◇ ◇ ◇

 ざわざわとした東京駅の喧噪を忘れるほどの静けさを湛えた控室。ここ、丸の内は私にとってとても大切な場所だ。夏のあの日、当時の私にできる精一杯のお洒落をして歩いて回った場所だから。

「……」

 今でも瑞々しく思い出せる思い出をゆっくりとなぞるように、目の前の大きな窓に足を向けた。
 ガラス越しに見える、一面の春の空。それはどこまでも澄んでいて、抜けるような晴天だ。薄い雲がたなびいて、柔らかな日差しを地上に降り注がせている。

(綺麗……)

 まるで――()と初めて会話をした、五年前のあの日のよう。心の中でそっと呟けば、まるでそれが聞こえたかのようなタイミングでコンコン、と、扉がノックされた。

「鈴木さん、失礼します。……いいお天気ですね。本当に授賞式日和だわ」

 ゆっくりと振り返れば、柔らかな微笑みを湛えた二人の女性が立っていた。淡い水色のワンピースとシンプルな黒いパンツスーツを身に纏った彼女たちは、品の良い立ち姿のまま小さく会釈をした。

「本当に。……でも、私なんかがこんな場所にいていいのかなって思っちゃいますね」
「ご謙遜なさらなくても大丈夫ですよ。今回受賞された作品、本当に素晴らしかったですもの。改めまして、本日はよろしくお願いいたします」
「あ……こちらこそ」

 私が慌ててぺこりと頭を下げれば、彼女はまたふわりと微笑んでくれる。彼女は『公募ガイド』という、絵や小説、俳句や短歌などの創作作品の公募に関する雑誌の編集者で、今回の私の受賞に際して、授賞式前にコメントが欲しいとのことだった。
 水色のワンピースを身に纏ったインタビュアーの女性に促され、私は近くの椅子に手をかけると、パンツスーツの女性からもうひとつ隣の丸椅子へと言われたので、それに従い腰を落とす。彼女は少し離れた場所から一眼レフを構え、もう一人の女性に目配せをした。

(カメラ……)

 彼女の手の中にある一眼レフを見つめ、私はそっと目を伏せる。

「式の後は交流会がありますから、こうして早めのお時間を設定していただき大変助かりました」

 彼女の声にふっと顔を上げ、ゆっくりと笑みを作った。

「いえ……私の方こそ、こうしてインタビューいただけるなんて、その、夢のようで」

 緊張で不覚にも声が裏返ってしまう。うまく笑えているかもわからない。そんな私の様子に、インタビュアーの女性はくすりと微笑んでくれた。
 こんな風にマイクを向けられることも、家族以外からカメラを向けられることも、老舗の高級ホテルに足を踏み入れることも、なにもかもが初めての体験で正直緊張していたけれど、彼女の穏やかな雰囲気のおかげでずいぶんと気が楽になった気がする。

「ふふ、そんな緊張なさらないで。もっとリラックスしてくださいな」

 彼女はそう言うと、テーブルの上に置いた小さな黒い機械に視線を落とす。手慣れた様子で操作すると、ふわりと微笑んだ。

「記事に起こす際に齟齬を出させないためにも、録音させていただきますね。インタビュー中に私の相方がお写真を撮らせていただきます」

 そういって、目の前の彼女は先ほどのパンツスーツの女性を小さく手で示す。三脚の上に設置されたカメラが、降り注ぐ日差しをキラリと反射している。

(あ~……なるほど)

 大きな窓ガラス、そしてそれを支える銀のフレーム。それら越しの青い空を背景にした『私』。近未来的でありながら、それでいて温かな雰囲気の漂う映画のワンシーンのような写真に仕上がるのだろうと想像に難くない。

「はい……わかりました」
「それでは、始めさせていただきます。まず初めに……この度はおめでとうございます。今回のご受賞を振り返ってみて、いかがでしょうか?」

 私は小さく深呼吸をして心を落ち着かせると、ゆっくりと口を開いた。緊張しているせいか、喉がひりつくような感覚を覚える。けれどそれを悟られないよう意識しながら、私は言葉を続けた。

