「あ……」

 それは、一枚の手紙だった。コピー用紙のような真っ白の紙の左上には『相良先生へ』と書かれていた。その一行下の書き出しの一文に、私はひゅっと息を呑む。

『この手紙は、俺の最期のお願いです』

 綴られている文字は見慣れた彼のもので、どこか懐かしいような気さえした。震える腕に精一杯の力を籠め、目の前の手紙に手を伸ばした。

『俺になにかがあった時は、俺の目を、同じクラスの鈴木若葉という女の子に提供してください』

「え……」

 唇の隙間から小さく零れた声に、相良さんが小さく息を吐く音が聞こえた。

「っ……これ、」

 喉の奥から声にならない吐息が漏れる。それは自分の声かと疑うほど弱々しいもの、で。それでも私は、そのままじっとその文字列を食い入るように見つめ続けた。

『俺、若葉には、夢を諦めてほしくないんです』

 震える筆跡で綴られたそれらを真っ直ぐに読めない。水彩画に水をこぼしたかのように、目の前がぼんやりと滲んでいく。
 目に見えない感情のその形はひどく不透明で、自分自身でさえよくわからなかったけれど、まるで焼け爛れるかのようなじりじりとしたその痛みに、息が詰まりそうになる。
 ぽたりぽたりと、手紙に染みを作っていく熱い雫をどこか他人事のように見つめながら、私はゆっくりと息を吐いた。

(……ああ)

 しんしんと心に降り積もる悲しみを堪えきれず、私は大きく息を吐いた。この涙の意味が自分でもわからないまま、それでも嗚咽を堪えながら必死に呼吸を続ける。

「大丈夫……ですか」

 相良さんの温かな手が、私の背中をゆっくりと摩ってくれる。それがますます、涙を溢れさせた。
 彼は――雪也くん、は。どんな気持ちで、この手紙を書いたのだろう。
 どんな想いで、相良さんにこれを残したのだろう。

「どうして……」

 こんなにも優しい言葉を、私に残していったのだろう。
 なぜ、彼は――こんなにも強いのだろう。
 彼の願いを無下にするわけにはいかないと頭では分かっていても、心が追い付いていかない。
 心臓が早鐘を打つかのように脈打っている。眦を伝い、ぽろぽろと大粒の涙が零れていく。どうしようもなかった。言葉にならない想いがどんどん溢れていっては涙に変わっていった。

「っ……」

 嗚咽を噛み殺すようにして唇を引き結び、ゆっくりと息を吸い込んだあと、もう一度手紙へと視線を落とした。そしてそこに書かれている文字たちを丁寧になぞっていく。雪也くんの想いを、最後の願いを、一文字たりとも取りこぼさないように。

『それから。俺と彼女は、多分、双子です』

 その一文が目に入った瞬間、意味をなさない音の欠片だけが喉から零れ落ちていった。想定外すぎる言葉に、私の思考はぴたりと止まってしまう。
 呆然としている私の背中を摩ってくれている相良さんが、ゆっくりと頷いた。

「夏休みに入ってから、雪也の様子が少しおかしくてね。なにか隠し事をしているような、そんな雰囲気がありました。それでも俺たちはそれを問い詰めるようなことはせず、彼が話すのを待とうと思っていたんです」

 瞼が熱い。息が上手く吸えなくて苦しい。それでも私はこの手紙から視線を逸らすことができなかった。

「俺は、……雪也の親代わりとして彼のことを一番に考えてきたつもりでした。でも、結局なにもできなかった。なにひとつ、わかってやれなかった。それが悔しくて、情けなくて……」

 頭を下げたまま絞り出すように紡ぎ出された慟哭に、喉がちりちりと焼けるような痛みを感じた。相良さんが雪也くんのことをどれだけ大切に思っていたか、痛いほどに伝わってくる。

『若葉も俺と同じ乳児院に預けられていたらしいんです。苗字も誕生日も血液型も、生まれたところも同じ。預けられた時期は違うけど、こんな偶然はないと思う。血縁関係があるなら、俺の目を受け入れても、拒絶反応も少ないと思うから、きっと若葉の夢を繋いであげられるはず』

 そんなこと、本当にあり得るのだろうか。私と彼が、生き別れの双子かもしれない、だなんて。
 根拠があるのか否かもよくわからないその内容に、震えが止まらない。

(どうして)

 その一言が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。

(どうして、そんな大事なことを……)

 彼はずっと一人で抱え込んでいたのだろうか。誰にも打ち明けることなく、誰にも頼ることができず。
 たった一人で悩み、苦しんでいただろうか。大病を患い、そのうえで、こんな――
 必死に息を吸おうとすればするほど喉が引き攣って上手くいかなかった。それでもどうにか呼吸を繰り返しながら、私は震える手で手紙を握り締める。

『だからこそ、若葉には、俺の分まで幸せに生きてほしい。若葉が光を取り戻した先の未来が、明るいものであってほしい。だから、俺の目をあげることも、全部全部、若葉には伝えないでください。ワガママですみません』

 次から次へと湧き上がってくる感情に飲み込まれてしまいそうだった。哀しみ、困惑、怒り、不安、そして――言葉にできないほどの強い想い。様々な感情が津波のように押し寄せ、全てを押し流していく。

『駅前の書店で大丈夫か?』
『すげぇな……めちゃくちゃ上手いじゃん』
『焦る必要なんてないだろ。絵が描けなくてもお前はお前だろ?』
『ほら、……手ぇ貸せ。こーしたらコケたりしねぇだろ』

