それからどれくらいの時間が経っただろうか。涙も枯れ果て、ぼんやりと窓の外を眺めていると、いつの間にか日が傾き始めていた。

(そろそろ……相良先生が戻ってくる……かな……)

 主治医と話してくると言っていたので、きっとまた病室(ここ)に来るはずだ。それがわかっているからこそ、こんな顔を見られるわけにもいかないと思い、気怠い身体をのそりと起こす。それと同時に、コンコンと病室のドアがノックされた。俺は慌てて目元を拭ってから、ドアの向こうにいるであろう相良先生へ返事をする。

「はい」

 ゆっくりとドアが開き、相良先生が入ってくる。クリアファイルを手に持った相良先生は、俺の姿を見遣るなりホッとしたように笑みを浮かべた。

「起きていたのか。ちょうどよかった」

 そう言いながらベッドサイドまで歩み寄り、相良先生は手に持っていたクリアファイルを俺に手渡した。そのままゆっくりと丸椅子に腰かけていく。

「これな。治療に関する書類だ。先進医療の同意書と、手術の同意書。施設長の名前で保護者同意書を準備しているから、雪也も体調がいい時にそれぞれサインしてくれ」
「……はい。ありがとうございます」

 俺はその書類に目を落としつつ小さく頭を下げる。相良先生はそんな俺の様子に苦笑しながら、小さな紙袋を手渡してきた。それを受け取った俺は首を傾げる。

「これは……?」
「開けてみろよ」

 相良先生に促されるまま紙袋から中身を取り出すと、そこには一冊のアルバムが入っていた。表紙には『雪也』というタイトルが書かれていることからも、俺のために用意されたものだとわかる。俺はアルバムを手に取りパラパラとめくり始めた。
 その中には、あどけなく幼い表情の俺や、小学校の体操服を着ている一枚、そしてまたページをめくると今度は中学校の制服に身を包んだ俺が写っていた。中学校の卒業式会場で施設長と記念写真を撮ろうとしている場面のようだ。

「……これ……」
「俺が撮った写真だ。俺は写真を撮るのが得意じゃねぇから、ピンぼけしてるのばっかりで申し訳ねぇけどな」

 驚きを隠せないままアルバムに視線を落としたまま、俺は小さく呟いた。今日にいたるまで、こんなにたくさん写真を撮られていた覚えがない。それもそうだろう、アルバムに収められた写真に映る俺は、ほとんどの写真がカメラから視線を外している。相良先生がこっそり撮っていてくれたのだということは、すぐにわかった。

「本当は……お前が高校を卒業する時に渡そうと思っていた。でも、今のお前を見ていると……今、渡すべきだと思ったんだ」
「いま……?」

 相良先生の言葉の意味をすぐに理解できず、俺はぽつりと聞き返した。けれど相良先生はそれには答えず、ただこちらに手を伸ばし、俺の頭を優しく撫でてくるだけだ。その手のひらの温もりがあまりにも心地よくて、鼻の奥がツンとした気がした。
 もう涙は枯れ果てたと思ったのに、どうして――今。

(……俺は)

 たった一人だと、そう思っていた。施設の先生たちに支えられていても、どうしても孤独感は拭えなかった。でも――それは思い違いで。

(一人じゃ……なかった)

 相良先生、施設長、そして――若葉。俺はこんなにもたくさんの人たちに支えられて、日々を過ごしていたのだ。俺の知らないところで、俺の知らない場面で。こうして相良先生や他の先生たちが、そっと見守ってくれていたのだ。
 自分が思っている以上に俺はたくさんの人に支えられて生きているのだということを思い知り、今まで張りつめていた心が融解するような感覚を覚えてしまう。

「……ありがとう、ございます」

 返す声が震えてしまわないよう、必死に平静を取り繕う。そんな俺の心情を察したのか、相良先生は小さく笑って俺の頭をくしゃくしゃと撫で回してきた。

「これから先の治療も、しんどいかもしれない。でもな……俺達がいる。独りじゃない。辛くて歩けないと思ったらいつでも頼ってくれ。何度だって手を貸してやる」

 相良先生のまっすぐな言葉が心に沁み込むようで、目をしばたたかせる。俺はぐっと唇を噛み締めて涙を堪えると、小さく首を縦に振った。

「……はい」
「よし、いい子だ」

 相良先生はそう言って俺の頭をまたわしゃわしゃと撫でてきた。それがなんだか気恥ずかしくて、じわりと心が緩んだ。苦笑いする俺を見つめた相良先生もまた笑みを深くした。

「おっと。そろそろ俺も施設に戻る。今日は夜勤なんだ。そろそろチビどもを風呂に入れねぇとな」

 相良先生はそう言って立ち上がり、荷物を手に取った。ふと時計を見ると十七時を過ぎたところだった。病室を出ようとする相良先生を、俺は慌てて呼び止めた。

「あ……相良先生」
「ん?」

 振り返った相良先生は不思議そうに首をかしげている。俺はその顔を真っ直ぐに見つめながら言葉を探す。

「その……スマホを……戻してもらっても、いいですか?」

 俺はもう、一人じゃない。
 今なら――待ち受けている未来さえも、真正面から受け止められるような気がする。

(いや)

