三年に進級したからといって特に変わったことも無く、ただ淡々と月日だけが過ぎていった。五月に入って開催された体育祭は例年と同じように運動部の連中が活躍していたし、部活動をしている連中は最後のインハイ地区予選に向けてピリピリムードだが、帰宅部である俺にはそれらはまったく関係のない事柄だった。
 若葉と同じクラスになったものの、始業式の日に席替えが行われたので席が隣だとかそういうこともなく、毎朝友人たちと登校してきた彼女と昇降口で挨拶を交わす程度。美術コースを選んでいる彼女は造形やデッサンといった専門科目を選択しているので、同じ授業を受講する機会も少なく、現状の俺と若葉はただのクラスメイトで、ただの顔見知りなだけだった。
 彼女の周囲には休み時間や放課後問わず、いつも誰かしら人がいた。あまり人と関わるのが得意ではない俺にとっては、若葉の明るさと人懐っこさが少し羨ましくも思える。

「昨日のドラマ観た?」
「あれでしょ? 最後のあのシーン、めっちゃ泣けた!」

 若葉の周りには当然のように人が集まってくるし、いつもそこには笑顔が溢れている。そして今日も、彼女はいつもと変わらずクラスメイト数名に囲まれている。俺はただそれを遠くから見ているだけ。

「あーっ!! 五限目の世界史の教科書忘れちゃった~っ!!」
「も~。若葉なにやってるのぉ~」
「今朝まで覚えてたのにぃ。いいもん隣のまりちゃんに借りてくるっ」
「いってら~」
「若葉ったら相変わらず抜けてるんだから!」

 そんな彼女は、どうやら次の授業で使う教科書を忘れたらしい。頭を抱えた若葉がガタリと席をたち、パタパタと廊下を駆けていく。たなびくスカートの裾を視界の端で眺めながら、俺は小さく息をついた。

(友達……多いんだな)

 別に、嫉妬をしているとかそういうわけではない。ただ少し、彼女との距離を感じてしまうだけだ。彼女は俺が持っていないものをたくさん持っているから。
 俺はきっと、彼女のようにはなれない。人と関わるのが怖い――だからいつも一歩引いてしまうし、本音を隠して当たり障りのない言葉ばかりを紡いでしまう。

(……いや、別にあいつと友達になりたいとかそういうわけじゃないけど)

 そんな言い訳じみた言葉を心の中で繰り返しながら、俺は五限目の世界史の授業で使う教科書で顔を覆い隠すかのようにして机に突っ伏す。
『普通』でないと自覚している俺の深層意識では、きっと誰かに嫌われることがひどく恐ろしいのだろうと思う。だから俺は、いつの間にか自分の心を他人から隠そうとするようになっていた。感情や本音を心の奥底に仕舞い込んで、なるべく表に出さないようにしてきた。それがたとえ簡単な挨拶程度だとしても、他人と関わることはそれだけで俺には荷が重いのだ。
 だからこそ――彼女のその太陽のような笑顔は、俺には眩しすぎる。あまりにもキラキラ輝いていて、時折息が詰まりそうになってしまう。
 昼休みともなると多くの生徒が各グループごとに机をくっつけ合って談笑をしているが、俺はいつも一人だ。忘れ物をしても若葉のように頼れるほどの仲がいい友人がいるわけでもないし、授業でペアを組むよう言われても結局余った奴と組むことになることが多い。別に普段から一人でいることに特に不満があるわけでもないし、かと言っていじめや無視に遭うわけでもないのでまったく構わないのだけれども。

(なんか、今日はやけに眠いな)

 昨日は夜更かしをしたわけでもないのに、なんだか頭がぼんやりとする。それに少し息苦しさを感じるような気さえした。風邪でも引いたのだろうか。
 眠いのは朝目覚めた時からずっとだが、今日は妙に視界が霞む。それに、一時限目で配布されたレジュメで指先を切った時の血がなかなか止まらない。昼休みが終わった今もなお、張り替えた絆創膏に血が滲み出ている。
 目の前の指先を眺めながら机に伏せていると、ガラリと軋んだ音を立てながらドアが開かれていく。と同時に、教科書を胸に抱いた若葉が慌てた様子で教室に戻ってくる。若葉の後ろには、ポロシャツ姿の世界史の先生の姿があった。立ち話をしていた女子たちが慌てて席に戻っていくのを視線の端で捉えながら、俺はゆっくりと上半身を起こす。

「おーい、授業始めるぞ~」

 資料の束を手にした先生が気の抜けた声で教室内に呼びかける。数席右斜め前の席に急いで腰掛けた若葉が、机の横にかけた鞄からノートを引っ張り出そうとしているのが見えた。その様子を観察していると、不意に顔を上げた彼女と視線が絡み合う。その刹那、俺は反射的に視線を逸らしてしまった。

(……今の、ぜってぇ変に思われた)

 別に悪いことをしたわけではないのに、なんだか気恥ずかしい。そんなむず痒さのようなものを感じながら、俺は机の上に教科書を広げた。
 視界の隅に彼女が黒板の黒板の文字をノートに書き写しているのが映り込む。時折こんな不審な態度を取ってしまっているものの、それでも彼女は以前と変わらない様子で俺に接してくれている。
 ただひとつ、この二ヶ月で変わったことがあるとすれば、それはきっと――俺自身がこうして彼女を目で追うことが増えたとこと、くらいだ。

