような頃には資料に代わり、仕事道具になり、遺体を触ったのと同じ手でページをめくったために体液が付着しているものもある。感覚はだいぶ麻痺するものだなと思った。
 書名には法医学、解剖、病理、犯罪という言葉が目立つが、それ以外にも心理学や薬理学、神経生理学などの本も並んでいる。
 そもそも私の医学の入口は神経生理学だ。というのも、事故の時に私の意識が途絶えなかったことに対する強い疑問があったからだ。悪夢にも刻まれるほどの強い疑問。脳神経とか意識とか痛みとか、そういうところから人体への興味が始まっていた。
 まず自分なりに調べて分かったことは、脳が耐えられない痛みを感じると迷走神経反射で昏倒するらしいのだが、なるほど私はこれまでの人生で気絶というものを経験したことが無かった。私の脳が許容できる痛みはかなりのものらしい。女性はそもそも分娩のために痛みへの耐性があるとまことしやかに囁かれているが、それにしたって正気の沙汰ではない。次に調べたことは、痛みや苦しみからどのように死に至るか――逆説的に私が何故事故で死ななかったかという疑問だ。ここで初めて「死因」というものを真剣に調べた。初等教育の終わり、中等教育が始まる頃のことだ。小さな区立図書館の壁際で稼働するセントラルヒーターの電熱線のにおいが蘇るので、この頃の出来事で間違いない。書名は覚えておらず、今探しても見つかるか分からないほど古い本だった。中等教育が始まると行動範囲が広がってもっと大きな図書館を使うようになったので、区立図書館の記憶はここで途絶えている。
 「死因」というものに出会い、だんだん私の興味は脳神経から骨と臓器へ、生体から遺体へと移っていき、生きた人間の移ろいがちな心とやり取りするより、死んだ人間が遺した物理的なメッセージを受け取る方が性に合っていると気づき、現在の法医学の道へ進んだ。
 今でもあの区立図書館で読んだ本を読み直したいという気持ちに駆られることがある。恐らく内容は他の本にも書いてあるようなことだし、今の医療に比べるとずいぶん知識が古いので役に立つとも思えないが、子どもの頃に読んだ絵本をつい手に取ってしまいたくなるのと同じ気持ちが、あの医学書にはあった。
 ブー、と準備室の方からブザーが鳴って、私は我に返った。弐ノ宮さんも驚いて同じ方向を見ている。準備室のコンソールから遺体の搬送が完了したことを知らされた。
 仕舞いかけの数冊の本を机に戻し、タブレットを拾って準備室に入る。ファイルのダウンロードは終わっており、自動でファイルが開かれていたのでそのまま内容の確認を始める。
 この遺体は『八重樫の事件』の被害者で、初めての死亡者でもある。前回の担当医の解剖所見には暴行の痕跡とそれが死因になった旨の記述があり、添えられた資料にはそうなってしかるべき出血と頭蓋骨の陥没が見られた。再鑑定について私からは「所見は変わらない」と申し出たが、三上さんを始めとする捜査関係者が事件を解決に導く「何か」を求めてもう一度遺体を見てほしいと押し切った結果だ。
 所見は変わらない。初回の鑑定書を何度見てもそう思う。また、再鑑定依頼書の詳細をどのように解釈しても。捜査関係者が求める「何か」は遺体には絶対に残っていないと思う。
 スクラブの上から手術用ガウンの袖を通し、キャップ、マスク、手袋をつける。殺菌ブースを抜け、準備室用ハッチを開けて消毒乾燥済みの手術器具の入ったワゴンを取り出し、タブレットと一緒に解剖室に入れる。解剖室内の遺体搬送用ハッチを開けて管理番号を確認し、遺体の顔を見て資料と相違ないか確かめる。ハッチのロックを外して、折り畳まれている移送台の足を出し、キャスターを転がして部屋の中央部まで運ぶ。約七〇キログラムの遺体が部屋の中央の解剖台に連結され、そこで解剖の準備が整った。
 八重樫藍のマインドパルスを受けた結果彼が死亡したとしても、その証拠は何処にもあるはずがない。マインドパルスにより極度の共感を引き起こされた脳は、脳内物質を多量に分泌して激しい興奮と運動を引き起こすが、死体になる頃にはその物質は分解され、後にも残っていないはずだ。リアルタイムで観察と計測を行なう以外に、マインドパルスが犯罪に使われた証拠を掴むことは難しい。
 私は今から遺体の頭を開く。それは、四波崎氏の遺体開頭事件と同じものを作り上げると言っても差し支えない。更には脳をスライスし、スライスしたものを検査にかけ、「何もない」ことを証明しなければならない。例え本当に八重樫藍のマインドパルスが加害者の加虐性を扇動していたとしても、私は「何もない」ことを「何かある」ようには書けない。何十人もの捜査員と何人もの遺族にかけられた期待を、たったひとりの私が裏切らなければならない。



 鼻の中にはまだ骨粉のにおいがこびりついているような気がする。吸引機つきの高価なボーンソーと高フィルターマスクをもってしても太刀打ちできないので、次は流水機能を付ける以外に骨粉の飛散を防ぐ方法は無いのだろうと思う。そんなことをすれば遺体の余計な情報まで洗い流してしまうのでできるわけもないが。
 昼食の弁当に入っている白身魚をつつきながら、今度は、病理検査室に回した脳スライスの結果はいつ貰えるだろうと考えた。火の通った白身魚は脳の白質によく似ていると思うのだが、この話をすると普通の人は嫌な顔をするし、医療従事者は「そう? 鯖の赤身の方が……」と反論をする。
 形ばかりの応接用――実際、この部屋に来るのは同僚か警察か遺体だけなので本当に形ばかりだ――のローテーブルの正面には弐ノ宮さんが座っており、同じように弁当を黙々と食べている。彼は開頭作業中に此方を殆ど見ることなく、また好んで見るようなものでもなかったが、遺体を見ることが苦手ということでもないようだった。その証拠に、開頭作業以外はたまに此方を目視して愛想良い笑顔を向けたし、まるで殺人でも働いてきたかのようにボーンソーで血に汚れている私を見て少しおかしそうな笑いを堪えている様子さえあった。職業柄、遺体を何度か見たことがあるのかもしれない。換気しても拭い去れない血と死臭が漂う中、こうして平気な顔をして弁当を平らげてさえいる。
「美味しくて羨ましいです。うちの食堂、味気ないって不評で」
「民間のを買い付けてるらしくて。気に入って頂けたら何よりです」
 自動配膳ロボットが弁当をふたつ持ってきたので何かのミスと思ったが、室長が弐ノ宮さんの分も追加で手配したらしい。配食の時間を考えると朝の時点で追加注文したのだろう。何故、室長が買い付け先まで把握しているかは不明だが、彼は保健所出身ということもありとかく政治的な人間関係の立ち回りが上手かった。治安維持局に悪い顔は見せたくないというのが今回の彼の役回りのようだ。
 普段、私は仕事をしながら昼食を栄養摂取くらいのスピードで食べているのだが、今日ばかりはさすがに昼食と仕事の時間を切り分けた。ふたりで無言で昼食を囲むのは気まずいかと思い、PCからリアルタイムのニュース配信を流している。火災事故が報道されており、現場のビルの様子が映し出されている。恐らく此処であがった遺体が明日運び込まれてくるだろう。現在発見されている遺体の数と現場の状況がキャスターによって読み上げられる頃、私は最後の米粒を箸で拾ってしまい、頑張っても食べる早さはあまり変わらないなと思ったが、弐ノ宮さんよりは遅かったので良しとした。
 給湯スペースでコーヒーを淹れるためにソファから立ち上がる。学生時代から、食後の一杯が午後のための習慣になっていた。ついでに私用のスマホを取り出すと、自動給餌の通知が入っていた。猫のチャムが自宅のソファで二時間寝ているらしい。様子を想像してほっとひと息つきつつ、給水の通知が無いので珍しいなと思った。
「そう言えば弐ノ宮さん、解剖中に何か飲まれてましたよね? 水とか自由に使ってもらって大丈夫ですから」
 猫の給水のついでに思い出すのも失礼かと思ったが、解剖中の記憶が蘇ったのでついでに声を掛けた。備え付けの冷蔵庫にもウォーターサーバーにも飲用水があるし、彼自身も飲んでいる水のペットボトルを昼食時に出しているが、解剖中に見掛けた時には掌にタブレットを出してそのまま飲んでいるようだった。
「ああ、いや……水無しで飲むやつなんです」
 彼はそう言いながらハーネスの胸ポケットを探り、薄いタブレットケースを取り出した。一緒に別の何かがふたつ飛び出して、床に鋭い音を立てる。ひとつは彼の足元に、もうひとつは給湯室の私の所まで滑ってきたので拾い上げると、金属製のライターだった。
「す、すみません」
「吸われるんですか?」
 足元の煙草の箱と一緒に回収しながら、彼が申し訳なさそうに笑う。
「センターにも喫煙室ありますよ。だいぶ老朽化してますけど」
「いや、パッチ貼ってるんで」
 彼はそう言って袖をめくり、前腕に貼りつけた丸いシールを見せた。煙草もニコチンパッチも今や古い習慣の名残であり、こんなに若い人が嗜んでいるのは珍しい。そもそも全て輸入品で非常に値が張るので、金を余らせている老人か相当な中毒者以外は嗜みたくても嗜めないと言われるほどだ。
 弐ノ宮さんはタバコとライターを胸ポケットに戻し、タブレットケースも一緒に仕舞おうとするのを見て、その外観に見覚えがあり私は止めた。
「高エネルギー剤ですか?」
 私の問いに、はい、と弐ノ宮さんは控えめに頷いた。
 高エネルギー剤とは糖質、タンパク質、脂質を練り固め、多少のビタミンとミネラルを配合した処方薬で、食事の楽しみなど一切排除したまさに栄養補給のためだけの錠剤だ。これを処方されるということは過剰増殖性細胞症患者であることを意味する。その病態は異常なほどの高代謝によって貯蓄したエネルギーがすぐに消耗され、痩せ型になりやすく、筋肉がつきにくく、思春期からホルモンバランスも悪い。細胞の代謝サイクルが早いのでガンにもなりやすいので、医学の心得がある私としては喫煙など到底お勧めできないが、やや細身ながら健康そうに見える彼を見ると他人が口出しすることでもないように思えた。
「パッチだけで済むものなんですか? そういうのって」
 弐ノ宮さんと合わせてふたり分のコーヒーを持っていきながら、興味本位で訊いてみる。彼はけらけらと笑った。
「これで済むならライターも捨ててますね。今はお守りみたいに持ってるんですけど、家では吸ってます」
「ご両親が嗜まれてたとか?」
「いや……気づいたら……ですかね」
 そんな恐ろしいことがあるものかと思ったが、本人が言うならそうなのだろう。私だっていつコーヒーの習慣を培ったか覚えていない。恐らく親に合わせたか、本の中で憧れたキャラクターが啜っていたかのどちらかだ。大体きっかけなんてそんなものだ。
 弐ノ宮さんはタブレットと煙草をハーネスの胸ポケットに戻し、私からコーヒーカップを受け取った。
「身近に吸ってる人がいるとどんなもんかなって思っちゃうんですよね。どんな気持ちで吸ってんのかな、とか」
「それはちょっと分かります。あやかろう、みたいな気持ちなら私にもありました」
「へえ。壱ヶ敷さんにも憧れとかあるんだ」
 ドライな人間とでも思っていたのだろうか。私はその実、昔の事故から立ち直れない湿った人間だ。
 私は今でも車に乗ることに抵抗があるし、業務で検案車に乗るのも出来る限り避けている。街中をトラックが走ろうものなら道の端に身を寄せる。自動走行であろうと、速度が制限されていようと、一度エンジンが駆動して走り出したものは全て恐怖の対象になる。但し不思議なことに電車やバスは平気であった。もしかしたら車内の空間の広さ、あるいは並走車との位置関係が影響しているのかもしれないが、詳しいことを身をもって調べようとは思わない。
 事故の影響で私の通勤手段は電車とバスに限られていたが、身辺警護が就くことにより、公用車での送迎が始まってしまった。業務を終了した夕方、等間隔で一般車両を詰められた自動走行レーンを横目に、特別車両専用レーンを快適に走る治安維持局の公用車は、静かなエンジン音で法定速度を滑るように走っていく。弐ノ宮さんの運転は丁寧だし、恐怖する私を見て余計慎重にハンドルを扱っているようだったが、窓の外を高速で流れていく景色を見てしまうともはやそんな気遣いさえ無駄なものに思えてしまう。送迎付きの待遇を同僚たちはひどく羨ましがっていたが、私にとっては拷問に等しい。膝上にバッグを乗せ、両手でシートベルトを掴み、バックシートに固く背を押しつけていた。
 事故当時のスピードログを見たことがあった。両親が前の座席に座り、私は後部座席の右側に座って、ハンドルやアクセルやブレーキから体を離し、自動走行レーンを一定の速度で走っていたはずだ。車載AIと道路AIが相互に連絡しているランプもついていた。信号機のタイミングや何処かで割り込む特別車両の相対速度も加味した車間距離に調整されていた。ところが事故が起きた瞬間だけ一時的に速度が上昇し、車載カメラと道路カメラには、車両が一斉にスピードを上げてぶつかる様子が映されていた。車から投げ出されてトラックに轢かれる私自身を見てみたかったが、それは警察に止められた。
 運転席にいた父は動転しており、アクセルを自分で踏んだかどうか覚えていないらしい。スピードログと車両の操作ログだけを見れば確かにアクセルを踏んだと捉えられるが、そこに父の意識が介在していたかは分からない。今思えば、あの場にいた全員がマインドパルスの影響を受けていたのかもしれなかったが、あの場にいた誰がマインドパルスを使用したかは分からなかった。
 あの日、座っている位置が違ったら、通る道が違ったら、出発する時間が違ったら――私の左腕が失われることはなかったのかもしれない。もしもを考え、失ってしまったものを数えてしまうことがあり、そのたびに気が滅入る。左腕に触れると、夜気に冷え始めていた。
「車が怖いってのは聞いてたんですけど……すみません、安全上こうせざるを得なくって。いや、壱ヶ敷さんにしてみればこっちも安全じゃないのか」
 低く鳴動するエンジン音に紛れて、弐ノ宮さんがミラー越しに私を見ていた。
「怖かったら目を瞑ってても良いですよ。着いたら起こしますから」
「あ、いや……ごめんなさい、あなたの運転を怖がってるとかじゃないんで」
 対向車線のライトが弐ノ宮さんの眼球をなぞり、妙にぎらついた反射を見せる。それがまばたきをした次の瞬間には消えていて、彼は微笑んでいるような、からかうような表情に変わっていた。
「壱ヶ敷さん。実はなんですけど」
 少し声を低め、エンジン音と聞き分けられるかどうか微妙な大きさになる。
「俺、隣の部屋に住んでます」
「え?」
 聞き間違いかと思い、少しだけバックシートから背を浮かせた。握っているシートベルトがピンと張って機能する。
 ちょうど信号が赤になり、ゆっくり車にブレーキが掛けられた。彼は半身だけ振り返り、
「二〇階の二〇〇六号室。昨日の夜、ベランダ出てましたよね?」
「……あ、ベランダで煙草を吸ってたのって」
「俺ですね」
 姿こそ見ていないが、そのエピソードが出てくるなら間違いなく隣の住人か、ずっと私を監視している変人のどちらかだろう。
「もしかして洗濯物とか出してました? それは本当にごめんなさい、部屋で吸います」
「いや、まあ、構いませんけど……なんで隣に住んでいる方が警護に? 偶然ですか?」
「偶然と言うか、うちで警護するって話になって、住所を見たら俺の隣だったんで、じゃあお前がやれって……色々と都合が良いからですかね。俺の帰宅と壱ヶ敷さんの送迎を一緒にできるし、自宅で何かあってもすぐ対応できるし」
 休日出勤させられる警察官の苦労話を聞くことがあるが、ほぼそれと変わらない公私混同の労働環境らしい。
「私の警護に就くっていつ決まったんですか?」
 これはほんの好奇心から聞いてみた。
「昨日ですよ。書類を一枚渡されて、へー隣の家の人って医者なんだって知りました」
「前日の告示って大変ですね」
「まあ、国内なら猶予ある方じゃないですかね?」
 彼は笑っておもむろにアクセルを踏む。再び車が前に滑り出す。
「本当は、隣に住んでます、なんて気持ち悪いと思われるかなって、言うの迷ってたんすよ。でも黙ってるのもなんか、ねえ?」
「いつぐらいから住んでるんですか?」
「三年位前かな……」
「じゃあ、私が入居した後なんですね。知りませんでした、そんなに長くお隣さんだったなんて」
「俺、この時間帯に退勤することあんまりなくて。夜中とか早朝とか、一カ月帰らないとか、そういうのざらにあって」
 それはなるほど出会わないはずだ。センターの人間も残業することがあっても日付が変わらないうちに帰るし、たまに寝泊まりする人間もいるが珍しい。上司たちが、労働局に通報されないように帰らせているというのも大きいだろうか。
 話す内に、車窓が見慣れた景色に移り変わっていった。通勤バスに乗っている時とは異なる道のりがいつもの道に混じり合い、マンションの地下駐車場へ合流していく。
 地下駐車場に入ったのは入居以来初めてだった。使ったことが無いので当然だ。思ったより白色灯が明るく、白い壁にぎらぎらと反射している。打ちっぱなしのコンクリートに部屋番号と同じ数字が振られているのを目新しく眺めていると、弐ノ宮さんがエレベーターと地上への非常口を指差しで教えてくれた。それから等間隔に天井に下がっている監視カメラも示し、治安維持局の護衛チームがでリアルタイムで監視していることを教えてくれる。郵便物や宅配も護衛チームが検閲した後に知らせてくれるらしく、思った以上に厳重な警戒体制が敷かれていた。