 受け止めてみせる。たとえそれが、俺にとって辛い未来だとしても。

「……いいのか?」

 相良先生は少し驚いたように目を瞠りながら聞き返してくる。俺は小さく首を縦に振ったあと、自分の思いを伝えるべく口を開いた。

「はい。ちゃんと……逃げずに。向き合いたいんです」

 本当は、まだ怖い。自分の病気がどんなものなのか、知るのはひどく怖かった。けれど、このまま目を背けて生きていくことはもっと怖い。だから俺は逃げずに向き合いたいのだ。この身体と、そして未来に待ち受ける運命に。

「……わかった」

 相良先生はそう言って小さく微笑むと、ポケットからスマホを取り出し俺に差し出してくる。俺はそれを受け取りながら小さく頷いた。

「はい……ありがとうございます」
「じゃあ、また明日来るからな」
「はい」

 相良先生はニカっと微笑んで、踵を返して病室を出て行った。その後ろ姿を見つめながら、ふぅと大きな息を吐き出す。

(やっと……)

 今まで目を背け続けてきた現実と、真正面から向き合う覚悟ができた。一歩を踏み出せたような気がして、わずかばかり心が弾む。
 俺はもう一度大きく息を吐き出してから、握り締めていたスマホをベッドサイドに繋がる充電器に差し込んだ。その瞬間、サイドテーブルに置かれた紙袋が視界に過った。相良先生が持ってきてくれた本たち。それらにそっと手を伸ばし中を確認すると、一ヶ月ほど前、若葉との最後のデートの日に購入した写真撮影のための指南本も入っていた。

「あ……」

 そういえば、この本を買ったこともすっかり忘れていた。俺はその本を取り出しパラパラとページをめくっていく。写真の撮り方や構図など、プロのカメラマンが撮影したであろう美しい風景写真と共に、構図や光の当て方などが丁寧に解説されている。
 プロの写真に魅せられながらページをめくっていると、ふとあるページで手が止まった。それは、抜けるような青空の写真だった。その写真を見ていると、若葉と一緒に見に行った展覧会のことを思い出し、懐かしさと切なさが同時に込み上げてきた。

(あいつ、元気かな……)

 そこまで考えて、いや、と頭を振った。失明の可能性がある怪我をした若葉が元気でいる保証なんてどこにもない。もう絵を描くことなど諦めてしまったかもしれない。画家になりたいと言って美大進学を目指していた彼女の心情を思うとやるせなく、俺はそっと目を伏せた。
 夢に向かって一生懸命だった姿を知っているからこそ、その夢が潰えてしまうのはあまりにも残酷すぎる。それでも、元気でいてほしいと願わずにはいられない。彼女の描く絵は写真で見ても美しく、心が洗われるような心地だったから。

(なんで……こんな気持ちになるんだよ)

 まだ、感情が昂っているのかもしれない。俺は落ち込みそうになる自分を叱咤し、ふぅと大きな息を吐きながらぐっと視線を上げた。レースカーテンから差し込む茜色の光が、病室を優しい色合いで染め上げている。俺は無意識のうちにその光に誘われるように腕を伸ばし、カーテンをそっと持ち上げた。

「……」

 透明な窓ガラス越しに見える空は、まるで絵の具を溶かしたかのように鮮やかなオレンジ色に染まっていた。眼前に広がる景色が、記憶の中の景色と緩やかに重なっていく。
 目を輝かせながら展示物を食い入るように見つめていた姿。照れ臭そうに視線を逸らしつつ、俺の服の裾をそっと掴んできた姿。楽しそうに笑い、はしゃぎ回った若葉が俺の手を引いたあの瞬間。
 夕陽に照らされて伸びる二人の影と、どこか恥ずかしそうに微笑んでいる彼女の横顔――未来への希望を抱き、生き生きと目を輝かせていた笑顔。
 もう二度と目にすることのできない光景が目の前に蘇るようで、全身に苦しい感情の波が打ち寄せてくる。

「っ……」

 俺は奥歯を食いしばりながら目元を押さえた。じんわりと目頭が熱くなり、視界が滲んでいくのがわかる。心臓の辺りがずきりと痛むような感覚を覚えてシャツの上からぎゅうと握りしめる。胸の奥底から瞬く間に込み上げてくる熱を必死に押し殺しながら、ゆっくりと目を閉じた。

(若葉……)

 今――なにをしているだろうか。失明の恐怖に怯え、日々を過ごすことに疲れてしまってはいないか。もう絵は描けないかもしれないと、絶望に打ちひしがれていやしないだろうか。
 あれから――若葉はどんな気持ちで日々を暮らしているんだろう。生活用品がどこにあるのかなど分かるのだろうか。
 普段はなにをしながら過ごしているんだろう。家族との時間を過ごせているだろうか。独りで塞ぎ込んでいないだろうか。
 彼女がなにを思って今を過ごしているのか、俺には想像することさえできない。
 自分勝手だろうか。こちらから連絡を絶っておいて――今更。

「……」

 それでも、どうしても。若葉が今どんな顔をしているのか、なにを思い描いているのかが、知りたい。
 瞼の裏には夕焼けの空が焼き付いている。その景色に重なるように、くるくると目まぐるしく変わっていく若葉の表情が浮かんでは消えていく。

(俺、どうかしてるな……)

 自嘲的な笑みを浮かべながら、俺は唇を噛みしめ、スマホのディスプレイにそっと指先を滑らせた。