 ***

「あ」
「……あ」

 昇降口の靴箱に手を伸ばした瞬間、俺は思わず間の抜けた声を上げてしまった。目の前の若葉も驚いたように目を丸くしながらぱちぱちと数回瞬きをした後、はにかむように笑った。

「雪也くんも、今帰り?」
「……まあ、な」

 俺はそう短く返事をしてから、自分の靴箱の扉をゆっくりと開いた。上履きからローファーに履き替えつつ、視線を足元に落とす。

「私も今帰るところなんだ」
「……部活は?」
「来週実力テストだから、今日からみんなお休み~」

 靴を履き替えて顔を上げれば、若葉は手にしている鞄を肩にかけ直しながらこちらを見つめていた。その双眸がどこか嬉しそうに細められるものだから、俺は咄嗟にふいと視線を逸らしてしまう。なんだか気恥ずかしいような、それでいて居たたまれないような、形容しがたい妙な感覚が胸の奥でぐるぐると渦巻いている。それらを振り払うように小さく咳払いをしつつ、手に持った上履きを下駄箱に押し込んだ。

「この前図書室で勉強してるの見たから、放課後はいつもそっちに寄ってから帰るのかと思ってたの。だから今日はちょっとびっくりしちゃって」

 まさか、誰かに図書室で自習をしている様子を見られているとは思ってもおらず、俺は僅かに息を呑んだ。児童養護施設に保護されている俺は、放課後は図書室で勉強をしてから帰ることが多い。施設ではまだ幼い子どもたちに囲まれ、遊び相手をしたり宿題を見てやったりするので、俺自身が勉強する時間がなかなか取れないのだ。
 それに、学校の図書室の方が資料や参考書が豊富で勉強しやすいからということもある。ただ、今日はなんとなく気が乗らなくて、そのまま帰ることにしただけだ。

「別に、毎日図書室で勉強してるわけじゃねぇよ」

 彼女に秘密にしているわけでは無くとも、それがなんとなく気恥ずかしくて俺は若葉の言葉につっけんどんな調子で返事を返す。

「そうなんだ」

 若葉はそう短く返事をしてから、どこか少し照れくさそうに微笑んでいる。彼女のその笑顔に、また心がざわめくのを感じた。

(……なんでこいつ、こんな嬉しそうな顔してんだろ)

 俺は特に面白いことを言ったわけでもないし、むしろ素っ気なく乱雑な返事だったと思う。なのに彼女はどうしてか嬉しそうな顔をしているのだ。その笑顔にまた心が弾むのを感じながらも、俺はそれを悟られないように小さな咳払いで誤魔化した。

「そういうお前は?」
「私? いつもは部活がお休みの時は友達と一緒に帰ってるんだけど……今日はその子用事があるみたいで」
「……ふーん」

 つまり、今日は一緒に帰る相手がいないから俺に声をかけたということなのだろうか。俺はちらりと横目で若葉を見遣る。彼女は特に気にした様子も無く、にこにこと笑いながら隣を歩いている。
 俺は昔から人付き合いが苦手だった。施設の先生たちと打ち解けるにもずいぶんと時間がかかったらしい。らしい、というのは中学を卒業するときに施設長から聞いた話だからだ。
 先生たちは俺をなにかと気遣ってくれたし、孤児である俺の生活を色々とサポートしてくれた。そんな環境に甘えていたからだろうか、俺はいつの頃からか人との距離の取り方がよく分からなくなっていた。学校でも特別嫌な思いをしたわけでは無かったのだけれど、それでも人と関わることが億劫だと思うようになってからは、自然と人付き合いが減っていった。それこそ、高校生になってからはろくに話したこともないクラスメイトが大半を占めているくらいだ。
 けれど、なぜか若葉はそんな俺とでも普通に接してくれるから、俺もつい気を許してしまう。
 若葉は誰にでも分け隔てなく優しい。人懐っこく明るい性格は、きっと俺なんかには逆立ちしたってなれないものだし、俺にとってそれがどうしようもなく羨ましく思える。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、若葉はそんな俺の様子を横目で見遣りながら、少し遠慮がちに言葉を続けた。

「えっと……雪也くんさえ良ければ、なんだけど。一緒に帰ってもいいかな?」
「……は?」

 予想外の言葉に一瞬驚いて目を丸くする。若葉はそれに気が付いているのかいないのか、少し緊張したような面持ちでこちらを見つめていた。

「今日の世界史、全然ついていけなくって……このままじゃテストだめかもって思ったらちょっと心配になって。参考書を買いたいんだけど、この前校内模試で世界史が上位だった雪也くんのおすすめを教えてほしいなって思ってるんだ」

 若葉はそう言いながら、困ったように眉尻を下げて笑った。確かに俺は世界史が好きだし、一年の頃から定期試験では世界史だけは常に上位をキープしていた。しかし、だからと言って人になにかを勧めることに自信があるわけでもない。けれど、若葉が俺を頼ってくれているという事実に、なんだか少し心が浮つくような感覚を覚えるのも、また確かな事実だった。

「別に……いいけど」

 俺はそう短く返事をしてから、視線を逸らした。別に断る理由もないし、なにより若葉と一緒に帰ることができるのは素直に嬉しかった。ただそれを悟られたくなくて、つい気のない態度を取ってしまう自分がいる。そんな俺の心情を知って知らでか、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせていた。

「ほんと? ありがと!」

 高くなってきた六月の青空を背景に、頬を染めて照れたようにはにかむ彼女の姿が妙に印象的で、俺はなぜだか若葉のその表情から目が離せなかった。