美術館を出た俺たちは、少し遅めの昼食を摂るために道端で目についたカフェに入った。店内は白を基調とした落ち着いた雰囲気で、ゆったりとしたBGMが流れており居心地が良い。案内された窓際の席からは、人々や車の流れがよく見えた。
「雪也くんなに頼む? 私、このボロネーゼにしようかなって思ってるんだけど」
メニュー表を捲りながら、向かいに座る若葉が尋ねてきた。俺は少し悩んだ後、俺は特に食べたいものはなかったし、最近は夏バテのせいか少し食べただけで満腹感を覚えるようになっていたので、見た目も涼しい夏の水玉ゼリーセットという軽いメニューにしようと決めた。
「なんか最近あんま食えなくてさ」
「そうなんだ? まぁ、今年すっごく暑いもんねぇ。夏バテかな?」
「多分そうだと思う」
俺は適当な相槌を打ちながら、メニュー表を閉じた。すると、タイミングを見計らったように店員がやってきて、オーダーを取り始める。しばらくして料理が運ばれてくると、二人で手を合わせながら食事を始めた。
「ん~美味しい!」
注文したボロネーゼを口に運んだ瞬間、若葉は幸せそうに顔を綻ばせた。その様子を見て、俺も自然と笑みが浮かぶ。彼女の笑顔を見るたびに心が温かくなるような気がした。
(……なんかいいな)
彼女のその笑顔を見ていると、不思議と心が安らいでいく。自然と会話が弾むのも、居心地が良い理由の一つかもしれない。それは決して不快なものではなくて、むしろもっと話していたいと思うような、そんな感覚だった。
「そういや……お前、どんな絵を描いてるんだ?」
透明感のある淡い色で作られた三層から成る色合いのソーダゼリーに口をつけながら、俺はぽつりと問いかけた。それは本当にただの気まぐれだった。ただなんとなく、彼女がどんな作風の絵を生み出すのか、気になっただけ。
「え、私の絵?」
一瞬驚いた表情を見せた後、若葉は照れくさそうに笑った。そして少し考えるような仕草をした後、口を開く。
「えっとね……風景画が多いかな? あとは静物画とか」
「へぇ……」
彼女の答えに俺は小さく相槌を打った。すると、若葉は荷物置きに置いていたショルダーバックからスマホを取り出し、なにか操作を始める。
「こんなのとか……」
しばらくして目の前に差し出された画面には、窓辺に飾られたチューリップの絵が映し出されていた。その色合いや質感は、先ほど見た有名画家の作品と比べればいかにも素人が描いたような拙さは感じるものの、画面越しでも伝わる生々しい生命力のようなものが伝わってくるようだった。我とはなしに感嘆の息を漏らすと、若葉は少し恥ずかしそうに笑った。
「えへへ……まだまだ下手だけど」
「いや……すげぇよ」
お世辞ではなく本心から出た言葉だった。俺が素直に褒めると、若葉は頬を染め照れたように笑った。
「ありがと……中学の頃は、こんな感じの絵を描いてたんだ~」
彼女はそのまま、画面をスクロールしていく。机に置かれた林檎と丸い缶詰を鉛筆画で繊細に表現した一枚や、緑豊かな山の中腹に咲き誇る淡いピンク色の桜を水彩絵の具で描いた風景画、学校の教室を窓から覗き見したような一枚など、様々なジャンルの絵画が並んでいた。どれも丁寧に描かれており、緻密で美しくて、それでいてどこか力強さを感じる。それは彼女が今までに積み重ねてきた努力の結晶なのだということが伝わってくるようだった。
「すげぇな……めちゃくちゃ上手いじゃん」
俺は素直に言葉を漏らすと、若葉は嬉しそうに目を細めた。その表情はとても無邪気で可愛らしいものだったが、次の瞬間には悲し気に眉を下げていった。
「でも今は全然描けなくなっちゃってて……今までは目の前に筆を持っていけば自然と手が動いてたんだけど……今は全くダメで」
そう言って彼女はスマホを鞄の中にしまい込んだ。そして代わりに水の入ったコップを手に取り口に運ぶと、小さく息をつく。その表情にはどこか寂しさのようなものが滲んでいる気がした。そんな彼女の様子を見ていると、なんだかこちらまで切ない気持ちになってしまう。
「私ね、多分すごく焦ってるんだと思う。私、両親と……血が繋がってなくて」
「え?」
