◆ ◆ ◆
まだ朝早い時間だというのに、妙にべたつく風が不快だ。居室の窓を開けた俺は、ふぅっと大きな息を吐きながら空を見上げた。頭上はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだ。
「今日……雨かな」
ぽつりと呟いた一言は誰にも拾われることなく消えていく。始業式が雨なんてついてない。もうすぐ就職試験が解禁される上、体調もあまりよくない。ただでさえ気分が重いというのに、雨まで降られたらますます憂鬱だ。そう心の中で独り言ちた瞬間、喉の奥に違和感が生まれた。
「っ……ごほ、げほっ」
咳き込むと同時に喉の奥からなにかがせり上がってくるような感覚があり、咄嗟に口元を覆う。ぐっと腹に力を入れながら、俺は必死にそれを飲み込んで大きく息を吐き出した。
「はぁ……はー……」
肩で息をしつつそっと自分の額に手を当ててみたが、少し体温が高いような気がする。ここ最近はずっと熱っぽさを自覚しているが、今朝は特に身体が重い。
(体調が悪いのも、ストレス……なんだろうな)
俺はまたひとつため息を落とし、手にしていたタオルケットを畳んでベッドの上に置いて立ち上がった。そして、洗面台へと向かい歯を磨いて顔を洗う。鏡に映る自分に向かって小さく笑って見せるも、その表情がどこかぎこちないことに気付き自嘲するしかなかった。
「雪也さん……次、いいっすか?」
同じ居室の松尾が鏡越しに尋ねてきたので、「あぁ」と短く返事をしてタオルで顔を拭いてそのまま食堂へと向かう。途中すれ違った職員たちに声をかけられつつ会釈をするが、まだ本調子ではないせいかどこかぼんやりしてしまう自分がいた。
「雪也? 体調は大丈夫か?」
「……あ……はい」
食堂の入り口で出勤してきたばかりらしい相良先生と鉢合わせた。心配そうに顔を覗き込んでくる相良先生に曖昧に答えつつ、俺は軽く頭を振る。正直、食欲はほとんどないし、咳も止まらずあまり大丈夫とは言えない状況だったが、正式な病名がわからない以上、周囲に迷惑をかけたくないという気持ちの方が勝っていた。
「学校は? 行けるか?」
「はい。大丈夫です」
点滴をしてもらって以降も体調が芳しくなく、俺は就職試験に向けた準備の合間を縫って小児科で日を分けて複数の検査を受けた。けれど、特に異常は見つからず、おそらく精神的なものだろうと医師から告げられ、咳止めや抗生物質を処方されるだけだった。
「そうか。無理はするなよ」
相良先生はそう言って俺の頭を撫でると、踵を返し足早に職員室へと消えていった。俺はその背中を眺めながら食堂へと足を踏み入れた。食欲なんて全くないが、食べないわけにもいかない。とりあえずなにか腹に入れておかなければと食堂の配膳コーナーに並んだ。
味噌の香ばしい匂いや焼き魚の香りが鼻腔をくすぐっていく。今日のメニューは鮭定食らしい。味噌汁や小鉢なども全て乗せてもらい、最後にご飯をよそってから席についた。
いただきますと手を合わせて箸を手に取るが、どうにも食欲がわかずそのままぼんやりと視線を彷徨わせる。一口食べてはみるものの、すぐに吐き気を催して食べる気が失せてしまうのだ。あまり口にしていないのに胃がムカムカとしている。結局、焼き鮭と白米を半分ほど食べたところで箸を置いて、俺は席を立った。
「雪也さん? もういいんすか?」
俺の隣に腰を下ろした松尾のトレーの上には山盛りのご飯や味噌汁、焼き鮭などが並んでいる。健全な男子高校生の食事量だ。
「ん。もう腹いっぱいだ。多分ストレスだと思う」
「あ~……就職試験、大変そうですもんねぇ……俺も来年はそうなるのかぁ」
「かもしれないな。悪いな、心配かけて」
「いえ! そんな全然!」
俺の言葉に松尾はニカッと笑いなかがらどこか気遣わしげな視線を投げてきたけれど、それ以上はふつりと声が途切れた。俺は軽く会釈してそのまま食堂を出て居室へと戻り、久しぶりに制服に袖を通す。ベッドサイドに置かれた咳止め薬を喉に流し込み、鞄とパスケースを手に取って部屋を出た。
