だって、雪也くんからそんな話は一度も聞いたことがない。確かに、大田区に住んでいるとは聞いていた。けれど、それは彼の家がそこにあるのだ、と。あたたかな両親や家族に囲まれて生活をしているのだと、……そう、思っていたのに。

「あ……の、」
「うん?」

 自分の声が、情けなく震えるのが分かった。思い起こせば、雪也くんの口から彼の家族についての話が出たことは一度もなかったような気がする。

「雪也くんからは……そんなお話、一度も聞いたことがなくて……」

 私は勝手に思っていたのだ。彼はきっと、両親や兄弟と幸せに暮らしているのだろうと。それが『普通』の家庭で、『普通』の生活なのだから、と。
 様々な疑問がぐるぐると脳裏を駆け巡っていく。

「そう……か」

 相良さんは小さく息を吐くと、そのままゆっくりと目を伏せた。その表情はどこか苦しげで、なにかに耐えているようにも見えた。

「……あの、雪也くんは……」

 ふと唇からまろびでた言葉に、相良さんは少し驚いたように目を見開いた。そして、小さく首を横に振り小さく肩を落とす。

「……すまないね」

 その一言に込められた謝罪の意味を、私はきっと正しく理解できていない。彼はただもう一度「すまない」と呟くと、そのままゆっくりと口を開いた。

「どこから話すべきかな。俺もまだ……気持ちの整理がつかなくてね。すまない」

 何度も謝罪を口にする相良さんはわずかばかり肩を竦め、苦笑いを浮かべた。どこか哀愁の漂うその表情に、目が奪われてしまう。

「雪也は、一歳になる前に乳児院に預けられた子です。それでも、小学校、中学校、高校と、進学していって、毎日俺たち職員に学校のことを話してくれました。大人しい子でしたからね、心配だったんですが、それなりに楽しそうに日々を過ごしてくれていました。このまま元気に社会人になってくれるもんだろう、と……」

 そこで一度言葉を切った相良さんは、大きなため息を吐き出しながら膝の上で手を組んだ。初めて知る事実に、私はただ言葉もなく彼を見つめることしかできない。
 心臓が、誰かの手で鷲掴みされているように痛い。耳鳴りがひどくて、指先が氷のように冷たくなっていく。

「二ヶ月前。八月の終わりくらいから……体調が優れなさそうな雰囲気がありましてね。施設が提携している病院で調べてもらったのですが、原因がわからない。それでも彼は私たちに心配をかけたくなかったのか、二学期の始業式は普通に登校していったんですよ」

 そこで彼はもう一度小さく息を吐く。もう秋口だというのに、なぜか嫌な汗が背中を伝っていくのを感じていた。

「施設では明るく振舞ってくれていたんですがね、どうにも限界だったみたいで。その日、ここのA棟に入院したんです」
「……!」

 彼のその一言はあまりにも衝撃的で、私の口からは意味のない音が零れ落ちる。私が入院しているB棟と違い、A棟はこの病院の中でも、生命に係わる重篤な患者が収容されている棟だと、この入院生活のなかで、誰かから聞いたことがあった。重く黒ずんだ不安感が頭の中でぐるぐると渦を巻き始める。
 相良さんは目を伏せ、ふたたび大きなため息を吐き出していく。

「そうして、いろんな検査を受けた雪也は……あと半年の命、と。持っても一年程度だと……そんな余命宣告を受けました」

 渋く、苦し気な声で紡ぎ出される言葉たちが、私の鼓膜を震わせ、脳を揺さぶっていく。

「余命……宣告……」

 その四文字が意味する言葉を、私は知っている。この数日の間に何度も思い浮かべていたはずの彼の顔が、脳裏に浮かんでは消えていく。
 いつもあたたかな笑顔を浮かべていた彼の面影がどんどんと薄くなっていくよう、で。それがひどく怖くて、ぎゅっと目を瞑って視界を遮断する。

「そん……な」

 一ヶ月と少し前。面会謝絶が解けたその日に会いにきてくれた彼は、以前と変わらず、いや、以前よりもずっと元気そうに思えた。
 けれどそれは私の勘違いだったのだろうか。それとも、彼は私に心配をかけないようにと気丈に振舞ってくれていたのだろうか。
 そこまで考えて、はたと思い至る。

(そうだ……私、あの時、雪也くんの顔……見てなくて……)

 あの時の私は――目が、見えていなかったから。

「……あ、」

 あの日、雪也くんはどんな表情をしていたのだろうか。どんな顔を、していたのだろうか。
 全部全部、心の奥底に隠して――笑ってくれていたのだろうか。
 自分の意思に反して、世界がぐにゃりと歪んでいく。

「雪也には、……余命の話はできませんでした。ライソゾーム病という指定難病だ、というところまでしか……俺はあいつに話せなくて……」

 ぐっと唇を噛んだ相良さんがゆっくりと息を吐く。膝の上で組んだ手を解いて、彼は一度目頭を乱暴に拭った。

「治療のための骨髄移植の準備をしていたのですが、あいつ、一度病室を抜け出しましてね。合併症で心臓を悪くしていたものですから、そちらに負荷が掛かり、一晩で手の施しようがない状態まで悪化して……三週間ほど昏睡状態となり、そのまま……」

 相良さんはそこで言葉を詰まらせ、小さく首を振る。その仕草だけで、彼の言いたいことが伝わってきてしまったような気がしてしまう。

「っ……雪也くんは、」

 喉の奥から絞り出した声は、ひどく掠れていた。もう思考はぐちゃぐちゃで、なにをどう考えればいいのかも分からない。

「雪也くんは、今どこにいるんですか……?」

 声が、震える。その震えはやがて全身へと広がっていき、指先の感覚まで奪っていくようだった。
 信じたくない。彼はまだ、生きている。

(だって……)

 絶対にまた会いに来る、と。彼は、雪也くんは、そう言ってくれていた。
『若葉のアー写を撮るのは俺』だ、と――そう言っていたのだから。

(雪也くんは……まだ、生きている)

 そう思わなければ、心が散り散りに砕け散ってしまいそうだった。

「雪也は……最期まで、あなたのことを。若葉さんのことを、心配していました」

 それがなんの感情によってもたらされたのかすら判断できぬままに、私は口元を歪めた。
 なにか言わなきゃと思うのに、言葉が上手く出てこない。

「あいつは……自分の命がもう長くないことを悟った時、……昏睡状態になる直前に。看護師さんたちの手を借りて、これを……認めていました」

 相良さんはベージュ色のチノパンのポケットからゆっくりとした動作でなにかを取り出した。カサリと音を立てながら開いたそれを、私の方へと差し出してくる。