突然の告白に俺は面を食らい、意図せず割と大きな声で聞き返してしまった。それに気が付き、俺は反射的に周囲を見回してしまう。若葉はそんな俺の反応を見て苦笑すると、再び口を開いた。
「えっとね、私、養子なの」
「……そう、なのか」
彼女の言葉に対してどんな言葉を返すべきなのかわからず、俺はただ相槌を打つことしかできなかった。俺自身、施設育ちであるし、親がどんな人物なのかも分からない。施設で同じ境遇の子どもたちと一緒に遊んだり、世話をしたり、そういう時間を過ごすことで孤独な感情を埋めてきた部分はある。だからこそ、家族であるはずの両親と血が繋がっていないと知っている若葉の気持ちは、察することはできても、完全に理解することはできない。
カトラリーをテーブルに置いた彼女はしばらく視線を彷徨わせていたが、やがて意を決したように口を開くと、ゆっくりと話し始めた。
「私ね……小さい頃から絵を描くことが好きでさ。ず~~っとお絵描きしていたんだって」
少し間を置いた後、若葉はぽつりぽつりと話し始めた。その声に耳を傾けながら、俺は静かに彼女の言葉を待つ。
「でも、……三歳になる前に、両親に捨てられたんだ。そのとき、すごくショックだったんだよね……なんで? どうして? って」
彼女は寂しげに微笑みながら続ける。くるりとカールした長いまつ毛が、ふるりと震えた。
「まだ小さかったはずなのに、あの日のことはすごく覚えてる。私の最初の記憶。けやき通りの中にあったアパートを母に連れられて出て、近くにあった乳児院の前に立たされてた。すぐ……迎えにくるからって……」
若葉はテーブルの上に視線を落として小さく息を吐き出した。その声音に微かな震えを感じて、俺はそっと目を伏せる。
「乳児院の先生たちに保護されて、しばらくして児童養護施設に移って……小学校に上がる前、かな。今のお父さんとお母さんに引き取ってもらったの。絵が上手って、ず~~っと褒めてくれて」
そこで言葉を区切ると、彼女はどこか遠くを見るような目つきで窓の外を眺めた。その横顔は穏やかで、懐かしむような表情を浮かべている。俺は黙って話の続きを待った。
「それから、たくさん絵を描いて……小学校の時、いくつか賞ももらって、お父さんもお母さんも、すごく喜んでくれた。高校受験の時に画家になりたいって言ったら、お父さんもお母さんも真剣に調べてくれて……予備校だけじゃなくて有名な先生がやってる画塾にも通わせてもらってるの。だから、描けなくなったことが……すごく怖いっていうか。あ~、私、焦ってるんだろうな、って」
そう言って彼女は寂しそうに笑った。その表情にはどこか諦めのようなものが含まれているような気がした。
彼女の言葉の端々から、若葉が今の両親をとても大切に思っていることが、強く伝わってくる。だからこそ『絵が描ける、絵が上手な若葉』でなければいけない、という強迫観念のようななにかが、彼女の中に巣食っているのかもしれない。
「もし、この先もずっと……絵が描けなかったら……私、どうなっちゃうんだろうって」
震える声で言葉を絞り出した彼女の瞳は不安げに揺れていた。その表情が痛々しくて見ていられず、俺はスプーンを手に取り、かける言葉を模索しながら口を開く。
「焦る必要なんてないだろ。絵が描けなくてもお前はお前だろ?」
そんな俺の答えに、彼女は驚いたように目を丸くした。
「俺、絵のこととか全然わかんねーけど、お前の絵はなんかすげぇってことだけはわかる」
先ほど見た若葉の絵は、儚いようでいて力強く、情感豊かな筆致で描かれていて、見る者の心を強く揺さぶるなにかがある。それはきっと彼女の内面が表れたものなのだろう。
若葉は俺の言葉に少し驚いたような表情を浮かべた後、嬉しそうに目を細めた。その口元は僅かに緩んでいるように見える。
「なんか……雪也くんからそう言ってもらえると嬉しいな」
照れたように笑いながら、彼女は自分の頬に手を当てた。その表情はどこか安堵しているようにも見え、声色も先ほどよりも明るい調子に戻っているようだった。
「絵が描けなくても私は私、か……うん! そうだよね!」
若葉は大きく頷くと、少し吹っ切れたような笑顔を見せた。彼女の不安が完全に消えたわけではないだろうが、それでも、少しでも前向きになれるきっかけとなったのであれば素直に嬉しいと思う。
