「だから私ね、ラッキーだな、って。私は目が見えないから、他の感覚で世界を感じることができる。だから、『初めて』の体験をたくさんできるし、その分たくさんの『初めて』に出会える。今まで以上にたくさんのことを感じられる。……ううん、きっと、他の人たちよりもたくさんのなにかを感じられる。それって、画家として飛びぬけてすごいことだと思わない?」

 その声色はまるで鈴の音のように軽やかで、美しい響き伴って俺の鼓膜を震わせる。まるで――夢を追いかけている時のそれと、まったく変わらないもの、で。身体の芯から込み上げるなにかに、俺は小さく息を呑んだ。

(ああ)

 どうしてそこまでできるのだろう。視力を失い、彼女が抱いていた夢も、手の届かない場所にいってしまったというのに。それでも彼女は前を向いて、歩き続けようとしている。

(……なんで、そんな)

 だって、もう見えていないはずなのに。
 どうしてそんな風に振る舞えるのだろう。
 どうしてそんな風に、笑っていられるのだろう。
 どうしてそんなに、明るくいられるのだろう。
 白い包帯に隠された瞳はなにも映すことができないのに、それでもなお前を向き続ける彼女の強さが眩しくて仕方がない。
 今のまま画家を目指すなんて、そんなのは無謀だと――そう切り捨ててしまうことは簡単だ。
 けれど、彼女がどれだけ強いのかを知ってしまった今、そんな言葉を投げかけることなんて、できるはずもなくて。

「あ、そうだ。これね、あと一週間で取ってよくなるみたい」

 彼女は自分の目元を指先でなぞる仕草をする。その声音はとても楽しげで、本当にその日を心待ちにしているのが伝わってくる。

「見えなさすぎるのもあれだから角膜移植は受けたいなと思って、いろいろ手続きしてるけど、拒絶反応とか、あとは結局視力が戻らないリスクとかもあるみたいだし。だから、これからどうなってもいいように、いろんなパターンを想定して準備してるんだ」

 彼女はそう言って、小さく笑った。口元だけだというのに、彼女の弾けるような笑顔が目の前にあるように思えた。その表情はまるで、未来への希望に満ち溢れているようにさえ思えた。

「絶対……大丈夫だ。若葉なら」

 無意識のうちに、俺は力強く口走っていた。根拠なんてなに一つない。けれど、そう伝えずにはいられなかった。

「若葉なら、絶対にいい画家になる。また目が見えるようになっても、そうじゃなくても。俺が保証する」

 ゆっくりと指先を動かし、俺はその手を温めるように、自分の両手で包み込むようにして握った。この指先に想いを込めれば込めるほど、彼女がここにいるのだと実感できるから――なんて言ったら、きっと笑われてしまうのだろうけれど。

「俺は、写真家になるって……決めたんだ。就職して、社会人になって、下積みをして……いつの日か、若葉が書いた絵を撮りたい。若葉のアー写を撮るのは俺って決めてるんだ。だから……」

 俺は小さく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。そしてそのまま真っ直ぐに、真っ白な包帯の下に隠された彼女の瞳を見つめた。俺の言葉の一つ一つが、若葉に染み込んでいけばいい。そんな願いを込め、ゆっくりと言葉を探す。

「だから、絶対に諦めんな。約束だぞ」

 俺がそう言葉を締めくくると、彼女は小さく息を飲んだ。その沈黙は数秒にも数分にも感じられた。
 やがて彼女の小さな吐息と共にそれが破られ、囁くような小さな声が俺たちしかいないこの空間の空気を震わせていく。

「……うん」

 俺の手を握り返す彼女の手に力が込められたのがわかる。それはひどく温かく、優しい手だった。その指先から伝わる体温に――俺はふっと手を伸ばし、彼女の頬に触れた。柔らかくて温かい頬の輪郭をなぞるように指先を動かせば、ぴくり、と、若葉の身体が震える。

(あぁ……)

 俺は今、どんな表情をしているのだろう。きっと、人生で一番にひどい顔をしているはずだ。だって、こんなにも胸が苦しくてたまらないのだから。
 全身が、焼けるように熱い。なのに、それでもなお、狂おしいほどの想いが溢れて止まらない。

「ありがとう……雪也くん」

 若葉は囁くように口を開くと、頬に触れている俺の手のひらにそっと手を重ねてくる。その手は小さく震えていて、けれど温かな熱を帯びていた。
 まるで心臓を握り潰されているかのように痛い。目頭が熱くなり、視界がぼやけていく。

「私、頑張るね」

 その声音はひどく優しいもので、俺は小さく笑みを零す。これ以上言葉を発したら、泣き出してしまうような気がして――堪えるように肩を震わせながらただ黙って頷き返すことだけで精一杯だった。

「俺……っ」

 込み上げてくる感情に我知らず声が震える。喉の奥が熱い。視界を揺らす涙を零さないようにぐっと唇を噛み締める。

「……あまり長居すると看護師さんに怒られそうだから、……そろそろ帰るな」

 本当は、もっと言いたいことがあった。もっともっと、伝えたい想いがあった。でも、それをすべて口にしてしまったら、きっと歯止めが効かなくなってしまう。
 だから俺は、喉の奥から零れ落ちそうになった言葉を飲み込み、若葉の頬に置いた手をそっと離す。

