真夏の陽光が照りつける午後、僕は隣町にある一軒家の前に立っていた。庭には手入れが行き届いていないのか、雑草まみれになった花壇があり、華やかさなんて欠片もなかった。外壁は、かつては白かったであろう塗装が日焼けして黄ばみ、軒先には蜘蛛が巣を張っていた。
 「果穂が人を連れてくるなんて珍しいことでね。待ってたよ、坂口くん」
 出迎えてくれたのは、果穂の父だった。背が高く、しっかりとした体格の男性だったが、目の下のクマと少し乱れた髪が、疲労感を感じさせる。その疲れた笑顔に、僕はぎこちない会釈をした。
 
 「私の家に来てくれませんか?」
 数日前、果穂は突然そんなことを言った。
 「果穂の家?」それが最後の我儘に起因することであるのは察せられた。
 「苗字を嫌いと言ったことから何となく心当たりもあるかもしれませんが、私の家族関係は、今良好とは言えない状態なんです」と果穂は言った。「涼くんには立会人、要するに話し合いの場を作って欲しいんです」
 他人の家庭問題に首を突っ込むことに抵抗はあったが、力になると答えた手前、断ろうとも思えなかった。

 果穂の家は、想像していた高級な邸宅とは程遠く、むしろ僕の家と大差のない平凡な一軒家だった。
 リビングルームに通されると、どこか懐かしさを感じさせる木の香りが鼻をくすぐった。
 「妻は体調が優れなくてね。私が相手をすることになって申し訳ない」
 果穂の父が、緊張した雰囲気を和らげようとにこやかに言った。その声には、どこか取り繕った感じが滲んでいた。
 「ところで、君は果穂の彼氏なのかな?」
 果穂の父は自然を装って爆弾のような質問をしてきた。僕の慣れない外行きの笑顔が早くも歪みかけていた。
 「そう言うのじゃないって言ったよね? 涼くんに失礼だからやめて」
 僕がぼろを出す前に、奥から顔を出した果穂の冷たい言葉が響いた。そのことに安心すると同時に、普段の丁寧な物言いでなく、冷たく砕けた口調で喋る果穂に衝撃を受けた。ここが本当に果穂の家だということを改めて認識する。
 果穂の父はやれやれと肩をすくめて、机を挟んだ僕らの正面の椅子に腰掛けた。
 「それで? 今日は何か話があるんだって?」
 その目は探るように僕を覗き込んでいる気がした。僕は思わず身を縮めそうになる。
 「えっと……」
 僕は何か詳しい事情を聞いていた訳ではなかったので、答えを求めて果穂に視線を送ると、こくりと頷いた。彼女の表情は普段よりも強張り、緊張が伝わってきた。
 「今日話があったのは私。涼くんは立会人で呼んだだけ」
 彼の眉が少し上がり、目が見開いた。
 「どうしてそんなことを?」
 「こうでもしないと、会話にすらならないと思ったから」
 果穂の声は冷たく、部屋の空気が一瞬で凍りついたように感じた。
 「……なるほど。じゃあ、まずは聞こうか」果穂の父は観念したのか、納得したのか。どちらにも取れそうな複雑な表情ながら、ひとまず頷いた。
 それを確認し、一呼吸おいて果穂は言葉を発した。
 「私の病気の話」
 その言葉に、果穂の父の視線が僕に向けられる。
 「病気のことについては聞いてます。その……余命宣告を受けていることも」
 果穂の父は頭を抱えた。何か対応を間違えただろうかと慌てたが、すぐに顔を上げ首を振った。
 「いや、すまない。驚いただけなんだ。まさかそんなことまで話せる友人がいたとは」
 「そんなことはどうでもいいの。私は真実が知りたいだけ」
 「真実?」
 「とぼけないで。お母さんとの仲が悪くなったのは私が原因でしょ?」
 果穂の父は困惑した表情を浮かべ、言葉を選ぶように少し間を置いてから答えた。
