「鈴木さんは、今入院中です」
「え……入院って、どこか悪いんですか?」

 担任と女子生徒のやりとりに、ざわりと教室中の空気が動いた。それと同時に、俺自身の心臓も大きく跳ね上がった気がした。教室全員の視線を一身に浴びる担任は困ったように眉を下げながら言葉を続けていく。

「美術部の活動中に事故があり、失明の恐れがあるほどの大怪我を負ったようです。今は総合医療センターにて治療を受けていますが、命に別状はないとのことなので安心してください」

 担任の言葉に、教室内は安堵と戸惑いが入り混じったような空気に包まれる。俺はそれをどこか他人事のように感じながら、まるで足元がガラガラと崩れていくような錯覚を覚えていた。

(失明……?)

 キィン、と、不快な耳鳴りがする。
 画家になりたい――そんな夢を抱いていた若葉が、視力を失ってしまうかもしれない、など。
 それは彼女が画家になることを諦めなければならないということに等しい。彼女ならきっとスランプも乗り越えられるだろうし、なにより彼女の家族だってそれを望んでいるはずだと思っていたから尚更だ。
 癖のないまっすぐな艶やかな黒髪、柔らかくて愛らしい目元。優しくて、好奇心旺盛な瞳は俺には眩しいほどに輝いていた。
 もっともっと、たくさんの美しいものを見て、素晴らしい体験をして、彼女のその笑顔はさらに美しさを増して、キラキラと輝いていくはずだった。
 ガタガタと震え出しそうな身体を必死に抑え込み、俺はぎゅっと拳を握りしめた。

『雪也くん』

 脳裏に浮かぶのはいつもと変わらない、鮮やかな彼女の笑顔だ。まるで花が咲いたかのように明るくて眩しいそれに何度も救われたし、励まされたような気がする。自分の隣で綻ぶように笑う表情を見るたびに心が躍り、彼女への想いを募らせていったことは否定できない事実だった。

「せんせ~、お見舞いは行っていいんですか~?」

 教室の後方で女子生徒が声を上げると、担任はにこりと微笑みながら答えた。その声がかなり遠くに聞こえていて、まるで自分が水の中にいるような感覚に陥る。

「えぇ、もちろん。ですが治療の関係で面会は今月の二十日まで禁止されていますので、今日は我慢してくださいね」
「は~い」

 担任の言葉に、女子生徒は素直に返事を返している。俺はそれをどこかぼんやりとした心地で聞いていた。

「……そろそろ始業式が始まりますね。少し早いですが、出席番号順に廊下に並んでください」

 担任の言葉を受けて、生徒たちが列を作って廊下へと出ていく。いつもなら騒がしく感じるはずなのに、まるで世界から切り離されたかのようにその音は遠く、俺自身はほとんどなにも聞こえなかったように思う。周囲の生徒たちがぞろぞろと教室を後にする中、俺だけは椅子に腰を下ろしたままその場から動くことができずにいた。

「鈴木くん? 大丈夫?」

 教壇を整理していた担任が、いつの間にか目の前に立っていて心配そうに声を掛けてきた。俺は重い頭を動かし、のろのろと顔を上げる。

「……すみません。朝から体調が悪くて……」
「あら、そうなの? 確かに顔が青いわね。保健室行く?」
「……はい」

 担任の言葉になんとか返事を返しつつも、思考はぐちゃぐちゃだった。なにも考えられないし、なにも考えたくないとさえ思うほどだった。

「わかったわ。一時間くらいしたら様子見に行くから」
「すみません」

 俺は担任に促されるまま席を立ち、ゆっくりとした足取りで教室を出た。そのまま保健室へと向かいながら、ふと視線を窓の外へと向けた。空はどんよりとした雲に覆われていて今にも泣き出しそうだと思った瞬間、ポツリポツリと雫が窓ガラスを打ち始める。

(……雨)

 そういえば雨が降りそうだと朝から思っていたような気がすると心のなかで独り言ちつつ、俺は一階の保健室を目指し階段を降りていく。朝起きた時から感じていた倦怠感は時間が経つにつれて増していき、今では全身に鉛をくくりつけられているかのように身体が重くなっていた。

「……っ、ごほっ……」

 咳も相変わらず止まらないし、頭もズキズキと痛む。風邪ではないらしいのでだましだまし乗り越えるしかない。

(……なんで)

 なぜ、若葉にこんな悲劇が降りかかったのか。彼女はなにも悪いことをしていないし、むしろ人一倍努力家で優しい子だったはずだ。それなのに、どうして神様は彼女にこんなにも過酷な運命を与えたのだろう。
 どうして――

「……っ!」

 そう考えた瞬間、突然肺の辺りに激痛が走り、俺は反射的に胸元を押さえた。心臓がドクドクと激しく脈打ち始め、その鼓動に合わせるようにして痛みが増していく。視界がぐるりと回るような感覚に襲われて膝から力が抜けていくのを感じると、咄嗟に手すりに掴まって転倒を免れる。

「はぁ……っ」

 荒い呼吸を繰り返しながら、俺は必死に痛みをやり過ごそうとした。しかし、それは一向に治まる気配がないどころかどんどん酷くなっていくばかりだ。次第に眩暈とともに吐き気まで込み上げてくる。

(く……そ……)

 どんどんと耳鳴りのような音が大きくなっていき、俺は両手で耳を塞ごうとしたのだが、なぜか腕が動かなかった。

「あ……」

 そうこうしているうちに視界までもがぐにゃりと歪んでいく。まるで自分の身体が自分のものではないような、奇妙な感覚に襲われる。

(やばい……)

 このままでは倒れてしまうかもしれないと思った瞬間、突然誰かに腕を掴まれた。驚いてそちらに顔を向けると、そこには養護教員の姿があった。彼女は心配そうに俺の顔を覗き込みつつ口を開く。

「ちょっと。きみ、大丈夫?」
「……気分が……悪くて……」

 俺が途切れ途切れになりながらもなんとか答えると、彼女はホッとしたように息を吐いた。しかしすぐに表情を引き締めると、真剣な面持ちで問いかけてくる。

「風邪かしら」
「……わかりません……きょうは、胸が、痛くて……」
「胸?」

 絞り出すような俺の言葉に、彼女は訝しげに眉を寄せた。そして俺の身体を支えるように、俺の腕を自身の肩に回していく。

「熱計ったあと、血圧も測ってみましょうか。聴診もするね。場合によっては病院に連れて行ってあげるから」

 はきはきとしたそれらの言葉がどこか遠くで聞こえる。俺は声を出す気力もなく、ただただ首を縦に振る事しかできなかった。