 あの時の言葉に込められていた雪也くんの想い。たったひとかけらだけでもいいから知りたかった、と。そう思ってしまう自分がいる。
 俯いたままの私の耳に届いたのは、静かな声だった。それはまるで懺悔をするような響きで紡がれる。

「俺は、あいつになにもしてやれなかった。だからせめて……あいつが遺した願いくらいは叶えてやりたい、と……そう思っていました」

 相良さんのその声に促されるように、私はそっと瞼を持ち上げる。深い海の底にいるような、ゆらゆらとした不思議な感覚がこみ上げてくる。

「日本には臓器移植法という法律があって……ドナーの身元を明かすこともできないし、逆に、移植する患者の指定もできない。アイバンクは、移植した患者のざっくりとした年代と性別しか教えてくれません。だから、雪也の最期の願いを叶えられたかどうか……俺にも、誰にもわかりません」

 脳裏にあの日の雪也くんの笑顔が蘇る。照れたようにそっぽを向きながらも、くしゃりと綻んだ目元。私の大好きな、雪也くんの……優しい笑顔。

「っ……」

 嗚咽を堪えながら私はそっと自分の瞼に手を伸ばす。指先に生じる涙の感覚が、これは現実であるのだと教えてくれる。

(雪也くんが……私の、お兄ちゃんか、弟かもしれない……)

 初めて恋をした人が、血を分けた兄か弟かもしれない、なんて。
 そして、そんな彼から角膜をもらったのかもしれない、なんて。
 こんな現実――私は、受け止めきれない。

「俺がアイバンクから聞いたのは、患者は十代の女の子だと。そして、雪也が死んだ日の翌日にあなたの角膜移植が行われている。そのうえ、雪也はこの病院で生を終えました。だから、可能性が低いわけではない、と……俺は勝手にそう思っています」

 言葉にならない声が喉の奥で消えていく。彼がなにを言いたいのか、なにを伝えようとしてくれているのかわからないほど鈍感なつもりはないけれど、それを事実として受け止めるには私の心はあまりにも未熟だった。

「雪也の……この手紙は、あなたにも関係のあることです。だから俺は、これをあなたに渡すことを決めました」

 ひくり、と、喉が震える。相良さんの温かい手が、私の背中にそっと添えられている。それが余計に涙を誘うのだということを彼はきっと知らないだろう。その優しさが、尚更辛かった。

「先ほども話しましたように、雪也はライソゾーム病という指定難病を患っていました。この病気は遺伝するものです」
「……いで、ん」
「はい」

 ぽつりと落とした私の言葉に、相良さんが静かに頷く。

「もし、雪也が考えていたように、あなたが雪也の生き別れの双子だとしたら、……若葉さん。あなたにも、ライソゾーム病発症のリスクがある」

 相良さんの真摯な声色に、私はゆっくりと顔を上げる。涙でぼやけた視界の中にもしっかりと彼の姿が映って見えた。

「俺も出来うる限りの伝手を使って色々調べてみたのですが、現代社会での個人情報保護の壁は厚くて……あなたと雪也のDNA鑑定をするしか、もう方法はないと考えています」

 相良さんはそこで一旦言葉を切ると、小さく息を吸い込んだ。

「お願いします。一度、DNA鑑定を受けていただけませんか。費用のことは考えなくて構いません。俺がなんとかします」

 目の前の相良さんはそう言って私に向かって深々と頭を下げた。その肩が微かに震えているように見えてしまって、堪らなく苦しい。私は瞬きを繰り返し、必死に涙を散らしながら大きく息を吐きだした。

(雪也くん……)

 彼は本当に、もういないのだろうか。そんなこと信じられなくて、私はそっと膝の上の自分の手のひらを見つめた。
 彼の笑顔が脳裏に焼き付いて離れないのに。あの優しい手つきも、温かな声も、鮮やかすぎるほどに覚えている、のに。
 彼が――もうこの世界にいないなんて、思えないのに。

「っ……」

 吐き出した声と吐息が嗚咽に変わっていく。身体の震えが止まらない。私は込み上げてくる底知れぬ虚しさに唇を強く噛み締めた。

「少し……お時間を、もらっても……いいですか……」

 そう答えた私の声は掠れていて、自分の声ではないみたいに思えた。それでもどうにか相良さんに、ちゃんと返事をしなくてはいけない。とめどなく流れていく涙を必死に手の甲で拭いながら、私は彼をじっと見つめた。

「もちろんです。……ありがとうございます」

 相良さんはそう言って、もう一度深々と頭を下げる。その拍子に彼の目元に光るものが見えた。

「雪也と縁を持ってくれた若葉さんには、心から感謝しています。本当にありがとう」

 彼はそう口にして、ふたたび小さく頭を下げた。ゆっくりと立ち上がった相良さんが大きく息を吐き、目尻を乱暴に拭っていく。

「なにかあれば、いつでも連絡してください。また……後日、改めさせていただきます」

 相良さんはそう口にして、もう一度頭を下げてから病室をあとにした。私は、その背中を呼び止めることも、なにか言葉をかけることもできなかった。
 遠ざかっていく足音を耳にしながら、私は思わず大きく息を吐きながら天を仰いだ。
 視界が歪んでは、またクリアになる。あまりにもたくさんの感情が押し寄せて、もうなにがなんだか分からない。それらをどうにか押し留めようと、何度も何度も瞬きを繰り返す。
 ふと、天井の照明に視線を向ける。そこから柔らかな光が降り注いでいて、その眩しさに私は目を細めた。

「……見えるよ。私……ちゃんと、見えてるよ……雪也、くん……」

 目の前に広がっているのは、ただただ真っ白な世界だった。
 けれど――それでも私には、十分すぎるほどの色彩に溢れていた。