 「仲が悪くなんてない。ただ、意見のすれ違いが起きて一時的に喧嘩っぽくなってるだけだ」
 「だから、それが私のせいだよねって言ってるの」
 僕は居心地の悪さを感じ、椅子の上で身をよじった。
 「意思疎通が上手く言っていないだけだ。治療費だって仕事をもっと頑張れば解決する話で……」彼の額には薄い汗が浮かんでいた。
 「だから、私のせいだよねって聞いてるの。質問を置き換えないで」果穂の声には苛立ちが混ざり始めていた。普段の柔らかな雰囲気は微塵も感じられなかった。
 「果穂、お前のせいじゃない。どこに何の落ち度があったっていうんだ」
 果穂の父の声もそれに釣られるように少し大きくなっていた。
 「そうやっていつも逃げて。私のせいなら私のせいだとはっきり言ってよ」
 果穂の声は悲痛な叫びに変わっていて、目に涙が浮かんでいるのが見えた。もはや、話し合いとは呼べなくなっていた。僕は何も言えず、ただ二人のやり取りを見守るしかなかった。
 「……私は果穂の選択を尊重したいと思ってる」
 果穂の父の声は弱々しくなっていった。
 「答えになっていないって何度言えば分かるの!」
 「……何を騒いでいるの」
 突然、新しい声が割って入った。
 平行線かと思われた会話が、唐突に掛けられた言葉で、一瞬にして凍り付くのが分かった。僕は思わず振り向いた。
 立っていたのは肩までの黒髪を持ち、だぼだぼのラフなスウェットに少しやつれた表情の女性。彼女の目は充血し、疲れきった様子だった。
 「お母さん……」果穂がそう呟くまで、誰だか分からなかった。
 以前に、果穂から母親は厳格な性格だと聞いたことがあった。けれど、実際にあった女性は、厳格さの欠片もなく、果穂には似ても似つかない。言い方は悪いが、浮浪者のような見た目だった。
 「すまない。妻は今、精神的に不安定な状態でね。すぐに引っ込めるから」
 「何を話していたの」
 果穂の母は夫の言葉を無視し、鋭い目で周囲を見回した。その瞳には、強い怒りが宿っていて。けれど、その視線は僕ではなく何故か果穂と夫に向けられていた。
 「ここまで家族関係が悪くなったのは私が病気になったせいだよねって話をしてたの」
 果穂の声は冷たく、挑戦的だった。果穂の母は、苦々し気に顔を歪めた。その目にもまた、涙が浮かんでいるのが見えた。
 「そんな訳ないでしょう?」
 「ないなんて言える? この状況で? 最近は家族でまともに会話すらしてない」
 果穂の声が震えていた。
 「果穂、あなたまだあの話を……」
 果穂の母の声は何かを恐れているように思えた。
 「私はもうとっくに覚悟を決めてる。お母さんこそ、いつまでを引きずってるの」
 次の瞬間には、果穂の母は机の上のコップを壁に向かって投げつけていた。ガラスの砕ける音が鋭く響き、コップは派手に割れて中のお茶がカーペットに染みを作るのが見えた。
 全員が動けなくなるほど呆気に取られ、僕は思わず、目を閉じた。
 「私は絶対に認めない!」果穂の母の耳を塞ぎたくなるほどの金切り声だった。
 「それはどうぞご勝手に。私はもう知らないから」
 果穂は部屋から飛び出していった。取り残された僕は、一瞬呆然としたが、すぐにハッとして後を追う。申し訳程度に頭を下げるが、これ以上に最悪な雰囲気を僕は知らなかった。
 
 飛び出してしまった果穂を見つけるのは難しいと思ったが、少し歩いた先の道で蹲っているのを見つけた。
 駆け寄って肩を貸そうと屈んでも、果穂は僕のことを見ようともしなかった。彼女の肩が小刻みに震えているのが分かった。
 「見苦しい所を見せてごめんなさい」と果穂は言った。
 「僕の方こそごめん」
 一体僕はあの場で何をしていたのだろう?