いつもの通学路を歩き、最寄り駅から電車に乗り込む。乗り込んだ直後にどっと疲労感に襲われたものの、この時間帯から座席に座れるわけもなく手すりに身を預けた。
「はぁ……」
肺の空気を吐ききるほどの大きなため息に、隣のサラリーマンがちらりとこちらを見遣る。けれどすぐに興味を失ったようで、また手元のスマホに視線を落とした。俺はそれを横目に見ながら、ゆっくりと目を閉じる。
(……行きたくねぇな)
今日、学校で若葉に会ったらどんな表情をすればいいのだろう。夕焼けを見に行ったあの日から、彼女の連絡をすべて未読無視している。数日前から連絡もこなくなったので、若葉はきっと怒っているに違いない。
それなのに、なぜ――彼女からの連絡がないと、こんなにも心がざわつくのだろう。
(……本当は)
彼女のことが好きだ。その気持ちは今も変わらず燻り続けているし、若葉とまた言葉を交わすことができたら、すぐにでも自分の気持ちを伝えたいと思っている。
けれど――それは絶対に許されないことだ。血を分けた兄妹が結ばれることなどあってはならないし、きっと彼女も真実を知ってしまえばそれを望まないだろう。この先、彼女を取り巻く世界が幸せであることをただ願うばかりだ。
「……」
本心からそう思っているはずなのに、それでも心のどこかでざらりとした嫌な感覚が渦巻き続けている。自分の感情が制御できず、それがまた余計に苛立ちを加速させていく。小さく舌打ちをして目を開き、窓の外を流れる景色を睨みつけてもそこに答えなどあるはずもない。
(……どうして)
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
こんな想いをするなら、彼女と出会わなければよかった。
そうすれば、こんなにも苦しい思いをすることなんてなかったのに。
どうして、なぜ――答えのない問いを繰り返しながら、俺はまた重い息を吐き出した。規則正しい揺れに身を任せていると、睡魔が襲ってくる。休みボケしてしまっているのだろうか。もうすぐ就職試験なのだからしっかりしなければと自分自身に言い聞かせながら目を瞑ると、しばらくしてガタンという電車特有の揺れを感じた。
ホームへと降り立ち改札を潜ると、ちょうど通勤通学ラッシュの時間らしく大勢の人がひしめき合っている。その波をかき分けるように学校への道を急いだ。
教室に入った瞬間、いつもと同じ朝のはずなのにどこか空気が違うように感じて、ぐるりと周囲を見回した。
(若葉が……いない?)
珍しい。彼女は学校から徒歩圏内に住んでいるので、この時間には大抵教室にいるはずなのに。
若葉がいない教室はどこか寂しくて落ち着かない気持ちになる。それはきっと俺だけではないはずだ。このクラスでは彼女を中心としたグループがあって、休み時間になるといつも集まって話をしていたのだから。
体調を崩したのかもしれないと心配になったものの、ガラリと扉が開き担任が教室に入ってきたことで、その思考は中断されてしまった。
「おはようございます」
「はい、おはよう」
担任の挨拶に生徒たちが口々に返事を返しながら席に着く。俺もそれに倣い着席すると、彼女はぐるりと教室内を見回した後に口を開いた。
「え~、今日から二学期が始まります。進学コースの人も就職コースの人も、大事な時期になってきますので、気を引き締めて取り組んでいきましょう」
担任の言葉に、何人かの生徒が神妙な面持ちで頷いた。俺もそれに倣うようにして小さく首肯する。
「二学期に入ったので席替えを行います。学級委員長、くじ引きの準備お願いね」
「うっす」
その後もホームルームは淡々と進んでいく。特に連絡事項もなく終わろうとしたところを、一人の女子生徒が手を挙げ遮った。
「あの、先生」
「なんでしょう?」
担任が小首を傾げると、彼女は少し言いにくそうにしながらも言葉を発する。
「……鈴木さんは……まだ来ていないんですか?」
彼女のその問いに、教室内はシンと静まる。担任の反応を伺うように数秒間無言の時が流れるが、その空白を割くように担任は口を開いた。
