茹るような暑さに、額に浮いた汗がこめかみを滑り落ちていく。俺は刺すような日差しから逃れるように手のひらを頭上にかざし、太陽の光から顔を隠す。
「あちぃ……」
知らず知らずのうちに独り言が漏れてしまうほど、今日は気温が高い。特に今日は朝から日差しが強く、照り返しが眩しい。時折吹いてくる風も生ぬるいばかりで心地良いとは言えない。
(こんな日に体育の授業がなくてよかった。熱中症で倒れる奴もいるだろうしなぁ)
明日から夏休みに入るため、今日の授業は半日だけだ。明日からそれぞれの進路に関する三者面談が始まる。俺の三者面談には、中学の時と同じように施設長が出てくれるらしい。
施設長たち職員にとって、俺はあくまでも「預かっている子ども」に過ぎない。けれど、俺の進路について真剣に考えてくれ、高校に進学する時も俺の希望を尊重したいと何度も話し合いを重ねた。たくさんの愛情をもって接してくれていることも理解しているつもりだ。
家族のように接してくれるその気持ちが嬉しく、だからこそ、夢や目標という明確ななにかを見つけられないまま生きてきた自分自身が、時々無性に腹立たしくなる。
「なぁ、今年の夏はどうすんの?」
「バイトしてぇなぁ」
「お前全統Cだったんだからバイトとか言ってる場合じゃねぇだろ~」
「わかってるんだけどさぁ~」
道すがら、後ろを歩く生徒たちの笑い声が耳に入ってくる。この学校では進学組と就職組が半々くらいの割合なので、夏休みは受験を控える生徒にとって重要な期間になるが、それでも高校生最後の長期休暇に心躍らせる気持ちはよく分かる。夏休み特有の浮ついた空気を感じつつ、俺はぼうっと校門を目指して一人で歩いていく。
「あ、雪也くん!」
不意に後ろから名前を呼ばれた。思わず足を止めその場で振り返ると、そこには若葉の姿があった。彼女は俺を見つけるなり嬉しそうに笑って駆け寄ってくる。その笑顔はまるで飼い主を見つけた子犬のようで、尻尾があれば大きく揺れているところだろうとぼんやり思ったが、同時に周囲の視線を集めている気がしていたたまれない気持ちになる。
一緒に参考書を選びに行った翌日から、若葉は教室内でも俺によく話しかけてくるようになった。とはいえ、帰宅部の俺と美術部に属している若葉ではそもそも自由な時間が合わないため機会はそれほど多くなかった。
若葉が友人たちとしていたドラマやテレビ、SNSでの話題など、他愛もない会話に適当に相槌を打つといった程度だが、それでも以前よりも会話の数は増えている。
彼女と接するうちにじわじわと込み上げてくる感情の正体に、俺は気付き始めていた。それは言葉にするには難しいもので、とても曖昧で不確かなものだったが、それでも間違いなくその感情は俺の中で芽吹いていた。
けれど、俺はその気持ちにあえて名前を付けることはしなかった。いや、出来なかったと言った方が正しいかもしれない。この気持ちを言葉にして彼女に伝えてしまうと、今の関係が壊れてしまうような気がして、その瞬間を想像するとひどく恐ろしかった。
だから、俺は彼女の話に耳を傾けるだけ。ただ一緒にいるだけ。それだけで十分幸せなのだ。
「おはよ!」
「……おはよう」
登校時に彼女と遭遇することは今までなかった。そのうえ、後ろから追いかけて走ってくるとは思いもしなかったので、俺は少し動揺してしまった。
「あのね! 私、昨日返ってきた定期テスト、世界史の点数ちょっと良くなったんだよ」
少し嬉しそうにそう言った若葉は、相変わらず眩しい笑顔を俺に向けてくる。俺はなんとなく気まずくて目を逸らしてしまったが、それでも彼女は構わず話しかけてくる。
「雪也くんのお陰だよ。世界史で良い点数取れたのって初めてだったから、本当に嬉しい! あの時はありがとう」
屈託のない笑顔のまま、若葉は俺を見上げてくる。俺は息を呑んで言葉を詰まらせた。彼女の言葉が本心であることは疑いようがないし、感謝されることは素直に嬉しいが、それでもそれ以上にどぎまぎした感情の方が勝っていた。