 明らかに、あの場において一番の場違いは僕だった。力になるだなんて豪語しておいてやったことは何もなく、ただ顛末を傍観していただけ。役立たずと罵られても言葉がなかった。
 「いいんです。私もこれで諦めがつきました」
 果穂は何の諦めがついたのかは言わなかった。けれど、それが果穂にとって何か大事なことであったことだけは分かっていて、それでも何もできない自分に嫌気が差した。
 家に帰ってからも、果穂の感情を露にした姿が僕の脳裏から離れなかった。いつも冷静で大人びていた果穂にも、こんなに生々しい感情があったのだと、驚きと共に、自分はまだ彼女のことをよく知らないのだと痛感した。
 そして、月乃のことを思い出した。月乃にも、きっと僕の知らなかった一面があったのだろう。そのことが胸に重くのしかかった。

 *

 僕は封じこめていた反動なのか、ふとした時に月乃のことを思い出すことが増えていた。そうしていくつかの場面を思い出す中で、無感情のロボットだと思っていた月乃にも人間らしい仕草があったのを思い出した。
 特に鮮明に残っているのは、小学生の頃のある夏の日だった。確か僕が高学年になりたての頃。じりじりと照りつける陽射しの中、友達と遊んだ帰り道、いつものようにスーパーに立ち寄り、迷った末、棒付きのチョコアイスとバニラ味のシャーベットを買って帰った。それ自体は日常的で、後で食べようと複数のアイスを買って帰ることも珍しくなかった。
 家に帰ると、冷蔵庫にアイスをしまおうとする僕の背中に、誰かの視線を感じた。振り返ると、そこには月乃が立っていた。普段は無表情な彼女の瞳に、珍しく欲しそうな色が浮かんでいる気がした。
 「月乃もアイス食べる?」
 普段、僕から月乃に話しかけることはほとんどなかったから、月乃も一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの無表情に戻り、小さくこくりと頷いた。
 シャーベットを差し出すと、「ありがとう」という細い声が返ってきた。別に優しくしようと思った訳じゃない。ただなんとなく、渡してもいいかなと思っただけだった。それでも、月乃から感謝の言葉を向けられると、何故だか心がむず痒くなった。
 リビングのソファーに座ってチョコアイスを食べていると、聞き慣れない鼻歌が聞こえてきた。最初は誰の声か分からなかったが、キッチンで自分のシャーベットを食べている月乃からだと気付いて驚く。それは正確には歌とは言えないような、気紛れなリズムを刻んでいるだけだったが、そんな一面があったことを僕はまるで知らなかった。
 後になって気付いたが、あの鼻歌は月乃の数少ない感情表現の一つで、体調が良い時や嬉しいことがあった日にはこっそりと口ずさんでいるようだった。そこには、年相応の確かな人間らしさが感じられた。
 
 退屈な授業を終えた僕は、食堂の自販機で野菜ジュースを買って飲んだ。中途半端に健康を意識して手を出してみたが、甘いばかりでどうにも舌に合わない。こんなことなら栄養飲料でも飲んだほうがましだったなと舌打ちした。
 金属製の錆びたドアを開けると、まだ辺りは明るく、高く飛ぶツバメやカラス、何人かの吹奏楽の生徒の姿も見えた。そんな閑静な屋上。建物の影になった隅のベンチで、果穂は本に目を落としていた。
 僕は何も言わずに、ベンチに座る果穂を見上げるような形で床に腰掛けた。果穂が読んでいたのは、いつだったか一緒に買いに行った小説だった。
 「それ、面白い?」
 「微妙です。困難に立ち向かっていても、最後にはハッピーエンドになることが何となく透けていて。今の私にはもっと救いのない物語の方が合っているかもしれません」
 果穂は本から目を離さずに答えた。この間のことなどなかったかのように、淡々とした態度はいつもの果穂だった。
 「物語の中ぐらい幸せな世界に行きたいとか思うものじゃないの?」
 「考え方の相違ですね。現実の私はどうやっても幸せにならないのなら、もっと不幸でどうしようもない人生を見たくないですか?」
 「なるほど……そう言われれば確かに。僕も自信を持てなくなった時は、自分より下を見て安心するタイプだ」
 「……そんな悪趣味な共感を得るつもりはありません。私も随分と捻くれてしまったということでしょうか」
