瞼を開くと、目が眩むほどの眩い照明が目に飛び込んできた。それと同時に、身体中を突き刺すような痛みが駆け巡る。

「は……あ……」

 なんとか声を絞り出そうとするものの、叶わなかった。鼻から下は緑がかった青いなにかで覆われている。口の中に管が入っていて、ひどく不快だ。四方を真っ白な壁紙に囲まれている。視界を占領する天井、俺を囲む数多の機材、銀の光を湛えた点滴スタンド、身体に繋がれている無数の管。
 ここは、どこだろう。俺は、どうしてこんな場所に横たわっているのだろう。ぼんやりとする頭で、必死に記憶を遡っていく。その刹那、あの瞬間の記憶がフラッシュバックした。
 血の匂いと、どろりとした液体の感触。そして、全身を駆け抜ける鋭い痛み。その記憶はあまりにも鮮明で生々しいものだった。

「う……ぐ……」

 反射的に口元を押さえようとしたけれど、腕が鉛のように重い。

「あっ……意識戻った!」

 バタバタと走り回る足音が聞こえる。ゆっくりと目だけを動かすと、真っ白な世界の中に奇妙に浮かぶ、空色のマスクとガウン。それと同色の帽子を身に纏った女性が、ひどく驚いたような顔をして俺に駆け寄ってくる。

「先生呼んできて!」
「は、はいっ!」

 その声に弾かれるように、近くにいた看護師が慌てた様子で駆けていくのが見える。

「雪也く~ん、今、お姉さんが手を触ってるのわかる?」

 はきはきとした張りのある声が耳朶を打つ。俺はそれに答えようとするも、うまく声が出ない。まるで喉の奥が焼けてしまったかのようにひりついていて、痛いのだ。

「あ、無理して喋らなくていいからね~。お姉さんの声、聞こえてる?」

 目の前の彼女の言葉に小さく頷いて見せると、彼女はほっとしたように息を吐いた。

「お姉さんの手、握れるかな?」

 その言葉に促されるように、俺はゆっくりと彼女の手を握りしめる。青のゴム手袋越しでも、やわらかな感触が伝わってくる。彼女は小さく微笑むと、ゆっくりと俺の手を離した。

「うん、バッチリ。今ね~、雪也くんすごい熱出ちゃってるから、お薬で下げてるところなんだ~。だからもうちょっとだけ我慢しててね~」

 その声と同時にひんやりとした手が額に触れたかと思うと、すぐに離れていく。それはまるで幼い子供をあやすような手つきだったけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
 滲んでは鮮明になる視界のまま、俺はゆっくりと顔だけを動かしていく。壁に掛けられたデジタル時計が――俺の記憶にある、スマホの日時から一日半ほど進んでいることを教えてくれていた。

(……お、れ……は)

 声にならない声が唇から零れ落ちる。その瞬間、ずきりとした痛みが胸を襲った。心臓を直接握り込まれたような痛みに息が詰まると同時に、ベッド横の機械がビーッと大きな音を立てた。

「あっ……!」

 慌てたような看護師の声。それと同時にバタバタと走り回る足音が聞こえる。その足音は、まるで嵐のようだ。

「雪也くん、ちょっと胸の音聴かせてね」

 いつの間にかベッド横には白衣の男性が立っていて、俺の胸元にひやりとしたなにかを当てていく。その冷たい感触は、俺の胸の上を何度か行き来したかと思うと、すぐに離れていった。

「……ん。鎮静剤追加でいいよ」
「はい」
「それからオペ室の予定確認してきて。彼のオペ、早めようか」
「わかりました」

 白衣の男性はそう言うと、小さく息を吐く。その横顔には疲労の色が滲んでいて、彼がひどく疲れていることが見て取れた。

「雪也くん。あのね、今、君の心臓は弁がうまく動いていなくて、それが悪さして熱に繋がってるんだ。手術室が空いたらすぐにオペするから、それまで頑張ってね。大丈夫。すぐによくなるからね」

 彼は俺の目をまっすぐ見つめながらそう言うと、ゆっくりと俺の頭を撫でてくれた。声を出すことはまだ難しそうだったから、俺は小さく頷いた。

「すぐに終わるから安心してね」

 彼はそう言うと俺の頭をもう一度優しく撫でてくれたあと、看護師にいくつか指示を飛ばしていく。そしてそのまま足早に部屋を出ていってしまう。その背中を見送りつつ、俺はゆっくりと息を吐き出した。

「……連絡……もしかすると、今夜が……」

 遠くで一人の看護師が電話で話している声が途切れ途切れ耳に届く。その声をぼんやりと聞きながら、俺は小さく息を吐いた。

(こん、や……)

 その言葉がなにを意味しているか――なんとなく、想像がついてしまう。俺は小さく息を吐きながら、ゆっくりと瞼を閉じる。
 視界が暗くなれば、あの日見た夕焼け空が脳裏に蘇った。それは俺の記憶の中で色褪せることはなく、むしろ鮮やかな色彩で焼き付いている。

『雪也くん!』

 長い黒髪をたなびかせながらこちらを振り返った彼女の声が、軽やかに耳の奥で響く。と同時に、目頭が熱くなっていくのを感じた。つぅ、と、こめかみを一筋の涙が零れ落ちていく。
 いまだに消えない初恋は俺の中に燻り続けていて、いつまでも俺の心を焼き焦がしている。

(おれ、は……)

 まだなにも伝えられていない。伝えたい想いも、感謝の気持ちだって、なに一つ言葉にできていない。
 それなのに、こんな終わり方なんて、あんまりじゃないか。

(おれ……は、)

 まだ、あきらめたくない。
 まだ――俺には、()()()()()()、できることがある。
 俺はゆっくりと息を吸い込み、静かに吐き出す。そしてそのまま拳をぎゅっと強く握り込むと、そっと唇を動かした。

「か、んごし……さ」

 喉がひりつく感覚に顔を顰めながら、俺はゆっくりと言葉を紡ぐ。その声はひどく掠れていて、音として認識するのが精一杯だった。それでも、慌ただしく歩き回っていた足音がピタリと止んだのがわかった。

「雪也くん、どうしたの? お水欲しい?」

 俺のそばに駆け寄ってきてくれた看護師が心配そうに俺の顔をのぞき込む。俺は小さく首を横に振ると、力の入らない声帯を必死に震わせた。