窓から差し込む太陽の光が、瞼を熱く照らす感覚で目が覚めた。重たい瞼をなんとか持ち上げると、カーテンの隙間から差し込む光が瞳を焼いた。反射的にぎゅっと目をつむるが、それでも瞼越しに感じる眩しさは変わらない。
大きく息を吐きながらゆっくりと目を開く。一人だけの病室はひどく静かで、外から聞こえてくる街の喧騒もどこか遠くに聞こえるようだ。
のそのそと上半身を起こし、レースカーテンを少しだけ開くと、眩しい光が一気に差し込んでくる。思わず目を細めて空を見上げれば、澄んだ青空が広がり太陽が燦々と輝いているのが見えた。
「いい天気だな……」
ぽつりと呟いた声は、誰に届くでもなく静寂の中に溶けていく。テレビのリモコンに手を伸ばし電源を入れると、ちょうど昼過ぎのバラエティ番組がやっていた。流行りのスイーツや最新ファッションの情報なんかが流れてきて、様々な色をしたポップなフォントが画面一杯に埋め尽くされていた。
「……」
しばらくそれを眺めていたが、特に興味をそそられることもなく電源を切る。そのままふたたびベッドに横になってぼんやりと天井を見つめる。真っ白な天井はいつもと同じはずなのに、どこか無機質で冷たく見えるのは俺の気のせいなのだろうか。
なにもする気になれなかった。ただただ無気力で身体が鉛のように重いのだ。いっそのこと消えてしまえたら楽なのにとさえ思う。そんなことを考えてしまうくらいには、俺は精神的に追い詰められていた。
(俺は……なんのためにここまで生きてきたんだろう)
点滴スタンドの筒部分をポタリと落ちていく透明な水滴を見つめながら、ぼんやりと考える。
相良先生から話を聞いて以降、様々な検査を経て俺にははっきりと『ライソゾーム病』という診断が付いた。現在ステージⅡらしい。合併症のひとつである『心臓弁膜症』の疑いもあり、それの手術が来月末に予定されている。それまでは点滴で不足している酵素を補いながら、ライソゾーム病由来の症状を緩和させる治療を続けることになっている。
骨髄移植で内臓の肥大は落ち着いていく可能性が高いので、骨髄バンクにも登録したが、それらの対処療法は先月から徐々に発現してきている指先の麻痺等には効果がない。進行性の病を抱えたこの身体ではもう社会に出て働くこともできない。症状が落ち着けば退院していいらしいが、早くても半年以上先の来年の春、クラスメイトたちが卒業した後になるそうだ。学校に戻ったとて、若葉に会えることもない。
それからは国に支援されながら緩和療法を行っていくらしいのだが、終わりの見えない闘病生活が待っている。
「……」
俺は大きく息を吐き出しながら、ゆっくりと目を閉じる。なにもしたくないし、考えたくない。このままずっと眠っていられたらいいのにと思うのに、眠ろうとしても眠れないのだ。精神が昂ぶっているせいだろうか。それとも――この身体の中で燻り続ける熱のせいだろうか。
「雪也」
ふと名前を呼ばれ瞼を持ち上げると、そこには見慣れた顔があった。気が付けばドアのノックの音すら気が付かないほどに思考の海に沈み考えこんでいたらしい。紙袋を下げた相良先生は心配そうな表情を浮かべながらベッドサイドへと歩み寄ってきた。
「調子はどうだ?」
相良先生がそう問いかけながら、ベッドの隣にある丸椅子に腰掛ける。俺は上半身を起こしながら、小さく首を振って声を返す。
「特に……変わりありません」
本当は全くよくなっていないし、むしろ日を追うごとに悪化しているような気がする。点滴の効果か熱は下がっているものの、全身を取り巻く倦怠感がひどく不快だ。それでもこうして虚勢を張ってしまうのはきっと、これ以上誰かに心配をかけたくないからだ。
「そうか」
俺の返答に相良先生はふぅと息を大きく吐き出すと、そのまま黙り込んでしまった。俺もなにを言えばいいのかわからずにただぼんやりと相良先生の顔を見つめることしかできなかった。
