衝動的に引き抜いた瞬間に感じた針が抜ける独特の痛みに一瞬顔を顰めつつ、病室を飛び出すように後にする。
俺が入院しているA棟からB棟へは、一階下の連絡通路を使えばすぐに行ける。エレベーターを待つ時間もさえもどかしく、その隣にあった階段で駆け下りた。
早鐘を打つ心臓をなんとか抑え込みながら軽く息を吐き出した瞬間、どくりと心臓が波打ち、脚がもつれてしまう。
「っ、く……」
一瞬視界が白んでいくのを感じるが、なんとか意識を保って階段の手すりへしがみつく。全身を駆け抜けていく刺すような痛みに負けてしまわぬよう、ぐっと唇を噛みしめた。
息がつまりそうな錯覚を覚えるほどの激しい痛みは、まるで「これ以上進むな」と警告しているかのようにも思える。俺はゆっくりと階段を降り、壁に手を突きながら一歩ずつ足を進める。
連絡通路を抜けた先にある階段をもう一度下りると、広々とした廊下が広がっていた。面会時間が終わる時間に差し掛かっているからだろう、廊下にはほとんど人影がなく静まり返っていた。
頭上に光が瞬いて、人工的な明るさが床に伸びる影を濃くしていく。ゆっくりと周囲を見渡せば、左手の突き当たりに多目的トイレが見えてくる。そのすぐ横の病室に――彼女はいるはずだ。
「っ……」
俺は大きく息を吸い込み呼吸を整えてからゆっくりと足を踏み出した。そしてそのまままっすぐにその病室へと足を向けると、静かに扉をノックする。
「はい」
少し高くて柔らかい、涼やかな若葉の声を久しぶりに聞いた気がした。もうずっと聞いていなかったような気さえするその声音に、不覚にも泣きそうになるのをぐっと堪えて、俺はゆっくりと唇を開いた。
「俺」
その瞬間、病室の中から息を呑む気配がした。俺はそれに気づかないふりをして言葉を続ける。
「入って……いいか」
小さく掠れた声になってしまったが、彼女はきっと聞き取ってくれているはずだ。そう信じて俺はぎゅっと拳を握ると、彼女の返事を待った。すると数秒後、か細い声が俺の耳に届く。
「……うん」
俺は一度大きく深呼吸してから、ゆっくりと扉を開く。その瞬間、ふわりと花のような香りが鼻腔をくすぐる。柔らかな甘い香りに誘われるように視線を巡らせれば、ベッドサイドに置かれた花瓶の花の香りだとわかった。
足を踏み入れた個室は八畳ほどの広さがあり、大きな窓には群青色と茜色が混じりきらない空が切り取られている。窓際にはベッドが置かれていて、そのベッドに――彼女は、いた。
「雪也……くん」
久しぶりに見た彼女の姿に、ひゅっと息を呑んでしまう。最後に会った時よりもわずかばかり痩せてしまったように見えた。艶やかな長い黒髪が白い入院着にかかり、彼女の華奢な身体をより儚げに見せている。
そしてなにより目を引いたのが、彼女の目元を覆っている白い布だった。
(ああ、やっぱり)
若葉はもう、視力を失ってしまっている。その事実に打ちのめされそうになるのと同時に、身体の奥からどす黒い感情が溢れ出してきて叫びだしたい衝動に駆られる。
それを必死で押し殺して、俺はそっとベッドに近づきながら震える声を絞り出した。
「……久しぶり」
俺がそう声をかけると彼女は少しの沈黙のあと、小さく息を吸い込むとゆっくりと口を開いた。
「もう。今度会った時にびっくりしないでって、前にラインで言ったでしょ?」
わずかばかり不満げなその声色は、以前と変わらない明るいもの、で。懐かしさのあまり、じわりと眦に熱いものが滲んでしまうのをなんとか堪える。
確かに――若葉からの以前のメッセージに、日焼けしたかもしれないから驚かないでほしい、と、そう書いてあった。それを今の状態にも当てはめているのだろう。彼女なりの精一杯の強がりなのだと受け取った俺は、若葉に聞こえないように小さく息を吐き出した。言いようのない悲しみと切なさを堪え、俺はぐっと拳を握り込む。
「悪い」