「また、会いに来る。絶対に」

 俺はそれだけ告げると、シーツの上に置かれた彼女の手をゆるりと握り込む。その指先は微かに震えていて、俺の熱を若葉へと伝えていく。

「……うん」

 彼女は小さく頷きながらそう答えると、俺の手をぎゅうと握り締めてくる。その温もりがあまりにも優しくて、切なくて――このまま離れたくないという想いが膨れ上がる。

「雪也くんの声が聞けて、よかった。来てくれて、ありがと!」

 若葉はそう言葉を続けると、俺に向かって小さく微笑んで見せた。その表情は、思わず息を飲んでしまうほど綺麗、で。俺はまた、ぐっと唇を噛みしめる。

「……ああ」

 そんな短い言葉を口にするのが精一杯だった。これ以上なにかを口にしたら、きっと涙が零れてしまうから。

(好きだ)

 そう口にしてしまいそうになるのを必死に押さえ込んで、俺はゆっくりとその手を離した。

「またな」

 俺は小さくそれだけ告げると、踵を返して病室の出口へと向かう。その足取りは重く、一歩進むごとに胸が張り裂けそうなほど痛いけれど、それでも歩みを止めることはできなくて。

「うん! またね!」

 そんな彼女の明るく涼やかな声が背中越しに耳朶を打つ。身体の芯から振り返りたくなる衝動が抑えがたく膨れ上がった。けれど、ぐっと唇を噛みしめ、そのまま扉に手をかけゆっくりと足を踏み出す。

「っ、は……」

 病室の扉を締め切った瞬間、俺は大きく息を吐き出した。それはまるで、肺の中に溜まっていた空気をすべて吐き出すかのような勢いで。
 そのまま視線を落とし、自分の手のひらを見つめた。そこにはまだ彼女の温もりが残っているような気がして――それを逃さないようにぎゅっと拳を握りしめる。

(……俺も)

 俺だって、諦めたくない。目が見えなくても、それでもなお前を向き続ける彼女を、俺が撮った写真で世の中に送り出してやりたい。その夢は、まだ潰えたわけじゃない。

「っし」

 小さく呟くと、俺は自分の頬を両手でパンッと叩く。
 もう迷いはない。あとは前を向いて進むだけだ。俺はゆっくりと来た道を戻り、連絡通路を目指す。

(怒られるだろうな……)

 点滴を自分で抜いて病室を抜け出してしまったから、看護師に怒られることは必至だろう。
 けれど、それでもいい。俺はどうしても、若葉に会いたかったから。
 小さな笑みを零しつつ、ゆっくりと階段を上る。手すりを掴み、一段ずつゆっくりと足を進めていく。

「はぁっ……はっ……」

 息を切らしながらも踊り場へと続く最上段まで上りきり、連絡通路に出た瞬間――まるで心臓に直接ナイフを突き刺されたかのような鋭い痛みが走り、俺は胸元を押さえながら小さく呻いた。と同時に、喉の奥からなにかがせり上がってくる感覚にぞわりと背中が震える。

「っ、!」

 吐き気をなんとか飲み込んでやり過ごそうとしたものの、失敗した。咄嗟に口元を覆ったものの間に合わず、手のひらにはどろりとした生暖かい液体が広がるのがわかった。手のひらからそれらが零れ落ち、ビシャリという嫌な水音を立てていく。
 鉄の味と匂いに顔をしかめながらなんとかその場に踏みとどまったものの、ぐらりと視界が大きく揺れる。まるでジェットコースターに乗っているような浮遊感に吐き気を覚える。縋りつくように踊り場の壁に手を付くと、そのままずるずるとその場に膝から崩れ落ちた。

「はぁ……っ」

 荒く息を吐き出しながら壁に身体を預ける。全身がひどく熱いのに、背筋は凍るように寒い。心臓がどくどくと脈打ち、その度に鋭い痛みが脳天を貫く。

「く、そ……」

 身体の中心に走る焼け付くような痛みに視界がぐわりと歪んでいく。息を吸ってもうまく吸うことができず、まるで水の中にいるようだ。なのに、身体中の血液が沸騰してしまったかのように熱い。

(俺は……)

 こんなところで終わりたくない。俺にはまだ、やりたいことがたくさんある。

 画家として成功した若葉の写真を撮ってやりたいし、それに――俺は彼女に伝えていない言葉が、ひとつだけある。

「まだ……まだ、俺は……」

 堪えがたい痛みを堪えるように背中を丸めて小さく呻くと、自分の口からごぼりと血の塊が流れ落ちたのがわかった。それはまるで俺の命が零れていくようで――恐怖で身体が震える。
 じわりと視界が滲んでいくのを感じた瞬間、俺はぎゅっと瞼を閉じた。
 はらり、と。頬を伝う、なにか。その熱い感覚をどこか他人事のように感じながら――俺はゆっくりと意識を手放した。