 エレベーターからエントランスを経由し、地上階のエレベーターに乗り換える。事前に渡していた自宅の鍵のコピーが早々に作られており、オリジナルの方を受け取って自分の部屋に入ろうとすると、
「じゃあ明日の朝、また」
 弐ノ宮さんが扉を閉め切るまで部屋の前に立っていたので、私はそそくさと扉を閉めた。ふう、と息を吐き、靴を脱いで廊下を渡り、リビングのドアを開ける。飼い猫のチャムが既に足元まで駆け寄っており、神妙な面持ちでズボンのにおいを嗅いでいた。飼い主が知らない車のにおいを纏っているので、何事だろうと不思議がっているようだ。
 左腕が妙に重く感じた。くたびれている時のサインだ。早々に義手を外して風呂に入ってしまいたかったし、少しずつ意識し始めた空腹に胃が苛まれる。カバンとコートをベッドに投げ出してキッチンに向かおうとしたところで私用のスマホが鳴り、画面を確認して思わず顔をしかめてしまう。表示されている三上という名前が威圧感を放っていた。
「……はい、イチガシキです」
「おう、三上だ。治安維持局の連中はどうだ?」
 三上さんはまだ職場らしく、背後から人の名前を呼ぶ声や、横を駆け抜ける足音が聞こえる。
「どうと聞かれても、おひとりしか会ってませんよ。護衛されるのも初めてなので気疲れするとしか」
「五月女のことはどうだ。本当に何も知らないのか?」
 矢継ぎ早に質問されるので、ああ事情聴取のようなものなのだろうと分かる。法的手続きを踏まずに情報収集されることはよくあるし、違法かどうかを問うまで彼らも止めることはない。
 五月女氏――五月女先生のことは主治医として知っている以上の情報を持っていない。患者として見れば退院後もこまめに様子を見てくれていたし、同じ職域から見れば経験豊富で優秀な医師だったのが分かる。今となってはそれも全て電極プローブを比較検討するデータのためだったのだろうが、患者でいる内はまず当たりの医者だったのだろう。
「経歴は?」
 三上さんが鋭い語調で訊ねた。私はその言葉を電話口で繰り返す。
「どの学校を出て、どの病院に居たかですか? それは覚えてません。多分病院のサイトか何かに載ってるんじゃないですか?」
「そういうことじゃない。例えば具体的なエピソードとか……」
「思い出を話すような方ではなかったですよ。淡々としてて簡潔な診療でしたし」
「へえ」
 急に興味を失ったかのような反応に、私はおやと思った。これは三上さんが何かを求めて質問していたのではなく、彼は既に答えを持っていて、此方の出方を窺っていたのだ。嫌な人だな、と思ったが口にはしない。代わりに「警察は何処まで知ってるんですか?」と訊ねた。
「五月女はあんたが世話になった病院に勤める前、国防省医務室という部署に所属していたらしい。国防省お抱えの病院……あるいは研究所みたいな所のようだな」
「国防省? じゃあ、士官学校に行ってたんでしょうか」
「いや、卒業は普通の地方医大だな。公募で受かったのかもしれん。医官として働いて、その後民間に下った……まあそれはよくある話だ。だがそんなやつが絡んだ事件に、国防省がわざわざ出てきて、あんたの護衛役を買って出ているのが腑に落ちない」
 つまり三上さんは、国防省が事件に関わりたがっていると言いたいらしい。あるいは突かれたら痛い腹を隠すために。
 五月女先生が軍人のしきたりの中で生活する様子は想像しにくいが、あの先生だったらどんな環境でも上手くやっていけそうな印象がある。後ろめたい何かがあったようにはまるで思いもしなかったが、そういうものをひた隠しにすることさえ器用にやってのける手腕があったのだろう。
「だから治安維持局を呼んで、あの護衛を傍に置くんだろう。関わっている人数は知らんが、そんなに多くはないだろうな。あんな若いやつに四六時中張り付かせて交代も無し。誰かと連絡を取っていたか?」
 ベッドに腰掛けながら今日の様子を思い返す。チャムが横に飛び乗って身を寄せた。
「たまに通信してましたよ。定時連絡してたみたいですけど」
 弐ノ宮さんが連絡を取るときには決まって「対象異常なし」と伝えるか、私に「本部に伝えますね」と一度断ってから通信を入れている。こそこそ隠れて状況を伝えたり、捜査資料を盗み見たりする様子もない。ごく普通の愛想の良い青年だ。
 まあいい、と三上さんが疲労の混じった息を吐く。
「捜査はこっちで進めているが、五月女も護衛の件も、何か分かったらこっちに教えてくれ」
「あまり人を疑いたくはないんですが……」
「そりゃ疲れるからな。あんた、そういう面倒なこと嫌いなタイプだろ」
 その言葉には何も返さない。




 軍用ブリッジ前の駐車場にはまばらに車が停められていた。スーツを着込んだ二人組の男性が車にもたれて談笑し、トラックに大量の布団類を積み込んだ作業着の男が窓口で書類にサインをしている。
 私と弐ノ宮さんは公用車に乗ったままゲートをくぐって行き、待ち受けていた軍服の係員から身分証チェックと身体検査を受けた。
 弐ノ宮さんの姿を見た軍人たちは制服を見てか略式の敬礼を見せ、「ご苦労様です」と厳しかった表情を緩め、それに対し弐ノ宮さんも敬礼を返し、規則に従って拳銃と予備のマガジンを預けていた。
 身体検査で私の左腕に触れた係員は「おや」と顔をしかめたが、
「義手です」
 私がそう言いながら耳裏のデバイスを見せ、また装飾用スキンを捲ってその下の機械を見せると、係員は怪訝そうにしたのを詫びて検査を続けた。
 ゲートから公用車が滑り出し、四車線の軍用ブリッジを真っ直ぐ走っていく。此処に自動走行レーンは敷設されておらず、全てが人間の手で制御する他なかった。行政区、居住区、商業区などが入り乱れるドームから一本の橋が飛び出して軍用区画を結びつけているが、なかなか一般人が此処に立ち入る機会は少ない。先程見かけたリネン業者のような契約している企業か、まともな報道関係者か。それ以外は大抵が行政の人間だ。
 今から向かうのは通称「特別収容施設」と呼ばれる臨時で設置された犯罪者収容施設だ。仰々しい響きだが、要するに通常の監房では持て余すような人物を留め置くための臨時施設に過ぎない。所謂サイコパスや思想犯などが若干名収容されているらしいが、私が今日面会するのはそういった人格的に危険な人物ではなく、マインドパルスで他の収容者が操作されてしまう可能性があるため、特別収容施設内部の鉛で覆われた部屋に隔離されていた。
 マインドパルスは脳から発せられるパルスであり、鉛などの波を通しにくい物質を介在させれば理論上は影響を無くすことができる。ただ現実的な生活を考えればそれはかなり難しい生活であり、ともすれば人間的な生活の侵害にもなる。鉛を使ったヘルメット等も考案されたようだが実現には至っていない。今回面会する人物は自らこの施設に入ることを希望したが、そう考える人間はあまり居ないだろう。
 特別収容施設が見えてくると、軍用区画から一線を引くように高い塀で囲まれていた。地図には載っておらずカーナビも機能しないため、ひたすらに塀に沿って公用車を走らせていく。周囲は荒れた田園地帯だけで、遠景を山並みがゆっくりと動いており、公用車が止まっているように錯覚させられる。激しく街並みが入れ替わるドーム内に比べるとかなり気楽に乗車できていた。
「これから会う……『収容番号十号』でしたっけ? 十号さんって何をした人なんですか?」
 弐ノ宮さんは真っ直ぐ続く道路の向こうを眺めながら、時々高エネルギー剤やらペットボトルの水やらを煽って、こんな風に話題を振ってきていた。運転をさせて気まで遣わせるのは申し訳ないが、助かっている部分もある。話をしていれば意識がエンジン音から逸れるので恐怖も紛らわすことができていた。
 収容番号十号というのは面会者の通称であり、具体的な氏名は明かされていない。
「収容番号十号は個人情報への不正アクセスを理由に逮捕されています。内務省高官のプライベートなメールをリークしたんですけど、ニュースとかで見ませんでした?」
「ああ……どうだったかなあ。リークとかよくありますよね」
「今回は相手が内務省高官だったので大事になってますね。入手経路も不明で本人も黙秘を続けているので」
 警察による取調べや精神科医等の記録によると、今のところ十号は収容されることを目的に不正アクセスを試みた可能性が高い。十号はごく普通の会社員であり、通信や機械に精通しているという経歴もなく、内務省高官との関係もない。ある日突然、誰かの徹底的にランダム性が高められたメールアドレスとパスワードを入手し、アカウントに侵入し、情報を抜き取ってばら撒いたかのように見える。そして彼は自ら警察に出頭し、自分がやった犯罪だと打ち明け、特別収容施設への収容を希望した。マインドパルスを使用したことまでは打ち明けたが、いつどのように使用されたかは黙秘を決め込んでいる。
「なんでそんな人が壱ヶ敷さんに面会を?」
「分かりません。知り合いという感じもありませんし、私は専門家でも何でもないんですが、もっと犯罪の詳細を聞き出してほしいとのことで施設側も許可を出したみたいです」
 マインドパルスの使用者――世間はこれを一般的にマインドパルス症患者と呼び、彼らを病人として扱うべきか、一般の健常者と同等に扱うべきか態度を決めかねたまま、五〇年の月日が経過している。証拠が残りにくく故意か過失か判断しにくいため、司法と人権擁護団体が対立しやすい。公には報道されないが、何らかの方法でマインドパルス症患者の生活を制限した方が良いのではないかという意見も存在する。
 過去にマインドパルス症患者が関わった大きな事故があり、世間の注目を集めたことがあった。今まで口にも上らせず、マインドパルスの存在を知っているかどうかさえ分からなかった人々がこぞって議論し、一家言ありと言わんばかりの顔をしてメディアを闊歩した。マインドパルスによって避難が遅れ死者三十人以上の被害を出したこのビル火災事故だが、後に消防の調査によってビルの防災設備の不備が発覚して管理会社と火災元の賠償が決まると、人々は急速に興味を失い、新しい政治家の不祥事へ移っていった。その間にマインドパルス症患者とその家族が好奇の目に晒され、いくつもの精神科クリニックが患者を守るために奔走させられたが、彼らを慰めるものは何もなかった。
 世間がそんな調子であるため十号も自らこの施設に収容されることを望んだのかもしれない。
 入口には刑務官が物々しい装備で立ち、ブリッジのゲートで受けたのと同じような検問を受け、機密情報保持と安全に関する誓約書にサインしてようやく施設に入ることができた。柔和だがてきぱきと動く職員が案内に立ち、面会スペースまで通される。面会スペースと表現しているのは部屋というほど区切られているわけではなく、十号の居室となった部屋の一部をくり抜いてアクリル板をはめ込み、面会用の窓にしているためだ。窓を挟んで小さな机と椅子が設置され、お互いに顔の半分くらいしか見えない。施設側の説明によればこの程度の大きさの窓ならマインドパルスの影響を受けないらしいが、こんな大きさでしか人と会えないならかなり不便な生活だ。
 相対した十号は想像以上に何処にでもいそうな中年男性で、穏やかな顔つきをしていた。しわの少ない白の刑務服に短く刈った髪は非常に清潔感がある。
「初めまして、お呼び立てしてすみません。収容番号十号と名乗るように指導されておりますので、お許し下さい」
 医療機器メーカーを相手にしている時のような感覚に、私は戸惑った。これでスーツを着ていれば完全に誤解していただろう。彼は本当にごく普通の会社員で、ついこの間まではこんな風に客を相手にして社会で生活していたはずだ。それが今や高い塀に囲まれ、大勢の刑務官に監視されながら狭い部屋に暮らしている。
「私を呼んだ理由をお聞きして宜しいですか?」
 互いに着席したのを確認して、まず私から質問を振ったが、十号は微笑んだまま答える気などないと言わんばかりに唇を引き結んでいる。
「では、私のことは何処で? お会いしたことはありましたか?」 
 またもや沈黙。
「此方の生活はいかがですか?」
「安心できます」
 ようやく十号は口を開いた。なるほど答えたい質問と答えたくない質問が彼の中に明確に存在しているということだ。そして彼は本題に入る前に、会話を通して私を試す用心深さを見せていた。
「刑務官の皆さんは厳しいですし、制限されることも多いですが、静かで快適です。学生の時にひとりで無人の山を登ったことがあるんですが、此処はその山に似ています」
 締め切られた面会スペースは狭苦しく、息苦しささえ感じる。微かにぼうっとする頭を振って私は会話を続ける。
「此処に入る前の生活はいかがでしたか? ご自分で此方に入ることを希望されたそうですが」
「まあまあでしたが、なんでこんなに苦労してんだろうと思っていました。こっちに来てからはかなりマシです」
「あなたのマインドパルスについてお聞きしても?」
 十号は暫し黙って私の目を見つめる。
「イチガシキ先生はどう思われますか。マインドパルス症患者について規制すべきとか、保護すべきとか。どんな印象をお持ちですか?」
 そう訊ねられ、八重樫藍の顔が思い浮かび、また玖瀬祈の顔が思い浮かぶ。これまでの人生の中で一回か二回程度しか出会ったことがないマインドパルス症患者が思い浮かび、メディアの中で描かれるマインドパルス症患者とその家族のステレオタイプが思い浮かび、また自分の事故の原因がマインドパルスであったかもしれない空想も、それらは曖昧で奥行きのないイメージでしかなく、再び八重樫藍と玖瀬祈に塗り替えられた。私は十号が覗く窓から自分の膝へと視線を落とし、また十号に目を戻した。その間に頭の中を巡ったのは無数の配慮と職責だったが、そんなものは十号も飽きるほど聞かされてきただろう。私は言葉に迷って十号から自分の膝に視線を落とした後、面会時間が三〇分であったことを思い出し、すぐ顔を上げた。
「……正直なところを申し上げると、持つべき印象がありません。私の生活にまだ影響がないので」
「良いとか悪いとか、好きとか嫌いとか……そういうものはありませんか?」
「それを断じることができるほど知りませんから」
 十号は私に対して何か言わせたい言葉があるらしく、それが口から飛び出すのを今か今かと待ち構えているが、私はその期待に容易に答えることができない。
 解剖台に上がってきた遺体のことを私は何も知らないし、知るためにメスを取るが結局理解し切ることはできない。いかように死んだか仮説を立てることはできるし、さもありなんと鑑定書に所見を記入することもできるが、それが事実とは限らない。生前の被害者がどんな人間であったか知りもしないのに善人だの悪人だの断じることはできず、せいぜいが犯罪に巻き込まれた不幸を悼むばかりだ。それはマインドパルス症患者も変わらない。加害者にだって家族があり、被害者にだって殺したいほど憎い人間がいる。
 十号は窓の向こうで微笑みを消し、ただ一度だけにやっと口の端を上げてから視線を外した。居室を振り返り、手持ち無沙汰に自身の首筋を右手で撫で、また私を見る。
「先生はドライな方ですね……フラットと言ったら良いんでしょうか」
 三上さんに言われたようなことを十号にも言われ、失望させてしまっただろうかと不安が過ったが、十号はむしろ窓に顔を近づけた。
「本当に先生はマインドパルスが効かないんですね。先生の思い浮かべるイメージが何も掴めません」
 声を低め、そう囁く。後ろに立っている弐ノ宮さんの耳に届くかどうかというくらいである。私は「え?」と問い返す。頭の芯から熱が引いていることに気づいた。
 十号はちらっと私の後方に立つ弐ノ宮さんへ目をやって、
「大丈夫。機密情報を知ったとして、誰にも言うことはありません。この施設の電子ロックの番号も、誰が何処の鍵を持っているかも、どの刑務官が誰を贔屓にしているかも知っていますが、その情報を利用したことは一度だってありません。知りたくて知ったわけではありませんから」
 弐ノ宮さんを振り返ると、彼は困ったような作り笑いを浮かべている。何か心に思い浮かべたところを十号にずばり言い当てられたのだろう。
「じゃあ、メールアカウントを入手したのはやはりマインドパルスを使って?」
「全くの偶然でしたけどね」
 果たしてランダム性の高い文字情報をイメージだけで正確に入手できるかは不明だ。
「先生にお伝えしたいことがあるんでした」
 まるで今さっき思い出したかのように十号が手を打ち鳴らす。初めて顔を合わせた時とはまるで別人のように、その態度から慇懃さが抜けていた。
「士師という男をご存知ですか?」
「士師……」
 名前を繰り返し、何処かで聞き覚えがあるような感触が引っかかる。新しい名前に触れた直近の出来事をいくつか思い返し、頭に浮かんだのは五月女医師の失踪と八重樫の事件だった。五月女医師の職場に数年前勤めており、また八重樫の親しい友人として名前が上がっている人物だ。