膨れっ面をした若葉の反応に俺は苦笑いを浮かべつつ、小さくそれだけ返してから彼女のそばへと歩み寄る。一歩足を踏み出すごとに刺すような痛みが襲ってくるが、俺はその痛みから必死に意識を逸らし、ベッドサイドの丸椅子へと腰を下ろす。
「もう……見えていないんだな」
「うん」
俺の問いかけに、若葉はあっさりと肯定する。その声音に悲壮感はなく、むしろ吹っ切れたような清々しささえ感じられた。胸に渦巻く気重さから唇を噛むと、俺はゆるりと腕を伸ばした。
真っ白なシーツの上に置かれた若葉の手のひら。指先に触れた途端、ぴくりと小さく指が震えたのがわかったけれど、彼女はその手を引っ込めようとはしなかった。
「雪也くんの手……あったかいね」
「……そうか?」
「うん。すっごくあったかい」
彼女は小さく頷きながらそう答える。その声はひどく穏やかで、まるで凪いだ水面のように静かだった。
見えていないのなら逆に好都合だ。レンタルした入院着のまま衝動的にここに来てしまったし、今の俺は絶対に顔色もよくないはず。腕には内出血を伴ったたくさんの点滴痕が残っている。それらを若葉に悟られることもない。
「連絡……返せなくてごめんな。就職試験のアレでいろいろあってさ」
俺はゆっくりと息を吸い込むと、なるべく普段通りの口調で声を上げた。じくじくと刺されるような心臓の痛みを悟られないよう、細心の注意を払いながら。
「ううん、気にしてない。大変だったんだね」
彼女は俺の手を握り返すと、小さく首を横に振った。その声音は優しく、俺の体調を気遣うような響きを孕んでいる。
「雪也くんが元気そうで、本当によかった」
ぽつりと呟かれた彼女の言葉に、ぐっと唇を噛みしめる。自分の視力が失われてしまったというのに、俺の様子を気にかけてくれるなんて――あまりにもお人好しすぎるのではないか。
それと同時に、そんな彼女に抱く罪悪感も強くなっていく。自分勝手な想いで連絡を絶ち、彼女を避けていた。そのことで、彼女をひどく傷つけたに違いないのに、若葉が見えていないことをいいことに嘘をついている。そんな自分がひどく情けなくて、自己嫌悪に陥る。
けれど――それでも。俺はまだ、彼女の前に立っていられる。こうして手を取り合って、体温を分け合うこともできる。だから、すべてが嘘だというわけじゃない。
「雪也くん?」
俺が黙り込んでしまったからだろう。若葉は不思議そうな声で俺の名前を呼ぶと、小さく首を傾げた。その仕草にゆるりと口元が綻ぶ。
「いや……お前こそ、元気そうでよかった。ちょっと、髪……伸びただろ」
左側に流されている艶のある黒髪の毛先にそっと右手を伸ばす。指先にその毛先を絡めると、彼女は小さく肩を揺らした。
「う~ん、どうだろう。でも、確かに伸びた……のかな?」
「ああ、前よりも少し長くなった気がする」
「そっか。見えないから自分じゃよくわかんなくて」
若葉はそう言うと小さく笑いを零す。その笑い声はひどく穏やかで、優しい響きを帯びていた。
(なにを……話せばいい)
話したいことは山のようにあるはずなのに、いざ彼女を前にしてみると言葉が出てこないのはどうしてだろう。
「目が見えないって……どんな感じなんだ?」
悶々と考え込んだ末に、不意に口をついた言葉。彼女の心に土足で踏み込んでしまったように感じて、はっと息を呑んだ。無神経すぎたかもしれない。けれど、彼女は特に気にした様子はなく、「うーん」と首を少し傾げ考えこんだあと、ゆっくりと唇を開いた。
「そうだなぁ……まずね、視界が真っ暗でなにも見えないの」
「……うん」
「それから、目が見えないと他の感覚が鋭くなるみたい。音とか、匂いとか……あとは触覚かな? そういうのがすごくわかるの」
「へぇ……」
彼女の言葉に相槌を打ちながら俺は小さく頷く。確かに視覚から情報を得ることができなくなったら、その分他の感覚器官が鋭敏になるのかもしれない。