「別に……お前が頑張った結果がついてきただけのことだろ」
ぶっきらぼうな物言いになってしまったことに少しだけ罪悪感を覚えたが、春先から向けているこんなつっけんどんな態度を今更変えることもできないでいるので、俺はそのまま若葉から視線を逸らした。
「雪也くんって照れ屋さんだよね。私、そういうところ好きだなぁ」
「!」
そんな俺の心情など知る由もなく、彼女は無邪気に笑う。心臓がどきりと跳ね上がった。
若葉の言動は、まるで俺のことが好きと言っているようにしか思えず、勘違いしてしまいそうになる。だが、それは俺の自意識過剰だ。きっと彼女の言う『好き』とは、友人としての好意を表現しているだけなのだろう。そうに違いない。
「……アホか、お前」
「ええ?」
若葉はきょとんとした顔で首を傾げた。本当に分かっていないのか、それとも分かっていてとぼけているのかは分からないが、どちらにせよタチが悪い。
とはいえ、若葉が他の奴にも同じようなことを言っているところを想像すると、少しだけ心にさざ波が生まれるような気がした。それがなんなのかはよく分からないものの、あまり良い気分ではないことだけは確かだ。
(からかうなっての……)
そう心の中でぼやきながらも、全身が熱を帯びていくような気がしてならない。それを誤魔化そうと空を見上げたが、俺の心境とは正反対の雲一つない青空が広がっているだけだった。
「でもでもっ、絶対雪也くんのおかげだってば! 雪也くん、この前の定期テスト学年十五位だったよね?」
「な、……なんで知ってんだよ」
まさか彼女が自分の成績を知っているとは思わなかったので、つい上擦った声を上げてしまう。
図書室で勉強していることを若葉に見られていたと知って以降、自分でもなぜか理由はわからないけれど、俺は今まで以上に勉強をするようになっていた。その甲斐もあって、今回の定期テストでは苦手な科目でも良い点を取ることができ、結果学年総合でも上位に滑り込めたのだが、まさか彼女がそれを知っているとは思わなかったのだ。
「だって掲示板見たもん」
そう口にした若葉はきょとんとした表情で俺を見上げながら小さく小首を傾げる。答え合わせができ、俺はなんとなしに息を吐いた。
「……あぁ。掲示板……」
「うん。進学科目取ってないのにその順位はすごすぎるよ。そんな雪也くんが参考書をおすすめしてくれたから、私も成績が上がったんだし……やっぱり雪也くんのおかげだよ」
若葉はそう言いながら、少し照れくさそうに笑う。彼女の言葉の一つ一つが妙にくすぐったくて、俺は堪りかねて頬を掻いた。
「まあ……それならよかったけど」
「それに、あんな風に、誰かと一緒に学校帰りに寄り道するの、久しぶりだったから……すっごく楽しかったし」
若葉はそう口にしながら嬉しそうに目を細める。その表情に、俺はまた鬱積した感情が込み上げてくる錯覚を抱いてしまう。
(なんだよそれ……反則だろ)
そんなことを言われたらどう反応していいかわからない。俺は内心動揺していたものの、それを悟られないようなんとか平静を装った。
「まあ、俺も久しぶりに羽を伸ばせたしな」
「ほんと? ならよかった!」
俺の答えに満足したのか、若葉は満面の笑みを浮かべながら大きくうなずく。ころころと表情が変わる彼女に、俺は小さく息を漏らす。
(ったく、なんなんだよこいつ……)
そんな悪態を心の中でぼやきながらも、俺は無意識のうちに笑みを浮かべていた。彼女の言動一つで一喜一憂してしまう自分がいることに気づくと、少し悔しくなると同時に気恥ずかしさを覚えてしまう。
「それでなんだけど……また雪也くんにちょっとお願いというか」
「ん?」
「夏休み、一緒にどこかに行かない?」
唐突に放たれた若葉の言葉に、俺は一瞬耳を疑った。まさかそんな提案をされるとは思いもしなかったので、ぽかんと口が空いてしまう。
(これって……デート、ってことだよな?)