 果穂はため息をついて本を閉じた。ゆっくりと顔を上げ、虚ろな目で僕を見る。そして、座ってくださいとでも言うように、ベンチの隣をぽんぽんと叩いた。
 僕はそれに従って、一人分の間隔を空けて腰掛ける。
 「家族と仲の悪い理由を聞いてもいいか?」と僕は言った。
 「簡単に言うのなら、私のせいです」果穂は表情を変えなかった。
 「果穂がそう思ってるだけかもしれない。もう少し詳しく」
 「……どうしてそんなことが気になるんですか?」
 「力になりたいって言うのが半分。もう半分は、何が起こっているのかも分からずこれで終わりだ、なんて納得できないから。少なくとも、僕はもうかなり深くまで果穂の問題に足を踏み入れてる。部外者じゃないはずだ」
 果穂は少し考え込むような仕草を見せた後、静かに口を開いた。
 「つまらない話ですがそれでもいいのなら」
 「僕でよければ」と、頷いた。「自慢じゃないが、僕の家族関係もかなり腐ってる。気は使わなくていい」
 「何の慰めにもなりませんね」果穂は吐き捨てるように言った。
 「長くなりますが」と前置きして、果穂は話始めた。

 「まずは家族の背景を話す必要があります。私の母は、今でこそ憔悴しきって感情的になっていますが、以前は冷静で理性的、正反対の人物でした。母は裕福な家庭で育ち、教育熱心な両親、特に厳格な母親のもとで完璧を求められながら成長したそうです。私も祖母に会った際、その厳しい性格を肌で感じたものです。母はその期待に応え、学業でトップを維持し、成功を目指して努力を重ねました。その結果、冷静で論理的な判断力を身につけ、学生時代からリーダーシップを発揮し、周囲からの信頼も厚かったと聞いています。そんな母が大学時代に出会ったのが父でした。父は、温和で日常的な価値観を持った、良く言えば平凡な、悪く言えば退屈な男性でした。しかし母にとって、父の優しさや穏やかな性格が魅力的に映り、厳格に育てられた彼女にとって心の拠り所となったのでしょう。二人は互いに尊敬し合いながら恋愛に発展。後に結婚し、私を授かります」
 僕は果穂の話し方に違和感を覚えた。両親のことであるはずなのに、果穂は説明口調で、他人事のように事実だけを連ねていく。まるで台本でも読んでいるかのように錯覚した。
 「母は家族や子供に対しても高い理想を抱いていました。完璧な家庭を築くために、娘の私にも厳格な教育を施し、将来の成功を期待して育てる決意を固めます。私の言動が洗練されたのも母の教育の賜物と言えるでしょうか。母の口癖は『努力すればできないことはない』でした。とは言え、私の出来は母ほど良くはないので期待に応えられていたかと言えば甚だ疑問です。それでも細かい諍いはあれど、母は私に辛く当たることはなく、穏やかな父と三人で大きな問題もなく家族は平穏な日々を送れていました。……私の病気が発覚するまでは」
 果穂の言葉が途切れた。そこが会話の転換点となりえることは想像に難くなかった。
 「私の病気が判明した瞬間、両親の反応は真逆でした。父は動揺しながらも冷静に現実を受け入れ、残りの時間を有効活用しようと提案しました。明確な治療法がある訳ではないので、私もそれが正しいと思います。しかし、ここで、いつも理性的な母が壊れました。母は病気を否定するかのように『もっと治療法があるはず、不可能なんてない』と感情的になり、父との認識のズレが浮き彫りになります。――どうしてそうなったしまったのか、ですか? そうですね。これは想像ですが、『努力』というのは母にとって絶対の信頼であり、諦めるという他の道が見えなくなっていたんでしょう。母にとっての理想と言うのは祖母と共に過ごした完璧な日々だったのでしょうから。ともかく、母と父の間で、私に対する対処法が大きく異なりました。母は私に、ある意味で厳しい姿勢を続け、『治療に専念すべきだ』と強く主張する一方で、父は『残りの時間を自由に過ごさせるべきだ』と真っ向から対立しました」
 「どちらも間違っているとは思えないな」と僕は言った。「治りませんと言われたからって、はいそうですか、と納得の行くような問題じゃない。親だったらどうにかして助けたいと思うのは自然じゃないのか?」
 数秒の沈黙の後、果穂は深呼吸をして話を再開した。