「お前は、笑ってる顔の方が似合ってるよ」
俺のその言葉に、彼女は一瞬驚いたように目を見開いた。けれどすぐにその瞳は柔らかく細められ、嬉しそうに口元が綻ぶ。
どうやら今日一日で随分と彼女のことを身近に感じるようになったようだ。今日だけで知らなかった彼女の表情がたくさん見れた気がする。
「ふふ……そう?」
若葉は照れ臭そうに笑いながら、水の入ったコップを手に取り口をつけた。その動作を何気なく見つめていると、ふいに視線が交わる。そのまま二人とも押し黙ったまま、わずかばかり無言の時間が訪れる。少し気まずいような静寂を破ったのは、彼女の方だった。
「ね……雪也くんって、誕生日いつなの?」
彼女はコップを机の上に置くと、興味津々といった様子で身を乗り出してきた。その勢いに気圧されながらも、俺は素直に答える。
「二月十日。早生まれ。雪が降る日に生まれたから、名前に『雪』が入ってるらしい」
「えっ……」
俺の返答に若葉は驚きで言葉を失ったようだった。予想外の反応に俺は首を傾げる。なにか変なことでも言ってしまっただろうか。不安になりながら彼女の顔色を伺うと、彼女はハッとしたように首を横に振ってから口を開いた。
「私も……二月十日生まれ、なんだ」
「え……マジで?」
三百六十六の一の確率に、今度は俺が言葉を失う番だった。同じ誕生日の人間を間近で見るのは初めてだった。思わぬ偶然に驚きながらも、どこか嬉しさを感じる自分がいた。それは彼女も同じなのか、どこか照れくさそうに笑っている。
「しんしんと降り積もる雪に負けない子に育って欲しい、っていうのが私の名前の由来なんだって。ちなみに雪也くん、血液型は?」
「A型」
「私もA型!」
そこまで確認し合うと、なんだかおかしくなってしまい二人して笑った。血液型まで同じであることに心が躍る自分がいる。
「苗字も一緒だし、すごいねぇ」
「……だなぁ」
誕生日に血液型、そして苗字が一緒なのもただの偶然だろう。けれどその偶然は俺たちを今まで以上に近付けてくれたような気がして嬉しかった。
「この話、今度施設の先生たちに話してもいい?」
「ん?」
突然の提案に、俺は首を傾げた。俺の反応を見て若葉は慌てたように両手を振る。
「あ……えっとね、私、預けられてた施設でボランティアみたいなことしてるんだ。入所してる子たちの遊び相手になってあげる程度だけどね」
彼女が世話になった施設に恩返しをしていることを聞き、俺はますます若葉の心の優しさを感じ、さらなる好感を抱いた。聞けば、その施設は彼女の生家の近く――東京と神奈川の間にあるらしく、年に一度か二度足を運ぶ程度らしい。自分がしてもらったことを、他の誰かにもしてあげたい。そんな思いを抱くことはあっても、実際に行動に移せる人間は少ないのではないだろうか。
俺としては、特に止める理由はない。彼女がボランティア活動に勤しむことは自由だし、乳児院との繋がりも彼女だけのものだ。俺が口出しする権利はない。
「まぁ、好きにすれば……」
「うん! ありがと」
若葉は嬉しそうに笑うと、カトラリーに手を伸ばしふたたびボロネーゼを口に運び始めた。彼女の表情を見つめていると、ふと心の中にぼんやりとした疑問が浮かんでくる。
(そういや……俺の生まれって、どんな感じだったんだろうな)
物心ついたときには今の施設で過ごしていた。両親の顔も知らない。捨てられたことだけは知っているが、その理由を俺は知らない。今まで自分がどういった経緯で施設に預けられたのか、深い部分までは聞く勇気がなかったのだ。けれど若葉と話しているうちに、そのことが段々と気になってきてしまう。自分の知らない事実を知ることは怖いと思う反面、好奇心のようなものも抱いてしまうのだ。
(今度……相良先生に聞いてみるか)
彼は施設に勤める職員の中でも古株で、俺のことを幼少期から知っている数少ない人物の一人だ。高校進学を勧めてくれたのも彼だったし、なにかと気にかけてくれる先生だった。彼なら、少し踏み込んだ過去のことも話してくれるのではないだろうか。