頭の中を様々な思考が駆け巡り、うまく言葉が出てこない。聞き間違いではないかと思ったが、彼女の真っ直ぐな瞳と視線が絡まる。どうやら俺の願望が聞かせた幻聴ではないようだ。
「あっ、えっと! いきなり変なこと言ってごめん! その……」
俺が答えあぐねていると、若葉は慌てた様子で両手を顔の前でぶんぶんと振った。
「今、スランプで、うまく絵が書けないの。夏休みが終わったら文化祭でしょ? それに出す作品になかなか手がつけられなくて。予備校の先生に相談したら、普段遊ばない子を誘って遊びに行ってみたら、普段とは違う視点で世界が見えるから、アイディアが浮かぶんじゃない? って言われたの……」
「……なるほどな」
若葉の言わんとしていることは理解した。確かに、普段の環境と異なれば見えるものも変わるだろうし、インスピレーションを得るための一つの方法ではあるだろうと思う。
とはいえ、若葉の交友関係をあまり知らないため断言はできないが、もっと適任な奴がいるのではないだろうか。頭の中でクラスメイトの顔をいくつか思い浮かべてみるものの、脳裏に鈍色のざらりとした感情が浮かんで、俺はそれを振り払うように小さく首を振った。
「んで、俺と一緒にってこと?」
「うん」
「いや……なんで俺なんだよ。他にいるだろ」
動揺のせいか、声が少し上擦った気がした。彼女を前にしどろもどろになってしまう自分が情けなかった。俺がその誘いを渋っていると感じたのか、若葉は慌てた様子で言葉を並べる。
「雪也くんとだったら、いいアイデアが出そうだなって。だから……だめ?」
上目遣いで見つめられ、心のネジがパチリとひとつだけ飛んだ気がした。若葉の大きな瞳が不安げに揺れるのを見遣り、俺はぐっと息を詰まらせる。
「お願い! 夏休みのうち一回か二回ぐらいでいいから!」
両手を合わせながら勢いよく頭を下げる彼女の姿は真剣そのもので、俺は小さくため息をつく。ここまでされて断るのは流石に気が引けた。俺自身も彼女と過ごす時間が増えることは嬉しいし、彼女の力になれるのなら協力したいという気持ちもあった。
それに、クラスメイトにこんな表情で懇願されて断れる人間がいるのだろうか。少なくとも――俺には、無理だった。
「……わかったよ」
「本当⁉」
俺の返事を聞き届けた途端、若葉は勢いよく顔を上げた。ぱっと華やいだ表情が眩しくて、直視できずに目を逸らしてしまう。自分の頬が先ほどよりも熱を持っているような気がしてならない。それは夏の日差しのせいだと思いたかったが、きっと違うのだろうと思う。
「じゃあ、連絡先教えてくれ」
「うん! ありがとう雪也くん!」
俺がスラックスのポケットからスマホを取り出すと、若葉もまたバッグの中から自身のスマホを取り出して操作を始める。短く切られた爪と細い指。きらきらとした光を宿した長いまつ毛が瞬きの度に揺れる。
「インスタで繋がろ!」
教室内で何度か目にした光景に俺は小さく息を止めた。ここ数年は写真投稿を中心としたアプリのダイレクトメッセージで仲を深め、メッセージアプリの連絡先を交換する……というのが主流らしいのだが、高校に上がって新たな友人が作れなかった俺はそれをダウンロードしたことがない。直にメッセージアプリの連絡先を教えてほしいと伝えるのは気が引けるが、かといって今から別のアプリをダウンロードするというのもなんだか気まずいものがある。
「俺……ラインしかやってない」
「え? あ、そうなんだ?」
俺の言葉に若葉は意外そうな表情を浮かべたが、それ以上深く追及してくることはなかった。そのことに内心安堵すると同時に少しの罪悪感を覚える。
