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 そっと瞼を開けば、あの日のような眩さを纏った光が私たちを包んでいた。私は目を細めながら、ゆっくりと息を吸い込む。

「高校三年生の時。最後の文化祭の準備をしている時に、ちょっとアクシデントがあって目を怪我してしまって。目が見えなくなって……それでも、すぐに角膜移植を受けられた私はすごく幸運だったと思います」

 そう口にした瞬間、目の奥が熱くなるのを感じたけれど、私はそれをぐっと飲み下す。彼との想い出は、私だけのものにしておきたかったから。
 私の言葉に、インタビュアーの女性は深く頷いた。

「視力を失われた直後も、悲観することなく音声認識などを活用されて日々を過ごされていた、と聞きました。前向きな姿に、ご家族やご友人たちもきっと勇気づけられたのではないでしょうか」

 カシャリ、と、軽快なシャッター音が耳朶を打つ。今の私は、どんな表情をしているのだろう、と。ふとそんなことを考えた。

「そう、ですね。高校に復学したあと、クラスメイトのみんなには本当に助けてもらいました。美大に現役合格はできなかったですが、画塾の先生や、色んな方に支えられて、一年遅れで大学生になって……」

 その先の言葉が続かず、私はそっと目を伏せる。
 雪也くんが遺した手紙は、私の心に想像以上の重い影を落としていった。相良さんが会いに来てくれた翌日に私は退院し、自宅に戻ったものの、なにもする気が起きなくて、食事さえ喉を通らなかった。
 そんな日が何日か続いたあと、相良さんから退院祝いということでお花が届いた。瑞々しい花々が咲き誇り、それらがゆっくりと下を向いていく様子を眺めているうちに、ふと気が付いたことがあった。
 短い命を謳歌する花たちは、人間を癒してくれて、勇気づけてもくれる。けれど、一緒に過ごせる時間には限りがある。とても切ないけど、美しくて儚いからこそより愛おしく、恋しくなる。
 彼はもうこの世にはいない。でも、彼の遺した希望は確かに私の瞳の中に息づいている。その小さな灯火が、私を奮い立たせてくれているのだ――と。
 そうした景色をふたたび私に見せてくれたのは、紛れもなく雪也くんだ。

「……本当に、皆さんに支えられて。色んな人に支えられて、助けられて、ここまでやってこられました」

 そう口にしながら、私はそっと自分の手のひらを見つめた。最期に会いにきてくれた時の温もりは、今でも昨日のことのように思い出せる。

「落ち込むこともたくさんありました。うまくいかないことも、スランプになることも。だけど、……それ以上に……」

 雪也くんがどんな想いを抱いて過ごしてきたのかは、私にはわからない。それでも、彼があの手紙に残してくれた言葉たちが、彼の偽らざる想いのすべてなのだろう、と。私はそう思っている。

「それ以上に。私は、夢を叶えたいって。そう……思ったんです」

 彼は、私にたくさんのものをくれた。そして、その命を懸けて、私に未来を遺してくれた。彼のその覚悟を踏み躙ることなんて、できるわけがない。
 同じ誕生日に、同じ血液型。生まれた場所も近くて、苗字も同じで。それでも私たちに血の繋がりはなく、ただただ、偶然が重なっただけのことだった。
 私は両親と特別養子縁組をしているので、元の苗字から変わっている。冷静に考えればわかることだったけれど、あの時は私も混乱していたからすぐにその考えに至れなかった。

「私は、これからもずっと絵を描き続けていきたいです。それが……私に角膜を提供してくれた方にできる、唯一の恩返しだと思うから」

 雪也くんからもらった言葉も、気持ちも、笑顔も。
 全部全部、私の心に深く深く根付いている。

「……なるほど。周りの方に支えられている、そんな想いを胸に、これからも絵を描かれていくと」
「はい」

 私の返事に、目の前の女性がゆっくりと頷いた。
 雪也くんがくれた希望を、私は絶対に忘れない。これから先も、彼から託された色彩の海を、もっともっと広い世界を、キャンバスに描いていく。私が見た景色や出会った人のことをたくさん詰め込んで。
 そしていつか――私の命が尽きた後に。
 天国で、雪也くんに見てもらえたら。
 そんな祈りを込めて、私はこれからも絵を描き続けていく。
 インタビュアーの女性が、テーブルに置かれたレコーダーに手を伸ばす。その動作を見つめながら、私はそっと息を吐き出した。

「……はい。きちんと録れているみたいなので、この辺で。改めまして、この度はインタビューを受けていただきましてありがとうございました。とってもいいお話を聞かせていただけました」
「こちらこそ。お話をさせていただいてとても光栄でした」

 彼女がゆっくりと立ち上がるのに合わせ、私もそれにならうように立ち上がる。小さく会釈をしてから、カメラマンの女性にも小さく頭を下げた。

「これから受賞式ですね。私たちも楽しみにしています」
「とっても緊張してるので、なにか粗相をしないか心配です」

 受賞式はこのホテルのホールで行われることになっているけれど、いくつかの報道陣が出席するということも聞かされているし、なによりもここが格式高い場所なので、私はもう既に緊張してしまっている。

「大丈夫ですよ。きっと素敵な受賞式になると思います」
「ありがとうございます」

 そう口にして、もう一度頭を下げると、インタビュアーの女性が柔らかく微笑んだ。

「それでは、私たちはこれで失礼いたしますね。記事にする前にまたご連絡差し上げますので、どうぞよろしくお願いします」
「はい。ありがとうございました」

 そういって、ふたたび小さく頭を下げた彼女たちは控室を後にしていく。その背中を見送ったあと、私はそっと息を吐き出した。

(緊張した……)

 言葉には出さないものの、どっと疲れた気がした。授賞式の後には交流会が開催されるので、また色んな人と顔を合わせなければいけない。

「……しっかりしなきゃ」

 私は小さく頭を振ると、ゆっくりと息を吐き出した。バッグの中のポーチからヘアゴムを取り出し、結っていない髪に手を伸ばす。六角形の陶器の飾りが付いた、紫陽花色のヘアゴムで髪をひとつに結んで真ん中に毛先を通してざっくりと整えていく。

「うん、……大丈夫」

 大きく息を吸い込んでから、私は速いままでいる心臓を宥めるように言葉を紡いだ。そのまま視線を上げると、思わず声が漏れてしまう。

「あ……」

 四角く切り取られた、空。
 眼前には、どこまでも広がるオレンジがかった夕焼けが映り込む。

(……)

 ふと、彼の優しい笑顔が脳裏に浮かんだ気がした。私はそっと息を吐くと、そのまま大きく息を吸い込んだ。肺の中に空気を取り込むたびに、心が優しく凪いでいく。
 私に、色彩と、希望と、勇気を運んできてくれた――大切な人。

「……雪也、くん」

 彼の名前をそっと唇に乗せてみるけれど、それは音になることなく空気へと溶けて、消えていく。
 私はもう一度小さく息を吸うと、ゆっくりと授賞式会場へと足を踏み出した。

『若葉』

 私の名前を呼ぶ彼の声が――今も耳の奥で、鮮やかに木霊していた。