「……でも、やっぱり……見えないって、不安だろ」
俺はそう小さく問いかけると、彼女の手をそっと握り込む。俺が若葉と同じ状態になってしまったら、二度と立ち直れないかもしれない。想像してみると、心臓を鷲掴みにされたかのような息苦しさを覚えた。
「う~ん……最初はちょっと怖かったけど、今はもうそんなに……かな。いつまで入院してなきゃいけないのかなって、今はそっちのほうが気になってる」
彼女はそう答えながら小さく笑う。その声色は明るくて、本当に不安や恐怖を感じていないのだとわかる。予想外すぎる言葉に、俺はぱちりと目を瞬かせた。
驚いている俺の様子に気づいていない彼女はそのまま言葉を紡ぎ続ける。
「人生って、『初めての事』の連続だと思うの。初めての経験をしたら、その分いろんな体験ができるでしょ? だから、ラッキーだったな、って」
「……」
彼女はそう言うと、俺の手を握る指先にきゅっと力を込める。まるで落ち込んでいる俺を励ますようなその仕草に、なぜか明日世界が消えてしまうかのようなやるせない思いが心に圧し掛かってくる。
「それにね、見えない分、今までよりも……もっとたくさん感じられる気がするの」
「……え?」
若葉の言葉の意図を測りかねて小さく聞き返せば、彼女は口元を綻ばせ、顔を天井へと向けた。
「目が見えなくなってから……前よりも色んな音がよく聞こえるようになったんだ。例えば、風の音とか、鳥のさえずりとか。それからね、人の声とかもすごくわかるようになったの」
穏やかに、そしてどこか嬉しそうに、彼女はそう告げる。その声音に嘘や強がりは感じられない。俺は無言のままで、彼女の言葉に耳を傾け続けた。
「雪也くんが病室に来てくれた時、すぐにわかった。雪也くんの、声で」
「……そう、か」
「うん」
彼女はそこで小さく頷くと、顔をこちらに向けた。俺の手を握りながら静かに言葉を続ける。桜色の小さな唇が、ゆっくりと動いていく。
俺が入院しているA棟からB棟へは、一階下の連絡通路を使えばすぐに行ける。エレベーターを待つ時間もさえもどかしく、その隣にあった階段で駆け下りた。
早鐘を打つ心臓をなんとか抑え込みながら軽く息を吐き出した瞬間、どくりと心臓が波打ち、脚がもつれてしまう。
「っ、く……」
一瞬視界が白んでいくのを感じるが、なんとか意識を保って階段の手すりへしがみつく。全身を駆け抜けていく刺すような痛みに負けてしまわぬよう、ぐっと唇を噛みしめた。
息がつまりそうな錯覚を覚えるほどの激しい痛みは、まるで「これ以上進むな」と警告しているかのようにも思える。俺はゆっくりと階段を降り、壁に手を突きながら一歩ずつ足を進める。
連絡通路を抜けた先にある階段をもう一度下りると、広々とした廊下が広がっていた。面会時間が終わる時間に差し掛かっているからだろう、廊下にはほとんど人影がなく静まり返っていた。
頭上に光が瞬いて、人工的な明るさが床に伸びる影を濃くしていく。ゆっくりと周囲を見渡せば、左手の突き当たりに多目的トイレが見えてくる。そのすぐ横の病室に――彼女はいるはずだ。
「っ……」
俺は大きく息を吸い込み呼吸を整えてからゆっくりと足を踏み出した。そしてそのまままっすぐにその病室へと足を向けると、静かに扉をノックする。
「はい」
少し高くて柔らかい、涼やかな若葉の声を久しぶりに聞いた気がした。もうずっと聞いていなかったような気さえするその声音に、不覚にも泣きそうになるのをぐっと堪えて、俺はゆっくりと唇を開いた。
「俺」
その瞬間、病室の中から息を呑む気配がした。俺はそれに気づかないふりをして言葉を続ける。
「入って……いいか」
小さく掠れた声になってしまったが、彼女はきっと聞き取ってくれているはずだ。そう信じて俺はぎゅっと拳を握ると、彼女の返事を待った。すると数秒後、か細い声が俺の耳に届く。