 「ええ、私も母の考えは理解できますし、治療を受け最後まで抗うというのは世間一般では美談になるのかもしれません。しかし、端から勝ち目のない勝負など誰が好き好んで受けるでしょうか。茨の道です」それに、と果穂は付け加える。「治療費だって馬鹿になりません。望みのない投薬治療など、お金をどぶに捨てるようなものです。結果として、母は精神を病み、父は家族との対話を避け、寝る間も惜しんで仕事に励んでいます。それが果たして娘のためと呼べるのでしょうか」
 果穂は自嘲気味に笑って、「これが篠宮家に起こった全てです」と締めくくった。
 だが僕は、今の話に続きがあることを察していた。
 「まだ一番大事な部分が欠けてるだろ」
 果穂の目が僅かに細まった。「何も欠けていません。これが家族に起こったことですよ」
 「果穂が本当に死にたいと思っているのか、ずっと考えてたんだ」僕は慎重に言葉を選んだ。「全てに絶望してしまったのなら、未練なんて今すぐ捨てて実行に移せばいい。でも、そうしないのは死ぬのが怖いんだ。当たり前なんだよな。誰だっていざ死を目の前に現れたら尻込みする。でも、あの日の会話で分かった」
 果穂は僕の目を見つめたまま、動かないのを見て僕の疑念は確信に変わった。彼女は今、何を考えているのだろう? 知りたいのに、答えが出てしまうのが怖かった。
 
 「治る見込みのない末期患者っていうのは、安楽死制度の条件を満たしているんじゃないか?」
 
 その言葉を口にした瞬間、空気が凍りついたように感じた。果穂は一瞬、目を伏せ、それから静かに顔を上げた。
 「……ええ、その通りです。そして私は安楽死制度を受ける予定です」
 果穂の声は、氷の刃のように僕の胸に突き刺さり、思わず息を呑んだ。
 その言葉に、以前母がテレビで見ていたニュースを思い出した。
 『日本政府は医学的な進歩と個人の尊厳を尊重する立場から、特定の条件下での安楽死を認める法律を制定しました』
 僕はこの話題を避けてきて、自分は生涯縁のないものだと考えていた。でも今、その現実が果穂という具体的な形となって、目の前に立ちはだかっていた。
 「僕が聞きたいのは、その後。どうして果穂が安楽死を選ぶことになったのかっていう、重要なことが抜け落ちてる」
 果穂の表情が硬くなった。
 「何も抜けていません。諦めたからですよ」
 「じゃあ何故、反対運動の人に嫌悪感を示した? 何も考えず、逃げた訳じゃないんだとしたら、何か決定的な出来事があったはずだ。それがあったから、今みたく修復不可能な程に関係が拗れてるんじゃないのか?」
 「それは違います。私が安楽死を選ばないことで解決するような問題であれば、そもそも涼くんを頼るようなことにもなっていません」
 「どうしてその決断をすることになったのかを僕は聞きたいんだ」
 果穂の目に浮かんだのは、怒りというより深い悲しみだった。彼女は長い沈黙の後、深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。
 「……悪いですが、ここまでです。付き合ってもらった以上最低限の経緯は話しましたが、これから先は私の尊厳に関わります」
 果穂の重々しい言葉には、明確な対話の拒絶を感じ、これ以上の追及は彼女を傷つけるだけだと悟った。
 「わかった」僕は諦めるしかなかった。
 「実際、果穂の問題を解決できなかった訳だけど、果穂はそれでいいのか?」
 「良い悪いじゃないんです。そういうものだと割り切って生きていくのが、大人になるってことなんじゃないですか」
 「実際に大人になるまで生きられなきゃ何の意味もないけどな」
 笑えないブラックジョークだった。果穂は否定もせず、ただ静かに空を見上げた。
 「こんなつまらない日常、早く消してしまって、どこか遠い所に行きたい」
 いつも嫌味なほどに現実主義で、誰よりも冷静に周囲を観察している果穂にしては、らしくない言葉だった。
 言葉にできぬ危うさを感じて、意識的に声のトーンを上げる。
 「それは無茶だけどさ、前に話してただろ? 今度夏祭りがあるんだ、それに行こう」
 何か楽しみがないと果穂が生きる気力を失ってしまうように思えた。
 「そうですね。私も楽しみです」
 果穂の表情は疲れていたけど、ひとまず頷いてくれたことに安堵する。自暴自棄になって投げ出すようなことはして欲しくなかった。

 *

