朝日で目を覚ますのが嫌いだった。容赦なく差し込んでくる光は、自分のリズムを無視して、一方的に夢から引き剝がす。まるで自分が抗えない「終わり」を突きつけられているようで、その一方的な暴力性がたまらなく虚しかった。
 一年中閉め切っていたはずのカーテンに運悪く隙間が空いていたらしく、その隙間から差し込んだ光が、容赦なく僕の顔を照らしていた。
 「(りょう)、起きた? 朝ごはんできてるわよ」
 廊下から母の声が響いた。最悪の目覚めに、返事をする気になれず布団からも出たくない気分だった。それでも結局は、諦めたように身を起こす。手早く制服に着替え、鏡に向かった。そこに映っていたのは、いつもと変わらず、どこか虚ろな目をした慣れ親しんだ自分だった。
 階段を降りると、リビングでは母がテレビを眺めていた。
 「今日は何時に帰ってくるの?」
 僕の気配を感じたのか、母は視線を向けることなくいつもと同じように尋ねてきた。余計な気遣いにもうんざりしていたし、変わらない質問に答えるのが、いい加減面倒くさかった。
 「知らないよ。別にいつも通りだろ」テーブルに置かれた朝食を前に座りながら、僕はぶっきらぼうに答えた。
 「そう……ごめんなさい」
 母は一瞬悲しそうな顔をしたが、何事もなかったようにすぐに視線を戻し、またニュースを見始めた。しばらく、互いに何も言葉を発することのない冷えた時間が流れた。
 ふと、僕の箸が止まった。なぜ僕はここまで苛立っているのだろう。かつての、この時間は僕ら家族にとって温かな時間だったはずだ。
 あの頃……そう月乃がこの家にいた頃だ。月乃(つきの)がいた時は、朝食の時間が家族の笑い声で溢れていた。今は、その記憶さえも遠くに感じる。父は仕事で家を空けることが多くなり、家族で食事をする機会も、会話すら少なくなっていた。
 たまに父と二人きりになると、気まずい沈黙が流れる。「お前は元気にやってるか?」という言葉に、本当のことを言えずにいる自分がいた。
 リビングには、テレビから流れるニュースキャスターのよく通る声だけが響いていた。
 『日本政府は医学的な進歩と個人の尊厳を尊重する立場から、特定の条件下での安楽死を認める法律を制定しました。このことに対して世間では様々な議論が巻き起こっており……』
 ニュースでは、最近制定された安楽死制度の詳細が報じられていた。末期の患者や重度の障害を持つ人が、厳格な条件下で自らの命を終える選択ができるようになるという法律らしい。テレビでは連日、この安楽死制度について激しい議論が交わされており町中でもこの話題で持ちきりだった。
 「生命の尊厳を守るべきだ」「苦しむ人々に選択肢を与えるべきだ」と、意見は真っ二つに分かれている。果たして、人は自分の死を選ぶ権利があるのだろうか。答えは簡単には出せそうになかった。
 テレビから流れる安楽死についてのニュースを聞きながら、僕は何も考えられなかった。死ぬこと、生きること。そんな重たい言葉の意味を、本当に理解できる人がいるのだろうか。
 僕はあまりその話題について詳しく知っている訳でもないし、むしろ意図的に避けていたから聞こえてくる声が余計に耳障りだった。
 「あの子なら、どうしてたのかしらね……」
 母が、ぽつりと呟くようにそう零した。その言葉に、胸の奥が急に熱くなった。
 「月乃のことは今更何も関係ないだろ」
 呆気に取られたような母の顔で、反射的に思わず声を荒げてしまったことに、後から気が付いた。
 「それも、そうね。変なこといってごめんなさい」
 母は気まずそうにまだ何か喋っているテレビの電源を落としたが、雰囲気は戻りそうもなかった。
 視線を落とすと、半分も食べていない朝食が残っていた。でも、喉を通りそうにない。いらついて朝食を完食せぬまま、立ち上がった。
 「行ってきます」
 言葉を発したくなかったが、何故か口から出てしまった。
 「あ、涼! 気をつけてね」
 母の声が背中に届くが、振り返ることなく玄関に向かう。ドアを開け外に出ると、まだ寒い朝の空気が僕の頬を撫でた。
 