若葉は慣れた手つきでメッセージアプリを開き、俺に向けてQRコードを表示させた。それを読み取ると、アイコンには校舎の屋上で撮ったであろう制服姿の若葉の後ろ姿が設定されており、図らずも口元が緩んでしまう。
「なに笑ってるの?」
「なんでもない」
俺は慌ててスマホをポケットにしまい込んだ。まさか若葉の後ろ姿に見惚れていたとは言えず、誤魔化すように咳払いをする。そんな俺の様子を不思議そうに見ていた彼女だったが、特に気にすることもない様子でスマホを鞄の中に仕舞いこんでいく。
(なんか……不思議な感じだな)
今まであまりクラスメイトと交流がなかったせいか、こうして連絡先を交換するのも初めてのことだ。正直なところ、俺は今自分がどれだけ舞い上がっていて、どんな顔をしているのかも分からなかった。
「行けそうな日があったら早めに連絡するね。今月はオープンキャンパスとかがあるから、たぶん八月に入るくらいには行けると思う!」
「わかった。俺は今年バイト行かねぇから、基本、いつでも大丈夫」
俺はできるだけ平静を装いつつ返事をするが、心臓の鼓動は耳の奥で鳴り響いているくらいに大きな音を立てていた。平常心を意識するほどに余計に気恥ずかしくなってくるが、もう今さらどうしようもない。
「夏休み、楽しみだなぁ」
小鳥が歌うような声音で若葉がぽつりと言葉を落とすと、間を置かず少し先の校門に立っていた二人組の女子生徒が若葉に向かって声を張り上げた。
「若葉~!」
「あんた今日日直じゃなかった~?」
「あぁぁっ‼ 忘れてたぁあああ! 雪也くん、またねっ」
彼女たちの呼びかけにはっと目を瞬かせた若葉は、慌てた様子で俺に手を振り校舎へ駆け出していく。嵐のようにやってきて、あっという間に過ぎ去っていったその背中をぼんやりと見つめ、俺は小さく手を振り返した。
「あちぃ……」
知らず知らずのうちに独り言が漏れてしまうほど、今日は気温が高い。特に今日は朝から日差しが強く、照り返しが眩しい。時折吹いてくる風も生ぬるいばかりで心地良いとは言えない。
(こんな日に体育の授業がなくてよかった。熱中症で倒れる奴もいるだろうしなぁ)
明日から夏休みに入るため、今日の授業は半日だけだ。明日からそれぞれの進路に関する三者面談が始まる。俺の三者面談には、中学の時と同じように施設長が出てくれるらしい。
施設長たち職員にとって、俺はあくまでも「預かっている子ども」に過ぎない。けれど、俺の進路について真剣に考えてくれ、高校に進学する時も俺の希望を尊重したいと何度も話し合いを重ねた。たくさんの愛情をもって接してくれていることも理解しているつもりだ。
家族のように接してくれるその気持ちが嬉しく、だからこそ、夢や目標という明確ななにかを見つけられないまま生きてきた自分自身が、時々無性に腹立たしくなる。
「なぁ、今年の夏はどうすんの?」
「バイトしてぇなぁ」
「お前全統Cだったんだからバイトとか言ってる場合じゃねぇだろ~」
「わかってるんだけどさぁ~」
道すがら、後ろを歩く生徒たちの笑い声が耳に入ってくる。この学校では進学組と就職組が半々くらいの割合なので、夏休みは受験を控える生徒にとって重要な期間になるが、それでも高校生最後の長期休暇に心躍らせる気持ちはよく分かる。夏休み特有の浮ついた空気を感じつつ、俺はぼうっと校門を目指して一人で歩いていく。
「あ、雪也くん!」
不意に後ろから名前を呼ばれた。思わず足を止めその場で振り返ると、そこには若葉の姿があった。彼女は俺を見つけるなり嬉しそうに笑って駆け寄ってくる。その笑顔はまるで飼い主を見つけた子犬のようで、尻尾があれば大きく揺れているところだろうとぼんやり思ったが、同時に周囲の視線を集めている気がしていたたまれない気持ちになる。
