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 鉛筆を手に取り、スケッチブックに線を引いていく。頭の中に思い浮かんだイメージを形にしていくこの瞬間がとても好きだ。この感覚がまた味わえる日がこんなにも早く来るなんて、想像すらしていなかった。
 私が視力を失う原因になったあの事故からもうすぐ二ヵ月が過ぎようとしていた。私が庇った水無川さんは打撲程度で済んだらしく、とてもほっとしている。けれど、当の水無川さんは私に対して負い目を感じているのか、面会謝絶が解けてから毎日お見舞いに来てくれていた。
『見えなくなった』ことは私も最初はショックだったけれど、その分他の感覚が鋭くなって、画家としても貴重な体験ができていたから特に気にもならなかったし、水無川さんもそんな風に気にしていたら余計に気が滅入ってしまうんじゃないかと思う。まだ彼女は一年生で、これから来年の高校生国際美術展に向けて制作に取り掛からないといけない時期になってくるから、個人的にはそちらに集中してほしいというのが本音だった。
 その上、責任感の強い彼女が両親と一緒に慰謝料の話を持ち出してきたときは、正直焦った。あの事故の直後に私の両親や顧問の松永先生とも話し合って、校内での不慮の事故だから給付金も出るし、裁判も慰謝料の話もなしで、ということになったはずなのに。結局私がいくら断っても水無川さんはどうしてもと言って引かず、ほとんど押し切られる形で今回の角膜移植の手術代だけ受け取ることになったのだ。
 とはいえ、手術前に受けた説明の通り視力の戻りはとても緩やかだった。手術直後はぺらぺらのビニールのようなもの越しに見ているような感じだったけれど、十日目の今日は視力が安定してきたのか、はっきりとした輪郭が見えるようになってきた。

「うん……いい感じ」

 私は小さく呟くと、そっと息を吐いて鉛筆をサイドテーブルの上に置いた。そしてそのまま、ベッドの上でゆっくりと伸びをする。長時間の作業で凝り固まった筋肉が解れていく感覚に、知らず知らず声が漏れた。

「若葉さん、お加減はいかがですか?」

 ノックの音とともに病室の扉が開かれ、看護師さんが入ってくる。私はスケッチブックに向けていた視線をそちらに向けてにこりと笑ってみせた。

「はい。だいぶ良くなってきました」
「それはよかった。……あ、また絵を描いていらしたんですね」

 彼女は私の手元を覗き込んで小さく笑う。その反応がなんだかむず痒くて、ちょっぴり落ち着かない。

「許可が下りた一昨日からずっと描いてらっしゃるから、本当にお好きなんだろうなって思いました」

 やわらかく微笑んだ彼女は、脇に抱えてきた血圧計などの器具をベッドサイドのテーブルに一度置いた。

「今日は……なんというか、ずいぶん見えるようになった気がして」

 私はそう口にしながらそっと視線をスケッチブックに戻す。まだ霞んだりはっきりみえたりと視力が安定していないため、細かい部分まで描き込むことはできないけれど、それでもこの数日でなり完成に近付いたと思う。
 今描いているのは、夏休み中に美術部のみんなと行った海の光景だ。いつか雪也くんと一緒に見に行きたいと思ったあの景色を描き留めておきたくて、時間さえあればこうしてスケッチブックに鉛筆を走らせている。

「この数日でかなり回復されましたよね。明日の検査で経過が良ければ、午後……う~ん、もしくは明後日くらいに退院できると思いますよ」

 彼女はまるで自分の事のように楽しげに笑いながらそのまま窓際に足を向けた。大きな窓が開けられ、ふわりと風が滑り込んでくる。白いレースカーテンが、ゆっくりと浮いては元の位置に戻っていく。秋らしい、少しやわらかくなった日差しが病室の白い床を照らしていった。
 その風に乗って運ばれてきた甘い香りが鼻腔をくすぐり、私はふっと目を細めた。

「いい香り……」
「金木犀の香りって、鎮静作用とか抗不安作用があるんですよ~」
「えっ、そうなんですね。初めて知りました」
「そうでしょ? だからこの香りを嗅ぐとほっとするんですって。あと、夏が暑かったら今年みたいに開花時期が遅れるの」
「へぇ……確かに今年、めちゃくちゃ暑かったですもんねぇ。だから十月半ばから咲だしてるんだ」

 そんな会話をしながら彼女は手際よく私の血圧を測っていく。その数値を見ながら、彼女は目を細めた。

「うん、目の充血もないし、大丈夫ですね」

 彼女はそう言って微笑むと、そのまま私の目を覗き込む。そして納得したように大きく頷き、器具を纏め始めた。

「それじゃあ、また夕方に来ますね」
「はい。ありがとうございました」

 私は彼女に小さく頭を下げると、そのままそっと目を閉じた。彼女の立てる足音が少しずつ遠ざかっていくのを耳で感じながら、ゆっくりと息を吐く。

(雪也くん……今頃どうしているかな)