自分が難病とわかり、それでも俺はまだ心の整理がつかないでいる。ただ漫然と入院生活を送っていると、いつの間にか俺の身体からあらゆる感情が抜け落ちていくような気がした。生きる気力をなくしまるで人形のようになってしまった俺を心配したのか、ある日施設長から個室に移ることを提案された。俺は特になにも感じることもなく「はい」とだけ返事を返した。
個室に移ったのが昨日のことで、今まで相部屋だったからか、静かすぎる空間はガランとしていてどこか物悲しい空気を纏っているようにも思える。
「今日はお前の部屋からいくつか本を持ってきたぞ。暇だろうと思ってな」
そう言って相良先生が紙袋の中から取り出したのは、書棚に置いていた漫画や小説だった。俺はそれを受け取りながら小さく頭を下げた。
「ありがとう……ございます」
「ん。残りの本はここに置いておくからな」
相良先生がベッドサイドのテーブルに紙袋をそっと置いていく。俺はそれを横目に見ながら小さく頭を下げた。相良先生は俺に向き直ると、少し躊躇うような素振りを見せてから口を開いた。
「雪也……スマホ、本当に俺が預かっていていいのか? もう二週間近くになるが」
相良先生が胸ポケットに手を差し入れ、スマホをするりと目の前に差し出した。中庭で話をしたあの日から、相良先生は俺のスマホを預かってくれている。俺がどうしてもと頼み込んだからだ。
「はい。すみません、お願いします」
インターネットがすぐ近くにあれば、余計な情報を仕入れてしまう。例えば――ライソゾーム病の余命について、だとか。あとどれくらい生きられるのか、それを知るのが俺は怖い。それらはきっと、俺にとっては毒でしかない。だから俺は相良先生に頼んでスマホを預けることにした。
少しでも、そうした情報から距離を置きたかった。気にならないわけではないが、今の俺にはそれらの真実を真正面から受け止めるだけの余裕もなければ、立ち向かうだけの気力もない。
俺の返答に相良先生は少し逡巡する様子を見せたが、小さくため息をつきながら首を縦に振った。
「そうか……わかった。なんか必要なものがあったらいつでも言ってくれ」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあ、これからドクターとの話し合いに行ってくるな。また夕方来るから」
相良先生はそう言ってふたたびスマホをしまい込み、ゆっくりと立ち上がって病室を出て行った。その後ろ姿を見つめながら、俺はぼんやりと考える。
(俺は……どうなるんだろう)
脳裏に漠然と思い浮かんだ言葉を振り払うように小さく頭を振って、手渡された本を枕元に置き俺はふたたび横になった。
治療を受け続ければ、ドナーが見つかれば。この身体から病が取り除かれるかもしれない。けれどその未来は、あまりにも不確定で不透明だ。
「っ……」
急に込み上げてきた感情にぐっと息が詰まった。それでも一度自覚してしまえば、視界がゆらゆらと揺れ始める。それらの感情は徐々に膨れ上がっていき、やがて両目からこぼれ落ちた。熱いそれらが大粒の雫となって枕を濡らしていく。
「なんで……」
涙と共に溢れた言葉は、誰の耳に届くこともなく静かに消えていく。
きっと、これから先の未来も、穏やかに日々を過ごしていくことができるのだと思っていた。それが当たり前なのだと思いこんでいた。
「なんで俺なんだよ……」
どうして――俺なんだ。
確かに俺は物心つく前から児童養護施設に預けられて、そこで生活している。それでも、『普通』に生きて、『普通』に社会へ出て、『普通』の幸せを手に入れて、『普通』に死ねると思っていたのに。
俺は『普通』に生きられない。『普通』の幸せを享受できない。
(なにも悪いことなんてしてこなかったのに、どうして俺だけこんな目に合わなきゃいけないんだ……)
『普通』の生い立ちじゃない、ということ。それは俺が思っていたよりも強く――俺の心を蝕んでいたのだということを自覚させられた。
『普通』に生まれて育っていれば――こんなことにはならなかったのではないだろうか。
考えてもどうしようもない『もしも』を、脳裏に思い浮かべてしまう。
俺はただ――『普通』に生きていきたいだけなのに。なぜ、俺の未来はこんなにも暗く閉ざされているのだろう。