 電車に乗って学校に向かっている間も、母の態度が気に食わなかった。何故かと考えても理由は上手く言語化できなかったが、僕は月乃の話をされるのがどうも嫌いらしかった。
 坂口(さかぐち)月乃(つきの)。享年十二歳。歳は二歳差で僕が中三の時に病気で亡くなった、たった一人の妹。とは言え、元々、病弱で長くは生きられないだろうと言われていたから死んだときでさえ驚きはなかった。
 月乃は、笑わない子供だった。嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと。そのどれにも反応らしい反応を示さず、いつもただ無表情で飄々としていた。恐れ知らず故の活発さで何でも小器用にこなす僕と性格が対照的だった僕らは本当に兄妹なのかを度々疑われるほどだ。
 両親はいつも病弱な月乃に付きっきりだった。熱を出した、食がいつもより細い。そんなこじつけのような理由で、事あるごとに病院通い。箱入り娘とでも言うのがしっくりくるだろうか。まだ幼かった僕は、それを愛情の差だと思っていたが、今にして、その考えは間違っていたのだと分かる。僕ら兄妹への対応に差はなかったし、月乃は人並み以上の心配を受けなければならない事情があった。
 高速で流れる景色の中、不意に閃光のような映像が脳裏をよぎった。
 窓の外の震える程寒い吹雪、強迫的なまでに白いベッド、そこに横たわる人影。だが、その顔を思い出そうとした瞬間、酷い頭痛を覚えた。
 この断片的な光景は、今に始まったことではなく、時折波のように浮かび上がってくる。けれどこの記憶に僕は覚えがなかった。その意味を探ろうとするたび、決まってこめかみが締め付けられる痛みを覚えるのだ。立っていられなくなる前に、僕は急いでその記憶を押し殺した。
 感情のない人間は、死の間際に何を思うのだろう? 兄である僕のことをどんな風に思っていたのだろう?
 落ち着いた時、そんなことがふと気になった。しかし、死人の感情に答えなんて出るわけがなく、しばらくもせず電車は目的地へと到着していた。

 *

 五月の陽気は、徐々に初夏の暑さに変わりつつあった。朝は未だ肌寒いが、昼になると半袖で過ごせるほどだ。
 授業はいつもと変わらず退屈で、梅雨入り前の蒸し暑さが教室に漂っていた。窓を開け風を入れようとしたが、外はかえって湿った空気が充満していて顔を顰める。まるで僕の心を映すかのように、どんよりとした空が広がっていた。
 窓の外に、とうに散ってしまった校門の桜が新しく新緑の美しい葉をつけているのが見えた。あれだけ生命力に満ち溢れていても、どれだけ頑張ろうと一年のうち、二週間ほどのわずかな時間しか花を咲かせられないだろう。
 その儚さに同情を覚えていると、ふと校舎の屋上が目に入って、そこに立つ人影が見えたような気がした。けれど人影はすぐに消えてしまっていて、目をこすった。
 「坂口くん、プリント。受け取ってくれないかな」
 その声に視線を向けると前の席の佐藤(さとう)さんが、困った表情でこちらを見ている。担任の話はいつの間にか終わっていて、佐藤さんから数学の課題だと言われていたものであろうプリントが差し出されていた。
 「あ、ごめん」
 僕らの会話に、周囲の視線を感じた。クラスメイトたちの目が、一瞬だけ僕と佐藤さんに向けられ、すぐに逸らされる。まるで触れてはいけないものを見てしまったかのように。その視線は、僕を包む透明な殻をさらに厚くしているようだった。
 「いや、別に謝らなくても。誰だってぼんやりぐらいするでしょ。それに……」佐藤さんは少し声を落とし、「私もろくに話聞いてなかったし」と笑いかけてくれた。
 その笑顔は、この教室で唯一、僕に向けられる本物の笑顔。……だと言うのに、僕は引き攣った苦笑いを浮かべることしかできなかった。佐藤さんの親切さが、逆に僕の心を締め付けた。
 佐藤さんは、疑うことを知らないようなキラキラとした瞳に、ショートカットの茶髪が特徴的だった。性格は明るく快活で、スポーツ万能、その信頼故か友達も多い。誰に対しても笑顔で接する彼女に苦手意識を持っているクラスメイトなんて僕は知らなかった。
 だから、向けられるこの視線が僕宛てであることは、僕が誰よりも知っていた。
 昼休み、教室はいつもの喧騒に包まれていた。友達同士で弁当を食べる者、廊下で談笑する者。僕はいつものように一人、窓際の席で静かに弁当を開ける。対照的に、佐藤さんの周りには、いつの間にかクラスメイトが集まっていた。
 「ねえねえ、今度の日曜日、みんなでカラオケ行かない?」
 彼女の明るい笑い声が、教室中に響くと「いいね!」「私も行く!」と、周りの声が賑やかに重なる。
 僕はすぐ後ろで、ただそれを眺めていた。誰も僕の方を見ない、声をかけてくる人もいない。僕の周りには、きっと透明なガラスの壁が立ちはだかっているのだ。まるで水槽の中の金魚のように、ガラス越しに世界を眺めているような気分だった。
 けれど、それでいい。人と関わらなければ、傷つくこともないのだから。僕はこの現状を変えようとしていなかったし、ある種の心地よさすら感じていた。
 そんな中、ふと佐藤さんと目が合った。慌てて逸らしたが、彼女は少し困ったような、でも優しい笑顔を向けた。
 「坂口くんも、来る?」
 一瞬、教室が静まり返ったような気がした。みんなの視線が、一斉に僕へと向けられる。
 「ごめん、用事があるから」
 僕は咄嗟に嘘をついた。佐藤さんの表情が曇ったように見えた気がしたが、すぐに彼女はいつもの笑顔に戻った。
 「そっか、残念。また今度ね」彼女は言葉を続けた。「でも、用事がなくなることがあれば……来てくれると嬉しいな」
 音が戻り、会話は自然と他の話題に移っていく。僕の周りには、また見えない壁が立ち上がった。
 透明人間のような僕に、佐藤さんだけが普通に接してくる。その特異さが、逆に孤立を際立たせているようで、居心地が悪かった。皮肉なことに僕は佐藤さんが苦手だった。
 僕は深いため息をつき、窓の外に目を向けた。そこに映る自分の姿は、この教室に浮いている影のようだった。
 