一緒に参考書を選びに行った翌日から、若葉は教室内でも俺によく話しかけてくるようになった。とはいえ、帰宅部の俺と美術部に属している若葉ではそもそも自由な時間が合わないため機会はそれほど多くなかった。
若葉が友人たちとしていたドラマやテレビ、SNSでの話題など、他愛もない会話に適当に相槌を打つといった程度だが、それでも以前よりも会話の数は増えている。
彼女と接するうちにじわじわと込み上げてくる感情の正体に、俺は気付き始めていた。それは言葉にするには難しいもので、とても曖昧で不確かなものだったが、それでも間違いなくその感情は俺の中で芽吹いていた。
けれど、俺はその気持ちにあえて名前を付けることはしなかった。いや、出来なかったと言った方が正しいかもしれない。この気持ちを言葉にして彼女に伝えてしまうと、今の関係が壊れてしまうような気がして、その瞬間を想像するとひどく恐ろしかった。
だから、俺は彼女の話に耳を傾けるだけ。ただ一緒にいるだけ。それだけで十分幸せなのだ。
「おはよ!」
「……おはよう」
登校時に彼女と遭遇することは今までなかった。そのうえ、後ろから追いかけて走ってくるとは思いもしなかったので、俺は少し動揺してしまった。
「あのね! 私、昨日返ってきた定期テスト、世界史の点数ちょっと良くなったんだよ」
少し嬉しそうにそう言った若葉は、相変わらず眩しい笑顔を俺に向けてくる。俺はなんとなく気まずくて目を逸らしてしまったが、それでも彼女は構わず話しかけてくる。
「雪也くんのお陰だよ。世界史で良い点数取れたのって初めてだったから、本当に嬉しい! あの時はありがとう」
屈託のない笑顔のまま、若葉は俺を見上げてくる。俺は息を呑んで言葉を詰まらせた。彼女の言葉が本心であることは疑いようがないし、感謝されることは素直に嬉しいが、それでもそれ以上にどぎまぎした感情の方が勝っていた。
「別に……お前が頑張った結果がついてきただけのことだろ」
ぶっきらぼうな物言いになってしまったことに少しだけ罪悪感を覚えたが、春先から向けているこんなつっけんどんな態度を今更変えることもできないでいるので、俺はそのまま若葉から視線を逸らした。
「雪也くんって照れ屋さんだよね。私、そういうところ好きだなぁ」
「!」
そんな俺の心情など知る由もなく、彼女は無邪気に笑う。心臓がどきりと跳ね上がった。
若葉の言動は、まるで俺のことが好きと言っているようにしか思えず、勘違いしてしまいそうになる。だが、それは俺の自意識過剰だ。きっと彼女の言う『好き』とは、友人としての好意を表現しているだけなのだろう。そうに違いない。
「……アホか、お前」
「ええ?」
若葉はきょとんとした顔で首を傾げた。本当に分かっていないのか、それとも分かっていてとぼけているのかは分からないが、どちらにせよタチが悪い。
とはいえ、若葉が他の奴にも同じようなことを言っているところを想像すると、少しだけ心にさざ波が生まれるような気がした。それがなんなのかはよく分からないものの、あまり良い気分ではないことだけは確かだ。
(からかうなっての……)
そう心の中でぼやきながらも、全身が熱を帯びていくような気がしてならない。それを誤魔化そうと空を見上げたが、俺の心境とは正反対の雲一つない青空が広がっているだけだった。
「でもでもっ、絶対雪也くんのおかげだってば! 雪也くん、この前の定期テスト学年十五位だったよね?」
「な、……なんで知ってんだよ」
まさか彼女が自分の成績を知っているとは思わなかったので、つい上擦った声を上げてしまう。
図書室で勉強していることを若葉に見られていたと知って以降、自分でもなぜか理由はわからないけれど、俺は今まで以上に勉強をするようになっていた。その甲斐もあって、今回の定期テストでは苦手な科目でも良い点を取ることができ、結果学年総合でも上位に滑り込めたのだが、まさか彼女がそれを知っているとは思わなかったのだ。