 それからの数日、特筆すべきことはなかった。食事や入浴、生理現象以外で部屋を出ることはせず、ただ時間が過ぎるのを待った。待っているのに疲れたら、買ったままで埃を被っていた小説を手に取った。その埃は、まるで僕の停滞した時間を象徴しているようだった。
 読み始めたはいいが、ちっとも内容が頭に入ってこない。文字を視線でなぞっているだけで、数秒後には何の話だったのか覚えていないのだ。何度も繰り返し読んでいるうちにゲシュタルト崩壊を起こしたので、諦めて本を閉じ布団に横になった。
 天井を見つめながら、果穂のことを考えた。ここまで時間が早く過ぎて欲しいと思ったのは一体いつ以来だろう。小学生の時に、友達の家に泊まりに行く計画を立てて準備をしていた時。いや、サンタがプレゼントを置いて行ってくれるのを祈りながら眠った時だろうか。要するに、かなり昔であることだけは確かだった。
 その一方で、皮肉なことに、限りある果穂の余命は、今も刻一刻と削れていっているのだと思った。
 けれど、果穂に限った話ではないのかもしれない。誰にだって、見えないだけで寿命という制限時間はあるのだ。みんな日々それを消費して生きている。それは、何十年も続くものかもしれないし、もしかすると明日には突然消えてしまうものかもしれない。だが、大半の人間はそんなことを気にせず生きている。誰だって、一年後生きて居られる保証なんてないのに。
 果穂は、それが分かりやすく可視化されてしまっただけで、限りある時間という本質は何も変わらないのかもしれない。そういう意味では、果穂は至って普通の女子高生なんじゃないか、と思った。
 夕方、お腹が空きリビングに降りると珍しく父がいた。仕事のある日は、普段夜にしか帰ってこないのだが今日は早上がりだったのだろう。
 「おかえり」
 「おう、ただいま」
 適当な挨拶を交わして、僕らの間にはそれ以上の会話はなかった。父は、必要以上に僕を刺激しようとしていなかったし、僕もそれが楽だった。
 棚から値引きシールを貼られた惣菜パンを取る。その短い賞味期限のシールを見て、僕はまた果穂のことを連想してしまっていた。
 「最近は元気でやってるか?」
 リビングに背を向けた僕に、父はお決まりのようにいつものセリフを口にした。けどそれは、悩みを打ち明けて欲しい訳じゃ無い。僕が、普通だよと答えることによって、異常は何も無いと思いたいのだろう。
 でも、今は嘘をつかなくても大丈夫だった。むしろ、少し父に近づきたいとすら思った。
 「元気だよ。最近、やりたいことができたんだ」
 穏やかな僕の言葉に、父は予想外だったのか驚いたような気がした。
 「そう……か。そうか、うん。それは良かった」
 何度も確かめるように頷き、父は久しぶりに満足げな笑顔を浮かべた。そんな表情を見るのは久しぶりだったので、気分は悪くなかった。

 *
 
 その日、僕はアラームが鳴るよりもずっと早く目を覚ました。スマートフォンを手に取り、果穂からの連絡がないか確認する。画面には何の通知もない。「まだ早いからな」と自分に言い聞かせるが、高鳴る鼓動は簡単には収まってくれない。カレンダーに丸をつけた今日の日付を見つめ、深呼吸をした。
 鏡の前に立ち、昨夜選んだ服を着てみる。シンプルな白いTシャツとデニムのジーンズ。普段着ているものと大差ないのに、何故か違和感を覚えた。理由を考えてみると、この服を着た自分が、果穂の隣をあるいているようなイメージが湧かないから。もっと率直に言えば、明らかに不釣り合いだったからだ。
 クローゼットを開け、普段着ないシャツやジャケットを次々と試す。しかし、おしゃれに無頓着な人間が持っている服などたかが知れている。結局どれもしっくりこず、最初に選んだ服に戻るが、自信は持てないままだった。
 これでは、まるでデート前にそわそわしているみたいじゃないか、と自嘲した。僕らの関係はそういうものじゃ無い。一体、何を期待しているのだろうか。
 窓の外を見ると、予報通り雲一つない快晴で雨の気配すらなかった。このまま無事に夜を迎えられることを切に祈った。
 予定では、当日、果穂が細かい集合場所などを連絡するはずだった。しかし、昼を過ぎても果穂からの連絡はない。しびれを切らして送ったメッセージも、既読すらつかず、返信も来ない。今まで、果穂が約束事を反故にしたことは一度もなかった。何かあったのだろうかという一抹の不安が頭をよぎる。だが、まだ焦るような段階ではなかった。