「士師は先生を知っていますよ。先生についてその人の頭の中から知りました」
 私は士師と出会ったことはない……と思う。記憶の限りではそうだ。
「それをいつ知ったんですか?」
「もう何年も前です」
「では、何故今になって……」
「此処に入ったらお伝えしようと決めていたんです。此処は安全ですから」
 彼の言葉に、それはそうだ、とにべもなく納得する。それと同時に、その名前を出せば十号自身が何か不利益を被り得ることを察した。
「士師はマインドパルス症患者の協力者を集めているようでした。何をするかは分かりません。ただ、話していてあまり良い気はしませんでした」
「それは何故?」
「……利用される。そう感じたからです」



 外に出ると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。ドームの外は長雨の季節だったことを思い出す。左腕が濡れないよう、特別収容施設のエントランスを出て急いで車に向かった。弐ノ宮さんとそれぞれ座席に乗り込んで、私は雨を拭くためにカバンからハンカチを取り出す。土を蒸し返したようなにおいが車内にまで入り込んでいた。
 弐ノ宮さんは通信機へ出発を告げ、間も無くエンジンが掛かり、公用車は再びブリッジまでの長い道のりを走っていく。
「警察とか法医学の先生なんてもっと熱い正義感を持っているイメージだったんですけど……結構皆さんそんなもんなんですか?」
 弐ノ宮さんはハンドルに手を載せながら質問を投げてくる。十号との会話のことを言っているのだろう。
 正義感を動機にする者は多いが、日々犯罪者が絶えることのないドームにおいては息切れする者も出てくる。私はと言えば、確かに正義感が全く無いわけでは無いものの、それ以上にあるのは、不条理に命を絶たれた人間の最期を知りたいという感情だった。不条理で腕を失った自分を救いたいという願望を遺体にぶつけているだけかもしれないし、あるいはそれは他人を救おうとする純粋な良心かもしれない。
「弐ノ宮さんは? 国を守りたくて治安維持局へ?」
「俺はまあ……成り行きっすかね」
「士官学校って成り行きで通えるものなんですか」
「それも、まあ。でも仕事には真面目ですよ」
 ブリッジ手前の信号機が赤に変わり、公用車がゆっくりと停止線に近づいて止まった。弐ノ宮さんがハンドルに手を掛けたまま此方を振り返る。ちょうど反対車線側を軍用トラックが三台通過していき、高い影が車内に覆い被さった。
「俺のこと信用してないでしょ」
 存外低い声で問われ、そうである必要はないのに緊張感が走る。三上さんとの昨夜の会話が蘇り、自分は信用しているはずだと確認するものの、あまり自信はない。治安維持局が私の警護に前のめりな理由は未だに不明だ。肯定すべきか否定すべきか迷っている間に、車内に沈黙が蔓延した。
「そりゃあ、こんなやつで大丈夫かよって思うでしょうけど……俺が暇そうにしてるってことは平和ってことですからね」
「それは何よりだと私も思ってます」
「ある程度信用してもらわないと、守れるものも守れませんからね」
 弐ノ宮さんはふてくされたようにそんなことを言って、また前を向く――私が彼の能力に疑問を抱いていると勘違いしているらしい。
 間も無く信号が変わってブリッジに進入した。進行方向ではフロントガラスの表面をワイパーが滑って曲線の跡を残しており、その向こうを長雨がドームの天球を洗って流れ落ちていた。雨が遮られるドーム内ではほとんどお飾りになってしまったワイパーが活躍しているのをかなり久し振りに見たような気がする。
 ブリッジに進入した公用車はいくつかの軍用トラックとすれ違いながら直線を走っていく。軍用トラックの迷彩服を着た男たちが物珍しげに此方を見下ろして、中にいる私たちを確認すると再び興味を失して去っていくのを幾度か繰り返す。
 電話が鳴り、スマホを見ると「七村室長」と表示されていた。解剖室で何かあったのだろうか。弐ノ宮さんに断ってから電話を受けると、疲労と焦りが滲むような声が飛び込んできた。
「イチガシキ君? 今、外出中だよね? いつ帰って来れる?」
「今はちょうどドームに入るところですけど……弐ノ宮さん、あと何分くらいでセンターに着きますか?」
「道が混んでなくても二〇分は掛かりますね。急ぎますか?」
 用事によっては急いでほしいが、ドーム内で無闇にスピードを出されてもただ恐怖が待っているだけだ。私は首を横に振ってから電話に戻る。
「室長、あと二〇分くらいだそうです。何かありましたか?」
「『放棄区画』で白骨死体が見つかったんだよ」
 室長の大声が電話から漏れたのか、護衛が一瞬だけ此方を振り返り、窓の外を指して首を傾いだ。まるで「寄っていきますか?」と言わんばかりのジェスチャーを示され、私は再び遠慮する。
「今日遺体が上がったんですか? なら、回ってくるのは明日ですよね?」
「回ってくるのはね。ただ三上さんから連絡が来て、なるべく早く所見が欲しいからスケジュール空けてくれって。出てきた白骨の数が多いんだよ。君も調整してくれる?」
 三上さんはよくスケジュールの横入りを依頼してくる。事件の重要度が高い解剖が差し込まれ、重要度の低い解剖は皺寄せを食らって後回しになり、手順など色々簡略化されてしまうこともある。人が死んだことに優劣などないが、事件性が高く世論の注目が集まりやすいものや、司法にとっても今後重要となり得る事件に時間と労力が割かれがちなのは致し方ないことなのだろうか。
 私は渋々了承して電話を切った。
「壱ヶ敷さん、大丈夫そうですか?」
「すみません。室長からのスケジュール調整の電話でした。このままセンターへお願いします」
「『放棄区画』で事件があったんですかね。人の出入りも難しいのに」
 会話の隙間をワイパーのガラスを擦る音が埋めていく。雨足が若干強くなり、また弱くなり、不安定なリズムで降り続けている。
「白骨化しているとのことで。少なくとも十年以上前のものでしょうけど、もしかしたら放棄される以前の事件かもしれません」
「放棄される以前かあ……どうやって身元を特定するんですか?」
「正直、かなり難しいですね」
 周辺に身元の分かる物が落ちていればまだ楽だが、それも無ければ、DNAデータベース、歯科カルテ、その他診療記録を辿る必要がある。五〇年以上前に遺棄された遺体ならデータベースに登録されている可能性も低い。どんなに時間を掛けても、結局特定には至らなかったり、「この人かもしれない」という曖昧さが残る可能性もある。
「今、あっち辺りに警察が集まってるんですかね」
 弐ノ宮さんが助手席側の窓を見やって、私もそれにつられた。
 元は田畑であっただろう荒地の向こうに低い山の麓が続いている。ブリッジは人の消えた田畑の上に建てられた駐屯地と沿岸部に作られたドームを繋ぎ、同じゲートからは国道が延びて、同じく人の出入りの無くなった他の土地を繋げている。最近になってようやく国道の交通規制が解除され始め、ドーム外の都市との行き来がしやすくなり、『放棄区画』以外の土地の再開発も始まったと聞く。
「ドーム外って未だにどっちがどっちか分からないんですよね」
 私が窓外の変わらない景色を眺めて言うと、弐ノ宮さんは右手をハンドルに掛けたまま左手であちこち指し、
「ドームの北西に『放棄区画』。収容所のある駐屯地はドームの南西。ほら、この下の国道を通って行けるんですよ」
 雨雲に太陽が隠され何を頼りに方角を定めているのかさっぱりだったが、説得力のある言い方をするのでそうなのだろうなと思わせられる。
 『放棄区画』は直近五〇年で人の生活を変化させ続けた土地だ。これまで何世代にも亘って住み続けた人々を追い出し、産業を奪い、病気とオカルトを生み出した。弐ノ宮さんの過剰増殖精細胞症も、八重樫や収容番号十号のマインドパルスも、全てのルーツは『放棄区画』まで辿ることができる。遺伝性であり、調査によれば出現当時三〇歳だった人は現在八〇歳を超え、孫や曽孫の世代まで疾患が遺伝しているという。行政は直接罹患した世代への対応に含め、遺伝世代に現れた新たな問題への対応にも追われ始めている。
「弐ノ宮さんって身内の方に『放棄区画』に居た方がいらっしゃるんですか?」
「そう聞いてますね。あんま知らないんすけど」
 弐ノ宮さんは気のない返事をした。仲が悪いのか、顔を見ずに亡くなってしまったのか、あまり思い入れはないようだ。無論、病気を移されたので好きになれないという単純な感情もあるかもしれない。
 私の両親と祖父母はドームに住んでいるが、曾祖父母はドームの外、『放棄区画』よりももっと向こうの行政区画に住んでいる。幼い頃に電話で話したきりもう声も覚えていない。ドームに移り住んだ人間は生活がドーム内で完結し、外を知らなくても良くなる。今フロントガラスを一生懸命擦っているワイパーの活躍も、ドーム内部で一生を終える人間なら見ることがないだろう。ドームで生まれてドームで死ぬ世代が現れ始めたのもここ最近の傾向だ。
 公用車はゲートの検閲エリアに入っていき、行きと同様に身体検査が行なわれた。弐ノ宮さんの武器も返却され、彼は預けた時のままか一通りチェックしてからホルスターに戻す。
 検閲エリアからドーム内に向かう道路に出ると、すぐに自動走行レーンが合流した。窓外の景色が橋梁と荒地から人とビルに代わり、やはりまた相対速度の高さを感じさせるこの景色が余計に車への恐怖を高めていくのだと、徐々に後部座席に背を埋めながら考えた。



 解剖室オフィスは死臭に混じってシャンプーの香りとコーヒーの香りが入り混じり、そこにソファで泥のように眠るスタッフの寝息が混じって、さながら夜明けの歓楽街の様相を呈していた。髪を濡らしたままぼうっと座っている女性スタッフや、三本目のエナジードリンクを開けている新人スタッフもいる。弐ノ宮さんは少々慄いた表情でそれらを眺めていた。
 特別収容施設から帰った私は、スケジュール調整のために解剖の予定を一件追加して済ませ、翌日早朝出勤して更に一件余計に済ませた後、警察から白骨死体を受け入れてグループ解剖に入った。その後他の遺体検案に呼ばれたスタッフのカバーで別の解剖にも入り、徹夜は免れつつもなかなかタイトなスケジュールで労働している。望まずともドーム内ではどんどん新しい遺体が生まれている。
 窓から差し込む昼下がりの光が眩しく、このまま帰って飼い猫のチャムを抱いたままベッドで微睡みたいという強い欲求に駆られた。何時間眠れていないかよりも、仕事でプライベートの時間を削り取られている事実が嫌だ。
 『放棄区画』から運ばれた白骨遺体は男女五名分あった。「五名分」というのは発見して運搬する時点で頭蓋骨が五個あったに過ぎないからで、男女の内訳は不明だからだ。その後解剖によって性別が特定され、男性四名、女性一名であることが判明した。法歯学の先生を呼び、全ての画像診断装置を稼働させ、バラバラになった骨をパズルのように組み立てた結果、午後に少し食い込む程度で終わらせることができた。
 その土地は軍の定期巡回区域にも入っていたが、約二メートルの深さに埋まっていたということもあり今まで見過ごされてきたようだ。発見者はその土地に入っていた調査業者で、再開発調査のために土を掘り起こしていた最中だった。長らく放置されてきたドーム外の土地をまた使えるものにするために踏み入っていたが、遺体が見つかったことによって再開発は再び足止めを喰らうだろう。
「発光現象の騒動のどさくさに紛れて遺体を埋めたのかもな。あの頃は怖がって誰も立ち入らなかったらしいから」
 白骨遺体の搬入に立ち会った三上さんがそんな見解を述べていた。
 七村解剖室長が眠そうな目を擦りながらテレビのチャンネルを入れると、午後のニュース番組が映った。右上には「珍事件?街中の奇妙な現象に迫る」とテロップが浮かんでいる。
「これってマインドパルスのことじゃないですかぁ?」
 あくび混じりに、分析結果を届けてそのまま道草を食っている六部さんが話題を振ってくる。解剖室オフィスの共用PCを借りて鑑定書を書いている私の傍を彼女は離れようとしなかった。
「電車事故以降、また注目を浴びてますね」
 マインドパルスによって逃げ遅れ被害が拡大した火災事件の後、話題が落ち着いてきた頃に、今度は中央ターミナル駅で停車中の電車が急発進する事故が発生した。マインドパルスによってパニックを起こした車掌と乗客が巻き込まれ三名が死亡し――とは言え内二名は突然動いた電車に驚いて転倒し人波に圧迫された老人と、無理やり電車に乗りこもとうとして落下した若者一名だが――マインドパルス症患者がいたかどうかは特定されていないものの、現場の状況と居合わせた人々の証言から、「そうだったのではないかという仮説」として調査委員会が結論づけ、世間は「そうだったのだという事実」として語っている。この出来事は否が応にも世間の注目を集め、議論の的になり、それに便乗して報道機関も色々画策して特集を組んでいた。
 テレビではマインドパルスに遭ったことがあるという人々や、マインドパルス症患者本人へのインタビューが執り行なわれていた。大体は死亡者が出るような事故ではなく、赤信号で歩行者が一斉に動き出して自動走行レーンが車を緊急停止させたとか、クリニックの待合室にいたら可笑しくもないのにみんなが突然大笑いし始めたとか、ある日コンビニのアイスが一種類だけ飛ぶように売れたとか、せいぜいがヒヤッとした事例止まりであるものの、概してコントロール不能の恐怖の対象であるかのような印象が残る。
 そう言えば私も、外回りを終えた帰りにむしょうに鴨蕎麦を食べたくなって店に行ったら、普段は閑古鳥が鳴いているような店に行列ができていたっけ。その時は泣く泣く行きつけの店でランチを済ませたが、頭の中にはずっと出汁と醤油と青葱の香りが反芻され続けていた。あの日以来、再びあれほど鴨蕎麦を食べたいと思ったことはない。外部から食欲を掻き立てられたものの、私自身の中にそういう欲求は無いらしい。
「なんかオカルトみたいな扱いですね」
 ソファーで寝ていたはずの男性スタッフが細目を更に細めながらぼやいた。エナジードリンクをがぶ飲みしていた若いスタッフがそれに応じる。
「オカルトみたいなものっすよ。赤月発光症候群って僕は見たことないですよ」
「嘘でしょ、実習で見なかった?」
「いいえ」
「それはラポール足りないだけ。そんな態度だからお前が信頼されてないんだよ。二メートルある人の殆どは過剰増殖性細胞症だぞ」
 若スタッフは「そうかなあ」と不満げだ。
「まあ、症例が少ないですし、医学的な説明もまだ仮説みたいなものですから、オカルトと言いたい気持ちも分かりますよ」
 私が助け舟を出してやると、若スタッフは嬉しそうな顔で此方を振り向く。次に不満げな顔をしたのは六部さんで、若スタッフを小突く。このふたりはほぼ同期なのでこんな光景がしばしばある。
「あんたはそういう理屈も無かったでしょ」
「だって本当に見たことないし……」
 実際にはニノヤミサンという症例が目の前にいるのだが、本人が打ち明けていないし、そもそも見た目でそれと分かりにくいので仕方ないだろう。当の本人は若スタッフの言葉にも動じることなく立っている。
 赤月発光症候群、あるいは発光現象そのものさえオカルトと思われている節がある。集団幻覚だったという説さえあるほどだ。何せ五〇年前の出来事なので、その瞬間だけ真っ白になっている僅かな映像資料と、当時現場に居合わせた人々の証言しか頼れるものがない。後者の方は時間の経過につれて徐々に語る言葉が変わり、語り手さえ変わり、詳細な部分の確実性は薄れていっている。
 赤月発光症候群は『放棄区画』で突如発生した発光現象を契機に生まれた病だが、たまたま時期が重なっているだけで原因かどうかは不明だし、化学ガス説、放射線事故説、宇宙人説といった仮説も様々立てられている。少なくともある時、閃光弾を投げ込まれたように一帯が真っ白に光った後――この時、全ての映像資料も同様に真っ白になって何も映せていない――、一部の居合わせた人々の体に異変が起こり、詳細に検査したところ遺伝子が変異していることが分かった。遺伝子変異の内容と症状から、赤月発光症候群の中には過剰増殖性細胞症、マインドパルス症、異常内部感覚症がの三つが含まれている。最後のひとつに関しては前者二つとの合併が見られ、遺伝子の変化で症状が現れているとは考えにくいとされている。
「異常内部感覚症って幽霊が見えるんだよね?」
 若手スタッフたちが徹夜明けの頭で騒いでいるのを聞きつけ、七村室長が会話に混ざってくる。
「そうなんですかあ? 異常内部感覚症って時間の流れが遅いとか、聞こえない声が聞こえるとか、そういうのじゃ無かったでしたっけえ?」
「異常聴覚があるなら異常視覚もあるんじゃない? 電波が目に見えるって人、テレビで見た気がするよ」
「白骨遺体も、幽霊が出てきて犯人が誰か教えてくれればいいのにねえ。僕たちが夜鍋して、はぁ、コツコツ、調べなくてもねえ」
 七村室長の言葉に、見計らったように全員が押し黙る。室長はその場の全員の顔を見回って、
「……嫌だなあ、徹夜だから許してよ」
 そう悲しそうに眉尻を下げ、おずおずとデスクに戻っていくのを全員が見送った。若スタッフだけが徹夜明けの頭に効いたらしく、必死に笑いを堪え、顔を真っ赤にしている。