「だって掲示板見たもん」
そう口にした若葉はきょとんとした表情で俺を見上げながら小さく小首を傾げる。答え合わせができ、俺はなんとなしに息を吐いた。
「……あぁ。掲示板……」
「うん。進学科目取ってないのにその順位はすごすぎるよ。そんな雪也くんが参考書をおすすめしてくれたから、私も成績が上がったんだし……やっぱり雪也くんのおかげだよ」
若葉はそう言いながら、少し照れくさそうに笑う。彼女の言葉の一つ一つが妙にくすぐったくて、俺は堪りかねて頬を掻いた。
「まあ……それならよかったけど」
「それに、あんな風に、誰かと一緒に学校帰りに寄り道するの、久しぶりだったから……すっごく楽しかったし」
若葉はそう口にしながら嬉しそうに目を細める。その表情に、俺はまた鬱積した感情が込み上げてくる錯覚を抱いてしまう。
(なんだよそれ……反則だろ)
そんなことを言われたらどう反応していいかわからない。俺は内心動揺していたものの、それを悟られないようなんとか平静を装った。
「まあ、俺も久しぶりに羽を伸ばせたしな」
「ほんと? ならよかった!」
俺の答えに満足したのか、若葉は満面の笑みを浮かべながら大きくうなずく。ころころと表情が変わる彼女に、俺は小さく息を漏らす。
(ったく、なんなんだよこいつ……)
そんな悪態を心の中でぼやきながらも、俺は無意識のうちに笑みを浮かべていた。彼女の言動一つで一喜一憂してしまう自分がいることに気づくと、少し悔しくなると同時に気恥ずかしさを覚えてしまう。
「それでなんだけど……また雪也くんにちょっとお願いというか」
「ん?」
「夏休み、一緒にどこかに行かない?」
唐突に放たれた若葉の言葉に、俺は一瞬耳を疑った。まさかそんな提案をされるとは思いもしなかったので、ぽかんと口が空いてしまう。
(これって……デート、ってことだよな?)
頭の中を様々な思考が駆け巡り、うまく言葉が出てこない。聞き間違いではないかと思ったが、彼女の真っ直ぐな瞳と視線が絡まる。どうやら俺の願望が聞かせた幻聴ではないようだ。
「あっ、えっと! いきなり変なこと言ってごめん! その……」
俺が答えあぐねていると、若葉は慌てた様子で両手を顔の前でぶんぶんと振った。
「今、スランプで、うまく絵が書けないの。夏休みが終わったら文化祭でしょ? それに出す作品になかなか手がつけられなくて。予備校の先生に相談したら、普段遊ばない子を誘って遊びに行ってみたら、普段とは違う視点で世界が見えるから、アイディアが浮かぶんじゃない? って言われたの……」
「……なるほどな」
若葉の言わんとしていることは理解した。確かに、普段の環境と異なれば見えるものも変わるだろうし、インスピレーションを得るための一つの方法ではあるだろうと思う。
とはいえ、若葉の交友関係をあまり知らないため断言はできないが、もっと適任な奴がいるのではないだろうか。頭の中でクラスメイトの顔をいくつか思い浮かべてみるものの、脳裏に鈍色のざらりとした感情が浮かんで、俺はそれを振り払うように小さく首を振った。
「んで、俺と一緒にってこと?」
「うん」
「いや……なんで俺なんだよ。他にいるだろ」
動揺のせいか、声が少し上擦った気がした。彼女を前にしどろもどろになってしまう自分が情けなかった。俺がその誘いを渋っていると感じたのか、若葉は慌てた様子で言葉を並べる。
「雪也くんとだったら、いいアイデアが出そうだなって。だから……だめ?」
上目遣いで見つめられ、心のネジがパチリとひとつだけ飛んだ気がした。若葉の大きな瞳が不安げに揺れるのを見遣り、俺はぐっと息を詰まらせる。