 *

 放課後、僕は、冷たい金属製の階段を音を立てないようゆっくりと昇って、普段足を運ばない屋上へとむかった。
 屋上なんてこの高校に入学した頃、一度校内を回った時に来た程度だったから、それはそれなりにイレギュラーなことであった。
 来た理由は、自分でもよくわからない。ただ、朝に母と微妙な別れ方をした手前、なんとなく家に帰りづらかったのだ。時間を潰せればどこでも良かったが、いつもは気にならない屋上が今日は何故か強く僕を引き寄せた。
 屋上には普段、それなりに人がいたはずだけれど今は僕以外の姿は見えなかった。
 夕陽に染まった空が、オレンジから紫へとグラデーションを描いている。遠くの山々はシルエットとなり、屋根が反射して煌めいていた。その眺めは、周囲より少し高いだけであるはずなのに、想像以上に幻想的で、この世のものとは思えないほどだった。初夏の風が僕の髪をそっと撫でていくのが心地いい。
 「綺麗……」と、思わず独り言を呟いた。しかしその美しさは同時に、一日の終わりを連想させ何故だか激しい虚無感を感じさせた。このまま世界が終わってしまえばいいなんて、子供じみた感想が浮かんだ。
 風で髪が目にかかるのを鬱陶しく思いながら、転落防止の柵の手前まで歩いた。目の前に広がる街並みを見下ろすと、人々の日常がミニチュアのように見える。
 実際に立ってみると高さは大したことのないように見えたが、流石に落ちたら死ぬだろうな、なんて当たり前に思った。
 死ぬ……? 落ちたら本当に僕は死ねるのだろうか? 死から連想されたのか、またしても月乃のことが頭に浮かんだ。
 僕は普段、月乃のことをなるべく考えないように過ごしていた。というのも、当時の僕は、両親からの心配を一身に受ける月乃のことを、面白く思っていなかったのだ。
 何とも子供じみているが、そんな捻くれた考えは、月乃にも伝わっていたのだと思う。月乃が僕に対して自分から話かけることはほとんど無かったし、思い出と呼べるものは、家族ぐるみのものばかりだ。年々記憶は薄れ、今では遺影の中の姿でしか思い出すことができなくなりつつある。なのに今日は、やたら頭の中を支配して消えてくれなかった。
 月乃が死んだ日から、家族の雰囲気はパーツの欠けた機械のようにどこかおかしくなり、今朝のような言い争いも増えた。一年以上が経った今でも、まるで時間が凍っているかのような冷たい空気が流れている。その空気に、僕自身も少しずつ凍えていくような気がしていた。
 今ここで飛べば月乃に会えるだろうか? 柄にもなくそんなことが脳裏に浮かんだ。
 柵に手をかけ、向こう側を覗き込む。地面までの距離が、妙に近く感じられた。
 とっくに過去を受け入れていると思っていたのに、未だそんな感情が残っていたことに驚く。天国など信じていなかったし、自殺を考える程思い詰めていた訳でもない。ただ、あえて理由をつけるのであれば今日の僕はそんな気分だった。
 それもこれも、今朝に変なことを言われたからだ。忘れかけていた不快感が再び胸を覆っていく。柵を乗り越えるのは、たった一歩だ。そう思うと、今なら踏み出せる気がして。でも、実際の僕は立ち尽くしているだけだった。
 