 あの日以来、一度も連絡が取れていない彼のことを思い出す。就職試験は上手くいったのだろうか。思いのほかバタついているのかもしれない。今は季節の変わり目で、体調を崩していないかと思うと、心配が募る。

(また……会いにくるって、行ってくれたもんね)

 彼が会いにきてくれたあの日、雪也くんがどんな顔をしていたのか見ることができなくてよかったと思う反面、その反応が気になる自分もいる。
 だって――あの時。初めて、彼が私の名前を呼んでくれた瞬間だったから。
 彼の低くて柔らかな声がドア越しに聞こえた瞬間、心臓が止まりそうになった。
 手を取って、頬に触れて。握られた手を引っ込めようとしたけれど、雪也くんの熱がそれを許してくれなかった。でも、だからこそ彼の体温や息遣いを感じ取ることができた。
 あたたかくて優しくて、それでいて少しだけ寂しげな声で紡がれた言葉たちは、今でも強く心に焼き付いている。

「もうっ……」

 改めて考えてしまうと、全身がカッと熱くなるような感覚がした。その感覚を振り払うようにぎゅっと目を閉じ頭を振り、ゆっくりと息を吐く。

「早く、会いたいな」

 ぽつりと呟いた言葉が、静かな病室に溶けていく。
 次に会えたら――この胸の中にある想いを伝えたい。どうしようもないくらいに、彼のことが好きなのだと。
 くしゃりと笑う顔、照れた時に眉尻を下げる癖、ふわふわの髪と大きな手。雪也くんを構成する全てが、私の心を焦がす。
 彼の声をもっと近くで聞きたいし、時には名前を呼んでほしい。そして叶うなら、その手で触れてほしいなんて贅沢な願いを抱いている自分がいるのも事実だ。

「雪也くん……」

 優しい声で紡がれる言葉のひとつひとつさえ、全部ぜんぶ、思い出の中に焼き付いていて、思い出すたびに心があたたかくなる。
 会いたい気持ちが溢れ出すのと同時に、やっと再会できるという喜びが心の奥底から湧きだしてくるような感覚に全身が震えた。

(……って、私なに考えてるの……!)

 ぼんやりと、それでもはっきりと浮かんでしまった衝動を振り払うように私はぶんぶんと頭を振った。そのまま、自分を落ち着けるように小さく息を吐き出した。そっと瞼を持ち上げ、そのままサイドテーブルに置かれた時計に視線を移す。

(夕食までまだ少し時間があるし……)

 もう一度絵を描いておこう。そう思いスケッチブックに手を伸ばした時、コンコンとノックの音が耳に届いた。

「はい?」

 さっきの看護師さんだろうか。検査漏れかなにかがあったのかもしれないと思いながら扉の方に視線を向けると、それとほぼ同時に扉が開かれる。そこに立っていた黒のポロシャツを着た見知らぬ人の顔に、私は首を傾げた。

「あ、あの……?」

 日焼けをした浅黒い肌に、切れ長の目。白髪が混じった髪と、顎に少しだけ生えた髭。初めて見るその人の顔を不躾にも凝視してしまう。
 訪問先を間違った人なのかもしれない。この病棟はたくさんの患者が入院している大きな病院なので、たまにそういうことも起こりうるのではないだろうか。
 そんなことを考えていると、おそらく私の両親と同じくらいの年齢に見受けられるその人がゆっくりと口を開いた。

「突然すまないね、鈴木若葉さん」
「え……」

 驚きのあまり、私はぱちぱちと目を瞬かせた。
 なぜ――この人が、私のフルネームを知っているのだろう。これまで一度も会ったことがないはずだというのに。
 呆けたような私の様子に、彼は小さく微笑むとゆっくりとした足取りでこちらに歩み寄ってくる。そしてそのままベッドサイドに置いてあった椅子に腰掛けると、真っ直ぐに私の目を見つめた。

「これは手土産です。ご家族の方と一緒にどうぞ」
「あ……え、と」

 目の前に差し出された茶色の紙袋を反射的に受け取りつつ、私はぱちぱちと目を瞬かせる。すると彼は小さく眉尻を下げながら口を開いた。

「自己紹介もせずに申し訳ない」

 彼はそのまま小さく会釈をしてみせる。困惑しきっている私の表情を見遣った彼は、首からかけた名札ケースを指先で少し持ち上げ、ふっと微笑んだ。

「初めまして。相良と言います。大田区にある児童養護施設『のぞみ』の職員です」

 そこで言葉を止めると、彼は困ったように眉尻を下げる。その表情はなぜかとても切なく、そして苦しそうなものだった。

「……いや、この言い方は卑怯だな」

 彼はそう言って小さく首を振ると、ゆっくりと口を開いた。

「俺は……施設で、鈴木雪也の保護者代わりをしていた者です」

 ゆっくりと、それでも一言一言を噛み締めるように紡がれたその言葉に、心臓がドクリと大きく脈打った。

「……え……?」

 児童養護施設の、職員。雪也くんの、保護者……代わり。どういうことだろう。