まだ朝早い時間だというのに、妙にべたつく風が不快だ。居室の窓を開けた俺は、ふぅっと大きな息を吐きながら空を見上げた。頭上はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだ。
「今日……雨かな」
ぽつりと呟いた一言は誰にも拾われることなく消えていく。始業式が雨なんてついてない。もうすぐ就職試験が解禁される上、体調もあまりよくない。ただでさえ気分が重いというのに、雨まで降られたらますます憂鬱だ。そう心の中で独り言ちた瞬間、喉の奥に違和感が生まれた。
「っ……ごほ、げほっ」
咳き込むと同時に喉の奥からなにかがせり上がってくるような感覚があり、咄嗟に口元を覆う。ぐっと腹に力を入れながら、俺は必死にそれを飲み込んで大きく息を吐き出した。
「はぁ……はー……」
肩で息をしつつそっと自分の額に手を当ててみたが、少し体温が高いような気がする。ここ最近はずっと熱っぽさを自覚しているが、今朝は特に身体が重い。
(体調が悪いのも、ストレス……なんだろうな)
俺はまたひとつため息を落とし、手にしていたタオルケットを畳んでベッドの上に置いて立ち上がった。そして、洗面台へと向かい歯を磨いて顔を洗う。鏡に映る自分に向かって小さく笑って見せるも、その表情がどこかぎこちないことに気付き自嘲するしかなかった。
「雪也さん……次、いいっすか?」
同じ居室の松尾が鏡越しに尋ねてきたので、「あぁ」と短く返事をしてタオルで顔を拭いてそのまま食堂へと向かう。途中すれ違った職員たちに声をかけられつつ会釈をするが、まだ本調子ではないせいかどこかぼんやりしてしまう自分がいた。
「雪也? 体調は大丈夫か?」
「……あ……はい」
食堂の入り口で出勤してきたばかりらしい相良先生と鉢合わせた。心配そうに顔を覗き込んでくる相良先生に曖昧に答えつつ、俺は軽く頭を振る。正直、食欲はほとんどないし、咳も止まらずあまり大丈夫とは言えない状況だったが、正式な病名がわからない以上、周囲に迷惑をかけたくないという気持ちの方が勝っていた。
「学校は? 行けるか?」
「はい。大丈夫です」
点滴をしてもらって以降も体調が芳しくなく、俺は就職試験に向けた準備の合間を縫って小児科で日を分けて複数の検査を受けた。けれど、特に異常は見つからず、おそらく精神的なものだろうと医師から告げられ、咳止めや抗生物質を処方されるだけだった。
「そうか。無理はするなよ」
相良先生はそう言って俺の頭を撫でると、踵を返し足早に職員室へと消えていった。俺はその背中を眺めながら食堂へと足を踏み入れた。食欲なんて全くないが、食べないわけにもいかない。とりあえずなにか腹に入れておかなければと食堂の配膳コーナーに並んだ。
味噌の香ばしい匂いや焼き魚の香りが鼻腔をくすぐっていく。今日のメニューは鮭定食らしい。味噌汁や小鉢なども全て乗せてもらい、最後にご飯をよそってから席についた。
いただきますと手を合わせて箸を手に取るが、どうにも食欲がわかずそのままぼんやりと視線を彷徨わせる。一口食べてはみるものの、すぐに吐き気を催して食べる気が失せてしまうのだ。あまり口にしていないのに胃がムカムカとしている。結局、焼き鮭と白米を半分ほど食べたところで箸を置いて、俺は席を立った。
「雪也さん? もういいんすか?」
俺の隣に腰を下ろした松尾のトレーの上には山盛りのご飯や味噌汁、焼き鮭などが並んでいる。健全な男子高校生の食事量だ。
「ん。もう腹いっぱいだ。多分ストレスだと思う」
「あ~……就職試験、大変そうですもんねぇ……俺も来年はそうなるのかぁ」
「かもしれないな。悪いな、心配かけて」
「いえ! そんな全然!」
俺の言葉に松尾はニカッと笑いなかがらどこか気遣わしげな視線を投げてきたけれど、それ以上はふつりと声が途切れた。俺は軽く会釈してそのまま食堂を出て居室へと戻り、久しぶりに制服に袖を通す。ベッドサイドに置かれた咳止め薬を喉に流し込み、鞄とパスケースを手に取って部屋を出た。