「お願い! 夏休みのうち一回か二回ぐらいでいいから!」
両手を合わせながら勢いよく頭を下げる彼女の姿は真剣そのもので、俺は小さくため息をつく。ここまでされて断るのは流石に気が引けた。俺自身も彼女と過ごす時間が増えることは嬉しいし、彼女の力になれるのなら協力したいという気持ちもあった。
それに、クラスメイトにこんな表情で懇願されて断れる人間がいるのだろうか。少なくとも――俺には、無理だった。
「……わかったよ」
「本当⁉」
俺の返事を聞き届けた途端、若葉は勢いよく顔を上げた。ぱっと華やいだ表情が眩しくて、直視できずに目を逸らしてしまう。自分の頬が先ほどよりも熱を持っているような気がしてならない。それは夏の日差しのせいだと思いたかったが、きっと違うのだろうと思う。
「じゃあ、連絡先教えてくれ」
「うん! ありがとう雪也くん!」
俺がスラックスのポケットからスマホを取り出すと、若葉もまたバッグの中から自身のスマホを取り出して操作を始める。短く切られた爪と細い指。きらきらとした光を宿した長いまつ毛が瞬きの度に揺れる。
「インスタで繋がろ!」
教室内で何度か目にした光景に俺は小さく息を止めた。ここ数年は写真投稿を中心としたアプリのダイレクトメッセージで仲を深め、メッセージアプリの連絡先を交換する……というのが主流らしいのだが、高校に上がって新たな友人が作れなかった俺はそれをダウンロードしたことがない。直にメッセージアプリの連絡先を教えてほしいと伝えるのは気が引けるが、かといって今から別のアプリをダウンロードするというのもなんだか気まずいものがある。
「俺……ラインしかやってない」
「え? あ、そうなんだ?」
俺の言葉に若葉は意外そうな表情を浮かべたが、それ以上深く追及してくることはなかった。そのことに内心安堵すると同時に少しの罪悪感を覚える。
若葉は慣れた手つきでメッセージアプリを開き、俺に向けてQRコードを表示させた。それを読み取ると、アイコンには校舎の屋上で撮ったであろう制服姿の若葉の後ろ姿が設定されており、図らずも口元が緩んでしまう。
「なに笑ってるの?」
「なんでもない」
俺は慌ててスマホをポケットにしまい込んだ。まさか若葉の後ろ姿に見惚れていたとは言えず、誤魔化すように咳払いをする。そんな俺の様子を不思議そうに見ていた彼女だったが、特に気にすることもない様子でスマホを鞄の中に仕舞いこんでいく。
(なんか……不思議な感じだな)
今まであまりクラスメイトと交流がなかったせいか、こうして連絡先を交換するのも初めてのことだ。正直なところ、俺は今自分がどれだけ舞い上がっていて、どんな顔をしているのかも分からなかった。
「行けそうな日があったら早めに連絡するね。今月はオープンキャンパスとかがあるから、たぶん八月に入るくらいには行けると思う!」
「わかった。俺は今年バイト行かねぇから、基本、いつでも大丈夫」
俺はできるだけ平静を装いつつ返事をするが、心臓の鼓動は耳の奥で鳴り響いているくらいに大きな音を立てていた。平常心を意識するほどに余計に気恥ずかしくなってくるが、もう今さらどうしようもない。
「夏休み、楽しみだなぁ」
小鳥が歌うような声音で若葉がぽつりと言葉を落とすと、間を置かず少し先の校門に立っていた二人組の女子生徒が若葉に向かって声を張り上げた。
「若葉~!」
「あんた今日日直じゃなかった~?」
「あぁぁっ‼ 忘れてたぁあああ! 雪也くん、またねっ」
彼女たちの呼びかけにはっと目を瞬かせた若葉は、慌てた様子で俺に手を振り校舎へ駆け出していく。嵐のようにやってきて、あっという間に過ぎ去っていったその背中をぼんやりと見つめ、俺は小さく手を振り返した。