 きっと忙しいだけだ。寝坊や連絡の入れ忘れ程度、人間ならあり得るだろう、と希望的観測で自分を納得させる。とにかく僕にできることは、約束の時間に遅れないよう会場に向かうことだけだった。
 夕方になり、僕は河川敷に向かって歩き始めた。既に太陽は沈み始め、空は茜色に染まって少しずつ薄暗くなっていた。
 今日行われる笹木花火大会は、この地域では比較的大きな催しだと言える。来場者数は毎年三万人を超えるのだとか。普段活気のない商店街も、会場近くになると和風な提灯が灯り、次第に浴衣や甚平を着た人が現れ始めた。
 その姿を見て、僕は愕然とした。浴衣を着るという選択肢が、すっかり抜け落ちていたのだ。あれだけ服装に迷ったのに、誰でも思いつく模範解答に気が付かなかったのはなんと愚かだろう。
 ふと、果穂から連絡がないのはひょっとしたら浴衣を着る準備が忙しいからでは無いだろうか、と思った。都合のいい解釈ではあるが、そう考えると幾分か気持ちが楽になる気がした。
 いよいよ、露店が立ち並ぶエリアに差し掛かった時、ポケットの中のスマートフォンが震えた。慌てて取り出すと、画面には果穂の名前が表示されていた。疑っていた訳ではないが、忘れられていなかったことにひとまず安堵する。声が上擦らないように呼吸を整え、僕は電話に出た。
 「もしもし」
 僕の声は、逸る心を中々上手く隠せたように思う。いつも通りだ、違和感はなかった。
 けれど、通話越しの果穂の反応はなかった。繋がっていないのだろうかと画面を確認するが、確かに通話中であり、音量も最大になっていた。この喧騒で声が掻き消されてしまったのかもしれない。
 「もしもし、聞こえる?」
 今度ははっきりと、同じ言葉を繰り返した。しかし、十秒待っても反応はない。一度、切ってかけ直そうかと思った瞬間、ようやく果穂の声が聞こえた。
 『ごめんなさい……』
 震えるような、弱々しい声だった。僕は、今までこんな果穂の声を聞いたことがなかった。電話越しだからとかそれだけじゃ無く、明らかにいつもと様子が違った。
 「どうした?」
 『今日、行けなくなってしまいました』と果穂はそう言った。
 「行けなくなったって……どうして?」
 果穂はまたしばらく無言だった。答えたくないのか、それとも言葉を探しているのか。
 「何かあった……のか?」
 電話越しに、果穂の息を呑む声が聞こえた。図星だったのだろう。その反応で、果穂に何が起こったのかうっすらと予想できてしまった。
 『今朝、上手く立てなくなり……入院することになりました』
 その瞬間、世界が止まったように感じた。予想はできても、実際に聞く衝撃は微塵も軽減されない。
 この期に及んで、僕は果穂にまだ時間があるなどと思い上がっていたのだ。同じ時を過ごしているなんていう勘違いをしていた。果穂の人生は、僕なんかの数倍早く進んでいるのだ。こんな突然に、こんな残酷に現実を突きつけられるとは思わなかった。
 こんなことなら、もっと早くに……と頭の中を様々な思考が駆け巡る。けれど、今はそんな思いを抑え込まなければならなかった。
 「果穂は大丈夫なのか?」声が震えないよう、必死に平静を装う。
 『緊急で命に関わる、というようなことはありません。気持ちも……やっと落ち着いた所です。連絡が遅れて本当にごめんなさい』
 その言葉に、僕の胸に込み上げていた不安と焦りが一気に和らいだ。果穂の心中を思えば、責めるなんてできるわけが無かった。
 「分かった、僕は大丈夫だから」努めて冷静にそう返した。「何か僕にできることはないか?」
 果穂が電話の向こう数秒躊躇っているのが分かった。
 「大丈夫、遠慮せずに言ってくれ」
 普段の自分からは想像もつかないほどの温かさが滲み出ていた。自分の声の優しさに、僕自身が驚いた。
 『花火を……見たいです。画面越し、最悪写真でも良いので私が見るはずだった景色を観たいです』
 「分かった」僕は、大きく頷いた。「僕は果穂の手足だから。代わりに僕が全部伝える」
 僕は、ビデオ通話を起動した。スマホのカメラに向かって、笑顔を浮かべた。それが精一杯の励ましだった。
 「見えてるか?」
 『見えます……』