「でも本当に異常内部感覚症の人に見えないものが見えたとしてえ……それって視細胞に異常が起きてるんですかねえ? それとも脳?」
 六部さんが珍しく真面目な顔つきで質問を投げかける。
「細胞に異常が起きてたら他の視覚機能も変化してそうだけどな。幽霊だけ都合よく見えるようになったんじゃなくて、色覚異常とか視野とか……」
「その人がどう知覚してるかなんて分かりませんもんね。教科書とかにあるのはあくまで再現だし」
「教材であった異常聴覚とか幻聴の再現、すごかったなあ。あれはストレス溜まると思ったよ」
 一部の学説によれば、異常内部感覚症や注意障害などは人間の狩猟時代に回帰しているだけだと唱えているものもある。例えば障害や症状として現れず、獲物を捉えた際の体感時間の延長、鋭敏な方向感覚、独特とさえ言える色彩感覚などを才能として昇華させている例もある。ただ現代社会で生活する分には不便な素質が、障害として判断されているだけだと。その意味で考えれば、赤月発光症候群の遺伝子異常は何千年以上も前の人類の姿だったかも知れず、マインドパルス症は何千年か後の人類の姿になるかも知れない。
「そういえば僕、『放棄区画』の手前の心霊スポットに行ったことありますよ。何も無かったですけど」
 若スタッフがようやく笑いの波を乗り越えて会話に戻ってきた。ソファのスタッフが呆れた様子で彼を見上げ、
「お前も怖いもの知らずだね。学生の時に行ったんだろ?」
「そうですけど……友達がそういうの好きなんですよ」
 発光現象が確認されて以来、『放棄区画』として区分けされ、その地域一体は立入禁止区域として軍の厳しい管理下に置かれた。それがここ二〇年弱で徐々に制限が解除されていき、人が立ち入れるようになって観光スポット扱いし始める人々も出てきた。心霊スポットもそのひとつで、二〇年も経てばどんなに嘘くさくても箔がつく。
 そのうちに話題は学生時代にいかにバカをやったかという話で盛り上がり始め、ソファのスタッフと若スタッフ、そして六部さんを残して他は自分の仕事に戻った。私も鑑定書の続きを熱心に書き終えた後早々にオフィスから引き上げる。
 廊下に出ると先行する弐ノ宮さんが安堵の息をついていた。
「皆さんもっと堅苦しいイメージでしたけど、ああいう話もされるんですね」
「まあ、今日はみんな寝不足でしょうから」
 普段はもうちょっとまともな話をするし、まともじゃなくても幽霊を科学的に分析したり心霊現象の科学的解明を試みる。少なくとも昼間から友人が全裸になって幽霊を呼ぼうとしたとか、自分もその勢いに乗ったとか、写真を撮って女友達に見せたという話を、昼間から同僚や先輩に聞かせはしないだろう。一晩寝て冷静さを取り戻した若スタッフが明日どんな顔で出勤してくるか想像するには余りあるが、寝不足がいかに危険であるかの重要性は身に沁みるだろう。
「徹夜明けもある意味、病気みたいなものですよね。生活に支障が出ますから」
 しみじみそんなことを言うと、弐ノ宮さんは此方を振り返り、
「俺も異常内部感覚症って言われてるんですけど、生活に困ってないんですよね。だからそれが病気の症状だって言われてもピンとこなくて。困ってないし……」
「人と違うということがストレスになるケースもありますから、気にしてないならそれで良いと思いますよ。ちなみに症状をお聞きしても?」
「体感時間の延長? ってやつとか、人がどっちの方向にいるか分かる感じがある時とか……人の気配みたいなやつですかね、音とか温度も含めてなんですけど」
 軍人やスポーツ選手にとってはそれがあるのと無いのとではかなりパフォーマンスに差が出るのでは無いだろうか。少なくとも彼の言う通り、仕事において不利を被ることは少ないだろう。
「まあ、人によっては……」
 弐ノ宮さんが開けてくれた分室オフィスの扉をくぐりながら、私は医者が患者にアドバイスするような事柄を思い浮かべる。
「公的扶助を受け取るためにあえて診断名をつけてもらうという場合もありますね」
「公的扶助?」
 扉を後ろ手に閉めながら、弐ノ宮さんは首を傾ぐ。
 私はそれに驚きながら、
「赤月発光症候群扶助金制度って言う……」
「あ、そういうのがあるなら貰って損はないか」
「……もう打ち切られてしまった制度が……四年前に……」
「え」
 私と弐ノ宮さんはお互いに信じられないものを見るような目で見つめ合う。発光現象以来、四年前まで存続していた制度を、過剰増殖精細胞症でもある彼が知らないのは迂闊としか言いようがないし、彼は彼で、四年前に打ち切られた制度を教える私のことを非情だと思っただろう。
「貰ってなかったんですか?」
 私は恐る恐る訊いた。もし生まれた時から満額受け取っていれば結構な額になるはずだ。特に過剰増殖性細胞症は定期的な通院や栄養補助、場合によってはホルモン治療などかなりの診療点数が加算されるので、当たり前のように月万単位の医療費が掛かる人もいる。五年前に扶助金打ち切りの通達があってからは申請者が若干増加し、打ち切り後も別の制度を変えて存続してほしいと署名が集まったほどだ。保健省は今も検討中と回答するのみで具体的な動きは見せていない。
「そういうのって……面倒じゃないですか?」
 弐ノ宮さんは自分の心を宥めるようにゆっくりと言葉を返す。
 私もその動揺を慰めてやりたかったが、面倒かどうかという点においてはひとつの返答しかしてあげられない。
「IDと診断書で申請すればすぐだったと思いますよ」
「……いや、それは面倒っすよ」
 では何をしても面倒だ。私は頭を振った。
「ご両親は申請されなかったんですか?」
「してた、かな? いやー、どうだったかなあ」
「三親等以内に該当者がいれば出生の段階で検査をしますから、告知されるはずですよ。病院や役所も申請を勧めると思うんですけど」
 弐ノ宮さんは相変わらず言葉を濁して笑っている。各々の家庭に事情というものがあるし、それ以上の追及はやめた。少なくとも四年前に打ち切られた制度についてあれこれ言い合っても仕方が無いだろう。
 午後から夕方にかけては平常通りの業務に従事し、一晩明けて出勤すると案の定、過去の恥ずかしい話を我々に披露してくれた若スタッフは萎縮しながらオフィスの自席に着いていた。解剖室オフィスで全体ミーティングを済ませ、解散しようと言うところで六部さんがやってくる。
「先輩、綺麗に合致するお酒が見つかりましたよお! お店も絞っちゃいましたあ」
 昨日までに全ての銘柄の試料を提出していたので、分析室――あるいは六部さん個人がかなり頑張ってくれたらしい。彼女は分析結果を印刷したものをそのまま持ってきて私に見せてくれた。これまでの分析も含めたもので十枚近く綴じられているが、後半はお店のリストだ。珍しい銘柄という割には、玖瀬祈が目撃された新赤月区の歓楽街だけでも二〇軒近くリストアップされていた。
「結構なお店が買い付けてるんですね」
「最近俳優さんがおすすめしてたらしくてえ。ブームですかね」
 それは時の運が悪いな、と思う。恐らくタイミングが被っていなければ二軒回るくらいで済んだだろう。
 弐ノ宮さんがリストを後ろから覗き込んでいた。
「これだけのお店、どうするんですか?」
「三上さんにお伝えするのが最善ですけど……」
「あの人、この間も忙しそうでしたよねえ。怖い顔しちゃって」
 彼に最近一番眠れたエピソードを聞いたところ、二年前の歯科治療で麻酔を受けた時だと聞いた。私は鎮静作用の強さをよく知っているので大笑いしてしまったが、よくよく考えれば笑い事ではない。
 玖瀬祈が最後に観測されたのは新赤月区の歓楽街で、押収されたスクールバッグが回収されたのはそこから少し離れた古い住宅街だ。現場には争った形跡や玖瀬祈以外が遺したと思われる痕跡は無い。夕方の人通りが少ない時間帯と思われ、有力な証言も集まらなかった。現場に一緒に落ちていたスマホからはGPSのデータと彼女が遺したと思われる録画データもあるようだが、後から車に派手に轢かれて物理ストレージ部分が潰されたらしく、修復にはもう少し時間が掛かる。
 彼女の数少ない痕跡のひとつが私の手元に現在あり、私は今、それをどうすべきか持て余している状態だった。
「……私、行ってきます」
「何処に?」
「新赤月区の飲食店に、においを確かめに」
 厳密には銘柄を置いているか確認し、そこで玖瀬祈を見かけたかどうか訊るためだが、少々誤解を招く言い方だったらしく弐ノ宮さんが「いよいよ警察犬じゃないですか」と呟いた。
「警察の方に引き継ぎしないんですか?」
「根拠がお酒だけなので、せめて店を特定してからの方が良いかなと……」
「新赤月区は危ないですよ」
 そう言った弐ノ宮さんに六部さんもこくこくと激しく首肯した。
 新赤月区はドーム内でも屈指の治安の悪さを誇り、警察出動の八割が此処だと揶揄されることすらある。そもそも無法地帯気味だった土地に発光現象で足止めを喰らった人々や労働にあぶれた人々が集まり、今や違法労働と風俗と無戸籍の温床になっている。
「でも私、以前あそこへ一人で行ったことありますよ。胃の内容物を昼間に採取しに行って……」
「だって先輩、今は命を狙われてるかもなんでしょ?」
「そうですけど、その為の弐ノ宮さんですし……」
 振り返ると、当の彼は眉を寄せている。
「そういう信頼の寄せ方をしますか……」
「警察の巡回も多いですし、何とかできませんか? なるべく早く足取りを掴まないと――」
 玖瀬祈の安全を保障することはできない。そこまで言い切ってしまおうか迷って言葉を飲み込む。
 イヤホンマイクを手繰り寄せた弐ノ宮さんは、小声で本部に確認を始めてくれた。はい、はい、と返事を繰り返し、渋面を作ったので私の希望が通ったのだと分かる。
 結局、その日の午後に公用車で新赤月区に乗りつけた。大通りのパーキングに停めるとすぐに巡回中の警官二名が見え、道沿いに進めば駅前の案内板の横に四足型アンドロイドが立っている。私が案内板と店舗リストを見比べている間に、人が立ち止まり続けているのをアンドロイドが検知して頭を此方に回転させる。合成音声の矯正され過ぎたイントネーションで「何かお困りですか、御用の方はお気軽にお声がけ下さい」と繰り返しながら近づいてくるのを、弐ノ宮さんが「大丈夫、大丈夫です」と押し留めていた。
 目当ての一軒目は駅前大通りを南進してすぐの所にあった。南通りには飲食店が多く、該当する二〇軒の過半数が集まっている。大半は夕方から店を開けているバーやクラブだが、昼は酒を出さずに営業しているレストランもある。
 アンドロイドと押し問答している弐ノ宮さんへ声を掛けようとしたところで、道の向こうから人の叫ぶ声が聞こえた。街頭ビジョンや店頭スピーカーから流れる音声とは違って、その肉声は感情を抑制しきれておらず、街行く人々の視線を引きつける。縦横無尽に行き違っていた人の波がぴたりと止まり、急に左右に割れたかと思うと、キャップを被った男が飛び出してきた。
「通報がありました、間も無く警官が到着します。通報がありました、間も無く警官が到着します」
 突然、傍のアンドロイドが頭部の回転灯を回して警告を発する。
 人波から何人かが飛び出してキャップの男に追い縋り、キャップの男が手に持ったナイフを振って追い返すのを何度か繰り返す内に、どんどん此方との距離が縮まってきた。
「下がってて下さい」
 弐ノ宮さんが殆ど押すような強さで私を後ろに追いやる。私は案内板の後ろに回った。
 キャップの男がでたらめにナイフを振り回しているところに脚を差し出し、躓いたところを取り押さえようとしたが、キャップの男は意外にも俊敏な動きで受け身をとって体勢を持ち直した。弐ノ宮さんではなくもっと手前にいた女性に向かってナイフを振り下ろし、その手に警棒が叩き込まれてナイフを取り落とす。
 弐ノ宮さんはキャップの男に飛びついて地面にひっくり返し、馬乗りになって押さえ込もうとする。暴れる成人男性をひとりで押さえ込むのはなかなか大変ならしく、何人かの通行人が四肢にしがみついてようやくキャップの男が大人しくなった。到着した警官に身柄が引き渡されるまでキャップの男は喚いていたが、手錠が掛けられると疲弊したように地面に伏せ、なされるがままになっている。取り落としたナイフの回収と被害者の確認が始まり、弐ノ宮さんがようやく戻ってくる――ようやくとは言っても案内板の裏に隠れてからものの数分の出来事だ。アンドロイドは既に回転灯を止め、所定の位置で仕事を再開している。
「本当に此処で調査するんですね?」
 コートの乱れを直しながら、弐ノ宮さんが鋭く問うてくる。
「まあ、事件が同じ場所で起こる確率も低いでしょうから」
「本当に危なかったら、後部座席に縛り付けてセンターに送還しますからね」
 男を地面に投げ飛ばした様子を思い返すと、あながち嘘でもなさそうなのが笑えない。南通りへ入り一軒目の看板を見つけて店に入っていく間も、弐ノ宮さんは人混みを嫌うように先行しており、いつにない緊張感を漂わせている。私が店主に事情を説明して酒の取扱いを確認している時も店の内外に目を光らせていた。
 玖瀬祈が新赤月区の監視カメラで確認されたのは事件当日の夕方。女子高校生がひとりで出歩くには不安な時間帯であるが、彼女は八重樫藍の後を追いかけて歓楽街に来た様子であった。監視カメラで確認できているのは大通りから南通りに入ったところと、東通りから大通りを抜けて自宅がある北側へひとりで歩いて行ったところ。警察は捜査のため道路に面した店舗へ監視カメラの提出を依頼したが、玖瀬祈が何処かの店に入ったところを録画したものは見つかっていない。
 自分の脚で何軒か回ってみると、なんとなくその理由のひとつが身に沁みてくる。警察と聞いて顔をしかめる店もあれば、弐ノ宮さんの制服を見て話に応じない店も出てきたためだ。店が忙しい、客が怖がるといった理由でそれとなく断られることもあったし、そもそも面と向かって公僕が嫌いだと言ってのける者もいた。反対に商品管理リストを持ってきて、数年前に取り扱いをやめているとか、事件が起きた日の前後に入荷しておらず品切れになっていたことを丁寧に証明してくれる店もあった。
 玖瀬祈の写真を持ち出せなかったので、代わりに高校の制服の写真をスマホに用意していた。高校がある地区とこの歓楽街はかなり離れているので制服姿で訪れる学生はあまりいないらしく、写真を見せると反応がふたつに分かれた。
「ああ、それね」
 素っ気ない調子で返したのは八軒目の「紅亭」というバーで、店主が開店準備をしながら片手間に応じてくれていた。カウンターの端では既に出来上がっている老人もおり、此方の様子を窺いながら酒を煽っているので、かなり居心地が悪い。
「この制服を着ていた女の子を探しているんですが、見かけませんでしたか? 最後に目撃されたのは――」
「警察にも同じことを聞かれたから。知らないって言ってるよ」
 店主は野菜を手早く切りながら、私が差し出したスマホも見ずに答える。二玉のキャベツがあっという間に千切りにされて流しの氷水にさらされていった。
「おれぁ見たぞ!」
 カウンターの老人がカンッとコップを机に打ちつけて怒鳴り、驚いて振り向くと赤ら顔の隙間から充血した眼球が向けられており、震える人差し指を突きつけられる。
「おれぁ、そこの兄ちゃんを見たぞ。あれぁドーム建設が始まったばっかりの……」
「爺さん、そりゃドッペルゲンガーの話だろ。……すまんね、この爺さん、発光現象のオカルトマニアでさ」
「はあ」
 指を突きつけられた弐ノ宮さんも私も、互いに見交わして苦笑する。解剖室でも最近そんな話をしたばかりだったが、酔っ払いに言われると尚のこと与太話に聞こえてしまう。
 心霊スポットよりは息が続かなかったものの、ドッペルゲンガーもまた発光現象にまつわるオカルトとして一時期流行した。
 酒の溢れたコップにぶつぶつ唱えている老人をよそ目に、店主は包丁を置き、おもむろに振り返って背後の小窓から外の裏通りに向かって頭を突き出して、
「おい。ちょっと話聞いてやれるか。……悪いな」
 そう声を掛け、すぐに此方へ向き直る。
「裏にいるやつに聞いてくれ。髪を青く染めた男がいるから」
「ご主人は何もご存知でないですか?」
「俺は店の外に出なくてね。店に入ってくる客以外は知らないよ」
 そう言ったきり、また黙って包丁を握り、今度はパック詰めのまま積み上げていたトマトの櫛切りを始めてしまう。
 スマホを引っ込めて簡単に礼を言い、弐ノ宮さんを連れて裏通りに出ると、店主の言った通り髪の青い男が座っていた。右腕にはシルバーのブレスレットに混じって白いプラスチックのリストバンドを着けている。衛生省が実施している今期分の性感染症対策薬を投与された証明であり、彼が風俗業で生計を立てていることが見て取れた。彼は私たちを見るなり、
「三人はちょっと値が張るけど……」
 軽口を叩き、此方が何の反応も示さなかったのでつまらなそうに肩を竦めた。
「はいはい、何? 話はちょっと聞こえていたけど」
「この制服の女の子を探しているんです。数日前に失踪した子なんですが」
 私が差し出したスマホを覗き込み、うーん、と男は唸る。
「数日前ね。見たと思うよ。誰かを追いかけてたと思う」