「ありがとうございます……とても光栄に思っています。今まで頑張ってきたことが報われたような気がして……本当に嬉しいです」

 ゆっくりと選んで紡ぎ出した私の言葉に、目の前のインタビュアーの女性は柔らかく微笑む。その瞬間、カシャ、と、軽快なシャッター音が私の鼓膜を震わせた。

「私、事前に鈴木さんのインスタグラムでこれまでの作品のお写真を拝見させていただきまして」

 その言葉に、私は少しだけ息を詰めた。高校を卒業したタイミングで開設した、作品だけを掲載している『画家』としてのインスタグラムアカウント。フォロワーは一万人に到達するかしないかくらいの、本当にささやかなものだ。作品を見てもらうために発信しているものの、いざこうやって面と向かって言われるのは、やっぱり少し面映ゆく感じてしまう。

「あ……ありがとうございます」
「どの作品も、透明感がありながら深みのある色調が特徴的で、見る者の心を魅了する不思議な魅力が感じられました」
「えっと……そう言っていただけると、本当に嬉しいです」

 私は小さく頭を下げると、そのままそっと目を伏せた。その言葉のひとつひとつが優しく耳に届くたび、淡くあたたかな感情がじんわりと染み込んでいくようだった。

「そして、鈴木さんは油絵だけでなくいろんな画材や技法を試していらっしゃいますよね。昨年アップされていたアルコールインクアートの作品は、個人的にとても新鮮に感じました。鈴木さんの作品はどれも透明感があって美しいのですが、あの作品は特にそれが強く出ているように思います。まるで水彩画のような透明感があって……でも、色を重ねることで深みも出ていましたし」
「あ、ありがとう……ございます。美大に進学し、色んな描き方を学んで、それが……今回の受賞に繋がったのかな、と……思っています」
「なるほど。それでは、今回の受賞作についてお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 目の前の彼女が、テーブルに広げた手帳に視線を落とす。美大を卒業した後にこうしてなにかのコンペで受賞すること自体、初めてのことで、ましてや今回の受賞作は私自身も思い入れの強い作品だ。かなり長い間あのキャンバスと向かい合ってきたからこそ、言葉にしようとすると緊張してしまう。それを彼女に悟られないように小さく息を吸うと、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「受賞作は……タイトルを『君の瞳』と名付けました」

 あの日の空が、私の瞼の裏に焼き付いて離れない。どこまでも広がる頭上に、オレンジ色と瑠璃色が混ざって溶けていく空。今回はあの時『彼』と一緒に見た景色を、全身全霊を持ってキャンバスに閉じ込めた。

「私、今作の技法にとても驚きました。絵の具に花びらを細かくしたものを混ぜていらっしゃるとか」
「あ……はい。クロッカス、沈丁花、ヒマラヤユキノシタという三種類のお花を自分の手でプリザーブドフラワーに加工して、それを絵の具に混ぜて夕焼け空を描きました」
「とても素敵ですね。絵の具に混ざったお花の色も綺麗に発色していますし、なによりも絵全体に深みが加わって……まるで本当に夕暮れ時を見ているかのよう」
「ありがとうございます」

 私は小さく頭を下げて、そっと目を伏せた。この絵の具に使った花たちは、『彼』との糸で結ばれた大切な花だ。紫がかったクロッカスも、淡いピンク色をした沈丁花も、目を引く珊瑚色のヒマラヤユキノシタも――私と彼が産まれた日の、誕生花だから。

「そして、夕焼けを描いたこの作品に『君の瞳』というタイトルをつけられたのは、なにか意味があってのことなのですか?」

 その言葉に、私は小さく頷いた。あの空を思い出すたび、『彼』の瞳の輝きが脳裏に浮かぶ。
 目の前の彼女が手帳にペンを走らせていく様子を眺めながら、私はそっと視線を落とす。

「あの作品は……私がずっと描きたかった『夕焼けの空』を表現したものです。高三の時に荒川の河川敷で見た夕焼けを、どうしても表現したくて」
「なるほど。この夕焼けを映した鈴木さんの瞳のことを俯瞰的にご覧になって、『君の瞳』と名付けられたということでしょうか」
「あ……えっと。……はい、そう……ですね……」

 本当は、少し違う。けれど、彼のことを深く話すことはしたくなくて、私は咄嗟に言葉を濁した。

「高校三年生と言えば、その……大変申し上げにくいのですが、鈴木さんが一度視力を失った時期と重なりますよね?」

 目の前のインタビュアーの女性は、そう言って申し訳なさそうに目を伏せる。私は小さく首肯し、言葉を続けた。

「はい。ちょうどその時期です」

 そこで言葉を切り、私はふっと息を吐いて目を閉じた。一生忘れることができない――退院前日に交わした会話の記憶を、ゆっくりと辿っていく。