そんなことを考えながら、俺はゼリーを一口含んだ。炭酸のしゅわっとした食感が舌の上を転がっていき、俺の心情を代弁しているかのように爽やかな後味を残していった。
「雪也くんなに頼む? 私、このボロネーゼにしようかなって思ってるんだけど」
メニュー表を捲りながら、向かいに座る若葉が尋ねてきた。俺は少し悩んだ後、俺は特に食べたいものはなかったし、最近は夏バテのせいか少し食べただけで満腹感を覚えるようになっていたので、見た目も涼しい夏の水玉ゼリーセットという軽いメニューにしようと決めた。
「なんか最近あんま食えなくてさ」
「そうなんだ? まぁ、今年すっごく暑いもんねぇ。夏バテかな?」
「多分そうだと思う」
俺は適当な相槌を打ちながら、メニュー表を閉じた。すると、タイミングを見計らったように店員がやってきて、オーダーを取り始める。しばらくして料理が運ばれてくると、二人で手を合わせながら食事を始めた。
「ん~美味しい!」
注文したボロネーゼを口に運んだ瞬間、若葉は幸せそうに顔を綻ばせた。その様子を見て、俺も自然と笑みが浮かぶ。彼女の笑顔を見るたびに心が温かくなるような気がした。
(……なんかいいな)
彼女のその笑顔を見ていると、不思議と心が安らいでいく。自然と会話が弾むのも、居心地が良い理由の一つかもしれない。それは決して不快なものではなくて、むしろもっと話していたいと思うような、そんな感覚だった。
「そういや……お前、どんな絵を描いてるんだ?」
透明感のある淡い色で作られた三層から成る色合いのソーダゼリーに口をつけながら、俺はぽつりと問いかけた。それは本当にただの気まぐれだった。ただなんとなく、彼女がどんな作風の絵を生み出すのか、気になっただけ。
「え、私の絵?」
一瞬驚いた表情を見せた後、若葉は照れくさそうに笑った。そして少し考えるような仕草をした後、口を開く。
「えっとね……風景画が多いかな? あとは静物画とか」
「へぇ……」
彼女の答えに俺は小さく相槌を打った。すると、若葉は荷物置きに置いていたショルダーバックからスマホを取り出し、なにか操作を始める。
「こんなのとか……」
しばらくして目の前に差し出された画面には、窓辺に飾られたチューリップの絵が映し出されていた。その色合いや質感は、先ほど見た有名画家の作品と比べればいかにも素人が描いたような拙さは感じるものの、画面越しでも伝わる生々しい生命力のようなものが伝わってくるようだった。我とはなしに感嘆の息を漏らすと、若葉は少し恥ずかしそうに笑った。
「えへへ……まだまだ下手だけど」
「いや……すげぇよ」
お世辞ではなく本心から出た言葉だった。俺が素直に褒めると、若葉は頬を染め照れたように笑った。
「ありがと……中学の頃は、こんな感じの絵を描いてたんだ~」
彼女はそのまま、画面をスクロールしていく。机に置かれた林檎と丸い缶詰を鉛筆画で繊細に表現した一枚や、緑豊かな山の中腹に咲き誇る淡いピンク色の桜を水彩絵の具で描いた風景画、学校の教室を窓から覗き見したような一枚など、様々なジャンルの絵画が並んでいた。どれも丁寧に描かれており、緻密で美しくて、それでいてどこか力強さを感じる。それは彼女が今までに積み重ねてきた努力の結晶なのだということが伝わってくるようだった。
「すげぇな……めちゃくちゃ上手いじゃん」
俺は素直に言葉を漏らすと、若葉は嬉しそうに目を細めた。その表情はとても無邪気で可愛らしいものだったが、次の瞬間には悲し気に眉を下げていった。
「でも今は全然描けなくなっちゃってて……今までは目の前に筆を持っていけば自然と手が動いてたんだけど……今は全くダメで」
そう言って彼女はスマホを鞄の中にしまい込んだ。そして代わりに水の入ったコップを手に取り口に運ぶと、小さく息をつく。その表情にはどこか寂しさのようなものが滲んでいる気がした。そんな彼女の様子を見ていると、なんだかこちらまで切ない気持ちになってしまう。
「私ね、多分すごく焦ってるんだと思う。私、両親と……血が繋がってなくて」
「え?」
突然の告白に俺は面を食らい、意図せず割と大きな声で聞き返してしまった。それに気が付き、俺は反射的に周囲を見回してしまう。若葉はそんな俺の反応を見て苦笑すると、再び口を開いた。