 そんな物思いに耽っていたからか、ふと、いつの間にか隣に人が立っていたことに遅れて気が付いた。
 僕の隣に立っていたのは見たこともない女子生徒だった。手を伸ばせば届きそうな程近い位置なのに、何故だか奇妙な安心感があった。
 夕陽に照らされた彼女の黒髪が風になびき、キラキラと輝く。それはまるで絵画のような光景だった。僕の視線に気づいたように振り返った時、彼女の瞳に映る夕陽もまた、見たものを魅了するような淡い輝きを放っていた。
 「どこ見てたんですか?」
 不意にかけられたその声にぎょっとし、反射的に距離を取った。
 そんな僕の反応に、声をかけてきた彼女は「そんなにびっくりしなくてもいいじゃないですか」と可笑しそうに笑った。
 事務的な連絡や挨拶以外で、見知らぬ人と会話するのは随分と久し振りで、僕はどのような反応を取るべきか即座に決められなかった。
 「びっくりなんてしてないけど」
 初対面の女子生徒に対して、僕の声には明らかに警戒と拒絶の意が込められていた。だが、彼女は嫌な顔一つ見せず。それどころか、何がそんなに面白いのかというほど屈託のない笑顔で笑った。
 彼女の笑顔は、クラスで騒ぐ頭の足りなそうな女子のように人を不快にさせる笑い方じゃなく、どこか上品さを感じさせる笑い方だった。その笑顔を見て思わず、うわぁ、なんていう語彙の欠片もない感想が浮かんだ。
 黙っている彼女はどちらかと言えば美人に見えたが、目を細め微笑むと、一転し、可愛いという印象を受けた。彼女の人懐っこいようでいて、ゆったりと丁寧な言葉遣いも相まって、さながらアイドルの様だ。
 「隠さなくてもいいですよ。まぁ気持ちは分かりますけど」
 彼女は言葉とは裏腹に、僕の気持ちなんて全く理解していないかのように手をひらひらとさせた。その大袈裟な仕草には胡散臭さを感じるのに、嫌味は微塵も感じなかった。
 ようやく驚きが冷めたときに、僕が最初に抱いた感情はどこか懐かしいだった。
 だがすぐに、懐かしい? と自問する。何故僕は、初めて会ったはずの女子生徒に懐かしさを感じているのだろう。
 その理由はすぐに分かった。彼女の目を奪われるような黒髪のストレートと日焼けを感じさせない色白で透き通るような肌は、死んだはずの月乃を彷彿とさせた。
 ――だがおかしい、似ているのなんてその程度だ。月乃はそもそも中学生でもっと小柄だったし、彼女の目元は俺や月乃のように鋭くない。目の前の彼女も小柄ではあるものの年相応と呼べる範疇であり、すらりと伸びた背筋や体つきは当然、月乃よりはるかに成熟していた。顔立ちだって、大きくて透明感のある瞳に綺麗な鼻筋、すっきりした頬と小さく笑っているその口元。控えめに言っても、世間一般では紛れもなく美人と呼ばれる類の人物であった。
 だと言うのに、違和感は消えてくれない。何にでも偶然を結び付けて意味を見出そうとするのは、人間の悪い癖だ、と感傷に浸りかけた思いを意図的に切り捨てた。今日の僕は、本当にどうかしているらしい。
 「別に。ただ夕焼けを眺めてただけだけど」と僕は苦し紛れの言い訳をした。
 「あんなに下の方を見てたのにですか?」
 わざとらしく首をかしげる彼女に、何も言うことができなかった。
 「からかってるだけですよ。そんな本気にしないでください」
 そんな僕を見て彼女は、楽し気に笑った。
 「ここってよく来るんですか?」
 正直今すぐにでもこの場を去りたかったのだが、彼女の澄んだ瞳を見ていると、嘘をついたり無視する気にはなれなかった。
 「……いや、今日初めて来たんだ」
 「そうなんですね、私もちゃんと入ったのはこれが初めてです」彼女は、「こんなに綺麗な夕焼けが見られるなんて知りませんでした」と、やわらかく笑った。
 「名前、なんて言うんですか?」
 初対面の相手に名前を尋ねるときは自分から名乗るのが筋ではないか? なんて、つまらない反論が浮かんだ。けれど、僕にそんなことを指摘する勇気はなかった。
 渋々、「坂口涼」と答えると、彼女はにこりと微笑む。
 「涼くんですか。私は篠宮(しのみや)果穂(かほ)です。適当に、果穂とでも呼んでください」
 異性にファーストネームで呼ばれる経験なんて小学生以来だった僕は、思わず怪訝な顔を浮かべた。
 そんな表情に気付いた果穂は、「苗字は嫌いなんです」と、どこか含みがある声で言った。苗字が嫌いなんて聞いたことがなかった。生まれた瞬間、もしくは生まれる前から与えられていたそれは、あまりにも身近で好き嫌いの感情すら抱いたことがなかった。何か特別な事情でもあるのだろうかと思ったが、目の奥に深い闇があるように見えて言及はしなかった。
 「分かったよ、果穂」と返すと満足そうな顔で笑う彼女は、僕にとって眩しく見えた。
 「初対面の相手とよく話せるな」
 「私そういうの得意なんですよ。誰に対しても一定の関係を得られるのは数少ない特技と言ってもいいでしょうか。良く言えば人当たりがいい、悪く言えば八方美人ってやつです」
 口には出さなかったが、輝くような笑顔を浮かべる果穂は確かに人付き合いが得意そうだと納得する。
 「とは言え、手当たり次第ってわけじゃないですよ? ここで会ったのも何かの縁ですよね」
 「……そんな相手に選んでもらえて光栄だ」
 「うわ、そんな露骨に嫌そうな顔しないでくださいよ」
 果穂が小さく「それに……」と何かを呟いたが僕には聞き取れなかった。それが何かを尋ねる前に果穂は新しい話題に移ってしまった。
 果穂の話し方は、人に慣れている人の物で、話慣れていない僕でも何とか会話が成り立った。それはきっと、彼女が持つ人懐っこそうな雰囲気と、大人のように落ち着いた精神のおかげだ。こんな風に普通に会話したのは一体いつ振りだろう。そう考えてしまうほど、僕にとって珍しいことだった。
 会話の内容は、とりとめのないようなものばかりだったが、不思議とそんな彼女の雰囲気が嫌いではなく、どちらかといえば好ましいとまで言えた。
 遠くの街灯が一つ、二つ灯り始めると、周りの空気が少しずつ冷えていき、ようやく果穂の口が止まった。
 「本当に綺麗ですね。今日、ここに来られてよかった」
 僕は、先程までと同じ表情で笑う果穂を見て、ここに来られて良かったという言葉を、この風景を見られて良かったからだと思った。
 「私も同じ理由でここに来たんです」
 「そうだな」と景色を見に来たわけでは無かったが、特に否定する理由なんてなかったから、適当な相槌を打った。
 