 追いかけられていたのは恐らく八重樫のことだ。にわかに光明が差してきた。
「どの方角に行ったか分かりますか?」
「あっちじゃない? 客待ちしてたから一瞬だったけど。クラブ・ブルーパンチの方に歩いてたよ」
 男は表通りの方に身を乗り出して反対側の横路を指し示す。ブルーパンチという店は店舗リストにも挙げられており、まだ周っていない店だった。
「ブルーパンチという店はどんな店でしょうか?」
「高級クラブじゃないけど、金持ってそうな連中も使ってるとこかな。VIPルームみたいなところがあって……前に薬物騒ぎか何かでガサ入れもあったと思うよ」
「薬物騒ぎ?」
 私が繰り返すと、珍しいことではないと言わんばかりに頷く。
「俺は使うの好きじゃないから、詳しくないけどね。なに、お姉さんは興味あるクチ? ダチに頼んで試せるようにしとく?」
「おい、警察突き出すぞ」
 男の冗談は弐ノ宮さんに一旦任せ、それよりも頭の中で優先したのは八重樫藍が変な組織と関わっていないかということであった。彼女は高校に通えていないものの病院以外に外出する様子があり、家族以外へ電話している様子も確認されているらしい。つまり外に交流関係があるということになる。もしも玖瀬祈の失踪がそこから端を発しているなら、玖瀬祈自身もそういった交流に巻き込まれている可能性が高い。
「お兄さんなら特別安くしておくけど、どう? 一緒に楽しんでくれるなら俺も使っちゃおうかなあ」
「職務中の公務員への客引きは通報対象だからな」
「じゃあ休みの時に来てよ、大体此処にいるからさ!」
「あの、そろそろお暇します、ありがとうございました」
 へらへら笑う青髪の男と喧嘩腰の弐ノ宮さんの間に割って入り、早々に礼を言って表通りへ戻ろうとする。青髪の男はやはりだらしなく笑いながら「またねえ」と手を振り、弐ノ宮さんが威嚇するような形相で睨んでいた。
 人の波を横切って反対側の横路に入っていくと、ビルの陰に古い書体で「クラブ・ブルーパンチ」と書かれた看板が出てきた。当然ランプはついていないものの、電源コードは綺麗に巻かれて看板下のフックに掛かっている。古くひび割れた外壁の上半分は蔦に覆われ、小洒落たドアに少し侵食していた。ドアには準備中を示すプレートが下がっている。いかにも昔からあるような佇まいの店で、看板が無ければレストランと間違えたかもしれない。
 窓はなく店内の様子を窺えないものの、ドアには鍵が掛かっておらず、開けるとベルが揺れた。手前のバーカウンターに立っていた店主らしき男が驚いた顔を向ける。私が店内に入り、後ろから弐ノ宮さんが続くと、一層表情が強張るのが見てとれた。とても薬物組織と関わっているようには見えない気弱そうな男だが、何か後ろめたそうなところがあるように見えてしまう。
「突然すみません。人を捜しているんですが、ご協力願えますか?」
 テーブル席とカウンター席で合わせて30席程度あり、バーカウンターの後ろには厨房が続いているが、人がいる気配はない。奥に階段の手すりがあり、床下からはドンドンと重低音が小さく響いてくるので、どうやら「クラブ」たる所以は地下にあるらしい。店主は階段がある方向をちらっと見て、また私たちを見た。
「営業準備中で忙しいんですが……」
「すぐに終わります」
 そう言って私はスマホの画像を見せ、探している酒の銘柄について確認し、今までと変わらない内容を店主に確かめていく。
「その酒ならありますよ、うちにも……はい」
 カウンター下から確かに同じ銘柄の瓶を取り出し、私に見せてくれる。
「最近注文された方は?」
「いやあ……どうでしたかね、あんまりお出しすることもありませんから」
「よく頼まれる方とかいらっしゃいませんか?」
 店主はちら、ちら、と何度も階段側に視線を向け、怯えたようにまた此方を窺うのを繰り返す。誰かに脅されているのかとも思ったが、それならもっと分かりやすいヘルプサインがあるだろう。
 私も階段の方に顔だけ向けた。
「他に誰かいるんですか?」
「えっ……いや……」
 店主が明らかに狼狽し、誰かを隠しているのだと気づく。店主に向き直ったところで階段下から足音が鳴り、振り向くと、ボーイ姿の小柄な人影が見えた。
「あっ、こら……」
 店主の諌めるような声と、横からぱっと弐ノ宮さんが駆け出したのはほぼ同時で、一瞬遅れて人影も階段下に引き返したが、弐ノ宮さんが軽々と手すりを飛び越えて追いつく。ゴロゴロと転がるような鈍い音がして様子を見にいくと、踊り場でボーイの腕を後ろに回し、床にねじ伏せている弐ノ宮さんの姿があった。
「くそ、離せったら!」
 踊り場の薄暗く頼りないダウンライトに照らされて、苦しそうにボーイが身をよじっている。成人にしてはやや高く細い声だ。弐ノ宮さんが引き立てると頭ひとつ分だけ背が低い。
「暴れんなクソガキ! 何で逃げた?」
「違うよ、仕事を思い出しただけ!」
 踊り場で拷問でも始めそうな雰囲気だったので、私は弐ノ宮さんの肩を叩いて階段上を指した。階段上のホールでは青い顔で店主が待っており、私たちが上に戻るとゆっくり後退りつつも、逃げようという様子はない。
「こ、この子はうちの親戚で……その、今日はたまたま手伝いに来てもらってて……」
「おいくつですか? 条例により十六歳以下の労働は禁止、十八歳以下の平日労働は禁止です。今日は平日ですよ」
 青少年育成条例というものにより厳しく労働が制限されており、違反した雇用主は罰金または営業停止の罰則を受ける規定だ。学業に専念させることが目的で、家計が苦しい等の理由がある場合には別の助成制度を申請することができる――とは言うものの、助成制度対象に微妙に該当しないグレーゾーンや、助成制度によって逆に制限を受けてしまう人々もいるため、こんな風に条例が機能していない実例が多い。
「無理言って働かせてもらってるんだよ! 店長は関係ないから!」
「性別を偽ってまで?」
 え、と弐ノ宮さんが驚いた声を上げて手を離した。両手を上げながらまじまじとボーイを見ている。
 ボーイ姿で短く髪を切っているが、体格や声帯は女性のものだ。顔、首、肩、腰は特に、ベストとギャルソンエプロンを着けていても分かりやすい。階段の踊り場から上のホールに戻ってくるまでの所作も、脚の閉じ方や爪先の向け方に女性っぽさが滲み出ていた。たまに女性骨格の成人男性や女声のような男性もいるが、それでは店主が怯える理由が見つからない。
 私は店主の方を向き直った。
「売春は?」
「それはやってない!」
 後ろからボーイの少女が叫ぶのを、まあまあ、と店主が青い顔で諌めている。
「通報は勘弁して下さい、もう辞めさせますから……な、私が何とかするから……」
 正直なところ、通報義務はあるもののそんなことをする気はなかった。恐らくこの少女は外国人の血が混じった無戸籍児であり、学校に通えずろくな働き口もないところを、善意で店主に世話してもらっているのだろう。そういう子どもは歓楽街に多いと聞いている。男装をしているのは無用なトラブルを避けるためだ。店主が怪しい様子を見せ弐ノ宮さんが咄嗟に彼女を捕まえたが、事情も考慮せず一辺倒に通報するほど非情ではない。
「あなた、名前は?」
「……エトガワ」
 少女はぶっきらぼうに答えた。
「エトガワさんね。……私は今日、失踪した女子高生の話を聞きに来ました。エトガワさんの違法労働については管轄外です」
 少々狡いが、ふたりへ取引を持ちかける。ふたりは互いの顔を見交わし、正直に情報だけ渡した方が楽だと判断したらしく、ぽつぽつと話し始めた。
 店主によれば、失踪届が出される前日の十八時頃、玖瀬祈と思わしき女子高校生が入店してきた。店としては当然、制服を着た少女が店を使用していると変な噂が立っても困るので入店拒否しようとしたが、他の客と一緒に地下の個室へ入ってしまったらしい。地下の個室は追加料金を出せば誰でも使えることができ、その日も常連が使っていた。五分後、部屋から出てきた女子高校生は険しい顔をしていたが、何か酷い目に遭わされたという感じでもなかった。ボーイのエトガワが注文を取りに行った時には個室から一組の男女が出てきて、車を取りに行ったようだった。個室に残っていた客から、グラスを落としたので替えてほしいと頼まれたのを覚えていた。
 その個室を利用していたグループがどういう集まりなのかは不明だが、たまに利用しているらしい。年齢層は若く遊び好きな感じがあり、時々顔ぶれを入れ替えてつるんでいる。
「他に個室を利用するのはどういう方々ですか?」
「そりゃ、色々……官僚が秘密の話をしに来ることもありますし、ビジネスマンが接待してることもありますから」
「薬物のガサ入れが入ったって聞きましたけど」
 店主は面食らったような顔をして、それから気まずそうに声を低めた。
「もう何年も前のことですよ。個室が勝手にそういうことに使われただけで、私が使わせたわけじゃありません」
「でも、あの人たちはやってるでしょ」
 口を挟んだエトガワを店主が嗜めたが、私が先を促すと、彼女は怒ったように鼻を鳴らした。
「客の話に聞き耳立てる趣味は無いけど、時々ヤクとか何とか聞こえるんだよね。聞こえないふりしてるけどさ。慌てて札束をしまってることもあったし」
「他に聞いた話はありますか?」
「ドームの外の……何て言ったかな、アカツキ……」
「旧赤月区?」
 助け舟を出したのは弐ノ宮さんだ。そうそう、とエトガワが頷いた。
「旧赤月区の遊園地に商品運んでおけって。絶対にヤバい商売だよ」
 旧赤月区は『放棄区画』にある地区で、現在いる新赤月区という名称はそこから採られている。一帯は公有地として買い上げられ、建物もそのまま残っているらしい。
 とりあえず私は店主に名刺だけ預け、もしそのグループが来店したら連絡してほしいとだけ伝えた。直接会うか、警察に付き添ってもらうかまでは決めかねる。
 店を後にして店舗リストを眺め直し、このままリストの店を回るべきか、ブルーパンチで掴んだ足取りをそのまま追うべきか逡巡した。
 『放棄区画』で起こった犯罪は軍の管轄になるため、警察官が職務遂行のために立ち入ることは難しく、これまでも何度か軍と警察で衝突が起こっていた。出動要件が異なるだけではなく、軍の沽券に関わること以外はとにかく初動が遅いのだ。定期巡回があるとは言え白骨遺体が見つかったケースも直近にあるし、軍が女子高校生の失踪ごときで簡単に動いてくれるイメージは浮かばない。以前、仮に軍をすぐに動かすとすれば次のものが必要だと三上さんに聞いたことがある――証拠品、人、遺体。
 弐ノ宮さんは横に立って周囲を警戒しながら心配そうに私を見ていた。私がスマホで旧赤月区の地図を調べ始めたのを上から覗き込み、大きな溜息をつく。
「まさか、行こうとか言い出すんじゃ……」
「玖瀬祈さんがまだ無事なら、助かるかもしれませんし」
「旧赤月区の廃遊園地は浮浪者の溜まり場になってますよ。あの辺は軍もろくに見回らないらしいです」
「土地勘があるんですか?」
 特別収容施設に行った時もそうだが、彼が意外にもドーム街の地理に詳しい。ドーム内で生活が完結している私が知らなさすぎるだけかもしれないが、彼が案内に立ってくれるならこれほど心強いものはなかった。
 間合いを図るように互いが睨み合い、結局弐ノ宮さんが折れて了承してくれた。通信機で本部に許可を得てドローン配備まで取り付けてくれる。本部から軍に連絡を入れると、移動制限エリアと軍有地に侵入しなければ問題ないとの返答があったらしい。警察よりも随分あっさりと許可が通ったのは肩透かしを喰らった気分だ。
 ドームの外は天気が荒れやすいが、調べてみると今日は晴れが続くらしく、日もまあまあ長いので、急げば日が暮れる前に帰って来られるようだった。
「行くならさっさと行きましょう」
 殆ど諦念を抱いているような弐ノ宮さんがそう急かし、公用車を停めている駐車場まで引き返した。
 移動中、私はセンターから持ち出していたタブレットで玖瀬祈の失踪に関わる手掛かりを検めた。警察の方で少しずつ日記やSNSの記録等の解析が始まっており、センターを出発する前に共有データを受け取ってローカルストレージに入れてきていた。他には親や学校から聴取した内容、クラウドデータに保存されていたスマホの画像や動画、日記アプリのデータも含まれている。
 ざっと目を通したが、彼女が八重樫藍とトラブルを起こしていたり、八重樫のマインドパルスによって迷惑を被っていたという証拠は出てこない。学校に通えない幼馴染を真摯に心配し、八重樫とのやり取りをつぶさに記録し、その時の彼女自身の思考を丁寧に書き留めている――やや偏執的とも言える記録癖が見て取れる。ある意味では、こうなる未来を予測し、自身の正当性を証明するために記録を残しているようにも見受けられる。
 記録の中には八重樫が親身にしている人間として士師の名前が挙がっていた。たまたま八重樫と一緒にいるところを見かけ、あまり良い印象は抱かなかったようだ。それ以外の詳しいプロフィールは書かれていない。八重樫に付き合いを止めるよう助言したが相手にされず、とりあえず変化があるまで見守ると記している。
 玖瀬祈家の両親や、八重樫家の両親、そして学校の聴取からも、彼女が八重樫に対して献身的であったことが窺えた。同じ小学校に通う頃から、休みがちだった八重樫に配布物を届け、暇を見つけては勉強を教え、一緒に遊び、たまに登校した八重樫の面倒を見ていたらしい。積極的に友達の輪の中に入れ、八重樫がからかわれれば庇った。中学校に上がってもそれは変わらない。無理強いせず、見捨てず、三人目の親のように関わっていたらしい。互いの両親も学校もそれを善意による愛情と取るべきか不健全な執着か図りかねていたが、結局、都合が良いのでそのままにしていた。高校に行けば、大学に行けば、自然と良い方向へ進むだろうと――なるようになると思っていたらしい。
 ただ両親や学校の予想と反して、玖瀬祈はどんどん執着を増していた。記録を始めた十二歳の時点と比べると、少しずつ動機が変化しているのが分かる。彼女は日記の中で次のように綴っている。
「今、藍ちゃんを見捨てたら、今までのわたしは何だったの? わたしのお母さんや、藍ちゃんのお母さんや、学校の先生が世話をしろと言ってきて、今、どうして急に自分の人生を生きろって言うの?」
 日記の中で玖瀬祈は、八重樫藍を助けられるのは自分だけだと信じていた。八重樫藍という幼馴染に入れ込み、執着し、幼馴染の存在によってしか自身の正当性が証明できないもののように記していた。それは人間として生きていくにはあまりに苦しい価値観だし、若い彼女の選択の多くを制限するものだが、同時に思ったのは、イチガシキハルという人間もまたそんな生き方であったかもしれないということだ。私が玖瀬祈を助けようと思う要因はそこにあるのかもしれなかった。事故のショックから抜けきれず、過去の自分を救い続けようとしている私は、日記の中の玖瀬祈と殆ど変わらない。
 玖瀬祈は家族にも幼馴染にも知られず孤独に闘い続け、そして今、何処かで誰にも知られず孤独に死んでいこうとしているのかもしれない――私にはそれが、自分自身を諦めるようでたまらなく寂しい。



 公用車は順調に『放棄区画』へ入っていた。後方にはドローン部隊が続いているらしいが視認はできない。時速六〇キロ前後でかれこれ二〇分以上走り続けているが、景色は変わり映えなかった。
 ゲートから国道へ抜ける際に検閲エリアの軍人から注意事項を言い渡され、特に捜査権が軍にあることを念押しされた。不審者を捕まえたにせよ、怪我人を発見したにせよ、遺体が出てきたにせよ、治安維持局の独断で動くことはせず、まず軍へ通報すること。立入禁止区域や夜間侵入禁止区域など、侵入制限エリアを確認すること。老朽化が進んでいる建物には不用意に入らないこと。大体こんな内容だった。
 目的地が旧赤月区の「アカツキアドベンチャーパーク」という遊園地であること告げると、対応していた軍人はすぐに「ああ」と神妙な面持ちを見せた。
「本当にそこに失踪人がいるのか?」
「いるかどうかは分かりませんが、手掛かりはあるかもしれなくて」 
「旧赤月区に何かあるんですか?」
 運転席側から弐ノ宮さんが身を乗り出す。
 いや、と軍人は言葉を濁して、
「あの辺は浮浪者も多いし……心霊スポットとか幽霊騒ぎとか、そういう話に事欠かないからな。廃病院とか廃工場も多いし、とにかく治安が悪いんだ、あの辺は。充分気をつけてくれよ」
 五〇年前に発光現象が起き、大半の人間は『放棄区画』となったエリアを抜け、沿岸地域か他の隣接区域へ移動した。原因不明の発光現象は様々な二次被害を引き起こしたため、文字通り「スイッチを入れた」と表現されることがある。住居、健康、行政、その他多くのものが次の段階に切り替わることを余儀なくされ、人々の生活を大きく変えた。天候もそのひとつであり、今や『放棄区画』とその隣接区域は理屈を超えた異常気象に見舞われている。寧ろ人々が移動を迫られたのはこれが理由であるとも言えた。