 果穂の画面は真っ暗で、カメラは付いていない。きっと顔を見られたく無いのだろう。それでも、僕には果穂の存在を感じることができた。
 「これで果穂も僕と同じ景色を見られる」
 『……ありがとうございます』
 通話越しの果穂の声は、やっぱり震えている気がした。

 河川敷に降りると、夏の夜の空気が肌に纏わりつく。潤んだ空気の中、カラフルな看板の屋台が道の両脇に軒を連ねている。提灯の柔らかな光が、人々の顔を優しく照らしていた。脇には早く到着した人が敷いているであろうレジャーシートで、良い場所は既に大半が場所取りをされている。奥に進むほど人並みは増える一方で、果穂の視界を遮らぬようスマホを高く掲げる僕は、明らかに通行の邪魔となっていた。
 すれ違い様、何度も体をぶつけられる。けれど、僕は手を挙げることをやめなかった。
 途中で果穂の言葉を思い出し、りんご飴を購入した。真っ赤に輝くりんご飴が、祭りの雰囲気を一層盛り上げる。ヨーヨー釣りも探してみたが、既に通り過ぎてしまったのか見当たらなかった。ここまでは良かったが、何を思ったか手当たり次第に、たこ焼き、焼き鳥、かき氷、哺乳瓶型のボトルに入ったジュースを購入した。
 少食の僕が食べるには有り余る量だったが、祭りらしいものを果穂に見せたかった。右手に大量の物資を抱え、左手はスマートフォンを掲げる。側から見ればおかしな奴と思われても仕方ない不恰好さだったが、果穂のためならそれも厭わなかった。
 人混みを離れ、少し会場からは離れているが、周りの静かな土手の上に腰を下ろした。その眺めは、まるで別世界のようで、先程まで歩いていた道を遠くに見下ろせた。
 広いとは言えない道に、屋台がびっしりと並び、提灯が薄暗い辺りをぼんやりと照らしている。明らかに異常な人口密度だが、行き交う人々の顔はどれも晴れやかで、この非日常を謳歌していた。その光景を見ていると、僕の心も少しずつ温もりを取り戻していくようだった。
 幼い頃に、月乃を含め家族四人でこの花火大会に来ていたことを思い出した。そうだ、お祭りとはこういうものだった。あの時は、ただそこにいるだけで楽しくて。その場で食べる屋台の料理、というものが特別に感じられた。
 月乃は相変わらず、無表情だったけれど、僕の浴衣をぎゅっと掴んでいたんだっけ。心細さを感じた時に、僕は頼ってもいいと思える存在だったのだ。知っていたはずなのに、覚えていないことばかりだった。記憶の断片が、夏の夜風に揺られるように、ふわふわと僕の中を漂う。
 『そんなに買って食べ切れるんですか?』
 「どうにかしてみせるよ」
 間も無く、花火が打ち上がるのを知らせるアナウンスが遠くで流れていた。期待と緊張が入り混じった空気が、辺りを包み込む。
 『私、実は花火大会に最後に行ったのは子供の頃なんです。友達同士で行こうと誘われることもあったんですが、どうにも気が乗らなくて』
 「それはどうして?」
 『周囲の友達の意識が、行った後に何をするか、に向いていたからでしょうか。私は行くだけで充分だったんです。夏特有の湿気が残った空気や何かが始まるという期待に満ちた緊張感。けれど川の近くに向かうにつれて微かに涼しい風が吹き始める様子。そういう雰囲気や情緒が好きだったのであって、ひと夏の恋や出会いなんかに興味はありませんでしたから』
 画面越しの果穂に、真の意味でこの雰囲気が伝わっている訳ではない。そう思うと、少し申し訳ない気持ちになった。
 「そういう意味では、今回はあまり楽しんで貰えなかったかもな」
 『……いえ、そんなことはないですよ。ずっと、何が起こっているのか私にも分かるようにしてくれていましたから。まるでその場に一緒にいるかのような感覚でした』
 空に鮮やかな光の輪が広がり、遅れて地鳴りのような破裂音が響いた。
 「それは良かった」
 それからしばらく、お互いに無言の時間が流れた。七色の花火が腹の底に響く重低音と共に、刹那に光って、時に柳や星屑のようにキラキラとゆっくり夜空に溶けていく。呼吸すら止める儚さにただ集中していた。
 『綺麗ですね』
 花火の中、しみじみとするような果穂の声が聞こえた。その声に、僕の胸が締め付けられる。
 「二人で行きたかったな」
 思わず、ポツリと口から出た。完全に無意識だった。
 『ごめんなさい』
 果穂の消え入るような声は、花火に掻き消されてほとんど聞こえなかった。