 結論から言うのであれば、僕の認識は酷く浅はかだった。
 放課後、理由もなく男子生徒に絡む女子生徒。それ自体は、よくあるとは言えないまでも起こりうる事象だったかもしれない。
 ただこの場合、声を掛けられたのは死んだ目をした見るからに陰気な相手。どう考えても関わり合いになるべきではないと、自分でも自覚しているほどの人相。つまり僕だ。
 話しかけられた時点で、何かしらの()()があることを察するべきだった。
 
 次に聞いた果穂の声は、ぞっとするほど低いものだった。
 「涼くんはどうして死にたいと思っているんですか?」

 *
 
 月乃が死んで以来、僕の性格は多少変わった。以前は、休日に友達と遊びに行くことも多かったし、家族で会話する機会も多いほうだった。だが、まず周囲の対応が変わった。僕を見る目が、「妹を亡くした可哀想な人」になったのだ。先生は僕をなるべく刺激しないよう、まるで割れ物を扱うような対応になったし、友達は以前のように軽口を言い合える雰囲気ではなくなってしまった。
 極めつけは、中学校卒業式の日に行われた打ち上げだった。クラスの中心人物により計画されたそれは、普段あまり目立たない日陰者を含め、クラス全員が招待された。ただ一人、僕を除いて。
 「だってあいつ、()()じゃないじゃん?」
 クラスメイトのその発言を知ったのはもう少し後のことだった。
 そんな出来事も相まり、僕は以前の自分を思い出せなくなり、上手く笑うことができなくなってしまった。性格は少しばかり内向的になったし、高校ではどこから話が漏れたのかすっかり孤立が完成している。
 けれど、これが正常なんじゃないか? 妹が死んで前より元気になるなんて、その方が人間としてどこかおかしいと思うし、家族と話すのに気を使うようになるのは至極真っ当な反応だと思う。そうだ、僕はおかしくなんてない。普通なんだ、と何度も自分に言い聞かせた。
 母は僕のことを、どこかおかしくなったんじゃないかと思っているようだったが、僕からしてみれば過保護なまでに行動を管理する母の方が、よっぽど気を病んでいるように感じた。
 
 家に着いた時には、辺りは目の前の道も見えない程、暗くなっていた。玄関を開けると、すぐにリビングの扉が開き、焦ったような母が飛び出してきた。
 「こんな時間までどこ行ってたの?」
 まくし立てるような剣幕に、今朝のことなどすっかり忘れていた僕は、思わずため息をつきそうになるが、何とか内心で留めた。
 「別に、高校生が帰宅するにはおかしな時間じゃないだろ」と顔も見ずに無愛想に答えた。
 確かに家に着いた時間はいつもより遅くなったが、電車だって動いてたし補導されるような時間でもない。けれど、それで母が納得する訳がないことも、また分かっていた。
 「私はそういうことを言ってるんじゃないの!」
 震える母の声に、思わず眉をひそめる。ここまで過剰反応をする理由を僕は何となく察していた。
 母の瞳に映る僕の姿は、きっと月乃のように見えているのだろう。
 「大丈夫だよ」
 僕は小さく呟いた。でも、その言葉が誰に向けてのものなのか、自分でもよくわからなかった。
 「そんなに目くじら立てるなよ。ほら、涼は手合わせておいで」
 奥から顔を出した父の登場により、僕は母から解放されることになった。
 座敷にある仏壇の前に正座し、慣れた手順で線香に火をつけ手を合わせる。遺影の中の月乃を改めて見た。その顔はやっぱりまだ幼い子供で、果穂は似ていたけれどやっぱり別人なんだなと思った。
 その夜、僕は果穂のことが頭から離れなかった。彼女の煌めく笑顔、そして最後の言葉。「どうして死にたいと思っているんですか?」という言葉がずっと耳に残って眠れなかった。