「……うん」
俺は一度大きく深呼吸してから、ゆっくりと扉を開く。その瞬間、ふわりと花のような香りが鼻腔をくすぐる。柔らかな甘い香りに誘われるように視線を巡らせれば、ベッドサイドに置かれた花瓶の花の香りだとわかった。
足を踏み入れた個室は八畳ほどの広さがあり、大きな窓には群青色と茜色が混じりきらない空が切り取られている。窓際にはベッドが置かれていて、そのベッドに――彼女は、いた。
「雪也……くん」
久しぶりに見た彼女の姿に、ひゅっと息を呑んでしまう。最後に会った時よりもわずかばかり痩せてしまったように見えた。艶やかな長い黒髪が白い入院着にかかり、彼女の華奢な身体をより儚げに見せている。
そしてなにより目を引いたのが、彼女の目元を覆っている白い布だった。
(ああ、やっぱり)
若葉はもう、視力を失ってしまっている。その事実に打ちのめされそうになるのと同時に、身体の奥からどす黒い感情が溢れ出してきて叫びだしたい衝動に駆られる。
それを必死で押し殺して、俺はそっとベッドに近づきながら震える声を絞り出した。
「……久しぶり」
俺がそう声をかけると彼女は少しの沈黙のあと、小さく息を吸い込むとゆっくりと口を開いた。
「もう。今度会った時にびっくりしないでって、前にラインで言ったでしょ?」
わずかばかり不満げなその声色は、以前と変わらない明るいもの、で。懐かしさのあまり、じわりと眦に熱いものが滲んでしまうのをなんとか堪える。
確かに――若葉からの以前のメッセージに、日焼けしたかもしれないから驚かないでほしい、と、そう書いてあった。それを今の状態にも当てはめているのだろう。彼女なりの精一杯の強がりなのだと受け取った俺は、若葉に聞こえないように小さく息を吐き出した。言いようのない悲しみと切なさを堪え、俺はぐっと拳を握り込む。
「悪い」
膨れっ面をした若葉の反応に俺は苦笑いを浮かべつつ、小さくそれだけ返してから彼女のそばへと歩み寄る。一歩足を踏み出すごとに刺すような痛みが襲ってくるが、俺はその痛みから必死に意識を逸らし、ベッドサイドの丸椅子へと腰を下ろす。
「もう……見えていないんだな」
「うん」
俺の問いかけに、若葉はあっさりと肯定する。その声音に悲壮感はなく、むしろ吹っ切れたような清々しささえ感じられた。胸に渦巻く気重さから唇を噛むと、俺はゆるりと腕を伸ばした。
真っ白なシーツの上に置かれた若葉の手のひら。指先に触れた途端、ぴくりと小さく指が震えたのがわかったけれど、彼女はその手を引っ込めようとはしなかった。
「雪也くんの手……あったかいね」
「……そうか?」
「うん。すっごくあったかい」
彼女は小さく頷きながらそう答える。その声はひどく穏やかで、まるで凪いだ水面のように静かだった。
見えていないのなら逆に好都合だ。レンタルした入院着のまま衝動的にここに来てしまったし、今の俺は絶対に顔色もよくないはず。腕には内出血を伴ったたくさんの点滴痕が残っている。それらを若葉に悟られることもない。
「連絡……返せなくてごめんな。就職試験のアレでいろいろあってさ」
俺はゆっくりと息を吸い込むと、なるべく普段通りの口調で声を上げた。じくじくと刺されるような心臓の痛みを悟られないよう、細心の注意を払いながら。
「ううん、気にしてない。大変だったんだね」
彼女は俺の手を握り返すと、小さく首を横に振った。その声音は優しく、俺の体調を気遣うような響きを孕んでいる。
「雪也くんが元気そうで、本当によかった」
ぽつりと呟かれた彼女の言葉に、ぐっと唇を噛みしめる。自分の視力が失われてしまったというのに、俺の様子を気にかけてくれるなんて――あまりにもお人好しすぎるのではないか。