いつもの通学路を歩き、最寄り駅から電車に乗り込む。乗り込んだ直後にどっと疲労感に襲われたものの、この時間帯から座席に座れるわけもなく手すりに身を預けた。
「はぁ……」
肺の空気を吐ききるほどの大きなため息に、隣のサラリーマンがちらりとこちらを見遣る。けれどすぐに興味を失ったようで、また手元のスマホに視線を落とした。俺はそれを横目に見ながら、ゆっくりと目を閉じる。
(……行きたくねぇな)
今日、学校で若葉に会ったらどんな表情をすればいいのだろう。夕焼けを見に行ったあの日から、彼女の連絡をすべて未読無視している。数日前から連絡もこなくなったので、若葉はきっと怒っているに違いない。
それなのに、なぜ――彼女からの連絡がないと、こんなにも心がざわつくのだろう。
(……本当は)
彼女のことが好きだ。その気持ちは今も変わらず燻り続けているし、若葉とまた言葉を交わすことができたら、すぐにでも自分の気持ちを伝えたいと思っている。
けれど――それは絶対に許されないことだ。血を分けた兄妹が結ばれることなどあってはならないし、きっと彼女も真実を知ってしまえばそれを望まないだろう。この先、彼女を取り巻く世界が幸せであることをただ願うばかりだ。
「……」
本心からそう思っているはずなのに、それでも心のどこかでざらりとした嫌な感覚が渦巻き続けている。自分の感情が制御できず、それがまた余計に苛立ちを加速させていく。小さく舌打ちをして目を開き、窓の外を流れる景色を睨みつけてもそこに答えなどあるはずもない。
(……どうして)
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
こんな想いをするなら、彼女と出会わなければよかった。
そうすれば、こんなにも苦しい思いをすることなんてなかったのに。
どうして、なぜ――答えのない問いを繰り返しながら、俺はまた重い息を吐き出した。規則正しい揺れに身を任せていると、睡魔が襲ってくる。休みボケしてしまっているのだろうか。もうすぐ就職試験なのだからしっかりしなければと自分自身に言い聞かせながら目を瞑ると、しばらくしてガタンという電車特有の揺れを感じた。
ホームへと降り立ち改札を潜ると、ちょうど通勤通学ラッシュの時間らしく大勢の人がひしめき合っている。その波をかき分けるように学校への道を急いだ。
教室に入った瞬間、いつもと同じ朝のはずなのにどこか空気が違うように感じて、ぐるりと周囲を見回した。
(若葉が……いない?)
珍しい。彼女は学校から徒歩圏内に住んでいるので、この時間には大抵教室にいるはずなのに。
若葉がいない教室はどこか寂しくて落ち着かない気持ちになる。それはきっと俺だけではないはずだ。このクラスでは彼女を中心としたグループがあって、休み時間になるといつも集まって話をしていたのだから。
体調を崩したのかもしれないと心配になったものの、ガラリと扉が開き担任が教室に入ってきたことで、その思考は中断されてしまった。
「おはようございます」
「はい、おはよう」
担任の挨拶に生徒たちが口々に返事を返しながら席に着く。俺もそれに倣い着席すると、彼女はぐるりと教室内を見回した後に口を開いた。
「え~、今日から二学期が始まります。進学コースの人も就職コースの人も、大事な時期になってきますので、気を引き締めて取り組んでいきましょう」
担任の言葉に、何人かの生徒が神妙な面持ちで頷いた。俺もそれに倣うようにして小さく首肯する。
「二学期に入ったので席替えを行います。学級委員長、くじ引きの準備お願いね」
「うっす」
その後もホームルームは淡々と進んでいく。特に連絡事項もなく終わろうとしたところを、一人の女子生徒が手を挙げ遮った。
「あの、先生」
「なんでしょう?」
担任が小首を傾げると、彼女は少し言いにくそうにしながらも言葉を発する。
「……鈴木さんは……まだ来ていないんですか?」
彼女のその問いに、教室内はシンと静まる。担任の反応を伺うように数秒間無言の時が流れるが、その空白を割くように担任は口を開いた。