 *
 
 翌日、僕は再び屋上へ足を運んでいた。金属製の重い扉を押し開けると、新鮮な空気と共に風になびく長髪が目に入った。
 「ちゃんと来たんですね」
 果穂は、振り返ると昨日と同じ輝く笑顔で僕を出迎えた。けれど、裏に潜んでいるであろう何かが僕を不安にさせた。
 「約束は守るたちなんだ」
 僕らが再び相まみえたのは、偶然でも神の悪戯でもなく。果穂から明日も屋上に来るように、と半ば強制的に約束を取り付けられたためだった。
 無視してしまうこともできた。けれどそうしなかったのは、果穂の有無を言わせぬ圧、もしくは衝撃的な最後の言葉を否定するためか。理由はいくらでも出せるけど、きっと全て後付けだ。僕は、彼女の口から語られる言葉に興味があった。彼女との関係を断ってはならないと直感させる何かがあった。
 「今更ですけど、先輩でしたか? 涼くんなんて呼んじゃいましたけど」
 さして興味もなさそうに、果穂は首を少し傾げた。
 「僕は二年。果穂は一年なのか?」と聞くと、首肯する。後輩との関りがほぼゼロの僕が知らないのも至極当たり前のことだった。
 「先輩とでもお呼びしましょうか?」
 「いや、先輩なんて呼ばなくていい。僕はそういう上下関係とか気にしないし、なにより嫌いだから」
 「嫌い?」と果穂は胡乱げに目を細めた。
 「友達のように、とまでは言わないけれど、堅苦しくされるとこっちまで相応の対応をしなきゃいけない気がするだろ。僕にその器はないし、相手に敬意を払うべきかは自分で判断するのであって、強制されるようなものではないと思っているから」
 果穂は少し驚いたように目を丸くし、一瞬考え込むような表情を見せた。
 「そんなこと言う人、初めて見ました。威張ったり見下したりしないんですね。――例えば、立場を利用して無理やり連絡を取ろうとしてきたり、個別で勉強を見てあげると密室に呼び出したり」
 やけに現実味のあるイメージに、果穂の中での自分の評価は一体どうなっていたのかとため息をついた。
 「たった一年、生まれた年が違うぐらいで見下すような人間だと思われてたのなら心外だな。だから敬語も使わなくていい」
 果穂は僕の言葉にきょとんとして、的外れだというように笑った。
 「私の話し方は、ほとんど癖です。母が厳格だったからですかね。誰に対しても同じなので、気にしないでください」
 「昨日あれほど親し気だったのは演技か?」
 「嘘だとは言いませんが、本心ではないです。話を聞く前に逃げられても困りますから」
 うんざりと慣れた口調で定型文のように答える果穂は、本当にいつもこの喋り方なのだろう、と思った。余所行きの顔というのは誰もが持っているものではあるが、彼女のそれはあまりにも印象とかけ離れていてその差に感嘆するほどだった。
 