「えっとね、私、養子なの」
「……そう、なのか」
彼女の言葉に対してどんな言葉を返すべきなのかわからず、俺はただ相槌を打つことしかできなかった。俺自身、施設育ちであるし、親がどんな人物なのかも分からない。施設で同じ境遇の子どもたちと一緒に遊んだり、世話をしたり、そういう時間を過ごすことで孤独な感情を埋めてきた部分はある。だからこそ、家族であるはずの両親と血が繋がっていないと知っている若葉の気持ちは、察することはできても、完全に理解することはできない。
カトラリーをテーブルに置いた彼女はしばらく視線を彷徨わせていたが、やがて意を決したように口を開くと、ゆっくりと話し始めた。
「私ね……小さい頃から絵を描くことが好きでさ。ず~~っとお絵描きしていたんだって」
少し間を置いた後、若葉はぽつりぽつりと話し始めた。その声に耳を傾けながら、俺は静かに彼女の言葉を待つ。
「でも、……三歳になる前に、両親に捨てられたんだ。そのとき、すごくショックだったんだよね……なんで? どうして? って」
彼女は寂しげに微笑みながら続ける。くるりとカールした長いまつ毛が、ふるりと震えた。
「まだ小さかったはずなのに、あの日のことはすごく覚えてる。私の最初の記憶。けやき通りの中にあったアパートを母に連れられて出て、近くにあった乳児院の前に立たされてた。すぐ……迎えにくるからって……」
若葉はテーブルの上に視線を落として小さく息を吐き出した。その声音に微かな震えを感じて、俺はそっと目を伏せる。
「乳児院の先生たちに保護されて、しばらくして児童養護施設に移って……小学校に上がる前、かな。今のお父さんとお母さんに引き取ってもらったの。絵が上手って、ず~~っと褒めてくれて」
そこで言葉を区切ると、彼女はどこか遠くを見るような目つきで窓の外を眺めた。その横顔は穏やかで、懐かしむような表情を浮かべている。俺は黙って話の続きを待った。
「それから、たくさん絵を描いて……小学校の時、いくつか賞ももらって、お父さんもお母さんも、すごく喜んでくれた。高校受験の時に画家になりたいって言ったら、お父さんもお母さんも真剣に調べてくれて……予備校だけじゃなくて有名な先生がやってる画塾にも通わせてもらってるの。だから、描けなくなったことが……すごく怖いっていうか。あ~、私、焦ってるんだろうな、って」
そう言って彼女は寂しそうに笑った。その表情にはどこか諦めのようなものが含まれているような気がした。
彼女の言葉の端々から、若葉が今の両親をとても大切に思っていることが、強く伝わってくる。だからこそ『絵が描ける、絵が上手な若葉』でなければいけない、という強迫観念のようななにかが、彼女の中に巣食っているのかもしれない。
「もし、この先もずっと……絵が描けなかったら……私、どうなっちゃうんだろうって」
震える声で言葉を絞り出した彼女の瞳は不安げに揺れていた。その表情が痛々しくて見ていられず、俺はスプーンを手に取り、かける言葉を模索しながら口を開く。
「焦る必要なんてないだろ。絵が描けなくてもお前はお前だろ?」
そんな俺の答えに、彼女は驚いたように目を丸くした。
「俺、絵のこととか全然わかんねーけど、お前の絵はなんかすげぇってことだけはわかる」
先ほど見た若葉の絵は、儚いようでいて力強く、情感豊かな筆致で描かれていて、見る者の心を強く揺さぶるなにかがある。それはきっと彼女の内面が表れたものなのだろう。
若葉は俺の言葉に少し驚いたような表情を浮かべた後、嬉しそうに目を細めた。その口元は僅かに緩んでいるように見える。
「なんか……雪也くんからそう言ってもらえると嬉しいな」
照れたように笑いながら、彼女は自分の頬に手を当てた。その表情はどこか安堵しているようにも見え、声色も先ほどよりも明るい調子に戻っているようだった。
「絵が描けなくても私は私、か……うん! そうだよね!」
若葉は大きく頷くと、少し吹っ切れたような笑顔を見せた。彼女の不安が完全に消えたわけではないだろうが、それでも、少しでも前向きになれるきっかけとなったのであれば素直に嬉しいと思う。
「お前は、笑ってる顔の方が似合ってるよ」