「……なんで……」
俺は嗚咽を堪えながら、ただ静かに涙を流し続けた。
大きく息を吐きながらゆっくりと目を開く。一人だけの病室はひどく静かで、外から聞こえてくる街の喧騒もどこか遠くに聞こえるようだ。
のそのそと上半身を起こし、レースカーテンを少しだけ開くと、眩しい光が一気に差し込んでくる。思わず目を細めて空を見上げれば、澄んだ青空が広がり太陽が燦々と輝いているのが見えた。
「いい天気だな……」
ぽつりと呟いた声は、誰に届くでもなく静寂の中に溶けていく。テレビのリモコンに手を伸ばし電源を入れると、ちょうど昼過ぎのバラエティ番組がやっていた。流行りのスイーツや最新ファッションの情報なんかが流れてきて、様々な色をしたポップなフォントが画面一杯に埋め尽くされていた。
「……」
しばらくそれを眺めていたが、特に興味をそそられることもなく電源を切る。そのままふたたびベッドに横になってぼんやりと天井を見つめる。真っ白な天井はいつもと同じはずなのに、どこか無機質で冷たく見えるのは俺の気のせいなのだろうか。
なにもする気になれなかった。ただただ無気力で身体が鉛のように重いのだ。いっそのこと消えてしまえたら楽なのにとさえ思う。そんなことを考えてしまうくらいには、俺は精神的に追い詰められていた。
(俺は……なんのためにここまで生きてきたんだろう)
点滴スタンドの筒部分をポタリと落ちていく透明な水滴を見つめながら、ぼんやりと考える。
相良先生から話を聞いて以降、様々な検査を経て俺にははっきりと『ライソゾーム病』という診断が付いた。現在ステージⅡらしい。合併症のひとつである『心臓弁膜症』の疑いもあり、それの手術が来月末に予定されている。それまでは点滴で不足している酵素を補いながら、ライソゾーム病由来の症状を緩和させる治療を続けることになっている。
骨髄移植で内臓の肥大は落ち着いていく可能性が高いので、骨髄バンクにも登録したが、それらの対処療法は先月から徐々に発現してきている指先の麻痺等には効果がない。進行性の病を抱えたこの身体ではもう社会に出て働くこともできない。症状が落ち着けば退院していいらしいが、早くても半年以上先の来年の春、クラスメイトたちが卒業した後になるそうだ。学校に戻ったとて、若葉に会えることもない。
それからは国に支援されながら緩和療法を行っていくらしいのだが、終わりの見えない闘病生活が待っている。
「……」
俺は大きく息を吐き出しながら、ゆっくりと目を閉じる。なにもしたくないし、考えたくない。このままずっと眠っていられたらいいのにと思うのに、眠ろうとしても眠れないのだ。精神が昂ぶっているせいだろうか。それとも――この身体の中で燻り続ける熱のせいだろうか。
「雪也」
ふと名前を呼ばれ瞼を持ち上げると、そこには見慣れた顔があった。気が付けばドアのノックの音すら気が付かないほどに思考の海に沈み考えこんでいたらしい。紙袋を下げた相良先生は心配そうな表情を浮かべながらベッドサイドへと歩み寄ってきた。
「調子はどうだ?」
相良先生がそう問いかけながら、ベッドの隣にある丸椅子に腰掛ける。俺は上半身を起こしながら、小さく首を振って声を返す。
「特に……変わりありません」
本当は全くよくなっていないし、むしろ日を追うごとに悪化しているような気がする。点滴の効果か熱は下がっているものの、全身を取り巻く倦怠感がひどく不快だ。それでもこうして虚勢を張ってしまうのはきっと、これ以上誰かに心配をかけたくないからだ。
「そうか」
俺の返答に相良先生はふぅと息を大きく吐き出すと、そのまま黙り込んでしまった。俺もなにを言えばいいのかわからずにただぼんやりと相良先生の顔を見つめることしかできなかった。
自分が難病とわかり、それでも俺はまだ心の整理がつかないでいる。ただ漫然と入院生活を送っていると、いつの間にか俺の身体からあらゆる感情が抜け落ちていくような気がした。生きる気力をなくしまるで人形のようになってしまった俺を心配したのか、ある日施設長から個室に移ることを提案された。俺は特になにも感じることもなく「はい」とだけ返事を返した。