 突然、果穂が雑談はここまでという様に手を叩いた。予想外の乾いた音に、思わず体が反応してしまったことが恥ずかしい。
 風は穏やかで、夕焼けも美しかったのに、その目は僕を透かしてどこか遠くを見つめているような気がした。空気が張り詰めていくのを感じる。
 何かを言おうとタイミングを図っているのが分かった。果穂は長い沈黙の後、深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。
 「人生について考えることはありますか?」果穂の声は、今までとはまた違う重みを帯びていた。
 「……どうして急に?」
 「私は最近、死についてよく考えるんです。涼くんはどうして死にたいと思っているんですか?」
 いつになく真剣な果穂の言い回しに衝撃を受け、一瞬言葉を失った。昨日と全く同じ質問に、心なしか肌に当たる風の体感温度まで二度程下がった気がした。頭の中が真っ白になり、何を考えればいいのか、僕にどんな答えを求めているのか分からなかった。
 「……そんなこと思っていない」心臓が早鐘を打つのを感じながら、ようやく声を絞り出した。
 「でも、あの時の表情は違いました。死にたいと思っていたから、あんな表情をしていたんじゃないですか?」
 「あんな表情?」
 「地面を食い入るように睨みつけ、絶望を顔に張り付けたようなあの表情のことです」
 果穂は、一体何を言っているのだろうと考えて、僕は頭を殴られたような衝撃を受けた。すぐにその場面の察しがついたからだ。
 果穂と初めて会った直前、僕は一瞬。死んだ月乃のことを思い出し、このまま僕も死んだらどうなるだろうという思考が脳裏をよぎった。あの時の僕は一体どんな顔をしていたのだろう。記憶が曖昧で、自分の表情を思い出せなかった。
 もしかすると、僕は自殺を匂わせる程の深刻な表情をしてしまっていただろうか。人相の悪さから、そういった誤解を招いてもおかしくはなかった。だが否定するには、あながち的外れでないのもまた紛れもない事実だった。
 僕は唇を噛みしめることしかできず、果穂は、沈黙を肯定と捉えたようだった。
 「本当に吐き気がします」
 人懐っこい笑顔は一切崩れていないのに、吐き捨てるようなその声はぞっとするほど冷たくて、僕に対する敵意を隠そうともしていなかった。果穂の言葉は畳みかけるように続いた。
 「それは本当に死ななければ解決できないような問題ですか? 他に道はありませんか? 考えることすら放棄していませんか?」
 何かの間違いだと思った。いや、そうであって欲しかった。だが僕のそんな願いのこもった視線に対しても、果穂は微塵も反応を示さなくて。それがまた、彼女の歪さを物語っていた。
 「どうして僕にそんなことを聞くんだ」
 「どうして? どうしてなんでしょうね。私でも不思議なんです。自ら死を選ぼうとしている人に対しての嫌悪感でしょうか。はたまた、ただの同族嫌悪か。どちらにしろ、あまりいい感情でないのは確かです」
 果穂の言っている内容は、さっぱり理解できなかった。けれど、同族嫌悪という言葉が胸に引っ掛かった。
 「まるで自分も死にたいと思っているような言い方だ」
 冗談混じりに言ったのだが、僕の意図に反し、果穂の表情が一瞬曇った。
 「毎日思いますよ」
 否定してほしかったのに、その期待はあっさりと裏切られた。人を見る目に自信があった訳ではないが、そんな僕でも果穂はそう言った悩みとは無縁の人種に思えたから、本当に困惑した。
 人生に何の悩みも無さげな、人を惹きつける輝くような笑顔。果穂の周りには沢山の人だかりができるだろう、とそんな想像が容易につく彼女ですら、まるでそれが当たり前のような顔で死にたいと口にすることが、どうにも信じられなくて現実味がなかった。
 現実味がない。現実味がないはずなのに……それがどこか嘘ではないと直感させる不思議な貫禄が果穂にはあって、信じてしまっている自分がいることにも驚いた。
 「僕は……」死にたいなんて思ってない、と言いかけて、すんでのところで言葉を飲み込んだ。
 果穂の奈落のような瞳が僕を見つめていた。その瞳には言葉にできない圧と闇があった。思惑を裏切った時、彼女は一体どんな反応を示すのか、予想もつかなかった。僕は、結局何も言えず、代わりに深く息を吐き出した。
 「私の場合はそんなことしなくたって勝手に死ねるんですけどね」そんな配慮なんて気にも留めず、果穂はけろっとした口調で物騒なことを口にした。
 その言葉に、僕は背筋が凍る思いがした。彼女の言葉の意味を完全には理解できなかったが、それが単なる冗談ではないことだけは分かった。
 この年で死を現実的に考える高校生はそういない。もしかして果穂は何か深刻な病気を抱えているのだろうか?
 果穂の表情は、あえて理由を言わずどうしてか僕に尋ねて欲しい、と促しているようだった。
 「……どういう意味だよ」後の答えが何となく分かっていながらも、そう口にした。
 果穂は、退屈そうに空を見上げた。
 「私、余命宣告を受けているんです」果穂はまるで他人事のように自然に、ありえないほど重いカミングアウトをした。
 一瞬思考が止まる。まるで体が考えるのを拒否しているみたいだった。
 果穂は、その後も、何か小難しい医学用語を喋っていた。その全てを理解できているとは到底言えなかったが、果穂が進行性の神経疾患を患っていることだけが分かった。
 「ALS、パーキンソン病、多発性硬化症その他多数。ともかく、これらを含め進行性の神経疾患は、薬物療法での症状の緩和が主であり、完治が可能なものは現在の医学では()()()()()ということです」
 その声は静かだったが、言葉の重みは僕の胸に重くのしかかった。本当に? なんて野暮な質問はしなかった。
 「徐々に体が動かなくなっていって……最後は呼吸もできなくなる。その恐怖が分かりますか? きっと分からないでしょうね。そうなる前に死んでしまいたいと願うのは、突拍子もないことなのでしょうか」
 医学の発展した現代でも、こんな少女に余命宣告をせざるを得ないような病気があるなんて、この世界に神と呼べるものが本当にいるのであれば、それはきっと血も涙もない非情な人物なのだろう。
 もし自分だったら、よく知りもしない人間に、笑顔で余命宣告を打ち明けられるだろうか。無理だ、とすぐに想像できるのに、それを平然とできる果穂に驚愕する。なぜ、果穂はそんなことを僕に打ち明けたのだろうか。
 「どうしてそんなことを自分に、って思いました?」咄嗟に口元を押さえた僕に、果穂はどこか寂しそうに笑った。
 「もちろん、こんなことを話したのには理由があります。最初に言っておきますが、ここまで話した以上拒否権はないものと思ってください。だって私たちは()()ですよね?」
 僕に断る暇も与えぬうちに早口で告げた。果穂が昨日、心を開いたように振る舞ってきた理由は僕を同類だと思ったからだと気付いて、どうしようもなくやるせない気持ちになった。
 「……僕に何を求めてる?」こうまでして僕に何を求めるのか見当もつかなかった。
 果穂は笑顔を浮かべながらも、一瞬だけ目を伏せた。
 「ただ、私の未練を晴らす手伝いをして欲しいだけです」
 未練とは、死ぬ前にやりたいことなどを指すあれのことだろうか。「未練……?」と繰り返してしまった僕の言葉に、果穂はこくりと頷いた。
 「そう、未練です。生きることへの未練や……逆に死ぬことへの未練だって。私たちにはそれぞれの未練があったから、今もまだ生にしがみついているんじゃないですか」
 果穂の言葉に僕は考え込んだ。生きることへの未練と、死ぬことへの未練。その二つの違いが、僕には分からなかった。
 どちらも最終的に行きつく先は同じ死ではないのか? だが果穂は、明確な違いがあるように話した。
 「私には死ぬ前にやりたいことがあるんです」
 「時間はないけれど、何もせず過ごすには時間がありすぎるんです」
 「私の感情を理解できる人はいませんでした」
 「未練が無くなるというのは、死の恐怖を乗り越えるのと同じだと思いませんか」
 一言一言を強調するような果穂の声が、頭の中でずっと反芻し続けていた。同じ気持ちを抱えている、なんて理解したふりをしているのが心苦しかった。
 「でも……僕らはまだほとんど知らない仲だ」
 彼女を刺激しないように、僕は慎重に言葉を選んだ。
 「少なくとも私の病気を知っている人はこの学校にはいません」果穂にいつもの柔らかい微笑みはなかった。「どうせ死ぬのなら私の役に立って死んでください」
 これは脅迫なのか、それとも人助けなのか。全てが唐突で、僕はこの状況を正しく認識できていなかった。
 この感情は、恐れ? 同情? それとも罪悪感だろうか。複雑な感情が渦巻いて、自分でも何を感じているのか分からなくなった。
 これまで自分の殻に閉じこもり、他人との関わりを避けてきた僕には、果穂の要求は重荷以外の何物でもなかった。
 「そういうのはきっと……」僕じゃない方がいい。後半は言葉にならなかった。