 前日はひどい土砂降りがあったらしく、道路の周囲はひどくぬかるんでいた。空はどんより曇っており当分晴れる様子はない。道路上の電子掲示板では土砂崩れや河川の増水などに気をつけるよう気象観測支部からの警告文が流れている。突風では車がひっくり返されることもあるため、緊急避難に使えるランドマークまでの距離が併記されていた。この辺で一番安全なのは赤月駐屯地だが、距離にして十キロ近くはある。
 アカツキアドベンチャーパークは発光現象に伴って廃業に追い込まれた遊園地であり、『放棄区画』の工場地帯に隣り合う場所にあった。遠方から老朽化した観覧車が僅かに見えていたが、国道が山中に入るとそれも見えなくなり、まだ日は高いはずなのに周囲が薄暗くなっていく。
「ああ、看板見えてきました」
 それまで迷いなくハンドルを切っていた弐ノ宮さんが指した方向を見ると、放置された木々の隙間から看板が覗いていた。建てた頃には鮮やかな暖色であったろうそれはすっかり日に焼けて色褪せている。柱の下からシダが絡みつき、半分くらい文字が隠れていた。
 間も無く木立が絶え、草原のような場所に出たが、よく見るとアスファルトの隙間から雑草が生え放題になっている駐車場だった。雑草は脛の高さまで伸び、公用車が進むたびに薙ぎ倒され、振り返ると綺麗に轍が出来ている。
 入口のアーチがある手前に停車させ、エンジンを切った。
「此処からはドローンも追随しますので、少し待ちましょう」
 車を降り、適当に体を伸ばしながらアーチの奥を見る。昔はパレードも行なわれていたかもしれない広い通りの奥に枯れた噴水があり、その傍に似つかわしくない台車やビニールシートなどが放置されていた。いずれも風雨に晒されて傷んではいるが、昨日大雨が降ったと言うわりには雨が溜まっている様子も無い。
 スマホを見ると、多少弱いものの電波が通っていた。中継局の範囲はかなり広いらしい。持ち出していたタブレットは外部のネットワークに繋げないので車中に置いていき、二台のスマホをポケットに入れてカバンと一緒に持っていくことにする。
 間も無くドローンが合流し、私と弐ノ宮さんは数メートル前後を挟まれて移動することになった。適当に一回りし、人の痕跡が無いか探しながら、もし浮浪者などがいれば女子高校生を見かけなかったか訊くつもりであった。
 園内案内図の看板は日に焼けてすっかり見えなくなっており、薄らと目立つ建物の線が見えるばかりであったが、正面入口のアーチから左右に分かれて奥の観覧車に合流する道のりが一番大きな道のようであった。そこから複雑に入り組んだ細い道沿いにジェットコースターやプール、お化け屋敷等の定番の施設が並んでいるらしい。浮浪者が居住性を求めるのであれば屋根と壁のある屋内施設だろうという読みで、ひとまず一番近くの建物を目指すことにした。しかしドローンの低いモーター音を聞きつけたのか、あるいは公用車のエンジン音を警戒したのか、居ると言われていた浮浪者は影も見つからない。あちこちにビニールシートと紐でテントにしたものや、ペットボトル、缶など生活感を残すものが散見されたものの、肝心の家主は姿を見せない。
「壱ヶ敷さん。あれ……」
 五分ほど歩いていると、先行していた弐ノ宮さんが私を振り返り、横切りかけていた広場の奥のベンチを示した。そこには背を丸めたひとりの老人がじっと此方を窺っている姿がある。私と目が合い、互いに生きている人間をしっかり認識したという意識が生まれたが、老人は好奇心が勝ったらしく動こうとしなかった。
 弐ノ宮さんは「どうしますか」と言わんばかりに此方を見ていたが、私が黙って頷くと、老人の方へ歩き出す。ドローンが追随し、私の後ろに控えて低く飛んだ。
 老人は擦り切れたジャケットと汚れたズボンを履いており、方々に伸びた白髪が髭と繋がっていた。いかにも見た目に頓着しない様子だが、肌は日に焼け、不健康そうには見えない。こんな荒れた土地でどうやって食い繋いでいるかは不明だ。
「こんにちは。少しお話よろしいですか?」
 座っている老人の目の高さに合うよう少し膝を折り、声を掛ける。
 老人は動じずに胡乱げな眼差しをしたまま私と弐ノ宮さん、そして後ろのドローンを見やり、
「追い出しに来たか?」
 しわがれた声で用心深く問い返し、ベンチから一歩も動こうとはしない。
 いえ、と私は努めて穏やかに首を振った。
「人捜しのために来てるんです。この辺で、みなさんとは違う生活をしている方はいませんか?」
「違う生活? 余所者ってことか? そいつらを捜してんのか?」
「そうですね。その人たちが、女子高校生の失踪に関わっているかもしれなくて――」
 女子高校生、と口にすると、老人の顔色がさっと変わった。スマホに保存していた画像を呼び出すために俯いていた私にさえそれが察せられるほどだった。
 弐ノ宮さんが出し抜かれるほど俊敏な動作で、老人はベンチから飛び出し、広場裏の林に駆け込む。ドローンが追いかけようにも木の間が狭く、身軽な老人との距離がどんどん開いていく。私も追いかけようとしたが、弐ノ宮さんに肩を押さえられ、
「俺が先に行きます! 絶対に前に出ないで!」
 そう怒鳴られ、ドローンと一緒に林をぐるっと回り込んで老人を追いかける羽目になる。
 老人は林を突っ切ろうと走っていき、途中で何を思ったのか直角に曲がって目的地を変えたようだった。ふたりとも木に行手を阻まれ、時々根っこに足をもつらせながらも、さすがに弐ノ宮さんの方が体力があるらしく徐々に距離が縮んでいく。
 老人は林から飛び出して建物に逃げ込んだ。自動ドアのガラスが砕け散って吹き晒しになっており、白と青に塗り分けられたはずの内壁はひび割れ、床に落ちている。弐ノ宮さんが枯れ葉を踏み鳴らしてあちこち見ていたが、どうやら老人を見失ったらしかった。
「くそ、足速すぎだろ……」
 首の汗を拭いながら弐ノ宮さんがぼやいている。若者相手に息が上がるほどの熱戦を繰り広げるなど、あの老人は普段どんな生活をしているのだろうか。
 ドローンが周囲をぐるぐる回って探索し始めた。扉のない部屋だけ行き来し、扉がある部屋は弐ノ宮さんが開閉してチェックする。更衣室、救護室などのプレートが取り付けられており、中にはそれらしい設備が取り残されて老朽化していた。トイレ前の自販機は全て壊されて中身を抜かれており、人が立ち入ったことが分かる。
 一階の手前の部屋を見終わったが、あの老人は見当たらない。何処かで上がった息を整えているはずだが、こんなにも気配を消せるものだろうかと首を傾いだ。
 男子更衣室の奥の扉をくぐると、中央がくり抜かれた大きな部屋に出た。青と白のタイルは乾ききり、割れた窓から侵入した泥で汚れ、蔦に侵食され始めている。二階の高さから横半分に切ったダクトが伸び、一階の窪みまで渡されていた。
「あ、弐ノ宮さん、あそこ!」
 ダクトの奥に老人が見え、私が先に走り出したが、すぐに弐ノ宮さんに追い越される。彼は階段を二段飛ばしに駆け上がり、その後をドローンが続いた。
 二階に立ってようやく、ここが室内プールであり、ウォータースライダーのために二階が設けられていることに気づいた。上から見るとなるほど床が真四角にくり抜かれ、監視塔も設置されてある。二階はスライダー部分の手前だけ浅いプールになっており、それ以外は階を見下ろせるように床がぐるりと続いている。反対側には監視室らしい小部屋があった。
 老人は後退りしながら、欄干に背を押しつけ、少しずつ弐ノ宮さんと距離を取ろうとする。二機のドローンに挟まれ、壁のある場所へ逃げ込もうにもかなり距離がある。
「あんた、此処に来た女子高校生を知ってるのか?」
 弐ノ宮さんが声を張って訊くと、だだっ広い空間に反響した。
「お願いします、話だけ聞かせてください」
 私も一歩、また一歩と近づいた時、上の方で何かがガコンと外れるような音がした。咄嗟に、梁のようなパイプが渡されているだけの天井を見上げる。遠くの音が反響して上から鳴ったように聞こえただけだ――と思う内に、激しい流水の音が耳に届き、いつの間にか体が横倒しになっていた。足がとられ、目まぐるしく視界が回転し、息苦しさに気がついて、水に流されていると気づく。手を伸ばしても水しか掴むものがない。水ごと運ばれてダクトに吸い込まれる傍ら、視界の端で弐ノ宮さんが一緒に水に飛び込むのが見えた。
 子どもの頃、洗濯機に入ったらどうなるんだろうという空想をしたことがあった。大人になった今、まさかそれを体験することになろうとは思わない。自分の体はあっけないほど洗い流され、一階のプール部分に落ちてすぐ、排水ダクトへ吸い込まれていく。普通のプールなら人が吸い込まれないように蓋をしているはずなので、恐らく天井から排水すると同時に下も開いたのだろう。あの老人は最初からこの罠に掛けるためにこのプールへ逃げ込んだのかもしれない。
 壁か何かにぶつかりながら流され、やがて垂直に落下する感覚があった。体が床に投げ出され、私を抱えて下敷きになっていた弐ノ宮さんが苦しそうに呻く。雨だか何だか分からない水を吐き出し、大きく咳き込む声だけがわんわん響いた。
 頭上二メートルほどの高さからダクトが突き出しており、そこから水と僅かな明かりが滴っていた。どれくらいの距離を流されたのかは不明だが、もう一度ダクトを遡って元の場所に戻れる気はしない。流れ着いた場所は地下水路のように左右へ道が延びており、人の手によってわざわざプールの排水溝からこんな場所へ流水路を延ばしたのだろうなと分かる。
「もしもし……もしもーし、どうぞー」
 弐ノ宮さんは通信機を振ったり叩いたりしながら応答を求めていたが、当分反応が返ってくる様子は無かった。
 服の裾を絞り、髪を絞ってみるが、いまいち水を吸った体は軽くならない。義手を見ると隙間に水が入り込んでいるようだった。耳のデバイスを外して見ると水濡れアラートが光っていたので電源を落とさざるを得なくなる。生活防水仕様ではあるものの、成分不明の水に洗い流される状況は想定されておらず、分解して乾かすまでは誤作動が怖かった。
「通信機、大丈夫なんですか?」
 諦めて髪を絞っていた弐ノ宮さんに訊ねると、彼は平気そうな顔でへらへら笑う。
「軍規格の防水仕様なんで大丈夫です。そのうち繋がります。スマホはどうですか?」
「だめですね、圏外みたいです」
 ポケットに入っていたことに安堵し、画面がつくことにも安堵したが、肝心の電波は入っていない。頼みは通信機だけのようだった。二台ともポケットに戻し、カバンをひっくり返して水を吐き出させながら、意外に生活の基盤は脆いものだなと実感する。
「此処ってどの辺りなんでしょうか。遊園地の地下……お化け屋敷とか?」
「それにしては、ちょっと仕掛けが大胆すぎますね。違法改築したんでしょう」
 弐ノ宮さんはぐるっと周囲を見渡した後、自分のスマホのライト機能で薄暗い左右の通路を照らした。カツカツカツと踵を水溜りの上で踏み鳴らし、それがかなりの距離まで響いているのを確認する。
「たぶん地下放水路です。どっちかの道をひたすら歩けば中継施設まで着くと思います。中継施設からは地上に上がれますから、一旦そこまで向かいましょうか」
 彼はホルスターから拳銃を抜いて右手に構えながら、左手で行く手を照らして歩き出す。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 私は慌てて呼び止めた。
「本当にそっちで大丈夫なんですか? ドローンを待ちませんか?」
 ライトで照らすとは言え、弐ノ宮さんは暗闇の中に進もうとしていた。方向を示すものはなく、薄ら寒く、まして水が流れるような場所を無闇やたらに歩き回ってどうにかなるものだろうか。此処に流れ着くまではドローンも一緒にいたので、私たちが水に流されたことまでは把握しているはずだ。
 弐ノ宮さんは額にぺったりと張りついた前髪を剥がしながら肩を竦めた。
「水路の途中に水圧で開く蓋があったので、多分ドローンは来られません。大きい地下放水路を辿っていけば基本的には一本道なので、迷うことはありませんよ」
「此処のこと分かるんですか?」
「まあ、そこそこ。古い避難経路にもなっていたので覚えているんです。……さあ、日が暮れる前に行きましょう」
 そう言われると、私には断る理由がなくなる。土地勘のない人間の言うことよりは、土地勘のある人間の言葉の方が説得力があるのは当然だ。私は自分のスマホを取り出してライトにし、弐ノ宮さんの後ろから足元を照らす。彼が拳銃を構えていることについては何も言わない。あの老人が制服を着ている治安維持局局員を罠に掛けたのなら、それは明確な罪になる。
 足音と水音が高く不規則に響いて、永遠に続いているような感覚に囚われる。体が冷え、左手は動かせず、頭にじわりと後悔が浮かぶ。玖瀬祈の手掛かりを追ってきたはずがこんな目に遭うとは思いもしなかった。
 水路はひたすらに真っ直ぐ続いており、やがて垂直な円筒状の小部屋に抜けた。二メートルほどの作業員用ハシゴが壁伝いで上に延びており、更に向こうへ道が続いているのが見える。右手だけで登ろうとしたがさすがに難しく、左腕も動かなかったので、諦めて弐ノ宮さんにおぶってもらい上がっていく。人におぶられながら上がるハシゴは下手なアトラクションよりも恐怖を煽った。
 ハシゴを上った先で弐ノ宮さんがもう一度通信を試みると、スピーカーからザッとノイズが走った。何を喋っているかは分からないが人の声らしきものも聞こえる。外していたイヤホンマイクをつけ直すと、はっきり音声が聞こえるらしく弐ノ宮さんが相槌を打っていた。
「ええ……ええ、放水路だと思います。ハシゴを上って……このまま?」
 顔に直接当てないよう構えていたライトの端で、弐ノ宮さんが何度も頷いているのが分かる。第五号管理制御室というのが目指すべき中継施設のようだ。現在地をGPSから取得し、地図と照らし合わせているのだろう。
 ハシゴの先の通路を辿ると広い空間に出た。天井に向けてライトをかざしたが何処までも光が延びているように見え、先程までよりも更に音が反響する。等間隔で柱が立っており、柱の根本を照らすと空のペットボトルや火を熾したような痕跡まで残っている。廃材と布の崩れた残骸もあった。
 奥に進むうちにぼんやりと空間が白けてきたので自分の目がおかしくなったのかと思ったが、単に崩れた天井から微かな光が差し込んでいるだけだった。地上だ、と自分の胸中にほのかな希望が生まれ始めた。
 前を歩いていた弐ノ宮さんがスマホのライトを前方高く掲げ、
「あれが第五号管理制御室。中に入ったら地上への階段があります」
 確かに壁にぽっかりと穴が開いて上に続く階段が見える。
 それから、と彼は左手のスマホをポケットに滑らせ、薄暗がりになった前方へ右手を差し向けた。
「そこに浮浪者どもがいるな? 派手な悪戯をした連中か?」
 低い声で威嚇すると、階段の向こうからゆっくりと人が下りてきた。五人程度だろうか、全員が角材や工具などの物騒なものを手にしていたが、弐ノ宮さんが拳銃を構えているのを見て安易に近づこうとはしない。顔までははっきりと見えないが浮浪者たちのようである。間合いを図ると言うよりは襲い掛かるべきかどうか考えあぐねている様子であった。下がってて、と一瞬だけ振り返った弐ノ宮さんが私に注意する。
「一応言っておくと、こっちは軍と通信が繋がってるぞ。GPSもある。あんたら、暴行と不法占拠で此処を追い出されたいのか?」
「じょ、女子高校生なんか知らないからな――」
「知ってる知らないの話じゃない、こっちの安全を脅かしているかどうかの問題だ」
 浮浪者たちから上がった声は震えて張りつめていたが、弐ノ宮さんは意に介さず銃口を向け続けた。老人のひとりが堪らず駆け出して弐ノ宮さんにバールを振り下ろしたが、私を後ろ手に押さえたまま老人の足をすくい、手のバールを蹴り飛ばしてしまう。他の浮浪者も各々の武器を手に駆け寄っていたが早くも失速し、勢いを殺しきれなかったひとりだけが弐ノ宮さんに背負い投げされて悲鳴を上げる。
「どうする、あんたらは住む所を失ってまで俺たちを殺したいのか?」
 彼は銃を構えたまま、地面にひっくり返った浮浪者の上に足を乗せ、選択を迫るように銃口を揺らした。
「それとも大人しく引き下がって、何事もなく此処での生活を再開させるか? どうする?」
 威圧感のある声が柱だけの空間に響き、圧倒されたように浮浪者たちが後退する。じりじりと銃口が向くままに後退していき、私たちへ第五号制御管理室への階段を譲った。
 弐ノ宮さんはそのまま黙って私を階段の方へ押しやり、自分もゆっくり後ろ向きに上ってくる。地面に倒れている浮浪者だけが動くこともままならずにじっと此方を窺い、そのまま踊り場に上りきるまで見送られる。
「さあ、行きましょう」
 急かされて私は階段の続きを上っていく。スマホのライトも要らないほど明るいかと思ったが、何処からか通っているらしい電気が弱々しく足元を照らしていた。
 階段を一階分上がった先には再び通路が続いていたが、先程までと異なるのは左右に扉がついていることだった。埃のまとわりついた電球が不揃いに点灯しており、低い通電の音が聞こえる。対する床には四隅に埃が積もっているものの人の出入りしている形跡もあり、浮浪者たちが時々使っているらしいことが分かる。
「此方、制御室地下一階、対象無事です。浮浪者が此方を警戒している模様。至急合流願います」