個室に移ったのが昨日のことで、今まで相部屋だったからか、静かすぎる空間はガランとしていてどこか物悲しい空気を纏っているようにも思える。
「今日はお前の部屋からいくつか本を持ってきたぞ。暇だろうと思ってな」
そう言って相良先生が紙袋の中から取り出したのは、書棚に置いていた漫画や小説だった。俺はそれを受け取りながら小さく頭を下げた。
「ありがとう……ございます」
「ん。残りの本はここに置いておくからな」
相良先生がベッドサイドのテーブルに紙袋をそっと置いていく。俺はそれを横目に見ながら小さく頭を下げた。相良先生は俺に向き直ると、少し躊躇うような素振りを見せてから口を開いた。
「雪也……スマホ、本当に俺が預かっていていいのか? もう二週間近くになるが」
相良先生が胸ポケットに手を差し入れ、スマホをするりと目の前に差し出した。中庭で話をしたあの日から、相良先生は俺のスマホを預かってくれている。俺がどうしてもと頼み込んだからだ。
「はい。すみません、お願いします」
インターネットがすぐ近くにあれば、余計な情報を仕入れてしまう。例えば――ライソゾーム病の余命について、だとか。あとどれくらい生きられるのか、それを知るのが俺は怖い。それらはきっと、俺にとっては毒でしかない。だから俺は相良先生に頼んでスマホを預けることにした。
少しでも、そうした情報から距離を置きたかった。気にならないわけではないが、今の俺にはそれらの真実を真正面から受け止めるだけの余裕もなければ、立ち向かうだけの気力もない。
俺の返答に相良先生は少し逡巡する様子を見せたが、小さくため息をつきながら首を縦に振った。
「そうか……わかった。なんか必要なものがあったらいつでも言ってくれ」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあ、これからドクターとの話し合いに行ってくるな。また夕方来るから」
相良先生はそう言ってふたたびスマホをしまい込み、ゆっくりと立ち上がって病室を出て行った。その後ろ姿を見つめながら、俺はぼんやりと考える。
(俺は……どうなるんだろう)
脳裏に漠然と思い浮かんだ言葉を振り払うように小さく頭を振って、手渡された本を枕元に置き俺はふたたび横になった。
治療を受け続ければ、ドナーが見つかれば。この身体から病が取り除かれるかもしれない。けれどその未来は、あまりにも不確定で不透明だ。
「っ……」
急に込み上げてきた感情にぐっと息が詰まった。それでも一度自覚してしまえば、視界がゆらゆらと揺れ始める。それらの感情は徐々に膨れ上がっていき、やがて両目からこぼれ落ちた。熱いそれらが大粒の雫となって枕を濡らしていく。
「なんで……」
涙と共に溢れた言葉は、誰の耳に届くこともなく静かに消えていく。
きっと、これから先の未来も、穏やかに日々を過ごしていくことができるのだと思っていた。それが当たり前なのだと思いこんでいた。
「なんで俺なんだよ……」
どうして――俺なんだ。
確かに俺は物心つく前から児童養護施設に預けられて、そこで生活している。それでも、『普通』に生きて、『普通』に社会へ出て、『普通』の幸せを手に入れて、『普通』に死ねると思っていたのに。
俺は『普通』に生きられない。『普通』の幸せを享受できない。
(なにも悪いことなんてしてこなかったのに、どうして俺だけこんな目に合わなきゃいけないんだ……)
『普通』の生い立ちじゃない、ということ。それは俺が思っていたよりも強く――俺の心を蝕んでいたのだということを自覚させられた。
『普通』に生まれて育っていれば――こんなことにはならなかったのではないだろうか。
考えてもどうしようもない『もしも』を、脳裏に思い浮かべてしまう。
俺はただ――『普通』に生きていきたいだけなのに。なぜ、俺の未来はこんなにも暗く閉ざされているのだろう。
「……なんで……」
俺は嗚咽を堪えながら、ただ静かに涙を流し続けた。