 だが、僕は果穂の提案を受け入れることとなる。その決断に至るまでの数分間、僕の中では激しい葛藤が渦巻いていた。
 この非日常的な提案には、僕の退屈な日々を一変させる可能性があるという予感があった。
 まず、「他に頼れる人がいない」という果穂の言葉が胸に刺さった。人との関わりを避けてきた僕には、誰かに必要とされているという新鮮な感覚は、かつての喜びを思い出させた。
 しかし、他人の人生に深く関わることへの畏れもあった。自分には立ち入る資格がないのではないか、という自己否定。そして、死を選ぼうとしている人間の「未練」に付き合うことへの不安。明らかに僕では役不足極まりない配役だった。
 しかし、決断を後押しした最大の理由は意外なところにあった。
 責任の重さから断ろうとした瞬間、風になびく彼女の長い黒髪に目を奪われたのだ。まるで月明かりに照らされた絹のように、柔らかく艶やか。初めて会った時のように息が詰まる程綺麗な光景で、僕の言葉を奪う。こんな状況なのに、美しい、とさえ思った。
 その風景に、またしてもあの光景が頭に流れ込んできた。左右も分からぬ濃霧の中にいるようにあやふやな感覚で誰かがそこにいる感覚だけが分かる。
 けれど今日は何かが違った。いつもなら霧のように曖昧だった光景が、少しずつ輪郭を帯びていく。まるで古い写真が現像されていくかのように、徐々に鮮明になっていった。
 晴れてきた視界に映ったのは病的なまでに白い病室に、その中で一人佇む人影。やはり顔は霞んで見えなかったが、鼻を刺す消毒液の匂いや静かに響く心電図の音までもが蘇ってきた。
 そしてようやく気付いた。いや、僕だからこそ分かった。これは()()()()()()なのだと。
 そう思うとあの人影は、もう会うことはできない、ただ一人の妹。月乃だと自然に受け入れることができた。今まで僕を苦しめてきたこの光景にようやく、意味が芽生えた。けれど、それ以上はどうしても思い出せない。これが一体いつなのか、どうして月乃の顔に霧がかかっているのか、記憶の糸を手繰り寄せようとすればするほど、遠ざかっていく。これが何を意味するのか、なぜ今まで忘れていたのか。答えを求めて思考を巡らせるうちに、再び記憶は霧の中に溶けていった。
 だが、ここまで鮮明に思い出せたのは初めてだった。果穂という存在が、僕の中で何かを変えようとしている。それは恐ろしくもあり、同時に僕を惹きつけてやまなかった。
 
 結局のところ、僕には果穂を悪だと決めつける理由も、彼女を完全に拒絶する勇気もなかった。そして、彼女との関わりが僕自身の過去と向き合うきっかけになるかもしれないという期待が、最後の一押しとなった。
 「分かった」
 自分でも予想外の返事に、動揺すると同時に、何か大きな一歩を踏み出したような不思議な高揚感を感じた。
 これから先、僕に待っているのは救いなのか、それとも破滅なのか。ただ一つ確かだとするならば、もう後戻りはできない、それだけだった。
 下校のチャイムが鳴り、僕らは現実に引き戻された。いつの間にか、太陽も地平線に消えている。
 「明日もここに来てくださいね」
 そう言って背を向けた果穂を見送ることしかできなかった。
 「また明日」声が届かなくなった頃、ぽつりと呟いた。
 自分でも何を言っているのか分からなかったが、とにかく何か言わないといけないと出た言葉だった。
 意味なんてない。全ての発言に意味を求めるなんて間違っている。それでも、自殺志願者でないという真実を言えない僕は本当にずるかった。