 弐ノ宮さんは通信を入れ、先に立って左右の扉を一枚ずつ確認する。片方の扉は備品室のプレートが下がっていたが、中を開けると空っぽの棚が据えられているばかりで誰かがいる様子はない。もう一枚の扉は仮眠室のプレートが下がっており、二台のベッドの上に真新しい段ボールが何個か積まれていた。ダンボールは封をされずに中身を見せており、扉前から覗いただけでも、警察によって周知される押収対象リストそのもののような錠剤が見える。全て透明ビニールで小分けにされており、このまま路地裏に持ち出して売り捌いてもかなりの額になるだろう。
 私も弐ノ宮さんも互いに見やって、黙って扉を閉めた。あの浮浪者たちが何を守ろうとしたにせよ、此処に長居するのは危険だと感じ取っていた。
 扉から離れたところで弐ノ宮さんがぴたりと足を止める。私もすぐに足を止め、横並びになって弐ノ宮さんの次の行動を待ったが、彼は低く拳銃を構えたまま時間を止められたかのように動かない。彼の目は大きく見開かれ、髪の毛から落ちた水滴を拭おうともせず、ただ恐々と視線を動かして私を見る。水滴が落ちただけだと思っていたが、彼の額から汗が浮き上がり、頬を伝って首筋に流れるのが見えた。
 私の体は冷えていたはずなのに、頭の芯がぼんやりと熱くなっていることに気がついた。収容番号十号と対面していた時のような熱がこもり、痛みさえ覚える。マインドパルスだと気づいた矢先、ゆっくりとした足音が聞こえた。
 通路の先に小さな影が立っていた。パーカーのフードを被っていて顔は見えないが、決して歓迎しているような雰囲気ではない。ふらふらと歩み寄ってくると顎から首にかけてくっきりと見え、子どものようだと思った。少年とも少女とも言えないその子どもがポケットから折りたたみナイフを見せ、さっと私の頸動脈に差し向ける。
「動かないでね」
 子どもは弐ノ宮さんの腰から手錠を取り上げると、素早く彼の両手首に掛け、拳銃に掛かっていた指を外して奪ってしまう。自分のポケットから更に手錠を取り出して私の手首にも掛けた。冷えた手錠が右手首に触れ、その鋭さに段々と頭の芯が冷えていくのを認識する。通路の奥から複数人の足音が聞こえてくると、子どもは踵を返して引っ込んでしまった。入れ替わり際、彼らに拳銃を手渡すのが見える。
 通路の奥から出てきたのは、浮浪者とは違ってドーム内部で見かけるような男たちだった。ひとりは二メートル近い巨躯の男で、皆一様に顔色がくすんでおり、薬物中毒死で運ばれてくる遺体に近い風貌を思わせる。子どもから受け取っていた拳銃を物珍しそうに眺めた後、私のカバンを奪って放り込んだ。無遠慮に探ったポケットからスマホを取り上げて電源を切り、弐ノ宮さんの通信機も乱暴に外して適当にスライドスイッチを探り機能をオフにする。
「此処で通信が途絶えたら逆に怪しまれるぞ」
 弐ノ宮さんがようやく口を開いた。男たちを試すような口振りだったが、彼らは取り合わないような笑みを浮かべ、
「心配してくれて助かるよ。でも簡単には見つからねえ場所に行くから安心しな」
「殺すつもりか? あの浮浪者たちをけしかけたのもあんたらだな?」
「臆病風はいけねえや。金の無駄だった」
 声を揃えて低い笑いを上げながら、地下へ続く階段の方に私たちの背中を押し出す。ついて来い、と顎で示している。
 私が思わず弐ノ宮さんを見ると、彼は苦しそうな顔で頷き、従うようにと無言で指示した。手錠を掛けられているだけなら何とでもなりそうだが、他勢の無勢の状態で、無力な私を庇いながら切り抜けられるほど状況は甘くないらしい。つい先程まで通信していた治安維持局の人々が此方の異常に早く気づいてくれることを祈りながら、好機を窺う他無かった。
 男たちに前後を挟まれ、私と弐ノ宮さんは地下への階段に戻っていく。また薄暗がりに戻るのかと思うと辟易した。浮浪者たちは追い出されたのか姿を消している。私たちがまっすぐ突き抜けてきた柱の空間を横切って小さな鉄製の扉をくぐり、細い通路へ入ってひたすら歩いた後、また何枚かの扉をくぐっていく。まるで迷路のように通路が枝分かれする中を、男たちは迷わず道を選んで進んでいた。途中から壁がコンクリートから煉瓦に変わっており、そこを境目に造られた年代が違うのだと分かる。この放水路に落下した際、弐ノ宮さんが「古い避難経路」と表現していたのを思い出した。
 再び扉を開け、また長い通路を歩かされるのかと思ったが小部屋に出た。机と椅子が申し訳程度に置かれているがらんどうな室内で、天井の隙間から水が漏れている。滴った水はぐちゃぐちゃに丸められたビニールシートにぶつかってポツポツと音を立てていた。
 私は椅子に座らされ、弐ノ宮さんは壁の隅の水道管と手錠をワイヤーで結ばれる。何度か乱暴に引っ張ってみたがワイヤーは切れず、彼は水道管と向かい合った体を捻って私を見ていた。私はと言えばナイフを頸動脈に突き出されている以上、椅子に大人しく座っている他ない。
 奪われた装備とカバンは机の上に置かれ、スマホと通信機は液体の満たされたバケツの中に放り込まれる。シュワシュワと小さな泡が立ち、酸性のにおいがつんと香った。あれではもうスマホは使い物にならないだろう。連絡先のバックアップを取っていたっけかなとぼんやり考える。軍用規格の通信機が無事であることを祈るばかりだが、無事であったところで取り返せるかどうかは分からない。
「何が目的だ?」
 弐ノ宮さんが殆ど怒鳴るように訊ねたが、男たちはろくに反応もせず、ただニヤニヤ笑っている。
「先生を呼んでくる」
 ひとりの男がそう告げて通路に戻って行った。ほどなくして見慣れない老人を連れて戻ってくる。
「やあ、迷い込んだのは君たちかね」
 まるで仕事を労いにでも来たかのような口振りで老人が言った。今までの人間とは違って身綺麗にスーツを着ており、背を丸めているが健康に不安のなさそうな見た目をしている。彼は弐ノ宮さんをためつすがめつ眺め、また私を眺め、鼻を鳴らした。
「君はまた随分珍しいものを連れているな」
 老人の小さな瞳孔が私を真正面に捉えている。先生と呼ばれたこの老人が何の目的で男たちを従え、浮浪者たちの居着く場所に出入りしているかは不明だが、何でも見透かしていると言わんばかりの雰囲気を漂わせているのが私の胸中に嫌悪感を掻き立てた。老人は座っている私の周りをもったいぶって歩き回り、
「何故こんな場所へ不用意に立ち寄ったのかね? 軍も警察も忘れ去ってしまうようなこんな場所に……誰にも見つけられず哀れに死んでいくような場所に……知ろうとしなければこんな目には遭わなかっただろうに、可哀想に……」
「玖瀬祈さんを探しに来ただけです。何か知っていませんか?」
 私が声を上げると、老人も男たちもぴたりと止まって冷めた表情で私を見た。ああ、絶対に知っているな、と私は察した。
 老人は机の下から一本のシリンジを取り出し、黙って私の首に刺そうとする。さすがの私もこればかりは受け入れられないと身をよじったが、すぐに男たちに取り押さえられ、あえなく頸動脈に針を突き立てられる。
「何してやがる……!」
「そう喚くな、すぐには殺さない。……おい、聞けることは聞いておけよ」
 暴れる弐ノ宮さんをいなし、老人は大男に言いつけて部屋を立ち去った。他ふたりも老人に連れ立って部屋を出て行き、扉がぴたりと閉められる。
 何の薬剤が入っているかは知らないが、少しずつ頭がぼんやりしてきていた。薬の回り方は睡眠薬に似ているが眠気は感じない。
「じゃあまず何を話してもらうか……できれば質問に素直に答えてくれよ。この薬を打ちすぎると心臓が止まるらしいからな」
 大男はいつの間にか追加のシリンジを取り出しており、それを私の目の前で威嚇するように振りながら質問を続けた。
「どうやって此処に来たんだ? 車とかつまらねえ意味じゃねえよ、誰に聞いたかだ」
「……さっきも言いましたが、玖瀬祈さんを探して」
 思っていた以上に緊張と不安があるらしく、私の舌はもつれていた。もしかしたら投与された薬に麻酔効果があるせいかもしれない。ちらっと弐ノ宮さんを窺うと、彼は小さく首を横に振っている――あまり喋るなということだろうか。
 私の回答をつまらなく感じたのか、大男は大仰に溜め息をつく。
「だから何でその女を探しに来たかって聞いてんだよ」
「女って言ってませんけど」
 普段しないような反論が咄嗟に私の口をついて出ていた。
 大男は不機嫌そうに私を睨んだ後、不貞腐れたような足取りで地面に丸めてあるビニールシートの方へ歩く。大きな手でそれを鷲掴み、引き剥がす。水が跳ねて私のズボンに掛かり、冷たい感覚が足を伝った。
 ビニールシートの下には制服姿の少女が寝転がっていた。ぴくりとも動かず、声も上げず、やけに色白な肌が見える。ぼやけ始めた私の視覚にも、そのシルエットが玖瀬祈に似ていることははっきり見てとれた。
「あんたもこうなりたいのか?」
 大男の怒声に私と弐ノ宮さんは何も言葉を返さない。探していた少女が最悪の形で見つかってしまったことを、どう受け止めるべきか決めかねている。
 ビニールシートが床に打ち棄てられ、大男はそれを踏みつけて此方へ戻ってくる。目の前にしゃがみ、私の顎を乱暴に掴んで左右に揺すった。
「あんたは何をしてる人なんだ? 警察か、家族か? そっちの男は何で一緒にいるんだ?」
 顔を覗き込まれているが、何となくピントが合わない。少しずつ輪郭が失われ、足元もふわついてきて、ただ不安で脈打つ心臓だけが確かな存在感を強めている。首を境に上下別々の血液循環が行なわれているような感覚があり、四肢がばらばらで触覚が失われ、思考と知覚は切り離されようとしていた。
「聞きたいことがあるなら俺に聞け――」
 弐ノ宮さんが叫んで大男が何かを言い返すが、全ての声が頭の中を通り過ぎていった。脳に薄い膜が張り、まるで私は初めから脳だけの存在であったような気がしてくる。頭皮に滲んだ汗の不快感も、手足の冷たさも、何もかもが失われていき、感覚の何もかもが他人事になっていく。ひらりと天井の白熱電球に瞬いたナイフが光り、また男が何かを叫んだが、もはや何を言っているのか分からなかった。
 それから――
 ……それから――
 それからどうしたんだっけ? それからって、ついさっきのことだっけ、それとも何時間も経ったんだっけ?
 私の視界に両膝が映り、ああ、私の膝だ、と頭でぼんやり認識し始めた。左腕に着けっぱなしになっている腕時計を見ると、シリンジを打たれてから十分程度の時間が経過している。時間感覚は眠った時のように切り離されているつもりだったが、自分の意識は全てなだらかな曲線で繋がっており、冷静に遡ってみると思い出すことができた。
 ナイフを出された後、私は恐らく此処に来るまでの経緯を喋っていた。新赤月区で聞き込みをし、この場所を聞きつけ、治安維持局と軍に連絡してから訪れ、浮浪者に妨害を受けたことを話すために、唇を動かしていた記憶がある。
 なるほどフィクションで見られる自白剤というアイテムは、麻酔や睡眠薬のような、中枢神経を抑制し前後不覚の状態にさせて思考を奪うものなのかもしれない。今回投与された薬は視覚機能にも副作用があるらしく、未だに視界はぼやけたままだが、今の私には眠気との区別がつかないでいる。
「――い、おい、立てって言ってるだろ!」
 右腕を引っ張り上げられ、私は足を引っ掛けて椅子を蹴倒した。足の感覚がまともに返ってこないので、背中を強く押されるとふらついたまま体を平衡に戻すことができず、何処かに向かって倒れ込む。うっ、と苦悶の声が傍で聞こえたものの上下左右の判断がつかないので、自分が今何処にどんな体勢で伏しているのかすら分からなかった。
「大人しく待ってろよ。まだお前らの話は終わっちゃねえからな」
 大男が吐き捨てるようにそう言って、ガチャンと鍵の掛かる音がした。
 転んだおかげで血液が大きく循環したのか、頭と体がくっついている感覚がはっきりし始めた。弐ノ宮さんを挟んで壁にぶつかったことで怪我を避けられたらしい。
「大丈夫ですか、首に注射打たれてましたけど……」
 弐ノ宮さんの声が頭上から降ってきて、私は自力で真っ直ぐ立った。足底の感覚がおぼろげで、足をどんなふうに広げているかも分からない。いつも通り歩こうとすると爪先が床に引っかかり、思っている以上に強く足を下ろしてしまう。
「薬の方は平気だと思います……中毒症状も無いですし……」
 そう言いながら早速壁に手をついているので、あまり説得力は無い。ざらざらした壁の感触が皮膚を通して知覚され、痛み刺激に対しては反応できそうだと安堵した。
「弐ノ宮さん、部屋の鍵ってどうなってますか? 出られそうですか?」
「内鍵は無いですね。入ってくる時に外鍵は見えたので、元々人を閉じ込めるための部屋かもしれません」
 悪趣味な部屋だな、と頭の隅で思いながら、私は膝をついて這うようにビニールシートの方に向かった。歩くよりは這った方が安全だ。水溜まりに膝が浸かったが、今更どんなに濡れても気にならない。
「壱ヶ敷さん、何やってるんですか……」
「遺体を確かめます。あまり目が見えてないので、状況を教えてもらって良いですか?」
「目が? 大丈夫なんですか?」
 私はそれに黙って頷いた。弐ノ宮さんは呆れたように息をつき、渋々と言った調子で目の前の光景を言葉にし始める。
「遺体は……玖瀬祈さんと同じ高校の制服を着ていて……手首は体の前でロープで縛られていて……」
 足は閉じられて足首を縛られており、靴を履いているらしい。目と口は、と訊ねると開いていると答えた。
 玖瀬祈の遺体と思しき体にようやく辿り着き、右手で触れた。視野の中心もまともに機能しなくなり、もはやものを目の前に持ってきても何が何だか分からないが、代わりに右手の感覚ははっきり戻ってきている。左手の重みで右手首に手錠が食い込み、非常に痛い。恐らく手錠のダブルロックを掛け忘れているのだろう。
 玖瀬祈の体は殆ど湿って冷えており、皮膚は硬く、まるで生きているとは言えない。長い髪は指を通すと途中で引っかかり、全体的にごわついていた。そのまま額から頬へ、顎へ、指を這わせると、何かがこびりついている感触に触れる。そのまま唇に触れ、何かを溢して乾いた痕があるのを確かめた。
「服の乱れはありますか?」
「此処から見る限りは無いと思いますけど……」
 弐ノ宮さんが自信無さげに言うので、ぺたぺたと体を伝ってスカートに辿り着き、足回りを触った。もちろん足首で縛られているので開脚はできない。スカートを捲ろうとしたところで布の引っ掛かりを感じ、適当に引っ張ってみるとポケットに何かが入っていた。手を突っ込んで取り出すと、四角いものがひとつと、細長いものがひとつ出てくる。
 振り返って弐ノ宮さんが見えるように掲げた。
「これ、何ですか?」
「手帳とペンです」
 玖瀬祈の押収品からは出てこなかったものだ。通常ならスカートよりもスクールバッグに入れていそうなものだが、わざわざ持ち出したのだろうか。私はそれらを持って再び弐ノ宮さんの方へにじり寄り、目の前で適当にページをめくった。
「中に何か書いてませんか?」
「ちょっと待って下さい……此処に来た時の記録か……あっ、一枚戻って」
 何か熱心に読んでいるようだったが、文字が乱れているのか、文脈がめちゃくちゃなのか、随分と読みにくそうにしていた。それでも何とか読み下した文章を伝えようとしたところで、通路から微かに人の話し声が聞こえてくる。壱ヶ敷さん、と低い声で呼ばれ、その緊張感に慌てて自分の右ポケットへ手帳とペンを押し込んだ。遺体を動かしていないことを確認し、耳を澄ます。弐ノ宮さんが顔を寄せて囁いた。
「本部のチームがGPSで途中まで追えているので……何とか壱ヶ敷さんだけでも――」
 その時、大男が鍵を開けて入ってくる。手に何かを持っているらしく、振るたびに水音が鳴った。ペットボトルに水を入れているような音であった。大男は倒れている椅子を跨いで此方にやって来るなり、
「次は兄ちゃんの話を聞かねえとな。聞いたぜ、その制服は軍とは違うんだって? 何の仕事をしてるか教えてくれよ」
 そう言うなり、弐ノ宮さんを殴って横倒しにし、そのまま馬乗りになった。私が飛びついたが簡単に跳ね飛ばされ、弐ノ宮さんの抵抗する声と、ペットボトルの蓋が転がる音と、咽せる音とが断続的に聞こえてくる。ぶつけて鈍痛のする頭を振り、背中に玖瀬祈の遺体が触れた。
「やめろ――クソ野郎――」
 弐ノ宮さんの叫ぶ声と、手錠を鳴らして抵抗虚しく暴れる音が部屋に響く。
 玖瀬祈の遺体を振り返ると先程よりも少しはっきりと輪郭が見えており、私の目は、彼女の見開かれた瞳孔とぱっちり視線を合わせたような気がした。青白く、表情を強張らせ、死んだ一瞬のまま硬まっている十七歳の少女がビニールシートを被せられたままたったひとりで過ごしていたと思しき何時間が、私の脳裏を駆け抜けていく。滴って口の端を汚している液体が何であったかを考え、死ぬまでの時間を彼女がどう過ごしていたかを考え、その姿に弐ノ宮さんが重なる。
 頭の芯は冷えており、意識も冴えている。その上で私は大男の右側頭部を後ろから殴りつけていた。右手で左肘を支え、走り寄って背後から振り抜き、その衝撃で左肩が外れてしまっても構わないと思うほどのベクトルで重量約三キログラムの義手を叩き込む。大男の首はぐるりと左側を向いて護衛の体の上から滑り落ち、床に倒れたきりぐったりとして動かなくなった。