それと同時に、そんな彼女に抱く罪悪感も強くなっていく。自分勝手な想いで連絡を絶ち、彼女を避けていた。そのことで、彼女をひどく傷つけたに違いないのに、若葉が見えていないことをいいことに嘘をついている。そんな自分がひどく情けなくて、自己嫌悪に陥る。
けれど――それでも。俺はまだ、彼女の前に立っていられる。こうして手を取り合って、体温を分け合うこともできる。だから、すべてが嘘だというわけじゃない。
「雪也くん?」
俺が黙り込んでしまったからだろう。若葉は不思議そうな声で俺の名前を呼ぶと、小さく首を傾げた。その仕草にゆるりと口元が綻ぶ。
「いや……お前こそ、元気そうでよかった。ちょっと、髪……伸びただろ」
左側に流されている艶のある黒髪の毛先にそっと右手を伸ばす。指先にその毛先を絡めると、彼女は小さく肩を揺らした。
「う~ん、どうだろう。でも、確かに伸びた……のかな?」
「ああ、前よりも少し長くなった気がする」
「そっか。見えないから自分じゃよくわかんなくて」
若葉はそう言うと小さく笑いを零す。その笑い声はひどく穏やかで、優しい響きを帯びていた。
(なにを……話せばいい)
話したいことは山のようにあるはずなのに、いざ彼女を前にしてみると言葉が出てこないのはどうしてだろう。
「目が見えないって……どんな感じなんだ?」
悶々と考え込んだ末に、不意に口をついた言葉。彼女の心に土足で踏み込んでしまったように感じて、はっと息を呑んだ。無神経すぎたかもしれない。けれど、彼女は特に気にした様子はなく、「うーん」と首を少し傾げ考えこんだあと、ゆっくりと唇を開いた。
「そうだなぁ……まずね、視界が真っ暗でなにも見えないの」
「……うん」
「それから、目が見えないと他の感覚が鋭くなるみたい。音とか、匂いとか……あとは触覚かな? そういうのがすごくわかるの」
「へぇ……」
彼女の言葉に相槌を打ちながら俺は小さく頷く。確かに視覚から情報を得ることができなくなったら、その分他の感覚器官が鋭敏になるのかもしれない。
「……でも、やっぱり……見えないって、不安だろ」
俺はそう小さく問いかけると、彼女の手をそっと握り込む。俺が若葉と同じ状態になってしまったら、二度と立ち直れないかもしれない。想像してみると、心臓を鷲掴みにされたかのような息苦しさを覚えた。
「う~ん……最初はちょっと怖かったけど、今はもうそんなに……かな。いつまで入院してなきゃいけないのかなって、今はそっちのほうが気になってる」
彼女はそう答えながら小さく笑う。その声色は明るくて、本当に不安や恐怖を感じていないのだとわかる。予想外すぎる言葉に、俺はぱちりと目を瞬かせた。
驚いている俺の様子に気づいていない彼女はそのまま言葉を紡ぎ続ける。
「人生って、『初めての事』の連続だと思うの。初めての経験をしたら、その分いろんな体験ができるでしょ? だから、ラッキーだったな、って」
「……」
彼女はそう言うと、俺の手を握る指先にきゅっと力を込める。まるで落ち込んでいる俺を励ますようなその仕草に、なぜか明日世界が消えてしまうかのようなやるせない思いが心に圧し掛かってくる。
「それにね、見えない分、今までよりも……もっとたくさん感じられる気がするの」
「……え?」
若葉の言葉の意図を測りかねて小さく聞き返せば、彼女は口元を綻ばせ、顔を天井へと向けた。
「目が見えなくなってから……前よりも色んな音がよく聞こえるようになったんだ。例えば、風の音とか、鳥のさえずりとか。それからね、人の声とかもすごくわかるようになったの」
穏やかに、そしてどこか嬉しそうに、彼女はそう告げる。その声音に嘘や強がりは感じられない。俺は無言のままで、彼女の言葉に耳を傾け続けた。
「雪也くんが病室に来てくれた時、すぐにわかった。雪也くんの、声で」
「……そう、か」
「うん」
彼女はそこで小さく頷くと、顔をこちらに向けた。俺の手を握りながら静かに言葉を続ける。桜色の小さな唇が、ゆっくりと動いていく。