俺のその言葉に、彼女は一瞬驚いたように目を見開いた。けれどすぐにその瞳は柔らかく細められ、嬉しそうに口元が綻ぶ。
どうやら今日一日で随分と彼女のことを身近に感じるようになったようだ。今日だけで知らなかった彼女の表情がたくさん見れた気がする。
「ふふ……そう?」
若葉は照れ臭そうに笑いながら、水の入ったコップを手に取り口をつけた。その動作を何気なく見つめていると、ふいに視線が交わる。そのまま二人とも押し黙ったまま、わずかばかり無言の時間が訪れる。少し気まずいような静寂を破ったのは、彼女の方だった。
「ね……雪也くんって、誕生日いつなの?」
彼女はコップを机の上に置くと、興味津々といった様子で身を乗り出してきた。その勢いに気圧されながらも、俺は素直に答える。
「二月十日。早生まれ。雪が降る日に生まれたから、名前に『雪』が入ってるらしい」
「えっ……」
俺の返答に若葉は驚きで言葉を失ったようだった。予想外の反応に俺は首を傾げる。なにか変なことでも言ってしまっただろうか。不安になりながら彼女の顔色を伺うと、彼女はハッとしたように首を横に振ってから口を開いた。
「私も……二月十日生まれ、なんだ」
「え……マジで?」
三百六十六の一の確率に、今度は俺が言葉を失う番だった。同じ誕生日の人間を間近で見るのは初めてだった。思わぬ偶然に驚きながらも、どこか嬉しさを感じる自分がいた。それは彼女も同じなのか、どこか照れくさそうに笑っている。
「しんしんと降り積もる雪に負けない子に育って欲しい、っていうのが私の名前の由来なんだって。ちなみに雪也くん、血液型は?」
「A型」
「私もA型!」
そこまで確認し合うと、なんだかおかしくなってしまい二人して笑った。血液型まで同じであることに心が躍る自分がいる。
「苗字も一緒だし、すごいねぇ」
「……だなぁ」
誕生日に血液型、そして苗字が一緒なのもただの偶然だろう。けれどその偶然は俺たちを今まで以上に近付けてくれたような気がして嬉しかった。
「この話、今度施設の先生たちに話してもいい?」
「ん?」
突然の提案に、俺は首を傾げた。俺の反応を見て若葉は慌てたように両手を振る。
「あ……えっとね、私、預けられてた施設でボランティアみたいなことしてるんだ。入所してる子たちの遊び相手になってあげる程度だけどね」
彼女が世話になった施設に恩返しをしていることを聞き、俺はますます若葉の心の優しさを感じ、さらなる好感を抱いた。聞けば、その施設は彼女の生家の近く――東京と神奈川の間にあるらしく、年に一度か二度足を運ぶ程度らしい。自分がしてもらったことを、他の誰かにもしてあげたい。そんな思いを抱くことはあっても、実際に行動に移せる人間は少ないのではないだろうか。
俺としては、特に止める理由はない。彼女がボランティア活動に勤しむことは自由だし、乳児院との繋がりも彼女だけのものだ。俺が口出しする権利はない。
「まぁ、好きにすれば……」
「うん! ありがと」
若葉は嬉しそうに笑うと、カトラリーに手を伸ばしふたたびボロネーゼを口に運び始めた。彼女の表情を見つめていると、ふと心の中にぼんやりとした疑問が浮かんでくる。
(そういや……俺の生まれって、どんな感じだったんだろうな)
物心ついたときには今の施設で過ごしていた。両親の顔も知らない。捨てられたことだけは知っているが、その理由を俺は知らない。今まで自分がどういった経緯で施設に預けられたのか、深い部分までは聞く勇気がなかったのだ。けれど若葉と話しているうちに、そのことが段々と気になってきてしまう。自分の知らない事実を知ることは怖いと思う反面、好奇心のようなものも抱いてしまうのだ。
(今度……相良先生に聞いてみるか)
彼は施設に勤める職員の中でも古株で、俺のことを幼少期から知っている数少ない人物の一人だ。高校進学を勧めてくれたのも彼だったし、なにかと気にかけてくれる先生だった。彼なら、少し踏み込んだ過去のことも話してくれるのではないだろうか。
そんなことを考えながら、俺はゼリーを一口含んだ。炭酸のしゅわっとした食感が舌の上を転がっていき、俺の心情を代弁しているかのように爽やかな後味を残していった。