 私の左腕は肘の安全ロック機構が壊れて反対側に折れ曲がっていた。かなりの速度で殴った自覚があるものの、殺すつもりだったかどうか定かではない。ひょっとしたら明確な殺意があったのかもしれない。息が上がり、心臓が脈打っていた。
 地面を見下ろすと、弐ノ宮さんは自分の脚を引き寄せて縮こまり、私と同じくらい息を荒くしていた。近くに空のペットボトルが転がっている。どの程度中身を飲まされたのかは不明だが、咳き込んでいたので全量では無いだろう。
 私は急いで大男のポケットを探り、持っているはずの鍵を奪った。束にはなっておらずバラバラで、右手でなぞるとおおむね形が分かる。手錠の鍵らしいものが二個、施設の鍵らしいものが一個入っていた。まず一本を弐ノ宮さんの手錠を探って鍵穴に差し込み、ガチャガチャと鳴らしたが手応えがないので二本目に変える。此方は手応えがありすぐに手錠が外れた。
「私のも外して下さい」
 弐ノ宮さんの手に一本目の鍵を握らせ、腕を差し出す。彼は無言でこくこく頷きながら、覚束ない手つきで鍵を開けた。手錠が取れると右手が痛々しく赤く擦れている。弐ノ宮さんの手首は先程暴れていたのでそれ以上だった。
 異変に気づいた仲間が来る前に、この好機を活かして逃げなければならない。正当防衛とは言え人を殺したかもしれないというアドレナリン任せで――本当に正当防衛を証明できるだろうか――私は机に飛びついてカバンを取った。地面のバケツをひっくり返してスマホと通信機を取り出し、机の上の装備と一緒に放り込む。いつの間にか弐ノ宮さんが立ち上がっており、後ろから机に手をついて拳銃を取り上げた。
「逃げないと――」
 振り返ると、大男が無言で立ち上がるところだった。意識があるのか無いのか、覚束ない足取りで振り返り、大股で此方に近寄ろうとする。
 私は頼り甲斐のないカバンを胸に抱え、しかし弐ノ宮さんが殴られて襲われていたことを思い出し、大男と彼の間に立とうとした。しかしそうする間も無く、弐ノ宮さんは素早く銃口を大男に向け発砲する。
 鎖骨と上腕骨の間を綺麗に銃弾が撃ち抜き、大男は再び倒れた。
「行きましょう」
 弐ノ宮さんは私の腕を掴んで扉まで連れて行き、通路の向こうに耳を澄ましてから先に出た。私も念の為左右を見渡してみるが、天井に下がる小さな電球が照らしているだけの薄暗い通路ではっきりと目印になるものはない。視力は完全に戻りきっておらず、三〇センチ向こうのものは輪郭がぼやけていた。
 弐ノ宮さんに腕を引っ張られ、玖瀬祈の遺体をそのままに通路を歩いていく。あの男たちに銃声が聞こえたはずなので見つかるのは時間の問題だ。細かく枝分かれした道を覚えているはずもなく、道を曲がった先で男たちとばったり出くわしても不思議ではなかった。
 私の脳内からはゆっくりとアドレナリンが引き始め、打たれた注射の効果がぶり返していた。眠気のような酩酊感と足のふらつきが足早な移動を妨げる。薬が代謝されるまでまだ時間が掛かりそうな様子であった。
 暫く通路を進んだ後、何処からか足音と声が聞こえ始め、弐ノ宮さんが止まった。第五号制御室でマインドパルスを受けた時と同じような止まり方だったのでひやりとしたが、間も無く彼は通路の壁に身を寄せ、角から顔を出して様子を窺い始める。右手の拳銃を低く構えて警戒している様子だったが、やがて何度か項垂れては頭を持ち上げ直し、を繰り返す。彼の顔を見ると紅潮しており目は見開かれていた。呼吸はまだ荒く、掴んでいる手は手袋越しにも熱い。私が見ていることに気がついたのか視線が合い、それでも表情は繕われることなく強張ったままだった。
 休んだ方が――とは思ったが休みようがない。ふたりで黙って歩き続け、そのうち弐ノ宮さんの方が足が遅くなったので肩を貸した。背中に触れると呻いて身をよじったが、構わずに肩を掴んで歩き続けると、段々預けられる体の重さが増えていき、もはや殆ど引きずるような形になっていく。一度拳銃が手から滑り落ちたので彼の制服のポケットに入れた。かく言う私も決してまともな状態ではなく、膝が曲がっているのか伸びているのか、道の先が行き止まりか続いているのかさえ分かっていない。
 何とか通路の造りが変わる所まで辿り着き、煉瓦からコンクリートに景色が切り替わった。左右に何枚かの扉があるものの、私たちが目指すべきはまだ遠くにある。
「何処だ――」
「そっちから音が――」
 声が遠くから近くから、反響して耳に届き、いよいよダメかと思ったが頭に閃くものがあった。これがダメならもう一度捕まるほか無いという捨て鉢の案だった。
 カバンに放り込んでいた私用のスマホを取り出してコンクリート側の通路に向かって放り、その隙に煉瓦側の通路の部屋に入った。なるべく扉が軋まないように開け、その隙間に滑り込み、静かに閉める。扉を閉め切ってしまうといよいよ真っ暗で、呼吸と心音が響いて聞こえた。
「表に出やがった!」
 扉の向こうで男たちが慌ただしく駆け抜けていった。コンクリート側に落ちている私のスマホを見て向こうに逃げたと勘違いしてくれたらしい。束の間ではあるが追手を撒いたことが私を安堵させた。
「此処にいたんだ……」
 不意にか細い声が聞こえてどきりとした。私ではないし、ましてや弐ノ宮さんでもない。マインドパルスを使ったあのフードの子どもの姿が頭を過ぎり、床にくずおれている弐ノ宮さんの体に上体を被せて覆った。
「誰?」
「しーっ」
 か細い声の方向からぱっと光が走り、私の顔に正面から当たった。眩しさに目を瞑り、顔を伏せながらも何とか見上げると、暗闇の中で一層濃い小さな影が近寄ってくる。影は私の手を引っ張って立ち上がらせようとした。光が床に散乱してその影を僅かに照らし、バー・ブルーパンチで見たボーイ姿が浮かび上がる。
「こっちに避難経路があるから、地上まで行けるよ」
 エトガワは私の腕を引き上げ、来た方にライトを向けた。闇がぽかんと口を開けているような通路の向こうへ私たちを連れて行こうとする。私は判断しかねてその場に立ち尽くした。
「……疑ってる? こっちに来るって言ってたから、心配して来てあげたのに」
 彼女は拗ねたような口調で言い、もう一度私の腕を引いた。
「これでも、労働を見逃してくれた恩返しのつもりなんだけど」
 そこまで言われて私はようやく決心がつき、弐ノ宮さんを立ち上がらせた。彼を引きずりながら、ライトをかざして先行する少女の後を追っていく。何処までも闇が続き、ホコリとカビのにおいが鼻をつき、水溜まりを踏んで足を濡らした。足音が寂しく前後に響き、時々それに呼吸音が混じって自分たちがまだ生きていることを確認させられた。
「この辺は大昔に出入りしてたんだ。ドームに移り住むまでは屋根もあって軍人もあんまり来なくて、良い場所だったからさ」
 エトガワは陽気に私たちを振り返り、
「どうしてふたりともフラフラなの? お兄さん、ヤバい薬でも飲まされた?」
 けらけら笑って道案内を続けた。
 弐ノ宮さんの状態は少しずつ悪化しているらしく、呼吸はより早く短く、不規則になっていた。何度か話しかけてみたが弱々しく頷くばかり。明かりが無いので顔色は分からないが酸素状態は良くなさそうだった。次第に足元が覚束なくなり、ずるずると私の肩から落ちて膝を突く。さすがに成人男性を片手で支えられる程の力はなく、私も重みに引っ張られて一緒に地面に倒れた。
「ねえ……大丈夫?」
 さすがのエトガワも声を低めて訊ね、床に転がった弐ノ宮さんを起こそうとするが手を払われた。弐ノ宮さんは横向きに小さく丸くなって呼吸音を抑え、体の何処かに物が触れるのを痛がるように身をよじっている。皮膚の異常感覚があるのかもしれない。
 私は彼の首に掌を押しつけて脈を測り、汗が浮き出ているのを確かめ、エトガワさんに彼の顔を照らすよう言ってその肌を観察した。横から顔を覗き込み、口を押さえていた手を外すと唇に微かなチアノーゼ反応があるのが見える。どれくらいこの状態が続いているか思い出そうとしたが、緊迫した状態で時計を見ているわけもない。私は彼の顔を覗き込んだまま、
「弐ノ宮さん。私を見てください。まずは呼吸を楽にしましょう」
 彼は目を見開いたまましばらく視線を泳がせ、またしっかりと私を見た。少し顔は青白いが焦点は合っている。
「私の合図で息を吸って、ゆっくり吐きます。いいですか? 吸って、吐いて……、吸って、吐いて……吐いて……、もう一度――」
 既に追われる身であることは一旦忘れて、目の前の症状を治めることに努めた。言葉こそ無いが、弐ノ宮さんもまた状況に混乱しどうにかしようと足掻いているのが分かる。生きた人間を相手に治療行為を行なっている自分がひどく奇妙に思えた。
 少しずつ弐ノ宮さんの呼吸が落ち着き、唇の色が戻ってきていた。呼吸のリズムがゆっくりと規則的になっていく。
「そう、落ち着いてきましたね……大丈夫です、もう少ししたら息も整います」
 宥めながら背中をさすると、彼は身をよじらずに黙って頷いていた。
 私は片手間に自分のカバンを漁って通信機を取り出した。エトガワさんに照らしてもらい、電源スイッチを探し当てて何度かオンオフを繰り返す。緑のランプが点灯したがスピーカのノイズが走らなかったので他のボタンも適当に押すと、緑ランプの下でオレンジに灯るボタンがあった。
「――――」
 人らしき音声は入るものの、電波が悪いのか音声出力が壊れているのか、言葉として聞き取ることができない。此方の声とGPSが届いていることを祈るばかりだ。
「声が上手く聞こえなくて……、今、弐ノ宮さんと――」
 エトガワさんを振り返ると彼女は首を横に振っていた。自分のことは伝えるなという意味らしい。
「……弐ノ宮さんと一緒にいるんですが、私も彼も薬物を摂取させられています。病院に搬送する準備をお願いします。今、ふたりで地下に逃げています。放水路を抜けて、たぶん地上に続いている避難経路なんですけど――」
 袖を掴まれて、見下ろすと弐ノ宮さんがぱくぱく唇を動かしていた。耳を寄せるとか細い声で「旧再生医療センター基礎研究棟」と繰り返す。その長い名称を私もまた繰り返して通信機の向こうに伝えた。
「このまま通信機の電源を入れておきます。なるべく急いで合流をお願いします」
「ねえ、そろそろ行こう……ホームレスのおっさんたちが此処を思い出したら見つかっちゃうから」
 エトガワさんが小声で急かし、私は弐ノ宮さんを抱え直して立ち上がる。先程よりはいくらか自分で立てるようになったらしく、体重の掛かり方が軽くなっている。通信機をカバンに戻し、ノイズや人の声が聞こえることに気を配りながら、また暗い通路を歩き始めた。
 通路はほぼ一本道で、二回くらい「一時避難室」というプレートの下がった扉の前を通り過ぎた以外は変わり映えのない景色が続いた。永遠にループしているかのような暗闇を歩き続け、自分の視覚もまともな四肢の感覚も戻ってこないような予感が巡る。時々距離を置いて前に行ってしまうエトガワを呼び止め、立ち止まって振り返る彼女の元に辿り着かないのではないかとさえ思ってしまう。
 景色が変わり始めたのは階段に差し掛かった時で、私は一段ずつ弐ノ宮さんの歩調に合わせながら上がって行った。この時ばかりはエトガワさんも気を遣って此方の足元を照らし、彼女が先に上りきってからはハッチをガチャガチャ鳴らして急ぐように開けてくれた。
 跳ね上げたハッチから這うように出ると、そこは何処かの屋内に通じていた。白い室内は荒れ果てて枯れ葉が吹き込み、窓は枠しか残っていない。電球は取り外されたか割れたかで跡形もなく、まさにもぬけの殻と表現するにふさわしい状態であった。
「此処がその……ナントカ病院? ってやつ。此処からはもう平気?」
 エトガワさんは自分のエプロンに付着している泥を手で払い、そう訊ねる。
 明るい場所で見るとエトガワさんも私も弐ノ宮さんも、足元をぐっしょり濡らして汚れていた。一度水に沈んだ私と弐ノ宮さんはもっと酷い状態だろう。空気と光に少しずつ正気を取り戻すような心地がした。
「あなた、此処までどうやって来たの? 合流できれば送ってもらえるように頼むけど……」
 彼女は自身のスマホのライトを消し、また画面の時計を見て、
「次の便で帰るから大丈夫」
「次の便?」
「そ。隣町からドームまでの『定期便』」
 彼女が意味ありげに言うので、さすがの私にも合点が行った。彼女は定時で往復しているトラックに乗り込んでこの近くまでやって来たのだ。国道までの距離はかなりあるはずだが、土地勘があって忍び込むのも手慣れているならそこまで苦に感じないのだろう。健脚の彼女に、私は呆れるよりも感心が先立った。そもそも子どもがひとりでドームを出てきた時点で怪しむべきだった。
「じゃあ、この辺でね。お礼にバーに来てよね」
 エトガワさんは陽気に手を振り、窓枠の向こうへ軽快に飛び出すと颯爽と木々の向こうに消えていった。まるで希少な野生動物を見かけたような気分にさせられ、暫し呆然と見送ってしまう。
 弐ノ宮さんの腕に力が入り、私は気を取り直した。
「壱ヶ敷さん……すみません」
 彼は弱々しい声でそんなことを言いながら、自分で立とうとして体を離したが、支えがない状態ではまだ不安定な様子だった。力が入らないようにくずおれかけ、慌ててその腕を支える。一時的な過呼吸状態を抜け出したらしく顔に赤みが戻っていたが、他の症状が強く残っているようだった。
「本部がGPSに気づいてくれたと思います。少し此処にいましょう」
 地上に出ているので、後はシグナルに気づいて場所を突き止めてくれるのを待つばかりだ。浮浪者や男たちに見つかるよりも早く回収されることを祈るしかない。
「あの、通信機……」
 冷たい地面に腰を下ろすと弐ノ宮さんがカバンに手を伸ばしたので、中から取り出して手渡した。彼はランプを確認し、スピーカーに耳を当て、色々つまみをいじった後、
「イヤホン、ありますか?」
 そう言われ、カバンを探ると底の方に沈んでいた。引き出して絡まっているのを解いている間にプラグを差し、イヤホン部分を耳に当てながらもう一度本体のつまみをいじる。彼はずっと黙って操作していたが、不意にマイクを手繰って、
「応答……応答願えますか……此方、ニノミヤ……はい、ニノミヤです……はい、旧再生医療センター基礎研究棟だと思います……場所は……」
 通信が届いたことに安堵すると同時に、地上に出たなら電波も届いているだろうかと希望が湧いた。カバンから私の私用スマホ、支給スマホ、そして弐ノ宮さん個人のスマホを取り出してそれぞれ電源を入れてみると、私用スマホはダメだったが他ふたつは再起動に入った。どちらもロック解除画面に移り、支給スマホの方を指紋認証で開く。電波は方角によってかなり弱いが、全くダメというほどでもないようだった。
 通信を終えたらしい弐ノ宮さんは通信機を元通りにハーネスへ着け、スマホを手渡す私の方へ向き直った。
「現在位置を確認して向かっている最中なので……、間も無く到着するそうです。出動要件に該当する……とのことで、軍が来るそうで……」
 まだ本調子ではないようだが、彼の受け答えはしっかりしていた。仕事をしているという感覚が彼を奮い立たせているのかもしれない。
 言葉通り、間も無く治安維持局のドローンが到着し、続いて軍服に身を包んだ人たちがやって来た。彼らは建物の裏手から迷彩色の四輪駆動車で乗りつけ、此方を発見するなり保護する役と周囲を警戒する役に素早く分かれた。
 私の手を取って立ち上がらせた軍人へ、ハッチから避難経路を遡り地下放水路まで行けることを説明し、その先に玖瀬祈と思われる遺体があったことを伝えた。軍人は私の言葉をその通りに無線で伝え、スピーカーからは了解の意とすぐに捜査へ移るようにとの命令が返ってくる。警戒役が固まってハッチに入っていたのを見送りつつ、私は彼らの乗ってきた四輪駆動車の一台へ入った。弐ノ宮さんはと言えば、足元がふらついており到底整備されていない道を歩くのは難しそうだったが、背負われるのを拒否し、肩を支えられつつ何とか歩いて乗車した。横並びのベンチシートに向かい合って座り、揃って濡れた体に毛布を掛けられる。
 間も無くエンジンが掛かり、運転手含め五人を乗せた軍用車が出発した。悪路を走るせいかガタガタと揺れ、時々何かに乗り上げては尻が浮き上がる。私は無意識に壁へ身を寄せ、天井の手すりに掴まっていた。
「薬物を摂取したと聞いたが、何の薬かは?」
「分かりません……症状は説明できます」
 接種の形態や接種直後の状態、大体の経過時間、状態の変化について分かる限りの説明をした。対応している軍人は医務官らしく、私が専門用語を使っても訂正の必要なく話を進めてくれる。
 その間、弐ノ宮さんは毛布を固く握って体を覆い、上体を折ってじっとしており、時々顔を上げて自分の状況について補足していた。車で揺れるのが堪えるらしく、ハッチから上がった直後よりもまた調子を悪そうにしている。
 状況を説明しながら、時々運転席の方から聞こえる無線の声に耳を澄ましていた。治安維持局と連携しているらしく、突入の指示と一名を捕捉したとの報告が飛び込んでくる。学生服姿の女性一名の遺体を発見し、無事回収したと連絡が入った。